魏の使節は、後漢時代からの出先機関である楽浪郡、帯方郡を経て、倭(邪馬台国)に至った。

2.3 倭地とは

2.3.1 魏からみた倭

さて、いったん邪馬台国とは離れて、「倭」つまり当時の日本列島についての中国側の認識について考えてみたい。

前節で述べたように、朝鮮半島南岸の狗邪韓国は、馬韓・弁韓・辰韓に属する国ではなく、倭国の北岸、ここからが広い意味の「倭」と記載されている。狗邪韓国から、海を渡って「対馬国」、さらに海を渡って「一大国」、もう一度渡って「末盧国」に達する。末盧国以降については海を渡るとは書いていないし、実際そこからは九州だから地続きである。

そして、もし魏の使節が九州の広さを把握していたら、ここには「倭」の広さが書かれていたと思われる。しかし、書かれていない。だから実際に自分達で九州を一周していないと考えているのだが、では何かそれに近いことくらいは書いていないのかというと、実は書いてある。邪馬台国の所在を議論する中であまり触れられることはないが、例えば次のような記載である。

参問倭地,絶在海中洲島之上,或絶或連,周旋可五千余里。
倭の地を訪ねると、海の上、島々に点在している。そして島が連なったり再びまた海になったりして、ひと周りすると約五千里(およそ350km)である。

一回り(周旋)というが、狗邪韓国(挑戦半島南岸)から末盧国(九州北部)まで3000里以上あるから、往復するとそれだけで6000里になってしまう。つまり、ここでいう「倭地」とは、最後に海を渡った末盧国より先の各国のことを言っている。

とすると、すぐに気づくのは九州全部を回ったにしては短かすぎないかということである。全部どころか、九州北岸から南端の薩摩半島・大隈半島まで往復すると5000里(約350km)では足りない。だとすると、どこなのか。一番無理がないのは、五島列島から天草・島原・有明海あたりを周回して戻ってくる範囲で、それならばちょうど距離も合う。九州南端までは無理だし、ましてや瀬戸内海を近畿まで行って戻ってくる(邪馬台国=大和説)には短かすぎる。

「絶在海中洲島之上,或絶或連」というのも、邪馬台国=大和説では瀬戸内海を示すとされるのだが、瀬戸内海の場合は背景に中国か四国、どちらかの陸地が見えることがほとんどだから、この描写にはそぐわない。むしろ、五島列島あたりの景色を表現したものとみるのが妥当ではないだろうか。



2.3.2 倭地とは九州の一部

倭地とはどこを指しているのか。その傍証として、倭の風俗について述べた中にある次の記事も重要である。

計其道里,当在会稽,東治之東。
その(倭の)距離を計ってみると、ちょうど会稽・東治の東にある。

記事中にある「東治」については、「東冶」の誤りとする説があり、そうだとすると会稽(揚子江下流、紹興市周辺)と東冶(台湾対岸、福建省周辺)とはかなり離れているので、文字通りとらえると例えば「邪馬台国=沖縄説」などが出てきてしまう。

しかしこの文章を文脈全体でとらえるならば、会稽に封じられた夏(殷の前の王朝)の王族から始まったとされる風俗(文身=いれずみ)と倭の風俗が同じであり、倭は会稽のまさに東にあると続くのだから、地理的には会稽山あたりのことを指すと理解するのが自然であろう。

ちなみに、会稽(紹興)から海に出ると寧波(ニンポー)で、ここから東シナ海を東に進むと九州である。そして寧波は唐以降宋、明の時代まで九州から中国までの航路における中国側の港であった。

また、例の裸国・黒歯国に先立って書かれている次の記載も重要である。

女王国東渡海千余里,復有国,皆倭種。
女王国より東に海を渡り千里あまり(約70km)行くと、いくつかの国がある。それらはみな倭人の国である。

日本全国で、東に海を50~100km渡って陸地があり、しかも地続きでないという条件にかなう所はあまりない。西日本では、九州東岸から四国西岸、四国東岸から紀伊半島くらいだろう。だとすると、現在も宇和島フェリーが就航している別府・八幡浜間、宿毛フェリーが就航している佐伯・宿毛間などは、まさにこの条件にかなう数少ない候補地である。

そして、さきに述べたように邪馬台国が佐賀あたりを本拠地として有明海から大分・別府あたりまで九州を横断する地域を支配していたとすれば、まさにこの記述は距離も方角も正しく四国地方を示していることになる。



2.3.3 魏にとって倭は軍事的脅威

さて、その倭地であるが、当時の中国、魏にとって倭(日本)はどの程度のウェイトを占めるものであっただろうか。このことを考える上で、例えば人口がどれくらいあるかというのは一つの目安になる。機械設備のほとんどないこの時代、国力すなわちGDP(国内総生産)は人口に比例すると考えて、それほど大きく違ってはいないからである。

そして、魏志倭人伝の中で、邪馬台国に至る「里程」(距離)とともにきわめて具体的に示されているのが「戸数」である。繰り返しになるが、自女王国以北、其戸数道里可得略載。(女王国より北について、その戸数と距離はおおよそ記載することができる)と書かれている。

戸数に、1戸あたりの人数を掛ければ人口になる。1戸当たりの人数を推定するのは難しいが、当時の住居は、縄文時代の住居である竪穴式住居とそれほど違ってはいなかっただろうから、4ないし6人、間を取って5人ととりあえず考えておく。では、それぞれの国の戸数・人口はどのように記録されているだろうか。比較すると、面白いことがわかる。

対馬国 千余戸(約千世帯=5千人)
一大国  三千許家(約三千世帯=1万5千人)
末盧国  四千余戸(約四千世帯=2万人)
伊都国 千余戸(約千世帯=5千人) 
奴国 二万余戸(約二万世帯=10万人)
不弥国 千余家(約千世帯=5千人) 
投馬国 五万余戸(約五万世帯=25万人) 
邪馬台国 七万余戸(約七万世帯=35万人)

合計すると15万世帯、75万人。その90%以上に相当する14万世帯、70万人が奴国、投馬国、邪馬台国の3ヵ国に集中している。逆にいうと、倭の国々として他に二十数ヵ国が書かれているが、基本的に倭を構成しているのはこの3つの国ということになる。そして、以前書いたように、この時代の日本全土の人口は1~2百万人と考えられるから、ほぼ半分が九州北部に住んでいたことになる。

それでは、この世帯数・人口は中国本土に近い朝鮮半島近辺と比較してどのくらいのものだろうか。再び東夷伝に戻って朝鮮半島の各国についてみてみると、以下のようになる。

高句麗 在遼東之東 戸三万
(高句麗-こうくり-は遼東半島の東で、三万世帯=人口15万)

東沃沮 在高句麗蓋馬大山之東 戸五千
(東沃沮-とうよくそ-は高句麗の蓋馬大山の東にあり、五千世帯=人口2万5千)

わい('さんずい'に歳)南 朝鮮東皆其地 戸二万
(-わいなん-は朝鮮半島の東部で、二万世帯=人口10万)

韓 在帯方之南 大国万余家 小国数千家 総十余万戸
(韓は帯方郡-ソウル付近-の南にあり、大きな国は一万世帯あまり=人口5万人、小さな国は数千世帯=1~2万人、全部で十万世帯余=人口50万余)

以上を読むと、東夷の国々の間で倭のウェイトがかなり大きいということが分かる。人口が判明している8ヵ国だけでも朝鮮半島の総人口に匹敵する人口がいて、それ以外にも国がある。常識的に考えるならば、当時の魏にとって、倭は辺境の小国ではなく、むしろ軍事的に脅威となる可能性を秘めていたと考えられるのである。

だとすれば、将来侵略してくる可能性がある国に対し、そこがどこにあるのか、どの方角なのか分からないし知ろうとしないということは、考えられない。その意味でも、魏志に書かれている記載は大筋において間違いはないと考えていいのではないかと思う。

文化の遅れている国が中国本土を侵略した例として、すでに匈奴-きょうど-の前例がある。秦の始皇帝が万里の長城の建設を始めたのは、匈奴の侵入を防ぐためなのである。



[Feb 1, 2008]

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