マダムYの素敵な幼少時代

マダムYはライオンのメスとトラの区別がつかない。

たてがみのあるのがライオンで、ないのがトラなんじゃないの?」と聞くと亭主は、

「縦縞のあるのがトラ、ないのがライオン。ライオンのメスにたてがみはないよ」と言う。

「ライオンにメスはいないよ。メスはトラ」とマダムYが続けると亭主は、

「???」となってしまう。そして、ライオンは草原に、トラは密林に住んでいるとか、ライオンのオスは寝ているだけでメスが狩りをするとか、ベンガルズとライオンズは違うチームだろうとか言い始めるのだけれど、正直なところマダムYにはよく分からないのだった。

最近は、こういう話をしていると娘からも軽蔑の視線を向けられるので、どうやらライオンとトラが違う動物らしいということは分かる。だが、半世紀にわたり同じ動物のオスがライオンでメスがトラと覚えてきたので、頭の奥底では理解していないのである。その原因をつらつら考えるに、どうやら亭主や子供たちが図鑑で覚えることを、自分は実体験で覚えてきたせいではないかと思う。

亭主は子供たちが物心つくとすぐに動物図鑑や植物図鑑、魚の図鑑を買ってきた。自分もそうやって育ってきたらしい。ところがマダムYは、小さい頃家の中で本を読んだ記憶はほとんどない。カエルやザリガニ、メダカやタニシの生態は図鑑でなく実物で覚えた。今でも、「ザリガニあります」の看板(印旛沼の近くでは、本当にこういう看板がある)を見ただけで、うれしくなってくるのだ。

だから、実際に暮らしているのを見たことがないライオンやトラのことなど、知らなくて当たり前だと思う。トラが木に登れようが登れまいが、どうせ動物園にしかいないのだから、知っていたところでどうなるものでもないのだ。ところが図鑑大好きの亭主は、ライオンとトラの違いが分からないのが信じられないと言う。

そんなことを考えていると、小さい頃のことがとてもなつかしく思えてくる。庭いじりをしたり花屋さんを回るのも楽しいけれど、日が暮れるまでザリガニを取って遊んでいるのも楽しかったなあと思う。マダムYの幼少時代は、それはそれはワイルドだったのである。

ライオンのメス(出典 Wikipedia)


マダムYの幼少時代、両親は二人とも働きに出ていた。今では「共働き」と言われるが、当時はまだ「共稼ぎ」と呼ばれていた時代である。両親が帰ってくる5時過ぎまで、鍵を持たされていないマダムYは家に入ることができなかった。近くに親戚の家があったのでそこに行くように言われていたし、その頃は小さな子供に一人で留守番をさせることは考えられなかったのである。

ところが、マダムYはおとなしく親戚の家で本を読んでいるような子供ではなかった。帰りなさいと先生に言われるまで校庭で遊んでいるか、さもなければランドセルをその辺に放り投げて遊びに行くか、いずれにせよじっとしているのが大嫌いだったのである。

当時、舗装されていたのは幹線道路くらいで、住宅街の道はただの土か、せいぜい砂利を敷いてあるくらいであった。マダムYは走って遊びに行くので、よく転んでひざをすりむいた。家に帰れば赤チン(マーキュロ・クローム、昔の傷薬)があるのだけれど、家は鍵が閉まっている。そのためひざに砂利の破片がささったままで、何時間も遊ぶのであった。だから、40年以上経った今でもマダムYの膝頭には傷が残っている。

昭和30年代といえば、高度成長時代の初めの頃である。いまではマンションが並んでいるあたりも、川や田んぼであった。学習塾なんぞに行く子供はいなかったし、塾といえば習字かヤマハ音楽教室くらいしかなかったから、大抵の子供は暗くなるまで遊んだ。

マダムYも、カエルを捕まえたりザリガニを釣ったりして、日が暮れるまで遊んだ。その頃になるとお父さんお母さんが帰ってくるので家に入ることができる。そして夕飯を食べてお風呂に入ると、疲れ果てて寝てしまうのであった。当然勉強などしたことがない。ザリガニの釣り方ならいくらでも知っているが、ライオンとトラの区別なんて知るわけがないのである。

問題は宿題である。当時の学校でもよく宿題は出た。当然マダムYは宿題などやっていない(机に向かっていないのだから・・・)。どうするかというと、次の日の休み時間に勉強のできる子がやってきたものをまる写しするのだ。

ところが勉強ができる子がみんな宿題を見せてくれるとは限らない。中には、「宿題は自分でやらなきゃいけないんだよ」という子もいる。だからマダムYは、まじめで宿題をきちんとやってきて、しかも頼まれると断れない子を見つけるのである。子供の頃からそういう嗅覚だけは鋭いのであった。

さて、学校がある時はそうやって暗くなるまで遊んで時間をつぶしていた幼少時代のマダムYであるが、困ったのは夏休みの期間である。

すぐ近くに母親の実家があり、そこに行くように言われていたマダムYであるが、親戚とはいってもよその家はやはり行きづらい。旧家なので広さは十分あったし、年の近いいとこもいるので遊ぶのはいいけれども、一日中その家にいなければならないというのは、やはり子供心にも気が進まないものであった。

だから、学校のプール開放がある時には、朝一番から終了時間までプールにいるのが普段の過ごし方であった。学校のプールにいれば、なぜ家にいないのかと聞かれることもないし、どこで時間をつぶそうか考えたりしなくてすむ。当時は、両親が両方とも働いている家はそれほど多くなかったし、学童保育もなかったのである。

トラ(出典同じ)


大人になって社会に出てから、マダムYが一人っ子で兄弟がいないというと、そんなな風には見えないと言われることが多かった。それはおそらく、子供の頃そうやって子供ながらに気を使って育ったからではないかとマダムYは思うのだった。

さて、夏休みのプール開放というのはずっと行われている訳ではなく、夏休みも半ばになると先生方もいなくなってしまい、校庭にもプールにも入れない。仕方なくカエルやザリガニで遊んだり、そこらへんに生えているいちじくの実をもいで食べたりして時間をつぶすのだが、日が高くなると外にいられないくらい暑い。そういう時どうするかというと、マダムYが向かうのは親戚の銀おじさんのところであった。

銀おじさんは、お母さんの兄弟で、実家の離れに一人で住んでいた。一日中、シャツとステテコと腹巻きという出で立ちなのだけれど、当時は特に気にならなかった。そういうスタイルの人はそれほど珍しくない時代だったのである(バカボンのパパもそうである)。

銀おじさんは、お勤めには行かず、家で内職をしていた。おじさんの離れに行くと、巨大な発泡スチロールの板と、たくさんのビニール袋があって、これがおじさんの内職道具なのであった。この発泡スチロールを一定の大きさに切って三つ折りにし、それをビニール袋に入れてホチキスで閉じるのである。

炎天下の外で遊ぶのがしんどくなると、マダムYは銀おじさんの離れに行って何時間もこの内職を手伝うのであった。昔のことだからエアコンなどはもちろんなかったけれども、直射日光の下にいないだけ楽なのである。一日に何百と作るので、夏休みの間にはおそらく何千という単位になっただろう。

何を作っているのか小学生のマダムYには分からなかったが、ずっと後になって、子供が幼稚園になって金魚すくいをした時に、何十年ぶりかに子供の頃作っていた発泡スチロールの塊を発見した。それは、金魚の水槽に入れて水をきれいにする「水作」という浄化装置のフィルターなのであった。

マダムYのお母さんの実家の離れに住んでいた銀おじさんは、お勤めはしていなかった。薪(まき)を割ったり家の修繕をしたりといった力仕事(当時は、内風呂の家でも薪を使って沸かしていた)や、水作作りの内職をしている以外の時間は、晩酌に向けて庭に七輪を出し、モツを煮ていることが多かった。

その頃はいまのようにスーパーマーケットなどなくて、米は米屋、魚は魚屋、野菜は八百屋で買うのが当り前だった。肉も、豚肉や牛肉、コロッケを売っている肉屋と、鶏肉や焼き鳥、鳥モツを売っている鶏肉屋は別だった。商店街にはたくさんのお店が並んでいて、お店の人も買う人もみんな顔見知りという時代だった。

銀おじさんは、内職でかせいだおカネをいつも腹巻の中に入れてじゃらじゃらいわせていた。そして、気が向くと商店街に歩いて行き、豚や鶏のモツを買ってきて昼間から七輪でモツ煮込みを作るのである。日が暮れる頃モツが柔らかく煮上がると、マダムYも分けてもらって食べた。味噌で味付けしたモツ煮込みはとてもおいしかった。

さて、マダムYが預けられていたお母さんの実家は地元では旧家だったので、お盆になると親戚の人たちがたくさん集まった。また、戦後まもなくの頃は、この一帯で一番大きなこの家を、いろいろな人が頼ってきたことがあったらしい。そうした人達が一升瓶を2本ずつ抱えて、お盆の時期にたくさん集まるのである。

当時は、お祝い事や法事というと一升瓶を持ってくるのが当たり前であった。その結果、仏壇の前は紐でくくられた一升瓶のセットが飲みきれないくらい並んだ。銀おじさんはそうした一升瓶のストックの中から何本か自分の離れに持ってきて、モツ煮込みを肴に一杯始めるのであった。

昔はそんな具合に、何かというと一族や縁のある人達が集まっていたのだけれど、いつの間にか、みんなお墓の中に入ってしまった。家に入れないマダムYをずいぶんとかまってくれた銀おじさんも、もともとあまり肝臓が強くなかったせいか、モツ煮込みでお酒を飲んでいるうちに早くに亡くなってしまった。

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プールに行ったり外で遊んだり、銀おじさんの内職を手伝ったりしているので、勉強なんて一つもしない間に夏休みは終わってしまうのだった。その当時、夏休みの宿題はとても多かったから、最後の日曜日に一家総出で宿題を片付けて、ようやく始業式に行くことができるのであった。

だから、漢字の書き取りも計算ドリルも、自分でやったことなんてあまりない。いずれにしても一夜漬けだから、ほとんど記憶に残らないのである。ライオンとトラの区別がつかなくたって仕方ないじゃないかと思うマダムYであったが、それはもちろん共働きの両親のせいではなくて、計画性のない自分のせいなのであった。(完)



[Aug 26, 2010]


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