柴田哲孝「暗殺」
シルバータウン「美味しい進化」
安部司「素朴な疑問」 柴田哲孝「暗殺」
この本を図書館で予約したところ、予約待ちが20件以上あって数ヶ月待った。ノンフィクション的な要素を期待するとかなり当てが外れるが、いろいろ考えさせられる作品であった。 考えさせられたのは、いまの日本で陰謀が成り立つかということである。もしかすると「いまの」は不要かもしれない。日本人は陰謀を仕組むほど洗練されていないし、そういう知恵者もいない。スケールが全然違うというのが正直なところかと思う。 黒幕とか実力者、フィクサーとされる人達は現実にいる。しかしそういう人達にできるのは不作為、握りつぶしてなかったことにするくらいで、せいぜい許認可に手心を加える程度である。複数の組織・人物を意のままに動かし、偶然も含めて望む方向に誘導する力までない。 正規の指揮命令系統であっても、県警相互の連絡が不十分で、グリコ森永事件で実行犯を取り逃してしまうのが日本である。表沙汰にできない目的・意図で、警察・自衛隊・政治家・報道関係・宗教団体を差配するなんてことが、残念ながらできるはずがない。羊でも入っていればともかく。 もしかするとそういうことが意図的にできたのは信長・秀吉が最後で、以後500年間日本では出現しておらず、だから彼らが偉人とされるのであろう。 明治維新はもともと外圧だし、第二次大戦は純然たる外圧である。著者の出世作である下山事件も、GHQが絡んでいなければ完全犯罪にはならなかっただろう。 本の紹介に戻ると、これは安倍元首相狙撃事件を題材とした小説である。迷宮入りした朝日新聞支社銃撃事件との関連については新味があるけれど、さまざまの要素を含めすぎて、一冊の本としてはまとまりに欠ける。一番違和感を感じるのは、そんな実力者はいないということである。 そして、この陰謀は選挙日程等々の要因により当初予定から2年近く遅れることになるが、その間関係者が健康問題も起こさず、組織への発言力も衰えず、狙撃者はゴルゴ13並みの腕前のままで(みんな年寄りなのに)、誰一人秘密を洩らさないなんてことはありえない。 著者としては、あからさまにノンフィクション仕立てにすると命が危ないというメッセージのつもりかもしれないが、作者は私と同じ歳である。何年続くか分からない余命よりも、完成した作品を残すことの方が優先順位が上なのではなかろうか。 繰り返しになるが、他殺の可能性が大きい事件を握りつぶして事故や自殺で処理することのできる黒幕・実力者・フィクサーはいるだろう。鑑定結果の内容を変えることは、幾多の冤罪事件で実際に行われている。 しかし、数多くの関係者を意図的に動かして、その秘密が漏れないし何かの偶然で齟齬を生じることもないなんて人間わざではない。湘南の豪邸で政財界に影響力を及ぼすくらいは、世界レベルでみれば農協理事長か町内会役員くらいのことに過ぎない。私だってできるとは言わないが。 安倍元首相狙撃事件を題材にした推理小説。著者の他の作品のようにノンフィクション的な要素を期待すると少し期待外れだが、いろいろ考えさせられた。 シルバータウン「美味しい進化」
原題 "Dinner with Darwin"「ダーウィンと夕食」である。軽い本のようにみえるが、中身は最新知見が満載された進化の本である。 わが国では、博士号を持っている専門医でさえ、理系の知識は小学生並みと思わせるような本を書いている。中性脂肪は脂肪の摂取が原因で増えると書く(それだけでなく診察で患者に言う)始末で、専門医だからといって正しい知識を持っているとは限らない。 だから、農耕以前の人間は肉食だったと糖質制限の本に書いてあったりする。だったらなぜ腸がこれほど長いのかと聞きたくなるのだが、さすがにこの著者は生物学、進化生態学の教授なので、裏付けがきちんとしている。 腸の長さもその根拠だけれど、人間がもともと草食・穀物食であったことは、甘味と苦味を感じることに表れているという。 甘味は、糖質を多く取り入れようとする進化の過程で選択されたもので、ネコは甘味を感じない。肉食動物は、糖質を選択する遺伝情報が残らなかったのである(チュールが好きなのは甘いからではなく、肉のたんぱく質を感知するから)。そうしたことは、ネコに甘いミルクを飲ませて調べたわけではなく、ゲノム分析で甘味を感じる遺伝子がないことで分かった。 苦味を感じるのは、植物が自衛のため備えている毒物(アルカロイドなど)を察知するためである。かつて草食であったから、食べられないものを区別するため進化の過程で苦味を感じる遺伝情報が残った。これらの知見は、ゲノム解析の進展により21世紀に入って明らかになったことである。 類人猿のほとんどは草食で、主に食糧とするのは植物の根茎や葉、実である(貝や魚を食べることもあるが主として植物)。それが現生人類に近づくにつれ、肉食との雑食になる。それはいつ、なぜ起こったのか。ヒト属のどの段階からかを考察したのがこの本である。 ゲノム解析以前には、住居の焼け跡から調理の痕跡を調査したり、化石に残された食物の痕跡を探るしかなかった。ところが現在は、遺伝子が現人類にどう残っているか、また近似する生物(類人猿、哺乳類、陸上生物、etc.)との遺伝子比較から、いつ、どの段階で獲得された資質か判明するのである。 これによると、肉類を食べられるようになったのは、調理との関係が深いらしい。最初は偶然だったと思われるが、生肉を焼くことにより、健康被害(食中毒や消化不良)も防げるし保存することもできる。少なくともネアンデルタール人は、肉を焼いて食べていたらしい。 発酵という調理方法も、現人類よりはるかに起源は古い。乳酸菌もアルコールも、工業化以前に自然の力でできるものだから、人類以前にも発酵食は利用されてきた。木のくぼみにできた果実酒を飲んで愉快になったのは、ヒト属よりかなり古くからである。 遺伝子を調べると、オランウータンは酒を飲めないが、ゴリラは飲めるらしい。人間でも、アルコールを消化できる人といない人、牛乳を消化できる人とできない人がいる。それがどの段階で生じたかを調べると、進化の面白さが垣間見られる。 [Feb 19, 2025] 題名だけでなく表紙イラストも軽い読み物を想像させるが、中身はしっかりと進化について論じている。竹内久美子とは格調が違う。 安部司「素朴な疑問」
食品添加物については、数十年前から懸念され、いろいろなところで指摘されている。著者は食品メーカーで添加物を使った商品開発の第一線で活躍してきた経歴の持ち主で、添加物を使えば何ができるかの知識は抜群である。 そして、講演会で女子中学生から受けた素朴な疑問「なぜ甘いのにカロリーがないんですか?」に対する回答に、私自身の長年の答えを見つけたような気がした。「食べ物じゃないからです」 (なお、本書のセリフ部分はすべて九州弁で書かれている。これを好ましいと思うか不愉快に感じるかはひとそれぞれだろう。私は標準語で引用する。) 前回書評で取り上げた「ダーウィンと夕食」に書かれていたように、もともと甘さを感知するのはカロリーの高い食物を識別・摂取するためである。それが個体の生存に有利なので、甘さを感知する遺伝子が生き残った。逆にいうと、甘い食物を感知できない人間は生き残れなかった。 それがいまや、人間が「脳」をあやつり、カロリーのない食物を甘いと認識させている。これが進化なのか退化なのか不明だが、食糧難になれば生き残りに不利になることは間違いないように思う。 初期の「美味しんぼ」にあったように、いまの味噌・醤油はもはや常温で保存できない。食通を満足させる味は伝統的な製法でしか作れないという主張だったが、海原雄山曰く中華料理は中国の調味料でなければ本来の味でないというから怪しいものである。中国の酢や醤油は日本以上に添加物満載である。 話は戻って、「添加物は食べ物ではない」という著者の主張で思い出したのは、ずっと昔、びっくり人間みたいなTV番組で、ガラスを食う人間がいたことである。人間はガラスを消化できないので(バクテリアとかじゃないと無理)、きっとギャラのために危ない橋を渡ったんだろう。 また、昔津田沼にあった(いまイオンがある場所)人工スキー場の営業担当が、やはりTVで、プラスチックの雪代替物を「食べても何ともありません」とむしゃむしゃ食べてみせたこともあった。食べ物でなくても食べることはできるが、体によくないことは間違いないし、いいことは断じてない。 すべてとは言わないが添加物のかなりの部分は、基本的にガラスやプラスチックと変わらない。急性毒性はなく発ガン性も確認できていないけれども、だからといって健康に害がないとは断言できない。 著者は添加物を加えるメーカーを批判するのは筋違いで、それを買う消費者がいるからだと言うけれども、技術進歩をカネに代える発想が根本にあるからそうなる。そして、安くておいしくする添加物や長持ちさせるだけではなく、そうした役割を何ら果たさない見栄えだけの添加物も世の中にたくさんある(ジュースとかハムとか)。 著者はスーパーに行ったら手首の運動が欠かせないと言う。POP広告なんて、メーカーに都合のいいことしか書いてない。この本を読んですぐ、奥さんがカロリーハーフのマヨネーズを買おうとしたので「それ、マヨネーズじゃないよ」と指摘したらびっくりしていた。 「同じ入れ物なのに、マヨネーズじゃないの?」。マヨネーズだからといってどんな卵を使っているか分かったものではないが、卵も油も酢も使わないドレッシングをマヨネーズとは呼べない。コーヒーフレッシュやラクトアイスと同様、ガラスやプラスチックと似たようなものなのである。 [Mar 14, 2025] 食品添加物については数十年前から懸念されているが、この歳になるとこれまでとは違った見方になる。何がよくないかではなく、どこに優先順位を付けるかだと思う。 キャサリン・イーバン「Bottle of Lies」
邦題「ジェネリック医薬品の不都合な真実」。内容はそのとおりなのだが、不都合な真実がアル・ゴアではなくインド企業の片棒を担いだクリントンを揶揄している点が分かりにくく、原題の方がよく本書の特徴を示しているように思う。ただ、翻訳はたいへん読みやすい。 インドのジェネリック製造会社ランバクシーが、米国FDA(食品医薬品管理局)に虚偽のデータを送って審査を通り、世界中に有害な医薬品が販売されたスキャンダルの経緯をまとめた本である。インドといえばいまや日本を上回るハイテク国家であり製薬国家であるが、前近代的要素が多分に残されている国でもある。 それは、YouTubeでインド屋台料理の動画を見ても分かるのだが(基本的に生ゴミは道路に放置で、ハエが飛び回っている)、シリコンバレーでは多くのインド人技術者が働いており、米国の大学や研究機関にいるインド系研究者は日本人よりずっと多い現状とはかなりのズレがある。現実はどちらに近いかというと、後者とはなかなか断定できないようだ。 この本では、21世紀はじめにジェネリック医薬品のブームが起きて以降の動きから話が始まる。リピトールやアトルバスタチン(私も飲んでいた高脂血症薬。後者がジェネリック)といった聞きなれた名前に興味を引かれて読み始めると、次に出てくるのはインド企業の縁故重視・収益最優先という前近代性であった。 コンプライアンスは絵空事という、かつて自分がいた職場を思わせるような記述が続き、前近代的な社風はどこの国でも似てくるものだと思った。そして、そのインド企業ランバクシーは、米国FDAに義務付けられた多くの規制を、虚偽のデータ、つまりコピペでかいくぐって認可を得たのであった。 まるでかつてのリケジョを思い出させるようなやり方だが、ランバクシーは有害・欠陥製品を世に出したのだからもっとたちが悪い。この事件では米国市場に出たので問題となったが、アフリカや発展途上国にだけ出荷したのであれば、いまだに続いていたかもしれない。 日本では厚労省がちゃんと管理しているから大丈夫ということはない。確かに最終製品(糖衣錠にする等)は日本国内で製造されているものがほとんどだが、原剤と呼ばれる有効成分は、いまや中国やインドで作られているものがほとんどなのだ。 だから、問題企業のランバクシーも、第一三共が買収して子会社化し、その後にFDAとのトラブルが表面化した。第一三共もこの本の後半では重要な登場人物となるのだが、いくら専門知識・商品知識があったとしても、言葉が通じなければ難なく騙されてしまうという見本みたいなものである。 「盗人にも三分の理」的な見方をすれば、データが捏造だろうと製造工場が不衛生であろうと、最終製品である薬がちゃんと効けば問題ないかもしれない。この事件でも、最終的には和解(賠償金)という民事的解決が図られていて、刑事罰が科された訳ではない。そのあたり、やや消化不良的な読後感は否めない。 そして、煩雑な手続きが薬価を高めているのはそのとおりなのだが、だからといって諸手続きを無視・捏造していい訳ではない。それは、過去の重大な薬害事件の反省から厳格化されているからだ。サリドマイドも、エイズ血液製剤も、私が生きている間の事件である。 この本から教訓とすべきなのは、医薬品の検査は基本的に製造プロセスの検査であり、どんなに厳格化してもロットによるばらつきは避けられないこと、その結果として、自分の手元にある薬はどうやっても100%の信頼性はないことである。 薬効は取説に書いてあるより少なく、副作用は多いことを肝に銘じなければならない。だから飲み薬だろうがワクチンだろうが、本当は避けた方がいい。どんなに先進国の規制が厳格であっても、有効成分は中国やインドで作られている。彼らがどういうモラルなのか知るすべはないし、そんなことにリスクは取れない。 リケジョのようにデータをコピペして米国FDAの認可を得たインド・ランバクシー社のスキャンダルをまとめた本。ランバクシーに騙されて数千億円で買収してしまった第一三共も登場する。 リチャード・アスクウィズ「80歳、まだ走れる」
マラソンの本は黙って俺の言うことを聞けだし、ネットの記事はアクセス狙いの無責任なものばっかしである。私が聞きたい話はないのかと思っていたら、この本はすごく参考になる。マスターズ陸上がテーマだから、まさにターゲットど真ん中である。 はじめにフェル・ランニングという聞きなれない言葉が出てきて(トレランとクロスカントリーの中間らしい)、著者のケガの悩みや心身の衰えから話が始まるのでやや退屈だが、途中からマスターズ陸上選手のインタビューになり、そこからは息つく間もなく終盤まで読み進めた。 読み応えのある本だし、日本のスポーツ指導者が書くランニングの本よりずっと納得できる。「インターバル走は不要だと私は思います」というのと、「スピード練習は必要よ。年取ると筋肉がどんどん落ちてくるから」と、どちらがより説得力があるかということである。 日本はマスターズ陸上の先進国で、世界記録保持者もたくさんいる。「W60サブスリー」弓削田さん「M90スプリンター」田中さんをはじめ、世界的にトップクラスの選手は数多い。本書でインタビューしている中野陽子さんも、その中のひとりである。 まさに中野さんがそうなのだが、マスターズ選手の中には老齢になるまで陸上競技未経験だった人達がいる。著者に言わせると「いまの私の歳には市民ランナー、それも初心者だった」のである。そして、経済的に恵まれている人ばかりではない。それまでの半生も、競技を始めてからも、生活の苦労は変わらなかったのである。 「マスターズ陸上のルールその1は、ケガをしない。その2は、ルールその1を忘れない」 「高年齢になってキャリアをスタートしたランナーのいいところは、自己ベストを長く更新できること」 「毎週、毎月、毎年続けていれば、ある日突然力が付く。日々の前進は微々たるものに過ぎないが、とにかく辛抱強く取り組まなければならない」 これらのことを述べているのは、少なくとも70歳以上であり、中には80歳90歳のランナーもいる。それでも、日々の努力を続けなくてはならないと言うのだ。70前などヒヨッコもいいところで、元気づけられるとともにもっと精進しなければと思った。 この本の終盤で、走る哲学教師が出てくる。彼は走るようになって(そして体を壊して)から、ニーチェやカミュが何を言っているか理解できるようになったという。 努力したからといって必ずしも結果や成果に結びつく訳ではない。造物主や運命は、個人個人が何をしたかなんて見ていない。それが不条理ということなのだ。 それでもわれわれが努力するのは、シーシュポスが山頂に巨石を押し上げるのと同じことである。いずれ力尽きる時が来るし、山頂まで押し上げた石は再び谷底に落とされることになるが、だからといって押し上げる行為に意味がないことはない。 われわれも何かに向かってトレーニングするけれども、それが好記録になるとか、注目されるとかはどうでもいいことである。マスターズの選手たちはタイムとか順位に関係なく、走っていること自体が楽しくて仕方ないし、ゴールは至福の時である。何歳になっても、全力を尽くせるのは幸せなことなのだ。 マスターズ陸上で実績を残したランナーの中には、高齢になってからランニングを始めた人もいる。そういう事実を知るだけでも励みになる。 次の記事
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