隋の版図
隋は数世紀ぶりに統一王朝となったが、運河建設(赤線部分)や高句麗遠征で国力を急速に衰退させた。高句麗と関係が悪化した結果、東夷の国々とは「以後途絶」となった。出典:Wikipedia

4.3 隋と倭国との交渉

4.3.1 隋書にある倭国とは九州

前回まで、隋書に書かれている倭国の記事について本文に沿って検討してみた。気候風土や産業については魏志倭人伝の記事と同様の記載であり、冬でもかなり暖かいこと、漁業が主たる産業であることが述べられている、したがって、大和ではなく九州のことを書いたとみる方が妥当である。

また、阿蘇山についての記事があり、噴火による災害を恐れる人々が山を神として祀っていることがうかがわれるが、阿蘇山はカルデラ式火山で富士山のような独立峰ではなく、九州に住む人々以外には身近に感じられるものではない。ましてや倭国の都が遠い大和にあるとすれば、阿蘇山は見ることさえできない。

これらの記事を読む限りにおいて、隋が交渉相手にしている倭国は九州北部ないし中央部に政権基盤を有すると推定されるのだが、そう仮定するとそれ以外の隋書の記事と矛盾するだろうか。以下では、隋と倭国の交渉の経緯について詳しくみてみることとしたい。

大業三年(607年)、倭王アマ・タリシヒコは朝貢の使者を派遣してきた。使者はこう言った。「海の西にいらっしゃる菩薩天子が仏法をさかんに興しているとお聞きし、教えていただくため修行者数十人を連れておうかがいいたしました」

隋と倭国の交渉に関する記事は、ここから始まる。倭国の使者が前回隋を訪れたのが開皇二十年(600年)だから、それから7年後のことである。日本書紀によれば、この時代の大和朝廷の主は女帝・推古天皇。

もし大和朝廷が隋に使者を送るとすれば、倭王を名乗るのは推古天皇ということになるが、推古天皇も摂政・聖徳太子も、大臣・蘇我馬子もアマ・タリシヒコないしそれに近い名前を持っていない。だから、ここでの最も常識的な判断は、ここで隋と交渉している倭王は、大和朝廷とは関係ないということになる。

(推古天皇の次の舒明天皇が「タラシヒコ」という和風諡号を持つが、舒明天皇は629年即位、遣唐使を派遣した天皇なので、時代的には少し後になる。)

仏教の日本列島への伝来は朝鮮半島(百済)経由であるから、大和に入る前に九州に入っているのは地理的にみて当然である。また、九州に地盤を有する倭王が、隋に仏教知識の取得のための人員を派遣するのも不自然ではない。

時代はやや下るが、後に唐から鑑真和上が日本に渡ってきた8世紀初め、戒壇(いわゆる僧侶の認定所)が置かれた場所が全国で3ヶ所ある。大和の東大寺、下野の薬師寺、もう一つは大宰府の観世音寺である。この時代すでに、仏教の一大拠点として九州大宰府が含まれているのである。

4.3.2 九州、大和、毛野は古代日本の三大拠点

8世紀に戒壇が設けられた3ヵ寺のうち、東大寺は今日でも残っているが、下野薬師寺、大宰府観世音寺は当時の規模では残っていない。このことについて個人的には一つの仮説を持っている。この3つの寺は、古代倭国における3つの王権を示していて、他の二寺は後ろ盾となる政権の没落によって衰退したのではないか。

日本書紀の中にも、下野に毛野君(ケヌノキミ)、大宰府には筑紫君(チクシノキミ)という豪族の名前が見える。いずれも、古代の豪族から天皇(大和朝廷)に服属した氏族ということになっているが、実は「キミ」という名前に示されているように彼らは「君主」であり、それは隋の時代にも続いていたと考えるのが妥当である。

つまり、隋からみると日本列島イコール倭国であるが、実際には日本列島は、狭義の倭国(九州)、大和(のちの日本)、毛野の3つの実効支配から成り立っていて、そのうち最も強大である倭が日本列島を代表して隋と交渉していたと私は考える。ちなみに、狭義の倭国も、国号をタイ(人偏に妥)国と改めていた形跡がある。

九州のみを基盤とする王が中国と交渉できるかという疑問があるかもしれないが、後に14世紀、明の時代に、中央に朝廷(北朝)と足利幕府がありながら、九州大宰府を支配する南朝の懐良(かねよし)親王が、「日本国王良懐」を明の皇帝から任命された例がある。それより800年前の6~7世紀にそういうことがあっても不思議ではない。

その国書にはこう書いてあった。「日出づる処の天子から、日没する処の天子に、書を送る。お変わりはありませんか・・・。」皇帝はこの国書を見て不快になられ、鴻臚卿に述べられた。「野蛮人の書は無礼である。以後取り次がないように」

有名な部分である。ただし、ここだけ読めば大国・隋の皇帝に向かって対等の関係を主張したということになるが、前後を考えるとやや唐突な印象である。なぜかというと、前段で述べたように、今回の使節は修行僧の教育を依頼するもののはずであり、あえて皇帝を不快にさせて得になることはない。

だからこの国書は、同等の国交を要求したとかそういうことではなく、単に倭王の無知によりこういう文書を送ったと考えた方が、前後の脈絡が通じるのではないかと思っている。

もちろん、相手に失礼であると受け取られるような文書を送るということは、相手を軽んじているということだし、新興国である隋に対して、この機会に対等の立場を主張しようという目論見はあったかもしれない。

しかし、「無礼である」と怒った煬帝に対し、「不注意ですみませんでした」という釈明がない限り、使者や修行僧はおそらく無事に帰れなかったと思われるし、翌年裴世清が使者として倭国を訪れることもないはずである。しかし実際には、日本書紀に何人かの僧が隋で学んだと書かれているし、裴世清の名は隋書・日本書紀の両方に書かれているのである。

そしてその背景として、隋にとって倭国より先に片付けなければならない高句麗という存在があった。この東アジアの全体情勢については、改めて検討することとしたい。



4.3.3 隋書の説明からみると、倭国は九州北部が妥当な位置

翌年、皇帝は文林郎(役名)である裴清(裴世清)を倭国に派遣した。百済より、竹島に渡り、羅国を望み、都斯麻(対馬)国を経て、大海を渡る。東に一支(壱岐)国、さらに竹斯(筑紫)国、さらに東に秦王国に至る。

裴世清の「世」が二代皇帝の実名と重なるので唐の時代に書けなかったことは、以前にも触れたとおり。ここでいう竹島は百済から倭国の途中で羅国(新羅)が見えるというから、いまの竹島ではなく済州島あたりでないと方向が合わない。朝鮮半島東部の鬱陵島もかつて竹島と呼ばれていたが、百済からだと対馬を通り越して半島の逆側になってしまう。

ここで書かれている倭国へのルートは、使者である裴世清の記録をもとにしていると思われ、少なくとも実際に確かめられた航路のはずである。対馬、壱岐、筑紫と順に来て、次の秦王国の所在が不明だが、ここまでの距離感からして、いきなり本州というよりも、九州内と考えるのが適当だろう。私は、筑紫は博多近辺、秦王国は小倉近辺ではないかと考えている。

倭人の様子は華南と似ていて、このことからも中華とは異なる未開地(夷州)であるといえる。このことは疑いようがない。さらに十数国を経て倭国の海岸に達する。筑紫国より東の国々は、すべて倭に属する。

倭人の風俗が華南に似ているということは魏志倭人伝にも記載がある。古代の中華は黄河流域が中心で、華南つまり揚子江より南は未開の地であった。香港も広州も、先進地帯となったのは大航海時代以降である。ここで隋書では、東南アジアの漁民が黒潮に乗って北上してきたのが倭人であると考えており、いずれにしても未開地であり蛮人であるという判断である。

「秦王国から十数国で倭国の海岸に達する」とある。もしアマ・タリシヒコが聖徳太子であるとすると、少なくとも難波あたりでなければならないが、この時代の「国」は人口千人程度の大集落である。対馬、壱岐、博多、八幡・小倉あたりがそれぞれ一国であるとすれば、十数国で大和まで達するのは少々難しそうだ。

上陸地である筑紫から東に向かい、千人程度の集落を十いくつ経由するとすれば、門司から苅田(かんだ)、行橋(ゆくはし)、豊前、中津あたりから九州北東岸を経由して宇佐、別府、大分あたりがアマ・タリシヒコの本拠とみるのがむしろ妥当ではないかと思われる。

このあたりが倭国の首都でおかしいかというと、そうでもない。八幡神として信仰を集める応神天皇を祀っているのは宇佐八幡宮である。応神天皇が実際に近畿一円を治めたとみられるオオサザキ王(仁徳天皇)の父であること、のちに和気清麻呂が道鏡事件でここ宇佐八幡宮に神託を伺いに来たことを鑑みれば、ここが統合倭国の首都であった可能性は十分にある。

倭王は小徳の位にあるオオダイ(阿輩台)を出迎えに派遣した。数百人の従者を整列させ、太鼓を叩き角笛を鳴らして使者を歓迎した。十日後、大礼の位にあるカタヒ(歌多比)と二百余の騎馬隊に伴われて、王宮へと向かった。

倭国の身分制度については、前段ですでに触れられている。十二ある階級の中で、小徳は上から2番目、大礼は7番目である。おそらく、オオダイは王族あるいは大臣級、カタヒは騎馬隊長あたりの人物だったかもしれない。

ここで初めて歓迎の使者及び引率者について書かれているということは、逆に考えると、ここまでは(案内人はいたとしても、)中国側の船と人で来たということになる。瀬戸内海はかなり後の時代まで海賊(水軍)がいた地域である。隋の使者が未開地(夷州)である倭国の奥まで単独で進むとは考えにくく、その点からも倭国海岸は九州北岸と考えるのが自然である。



4.3.4 裴世清遣使の趣旨は国書事件の事後処理

倭国王は大使・裴世清と会って、大いに喜びこう言った。「大海の西に大国隋があり、礼儀を重んじるとお聞きし朝貢の使者をお送りした。私は辺境に住む未開人なので礼儀を知らず、お伺いすることができなかった。今回、道を整え館を飾り、貴下をお迎えできるのは光栄である。ぜひ、お教えいただきたい。」

さて、ここの問答について忘れてはならないのは、裴世清が来る前年の大業三年、前回説明した「日出る処の天子」の国書を読んで、煬帝が激怒したことである。だから、この倭国王の言葉もそれを踏まえて理解すべきである。

つまり、国書に対する叱責の意思表示が事前に隋から倭国に対してなされており、その後に使者である裴世清が倭国に向かったと考えるべきである。皇帝が怒って「以降取り次ぐな」と言った相手に対して何の咎めだてもせず、普通に使者が訪問するなどということは考えにくい。

だから、ここの倭国王の返答の中で、「礼儀を知らず、お伺いすることができなかった」というのは、「大変失礼な手紙をお送りしたけれども、私は礼儀を知らない未開人(原文では「夷人」)なのでお許しいただきたい」という意味で理解しないと、前年の記事との整合性がとれない。

そういう意味で倭国王の発言を理解しないと、裴世清の次の発言の意味もよく分からないことになってしまう。

裴世清はこう答えた。「皇帝の徳は並ぶものはないくらい高く、四海(世界)に及んでいる。辺境の王はいずれも皇帝の徳を慕う。だから今回この国を教え諭すため、私(裴世清)を遣わしたのである。」そして、裴世清は館に迎えられた。

裴世清が倭国に遣わされた趣旨は、「教え諭すため(原文では「宣諭」)」とはっきり書かれている。何を教え諭すためかというと、無礼な国書など送らないよう、礼儀作法を心得よということであろう。

つまり、前年の国書事件について、倭国王アマ・タリシヒコが遺憾の意を表明し、これに対して大使・裴世清が「皇帝の徳は絶大である」と懐の広いところを示したのが、大業四年の裴世清遣使の大筋ということになる。

これについて、過去に書かれているいくつかの注釈書(教科書も含め)をみると、倭国王(聖徳太子?)が日本の立場を主張し、裴世清はそれに納得して帰ったなどという解釈がなされているものが多いが、隋書をどう読めばそういう解釈ができるのか不明である。(その背景には、日本書紀と整合性がなければならないという前提がある)



4.3.5 「以後遂絶」はその後の隋滅亡による表現

そして、つぎの文が隋書東夷伝のラストとなる。

後に、倭国王は人を遣わして、裴世清にこのように述べた。「皇帝のご命令はすでに実行しました。気をつけてお帰りください。」そして、裴世清一行のため盛大な宴を設けるとともに、多くの貢物を用意した。その後、国交は絶えた。

最後の部分で、疑問となる点が2つある。一つは、倭国王の了承した「皇帝のご命令」とは何かということ、もう一つは、円満に解決されたにもかかわらず、最後の文章「その後、国交は絶えた(原文:以後遂絶)」が唐突ではないか、ということである。

最初の疑問については、常識的に考えるとある程度の推測は可能である。国書の不手際を認めたのであるから、おそらくは関係者の処罰、再発防止策の具体的な提示、賠償(朝貢)といった要求があったと考えられる。そしてこれらについて、隋の要求に添った対応がなされたことから、「すでに実行しました(原文:朝命既達)」という回答となったのであろう。

二番目の疑問は、ここだけ考えると確かに不審である。しかし、倭国伝だけでなく東夷伝全体を読むと、その理由が分かる。というのは、「以後遂絶」は倭国の記事だけに書いてあるものではなく、高麗(高句麗)、百済、流求(琉球)の記事にも同様の表現があるからである。

百済伝の表現を借りれば、「後天下乱、以後遂絶」、つまり、天下が乱れて隋が滅亡に向かったので、それ以降の交渉はないということである。隋が裴世清を倭国に送ったのは西暦608年、隋の滅亡は618年、その間10年しかない。そして、隋が滅亡した大きな要因は高句麗遠征の失敗であり、この遠征の第一回は612年に行われている。

高句麗は現在の北朝鮮の位置にあり、当時、隋から倭国に向かうには高句麗を経由しなければならなかった。東シナ海を横断するルートは、8世紀に鑑真が何度も難破しているように、この時代には安全なルートでなかったのである。だから、隋から朝鮮半島以遠への交渉は、西暦610年あたりが最後となってしまったのである。

つまり、「その後、国交は絶えた」のは隋・高句麗間の関係悪化と、それに続く隋の滅亡によるものであり、608年の時点で隋と倭国との関係が修復されたこととは必ずしも矛盾しないのである。


[Apr 14, 2016  v2.0   original Dec 31, 2008]

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