せっかく会社を辞められたのですから、おカネがないなりに楽しく過ごしたいものです。
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働かないのが世のため人のため?    節約ばかりじゃ息が詰まる
借金を返した話   職場のことで腹が立つのも5年まで   最も資金繰りのきつい2ヶ月
組織は森と同じ、一緒に働くのは違う生物種    やっと年金支給日、これで一息つける
電気・ガス・ガソリンが高い    13、4の頃の好みは大人になっても残るというが
目標など立てない方がストレスが少ない    自由と時間、人生の優先順位

働かないのが世のため人のため?

先日橘玲の本を読んでいたら、「最後の雇い手」というのが出てきた。MMT(現代貨幣理論)のひとつで、政府・地方公共団体は、雇用を確保するための最後の手段として、最低賃金で求職者を雇用して完全雇用を達成すべきだという理論である。

「働きたい人に職を与える」というのは、かの湯婆婆(ゆばーば)も言っていたことでたいへん結構なことなのだが、よく読んでみると首をひねるような内容が書いてある。

そうした求職者に与えられる職業というのは、専門職や技術職などある程度の知識や経験を必要とするものではなく、清掃とか事務の補助職に限られるので、そうした職に就くことにより求職者の自尊感情が充たされるかというのである。

何か論点が違うように思うのは私だけだろうか。まず第一に、そうした職種に限定されるというのはマーケットよりも労働者や組合に配慮したもので、本当に自由競争であればそういう職種の限定はありえない。

確かに同じ仕事を低い賃金でできる人材が山のように出て来たら、既にその職で食べている人達の既得権を侵害する。教師とか公務員の中にそういう仕事が少なくないことも想像できる。けれども、完全雇用と労働者の既得権は、両立することが困難である。

第二に、現実にそうした単純作業、補助職の人手は不足していて、それをマーケット的に解決するなら人件費を上げるか外国人労働者に頼るしかない。求職者の自尊感情は観念的に考えるのではなく、時給の引き上げで対応すべきことではないだろうか。

正直なところ、自分が体力的健康的にそれほど問題がないにもかかわらず働かないでいるのは、どうなのかなと思わない訳ではない。

しかし、年金を受給しているからたいしておカネもいらない人が労働市場に参入することは、すでに働いている人、いままさに求職している人達からみればありがたくない、むしろやめてほしいことであろう。

せっかく働くだけの能力も健康もあるのにそれを生かさないというのは資源の無駄遣いのような気もするが、仮に私が働いて収入を得るとすると、他の誰かの実入りがなくなるのである。

私は余分のカネがなくてもいまのところ何とかやっていけるのだから、その分必要な誰かが受け取ってくださいというのも、立派に世のため人のためになるのではなかろうか。

もちろん、客観的にみれば私がやった方が短時間で効率的かつ成果も上がる可能性はある。しかし、少なくとも公的部門でする仕事で、効率だの成果だのは二の次である。

最低充たすべき水準を充たしていさえすれば、それ以上はどうでもいいことである。そのことは、長年サラリーマンをしていて痛感した。>他人より早く正確に仕事をしても、恨みを買うだけである。

つまり、働かないのが世のため人のためで、年金生活者は余計なことをせずおとなしくしていた方がいいということであろうか。

その昔、人間の寿命はそこまで長くなかったので問題はなかったけれど、それでも歳取ったら家の管理運営は子供の世代に任せ、年寄りは隠居して祭祀を担当したりカウンセラー役となったり、生産とは違った側面から社会と関わった。

現代において、それらの側面とは何なのか。考える時間は十分にある。

働きたい者に仕事をやるというのは、湯婆婆も言っていました。


[Feb 1, 2022]


節約ばかりじゃ息が詰まる

あと2ヶ月で65歳になる。65歳になると年金をもらえる普通の年齢なので、加給年金と呼ばれる年金の扶養加算がいただける見通しである。

60歳前にアーリーリタイアした時、しばらくは失業保険で、それから後は年金の繰り上げ支給で何とかやっていこうと思った。だから、リタイアの数年前から、その範囲内で暮らせるよう生活のダウンサイジングを図ってきた。

想定どおり、リタイア後約2年間は税金や健康保険料(任意継続)で200万円近い臨時支出が必要となったが、その後は所得税・住民税が安く済むようになったのと、幸いに大きな支出がなかったので、65歳までもう少しというところまでたどり着いた。

その間、予算内で暮らしていくためにいろいろ節約したり、したいことをがまんしなければならなかった。最初の1、2年はかなりつらかったけれど、コロナ以降はおカネがあってもなくても自粛になった。

先日ふと財布を見たところ、中には3千円しか入っていない。普段生活していくのに、それくらいあれば十分なのである。ただ、その時は山に行くのに外出していたから、ちょっと少ないかなと思ったのである。

3千円といえば、約25ドル。グリーンチップ1枚である。カシノに行っていた頃には、ブラックジャックで20秒、バカラだって1、2分で倍になるかゼロになるかなっていた金額である(バカラだとブラックチップでないと絞れないが)。おカネがなくなってしまったなあと痛感した瞬間であった。

かといって、カシノで過ごすのと、山を歩くのと、どちらが上等とかどちらがより楽しいとかはない。サラリーマンをしていた時にはカシノくらいの息抜きがないとやっていられなかったし、いまはストレスの少ない日常だからこれで十分なのである。

ただ、おカネがないから山に行くとかしかできないのは事実だけれど、節約が主目的ではないのでおカネを使わないことだけが大事なのではない。そのことは、常々考え違いをしないようにしている。

例えば、目的地まで行くのに日帰りにするのか、前泊・後泊するのかという問題がある。おカネのことを考えれば日帰りにした方が当然安く済むし、休日パスが使えれば平日に泊りがけで行く4分の1くらいの金額で抑えることができる。

しかし、そうすると当然のことながら夜中から起きて準備しなければいけないし、帰りも疲れ切って遅くまで電車に乗らなければならない。体調も万全とはいかないし、注意力も散漫になる。

ある時思ったのである。これで、脳卒中とか心筋梗塞とか起こしたら、節約どころか余計におカネがかかるのではないだろうか。そうなったら、何のためにアーリーリタイアしたのか、こうしてストレスの少ない毎日を送っているのか分からない。

近くで見ている奥さんも「歳なんだから、日帰りで無理するのはやめたら」と言うのである。「だって、おカネがないから」と返すと、「2回行くのを1回にして、その分泊まればいいじゃん」と言う。

山に行くのに間隔を開けると、てきめんに足腰に響くのでできれば定期的に歩きたい。でも、おカネの心配をしながら歩いても楽しくないし、そもそも体調を悪くしたら何にもならない。

そんなこんなで、65歳も近づいたので節約ばかりに気を使うのはやめて、無駄遣いにならない程度には費用をかけていろいろやっていきたいと思っている。

それでも、ここ7~8年の節約生活が身について、それほど散財もできない体になっているし、カシノで使っていたような金額を山で使うのは至難の技である。そして、あとどれくらい生きるか分からないのに、永遠に生きるような資金計画を立てても仕方がない。

今年の冬は格別寒いので、エアコンのタイマーをかけて毎朝起きた時に暖かくするようにしている。おそらく、1日1時間以上多く電気を使っていると思われるが、血圧が上がらない方が楽である。節約ばかりでは息が詰まるのである。

永遠に生きるような資金計画を立てても仕方ない。節約ばかりでは息が詰まる。


[Feb 10, 2022]


借金を返した話

最近Excel2010のサポートは終わりましたと表示されることがある。サポートしなくても表計算とグラフくらいなら問題ないし、もしもの場合は他のソフトでも変換できると思っていたが、万が一、まったく使用不能になるリスクはゼロではない。

先週は資金繰りが最大にきついことを書いたことだし、いままで書いたことがなかった借金返済の顛末について今のうちにまとめておくことにした。過去データがなくなると、何が起こったのか後から思い出すのが難しくなるからである。

50歳になってしばらく後のこと、そろそろアーリーリタイアについて真剣に検討しなくてはと思った。その頃一番忙しい時期で、仕事が立て込んでマカオにもラスベガスにも行けなくなっていた。

それまで年に何度も海外カシノを訪れていたのだが、行こうと思っても行けなくなった、ホテルやエアを押さえてもキャンセルなんてことが続くと、だんだんすべてが面倒になる。そうした発散の機会なしでは、ストレスだらけの職場で耐えることが困難だったのである。

当時、カードローンや海外キャッシング、リボルビングの残高が200万円以上あった。当時は、退職金で返せばいいやと鷹揚に構えていたのだが、適格年金を解散してしまうような会社なので信用できないし、そもそも適年なしだと退職後の資金繰りが回らない。

手許の記録(Excel)によると、短期債務の整理を始めたのは2008年5月。その時点の残高は223万円であった。この他に住宅ローンと墓石のローンがあって、月々の返済は14万円、ボーナス時には40万円の返済が必要だった。

リタイアを本気で考えるなら、まずこの短期債務を完済するのが最優先である。次に住宅ローンを繰上げ返済して退職金の金額内におさめ、あわせて生活のダウンサイジングを図らなければならない。

とにかく、短期債務である。この時点で、それらの金利だけで月々1万数千円に達していた。何も考えないで給料を使っていたら、金利だけ返すので精一杯である。まず、利息の他に2万円ずつ返すように計画を立てた。

つまり、月々3万数千円をやりくりして浮かせて、わずか2万円ではあるが毎月借入残高を減らすようにしたのである。それを続ければ、6年後の2014年には短期債務を返済できる。

その頃の預金口座残高の推移をみると、まだ海外旅行には行っているし他にもいろいろ使っているし、出張費の立て替えもあって訳が分からなくなっている。いま見ても、どうやって収支を合わせていたのか不明である。

とはいえ、一念発起して借入を減らそうとしたことで、ちゃんとやらなければならないとスイッチが入ったのだろう。海外旅行や無駄遣いを減らし、月々浮かせるおカネを少しずつ増やして、翌2009年には利息の他に3万円返せるようになった。

50歳になって間もなく、アーリーリタイアを思い立って具体的な準備を始めた。まずは借金の返済。その時点で、カードローンやリボルビングで200万円以上の短期債務があった。


2008年には約220万円あった短期債務(カードローン、海外キャッシング、リボルビングなど)は、月々2~3万円を地道に返したことで、2009年暮れには160万円に減らすことができた。

1年足らずのがんばりでここまで債務を減らせたことで、自分にも励みになったし、もっとがんばろうという気になった。ともあれ、借金を返すのは手段、最終目的は早く仕事をやめることである。

当時の「せいうち日記」を見ると、忙しくて海外に遊びに行けないと書いてある。もちろん忙しいことはあるにせよ、無駄遣いを極力しないようにしたことが大きい。海外旅行は2009年春の次が2010年春。この2010年春がいまのところ最後である。

債務返済に拍車をかけるため、この時期から始めたことがある。それは、「自分で自分に貸す」ことにより、支払い利息を減らせることに気が付いてそれを実行したことである。

その頃まで、貯金は貯金で口座に入れ、借金は借金で借りて利息を払っていた。金利が高い時にはそれで疑問は感じなかったのだが、その頃にはもう低金利は限界まできていて、預けても利息はつかないのに借りた金利はしっかり取られるという状況であった。

だから、貯金を返済に回せばその分の利息が浮いて、資金繰りが楽になるはずである。その時点で少しは減ったとはいえ毎月1万円以上を借入利息で支払っていた。その半分でも、利息ではなく元本に回せればより返済が進む。

ただし、問題が2つあった。まず第一に、その貯金は何かあった場合の蓄えとしてとってあるものなので、返済に回してもし何か急に必要になったらどうするということであった。

これについては、カードローンやリボルビングを返済すると返した分の枠は空くので、もしもの時はそれを借りるつもりでいればいいと思った。もしもの場合がなければ利息分が浮くし、仮に必要になって借りても元の状態に戻るだけである。

もう一つの問題は私自身の意思の弱さである。そうやって蓄えに手を付けると、どんどんルーズになって歯止めが利かず、普段の生活できつい分までそこから流用してしまうのではないかという懸念であった。

結論からいうと、何とか自分自身に打ち克ってそういうことはしなくて済んだ。そうやって工夫することでどんどん借入残高を減らし、2010年末、当初計画を3年以上短縮して、短期債務二百数十万円を完済したのであった。

この「自分で自分に貸す」というスキームは現在でも使っていて、資金繰りが一番きつい現在もそれで何とか回している。具体的には、自動車関連や耐久消費財、家の修繕のための積立金を借りた形で、預金取り崩しや新規借り入れを回避しているのである。

昔はそんなことは絶対できなかったのに、自然とそれができるようになったのはたいへん不思議である。「□□銀行の残高は生活費に使えるが、△△銀行の残高は使えない」なんてルールはいざとなると背に腹は代えられなくなるものだが、それが何とかできたから借金も整理できたのだろうと思う。

短期債務の整理が3年短く済んだことにより、翌年からは住宅ローンの期限前返済にその分を回すことができた。2013年には住宅金融公庫を低利の銀行住宅ローンで肩代りすることもでき、年金生活に向けての準備をさらに加速することができたのである。

カードローンやリボルビングなと短期債務を計画より早く返済できたのは、「自分で自分に貸す」スキームを採用した効果もあった。かなり自制心を要求されるので、そう簡単ではありません。


[Mar 3, 2022]


職場のことで腹が立つのも5年まで

リタイアしてから、5年半が過ぎた。この頃つくづく思うのは、職場のことを思い出すのが少なくなったということである。

一昨年の春先にクルーズ船でコロナ騒ぎが始まった頃、あの会社はどうやってコロナ対応しているんだろうと思い出すことが少しあった。きっと、リモート会議とか在宅勤務などできないで右往左往しているか、外部にまる投げしているんだろうと。

ところが昨年くらいから、もうどうでもよくなって思い出すことも少なくなった。そもそも、私が考えてどうなるものでもないし、手助けしようとも思わないからである(向こうだってしてくれとは言わないし)。

どういう巡り合わせなのか、数少ない仲良くしていた人達のほとんどが亡くなってしまったし(現役の時か退職して間もなく)、その人達以外は特に会いたいとも思わない。いまばったり会ったとしても、挨拶して通り過ぎるくらいだろう。

趣味で知り合った人達とか、最初に就職した会社の人達とはいまでも年賀状のやり取りくらいはするし、会ったら話くらいはするだろうけれど、四半世紀過ごした最後の会社についてはそうではない。どうしてなんだろうと思う。

ひとつ思いつくのは、最初の会社では自分のできることなどほとんどなくて、会社に対して貸しよりも借りの方が多かっただろうことである(奥さんも同じ勤め先だった)。だからと言って会社の上役が偉かったということはない。何しろ合併していまはなくなっている会社だから、そんな程度である。

一方で、転職して以降の会社は自分でできることもそれなりにあって、会社に対して借りよりも貸しの方が多かったから、退職してしばらくは不良債権が残っているような感覚があったのだろうと思う。

しかし、時が経てば不良債権も償却されてしまって、初めからなかったのと同じことになる。ともかく、いま現在平穏にストレスなく暮らしているのだから、いちいち気にしてはいられない。5年というのは、そういう時間なのかもしれない。

返せるのに貸しを返さなかった奴や足を引っ張った連中についてなつかしく思うことはないにせよ、いちいち思い出すだけ時間のムダだと思うし、考えなければならないことは他にたくさんある。

リタイア後5年経ち、かつて勤めていた会社のことを思い出すことが少なくなった。借りより貸しの方がずいぶん多かったが、思い出すだけ時間のムダである。


[Mar 17, 2022]


最も資金繰りのきつい2ヶ月

先週、節約ばかりじゃ息が詰まると書いたばかりなのだけれど、実は今週の年金支給日から、次回4月の年金支給日まで、最も資金繰りのきつい2ヶ月を迎える。

これは、5年半前のアーリーリタイアの時点から分かっていたことで、65歳になると(おそらく)少しは余裕ができるはずなのだが、それまでは貯金を食いつぶしてやっていく他ないと思っていた。

そして、これは実際に年金生活をするまで分からなかったのだが、国保保険料の引き落としのないのは3月から6月までの間だけ。この時期は電気・ガス代も落ち着くので、年間でもっとも支出が少ない。

結果として、4月以降少しずつ資金繰りが楽になる見込みなのだが、4月の年金支給日までともかくきつい。奥さんにも、「4月まではおカネがないからね」と言ってある。

食費や諸雑費は見込んだ額が出ていくし、電気代・ガス代が値上がりしているけれども公共料金もいまのところ許容範囲にとどまっている。税金の戻りが3万円ほどあるはずだが、それも資金繰りに見込んである。

とはいえ、安泰とは言えない。先日は、パジャマが夜中にすり切れた。そもそもすり切れるくらい薄いのに、裂け目があると気になって眠れない。仕方ないから買いに行って、予定外の支出。4月年金前の残高がさらに0に近づいた。

あとはお小遣いである。あれこれ算段すると、使えるおカネはあと約5万円。普通に暮らせばそんなには使わないけれど、泊りがけで山に行くと半分くらいなくなってしまう。

iPADのバッテリーがいよいよ限界を迎えていて、100%充電しても電源につながないと1日も使えない。Appleのホームページをみるとバッテリーだけなら11,880円で済むということだが、その1万数千円を出すのがきびしいのである。

あと2ヶ月、ひとつの目途は3月11日のクレジット締め日である。

この日以降に使ったクレジットの支払日は4月年金支給日の後になるので、多少は余裕ができる。通販で購入しているワインやサプリメントについては、この日以降の手続きとするようにしなければならない。

現金は、4月15日以降でないとどうにもならない。だから、それ以前に泊りがけで山に行けるのは1回が限度ということになる。ビールやちょこちょこしたお昼の買い物も、できるだけ先に延ばして手許に現金を残さなければならない。

そういう訳で、あと2ヶ月。サラリーマンの時もボーナス前には同じ状況となったけれど、入ってくる額が違うし、借りても返す当てがない。とにかく「打たれ越し」て、2ヶ月が過ぎるのを待つしかないのである。

これから2ヶ月、4月の年金支給日までが一番資金繰りのきつい日々となる。リタイア前から分かっているとはいえ、現実にそうなるとやっぱりつらい。


[Feb 17, 2022]

4月年金支給日まで資金繰りが過去最高にひっ迫しているが、そろそろ半分終わる。

11日のクレジット締め日を過ぎれば引き落としは支給日の後になるから、少し息がつける。この記事が出るのは10日なので、最高にきついのはここまでだ。

家にいれば、たいしておカネは使わない。土・日は競馬を見るけれども、馬券を買わなくても十分楽しい。直近で馬券を買ったのは凱旋門賞でスノーフォールを応援して単勝・馬単を買った時(2021年10月)で、馬券は外れたがキャンペーンに当たって500円のQUOカードが戻ってきた。

注.スノーフォールはディープインパクト産駒の日本産馬で、日本の厩舎に所属していないため外国馬扱いとなっている。昨年の英オークス、愛オークス、ヨークシャーオークスなどGIを勝って凱旋門賞に臨んだ。

若い頃、馬券を買わないと競馬の楽しみは半分なくなると思っていたが、それは大きな間違いのようだ。間違いというのは言い過ぎだとしても、若気の至りであった。

競馬場に行って現地で楽しむことには大いに意味があると思うけれども、馬券をたくさん買ったからといって楽しみが増すものではない。カシノだとミニマムベットがあるし、ブラックチップ(100$)賭けないと絞れないから仕方ないが、JRAは100円単位で売ってくれる(昔は200円だった)。

いま現在、レジャー関係でおカネがかかるのは山だが、今年は寒い冬で2月半ば過ぎても奥多摩・丹沢は雪である。そろそろ泊りがけで行こうと計画していたのだが、山は毎週のように雪である。危ないのに無理をすることはない。おカネも減らない。

だから、土・日に競馬を見て、平日は散歩をして、週に2、3回備蓄してあるお酒を飲めば、つつがなく日々は過ぎていく。

先日は、お酒を買うのにクレジットを使った。まだ年金支給日前の請求であるが、来月分は年金支給日後になる。こうやって少しずつでも資金繰りを回さなければならない。

おカネがなければ毎日酒を飲めないし、毎週山に行けない。ただ、それがストレスになるのも1週間くらいで、それが過ぎると慣れる。先月の支給日後にはお小遣いの残りが約5万円しかなかったが、いまも残り4万円であまり減っていない。

5万円であと60日過ごさなければならないというのと、4万円で残り35日とでは相当違う。金額の多寡よりも、残り日数とストレスが関係しているようだ。あと1ヶ月少々、もう一息である。

[Mar 10, 2022]

4月年金支給日までの最もハードな2ヶ月間も、あと3週間である。 3月11日のカード締め日を過ぎて、クレジットの買い物ができるようになった。ようやくワインの通販を利用できるようになって、さっそく6本注文した。

このところお気に入りのワインが2種類あって、ひとつはムーラン・ディッサン。2千円ちょっとくらいで買える。マルゴー3級のシャトー・ディッサンのサード(フォース?)ワインだが、毎年飲んでいて当たり外れがない。

セカンドであるブラソン・ディッサンはスーパーで見かけることもあるけれども、5千円くらいするのでいつも飲む訳にはいかない。普段飲みには2千円くらいが限界である。

この値段だと、かつてはソシアンド・マレのドモワゼルとか、オーメドック・ド・ジスクールとか、ロートシルト系ではペイル・ルバードが買えたのだけれど、いまでは品薄であるか3千円台に値上がりしてしまった。悲しいことである。

さて、クレジットは一息ついたが、あとはキャッシュである。4月15日まで残すところ3週間となった。

ご報告は少し先になるが、先週泊りがけで山に行ってきた。これで、手持ちの現金が残り少なくなった。誕生日前にお肉とかケーキを買いたいので、その分を残すだけである。

だから、もう泊りがけはできない。行くとすれば日帰りになるが、いま別にちょっと考えていることがある。まだ準備中なので、来週くらいにお知らせできればと思っている。

3月半ばを過ぎてやっと暖かくなり(一昨日昨日は寒かったが)、灯油の追加購入もしなくてすみそうだし、ガス代も想定内でとどまりそうだ。4月年金支給日まで、支払い予定は大体目途がついた。あと3週間、もう少しの辛抱である。

このところお気に入りのムーラン・ディッサン(いちばん左)。通販で2千円くらいで手に入る。普段飲みでは、これくらいが限界。


[Mar 24, 2022]


組織は森と同じ、一緒に働くのは違う生物種

一年ほど前に、会社とか組織は所詮ゼロサムゲームなのに、若い頃誰もそのことを教えてくれなかったと書いたことがある。

基本的にその考えは変わらないのだけれど、最近、ゼロサムゲームというのは言葉が通じる人間という前提で言っているのかもしれないと思うようになった。実態はもっとよくないかもしれない。

家の庭に、ときどきメジロが来て目を楽しませてくれる。せっかく家の庭を覚えたのだからと、ご褒美にみかんを半分に切ったのを枝に指しておいたことがある。

ところが、数日もしない間に体の大きなヒヨドリがこれを見つけて、わざわざ用意しておいたみかんを食い散らかして行くようになった。メジロが来ると、大声で威嚇して追い払う。見ていて楽しくないし、前の道路まで食べ残しの皮を散らかす始末である。

だから、みかんを枝に指しておくこと自体やめてしまった。時々、メジロが来て、「ないんですか?」みたいな目でこちらを窺うのがかわいそうなのだけれど、ヒヨドリが向こうで大声を出しているのであげても取られてしまうだけなのだ。

ヒヨドリにしたところで甘いものは好きだし、春先で食糧の乏しい時期にお行儀のいいことはしていられない。メジロに譲って自分が飢えたらたまらないし、体がでかいのは自分の好きでしている訳ではない。巣に帰れば、きっと雛もいるのだろう。

そこで気が付いたのである。会社とか組織なんて、こんな程度のものだったんじゃないだろうか。

鳥は森が存続することが目的なのではなく、自分や子供達が飢えずに暮らすことだけがすべてである。言葉も通じないし価値観だって違う他の鳥のことなど、構っている暇はない。環境保護だの温室効果ガスなんて難しいことを考えるだけの頭がない。

会社とか組織だって同じである。みんなが組織を長く存続させ、自分達が安心して暮らせることを目的としていたのではない。とにかくここが餌場(えさば。職場の誤字ではない)なのだから、ここで食べるしかない。餌が違えば目くじらたてないが、同じ餌を争っているなら威嚇して蹴散らすだけである。

そうやって餌をくれる人がいなくなれば、組織全体の食い扶持は減ってくるけれども、そんなことは自分達が食べた後の話である。ヒヨドリと同じで、なわばりを主張して自分の餌を守ることが最優先なのである。

そういったことを若い頃教えてくれる人がいれば、もう少しうまく世渡りができたかもしれないが、誰もそういうことを教えてくれなかった。だから、こうして自分のブログに書いて、もしかすると見るかもしれない誰かにアドバイスするのである。

もっとも、会社訪問で先輩がそんなことを教えてくれたとしても、「そんな組織は長いことないんじゃないでしょうか」と思って静かにあとずさりしただろう。でも、きっとどんな会社も組織も、長続きすることはないのだ。

ヒヨドリ。でかいし、うるさいし、メジロを追い払うから嫌い。でも、好きでヒヨドリに生まれたんじゃないだろうし、巣には雛だっているんだろう。会社とか組織だって似たようなものだと思う。


昨日ちょっと書き足らなかったので、もう少し続き。森と生物のメタファーで考えるとと、会社で一緒に働くのは違う生物種であると思った方がいいような気がする。

例えば、一緒に働くのは同じ目的で組織に属している仲間だから、考えていることも一緒だし働く目的も同じであると考えることがそもそもボタンの掛け違いであり、諸悪の根源なのかもしれない。

例えば、「この仕事をするならこうした方がより効果が上がるし、短時間で済むから楽になるよ」と私が教えるとする。それは、私が私に教えるのならたいへん重要なことなのだが、違う生物に教えるとしたらどうか。

そもそも、相手は短時間で効率よく仕事をしたいと思っていないかもしれないし、誰かに教わること自体が腹立たしいかもしれない。組織が長く続くことなど優先順位の一番下で、自分が組織で上になることしか考えていないかもしれない。

例えばメジロが「人間から餌をもらえば全体のパイが大きくなるのだから、独り占めして餌をくれなくなるのは不利ですよ」とムクドリに言ったところで、「うっせえよ。俺の縄張りだ」でおしまいである。

つまり、私が何を言ったところで、自分の縄張りを荒らす奴だと思われていたら全否定にあうだけのことである。そもそも、言葉が通じているかどうかも怪しいものである。

あるいは、「私の存在そのもの」が自分の脅威と映っていたのかもしれない。だとしたら、何を言っても言わなくても同じことで、共存の余地がそもそもない。相手は、殺さなければ殺されると思っているのである。

繰り返しになるけれども、そんな組織に将来があるのかというと、間違いなく「ない」。組織が発展する、少なくとも存続するためには、自分の利害はひとまず「カッコに入れて」、組織全体の利害のことを考えなければ成り立たないからである。

けれども、ムクドリが森全体のことを考えないのと同様、会社人は組織のことを考えない。考えるのは、ムクドリ一族が多くの餌を独り占めして、他の鳥たちを森から追い払うことだけである。自然保護も森の存続も考えていない。

普通に考えれば、増え過ぎればいずれは食糧難になるし、駆除に遭うこともある。でもムクドリは、そんなことを考えないのである。

会社に入る時にこうしたことが分かっていれば、少なくともストレスは少なく済んだような気がする。誰も組織の永続など望んでいないとすれば、そのために苦労する必要などない。あとは、自分がどうやって必要な食糧を確保して、カタストロフになる前に引き上げるかという問題が残るだけである。

[Mar 31, 2022]


やっと年金支給日、これで一息つける

金曜日は4月15日、待ちに待った年金支給日であった。 ここ1~2ヶ月が最もきつくなる時期ということは何年も前から分かっていて覚悟はしていたのだけれど、実際そうなってみると想像したとおり大変であった。

3月11日にクレジット締め日が過ぎて少し余裕ができたが、キャッシュということでは引き続ききつい。奥さんには数ヶ月前から言ってあったので、節約に協力してもらって残り1週間で現金はまだ1万円以上残っていた。

支給日前日の14日、糖尿病の通院。レントゲンと心電図があったので足りるかどうか心配になったが、ギリギリで何とか間に合った。あとは小銭しか残っていないが、家に閉じこもっていればおカネを使わないで済む。

幸い、肉や魚のストックや冷凍食品が残っていたし、キリンビールの株主優待も届いて酒・ワインの在庫もあったので、気分的に楽だった。あと3、4日先でも大丈夫だったかもしれないが、そのくらい余裕がないと身が持たない。

支給日当日はCDコーナーが混むのでなるべく銀行に行かないようにしているのだが、今回ばかりはそう言ってもいられない。朝のうちにおカネを下ろしてきた。ついでに、控えていた1200円カットをして、ジレットの替え刃を購入する。

資金繰りは少し楽になったけれど、収支尻と資金繰りが違うのは企業会計も家計管理も同じである。国保保険料の引き落としがないだけで、6月以降の年金支給額がはっきりしないと収支がプラスになるかどうかは分からない。

さて、月初に加給年金該当届を出して数日、年金事務所からお便りが届いた。いくらなんでも手続きが早すぎるだろう。これはベースダウンのお知らせかと思って開いてみると、特に金額も変わっていない。10円以下の変動である。

ということは、4月の振込額を通知するだけのお便りで、金額変更と書いてあるのは端数調整が終わったということらしい。わざわざご苦労様である。

思い起こせば、アーリーリタイアを決意した時から、この数ヶ月が最大の試練となることは予想できた。ただ、実際そうなってみると、いま現在はすでに片付いたことで、それよりもこれから先どうやってやり繰りするかに関心が移っているのは、妙なものである。

予想に反して固定資産税が値上がりしてしまったこともあり、いま最大の懸念事項は別建てで引かれるはずの介護保険料がどうなるかということである。

せっかく6月から年金額が増えても、8月から介護保険料が引かれて元の木阿弥になってしまうのではないか。そんなことも心配になる今日この頃である。

年金振込通知書が届く。年金のベースダウンかと思いきや、4月の振込額を通知するだけのお知らせでした。


[Apr 18, 2022]


電気・ガス・ガソリンが高い

おととい4月26日は、ガスの検針日だった。この冬は寒くてガスの消費量が多く(気温が低いとお風呂を沸かすガスが多くなるのだ)、料金も高くなるのは仕方ないと思っていたのだけれど、消費量が減っているのに料金がハネあがるのはショックである。

昨年4月の検針では、使用量は57立米だった。今年は52立米、1割減っている。ところが料金は昨年7,603円に対し、今年は9,040円。2割増えている。

検針結果のお知らせには、老眼には読めないように小さな字(フォント4ポくらいか?)で立米単価が載っている。昨年は115.84円、今年は154.60円で、33%高くなっている。使用量が減って料金が増えているから、当たり前なのだが。

海外ニュースでヨーロッパの放送をみると、数ヵ月前からガソリン価格や電気・ガス料金の値上がりは話題になっていて、ウクライナ問題以降さらに厳しい状況となっている。農家は温室を暖房できないし、運送業者はコストが跳ね上がっている。

フランスでは大統領選挙の争点の一つとなったくらいで、ドイツもLNGをロシアから輸入しているからウクライナ問題ではどうしても弱腰になる。どこの国も政府が補助金を出して、燃料価格高騰を抑えている。

わが国では、長らくデフレからの脱却といわれているから、これを機に値上げ賃上げの嵐になるかと思いきや、供給側はコストが上がってもそれを吸収しようとするから、ますます労働環境が厳しくなっている。

先週の知床遊覧船事故も、船長と若い甲板員だけで二十人以上の乗客を乗せていた上に、本社の無線が壊れていて連絡がとれなかったという。船長も知床の人ではなく、昨年従業員が大量に辞めて繰り上がったらしい。

上がったコストを転嫁せず、吸収しようとすればどこかに無理が出る。強風の中、大揺れ間違いなしの小型船で観光しようという人達にもあまり感情移入できないが、運航側に相当の責任があったことは否定できない。

ともあれ、燃料価格全体が上がっているから、それに伴い電気・ガス・ガソリンの価格が上がるのはどうしようもない。ガソリンの市場価格とガスの立米単価が同じような数字なのは笑えるが(税金も違うし供給するまでのコストも違う)、120円が160円になったのは市場価格を反映しているのだろう。

ガソリンも値上がりしていて、同じような車の使い方をしているのに最近はすぐガソリンがなくなる。10年乗っているから燃費が悪くなっている可能性は否定できないが、それ以上に同じ値段で入る量が違っているからであろう。

先月は、1年前よりも3,000円多くガソリンを入れなければならなかった。これか続くとかなり困ったことになる。ウクライナのようにロケット弾で攻撃されて家を追い出されるよりましだけれど。

4月のガス検針は、使用料が前年同月より1割減ったにもかかわらず、請求額は2割増えていた。小さい字で書いてある単価をみると、㎥あたり115円だったものが、154円に上がっている!!!
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[Apr 28, 2022]


13、4の頃の好みは大人になっても残るというが

しばらく前、WEBを閲覧していたら、13,4歳の頃の音楽の好みは大人になっても残るというようなことが書いてあった。

表題に引かれて記事をみたところ、出典も書いてなければ理由も書いていない。ただ、最新の理論だというだけである。他人のブログだからいちいち指摘したくはないが、新しければいいというものでもなかろう。

私自身のことを思い出すと、13、4歳の頃はFENでアメリカのヒットチャートの曲ばかり聞いていて、いまでも1970~71年のビルボード上位の曲をほとんど覚えている。しかし、成人する頃にはほとんど聞かなくなった。65歳の現在、車で聞いているのはジャズか初音ミクである。

音楽以外でも、その頃は碁が趣味で、囲碁クラブは毎月購読していたし、12チャンネルで日曜朝にやっていた早碁選手権も見逃さなかった。しかし、歳とともに好みが将棋に移った。

食事の好みが奥さんに引っ張られるのは世間一般そうだろうと思うけれども、大嫌いだったマラソンには30代から挑戦した。現在は走るのが厳しいので長距離の散歩や登山をするようになったけれども、13~4の頃には想像できなかったことである。

その記事を書いた人はなるほどと思ったのだろうけれど、理由くらい書いてなければ参考にしようがない。ただ、想像はできる。おそらく、性格の違いは個人個人が思っているほど多様ではなく、かなりの程度類型化・デジタル化できるという発達心理学の知見によるものであろう。

それによると、性格の違いは「心」という見えない力によるものではなく、アドレナリンとかドーパミンの出方とか強弱といったきわめて体質的な要素に左右されている。体質だから基本的に生涯変わらない。それで、若い頃好きなものは大抵一生好きなのである。

いくつかの設問への回答でどういう性格(≒体質)かはおおよそ分かる。そして、どういうインプットをすればどういうアウトプットが出てくるかは統計的に推論できる。それにより効果的な広報宣伝が可能となり、トランプ当選や英国のEU離脱等の原因となったと言われているのである。

ただ、それはあくまで統計的ということであって、全員もれなくという訳ではない。現に私の場合、13,4の頃と現在では違うパーソナリティと言ってもいいくらい違っている。これも想像だけれど、その違いは、その頃の環境を肯定するか否定するかによるのではないだろうか。

思春期頃の自分を肯定している人は、その頃の好みがそのまま残って、成人してからも同じような趣味、同じような好みで一生を送るのかもしれない。ある意味、幸せな人生といえなくもない。

しかし私は、その頃の自分もその頃の環境も、ベストなものとは思えなかったしいまでも思わない。もちろん、日本のパスボートを持っただけでも人類の上位10%の幸運だし、それほどカネはかけてもらえなかったにせよ、教育を受けることができたことには感謝している。

しかし、「若い頃に戻りたいか」というよくある質問に対しては、戻りたくないと答える。そういう人間が、音楽の趣味や細々した好みだけそのままでありうるのかどうか、個人的にはたいへん疑問に思っている。

13~4歳の頃の音楽の好みは大人になっても変わらないというような記事をWEBで見たけれど、統計的にはともかくそうでない人もいるようだ。私自身、当時とは好みから何から全く変わっている。



[May 9, 2022]


目標など立てない方がストレスが少ない

ラマチャンドラン先生の脳に関する本を読んでいたら、何かの問いに答えを出すことそのものが脳にとって快感だと書いてあった。

だから、ウォーリーを探せとかクロスワードパズルとかを解くのが脳は大好きだし、答えを出せなくても部分的にでも分かれば楽しい。これは、かつて類人猿であった時代に木々の隙間から食糧や外敵を見分けたので、脳がその方向に進化したという。

人間や類人猿でなくても、鳥でも動物でも視界にないところに何がいるかは推測しているような気がするが、視野も限られて嗅覚も鋭くない人間が、断片的な情報からいろいろな可能性を推測するに至ったのはありそうなことである。

そこで一歩進めて考える。目標を立てるということはおそらく人間にしかできないことで、猛獣でも腹いっぱいになればそれ以上狩りはしない。犬は余分の食糧を隠しておくが、自分の隠した場所を得てして忘れてしまう。猫は将来のことを決して考えない。

だから目標を立てることは大したことなのだが、一度そうすると、達成できたらうれしい反面、できなかった場合ストレスが大きい。目標を立てたばかりにストレスの素となるのは、考えてみれば本末転倒である。

目標を立てるのは、一定の期限内にしなければならないことをスケジューリングすることだと思っている。夏休みの宿題を8月31日までやっていなければ、悲惨な状況となる。

つまり、大きなストレスを避けるために小さなストレスをいくつか容認して、それをクリアすることで悲惨な状況にならないようにすることである。だから、小さなストレスで悲惨な状況になるとすれば、目標を立てても立てなくても結果は一緒である。

小さい頃は、夏休みの宿題をやらなければ先生に怒られるし同級生には白い目で見られるし、仲間外れになるかもしれないと思った。でも今思うと、宿題なんてやらなくても大したことはなかったんだろう。

同様に、つつがなく年金生活を送るために資金計画やら何やら目標を立てて暮らしてはいるものの、それ自体ストレスの素となるような気がしないでもない。

毎日体を動かすとか酒は続けて飲まないという目標だって、続けるとストレスになる。体によかれと思ってしていることが、病気の原因になりかねないのである。

いま取り組んでいる糖質制限も、体重を10kg以上落とせたという実績があり体も脳も喜んでいると思うけれども、シェイプアップやダイエットそのものが目的ではない。あと△kg落とそうなんて思うこと自体がストレスになる。

もう65歳を過ぎて、いよいよお迎えが遠くない時間になりつつある。細かく目標を立てなくても、普通に生活できるようなメンタルを身に付けたいものである。

脳は課題を与えられると、それを快感ととらえるよう進化した。だから一度目標を立てると、そのこと自体がストレスになる。目標など立てない方が心と身体にやさしいかもしれない。


[May 23, 2022]


自由と時間、人生の優先順位

時折、自分の人生は成功だったか失敗だったかと考えることがある。

そういう問題の立て方はおそらく間違っている。というのは、成功とか失敗は他人との比較をした場合に初めて出てくることで、自分自身を評価する場合にはそういう項目は出てこない。仮に出てきたとしても、どうしようもないことだし。

それよりもむしろ、自分はどういう要素を重視して生きたいと思っているのか、その観点に照らして、いまの生活は望ましいのか望ましくないのかと考える方が、ずいぶん建設的ではないかと思う。

前にも書いたことがあるが、私のかなり重要な判断基準は、「したくないことはしない」である。「したいことをする」を優先するとどうしても、したくないこともしなくてはならない。それよりも、したいことを我慢する方がいい。

先日村上春樹の本を読んでいたところ、「私はお金をそれほど重視しません。若い頃貧乏だった時も、お金がないなあと思うだけでどうしても欲しいとは思わなかった。それよりもむしろ、自由と時間が自分にとって大切です」というようなことが書いてあった。

お金に不自由しないベストセラー作家だからそう言えるんだろうと思う人が多いような気がするが、私は本心だろうと思うし、おそらく若い頃から、そう思って生きてきたのだと思う。

よく知られるように村上春樹は早稲田卒で、サラリーマンにならずに都内でジャズバーを経営していた。おカネのことを優先して考えれば、周囲の人間のようにサラリーマンになれば安定した高給を得られただろう。

小説家になったのは30歳になってからで、それまではジャズバーの経営者だった。経営者とはいっても小規模経営の客商売で、資金繰りもきついし朝から夜中まで働かなければ暮らしていけなかったという。

にもかかわらず、お金を重視しないというのは芯が通っているし、代わりに求めるのが「自由と時間」というのも納得のいくことである。サラリーマンになって必ずなくすものが、まさに「自由と時間」だからである。

ひるがえって自分自身のことを考えると、リタイアして5年半、「自由と時間」は満足できるくらいにはあると思う。自由というのがやりたいことを心置きなくできる自由ではなく、他人に小突き回されない、あれこれ指図されない自由であるけれども。

「やりたいことを心置きなくできる」ということが人間本来の欲望であるかどうかにも、疑問を持っている。人間本来の欲望とは、腹いっぱい食べたいとか、雨風にさらされない居場所がほしいとか、暖かい衣服を着たいとか、そういうことなんじゃないかと思っている。

地位や財産、名誉なんてものは、なくたって別に困る訳ではない。そんな考えが出てきたのは有史以来たかだか数千年で、その前の数万年はおそらく誰も考えなかっただろう。

私の人生で優先順位が高いのは、「やりたくないことはしない」である。地位とかカネとか名誉なんてものは、人間が生きていくのに必要不可欠でもなければ、重要でもないと思う。


[May 30, 2022]


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