大山古墳
伝・仁徳天皇陵。日本最大の古墳である。仁徳天皇は、オオサザキ王の諡号(おくりな)であるが、古事記に記録されたオオサザキ王の説話と日本最大の古墳は感覚的にストレートに結びつかない。
出典:国土交通省・国土画像情報

3.3 オオサザキ王とイワノヒメの説話が示すもの

3.3.1 オオサザキ王が主人公である不思議

前回まで説明したのは、古事記下巻を上巻(イザナギ・イザナミ以降の神々の物語)、中巻(イワレヒコ=神武天皇とその子孫の物語)と並ぶ物語とみた場合に、不自然な点が多いということである。その理由の一つは、その時代の天皇まで続く話になっていないこと、もう一つは、主人公であるオオサザキ王の子孫が絶えてしまう物語であるということである。

現代に置き換えてみると、その不自然さは明らかである。例えば今上天皇の正統性を書きたいとする。その場合、昭和天皇のことは生々しすぎて書けない(例えば太平洋戦争について書かなければならず、評価が難しい)という事情がもしあったとしても、少なくともほぼ100年前である明治天皇までの記事を収録して、「現代の天皇はこの明治天皇の直系の子孫にあたります」というのが普通に考えられる書き方であろう。

ところが古事記では、ほぼ100年前の推古天皇についてほとんど書かれておらず、実質的な記事はさらに100年前の顕宗天皇(ヲケ王)以前のことになる。これは上の例でいうと、今上天皇の正統性を説明するのに江戸時代半ばの後桃園天皇までで話を終わっているようなもので(第118代後桃園天皇は今上天皇の直系のご先祖にはあたらない)、普通に考えると「なぜ、ここで終わっているのだろう?」ということである。

江戸時代に柳原紀光の編纂した「続史愚抄」は後桃園天皇まで記録されており、六国史の承継記録としては最新のものとなっているが、これはもちろん当時(1800年前後)の皇位について正当性を裏付けるためのものであった。

考えられる理由の一つとして、前章では「オオハツセ王が倭王武だからなのではないか」という仮説を検証したが、説明したようにその可能性は小さい。そもそも、オオハツセ王の説話の中に倭王武であることをうかがわせる記事(中国への朝貢、朝鮮半島への出兵、など)はないのである。

そこで話は元に戻る。上巻はイザナギ・イザナミ、中巻はイワレヒコ(神武天皇)が主人公であるように、下巻もやはり最初に出てくるオオサザキ王が当時の人々にとって大きな存在だったから、下巻の主人公になったのではないかということである。

しかし、古事記に書かれているオオサザキ王の説話は、繰り返しになるが、山に登って国中を見渡したところ、炊事の煙がたっていなかったので租税を3年間減免したという話と、皇后であるイワノヒメが嫉妬深く、お気に入りの女性を近くに置こうとしてことごとく失敗したという話が主なものなのである。あまり、存在感を主張できるものではない。

それでは、その出自に鍵があるのだろうか。

さて、その説明に入る前に一つ注目すべき事項を指摘しておきたい。さきにあげたわが国最古の歌集、万葉集の冒頭の歌の作者はオオハツセ王(雄略天皇)であった。では、万葉集の中で最も作成時期が古い歌は何だろうか。もちろん、「読み人知らず」の歌はいつ作られたか分からないものが多いが、作成時期を明記してある中で最も古いのは、オオサザキ王の時代のものである。

そして、その作者は誰かというと、オオサザキ王本人ではない。それは、オオサザキ王の皇后であるイワノヒメの作った歌なのである。



3.3.2 イワノヒメは万葉集最古の歌の作者

イワノヒメの歌は4首、万葉集第二巻の最初に採られている。

君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

あの方が行ってから、ずいぶんと日がたってしまった。山を探して迎えに行こうか。それともじっとこのまま待っていようか。

リズム感のあるやわらかい歌ではあるが、それでは皇后らしいかというと、そうでもない。一般庶民の歌と言われても、それほどの違和感はない。例えば額田王(ぬかたのおおきみ)の歌のように、「いかにも王家の女性が詠んだ」ものとはちょっと違うように感じる。オオサザキ王の業績にそれほどの存在感がないのと同様、ある意味平凡なのである。

では、このイワノヒメという皇后はどういう女性なのだろうか。古事記によると、葛城のソツビコの娘という。葛城のソツビコの父は、建内宿彌(タケウチノスクネ)である。建内宿彌は、第八代天皇であるクニクル王(孝元天皇)の孫にあたり、後に何代にもわたる天皇の側近として仕えた人物であるが、建内宿彌について書かれているクニクル王の記事をみると、他の天皇と比べて際立った特徴がある。

その特徴というのは、非常に多くの豪族の祖先がこのクニクル王とされているのである。代表的なのは、蘇我氏や阿部氏であるが、他にも膳(かしわで)氏、許勢(こせ)氏、高向(たかむく)氏などなど、古代の重臣であった氏族の多くがこの中に含まれている。

もちろん、それぞれの氏族が由緒正しいことを主張しようとして、祖先が皇室とつながっていると主張することは十分ありえることなので、本当にクニクル王が多くの有力氏族の祖であるとは限らない。しかし、仮にそうでなかったとしても、イワノヒメがそれらの氏族とつながる血筋とされていることは重要である。

というのは、その夫であるオオサザキ王は、九州から進出して近畿地区を制覇したとされるホムダワケ王の子だからである。つまり、ホムダワケ王が近畿地区を征服した後にその子であるオオサザキ王を天皇として任命し、皇后には地域の豪族の出身であるイワノヒメが立ったというのが、オオサザキ政権の成り立ちであることを示唆しているのではなかろうか。



3.2.3 オオサザキ王が暗示している九州統一王権と近畿現地勢力との融和

古事記中巻・下巻の天皇列伝において最もつじつまが合わないのは、初代イワレヒコ(神武天皇)から第13代ワカタラシヒコ(成務天皇)まで近畿に都を置いていたにもかかわらず、第14代のタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の時代に、何の前ぶれもなくいきなり九州に都を移していることである。しかも、第13代まではずっと父から子に天皇位が継承されていたのに、第14代への継承はおじ・おいの関係による継承である。

おそらくこれは、もともと近畿にあった政権が滅ぼされて、九州から進出した勢力が新たな政権を樹立したということである。そして古事記では、神代から連綿と続く天皇位という建前から、伯父・甥の関係としたのではないだろうか。(もともと血族であるという認識もあっただろう)

その進出した王がオオサザキ王(仁徳天皇)の父であるホムダワケ王(応神天皇)である。ホムダワケ王は後に八幡神と呼ばれるが、その本拠地は大分・宇佐神宮である(奈良時代に、和気清麻呂は天皇位を道鏡に譲っていいかどうか宇佐神宮に聞きに行った)。このことからも、ホムダワケ政権が九州にあったことは確実である。

そして、「倭の五王」が中国とやり取りしていたのがこの時期であるとすれば、五王がいたのもやはり九州ということになる。繰り返しになるが、当時の交通事情で九州と近畿、関東を同時に支配下に置くことは難しい。仮に一度は遠征して占領することができたとしても、そこに軍勢をおいたままで元の領地を治めることはほとんど不可能である。九州が何らかの理由で農業も漁業もできなくなるような理由でもない限り、すべての軍勢・住民が近畿へ移り住むことは考えられない。

つまり、占領した後は現地司令官をおいてその地域を支配し、収穫や労働力を必要に応じて徴発するというのが、この時代にはもっとも現実的な支配の方法であるからである。その現地司令官がホムダワケ王の子であるオオサザキ王であり、それまでの支配者(天皇)に仕えてきた豪族たちも結局その支配を受け入れることになったとすればつじつまが合う。オオサザキ王とイワノヒメの説話が示しているのは、その体制が意外とうまくいった、ということではないのだろうか。

古事記に書かれている、オオサザキ王が租税を3年間免除したという説話は、新政権の人気取り的な要素があったのかもしれないし、オオサザキ王がイワノヒメの顔色をうかがっていたという説話も、新政権が豪族たちとの融和を図ったということを暗示しているのかもしれない。豪族たちにとって、たとえ支配者が代わろうとも、自分達の言い分がより通りやすい方がいいに決まっている。

しかし、その政権も、結局は激しい内輪もめの末に自滅することとなった。そして後継の天皇は、再びホムダワケ王の子孫、つまり九州系統から指名されることとなった。おそらくその頃から、政権はより中央集権的、つまり天皇の権限が強まる方向に進んだと考えられる。だから、近畿の豪族たちにとって(彼らが記紀の原資料を作り、編纂したのである)、オオサザキ王の時代は「古き良き時代」として記憶されることになったのではないだろうか。



[Jul 11, 2008]

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