竪穴式住居
倭国の一般住民の住居は、縄文時代から続く竪穴式住居に近いものであったと思われる。出典:IPA「教育用画像素材集」

4.4 日本の家族制度はどこからきたか

4.4.1 日本と中国・朝鮮半島の近親婚における違い

ここまで隋書・東夷伝の倭国に関する記事の内容を、原文に沿って現代語訳してきた。その中で述べたとおり、いくつかの点で「倭国=大和朝廷」という通説どおりに理解するのは難しいというのが私の考えである。

改めてその理由を繰り返すと、第一に倭王「アマ・タリシヒコ」の人物像が、当時の大和朝廷の主とされる推古天皇・聖徳太子らと全く一致しないこと。第二に、船旅の航路や阿蘇山の記載から、隋使・裴世清の向かったのは九州であるとみられること。そして三点目は、隋書に書かれている風俗が大和のものではないと思われることである。

その風俗の違いとは、例えば主たる産業が漁業とされていること、多くの人が文身(いれずみ)をしていることなどであるが、ここではもう一つ、家族制度について考えてみたい。

隋書には、倭国において「結婚は同姓の間では行われない」と書かれている。一方で大和朝廷は、古事記・日本書紀に明らかなように近親間の結婚にきわめて寛大である。なにしろ、当時在位していた推古天皇は、異母兄・敏達天皇の皇后なのである。

古代の中国・朝鮮半島において近親婚は大罪であったが、日本の律令制度にその項目はない。現在でも、韓国では本慣(本籍)の同じ同姓婚は避けられており、近親間で婚姻が制限されているのは日本の3親等に対し、韓国・中国は8親等である。

こうした現代に至る規則・制度の違いや、隋書に書かれている当時の記録を見る限り、隋との交渉のあった7世紀初めの時点で、「中国・朝鮮半島と同様に同姓婚をタブーとする社会(=倭)」と、「わが国独特の風習として、同姓婚に寛大である社会(=大和以東)」があったと考えられるのである。

結婚制度がどのような経緯をたどって今日の形となったのかは、社会学のテーマとしてさまざまな議論があり一概に結論は出せない。ただ、一般論として、規則・制度があったからそれに基づいて社会のルールができたのではなく、明文化されていなくても社会としてのルールがあって、それに基づいて規則・制度ができたのだろうということはいえそうである。

つまり、社会としてのルールなり規範・考え方がもともとあって、それは九州と大和では違っていたということが考えられる。以下では、この違いがどこから生まれてきたのかについて考えてみたい。



4.4.2 近親婚に対する感じ方の違いのルーツは弥生時代以前

最近、DNAによるアプローチの結果、日本人のルーツとしていくつか新しい発見がなされている。従来考えられていた縄文人・弥生人という二分法でなく、日本列島には、さまざまな時期にいくつかの経路から人口流入があったらしい。

南方由来の「縄文人」といわれる系統と、北方由来の「弥生人」といわれる系統が合わさって、現在の日本人が形づくられている大筋は認めてもいいだろうと思う。しかし、「弥生人」だから弥生時代にのみ流入したとは限らない。北方由来集団の日本列島への流入は古くは1万年前というから、縄文時代前期から始まっていたらしいのである。

かつては、縄文人は縄文式土器と同様1万年以上前から日本列島に住んでおり、弥生人は弥生式土器とともに紀元前後(約2千年前)に日本列島に入ってきたと考えられてきた。この連載でも、2~3世紀の倭国大乱は、朝鮮半島以北からの民族大移動に伴うものという仮説を述べてきたところである。

しかし考えてみれば、防寒可能な衣服もなく気密性にすぐれた住居もない時代に、できるだけ暖かい土地を求めて移動するというのは、当たり前といえば当たり前の話である。バイカル湖方面に住んでいた人たちが、南へ南へと進み結果的に日本列島に至ったというのは、それほど無理な推論ではない。

だから、弥生時代に大規模な人口移動があったのは確かだとしても、それ以前にも、南方由来と北方由来の系統がともに日本列島に存在したということであり、このことはDNA研究からも裏付けられる。そしておそらく、日本人の社会的ルールの原型ができたのも、1万年前から2千年前にかけての時期なのである。

日本人と中国・朝鮮に住む人たちとは、DNA的にかなり近い。にもかかわらず、「近親婚を厳しく禁じる社会」と「近親婚に寛大な社会」が、紀元6~7世紀にそれぞれ存在する。さらにいえば現代まで、それは続いている。規則や制度が社会的ルールを作るのではなく、社会的ルールに従って規則や制度が作られたと考えると、そうした社会的ルールの起源は弥生時代以前にさかのぼり、民族大移動(倭国大乱)によっても変わることはなかったということになる。



4.4.3 近親婚に寛容な日本の家族制度は縄文人に由来

DNA上は非常に近いと考えられる日本と中国・朝鮮半島で、近親婚に対する考え方が相当違う。その違いが発生した起源は、おそらく縄文時代にさかのぼるのではないかということを述べてきた。

中国・朝鮮半島と日本の違いとしてもう一つあげられるのは、「和の尊重」=「足して2で割る談合文化」=「原理・原則を持たない」ということである(必ずしもすべての日本人がそうだという訳ではない)。これに対して、中国・朝鮮半島の考え方の特徴は、「原理・原則に忠実である」ということである。

こうした考え方の差が、どのようなシチュエーションで発生してきたかを説明するひとつの仮説として、人口密度の低い地域(日本列島)に、縄文時代以降古墳時代に至るまで数千年から一万年という長期間にわたり、一回ごとでは比較的少数の人口が断続的に流入してきたというケースが考えられる。

短期間に多数の人口が流入すれば、それこそ「ゲルマン民族大移動」のように、どちらかがどちらかを征服するという形にならざるを得ない。そのような場合は征服者側のルールが被征服者にも強制されることになるだろう。

一方で、一回ごとの流入が比較的少数であれば、「我々は我々のやり方でやるが、彼らがどうするかには関らない」というように、それぞれがそれぞれのルールで共存する形になるかもしれない。そしてトラブルが生じた場合、どちらが優位ということはないので「お互いの顔を立てる=足して2で割る」解決が図られることになる。

結婚制度に話を戻すと、「近親婚に厳格である」社会ルールが成り立つためには条件がある。ひとつはある程度以上の人口と人口密度を有すること、もうひとつは誰が誰の親族か遠い親戚まで把握できるくらい、定住性の高い社会であることである。

ちなみに、私の場合親戚として把握できるのはせいぜい4親等(いとこ)までで、8親等の親戚としてどこに誰がいるのか全く把握していない。現代の多くの日本人がそうであるように、親戚同士が集まって住んでいない(定住していない)からである。

「縄文人」と呼ばれる南方由来の人々は、漁場を求め黒潮に乗って日本列島に来たと考えられている。そのような場合、農業で成り立っている社会と比べて定住性は低く、ましてや現代のように戸籍など存在しないから、遠い親戚をそもそも把握できなかった可能性が大きい。

また、人口の絶対数および人口密度が小さければ、近親婚を厳密に制限してしまうと相手がいなくなってしまうおそれがある。古事記・日本書紀もそうだが日本の民話のいくつかには、もともとこの地域(島)の先祖をたどると一組の夫婦、というパターンがでてくる。二世代目以降は必然的に近親婚でなければ子孫は増やせないのである。



4.4.4 九州北部とそれ以外の立場の逆転がおこったのはいつか

さて、「弥生人」つまり中国・朝鮮半島の文化が、古墳時代以降最も根強く残っていたのはどこかというと、地理的に考えて間違いなく九州北部である。そしてこの連載で何度も主張しているように、九州北部こそ、魏使が訪れた邪馬台国であり隋使が訪れたアマ・タリシヒコの倭国であると考えられる。

だから隋書には、「倭国には同姓婚はない」と書かれているのである。これは、この時代日本列島を代表した九州北部の政権ではそうだということであって、それ以外の周辺地域である大和(近畿)や毛野(北関東)の文化はそうではなかったということである。

そう理解しないと、古事記・日本書紀の記載と隋書の内容の矛盾は解決しない。そして、後の時代の藤原摂関家(平安時代)や室町将軍家・日野家(室町時代)の関係にみられるように、どちらが残ったのかというと同姓婚(近親婚)に寛大な「縄文人」方式であった。

今日の「三親等以内禁止」という近親婚ルールも、もとをたどれば縄文人ルールが弥生人ルールに勝ったということになる。仮に弥生人ルールが勝ったとしたら、中国・朝鮮半島と同様に同姓婚(近親婚)への厳格な運用がなされたに違いない。

話は魏志倭人伝に戻るが、邪馬台国の東南に「侏儒国」があり身長三四尺という記事がある。同じ段落に「裸国」「黒歯国」があるのでフィクションという見方をされることが多いが、この「侏儒国」は実在したのではないか。

身長三四寸(9~12cm)というのであればありえない話として差し支えないが、平均身長150cmの時代に120cmということであれば、全くありえないとはいえない。たまたま遺伝的に身長の低い人が多く、栄養状態が偏ったならば、そういうことがあったのかもしれない。

さて、これまで述べてきたように、隋の時代に至るまでの日本列島を代表してきた政権は九州北部にあった。一方、現代に続く大和朝廷の本拠は近畿である。政治的にも文化的(この章で述べた結婚制度だけでなく、刺青の有無など風俗を含めて)にも、今日に残っているのは大和朝廷のものである。

だとすれば、どこかで九州北部と近畿の逆転が起こったはずである。私はその分岐点が、西暦663年の白村江の戦いではなかったかと考えている。以下では、この仮説について考えてみたい。



[Feb 26, 2009]

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