談山神社
京都・大津方面になじみの深い天智天皇であるが、蘇我氏打倒の陰謀を中臣鎌足と密談したのは、奈良県南部多武峰(とうのみね)、現在の談山神社であったとされる。十三重塔と紅葉で有名。出典:(個人撮影)

5.5 実像の天智天皇

5.5.1 天智天皇が戦争責任を追及されなかったのはなぜか

西暦663年、白村江河口の海戦において倭軍は壊滅的な敗戦を喫し、支援していた百済は滅亡した。この結果、朝鮮半島南部(現在の韓国)は新羅の支配するところとなり、新羅と唐の同盟軍に挟み撃ちされる形となった高句麗も、5年後に滅亡することとなる。

前節で説明したように、この時代の東アジア、特に朝鮮半島の情勢は、「唐・新羅連合」対「高句麗・百済・倭国連合」の勢力争いであった。この争いが唐・新羅連合軍の完勝に終わったということである。

だから、敗戦国である百済・高句麗は国自体が消滅してしまった。問題はなぜ、日本だけが国として存続し、かつ、戦争時点で国家元首であり軍最高司令官でもあるはずの天智天皇が敗戦後も国家元首であり続けることができたのかということである。日本書紀には、この点について納得できる説明がなされていない。

天智天皇については、もう一つの疑問がある。この章の初め(5.1 虚像の天智天皇)に書いたように、日本書紀に書かれている内容をよく読んでみると、天智天皇の業績に特筆すべきものはない。大化の改新はあってもなくても大勢に影響はなく、国力を傾けた百済支援は白村江の大敗によって、投下した兵力・武器・兵糧、つまり人材と資本をすべて失ったのである。

にもかかわらず、平安時代以降の天皇はすべて天智天皇の子孫であり、藤原氏も天智天皇の血筋である、という記事もあるくらい、後の世において天智天皇は特別視されているのである。

本来であれば、天智天皇を「戦争責任者」として連行してもおかしくない唐・新羅も、日本書紀を見る限り丁重な態度であるし、実際に戦争責任を問題にしていないことは、遣唐使がほどなく復活し、それ以前にも唐・日本間の交流(捕虜の返還など)があったことからも明らかである。

以上の状況、つまり、日本国内において特別視されていること、かつて戦争した国から責任を問われていないこと、これを合理的に説明するためには、日本書紀に書かれている内容を一度白紙に戻して考えてみる必要がある。

日本書紀の記事がないとすれば、これらの事実を最も合理的に説明できる事実は以下のようになるはずである。

1.唐・新羅と敵対した倭国の国家元首は、戦争責任をとらされている。つまり、天智天皇とは別人である。

2.天智天皇の最大の業績は、「倭国」から「日本」へ、日本列島を代表する政権を移したことにある。

3.唐・新羅が天智天皇の「日本」を優遇したのは、白村江の戦いに参加しなかったからである。つまり天智天皇は、白村江以前から唐・新羅と内通していた。

以下では、これらの仮定が前後の事実関係と矛盾するかしないかを考察してみたい。



5.5.2 白村江以前の日本列島を代表したのは、九州倭国

倭国から日本への政権の移動が起こったと仮定すると、まず解決するのが旧唐書(くとうじょ)の記載である。

唐の国書である旧唐書には、倭国に関する記事と日本国に関する記事が並立している。倭国は、かつての邪馬台国であり、さらに遡って後漢の時代に朝貢した倭奴国である、とされており、一方日本国は、「倭国の別種」とはっきり書かれている。常識的に考えれば、日本列島の中にある別の国ということになる。

さらに、一説として、「日本はもともと小国であったが、倭国を併合した」とある。一説とはいえ、国書に書かれている以上は単なるうわさ話ということは考えにくく、それに類する事実の裏付けがあったと考えるのが自然である。

そして、さきの仮定(白村江の戦いの戦後処理により、倭国から日本国に代表政権が移った)を置くと、まさにこの旧唐書の記事はそのまま事実ということになる。そして、敗戦国は国の滅亡という形で戦争責任をとらされることが多いという国際関係の常識にも、非常によく合致するのである。

これらの仮定を否定する材料は一つだけである。それは、「日本書紀にそう書いていない」ということである。逆に言うと、日本書紀がなければ、旧唐書をもとにこの仮定の方が通説となっているべき、前後の事実関係と非常につじつまの合った仮定なのである。

逆に、日本書紀の制作者の側の事情を考察すると、そもそも書紀の大前提は、「万世一系の天皇家が、日本列島を代表する唯一無二の政権である」ということだから、天皇家以外の政権があったとしても「なかった」と書かなければならない。中国の史書を読めば天皇家ではない政権が歴代王朝に朝貢しているのは明らかなのに、それらの政権については書くことができないのである。

そして、天皇家以外の政権はなかったという前後のつじつまを合わせるためには、前世代の政権(具体的には九州の倭国)から日本列島の支配を奪った天智天皇の最大の業績を、そのまま書くことはできなかった。だから、大化の改新については過大評価するし、後の時代にも特別視されているということではないだろうか。

日本書紀に関してもう一つ不自然なのは、なぜ政治的実権が天武天皇の血統に移ったにもかかわらず、それでもあえて天智天皇の業績が強調されているのかということである。

天武天皇は天智天皇の実弟であると日本書紀には書かれているが、これはきわめて疑わしいとされている。天武天皇の年齢があえて不明とされているどころか、後代の記録によると天武天皇の方が年上なのである。言うまでもなく、年齢が上の実弟などということはありえない。

なぜわざわざ、天武天皇を天智天皇の実弟と書かなければならなかったのか。このことも、さきの仮定を置くと、合理的な説明が可能なのである。



5.5.3 「日本」の代表は、なぜ天智天皇の血筋である必要があるのか

天智天皇と天武天皇が実の兄弟ではないとすると、なぜ日本書紀はわざわざ「嘘の系図」を示さなければならなかったのか。このことを考える上で参考になるのは、およそ900年後、琉球王国が明国に対して行った政権移動後の説明である。

琉球を統一した尚巴志(しょう・はし)に始まる第一尚氏の血統は、もともと家臣であった内間金丸(うちま・かなまる)によって滅ぼされる。その際、すでに「中山王(ちゅうざんおう)」として第一尚氏を認めていた明国との摩擦を避けるため、金丸はわざわざ尚円と名乗り、第一尚氏の血縁者として琉球王と認められたのである。

900年後でさえそうなのだから、白村江の時代にはそうした操作がさらに必要とされたであろうという推定が成り立つ。つまり、唐・新羅にとって天智天皇が同盟者であるので、その後継者は天智天皇から正当に譲位された王でなければならない。天武天皇もそう思ったから、あえて天智天皇の同母弟で後継者というストーリーにしたのではないか。

そして、なぜ唐・新羅にとって天智天皇が同盟者なのかというと、それはまさに軍事的激突となった白村江以前から、天智天皇が同盟者であったと考えなければ説明がつかない。はっきりいうと、百済・高句麗と同盟して唐・新羅と対抗するという当時の倭国全体の方針に反して、天智天皇が唐・新羅と内通していたということである。

もし、天智天皇が白村江当時の国家元首で最高司令官であるとすれば、その後に壬申の乱で天武天皇系に実権が移動した際、天智天皇の業績を過大に評価する必要はない。なぜなら、唐・新羅にとって、かつて敵対した政権が崩壊したことは喜ぶべきことであって、あえて疑問をさしはさむ必要など一つもないからである。

実は、天武天皇が天智天皇の正当な後継者と主張している日本書紀にも、言わずもがなの記事が書かれている。671年に天智天皇が崩御、翌672年に壬申の乱が起こり、天武天皇が勝って皇位を継承するが、その際、九州まで来た高句麗・亡命政権(高句麗は668年に滅亡している)の使者に対し、天武天皇は変なことを言っている。

大宰府長官より、高句麗の使者に対しこのように伝えた。「天皇は新たに天下を平定された。祝賀使の他にはお会いにならない。このまま、お帰りいただきたい。」(日本書紀・天武天皇 下)

新たに政権を取った天武天皇に対し、祝賀の他に何の目的があって、高句麗の使者はわざわざやって来たのだろう。これも、唐・新羅と親しい天智天皇の政権が倒れたので、新政権に対して高句麗復活に向けた協力の打診を目的として九州まで来たと考える以外に、納得できる理由が見当たらないのである。



5.5.4 天皇という称号は、天智天皇以前にはなかった

そもそも、白村江以前に、日本列島の国家元首が「天皇」と名乗ったという証拠は、日本書紀以外に何もない。かつては「倭王」であり、本来なら当然そう名乗っているはずの遣隋使の時点でも、国王アマ・タリシヒコの名乗りは「オオキミ(王)」である。万葉集に載せられている和歌を見ても、天皇と書いてあるのは添え書き(説明文)だけなのである。

鎌倉時代に編纂された「釈日本紀」には、神武天皇から始まる漢風諡号は、淡海三船(おおみのみふね)によるものと書かれている。これには異論もあるが、三船は天智天皇のひ孫だから、少なくとも天智天皇の時代には天皇という名乗りはされていなかったということである。

これらのことから、白村江前後の真相を推理する。まず最初に、百済・高句麗と同盟し、白村江に大軍を派遣した倭国は、九州・倭国(遣隋使のアマ・タリシヒコの国)と関東・毛野国が中心で、大和政権はあまり協力的でなかったということである。

大和朝廷の立場からすると、これは内通というよりも、朝鮮半島の情勢を唐・新羅有利と考えて、白村江以前からそれに向けた対応をしていたということであろう。唐・新羅サイドからみるとこれは願ったり叶ったりである。白村江に進軍した倭国にとって、前も後も敵になるからだ。

当然、新羅を通じて唐にその意向は伝えられていて、唐が朝鮮半島を制圧した後は、半島には新羅、日本列島には大和朝廷という親・唐政権が樹立され、いわば唐の属国となるはずであった。実際にそうならなかったのは、白村江の戦い直後から、唐の内乱が始まったという要因によるところが大きい。

さて、白村江の敗戦により百済は滅亡し、倭国も壊滅的な打撃を受けた。九州に本拠が置かれていた倭国支配層の多くは、戦死したり捕虜になったりしたのではないか。

そして、唐の後ろ盾により全権を把握した天智天皇がまず行ったことは、旧・九州倭国に対しては防衛拠点の整備という大規模な土木工事、旧・関東毛野国に対しては、国境警備という名目の軍隊派遣を命令することであった。

ただでさえ、白村江への人材・物資の派遣(経済的負担)と敗戦による打撃(軍隊の壊滅)により疲弊していた九州・関東は、この追加負担により致命的な打撃を受ける。天智天皇側から言わせれば、「あなた方が進めた戦争なのだから、後始末までちゃんとやってください」ということだったと思われるが、命令される側はたまったものではない。

そしてこのことが、壬申の乱の大きな原因になったのではないかと思う。結局のところ、天智天皇はやり過ぎたのである。



5.5.5 水城と防人はなぜ九州・関東の負担なのか

いうまでもなく、九州に命じた土木工事とは水城(みずき)など防衛拠点の整備であり、関東に命じた軍隊派遣とは防人(さきもり)である。天智天皇サイドからすると、九州まで唐・新羅が攻めてくる可能性はほとんどないと分かっていたはずだが、国内的にも内通していたことを明らかにできなかったということもあるだろう。

そして、もう一つの戦後処理として、旧百済、旧高句麗の難民の問題がある。百済・高句麗は敗戦により国土を失ったので、支配層の多くは倭国に逃亡を余儀なくされた。そして、日本書紀にも記載されているし、現代にも高麗川という地名が残っているように、多くは東国、つまり関東毛野国に入植させたのである。

白村江で遠征隊が壊滅し、大和朝廷と対抗することが難しくなった九州倭国と関東毛野国は、これ以降歴史の表舞台からは姿を消す。こうして天智天皇は、日本列島を唐の軍事的侵略から守るとともに、近畿の一勢力にすぎなかった大和朝廷を日本列島を代表する政権として確立することができた。

このことが天智天皇にとって、表向きには書くことのできない大偉業となったのではないか。なぜ書くことができないかったかというと、「万世一系」、つまり天皇家が唯一無二の政権だという建前が一つ、もう一つには本当のことを書けば、白村江の敗戦により多くの犠牲を出した側からみれば「裏切り者」と映ることは避けられないからである。

もちろん当時はマスコミもインターネットもないので、そうしたことを一般庶民が知ることはできなかった。そして、後に日本書紀が編さんされると、これだけが公式かつ記録された事実ということになるのである。

とはいえ、支配層にとっては、そうした事実のあらましは分かっていた。特に、大和朝廷の中でも旧・倭国に近い人達、つまり九州、関東、さらに百済・高句麗の人脈につながるグループにとって、親しい人達を白村江で見殺しにした上に、戦後処理の名目で多大な人的・物的負担を強制する天智天皇への反感は高まっていたはずである。

これらの事実を暗示的に示しているとみられることがある。天智天皇が都とした大津京は、後継者である大友皇子(弘文天皇)の陵墓があるように、天智天皇とゆかりが深い土地柄である。平安時代になって、ここには三井寺が置かれた。そして、この三井寺に秘仏として祀られているのが、新羅明神(しんらみょうじん)なのである。

新羅明神の新羅は「しんら」と発音するが、これは朝鮮半島における発音(シルラ)を反映したものとされる。もちろん新羅明神を祀ったのは後世のことであり(最澄の弟子の円珍)、唐での修行から帰る円珍を守護したという伝説が残されているが、それは実は、天智天皇と唐・新羅との関係を暗に示しているのではないか。少なくとも、白村江当時に天智天皇が日本列島全体の代表であったとすれば、新羅は同盟国百済を滅ぼした敵国のはずなのである。実際には天智天皇は唐・新羅と同盟していたのであれば、新羅明神が天智天皇のお膝元にいるのに何の問題もない。

一方、聖徳太子・蘇我氏と縁の深い法隆寺に祀られているのが、百済観音である。大和の旧支配者層にとって、より身近だったのは百済であることを示している。そして、大化の改新といわれる政変の最大の意義とは、この政変を境として、大和朝廷の方針が百済支援から新羅との同盟に舵を切られたことにあるといえるのではないか。



5.5.6 遠の朝廷・九州大宰府

さて、教科書的な歴史では天皇家が万世一系で日本列島の統治者であったはずであるが、これまで説明してきたように、中国の史書や白村江の敗戦処理を常識的に分析すると、天智天皇以前には九州倭国が日本列島を代表する政権であったということになる。改めてその論拠をまとめると以下のようになる。

1.国力を傾けた戦争の時点では国家元首であるはずの天智天皇が、そのままの地位で権力を維持できたというのは疑問である。同盟国の百済・高句麗は、この前後に滅亡している。

2.中国の正史である旧唐書には、唐が成立していた時点で日本列島に「倭国」と「日本国」が並存したと書かれている。しかも、日本国はもともと小国であったが、倭国を併合したとされる。

3.日本書紀には神武天皇以来、「天皇」号が付せられているが、こうした漢風諡号が作られたのは奈良時代で、後の記録では天智天皇の子孫が考えたという。日本書紀以外に、天智天皇以前の大和朝廷支配者が「天皇」を名乗ったという証拠はない。

4.白村江の交戦国である唐・新羅との間で、戦後かなり早くから関係修復がなされている。そして、天智天皇とゆかりの深い大津・三井寺の秘仏は新羅明神である。

さて、これらの事実は、大和朝廷が白村江以前から日本列島を代表する政権ではなかったことを暗示しているとはいっても、九州に代表政権があったことの直接の証拠とはいえないという反論がありうる。確かに、日本書紀以外の古代史の文献はないので証拠はない(個人的には、中国の史書が九州を示しているのは明らかであると考えるが)。

ただ、奈良平城京以前に、九州大宰府に唐の長安を模した都市があったことは一つの根拠といえるかもしれない。この大宰府は平城京より規模は小さいとはいえ、飛鳥板葺宮(天武天皇の都)より相当大きな都市であった(現在の天満宮・観世音寺から二日市あたりまでを含む)。

そして大宰府政庁は、万葉集で「とおのみかど(遠の朝廷)」と呼ばれているのである。通説では「遠方(九州)にある朝廷」と解するが、「みかど」とはもともと御門、権力者の住まいを示す言葉である。大宰府になってからここに天皇が住んだことはなく、「みかど」と呼ぶかどうかは疑問である。むしろ「かつて(倭国と称していた時代)の朝廷」と理解する方が自然ではないかと考えている。



[Oct 18, 2009]

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