老後準備編 後期高齢者まであと10年を切り、いまから準備しておこうと書いています。

いまから10年後を考えて    使わない機能は衰える    老後は社会参加?
老後に見栄は必要ないが    認知症と老人性痴呆    薬は飲まない方がいいと言うが


いまから10年後を考えておかなければ

この春に65歳になった。 かれこれ10年前から、年金生活をつつがなく送るにはどうしたらいいか考えてブログに書いてきた。その甲斐あって、おカネには相変わらず苦労しているけれど、まずまずの生活を送ることができている。

最近思うのは、その頃と同様、これから10年後のことを考えて準備しなければならないということである。65歳で年金が満額出るからひと安心などと油断していたら、すぐに次の問題が出てくるはずだ。

10年後には、「後期高齢者」である。となると、まず心配になるのが老化が進むことである。正直なところ、年とって心身が衰えるのは仕方ないような気もするけれど、かといって日常生活をひとりでできなくなるのは厄介である。

迷惑をかけるのが家族ならまだいいけれど、施設に入ることにでもなれば、私の大嫌いな団体生活である。ボケてしまえば自分では分からなくなるという話もあるが。

まずは情報収集である。このところ、老後に関する本や健康に関する本をよく読んでいる。なるほどと思うこともあれば、それは違うんじゃないかと思うこともある。

医者だの専門家だから間違えないのかというと、そんなことはない。ついこの間まで、バターは動物性だからダメでマーガリンが健康的だとか、糖分がなければ脳のエネルギー源がないと言っていたのである。

自分の頭で考えて、なるほどというものは取り入れるし、そうでないものは却下すべきであろう。ひとの言うことを聞いて心身に支障をきたせば、わが身にふりかかってくるのである。

ということで、これから少しずつ、老後のことについて記事を書いてみたいと思っている。

まず最初に考えるべきは、10年後に何が大切になるかである。おカネももちろん大切だけれども、これについては「入って来るおカネの範囲内で暮らす」しか答えがない。入るのを増やすためにストレスを増やしても仕方がない。

おカネ以上に大切なのは、心身の健康だと思っている。当り前といえば当り前だが、その当り前が難しい。いろいろ考えたが、いまのところ「頭」「足腰」「胃腸」をまともに保つことが最重要と考えている。

いくらおカネに不自由しなくても、ボケてしまったり足腰がきかなくなったり、お酒やおいしいものを食べられなくなったら、生きていく意欲が半減してしまうだろう。

歯とか目とか耳とか、他にもいろいろ大切なところはありそうだが、まずはこの3つ。10年後に後期高齢者になった時に、この歳でこの程度ならいいんじゃないかと自分で思えるレベルを目標にしたい。

[Aug 29, 2022]

使わない機能は衰える・その通りだと思う

「マーガリンは健康的」レベルの疑わしい話はおいおい採り上げてみるけれども、まず間違いないと全面的に同意するのが、「使わない機能は衰える」ことである。

足を骨折して入院していたお年寄りが、そのまま寝たきりになったという話はよく聞く。足腰は見てすぐ分かるけれども、それ以外の部分、脳でもどこでも、使わない機能がどんどん衰えるというのは、自然の摂理にかなっているように思う。

だからという訳ではないが、1日に少なくとも2~3時間はキーボードを叩いている。ネットを閲覧するだけよりも、自分で文章を考えたりExcelを操作する方が、より頭を使うのではないかと思っている。

脳の中でも、前頭葉を特定して使う必要があると書いてある本もあるが、なかなかそこまで注意するのは難しい。というのは、いま脳のどこを使っているか知覚できるものでもないし、難しいことより日常生活をきちんと送れることの方が大切と思うからである。

それよりも、脳と体はつながっているのだから、できるだけ体のいろいろな部分を動かすことが脳の活性化につながるように思う。そのせいかテレビ体操でも、頭を使う動きをだいぶ増やしているようである。(グーを出して腕を上、次はパーとか)

できるだけ新しいことに興味を持ち、生活をマンネリ化させないことも大切とされている。同じパターンで生活しすぎると、脳の回路がショートカットして働くようになり、使わない部分ができてしまうらしい。

その意味では、できるだけいろいろなジャンルの本を読んだり、最新の知見について知識を深めることが効果的だろう。散歩するにしても、できるだけいろいろな場所を歩く方がよさそうだ。家の周囲でも、まだまだ歩いていない場所はたくさんある。

足腰については、基本的に外出して外を出歩くようにすることである。リタイアしてから、歩く距離と時間は格段に増えた。車で送り迎えしてもらっていた最寄り駅までの約2kmの距離も、いまでは大荷物を持っていない限り歩きである。

年金生活になると、行動範囲が狭くなってしまうのも悩ましいことである。遠出すると足腰も使うし、知らない土地で見たことのない景色を見るのはいくつになってもうれしいものである。ネックになるのは経済的事情だからやむを得ないが。

その分、身近なところで工夫するしかなさそうだ。この春は地元印西市の八十八ヶ所を7日間かけて巡拝し、たいへん勉強になった。おカネをかけなくても、いろいろできることはある。

できるだけ使うようにとはいっても、年寄りはあまり無理をしない方がいいというのもよく言われることである。

ただ、どうやらこれについては、心配しすぎるのもよしあしのようだ。準備運動しなかったり、急激に血圧を上げる運動はよくないだろうが、脈拍数が普段より多くなるくらいは神経質になる必要はないと書いてある本もある。

むしろ、心肺機能の維持のためには、ある程度脈拍数を増やすくらいのトレーニングが望ましいらしい。言われてみると、80歳90歳になっても山登りしているお年寄りは多く見かけるし、マスターズ陸上などでマラソンを走る人だって珍しくない。

使わない機能は衰える。頭と足腰をできるだけ使うよう心掛けることが大切だと思う。


「頭」と「足腰」は使えるだけ使ってもそれほど問題なさそうなのだが、もうひとつの重要項目である「胃腸」は使うだけでなく休ませることにも注意した方がよさそうだ。

頭や足腰を使わないで暮らすことは可能なような気がするが、胃腸を使わないで毎日を送ることは難しい。どうしたってお腹が空くし、空けば食べる。使わないようにする方が大変である。

そして、頭や足腰は眠っている間は休むことができるが(頭は全部休めないかもしれないが)、胃腸は眠っている間も働いている。食後4時間経てば胃にはそれほど残っていないかもしれないが、腸はそこからが本番である。

腸が使わなくて衰えるとすれば、いわゆる腸内細菌の活動であると思われる。乳酸菌をはじめとする腸内細菌は必要な種類、必要な分量が腸内に存在することが望ましい。そのためには、摂取すべき食品とそうでないものがあるらしい。

発酵食品が腸内細菌に欠かせないということは、いろいろな本に書かれているしそのとおりだろうと思う。胃酸でかなりの部分失われてしまうが、摂らなければ腸にも届かない。

乳酸菌は名前の通り乳加工食品に含まれるし、みそ、醤油、納豆、漬物をはじめとする発酵食品にも各種善玉菌が多く含まれる。年齢に関係なく体にいいことに違いはないが、年寄りは特に意識して摂る必要がありそうだ。

発酵食品が腸内細菌そのもの、ないしその種子だとすると、土や肥料に相当するのが食物繊維である。

食物繊維は基本的にカロリーがないので、体を動かすもとにならないというのは過去の考え方で、腸内細菌を動かしているのは食物繊維であるらしい。腸内細菌がないと消化ができないから、間接的に体を動かすもとになっていることになる。

食物繊維を多く含むのは、海藻類とか豆類、ゴボウなどの野菜である。基本的に甘くない(だからカロリーがない)し、食欲をそそるものでもないけれども、意識して摂るようにしなければならない。

逆に、摂取すべきでない食品は炭水化物、特に糖類で、いま取り組んでいる糖質制限でまさに控えている食品群である。そして、果物など自然に存在する糖類よりも、白糖・黒糖などの精製糖、異性化糖、それらを含む菓子類が段違いによくないらしい。

糖質制限を始めて約2年、白ご飯やラーメン、うどんなどは外食などで残せない限り基本的に摂らないようにしているが、和菓子やケーキまで全部やめられないのは意思が弱いところである。まあ、少し不徹底な方が長続きしやすいらしい。

もうひとつ、胃腸に関して注意すべきは、休ませる時間を作らなければならないということである。

ファスティング、いわゆる断食については、健康増進に大きな意味のあることは間違いないようだ。だから、ときどき3日4日断食した方がいいらしいが、どうやら個人差があるようで、私の場合、検査で朝食を抜くだけでかなり体調が悪くなる。

年金生活にはいって以来、夕食は午後4時、朝食は午前6時35分で、その間14時間余りは基本的に飲み食いしないようにしている。いまのところは、これくらいが限界のようである。

[Sep 1, 2022]

使わない機能は衰えるとはいえ、胃腸については適度に休ませることも重要なようだ。


老後は社会参加?ほとんど同意できない

「使わない機能は衰える」には同意するのだけれど、ほとんどの老後本に書かれていて同意できないのが、積極的に社会参加すべきだという論調である。

会社を退職すると社会との接点がなくなるので、意識して社会参加を図るべきである。例えば地域の自治会活動とか、ボランティアというアドバイスがとても多い。そんなことをして老化が防げるとはとても思えない。

まず第一に、そうしたことが新たなストレスを生むからである。昔、総武線の津田沼周辺のマンションに住んでいた時、管理組合を牛耳っていたグループがその年代だった。

現役が終わったのだから、いざこざなく平和に過ごそうと考えればいいのに、自らの信じる正義に向かってまっしぐらという連中だった。東急コミュニティの管理を解約して自分達で管理、管理費未納も組合理事がやるなどと言い出す始末であった。(全共闘世代・団塊世代にはよくあるパターンだが)

ボランティアだって、自分達でできる範囲と考える人達ばかりではない。理想は高く、それでいて徒党を組んで他人に指図するのが大好きな人がいる。会社でできなくなったことを地域活動でやろうとするのだ。

せっかく会社から離れたのに、そんな連中にかかわってストレスを増やすことはない。残り少ない人生、そんな連中に近づいたり気持ちを乱す暇はない。

もうひとつの理由は、あえて社会参加などと肩肘張らなくとも、礼儀正しくしていれば社会の中で受け入れられないことはないと考えるからである。

もう昔の話になるが、年に何度も海外渡航していた時期がある。外国語を勉強したのは学生時代と社会人はじめだけで、その後約20年は全然勉強していなかった。

にもかかわらず、片言の英語と広東語で、海外で不便を感じたことはほとんどない。ツアーは一度も使わず、現地に詳しい人に案内してもらったこともあったが(さまよい人さんとか)ほとんど単独行で、それどころか他の人を案内したことさえあった。

それでも、礼儀正しくして、ルールを守っていれば普通に過ごすことができる。少なくとも、危ない奴だと思われなければ、ホテルにも泊まれるしコンビニで何か買うこともできる。少なくとも、生きていくのに不自由しないのである。

引退したら地域社会に積極的に関わるべきだと書いてある本はたいへん多いが、会社が地域に代わるだけでストレスの原因になることが多いと思う。


では、老後に求められる社会参加とは何だろうか。私が考えるに、図書館に行くとかスポーツジムに行くとか、スーパーに行って買い物をするとかたまに公共交通機関を利用してみるとか、そんなことで十分だと思う。

別に、地域活動とかボランティアとかおおげさに考える必要はない。家の中で奥さんとバソコンだけを相手にする日常から、少し社会に近づくだけでいいのではないだろうか。

先日、新興宗教から逃げ出した中学生の話を本で読んだ。世間のことを何も知らないものだから、原宿から取手まで半日かかってようやくたどり着いたらしい。その本の著者は、「明治神宮前から千代田線に乗れば乗り換えなしで着くのに」と書いていた。

原宿から山手線・常磐線と乗り換えたって2本である。それを半日かかるというのは、路線図で目的地も見つけられないし、そもそも地理的にどこにあるのかもよく分かっていないのだろう。中学生なのに。

村上春樹の「1Q84」でもふかえりがそうやって逃げ出してきたのだが、新興宗教ではそういうことがしばしば起こるらしい。宗教団体の中で外の世界と遮断されると、それほど世間からうとくなってしまうということである。

老後の生活だって似たようなものである。地理が分かっているとしても、別のジャンルで同じようなことが起きて、いざ世間に出ると右往左往することはありえる話である。

そうした事態を避けるためには、少しでも世間に触れておく必要がある。別に、誰かと何かの作業を一緒にすることはない。おかしな人と思われないような服装や態度で、生きていくのに不自由しない程度に意思疎通できれば十分である。

いわば、一人で海外旅行に出た時と同じである。初めて香港に行ったのは二十年以上前だが、その時、コンビニで何を言われたのか分からなかった。

後から考えると「袋はいらないね」と言われたのだと思うが、その頃日本では袋に入れるのが当たり前だったので見当がつかなかったのである。(今なら日本もそうだからすぐ分かる)

例えばそんな具合に、世の中はどんどん変わっていく。5年間外に出ずTVもネットも見なければ、何でみんなマスクをしているのか分からないし、電車にマスクなしで乗って注意されてもちんぷんかんぷんであろう。

そうした事態を避け、その他大勢として世間に立ち混じることができれば、老人としての社会参加は十分果たせるのではないかと思っている。

例えば5年間引きこもって世間のことを何も知らなければ、マスクなしで公共交通機関に乗って白い目で見られるだろう。老後の社会参加は、そういった事態を避けるために最低限のフォローアップができれば十分である。


[Sep 20, 2022]

老後に見栄は必要ないが

老後生活に見栄は必要ないというのも、いろんな人が書いている。ただ、これには個人的にニュアンスの違う感想を持っている。生きていくのに見栄が必要ないのは、別に老後に限られた話ではなく、どの年代でもそうだろうと思うからである。

見栄というのは、「他人の見る目」を気にすることである。他人がどう見ていようと他人の感じることは自分には左右できないし、そんなことを気にしても仕方がないと思っている。世間体という言葉は最近使わなくなったが、大体同じような意味である。

リタイアする前であれば、「他人の見る目」をある程度気にせざるを得ない。それによって他人の見る目が違うし、扱いも違ってくるかもしれない。交渉力とかリスペクトとか、サラリーマンに必要とされる資質に直結する要素である。

しかし、そんなものはリタイアしてしまえば何の意味もないし、もともとほとんど意味はなかったと思う。

例えば高級車に乗っていれば金持ちと思われてディーラーの扱いは違うだろうが、ランニングするのに何の車に乗っているかは関係ない。心肺能力や足腰の丈夫さが重要なだけである。

肩書なんてものも、組織から離れてしまえば必要ない。現役時代だって、信用調査の時に必要かもしれないが、いたずらにローンやクレジットの枠を増やしても仕方がない。いずれ返さなければならないものなら、初めから収入の範囲内で暮らす方が賢い。

頻繁に海外に行っていた時期には、JALやANAのメンバーシップは便利だったけれど、飛行機にすら乗らなければラウンジの必要もない。聞くところによるとイオンにはラウンジがあるらしいが、そんなところに行くより早く家に帰った方がいい。

私は若い頃から「見栄」を張るようなことはあまりしていないと思うが、逆に気にしていたのは美意識である。「美学」なんて言葉を使う人もいる。見栄が他人の見る目を基準とするのに対し、美意識は自分自身の見る目を基準にする。

だから、自分の他に誰もいなくても、自分以外に見る人がいなくても美意識に反することはできない。道路にゴミを捨てるようなことはできないし、人前に出る時には恥ずかしくない服装を選ぶ。

車とか持ち物とか、グリーン車とかビジネスクラスとかそういったことには意味がないとしても、服装にはある程度気をつけなければいけないと思っている。図書館やスーパーで、誰もこちらを見ていなくても、自分自身は自分を見ている。

奥さんがよく、道を歩いているお年寄りの服装を見て、「あれじゃよくないでしょう。年取ったら余計に、身だしなみに気を付けないと」と私に言う。そのお年寄りに対してではなく、私がそうなったら心配なんだろうと思う。

老後に見栄は必要ないが、それはどの世代であっても変わらないと思う。(イラストとはあまり関係ありません)


これから後期高齢者に向かうにあたり、「見栄」は必要ないけれども「美意識」はあった方がいいのではないかというところまで書いた。

まだ10年近くあるのでどうしたらいいかゆっくり考えるとして、いま取りかかっているのは服装である。

先だってサラリーマン時代のスーツ類を整理した。何年か前に夏冬1セットずつくらいに減らしていたけれど、65歳を機に全面的に断捨離したのである。

だから、家にいるときはTシャツとかトレーナーにジャージという格好である。このまま外に出ても誰に咎められることもないだろうが(実際そういう服装のお年寄りを図書館でもスーパーでもよく見る)、自分で自分を省みて、やっぱりそれではいかんだろうと思うのである。

かといって、それほど大げさにする必要もない。よれよれでないシャツと、毛脛を出さないスラックス、足元はサンダルでなくスポーツシューズ、見苦しくない帽子くらいである。

よく選ぶのは山に行く時の服装である。公共交通機関を使うことも多いし、山の中では道に迷うことが当然ありえるので、何かあった時に困らないような服装で、万一の場合のレスキューセットを持つ。

普段、家の近くを出歩く分にはレスキューセットまでいらないけれど、常備薬くらいは用意しておいて悪くない。東京まで遠出する時には小さいリュック、近場の場合はウェストポーチにそういったものを入れて歩いている。

その意味で、モンベルはなかなか使い勝手がいい。「猫カメラマン」の岩合さんもモンベルを着ているし、YouTubeを見ても愛用者は多いようだ。糖質制限で体重を絞ったので、着られる服も多くなった。

ネックになるのは値段である。ジャスコ(イオン)で買うより、2倍とか3倍するので、欲しいものをすぐに買えるほど資金面の余裕がないのである。

だから、今後10年後を考えて、毎年少しずつちょっと外出する時の服をモンベルで揃えようと思っている。何年か前からモンベルクラブに入っているので、通販なら送料がサービスになる。

別にモンベルにこだわる必要はないけれども、近場はともかくアンダーアーマーで都内まで行くというのもちょっと考えてしまうのである。

[Oct 12, 2022]

年寄りが外出する時の服装として、モンベルはとても使い勝手がいい。糖質制限で着られる服が増えたので、十年後の後期高齢者時代を見据えて少しずつ揃えたいと思っている。


「認知症」と「老人性痴呆」本当は違う

高齢者の健康について書かれた本で、認知症についての記事がないものはほとんどない。それほど、認知症は関心が高いのだけれど、正直言ってその多くが読者をミスリードしていると思う。

それほど前のことではないが、認知症は「老人性痴呆」と呼ばれていた。差別的な用語だというのでメディアから消えたのだけれど、「認知症」と表記することによって、かえって間違ったイメージを与えているのではないだろうか。

脳に関する研究は21世紀に入ってから急速に進んだので、「老人性痴呆」と言っていた当時と今では認知症も痴呆も定義は同じではない。ただ、アルツハイマー型認知症が老人といわれる年齢でなくても発症することが分かっていただけである。

だから、「認知症」と呼べば若年性の症状も老人性の症状もひとまとめにできるし、差別的な用語だと指摘を受けることもないと誰かが思ったのだろう。

だが結果として、アルツハイマー型認知症にならないことがいわゆる「老人性痴呆」を防ぐことだとみんな思ってしまっている。それはちょっと違うし、努力の方向も違ってくるのではないだろうか。

アルツハイマー型認知症は、がんと同じでなりにくくすることはできたとしても、予防することはきわめて難しい。最近、進行を止める薬が開発されたらしいけれど、脳にタンパク質がたまって神経組織を破壊すること自体は止められない。

そして、いわゆる老人性痴呆の原因となるのはアルツハイマーだけではなく、脳出血や脳梗塞の後遺症もあれば、レビー小体型もある。複数の原因が重なっている場合もある。おそらく、複数の原因が一番多くて、それが老化なのである。

「認知症」ががんだとすると、「老人性痴呆」は生活習慣病である。生活習慣病がかつて成人病と呼ばれていたように、老人性痴呆は老人病である。だとすれば、老人病にならない生活習慣や暮らし方があるかもしれない。

もちろん、糖尿病や動脈硬化に体質的になりやすい人もいるけれども、多くは飲みすぎ・食べ過ぎ・運動不足が原因である。だから、これらの生活習慣を改めることで、生活習慣病はかなりの程度防ぐことができる。

同様のことが「老人性痴呆」にも言えるのではないかと考えている。これから後期高齢者になるわれわれが気をつけるべきは、「認知症」になることではなくて、「老人性痴呆」になることである。

認知症と老人性痴呆はもともと違う言葉である。認知症と呼ぶことで間違ったイメージを与えているような気がする。(資料:エーザイHP、薬屋さんのHPなので、あえて混同させている?)


アルツハイマー型認知症や脳梗塞・脳出血にならないための予防は、いわゆる生活習慣病とそれほど変わることはない。飲みすぎ・食べすぎをしない、適度な運動、十分な睡眠、アルコールは控えるなどである。

一方、昔言っていた「老人性痴呆」にならないための努力として、いま思っているのは集中力よりも同時並行能力に重きを置くということである。

現役時代には、どちらかというと同時並行能力よりも集中力に重きがおかれていた。例えばコンピュータを扱っている場合など、瞬間的に適切な判断をしなくてはならない。お昼に何を食べようなどと余計なことを考えている暇はない。

ところが、そういう生活を長くしていたものだから、同時並行能力に不安を持つことが少なくない。例えば買い物の時など、主目的は忘れないのだけれど、ついでに買っておくものをよく忘れる。

そういうことを防ぐためにメモをして持っていくようにしているが、それでもつい細かい用事を忘れてしまう。何度も忘れているうちにいよいよ必要になり、そのためにわざわざ買い物に行かなければならなくなる。

つまらないことだけれど、こうしたことが積み重なって、老人特有の物忘れ、2つ以上のことを同時に処理できない老化につながっているのではないだろうか。

その予防策として、料理をするのが結構役立つような気がしている。

料理は独身の頃だけで、結婚以来それほど多くはしていない。単身赴任も何ヶ月かしていたけれど、長くはなかったので調理用具もそれほど持って行かなかったし、出来あいのものを買ってすませることが多かった。

料理もちゃんと手間をかけて作ると、それなり手順を考える必要があるし、下ごしらえをしながら次の食材を用意するなどしなければならない。使ったザルとかボールを洗わないと、すぐにシンクが一杯になる。

だから、これをやりつつあれをやり、鍋を2つ火にかけ、次にジャガイモを切ってなどと同時並行処理をしなければならない。その間に宅配便が来たからといって、いったん全部中断する訳にもいかない。

脳の使い方からすると、会議をしながら電話をしてその間に次の資料を準備して、昼に何を食べるか考えるみたいなもので、サラリーマンなら「もっと集中しろ」と言われるところだが、老人性痴呆を防ぐためにかなり有効なように思える。

長年の習慣で、こうした方がもっと効率的にできるなどと思いがちであるが、効率的にすることでかえって脳を使わなくなるかもしれない。これから後期高齢者に近づくにあたり、料理をすることで同時並行能力を高めたいと思っている。

[Nov 8, 2022]

これから後期高齢時代に向かうにあたって、重要なのは集中力よりも同時並行処理能力。料理を作ることで、老人性痴呆になりにくい効果が期待できるのではないかと思う。


薬は飲まない方がいいと言うが

いまの世の中、医者が薬品会社と結託して必要ない薬を処方しているという意見がある。医者は処方すれば報酬が入るし、薬品会社は利益になる。薬屋の言い分としては「必要だからお医者さんが処方箋書くんでしょう」という理屈である。

確かに、老人福祉施設で山のように処方された薬を飲ませるとかの場面を見せられると、そんなに薬を飲ませてどうするんだと思う。それも、何人かの医者がそれぞれ処方していて、収拾がつかなくなっているらしい。

それについては、わが家では夫婦で話して一応の結論が出ている。余計な薬は飲まないけれども、痛い痒いをがまんするより薬に頼った方がましという意見である。

薬を飲むなという本を読むと、論旨は2つある。1つは医者が考えなしに薬を処方して、効果よりも悪影響の方が大きくなっていること。これは、最近では「お薬手帳」などで薬剤師もチェックできるし、最終的には自分で管理するしかない。

もう1つは、医薬品というのは体にとって異物であり、極論すれば毒物であること。対症療法になるけれども、根本的に病気を治す訳ではなく、むしろ体がもともと持っている抵抗力を弱めてしまうという。

こういう説を読んで思うのは、これを書いた人はそのとおりにすれば永遠に生きられると思っているのだろうかということである。人間、いくら長生きできたとしても百年ちょっと。いずれは体が耐用年数を迎えるのである。

薬に頼るのは病気の原因をなくしてほしいからではなく、痛みや苦しみを和らげたいからである。少なくとも、六十年以上生きている家の夫婦はそう思っている。

もっと言うと、病気を根本から直すということが可能かどうか、疑問に思っている。村上春樹「1Q84」でリーダーが言っていたように、「対症療法にしかならないことは分かっている。同じことは何度も起きるだろう。だが、いまここにある痛みをなくすことが大切」なのである。

だから、この歳になって手術をしたり放射線などの治療はしたくない。それよりも、体の不具合にその都度対処して、寿命が来たら粛々と退場するのが心身のストレスを最も少なくできるのではないかと思っている。

その意味で、自覚症状がないのに血圧を下げる薬を飲むとか、いろいろな診療科で出された薬を大量に飲むとかは避けなければならないが、自分で管理できる範囲で不快な症状を抑える薬を飲むことには前向きである。

例えば春になると恒例の花粉症の薬はそうである。市販の風邪薬や胃薬もすぐに飲む。胃薬ばかり飲むと胃液の分泌が少なくなって余計具合が悪くなるというが、それが嫌だったら食べ過ぎず飲みすぎなければいいのである。

[Dec 13, 2022]

体が持っている抵抗力を弱めるので薬は飲まない方がいいという意見もあるが、痛い痒いつらいをがまんしてどうするという気がする。うちの夫婦は、寿命が縮まっても痛み止めは飲むという意見で一致している。
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