せいうち・・・セイウチ科セイウチ属の肉食獣で、北極圏に生息する。体重は成獣で500kgから1200kgに達する。最初は減量日記で始まりましたが、日々は移ろい、リタイア生活の徒然日記になりました。
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消費が減るって当り前では? ~せいうち日記81

会社をしばらく休んで、いま奥さんと与論島に来ている。無理やり休んだ訳ではなく、会社の制度に基づく永年勤続休暇である。この休暇は10年ごとに取ることができて、10年前はテニアンに行った。10年後には会社にいないので、これが最後の永年勤続休暇ということになる。

10年前のテニアンでは、資金が尽きるまでカシノで過ごそうと思って行ったのだが、残念ながら4泊しかできなかった。休暇が1週間残ってしまったので、仕方ないからスポーツジムへ行って、エアロバイクやプールで過ごした。10年経ってみると、その後カシノはだんだん行けなくなってしまったのだけれど、スポーツジムは今でも続いているから妙なものである。

テニアンに行ってカシノで遊ぶのと、与論島に来てまったりするのと、どちらがGDPに寄与するのかは微妙なところだが(少なくともカシノの負け分は国内景気に寄与しないだろう)、少なくとも自分自身のふところから出たおカネは相当少なくなった。前回は一人、今回は二人で来ていても、かなり違う。デフレの効果や規制緩和(特にLCC)は確かにあるけれども、それにしても少なくなったはずである。

ケインジアンの誰かが言っていたことだが、消費は現在の所得に影響を受けると同時に、これから得られるであろう所得と、所有している資産に大きな影響を受ける。だから、若い頃とか、株が値上りする時期には消費が増える。10年前と現在とでほとんど収入は変わらないにもかかわらず(減らなかっただけありがたいと思うべきなのだろう)、10年前には使えたおカネがいまは使えないというのは、経済学的に正しいことなのであった。

景気拡大といまだに言っているけれど、高齢化は進む一方だし、そもそも日本の人口は数年前から減っている。一人当たり支出が変わらなくてもGDPが減ってしまうのに、だんだんおカネを使わなくなる世代が多くなるのだから、消費が頭打ちになり経済が収縮するというのは当り前のことではないのだろうか。

アベノミクスの成長戦略を私なりに解釈すると、おそらく輸出を増やすことにより景気拡大しようということのようだが、いうまでもなく全世界の輸出と輸入はトータルすると同じ金額になるから、一つの国が輸出を増やせば輸入が増える国がどこかにあって、結局のところ不景気のツケをどこかの国に回しているだけのことなのだ。

それはそれとして、与論島といえばお気づきのとおり、たそがれに来たのである。宿はもちろん、「ハマダ」こと与論島ビレッジ、「めがね」のロケ地である。映画と違って、ちゃんとベッドもあるしレストランもある。食堂になっていた建物は休憩室になっている。現実の与論島は「めがね」とは違って携帯も通じるしネットもできる。

テニアンで30秒に1回グリーンチップ($25)をやり取りして過ごすのも1日なら、1日(2人で2000円)レンタサイクルで南の島を走り砂浜で「たそがれる」のも1日である。今回は雲が多くて空模様は今一つなのだけれど、あまり日焼けしなくてすむと思えばそれほどアンラッキーなことでもない。

わずかな間とはいえ南の島でまったりしていると、残る人生をどうやって過ごしたらいいか、考えるともなしに考える。おカネは全然ないとちょっとつらいけれど、たくさんあってもそれで不安がなくなる訳ではない。少なくとも、月に30万なんていらない。春の海ひねもすのたりのたりしている間に、月は昇るし日は沈むのである。

与論島の海岸。この日はちょっと風が強くて、たそがれることはできませんでした。


[Feb 5, 2015]


寮生活の思い出 ~せいうち日記82

春になると思い出すのは、はるか三十数年前、はじめての寮生活をしていた頃のことである。そしてなぜか、部屋でテレビを見て寝ていたこととか、毎日使っていた食堂・風呂のことはほとんど覚えていないのに、週末にしか行かなかった洗濯室で、その週に着た服や下着類をまとめて洗濯機に入れていた時のことをよく思い出すのである。

いまだったら寮の洗濯機なんか使わずにコインランドリーに行くだろうけれど、当時コインランドリーはなかった。だから寮生が交代で2槽式の洗濯機を使い、物干しスペースに干すのである。交代といっても実質は早い者勝ちなので、せっかく洗濯物を持って行ってもすでに全台使用済だったりすると持って帰らなくてはならない。物干しスペースだって同じことであった。

寮といっても会社の寮で、すでに給料をもらっている社会人なのに、なぜ交代で洗濯機を使わなきゃならないんだろうとずっと思っていた。もちろん、平日の夜にやるという手もあるのだが、当時は夜の10時11時まで残業で、食堂も風呂も終わっている時が多かった。とてもじゃないけれど、洗濯までする余力がなかったのである。

洗濯室と塀の隙間から、隣に建っているマンションが見えた。何で自分は、あのマンションに住めないのだろう。マンションに住めば、好きな時間に洗濯機も使えるし洗濯物も干せるのにと思った。寮は親元から通えない場所に転勤になった職員でほとんど一杯であり、洗濯機はいつも使用中であった。

そんなに嫌だったら、なぜマンションを買うなり借りるなりして引っ越さなかったのかと思われるかもしれない。まず買わなかったのは、ローンが組めなかったからである。当時は物件価格の30%の頭金+手続き費用が必要であったし、銀行の住宅ローン金利でも8.4%と高かった。ローンの期間も最長で20年、返済額と年収の制限もあったので、とても20代半ばの職員がマンションを買うことなどできなかった。

(当時は住宅ローンを貸す側だったから、よく覚えているのである)

もう一つ借りることができなかった訳は、その頃、若い職員が結婚もしないのに寮を出ることにいい顔はされなかったからである。独身の職員は独身寮に入るというのがデフォルトであり、そこで同じ釜の飯を食って仲間意識を高めるのが当然とされていた。別に、どこかに(就業規則とかに)書いてある訳ではない。不文律というか、当然従うべき職場の雰囲気がそうなっていたのであった。

まだ当時は若くて純朴だった私だが、そういう雰囲気に従うのは自分にとってよくないと感じて、半年ちょっとで独身寮を出た。本来は結婚してからなのだけれど、結婚は決まっていたので何ヵ月か前に引っ越したのである。以来、事情が許す限り住む場所は自分で気に入って選んでいるし、寮や社宅など職住接近した場所には近づかないで済んでいるのはありがたい。

いまにして思えば、寮生活や職場の雰囲気に同調できなかったことがその後何度も職を変えることにつながっているのだが、おそらく何回同じシチュエーションになったとしても、同じ選択をするだろうと思う。他人と一緒になって(もちろん奥さんは除いて)、同じことを同じようにするなんてことは、自分が自分でなくてもいいということなのだろうと思う。

話は戻って洗濯室のことだが、いちいち部屋に戻るのも面倒だしひとと話すのも嫌なので、たいていウォークマンでカセットテープを聞いていた(まだCDは一般的ではなかった)。よく聴いていたのはEPOで、 当時土曜の夜8時からやっていた「おれたちひょうきん族」のエンディングテーマを歌っていた。アルバムにもいい曲が多くて、聴いていたのであった。

現在でも通勤電車の行き帰りに聴いているiPODの中にもEPOは入っていて、「身代わりはバディー」とか「雨のめぐり会い」とかを聴くとその頃のことを思い出す。そのEPOのコンサートが職場のすぐ近くの大阪厚生年金会館であったのに、とても残業が終わらないだろうと思って自主規制してしまったこともあった。

そんなこんなで、10年以上いた最初の職場についてはいい思い出が少ない。できれば最初の会社選びからやり直したいと思わないでもないが、それができないのは、過去はやり直せないということが一つ。もう一つは、奥さんとその職場で出会ったからなのである。

[Mar 16, 2015]


ゴールデンウィークに「国見」 ~せいうち日記83

2015年のゴールデンウィークは後半だけで5連休という豪華版だった。仕事の都合で昭和の日までは出張、GWは後半だけとなったが、それなりに使いでのある休みであった。とはいっても、道路も混み宿も高いこの時期に、あえて外に出たいとは思わない。ここ数年は「国見」としゃれこんで、家の近所を歩くことが多い。

連休前半は暑かったり風が強かったりして、ハイキング日和になったのは連休最後の6日。市内を巡回するコミュニティバスに乗って市街地のはずれまで行き、田舎道に入ると昭和30年代とほとんど変わらない景色が広がる。私の住んでいる旧・本埜(もとの)村はさきの市町村合併で印西市となってしまったが、大半が市街化調整区域であることに変わりはない。

5分も歩くと辺りは見渡す限りの水田である。このあたりはGWに田植えをするので、最終日にはほぼ8割方田植えが終わり、植えられたばかりの稲の苗が風にそよいでいるのもかわいらしい。水を張ったせいか、げこげこと蛙の鳴き声が響く。ところどころに軽トラックが止まっているのは、田植え後のいろいろな仕事があるのだろう。

田植え機とすれ違いながら、印旛沼の方向へ歩く。このあたりは古くは江戸時代に田沼意次が干拓しようとした土地であり、近年では昭和30~40年代、政府の補助により整備された土地でもある。昭和はじめまで多くが湿地帯であったが、整備事業により長方形に整地された水田が遠くまで広がっている。

その時代の整備により、私の子供の頃はW型をしていた印旛沼が、北と南に分かれてその間を捷水路でつなぐ現在の形となった。そして、もと沼であったところが干拓されて水田となったのである。利根川河口近くの肥沃な土地なので、収穫されるお米もおいしいと評判なのだが、その後ほとんど間もなく減反政策の時代となってしまったのは皮肉なことである。

とはいえ、整備された土地の方が機械が入りやすく水も引きやすいため、減反されたのはむしろ江戸時代から耕作された古い水田であった。減反補助金はそろそろ廃止されると聞くが、それ以前に、専業農家の減少と農業従事者の高齢化により耕作不能地が増えていて、谷の奥深くにもともとあった水田は荒地となり、イノシシの活動するエリアとなっている。

数百メートルは続くまっすぐな道を歩きながら周囲の水田をながめていると、王様でも地主でもないけれど、自分の土地という愛着が沸いてくるのは不思議なものである。まだ植えられたばかりの苗が風にそよぐのを見て、今年も天気に恵まれて豊作になってほしいと思う。まさに、古代の帝王が行ったという「国見」と同じ気持ちなのではないだろうか。

この日の「国見」は4時間余り、万歩計によると20.7km歩いたことになるようだ。朝のうちはすずしかったが、正午が近づくにつれて日差しが強くなり、5月とは思えないくらいの暑さとなった。最後はさすがにバテてしまったが、稲にとっては幸いなことと慶ぶべきであろう。

スカイアクセス印旛日本医大駅から5分も歩けば、こんな風景になります。このあたりは古くからの水田。


こちらが整備された印旛沼近くの水田。こういう風景を見ると、今年も豊作になってほしいと心から思います。


[May 13, 2015]


山頭火と酒の話 ~せいうち日記84

この間、ブログに種田山頭火のことを書いた。その際、改めて参考文献を読み返したのだが、山頭火が死んだのは昭和15年、享年58であった。奇しくも、私のいまの年齢と同じである。山頭火は亡くなる直前には歯が1本しかなかったらしいが、私は昔、親しらずを抜いたくらいで全部そろっている。ありがたいことである。

ちなみに、山頭火という言葉は暦法における普通名詞で、甲戌・乙亥の干支のことをいう。だからラーメン店の名前に使われても文句は言えない。俳句の山頭火を呼ぶ場合には、種田山頭火と苗字を付けるのが本当である。

山頭火は大酒呑みで、誰かが持ってきた一升瓶を飲みきってしまい、足らずに街に飲みに出かけたという類の逸話がたくさんある。自分で働くことはせず、酒を飲むのは托鉢の上がりか、俳句サークルの誰かの持ち込みか、でなければ借金や息子からの仕送りである(別れた奥さんからの仕送りもあったらしい)。にもかかわらずそれだけ飲めるというのは、ある意味大したものである。

昔、俳句の選者は芸事の先生のような立場にあったようで、投稿してきた句を選者が添削して雑誌に載せるということがよくあったそうである。現在、われわれが尾崎放哉の作品として知っている句の多くは、師匠である荻原井泉水が手直ししたというのは有名な話である。WEBをみると添削前と添削後の作品を比べることができるが、さすがに放哉、もとの句の方がいいというものも結構ある。

(代表作のひとつである「障子あけて置く海も暮れ切る」も、井泉水の添削による。原句は「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」)

だから、芸事の師匠が月謝や検定料をとる感覚で、酒をもらったり住まいの手配をさせたり、借金の肩代わりをさせてもそれほどの抵抗はなかったのかもしれない。もっとも、いまの時代に酒を飲んで俳句が上手なら、BS-TBSが飲み代だけでなく制作費も出してくれただろうから、惜しいことであった。

山頭火の生活は、今の時代ならば「Bライフ」ということになるのかもしれないが、「Bライフ」はわずかではあっても自分の稼ぎで生活するというライフスタイルである。山頭火は住む所にしても、食べる物にしても、飲む酒にしても、すべて他人の好意によって工面している点が違う。どちらかというと「ニート」に近い。

でも、いまでも田舎に行けば、神社や祠で、無人のお堂だけ残っている場所は少なくない。そういう場所でご神体や祠を守り、周囲を掃除し、氏子や有力者の好意で最低限の食料や燃料を入手して暮らしている人は、当時は少なくなかったのだろうと思う(少なくとも、山頭火と放哉だけという訳ではなかっただろう。阿弥陀堂便りなんて映画もあったし)。

人の世というものは、必ずしも全部の人がカネ儲けをしなければならないというものでもないと思う。いまだって、彼らのように暮らせる道があってもいいと思うけれども、人が住むとなるとまず第一に下水処理をしなければならないというのが行政の指導なので、なかなか難しいだろう。まさか、無人の寺や神社すべてに浄化槽を付ける訳にもいかないだろうし。

戻って酒の話だが、あれば飲んでいた山頭火に対し、私はというと最近は1週間に2日、せいぜい3日しか飲めない。はじめはダイエットと病気治療のために休肝日を作っていたのだけれど、この頃は酒を飲むと体調がすぐれず翌日に響くのである。次の日きついからといって酒を我慢するとは、歳をとったものである。

飲んだ次の日に手を見ると、皺が目立ってきた肌なのに、ピンク色に染まってぴちぴちして見える。これは酒による若返り効果だと思っていたのだが、じつは皺があるのが本当で、ぴちぴちしているのではなくむくんでいるのだと思うようになった。多分、それが正解なのだろう。

[Jun 19, 2015]


結構よくあるエアトラブル ~せいうち日記85

今年の北海道は、新千歳イン旭川アウトの四泊五日で行って来たのだけれど、直前にギリヤーク尼ヶ崎の公演中止、行く先々で中国人旅行客に遭遇するなど予想外の展開に巻き込まれたのだが、なんと最後に、羽田に帰る飛行機が機体の不具合で欠航となり、次の便に強制振り替えとなってしまうという極め付けのトラブルで締めることになってしまった。

うちの夫婦はしょっぱなの新婚旅行でサンフランシスコに飛ぶはずの飛行機が欠航になり、ロサンゼルスに飛んで国内線経由でサンフランシスコに入った結果、翌日からのスケジュールがめちゃくちゃになってしまった。青森に行った時は危うく着陸できないところだったし、伊豆大島に行くのに飛行機が飛ばなくて、あわてて熱海に回って東海汽船に乗るなんてこともあった。

一人で行った時も、テニアンでは11時間ディレイでトーナメントに遅れるということもあり、数時間遅れは珍しくもない。つまり、この種のトラブルに遭う確率は決して低くはないのだが、昔、大阪にいたときによく使っていたJAL123便にあの週は乗らなくてすんだ分、エア絡みの運は使ってしまったということかもしれない。

予約していたJAL552便は10時15分出発予定の旭川発羽田行きのエア。ほぼ予定どおりに到着したのに搭乗開始は時間ぎりぎり。すぐにドアが閉められて滑走路に進んだと思ったら、「空調に異常を示すランプが点灯いたしましたので、いったん搭乗口に戻ります」とアナウンスがあった。

搭乗口に戻ると、ドアを開けて整備士が二人入る。しばらくして機長からの説明によると、上空で計器に霜が付くことを防ぐ装置に異常があり、まず現在の装置を再度動かしてみて、それで正常に戻れば30分で出発できるが、戻らない場合は装置の入れ替えが必要なので最低2時間かかるということであった。

まあ予想通り30分では終わらずに、乗客はいったん機外に出される。この時点ですでに11時過ぎ。空港ビルに戻る時に1人1000円のお食事券が渡されたので、レストランに行くことにした。今回の北海道ではラーメンを食べていなかったので、1150円のみそチャーシューメンを150円負担でいただく。ラーメン店は思わぬ特需で満員になってしまった。

2時間ということは、次の便といい勝負だなあと思いながら、私はタブレットでネットを見ながら時間をつぶし、奥さんは再びお土産店を見に行く。そうこうしていると12時少し前、「552便をご利用の皆様に申し上げます。故障した装置の整備に長時間を要しますので、13時15分発の554便にお振替えいただくようお願いします」とのアナウンスが入る。

急いでカウンターに向かうが、すでに長蛇の列であった(当り前だ)。それでも「554便には十分な空席がございます」と言っていたくらいで、実際普通席には若干の空席があったようだから、予約段階ではそれぞれ定員の40%程度だったということである。

さて、それでは旭川周辺はどこも空いていたのかというとそんなことは全然なくて、ホテルも観光地も観光バスに乗った中国人で一杯で、うんざりしたくらいなのである。つまり、観光バスで大挙して乗り込んでくるような人達は、おそらく新千歳あたりまで直行便で日本に来るので、JALとかANAの羽田便なんか使わないということなのである。

今回の北海道では、成田から新千歳までジェットスター。新千歳から旭川までJR、ここでまずどでかいトランクで席を占領しスマホで大声で会話する上に、大音量で映画を見ている中国人グループと一緒。旭川から網走へ車で走って一泊、網走から帯広を経て然別湖で一泊、然別湖から富良野、美瑛を回って旭川に戻ってきたのだけれど、網走とか然別湖とか、全くメジャーでないところまで中国人の団体が来ていたのでびっくりした。

もちろん、日本人だろうが中国人だろうが、常識人もいるし非常識なのもいるし、団体で行動すると傍若無人になるのはどっちだって同じようなものだけれど、せっかく遠くまで来て静かにいい景色を見ていたいのに、どこでも中国の長距離バスの中にしてしまう人達には、正直なところ閉口してしまった。しかし、宿泊客の半分が中国・韓国の団体客ともなると、ホテル側だっていないと困るということなのだろう。

北海道は広いので、そういう団体客がいないようなところだって探せばまだまだある。今回も、どこまでもまっすぐな道路や、手つかずの原生林や、麦畑や牧草地を見て、とてもリフレッシュできた。次に来るときには団体客に会わないように、もっと奥の方に行かなければならないが、中国人がいないところにはヒグマがいるというところが、ちょっと困るところである。

この日は飛ばなかったJAL552便。3時間後の554便に振替となりましたが、それでも十分な空席があったそうで。


こういう道路を走っていると、やっぱり北海道っていいなあと思います。電柱なし。ガードレールなし。


美瑛の高台からみた大雪山。中央は旭岳あたり、右端はトムラウシ。頂上付近にはまだ雪渓が見える。


[Jul 12, 2015]


あと1年半の打たれ越し ~せいうち日記86

8月は月初に猛暑日が続き、夜中まで暑くて難儀したけれど、函館の出張から帰って来ると急に涼しくなって、エアコンを使わなくても眠れる日が戻って来たのはありがたかった。まだお彼岸まで安心はできないが、連日35度ということはないだろうと思っている。

それはそれとして、またもや、スランプである。自分でも、何がきっかけだったのかよく分かっている。あれをやったらこうなるかもしれないとは思っていた。でも、やめられないのが性分なのである。

定期的なルーティンワークとして、今後2年間くらいの資金計画をエクセルで作っておくことにしている。大きな支出(例えば、家の修繕、自動車の車検、レジャーとか)は大体2年程度は予定が立つのでその資金計画を考え、前年同月の支出から月々の生活費を見込み、ローンや保険の支払い予定をみて、収入の範囲内で賄えるかどうかを算段するのである。

余れば貯金に回すのだが、その月に足りていたとしても後々足りなくなるというのはよくある話である。低金利の世の中ではあるが、定期に入れておくということは「なるべく解約しない」というインセンティブになるから、まめに定期預金に入れるようにしている。そんな風にいつもやっているので、この4~9月は2017年4~9月の計画を立てる時期であった。

そして実は、2年後にはとっても大きなイベントがある。2017年3月をもって定年退職する予定であるので、4月以降給料が入ってこないのである。そんなことは先刻承知で、うろたえないだけの準備はしておいた。それで先般、重い腰を上げてようやく長期計画に取り組み、実際、2017年の収支計画は問題なくできたのであるが、それ以来スランプに陥ってしまった。

なぜかというと、「2017年で問題ないのなら、2016年だって何とかできるのではないか」と思ってしまったのである。現実には、なかなかうまくは行かない。60歳までは年金保険料の払いがあるし、住宅ローンに目処が立つのもその時期である。それは理屈では分かっているのだけれど、具体的な時期が見えてくるとさらに何とかできないかと思ってしまうのは、業なのかもしれない。

もともと会社は大嫌いで、会社の連中と付き合うのもまっぴら御免である。だから会社との関わり合いは必要最小限にしてきたし、今後その最小限もさらに切り下がる見込みであるが、その最小限をこなすのが嫌で嫌で仕方がないのである。

こうして家でパソコンに向かってキーボードを叩いていると、「何十年もがんばってきたんだから、あと1年半くらいがんばろう」「給料もらってんだから少しは嫌なことも我慢しないと…」などと殊勝な気持ちにもなるのだけれど、会社に行ってしまうと血圧が上下30ずつくらい上昇してしまって、我慢どころではなくなるのだ。

結局のところ、辞める目処が立たなければ働かざるを得ず、それは最初から分かってはいるのだけれど、そう考えると落ち込んでしまうのは、これもまたやむを得ないことである。あと約1年半、毎日を「殺し」て、「打たれ越し」ていくしかないので、せめてもの抵抗に千円出して普段買わないLOTO6を買ってみたりする。抽選日までは、多少のなぐさめにはなる(涙)。

[Sep 2, 2015]


四国お遍路を歩く ~せいうち日記87

10月31日から11月2日までの日程で、3回目の四国遍路に行ってきた。この7月から回り始めたばかりなのだけれど、結構いろいろ考えながら歩いている。

お遍路にはいろいろな交通手段があるが、私の場合は歩き遍路の順打ち・区切り打ちである。歩き遍路というのは文字通り歩いて八十八札所を回ろうというものである。徳島県を回っている間は札所間の長いところで20kmだが、室戸岬、足摺岬のあたりでは70~80km離れているので、札所から札所まで3日も4日もかかる。

順打ちというのは一番、二番と順番に回る行き方で、弘法大師空海もこの回り方で、いまなお巡礼されているということである。したがって回る速度が同じだといつまでたっても弘法大師と会うことができない。そのため逆打ちという回り方があって、これは八十八番、八十七番と逆に回って行く。そうすればどこかで弘法大師と会えるという訳である(道が違わなければだが)。

区切り打ちというのは何回かに分けて八十八札所を回ろうという方法で、いまのところサラリーマンなのでこの方法しかない。これに対して八十八を一気に回ろうというのが通し打ちで、体力的にも資金的にもかなり余裕がないと難しい。いつかは挑戦してみたいが、これから先衰えるばかりの体力との相談になりそうである。

毎週の週末くらい、ブログにそれぞれの札所巡礼記を連載している。2015年10月末現在で五番地蔵寺まで書かせていただいたところだが、今回の第三次では十二番焼山寺から十七番井戸寺まで歩いた。いまのペースでいくと十七番を掲載するのは来年の夏くらいになりそうなので、それまでにもう一回は行けるだろうと思っている。

第一回は半日、第二回は2日と後泊、第三回は2日と前泊という日程で、通し打ちであれば5日くらいの距離である。八十八回るのに40日から45日かかるとされるから、10分の1をやっと越えたというまさに初心者の域であるが、それでもいくつか思ったことがある。

まず第一に、歩くだけとはいえそんなに簡単なものではないということである。私自身、山歩きもするし自宅近くを15kmとか20km散歩することもあるので、それほど苦労するとは思っていなかったのだが、実際にお参りしつつ歩くとなるとそう簡単なものではない。靴も靴下もいろいろ工夫しているところだが、今回も2日で帰ってきてよかったと思ったくらいである。

第二に、天気がいい日ばかりではないということである。今回は2日目の昼までずっと雨だったし、前回も2日目の昼頃からずっと降られてびしょ濡れになった。山でも散歩でも天気の悪い時には行かないけれど、お遍路の場合は日程も飛行機も前もって決めてあるので、天気が少々悪いからといって休みにする訳にはいかない。通し打ちだったら尚更であろう。

第三に、既存の情報にはあてになるものとならないものがあり、最終的には自分のリスクで判断して行動しなければならないということである。遍路地図(定番の「四国遍路ひとり歩き同行二人」)やWEB情報、現地のシール等による推奨ルートがあるのだが、その通りに行くのがいいとは限らない。実際、今回通った道の中にも危険な道があった。

それに関わることだが、コースタイムも、参拝所要時間も、見るべきものも、それぞれの人によって違うし、自分で調べて判断しなければならない。だとすると、調査を十分しないうちにいきなり通し打ちというのは私には合っていなかったような気がする。

いきなり困難に直面して解決するという修業としての意味はあるかもしれないが、せっかく時間と費用をかけて行くのだから、それなりの収穫を得ることが大切と思うからである。時間的にやむを得ず区切り打ちとなったのだけれど、いろいろ調べて試しながらというのが私にはよさそうである。

次の遠征は来年の春、焼山寺に次ぐ遍路ころがしとされる、二十番鶴林寺から二十一番太龍寺の山道に挑戦する予定である。

[Nov 11, 2015]


30年越しの念願 EPOコンサート@原宿 ~せいうち日記88

先週の土曜日は奥さんと原宿へ。人混みが大嫌いな家の夫婦がわざわざ東京でも有数の激戦地に出かけたのは、EPOのコンサートを聴きに行ったのである。

EPOは私が単身大阪に転勤した時にたいへんよく聴いていて、そのことは前に書いたことがある。当時(1984年前後)、職場からすぐ近くの大阪厚生年金会館でコンサートがあって、何とかして行きたいと思ったにもかかわらず、その頃は午後9時10時まで仕事するのは当り前という環境だったのであきらめてしまった。

何かのはずみでそんなことを思い出してWEBで調べてみると、一時期引退していたと思ったが音楽活動を再開していたようで、年に何回かはコンサートも開いていた(ギリヤーク師と同じような回数である)。場所や日時の都合がなかなか合わなくて、ようやく年末のチケットを入手したのが9月。それ以来、かなり楽しみにしていたのである。

まず、会場にたどり着くまでが一苦労。時間が早かったので表参道の駅から歩いたのだけど、すごい人!前を歩く人も隣を歩く人も至近距離で、子供の頃の明治神宮の初詣を思い出した。横断歩道も、待つ人が多すぎて赤になる前に渡りきれない。お茶でもしようと思ったのに、それらしきところはすべて満員。人混みの大嫌いな家の夫婦には過酷な環境だった。

開場は4時半、開演は5時。会場は縦十数行の横30列だったので、400人ちょっとのキャパシティ、私よりも前の席には空席はないようであった(誰かが、前の方はファンクラブ席だと話していた)。

客層を見るとわれわれ夫婦と同年配か少し上、平均すると60歳前後で、もう少し上の人もいたけれども下の人はほとんどいなかった(家の奥さんによると、若作りしているだけで40代はいなかったそうだ)。男が3に対して女性は7くらいの比率で、顔見知りの人が多かったらしく、方々で「お久しぶり」と挨拶している。

インドアとアウトドアの違いはあるが、ギリヤーク師の路上公演とよく似た雰囲気である。年齢層が10くらい若いのだが、ギリヤーク師は路上47年、EPOは芸能活動35年だそうだから、あと12年経つと同じになるということである。

コンサートが始まりEPOが現れた。二の腕や背中、お腹周りがお太りになられた堂々たる体であるが、「このメンバーでピアノに挑戦してみました」とのことで両肩を出した黒いドレス(後半戦は白)である。思わず、「EPO神さま」という言葉が頭に浮かんでしまった。

最近の傾向なのか歌詞のよく分からないスピリチュアルな曲が多く、それでも会場の多くの人達が合図に合わせてコーラスしていたので、常連の人達にとってはこれが当たり前なのだろう。楽器もシベリアとかモンゴルの部族が使っているという見慣れないものが使われている。

そうした曲や楽器の紹介もそれなりに興味深かったものの、やっぱり一番うれしかったのは「ダウンタウン」と「土曜の夜はパラダイス」のメドレー、クリスマスということで「12月のエイプリルフール」。これを聴いただけで、30年前のことを思い出して胸がいっぱいになった。知っている曲はこの3曲だけだったのが残念だが、本人はいまでも現役だから、30年前の曲を歌ってほしいと思う方がわがままなのである。

村上春樹のエッセイで、誰だったがジャズプレイヤーのコンサートを聴きに行った時、いまひとつ物足りない。自分のところに彼が来てくれて「何か聴きたい曲はある?」と聞かれたらこの2曲をリクエストしようと思っていたら、何も言わないし聞かれてもいないのに、アンコールでその2曲を弾いてくれた。自分には超能力があるんだろうかという文章があった。私には超能力がないので、残念ながらそういうことはなかった。

それにしても思ったのは、一度逃したチャンスを取り返すのには結構な時間が必要で、できるならば宿題は後に残さない方がいいということである。EPOの宿題を解決するのに30年の月日が必要であった。いま現在残した宿題の解決に同じくらいかかるとすれば、その頃まで生きている確率はかなり低いだろう。

そして、30年前のコンサートに行かないで私が得たものは、ほとんど何もなかったということに気がつく。他人と同じことをすることにより得られる評価とか、その結果としての仕事のしやすさとか経済的利益があったとして、そうしたことはいまとなってはほとんど価値もないし、現在の自分にプラスとなっていないことは明らかなのだ。

だとすれば、いま現在、自分が何をすべきか、何を優先して判断すべきか、そんないろいろを考えさせられる夕べでした。

会場のクエストホール・エントランス。2Fはローラ・アシュレイ、ホールは3F。ここまでたどり着くのにすごい人でした。


開演前の会場風景(開演後は撮影禁止だったので)。客層は50代以上が中心で、ギリヤーク師よりやや若いとはいえ相当高い年齢層。


[Dec 23, 2015]

出張ついでのお寺回り ~せいうち日記89

1月の終わりに大阪出張があった。会社のカネで遠出ができる機会も残り少なくなったので、足を伸ばして法隆寺のあたりを歩いてきた。

法隆寺周辺を前に歩いたのは、四十年近く前、大学生時代のことである。当時は京都・奈良の仏像に興味があって、その時は法隆寺を見た後、中宮寺、法輪寺、法起寺とお参りさせていただいた。法隆寺は数年前にもお参りしており、その際に釈迦三尊にも百済観音にもお会いしてきたので、今回は法隆寺以外の3寺と、藤ノ木古墳に行くことにした。

一月の後半は天気に恵まれなくて、予定していた週末も雨がぱらついて寒くなった。予報では西から天気が回復することになっていたが、こればかりは行ってみなければ分からない。家を出る時は真っ暗で何も見えなかったけれど、伊丹空港を下りると真っ青な青空、風もなく空気も暖かく、穏やかな絶好のお散歩日和になったのには驚いてしまった。

伊丹から奈良に直行するリムジンバスもあるのだが、荷物を預けなければならないのでいったん難波に向かう。南海難波のコインロッカーに荷物と革靴を置いて、スポーツシューズに履き替える。法隆寺方面には、JR大和路快速が便利である。少し歩いてJR難波へ。

この駅は昔、湊町駅といって関西本線の始発駅ではあったのだけれど、当時はターミナル駅として整備されてはいなかった。現在は、ビルに囲まれた近代的な施設となっているが、昔は、路地ひとつ入ると何があるか分からないような微妙な地域であった。もっとも、それは大阪南部全体に言えることである。

ちょうどホームに停車していた大和路快速に乗る。今宮、新今宮と止まって次は天王寺。大阪下町の風景が広がる。JR幹線の駅前に「福祉アパート」なんて書いてあるのは、大阪ならではである。王寺を過ぎると各駅停車。法隆寺の次の大和小泉で下りる。ここから斑鳩に向けて、富雄川に沿って西に向かって歩く。

電柱の住居表示をみると、大和郡山市と書いてある。近鉄郡山駅は薬師寺・唐招提寺のある西の京から2つ目だから、意外と奈良からは近い。国道25号に突き当たったので右に折れる。やがて「斑鳩町」の表示が出てきた。

なにより、風もなく暖かでコンディションがいいのはありがたい。そういえば、四十年前に歩いた時は雨降りで、大層つらい歩きだったことを思い出した。あの時はまだ20歳前後だったから生まれて20年、今回は60歳間近だから、あと生きていられるのが大体20年。人生の対照的な時期に歩いているんだなあと妙に感激する。

国道25号は四十年前にも通っているはずだが、景色には全く覚えがない。とにかく寂しくて交通量のない道路だったような気がするのだけれど、目の前の道は賑やかで、ひっきりなしに車が行き来している。過ぎた日々は戻ってこないし、現実にあるのは目の前にあるものだけなのだと改めて思う。

大和路快速で大和小泉まで。そこから富雄川に沿って進み斑鳩町に入る。前の日も次の日も寒かったのに、この日はぽかぽか陽気。


おだやかな1日。これから法起寺に向かいます。


[Feb 15, 2016]

定年間際に隔地転勤 ~せいうち日記90

先月末は公私にわたっていろいろなことがあった。 まず「私」の方から。2月25日から28日の3泊4日の日程で、第四回の四国遍路区切り打ちに行ってきた。今回は歩いた3日ともに快晴・微風でコンディションは良好、予定どおりJR徳島駅からスタートして十八番恩山寺から二十三番薬王寺までお参りさせていただき、薬王寺からさらに16km先のJR牟岐駅まで歩いて今回の区切り打ちを終了することができた。

これまで3回の区切り打ちは2日連続までの歩きだったので、3日続けて歩いたのは初めてであった。さすがに3日目の午後は足が上がらなくなったが、それでもタイム的には大きくロスすることもなく牟岐駅まで着いたので、今後の目処が立ったと言えそうである。今回から導入したミズノのウォーキングシューズも快調で、疲れたのは体力が不足していたためである。

牟岐まで来たので、次はいよいよ室戸岬へのロングウォークである。55号線の距離表示が阿波福井あたりでは98kmあったのが、牟岐町に入った頃には60km台まで縮まってきたので、約3分の1は歩いたことになる。残り3分の2にはどんな困難が待ち受けているのだろうか。

さてもうひとつは「公=会社」について。あと定年まで1年余り、その前には辞めるつもりで準備していたところ、なんと隔地転勤の辞令が出た。いったい何を考えて人事配置しているのか首をひねるところではあるが、察するところ嫌がらせであり退職勧奨なんだろう。まあ、それはそれで仕方がない。給料をもらう以上は、どこで働かせるかは会社の裁量である。

隔地転勤はほぼ35年ぶりのことである。奥さんには奥さんの生活があるし、そんなに長くいるつもりもないので単身で行くことにした。三十何年かぶりに一人暮らし、これで家の家族4人全員がそれぞれひとりで住んでいるという大変不経済なことになった。

長くて半年、寒くなる前には戻ってくると話をしたところ、暑い時期なら行ってきていいと言われてしまった。冬には、奥さんの布団を体温で温めるという太閤秀吉の草履とり時代のようなことをしているのだ。よく考えれば、奥さんが出産で里帰りをしていた時期には、何ヵ月か一人暮らしをしていたこともある(その時は枚方市の樟葉にいた)。

先週、新しい拠点となる借上げ社宅を見てきた。2DKのフローリングで、築十数年にしてはきれいに使ってある部屋なのだが、なんと4階建ての4階エレベーターなし。還暦まであと1年という親父にとっては過酷である。

借上げだから仕方ないのだが、4つあるガラス窓のカーテンと、3つある部屋の電灯が付いておらず、住むとなると新らしく買わないといけない。フローリングだけだと寒々しいのでラグぐらいは敷きたいし、結構な物入りになる。ベッドや冷蔵庫などの大物家具は、レンタルで調達する予定ですでに申し込んだ。

まあ、いい方に考えれば、辞めるのにちょうどいいタイミングを会社の方で用意してもらったということだが、その間にもいろいろ入ってくる仕事の段取りを組んでしまうのは、40年近く続けてきたサラリーマンの習性というのかどうか、いずれにせよ因果なものである。

急きょ買い揃えたお引越しの品々(の一部)。帰ってからのことを考えなければならないので大変。


さて、先日書いたように定年間際に隔地転勤させられてしまい単身赴任となってしまった。会社の用意した借上げ社宅は2DK、一人暮らしには十分な広さだが、エレベーターなしの4階建て4階なのは年寄りにはきついし、ゴミ当番があるというのも難儀である。

まあ、先が見えているだけに贅沢は言っても仕方がない。問題は、何ヵ月か暮らしていくだけでもそれなりの所帯道具がいるということである。普段から節約生活を心がけているところではあるが、こういう時に節約してもかえってストレスがたまるだけである。おカネがかかる時には、使わなければならないのである。

とはいえ、近々帰って来るのであるから、持って帰って置くところがなければ困ることになる。そこで、冷蔵庫と折り畳みベッド、テーブルセットはレンタルを利用することにした。WEBでいろいろ探したけれど、信頼性の点でクロネコヤマトが安心だと思うのでお願いすることにした。配送料込みで43,000円、帰りの配送料は引っ越しとセットにするとサービスになる。

TVはほとんど使わないけれども、朝の体操とニュース・天気予報くらいは見るから、どうしようか迷った。レンタルすると中古でも1万数千円、新品だとその倍、プラス配送料がかかるので買っても借りても値段は大して変わらない。以前から奥さんが、自分専用に小さいTVが欲しいと言っていたので買うことにした。Amazonでシャープの19型旧式、24,800円を購入。

布団も購入とレンタルが大して変わらないものの一つである。クロネコのレンタルだとシーツ込みで1万数千円かかる。それなりにいいものを貸してくれるのだろうが、同じ値段なら買った方が安心である(クリーニングしてあるとはいえ、他人の使った布団というのもちょっと)。やはりAmazonで、評判の悪くなかったエムールの国産布団セット、シーツ込み11,080円を購入。

掃除機はレンタルの方が安いけれど、奥さんがこの頃2階に掃除機を持って上がるのが難儀だというので、この際だから買うことにした。奥さんの希望するマキタのターボをカタログハウスから購入、13,830円。また、電灯は3部屋付いていないのだが、2部屋分だけ買った。LED8畳用をジョイフル本田で6,980円、6畳用が5,980円。帰ったら古い蛍光灯と付け替える予定である。ここまでですでに10万円オーバーである。

一方でレンタルも購入もしなかった大物は、電子レンジと洗濯機である。電子レンジは普段からあまり使わないし、一人暮らしで冷凍食品というのも味気ないので、積極的に外食を利用するつもりである。また、洗濯は歩いて3分でコインランドリーがある。洗濯・乾燥で1回400円として25回で10,000円。レンタルだと10,000円+配送料である。

カーテンは自分としてはあってもなくても同じだが、他所さまから見て部屋の中が丸見えというのも何だし(実際は4階建ての建物があまりないので、こっちがそう思うだけかもしれない)、防音・防寒効果も考えてひととおり用意することにした。

近くにある家具屋のバーゲンで、左右セットで税込1000円というのを売っていて、奥さんが言うには値段ほど悪くないとのことなので、窓3つ分、カーテン&レースで6組6,000円。ここでなんとダイニング用のラグ、約2畳が2,480円という嘘みたいな値段で置いてあったので併せて購入。

意外と費用がかかったのは生活雑貨である。バスタオル、フェイスタオルと下着、靴下は洗濯の頻度を考えて4セットずつ。それにお勝手と浴室の洗剤とスポンジ、クイックルワイパー、ゴミ袋をセットできるキャスター付きスタッカー、鍋、ざる、ボールなどなど、あっという間に2万円以上飛んで行ってしまったのにはびっくりした。

そんなこんなで、今週には奥さんと2人で引っ越しをする予定である。高速代まで含めると、今回の引っ越しにかかる費用は20万円近くになりそうだ。引っ越し業者を使わないので会社からは出ない(見積り合せをしろとか言われる。時間がないし面倒くさい)。帰る時には辞めているので、やはり会社から引っ越し代は出ない。

[Mar 21, 2016]

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