国宝・稲荷山鉄剣
埼玉・稲荷山古墳から出土した鉄剣で、近年になってX線撮影により銘文が彫られていることが分かった。この中に「ワカタケル大王」と書かれており、雄略天皇を指すという説もある。出典:埼玉県立さきたま史跡の博物館ホームページ

3.2 古事記の主人公

3.2.1 古事記下巻はオオサザキ王一族滅亡までの物語

古事記は上・中・下の3巻に分かれていて、それぞれの長さはほぼ同じである。上巻はいわゆる「神代(かみよ)」の話で、国作りの話から始まって、岩戸隠れ、因幡の白うさぎ、ヤマタノオロチ、海幸・山幸など日本神話の原型がまとめられている。

この巻に表題をつけるとすれば、「イザナギ・イザナミと子孫の神々」が適切であろう。アマテラスもスサノオもオオクニヌシもそれぞれ重要な登場人物であるが、そもそもイザナギ・イザナミの夫婦神が国土や子孫の神々を生み出さなければお話にならない。

中巻は、イワレヒコが九州・日向を出発して奈良・橿原に初代天皇として即位し、後継の天皇により近畿をはじめ周辺各地に勢力を広げていく話である。この巻に表題をつけるとすれば、「イワレヒコと子孫の天皇たち」ということになる。

ちなみに古事記時点では、現在の「漢風諡号(かんふうしごう・中国風の天皇号)」はない。イワレヒコは通常、神武天皇と呼ばれるが、古事記ではその名では呼ばれていない。したがって今回の考察においても原則として古事記に表記されている名前を使うこととしたい。

では下巻はどうかというと、まず最初に来るのはオオサザキ王の話である。この大王(天皇)が行ったことといえば、「民家から炊事の煙が上がっていなかったのを見て、租税を3年間減免した」くらいである。上巻でイザナギ・イザナミが日本列島を作り、中巻でイワレヒコが九州から遠征し初代天皇として即位したのと比べると、全くスケールが小さい。

では、近くの世代に存在感の大きい天皇がいなかったのかというと、そういう訳ではない。というのは、オオサザキ王の父とされるホムダワケ王は九州から進出して近畿中心部を攻略したという功績がある。のちに応神天皇とおくり名され、現代でも全国に残っている「八幡神」(○○八幡)というのはこのホムダワケ王なのである。

そもそも、漢風諡号と呼ばれる○○天皇というおくり名は奈良時代に最初に用いられたものであるが、古代の天皇の中で特に重視されているのが「神」がおくり名に含まれる天皇、つまり神武天皇、崇神天皇、応神天皇のお三方であるというのは、多くの研究者の認識が一致しているところである。

だから、後の時代への功績ということを勘案するのであれば、先代の応神天皇、ホムダワケ王から下巻になっていなければおかしい。そもそも、上巻のイザナギ・イザナミ、中巻のイワレヒコ(神武天皇)とも古事記製作時の天皇(元明天皇)にとって直系の祖先であるが、オオサザキ(仁徳天皇)はそうではないのである。

さらにおかしなことに、下巻の実質的な記事であるオオサザキ王からヲケ王(顕宗天皇)までの話は、この一族が壮絶な内輪もめを続けた末、天皇の位を継ぐ者がいなくなってしまうという物語なのである。



3.2.2 古事記下巻の構成

古事記下巻の記事は、文章の長さと内容から6つに分割することが可能である。すると、それぞれの部分の内容は、以下のようになる。

最初の1/6 オオサザキ王(仁徳天皇)
例の、「租税を3年間減免したら、皇居がぼろぼろになってしまった」記事があるが、それよりも多くの筆が割かれているのは、皇后イワノヒメの嫉妬で女性たちがひどい目に合う話である。

次の1/6 イザホワケ王とミズハワケ王
父オオサザキ王の後を継いだイザホワケ王(履中天皇)は、皇位を奪おうとする弟スミノエ王に焼き殺されそうになる。スミノエ王を討った次の弟ミズハワケ王(反正天皇)が、イザホワケ王を継いで天皇になる。

次の1/6 ワクゴノスクネ王と子孫
ミズハワケ王の後は、さらに弟のワクゴノスクネ王(允恭天皇)が継ぐこととなる。この王の長男で皇太子のカルノ王子は、実の妹ソトオリヒメを妻としたことにより継承権を奪われる。結局父であるワクゴノスクネ王を継いだアナホ王(安康天皇)は、妻の連れ子であるマヨワ王に殺される。

次の1/6 オオハツセ王
マヨワ王を討ち取るとともに、その過程で兄弟、従兄弟を粛清したオオハツセ王(雄略天皇)が、絶対君主として権勢を振るう。

次の1/6 ヲケ王とオケ王、オオサザキ系統の断絶
オオハツセ王に父を討たれてから身を隠していたヲケ王(顕宗天皇)とオケ王(仁賢天皇)が、天皇位を継承する。しかし2人の子孫も次の世代で絶え、オオサザキ王の系統は断絶する。

最後の1/6ヲホドノミコト以下8天皇
その後の天皇位は、オオサザキ王の父ホムダ王の子孫であるヲホドノミコト(継体天皇)の子孫が継承する。これ以降の説話はなく、在位年数、都の置かれた位置、陵墓など簡単な記事しかない。

つまり、下巻の主なキャストはオオサザキ王と孫にあたるオオハツセ王であって、その二人を中心に記事が書かれているといってよい。また、ヲホドノミコトより後の天皇については、ボリューム的にも内容的にも全く重きを置かれていないのである。

そして、上に述べたあらすじだけで内輪もめが多いということが分かるけれども、実際にオオサザキ王(仁徳天皇)の子供である5人の男子のうち2人が殺されており、孫世代に至っては8人の男子のうち6人が殺されている。そして、殺した方もオオサザキ王の子や孫なのである。これは尋常なことではないと思う。



3.2.3 万葉集冒頭の歌の作者、オオハツセ王

この同族争いの経過を、大きく3つの部分でとらえてみると分かりやすい。第一段階はオオサザキ王とイワノヒメの間の子供達同士による後継者争いである。この争いは、最終的にはワクゴノスクネ王(允恭天皇)が後継となることにより決着した。

第二段階はワクゴノスクネ王の子供達(オオサザキ王の孫)と、異母弟(オオサザキ王の子)オオクサカ王による後継者争いである。この争いは、オオハツセ王が他のライバル達をすべて殺したことにより、彼が絶対君主となって終了した。

第三段階は、オオハツセ王の後継者争いである。この争いは、彼の粛清から危うく生き延びて姿を隠していたヲケ王とオケ王が復権して終わった。ヲケ王が、親の敵であるオオハツセ王の陵墓を破壊しようとするが、兄であるオケ王が「先代の天皇だし、親類でもあるのだから」と墓(古墳)の土の一部を掘っただけですませる話が印象的である。

こうして古事記下巻をみてみると、強大な勢力を有した天皇として描かれているのはオオサザキ王ではなく、むしろ孫にあたるオオハツセ王である。

山に登って国中をながめたところ、自分の家(皇居)と同じように大きな家があったので怒ってすぐに火をつけさせようとしたり、自分の供の行列と同じようにきらびやかな行列を見て「生意気だ」とばかりに襲おうとしたら神様(葛城の一言主大神)だったりとか、確かに強大なのだがあまり好意的に書かれているとはいえない。

じつはこのオオハツセ王、わが国最古の歌集である万葉集の、第一巻の最初に掲げられている歌の作者でもある。

籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居(を)れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

かわいらしい籠や串を持って、そこで菜を摘んでいるお嬢さん、あなたはどこの家のどなたですか。私は、この大和の国を支配している者です。この国のものはすべて、私のものです。(だからあなたも、私のものです。)

この歌を、ほほえましいととらえるか、傲慢ととらえるか感じ方はそれぞれであると思われるが、万葉集の四千数百首にのぼる歌の中で最初の歌であるということは重要である。古事記だけみても、この歌より古い時期のものとされる歌も多く残されている。だから当時には、この歌より古くから伝わるものも多かったはずである。

にもかかわらず万葉集がこの歌からスタートしているということは、当時の人々がオオハツセ王に対して、何かしら特別の印象を持っていたということであろう。



3.2.4 オオハツセ王は倭王武という仮説

オオハツセ王はなぜ、当時の人々にとって特別の存在だったのであろうか。その可能性の一つとして、オオハツセ王が倭王武であるという仮説を検証する必要がある。結論からいうと、私はオオハツセ王が倭王武である可能性はきわめて小さいと思う。

倭王武とは、5世紀のほぼ100年間にわたり、古代日本が定期的に中国の王朝(当時南北朝に分かれていたうちの、南朝側)に朝貢していた時代の最後の王で、武以前の4人の王(讃、珍、済、興)とあわせて「倭の五王」といわれるうちの一人である。

武は南朝の宋にたびたび朝貢し、その際に、自分の正統性をPRするために書いた上表文が、以前書いた「昔からわが祖先は、よろいかぶとに身を包み、山川を越えて方々に遠征し、休む暇もありませんでした。東では毛人の国50を征服し、西では衆夷の国66を服属させ、さらに海を北に渡って95ヵ国を支配しました」の文章である。

宋の順帝はこれを受けて、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」に任命したのであるが、「六国諸軍事」のうち倭以外の5国は日本列島でないことに注目する必要がある。つまり倭王武は、朝鮮半島に進出するのに非常に忙しかったはずなのだ。

むしろオオハツセ王が忙しかったのは身内同士の勢力争いであり、中国に使いを送ったり(当時、貢物を持って海を越えていくのは大事業だったはず)、朝鮮半島に進出したりする記事は全くない。自分よりも大きな屋敷の持ち主を襲ったり、女性と浮名を流したり、むしろ「お山の大将」的なお気楽人生とはいえないだろうか。倭王武とオオハツセ王(雄略天皇)とでは、性格が違いすぎるのである。

そして、河内地区にある巨大古墳が仁徳天皇陵(オオサザキ王)であり履中天皇陵(イザホワケ王)であり、また允恭天皇陵(ワクゴノスクネ王)であるとすれば(宮内庁の定めた陵墓指定に疑問点が多いということは、多くの識者が指摘しているとおり)、これらの巨大古墳が作られた時期はオオハツセ王の治世の前後となる。

これらの古墳を作るには百万人・日単位の工数が必要であったとみられる。ということは、一つの古墳を作るのに少なくとも数千人が数年がかりであたらねばならず、その間これらの人々も食べなければならないから、それだけの余剰生産物が必要になる。だとすれば、倭王武のように朝鮮半島に軍隊を送ったり、中国に使いを送ったりする余力があるとは考えにくいのである。

古事記を読んだ印象でも、オオハツセ王にこうした事業を手際よく進めていくような政治力は読み取れず、むしろ父や祖父の時代に築いた財産の上にあぐらをかいた三代目という性格が強く感じられる。現に、オオハツセ王以降、彼の血統はあっという間に滅亡してしまうのである。

ではなぜ、オオハツセ王が倭王武であるという仮説が有力なのかというと、近代になって発見された二つの刀剣、熊本県江田船山古墳出土の鉄刀と、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣、この二つの刀剣に書かれていた銘文がその根拠となっているのである。



3.2.5 稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」は、倭王武ではあってもオオハツセ王ではない

刀剣などの金属製品や、石碑・墓などの石などに刻まれた文章を金石文と呼ぶ。志賀島で発見された金印に記された「漢委奴国王」も金石文である。史記をはじめとする中国の国史、古事記・日本書紀などの日本の古文書は紙に書かれたものが書き写されて今日に伝わっているが、金石文はオリジナルがそのまま現在まで残っている。

鉄はさびてしまうため、古代に製作されたものがそのままの形で残っていることはない。製作当時に金銀でその由来等を刻んだものがあるが、それもさびてしまった状態で読むことはできない。これが読めるようになったのは近代においてX線撮影による分析が可能となったからである。

1968年に埼玉県稲荷山古墳で出土した鉄剣に、修理・分析した結果115字の銘文が確認されたのは1978年のことである。ここには、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」が天下を治めた時、それを補佐した「乎獲居臣(ヲワケ大臣)」がこの剣を作った、と書かれている。

この発見により、明治時代に発見された熊本県江田船山古墳出土の鉄刀に書かれていた銘文の「獲×××鹵大王」(×は破損して読めない)も、ワカタケル大王と読むのではないかということになった。そして、オオハツセ王のフルネームも、オオハツセ・ワカタケルノミコトと古事記には書いてあるのである。

稲荷山古墳の鉄剣も、江田船山古墳の鉄刀も、古事記が書かれた7~8世紀には地上にはない(副葬品として古墳に埋められている)から、これらの金石文を参考として古事記が書かれたということはない。だから、オオハツセ王の権力は、関東にも九州にも及んでいたという主張がなされているのである。

ただ、これにはおかしなところがあって、第一に、古事記におけるオオハツセ王の称号は「ミコト(命)」または「スメラミコト(天皇)」であって、「大王」とは書いていないこと。第二に、オオハツセ王の表記は最初は単に「オオハツセノミコト」で、途中から「ワカタケル」が追加されていることである。

このことと、前回述べたように余剰生産物(国家予算)を身内の争いや陵墓の建設に充てていたことを考え合わせると、出てくる答えは、倭王武はワカタケル大王だが、オオハツセ王は倭王武ではない、ということになる。おそらく、ワカタケル大王の名前は日本列島全体の統治者として広く認識されていたと思われることから、オオハツセ王と倭王武を混同させようとして、オオハツセ王の名前にワカタケルをわざと追加したのではないかというのが私の考えである。

そこで話は振り出しに戻ってしまうのだが、ではなぜオオハツセ王が古事記・万葉集にみられるような特別の存在なのだろうか。その鍵はやはり、二代さかのぼって古事記下巻の最初の天皇であるオオサザキ王にある。



[Jul 11, 2008]

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