志海苔出土古銭
函館市立博物館蔵。約37万枚に及ぶ出土古銭は、国内最大規模。出典:文化庁・国指定文化財等データベース

10.1 平安時代の貨幣価値 入唐求法巡礼行記

10.1.1 函館市立博物館の志海苔古銭を見て思ったこと

「常識で考える日本古代史」シリーズ、最近はなかなか調べる時間が取れなくて先に進めないのだけれど、1年振りの連載です。今回は古代史というには少し時代が下るのだけれど平安時代の話です。
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昨年(2016年)の夏、函館に行った時、時間があって市立博物館に入ってみた。函館市立博物館は函館山の麓、青柳町の函館公園内にあり、坂道の上の方にあるのでこれまで行ったことがなかった。そこでいろいろ展示物を見せていただいたのだが、最も印象的だったのは、入口近くに置かれていたおびただしい古銭である。

この古銭、函館市内の海岸近くにある志海苔(しのり)という場所で道路工事の際に見つかったもので、昭和43年というからもう50年前のことになる。 函館空港の海岸沿いにあたるこのあたりには志海苔舘という中世の倭人の拠点があり、国の史跡になっている。3つの大きな甕に保存されていた古銭は約37万枚、国内最大規模の備蓄古銭であった。

古銭1枚の価値を現代におきかえると、大体10~20円とされる。すると土中に放置されていた古銭は、現代の400~700万円ということになる。経済活動がいまほど活発でなかった当時にあって、これだけの金額を蓄えることのできた財力はかなりのものだし、それを放置しなくてはならなかった事情とはどんなものだったのか、想像をかき立てられる。

以前、古今著文集について考察したことがあり、鎌倉時代初期にはすでに貨幣経済が成立していて、「七半」というギャンブルが盛んに行われていたことが記録に残っている。

貴族全盛の平安時代から武士主導の鎌倉時代に移行する大きな要素のひとつが貨幣経済の進展であり、平安時代末、政治の中心が平氏という時代があったのは、宋との貿易により確保した多額の宋銭という背景があった。

そういうイメージがあるものだから、国内に大規模に貨幣が入ってきたのは平安後期以降と思い込んでいたのだけれど、その志海苔古銭のうち、約1割が唐の開元通宝なのである。

時代的には漢時代から明時代の古銭が志海苔で出土し、数としては北宋銭が多いのだが、1割というのは相当大きな比率である。ちなみに皇朝十二銭は37万枚のうち十数枚しかなく、実際にはあまり使用されていなかったことがうかがわれる(現代の記念硬貨的な位置づけかもしれない)。

もちろん、貨幣は時代を越えて流通するから、唐の貨幣が後世になって日本に入ってきたということはありうる。とはいえ、唐が滅亡したのは907年である。鎌倉時代までおよそ300年、志海苔から出土した最新の貨幣の作り手である明が建国されたのは1368年だから、最後に鋳造されてから少なくとも400~500年が経過している。破損した貨幣だってかなりあったはずである。にもかかわらず1割の占有率は大きい。

常識的に考えて最も納得のいく説明は、唐の時代から中国の貨幣経済はほぼ確立していて、部分的・限定的であるかもしれないが日本にも入ってきていた。その蓄積の上に宋以降の新規鋳造貨幣が加わった結果、14世紀末から15世紀にかけ志海苔古銭が退蔵された時点で唐銭が10分の1の占有率になったのではないか。

(ちなみに、アイヌ民族による大きな反乱のひとつコシャマインの乱が起こったのは1457年である。この際、倭人の拠点であった志海苔舘をアイヌ軍が占拠したので、大量の古銭が退蔵されたのはこの時かもしれない。)

だとすると、日本国内における貨幣経済の進展は、平安末期よりかなり早まるのではないだろうか。民話「わらしべ長者」は平安時代頃の話のように読めるのだが、貨幣が出てこない。商品の代価として使われているのは、みかんであり、織物であり、馬であり、家屋敷・田畑である。みかんは虻と引き換えだから除くとしても、基本は織物や馬との物々交換なのだ。

そんなことを考えていたところ、今度は四国遍路の資料として円仁「入唐求法巡礼行記」を勉強していたところ、いろいろなところにおカネを使う話が出てくることに気がついたのである。

(2020/10/08 追記) その後、「撰銭(えりぜに)とビタ一文の戦国史」(高木久史・平凡社刊)を読み、銭貨の歴史と銭貨がどのように運用されてきたかについて勉強することができた。

その中に、十五世紀以前の本州と蝦夷地との通商について考察された部分があり、参考となったので補足したい。

当時、松前半島近辺、つまり現在の函館付近を拠点に本州・蝦夷地間の通商が行われていた。蝦夷地の特産物である鷹の羽やラッコ等の毛皮、海産物が、本州産のコメや鉄器と交換された。

その際、本州からの仕入れには銭を使用できたが通商相手であるアイヌ人は銭を受け取らないため、本州側の商人から特産物の代金として受け取った銭は、仕入れ・販売に循環することなくこの地に退蔵されたという。

想像するに、アイヌ人相手に仕入れを行っていた商人は、実際に本州側に売り渡す価格のごく一部(おそらく1/10程度のコメとか鉄器)でアイヌの人々から仕入れ、残りは純益となったのではないだろうか。つまり、ボロ儲けしたのである。

そう考えると、戦乱のどさくさで回収できずに放置されてしまったとしても、もともと商人のものというよりアイヌの人達に渡るはずだった銭である。長い時を経て函館市の財産となったのは、ある意味で公平なことなのであった。

なお、銭が支払手段として使われたのは上に考察したようにかなり古く、少なくとも平安末以前には遡ることができる。

ただし、唐銭や北宋銭の比率が大きいのは、その後に作られた銭が品質の問題等により敬遠され、特に遠隔地間の取引においては古い時代の銭が使われたという事情があるようだ。(だから、必ずしも唐や北宋の時代の取引とは限らない)

コシャマインの乱当時、中国の王朝は明であるが、明は政府として銭貨をあまり供給せず、日本列島に入ってきたのは私鋳銭(現代の感覚で言えば偽銭)が多かった。そうした事情も加わって、北宋など古い時代の銭が流通の主体であったようだ。



10.1.2 入唐求法巡礼行記の概要

まず、円仁「入唐求法巡礼行記」(以下、「巡礼行記」)の概要について紹介しておきたい。

「巡礼行記」は838年の遣唐使(結果的に、これが最後の遣唐使となった)に随行して唐に渡った円仁の記録である。日記形式になっているが、ほとんど毎日書いている時期と、数ヵ月置きになっている時期があり、時間の進み方は均一ではない。基本的に、移動している時期にはほとんど毎日記録しているようだ。かなりの筆まめである。

巻一から巻四までの四部構成になっていて、これがまさに起承転結になっている。巻一では日本を出発して唐に渡るまで(838~839)、巻二は紆余曲折あって遣唐使と別れ、聖地・五台山を巡礼するまで(839~840)、巻三は五台山から唐の首都長安に向かうまで(840~843)、巻四は長安から日本に帰るまで(843~847)の記録である。

通読すると、前半と後半で書き振りが相当違っていることが分かる。前半、五台山に行くあたりまでは、航海の大変さ、道中の大変さはあるとしても、それほど状況は切迫していない。カネ目のことが多く出て来るのも巻一である。病気になったり死んだりする人は出て来るものの、「△△家の応対は横柄であった」等、書かれている事柄にも余裕がある。

そして、円仁が「巡礼行記」を記録した理由の一つは、唐は前例踏襲で形式を重視するから(現代の日本もそうだが)、どういう場合にどういう文書を提出するということを後日のために残しておきたかったようである。だから、役所(地方行政官とか警察)に提出した文書は、似たような内容でもしつこく記録してあるのであった。

巻三の終わりくらいから時の皇帝・武帝による仏教弾圧が始まる。最初は道士にだけ恩賞を与えるといった程度にとどまっていたが、次第にエスカレートし、仏教の寺で修業する僧の名前・年齢・出身地等を調査、きちんと修行していない者は還俗させた。さらに、修行の有無にかかわらず年齢ごとに還俗させ、最後は全員強制的に還俗、寺の財産を没収するに至る。

後半に行くにしたがって状況はいよいよ緊迫していくのだが、建前上寺に入るのに財産は持てないので、後半ではほとんどカネ目の話は出てこない。建前上もそうであるが、円仁一行は五台山を巡礼するにあたり、地方行政官や警察に何度も文書で申請・請願をしていて、その際、われわれは当座の衣服や備品の他に何も持っていないと再三申告しているのであった(実は持っていた)。

その申告が嘘ということになると、没収どころか死刑になる可能性もあった。「申告が嘘であった場合は違勅罪として厳罰に処す」とか「首胴足の三つに斬られてしまった」といった表現も再三出て来る。

併せて、ときの皇帝・武帝やその部下の権力に驕った行いにもかなり筆が割かれている。前帝の妻を後宮に入れようとして断られると射殺したとか、ウィグル族討伐に向かったものの成果がなく、近くの農民を捕えて首を切った等々である。寺の中にいる円仁が直接見聞きしたことはないだろうから、これらは伝聞のはずで、それにしては断定的に書かれている。

この一連の弾圧を「会昌の廃仏」(会昌は当時の年号)と呼び、ちょうど日本における明治維新の神仏分離令のように、中国において多くの寺の施設や文化財が破壊された。そもそもの発端は、「仏陀は辺境の民族であり、中華たるもの儒教や道教を信仰すべきだ」「空の理論とか言っているが、私(皇帝)の不老不死の望みに何ら貢献しない」ということだったようである。

こうした試みにもかかわらず、円仁が日本への帰国途上、三十代の若さにもかかわらず武帝は崩御する。巡礼行記では、「聞天子崩来数月」としごくあっさり書いているが、実際にはいろいろあったようである(不老不死を願って変な薬を飲んだらしい)。

さて、次回以降は、巡礼行記の記事をもとに、平安初期の唐における貨幣経済について考察してみたい。

10.1.3 唐の貨幣制度

歴史の教科書に、よく中国古代の刀貨(刀の形をした青銅製の貨幣)が載っているように、中国は四千年の歴史があるだけに、二千年以上前からすでに貨幣が使われていた。

なぜ貨幣が登場したかは経済史の問題となるが、ごく大ざっぱに言えば物々交換から市場における売買へと比重が移るにつれて、多くの人が交換してもいいと思う物資=貨幣が必要になったということである。すでに紀元前の漢代にも銅銭は大規模に鋳造されているし、最初に述べた函館・志海苔古銭の中にも漢の銅銭が含まれている。

そして、貨幣の使用が始まってすぐに、金貨から銅銭に至る貨幣制度や交換比率も定められたのであるが、実際に通用したのは銅銭だけといってよかった。というのは、経済規模の拡大(経済成長というよりは、貨幣が通用する地域の拡大)によって貨幣量は慢性的に不足しており、唐の時代においても銅が足りないためいろいろな施策をとらなければならなかったのである。

まして金銀などの貴金属は通貨として流通させるだけの産出量はなかった。これは世界のどこの地域でも同じことで、産業革命以前に金銀を貨幣として使用できた国・地域は稀であり、だからこそ日本は黄金の国と呼ばれたのである。

日本の江戸時代のように、金・銀・銅それぞれに通貨があって(銀だけは秤量貨幣として使われることが多かったが、一分銀など銀貨もあった)、それぞれの交換レートが市場で決まってくるなどという仕組みは、日本以外ではあまりない。特に古代ではほとんど無理といってよく、唐においても、通貨は基本的に銅銭であり、金は通貨というよりも商品の一つであった。

それでは、巡礼行記にもよく出てくる「金一両」とは何かというと、小判が1枚というのではなくて、一両の重さの金ということなのである。もともと「両」というのは重量を示す単位で、唐代の1両は約42.5gであった。銅銭「開元通宝」はこの10分の1の重さで作られたので、1両の10分の1の重さを「銭」というようになり、これが後に通貨の単位となったのである。

(話は違うが、現代において金の重量単位として用いられているトロイオンスは約31.1gであり、1両の重さと比較的近い。巡礼行記の金に関する記事も、トロイオンスと翻訳して読むと感じがつかめる。)

となると、銅銭以外に通貨に近いものとして使える物はなかったのだろうか。確かに、家屋敷が近くにあれば大量の銅銭を市場に持って行くこともできる。それでも、銅銭1枚が4gだから100枚あれば400g、1000枚あれば4kgである。4kgを持ち歩くとなると結構な重さである。

金があればいい(実際に遣唐使も砂金を持って行って銅銭に替えた)が、上で説明したように金はそれほどの産出量・流通量がない。産出量・流通量がないということは取り扱う商人も少なく、常に換金できるとは限らないということである。いま書いていて思い出したが、もののけ姫にそういう場面があった。アシタカが金の粒で米を買おうとすると、米売りの女に銭を持って来いと言われるのだ。

そういう場合に貨幣的に使われているのが。繊維製品なのである。巡礼行記では、特に絹が使われている場面が多い。例えば、遣唐使に対しては唐の皇帝から経費が下賜されるのだが(ということは、建前上は招待ということである)、その経費は絹で支払われている。巻一の開成四年(839)二月六日に次の記事がある。

州官准勅給禄・・・絹毎人五疋計一千三百五十疋。
州の役人は勅により(遣唐使に)禄を支給した。絹一人当たり五疋、合計で千三百五十疋。

「疋」は長さの単位で四丈、約12メートルの長さにあたる。現代のわれわれにとっては、幅が決まらないと量も決まらないように思うが、織物の場合は機(はた)の大きさが決まっているし、仕立てる際に不便なので幅は統一されていたようである。そして、重要なことは、絹一疋は市場で売り買い可能で、その価格はほぼ一貫文、つまり1000文だったことである。

1000文4kgを運ぶのは重いが、絹織物であればそれほどでもない。そして1350貫文の銅貨は5トンに達するのでそう簡単には運べないが(トラックが必要)、絹織物1350疋であれば牛か馬が何頭かいれば運搬は可能だ。だから、1000文=1貫文を超える取引にあたっては、絹織物が通貨として使用されたのである。

10.1.4 平安初期に日本に貨幣制度は入っていたか

前回まで「巡礼行記」の概要と唐における貨幣制度についてあらましを述べてきたが、ここで一つの問題として、確かに唐では貨幣経済が整備されていたのかもしれないが、だからといって日本でもそうであったとはいえないという指摘がありうる。まず、その点について考えてみたい。

第一に、歴史的な事実関係から考えてみる。すでに中国・朝鮮半島と日本は5世紀あたりから頻繁な往来があった。遣唐使の直前には白村江の戦いがあって両国関係が緊張した時期があったものの、それほど時間がかからずに両国の関係は改善された(これについて、私は白村江以前と以降で日本列島を代表する政権が替わったからだと考えている=こちら)。

白村江から円仁の遣唐使まで200年、その間、唐の制度が朝鮮半島を通じてある程度入って来てもおかしくないし、そうでなくても多くの渡来人(朝鮮半島出身者)が日本列島に移住してきていた。その際、便利な制度である貨幣制度も当然伝わったものと考えられる。

そもそも、遣唐使という制度自体が、先進国である唐との貿易という側面があった。伝統的に商業を蔑視する中華王朝において、対等な地位での貿易というものはありえない。貿易は卑しい民間商人が行うものであり、すべての文物が集まる中華皇帝は、周辺地域から「朝貢」されて、それに対して「下賜」するという朝貢貿易の形でしか貿易はしないのである。

もう一つには「巡礼行記」の書きっぷりである。前にも書いたように特に前半巻一のあたりでは、やたらとカネ目の話が出て来る。そのやり取りが、とても唐に来て初めて銅銭を見た人の考え方・感じ方のように思えないのである。円仁自身は最澄の高弟であり、延暦寺の中にいて勉学や修行に日々を送ってきたはずである。にもかかわらずこの金銭に対する感覚はすばらしい。 

当時最高の知性だったから貨幣経済にもすばやく対応したという可能性もなくはないが、巡礼行記を読む限り、ある程度の予備知識と経験があったように思うのである。そして、それは円仁だけでなく、遣唐使一行のこんな行動にもうかがえる。同じく巻一・開成四年二月二十日の記事である。

白鳥清岑長岑留学等四人為買香薬等下船至市 為所由勘追捨二百余貫銭逃走
白鳥、清岑、長岑ら四名が下船し市場に香薬を買いに行ったところ、役人に見とがめられて追いかけられ、二百文あまりの銭を捨てて逃げ帰ってきた。

原文は「二百余貫」となっているが、二百貫文だと800kgになってしまうので、ここは「二百文」と理解しておく。800gなら持って行ける重さだし、薬や香料を買うのに三、四千円(一文=15~20円として)持って行くというのはありそうなことである。

それを「追いかけられて置いて帰って来た」というのである。この表現は、「命の次に大事なカネをもったいない」という感覚がないとなかなか出てこないし、置いて帰って来た連中も「この程度のカネで捕まったらたまらない」という相場観がなければそういう行動はとらないだろう(おそらく、許可がなければ勝手に下船して街中に入ってはいけなかったと思われる)。

つまり、記録者である円仁も、事件の主役である白鳥達も、唐に渡る前に貨幣とはどういうものかよく知っていたし、おそらく日本国内において使った経験があったのではないかと思うのである。


10.1.5 巡礼行記にみる米の値段
さて、遣唐使一行には皇帝から一人当たり絹五疋の支給があった。趣旨としては滞在費ということであろう。前に書いたように絹一疋(12m)は市場で銅銭一貫文(1000文)と交換できる。五疋だから、一人5000文ということになる。一文10~20円という日本レートで計算して現代に換算すると5~10万円ということになる。これは中国本土でも通用するレートだろうか。

遣唐使一行が日本から唐に渡り、全員ではないにせよ皇帝のいる長安まで往復すると、ほとんど一年がかりの滞在になる。なにしろ動力がないから、移動手段は船や牛馬、あとは歩くしかない。官営の宿泊所にせよどこかに宿を頼むにせよ、おカネを払って泊まった形跡はあまりないから、経費のかなりの部分は食費であったと考えられる。

その食費だが、円仁は道中の米の相場についても詳しく書き残している。こういうことが気になるのも普段からカネ勘定をしているからだと考えられるし(現代だって、おカネに無頓着な人はコメの値段に関心はないことが多い)、あるいは、多くの僧侶を抱える比叡山で、そういう役目を負っていたのかもしれない。

巻二の開成五年三月二日に次の記事がある。

城正東市場粟米斗三十文粳米斗七十文。
城の真東に市場がある。粟米が一斗30文、粳米が一斗70文で売られていた。

この記事が書かれたのは登州であり、遣唐使が上陸した揚州(今日の上海近辺)から数百㌔北上した渤海沿いにある。当時、唐ではいなごが大発生して田畑の被害が甚大で、道中の住民は施しをする余裕はないということも書かれている。さらに三月二十五日、内陸に入って青州の市場では米の値段が高騰している。

糧食難得粟米斗八十文粳米斗一百文。
食糧の入手が困難であり、粟米が一斗80文、粳米が一斗100文になっていた。

さらに四月十日の禹州では、次のようになっている。

禹城県県市粟米一斗三十五文粳米一斗百文小豆一斗十五文麺七八十文。
禹城県の市場では、粟米が一斗35文、粳米が一斗100文、小豆が一斗15文、麺が7、80文であった。

粳米は今日でも同じ漢字が「うるち米」と読まれるので米(玄米)であろうと思われるが、粟米については解釈が分かれている。字だけ見ると「粟」のようだが、程度の落ちる米という解釈もある。個人的には、粳米の値段と粟米の値段とが必ずしもリンクしていないように思われるので、混ざりもののある米(米の比率によって価格が異なる)と考えるがどうだろうか。

これらの表現をみて見当がつくのは、円仁が「米一斗100文はべらぼうに高い」と思っていることである。一斗は18リットルだから、重さに直すとほぼ15kgである。そして、100文はさきほどの日本レートで換算すると1000~2000円。5kgあたり333~666円という計算になる。一方、揚州の一斗70文だと5kgあたり240~480円。これが普通の値段ということになる。

当時と現在では貨幣価値が違うし、GDPも違うけれども、少なくとも「桁違い」ではないような感触である。いま日本の年間一人当たりGDPは約3万ドルだが、中国は約8千ドルだし、貧富の差を考えればこの半分の収入で暮らしている人間は山ほどいる。発展途上国では3千ドルを下回るところなど珍しくもない。

そして、時代は1200年前である。年0.5%の経済成長があったとして、1200年経つと経済規模は300倍以上になる。そう直線的に伸びることはないしても、巡礼行記の値段を10倍するくらいが、現代のわれわれの感覚に近いだろうと考えていいように思う。

つまり、米1斗100文は単純に換算すると1000円~2000円で、物価・インフレ率を勘案した現代の感覚では1斗1~2万円に近く、5kgに直すと3,333~6,666円となるから、なるほどこれだと高いと感じる金額である。

そして、もともと米一石は成人男子が1年間に食べる量で、一貫文は米一石が買える金額だったので、米一斗(=1/10石)は80文くらいで買えないと高すぎるということになる。あるいは、このあたりが円仁の金銭感覚だったのかもしれない。

つまり、昔と今の経済規模の違いやインフレ率を勘案すると、一文=10~20円という江戸時代の日本の換算レートが唐の時代の中国でもある程度使えるように思うのである。

10.1.6 円仁一行が布施した天台大師法要の費用
そして、当時の貨幣価値と円仁の金銭価格について推察できる記事が巻一、開化三年十一月十九日以降の記事に書かれている。

為宛廿四日天台大師忌日設斎以絹四疋綾三疋・・・売買得六貫余銭。
二十四日の天台大師の忌日の法要費用に充てるため、絹四疋綾三疋を寺に贈る。寺はそれらを売って六貫文(6000文)余りの銭を得た。

この年の六月に日本を出発した遣唐使は、苦しい航海の末ほぼ一ヵ月かかって海を渡り中国本土に到着した。円仁一行は長安に向かう使節本隊とは別れ、揚州にある開元寺に滞在する。この滞在は翌年二月まで続き、その間円仁らはさらに1000kmほど南にある天台山(天台宗の聖地である)に参拝することを願い出るが、結局同僚である円載しか許可されない。

揚州は上海から揚子江を200kmほどさかのぼった場所にあり、漢代から開かれた古都である。ここに唐の地方官が置かれていて、唐招提寺を開いた鑑真もここから日本に渡った。開元寺は揚州では一、二を争う大きな寺で、円仁一行以外にも多くの僧が滞在していた。

さきに述べたように、銅銭が1000文(一貫文)を超えると重いので、銭貨の代わりに用いられたのが繊維製品であった。絹一疋≒銭一貫文の交換レートが、ここでも確認できる。さて、この6000文、仮置きでは1文=10~20円で6万円から12万円と考えたが、この金額でどの程度のことができたのだろうか。

廿四日堂頭設斎衆僧六十有余。
二十四日になった。法要には各寺から僧が60人余り集まった。

また、この文に続く部分では、「供養の食事会を開くときには、費用の一部を別に残しておき、集まった僧の数にしたがってそれぞれの僧に30文、その法要で特別の役割のあった僧には400文というように銭を分け与える」とある。これを勘定に入れると、6000文のうち供養の食事(斎)に4000文、僧への謝礼に2000文余りという数字が出てくる。

まず2000文余り(役僧400文、参列僧30X60=1800文)について考えてみる。1文10~20円で換算すると各僧へ300~600円、役僧に4000~8000円となる。この時代、おカネをもらっても使う商品もそうそうないし、30文あれば五升くらいの米が買える。いわば半月分の食い扶持である。このくらいの額でおかしくないとみるがどうだろうか。

現代の感覚からいうとこれは少ないが、当時は車もないのでガソリンも使わないし、そもそもお坊さんに来てもらうと何万円+お車代を包むという現代の感覚の方がおかしいともいえる。そうした要素、物価の違いやインフレ率、価値観の違いを含めると5~8倍の違いがあるようであるが、貨幣価値の違いと価値観の違いは別に考えた方がいいような気がする。

供養の食事は一人およそ60文ということになる。単純換算では600~1200円となり、現代でいうとホカ弁より少し上くらいの見当だが、当時でこの価格だとかなり豪勢な食事だったのではないかと思う。上にあげた謝礼の相場観(5~8倍)からすると、現代でいうところの1万円くらいになり、ちょうど今日の法事に近い費用ということになる。何が出たのか円仁が書き残していないのが残念だ。

繰り返しになるが、1文=10~20円という日本の江戸時代の換算レートが、平安時代の遣唐使に同行した円仁にも案外通用するようである。とりあえずはこのレートを仮置きし、単純換算ではその値を使用し、物価の違いやインフレ率を勘案した現在の感覚は別に考察する(上の例ではさらに5~8倍といったあたり)という方法をとることとしたい。

以下では、この換算レートをもとに、巡礼行記の特にカネ絡みの記事について、さらに考察してみる。

[Mar 31, 2017]