せいうち・・・セイウチ科セイウチ属の肉食獣で、北極圏に生息する。体重は成獣で500kgから1200kgに達する。最初は減量日記で始まりましたが、日々は移ろい、リタイア生活の徒然日記になりました。
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91単身赴任のお引越し   92ゴミ出しと洗濯のストレス   93カウントダウン
94サラリーマン最終月   FA初日   95待望のリタイア   96リタイア1ヵ月   97リタイア2ヵ月
リタイア3ヶ月   98年末に向けて   99少欲知足   100落ち着いた訓練生活  


単身赴任のお引越し ~せいうち日記91

そうこうしているうちに、あっという間にお引越しの日になった。 前回書いたように、冷蔵庫、折り畳みベッド、テーブル・椅子はレンタル、あとの世帯道具は自力(+奥さん)で運搬するか買うことにしている。ヤマトのレンタル品運び込みは3月23日。この地域は時間指定ができないというので、朝一番から待機しなければならない。そのため、前日の22日に世帯道具運び込みと買い物をして、そのまま現地近くに泊まることにした。

時間が読めないので朝6時に家を出る。千葉北インターではすでに箱崎まで60分という状態で、この後さらに渋滞がひどくなりそうな気配。さすがに3連休の休み明けである。ならばアクアライン経由で都心を避けることにした。千葉北から館山道で木更津へ、さらにアクアラインで川崎から横浜、距離は長いが渋滞はない。

この日は荷物を積んでいるので後方が見えづらく、車線変更はなるべくしたくないし、安全第一である。横浜までは順調に流れ、保土ヶ谷バイパスに入るとさすがに混みだした。でも、東名と直につながったせいか昔ほどの混み様ではなく、比較的すんなりと東名に乗り、10時過ぎには御殿場まで来ることができた。時間もあるので、沼津港でお昼を食べて行くことにした。

お引越しの2日間は本当に暖かく穏やかな天気で、風もないぽかぽか陽気だった。沼津港に着いたときはまだそれほど人は多くなかったが、帰りはお昼時のせいか人も多く駐車場も満杯になってしまった。市場の回転すし店でタイムサービスのセットと、一品ものを見繕ってお願いした。奥さんによると、一品で頼んだあじが絶品だったそうだ。

沼津港からは沼津アルプス麓の一般道を通って引越し先である修善寺へ。現地で不動産屋さんと待ち合わせて鍵と書類を受け取り、部屋を開けて荷物を運びこむ。LEDや掃除機、TV、ラグ、カーテンなどの大物があったので、エレベーターなしの4階建て4階まで、2人で5、6往復しなければならなかった。

とはいえ、2DKあるので荷物を持ってきてもがらんとしている。それとテーブル・椅子がまだ届かないので壁を背にして座らなければならず腰が痛くなった。後から風呂用の椅子を買ってきたので、それに座ると具合がよかった。電気・水道は連絡してあったのでブレーカーを上げて栓をひねるだけ。連絡してあったガス会社も来て、4時までにはライフラインが開通した。

その日の作業はそこまでで、近くにあるラフォーレ修善寺に向かう。このホテルはいまから26年前の1990年、まだ銀行員だった時代にゴルフに来たことがある。その時は仕事が終わってから夜の新幹線で三島まで、そして三島からタクシーでここまで来て泊ったのである。4人で割ったとはいえ、豪勢なことであった。

四半世紀も前のことなので、どういうホテルだったか全く覚えていなかったが、夜お風呂に入った時、お風呂から斜面に見通しが利くようになっていて、雑木が植わっている景色を見たら、そういえばこういう景色だったと思いだした。その斜面はホテル周囲の遊歩道になっていて、翌朝奥さんと歩いて見ると結構な起伏があった。

翌日は8時過ぎに現地に入り、ヤマトからの連絡を待つ。9時頃に電話があり、午後1時半から3時半の予定だという。遅い時間だと帰りは渋滞に巻き込まれてしまうので、できるだけ早くしてくれるようお願いする。午前中が空いてしまったので、近くのホームセンターで追加の買い物をし、郵便局に公共料金自振の書類を取りに行く。

駅に戻って、奥さんが食べたいと言っていた桜海老かき揚げそばを食べ、あじ寿司のお弁当を夕飯用に買う。このあじ寿司はけっこう有名で、翌週の「昼なんです」で紹介されたそうだ。駅前に本店があり、駅の中に駅弁の売店がある。

ヤマトが来てくれたのは1時半。ありがたいことに指定時間のうちいちばん早くに来てくれた。レンタルの冷蔵庫等を運び込むのに、20分もかからなかった。午前中に買ってきた買い置きの飲み物類を冷蔵庫に入れて、折り畳みベッドの上に布団を乗せると、今回予定したお引越し作業は終了である。2時10分過ぎくらいに戸締りをして退出した。

帰りは渋滞に巻き込まれないうちにと、ノンストップで家まで帰ってきた。首都高を渋谷に向かっていると途中から湾岸に抜ける道ができていて、これを通るとほとんど渋滞なく東関東道に出ることができた。家まで3時間ちょうど。もしかしたら行きもこちらを通った方が早かったのかもしれないが、知らなかった道なので仕方がない。

さて、世帯道具等は運び込んだものの、着替えの私服や寝間着、スポーツウェアなどはまだ家にある。引越し業者を頼んでいないものだから、それらの荷物はまたもや手で運んで行かなければならないのである。

お引越しの日はラフォーレ泊。前回は26年前にゴルフで来ました。


3月22~23日に第一陣引越しをした後、さらに二度自宅・社宅間を往復してようやく一通りの荷物を運ぶことができた。もちろん足りないものはたくさんあるけれども、とりあえずある物で何とかするしかない。

4月3日にはこちらのスポーツクラブに行って、入会手続きをした。歩行用プールは狭くて短かったけれど、自宅近くでやっているマシントレーニングは大体できるので、その点では安心した。それと、 付属の温泉施設にフリーパスとなるのはうれしいことで、トレーニング後はたくさんある浴槽にかわるがわる入って1日の疲れをいやすことができる。

それともう一つうれしかったのは、この温泉施設はタオル、バスタオルが無料で付いてくることであった。最初の日にはバスタオルを使わないで帰ってきて、これはうれしい誤算であった。つまらないことのようだが、洗濯物が少なくてすむというのは一人暮らしにとってかなり家事負担を減らすことになるのである。

60年近く生きてきて、生活リズムを変えないで過ごすというのは心身の健康にかなり重要なことだと思っている。

具体的には、朝は決まった時間に起きて、ちゃんと朝ごはんを食べて、決まった時間に会社に行くのがベストである。こちらに来てから、借上げ社宅にはネット環境がないものだから、いつもどおり5時半に起きてもネットができない。でもその時間に朝ごはんの支度をしているので、結果的に5時半に起きて6時25分のテレビ体操をちゃんとすることができる。

朝ごはんの献立は家にいる時とほとんど同じで、パンとコーンフレーク、コーヒー、ヨーグルト。パンにはハムとチーズを乗せる。奥さんが作ってくれる野菜料理がないので、毎朝1本ずつ野菜ジュースを飲む。コーヒーは家と同じ豆を持ってきた。ハムとか牛乳・ヨーグルトも同じ銘柄である。行きつけのパン屋さんのパンが食べられないのが、かなり物足りないところである。

これまでの通勤時間は、朝食の後片付けや簡単な掃除、着替えや持っていくものの用意をする。家にいる時は奥さんに任せきりなので、結構手間がかかることが分かるし要領を得ないので余計に時間がかかる。実はこの時に、これまで通勤時間帯に聴いていたiPODを流している。いつもと同じ音楽を聴いていると、違う環境なのに普段どおりの1日のように思ってしまう。

現在、夕ごはんのスタイルを確立すべくいろいろ試しているが、朝ごはんのようにいくかどうか微妙なところである。基本は近くのトップバリューで洗わずに使える野菜サラダを買ってきて、それに何か(ハムとかハーブチキンとかコロッケとか)を乗せて食べている。炭水化物は家から持ってきた素麺を少しずつ。あと、納豆orもずく、これもトップバリューで買った。

アルコールは、ひとりでいる間は飲まないことに決めている。多少もの足りないと思うくらいで、歩いて20分のトレーニングジムに行ってしまう。帰ってきたら疲れて寝るだけである。これでも野菜不足は否めないと思うので、ネイチャーメイドのスーパーマルチビタミン(高い!)を買ってきて毎日飲んでいる。もしかすると、意図しないダイエットになるかもしれない。

[Apr 12, 2016]

ゴミ出しと洗濯のストレス ~せいうち日記92

単身赴任生活は、早くも1ヵ月が経過した。長いようでもあり、短いようでもあったが、それなりに生活リズムというのか、日常生活のペースをくずさずに毎日を過ごすことができているので、いまのところ心身のストレスはそれほど大きくない。このまま残り何ヵ月かを打たれ越すことができれば何よりである。

前にも書いたけれども、いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じようなものを食べて、ジムに行って体を動かし、いつもと同じような時間に寝ることができれば、体も同じようなリズムで動くのではないかと思っている。もちろん、自分でごはんを作ったり片付けをしたり、掃除をしたり洗濯をする訳だから全く同じという訳にはいかないが、「できるだけ」ということが大切である。

こうした中で、あまり予想していなかった新たなストレスが生じてしまっている。それは、ゴミ出しと洗濯に関することである。

住んでいる伊豆市はゴミの分別にうるさい上に、賃貸の単身赴任者にもゴミ当番というものが回ってくる。燃えるゴミが月・木で、火曜と金曜が隔週ごとに缶の日であったり、ペットボトルであったり、プラスチックであったり、新聞・雑誌であったりする。逆に言えば、収集の日が来なければ家の中にゴミが残っている状態になるということである。

家に住んでいれば、家の中にゴミが置いてあるということはないし、だいいち奥さんがやってくれる。でも、単身赴任ではすべて自力で解決しなければならない。するとどうなるかというと、できるだけゴミは家に残さないということになる。

そのくらい誰でもやっているかもしれないが、ペットボトルや牛乳パックは近くのトップバリュにこまめに捨てに行っている。段ボールや紙関係は、やはり近くのショッピングセンターに分別して置く場所がある。それでも生ゴミは捨てられる場所はない。よく駅とか高速のPAに、「家庭のゴミは持ち込まないで下さい」と書いてあるが、その気持ちがよく分かった。

第二フェーズとして、ゴミが出る調理をするのは、できるだけ収集前日の日・水曜日に集中することになる。でも、なかなかそううまくは行かない。だいいち日曜日はぎりぎりまで自宅にいるので、社宅に帰るのは日曜日遅くか月曜日になるのだ。すぐにゴミ出しである。それに、いくら工夫しても、すべてゴミ収集日に合わせてサイクルを回すのは無理である。

そういうことで、ゴミ収集に合わせてゴミが出るようにするというのはなかなか難しい。この間などはゴミを出したくないというそれだけの理由で、夕飯をバーミヤーンで食べてしまった。食べながら、1000いくら出せばもっといろいろ作れるし、残りの具材を翌日以降に回せるなぁと思ったりして、新たなストレスの素を作っているのである。

もう一つのストレスは洗濯である。実は引越してすぐの頃には、家にいるのと同じペースで洗濯物を出していたところが、3日4日でかなりの量になってしまった。洗濯機を用意せずにコインランドリーを使うことにしていたから、持って行ったり持って帰ったりするのが大変になってしまった。

理論的に、解決方法は2つしかない。もっとこまめに洗濯に行くか、洗濯物を減らすかである。前者については、会社から帰って洗濯に行くのは大変なので、朝1番で行くことにした。幸い、近所のコインランドリーは午前6時からやっている。朝ごはんの後に洗濯に行き、ほぼ1時間でできるので取りに行って、ついでに7時からやっているトップバリュで買い物をしてしまう。

こうすると、週に2回くらいは洗濯することができる。もう一つは、洗濯物そのものを減らすことである。例えば、顔を拭くたびに取り換えていたフェイスタオルを毎度毎度は替えないとか、ジムに持っていくのはスポーツタオルではなく薄手のタオルにするとか、そういうことである。

自分でも、いちいち洗濯物が増えるかどうか気にするのは、気の小さいことだと思ってしまうので嫌なのだが、洗濯に行く手間と費用を考えると仕方のないことなのである。まあ、手間と費用で解決する問題であると言ってしまえばそれまでのことなのだが。

[May 2, 2016]

狩野川堤防を歩いて駅まで。サラリーマン生活最後にこういう環境というのは感慨深い。


カウントダウン ~せいうち日記93

6月も半ばとなり、単身赴任生活を切り上げる時期まで1ヵ月を切った。こういう状況は今月限りなので、いまのうちにリアルタイムの心境を書いておくのもいいだろうと思って書いている。

考えてみると、自分でごはんを作って掃除・洗濯をしてゴミ出しをして、着替えて戸締りをして出勤するという生活は、奥さんが出産のため里帰りしていた時期以来のことなので、かれこれ30年以上振りのことである。逆に言えば30年そういうことをしないで暮らしてきた訳で、いきなりそれができた(かなり疲れたものの)というのは、我ながらなかなかやるじゃないかという気がしている。

もっとも、海外旅行をしたり長期出張をしたり、山を歩いたりしているものだから、自分のことを自分でやる習慣が全くなかった訳ではない。それでも、月単位でということはなかったから、それなりに意味があったということだろうし、老後に向けて自力で生活してみるということは大切なんだろうと思う。

ただ、そもそもの話として、家族がある以上は本来、「単身赴任」をするものではないといまでも思っている。今回は短期間で終了する予定だったし、距離的にも毎週末帰ってくることが可能だったからそうしたけれど、人生何があるか分からない。年齢的に体調の変化が急に訪れて不思議ではないし、そうなった時に3時間半離れていたら何もできないに等しい。

とはいえ、住み慣れた一軒家から3部屋しかないマンション(アパート?)の一室に引っ越すというのは、精神的肉体的に負担が大きい。自宅にいれば鳥の声しか聞こえないのに、国道沿いの社宅では朝早くから夜遅くまで車の騒音がずっと続き、窓を開けておくこともできない。昼間は会社に行っている亭主はともかく、家族は一日家にいるのである。家族赴任は現実的でない。

だから、いまさら「バカ会社」に何を言ってもムダなのだけれど、本来は住む場所を自分で選んで、そこで家族で生活して会社にも通うというのが本当なのである。会社で部屋を確保して借上げ社宅にして、安い家賃で住ませてやるからありがたく思えなどというのは、はっきり言って大きなお世話である。

もう26年も前のことになるが、合併のごたごたもあって最初の会社を辞めた時のことを思い出す。

その時も、このまま残っていたら体かメンタルかあるいはその両方を壊すに違いないという確かな予感があった。難破しそうな船からは、港にいる間にネズミが逃げ出すという。ネズミだって住み慣れたねぐらがいいに決まっているが、海の上で沈んだら助かることはできないのである。100%の自信がなくたって、逃げられる時に逃げた方がいいに決まっている。

いまの会社も、まったく同じように合併してから急におかしくなった。もしかしたらあと2つ3つの港くらいは何とかなるかもしれないが、すでにいろいろな徴候が現れているように感じる。私が自分自身を省みて思うのは、最善の選択はなかなかできないとしても、最悪の選択はしないだろうということである。若い頃に勉強した統計的な決定理論が役立っているのかもしれない。

[Jun 16, 2016]

サラリーマン最終月 ~せいうち日記94

単身赴任で隔地転勤となり、辞める前に40日の有給休暇プラス未消化有給休暇100日を何とか少しでも使えないかと算段していたのだが、くよくよ考えているのが時間の無駄なような気がして、サッパリと辞めることにした。

休暇はいらないと言ったのがよかったのか、そもそも隔地転勤自体が退職勧奨だったのかは何とも言えないところだが、特に面倒もなく7月末で退職が決まった。時期的に仕方ないが7月最終週まで出張があるし、他にも仕事の予定が入っている。とはいえ、来月からいないのだから、新しい仕事を他人任せにできるのはありがたいことである。

何人かの人に「急な話ですね」と言われたのだが、もともと会社とは今年初めからしていた話なので、自分としてはそんなに急に決めたという訳ではない。それでも、普通は3月とか9月とか期の切れ目まで勤める人が多いから、その意味では普通とは違う。それが7月という時期になったのは、自分の中でセンサーが鳴りっぱなしになっていたからである。

聞こえない声で、「カネとか休暇消化とかにこだわっていたら、大事なものを失うことになる」というメッセージが届いていた。単身赴任というのがまずよろしくないし、ストレスで心身を壊したら元も子もない。こればっかりは、後悔先に立たずでは困る(もちろん、人繰りが厳しいのに慰留されなかったのもありがたいし、ボーナスをもらった後ということもある)。

さて、退職するのも3回目だから、もうベテランである。手続き的なことや経済的なことは、改めて「年金生活特別編」としてお送りするつもりであるが、とりあえずは現在の生活を収束させなければならない。東京にいれば、大変なのは仕事の後片付けと引継ぎだけなのだが、単身赴任先なのでまず生活拠点を戻さなければならない。これがまた、なかなか大変なのであった。

短期間で戻ってくるつもりだったから、大物の生活用品のうちベッド、ダイニングテーブル、冷蔵庫はレンタルで調達した。これは返却すればいい。洗濯機はコインランドリーで代用したし、電子レンジは使わないですませたからこれもなし。比較的かさばる家具で持って帰るのは14型のテレビ、スボンプレッサー、掃除機くらいで大したことはない。

いる間は、がらんとした部屋にソファもなく、ネット環境もなく、テレビは小さいし、くつろげる空間ではなかったものの、引き上げるとなると後始末は簡単である。クロネコヤマトに引っ越しを頼むと、レンタル品の回収費がタダになる。荷物が少ないので、2万円の単身パックで十分である。

あとここにいるのもわずかと思うと、毎朝カーテンを開けると狩野川と天城連峰を望むことができる景色は悪くなかったし、体重や体温、血圧を測り、そのままキッチンでコーヒーを沸かし、朝ごはんを食べたのもなつかしい。6時前には開いたばかりのコインランドリーに急いで、最も安い「洗濯・乾燥500円」の機械を早い者勝ちで取ったのもいい思い出である。

仕事が終わればスパゲティを茹でて簡単な夕食を食べた後、大仁金山跡に建つスパ&フィットネスに毎日のように歩いていくのも楽しかった。そこまで歩いていく途中には、垂直に立ち上がる城山の岩壁も見えて、この前あそこに登ったなあと思ったものである。

でも、人生すべてにおいて、いまの現実は必ず過ぎ去っていく。その場その場でベストを尽くしやるべきことをきちんとやっておけば、後から思い悔やむことも少ないと思っている。

5ヵ月弱を過ごした借上げ社宅。リビングダイニングのテーブルと寝室の折り畳みベッドだけが、家具らしい家具だった。


7月10日の日曜日に奥さんが来て、引っ越しの荷作りをした。

クロネコヤマトの引っ越しに、「段ボールを」と頼んだら、「どこで買ったのでも使えますから。ホームセンターのでも」ということなので、歩いて3分のカインズに行ってMサイズとSサイズを買ってくる。確かに、クロネコの値段と比べると約3分の2である。

考えてみれば、スーツ類は持って帰っても着る機会はほとんどないだろうから、乱雑に段ボール1箱に詰めてしまう。普段着やスポーツウェア、タオル類は、緩衝材代わりに食器など割れ物を包んで段ボールへ。こちらに来る時に新規購入したテレビと掃除機、LEDライト、ズボンプレッサー、トースター、布団一式は、包装をそのままとってあったので元通りに包む。

2時過ぎから始めたのに、荷物が少ないのと2人でやっているのとで、2時間余りで荷造りは終わってしまった。こちらに移った時は3回に分けて荷物を運んだし、片付けやら配置やらで結構時間がかかったような気がするのだが、引き上げるとなるとあっさりしたものである。

集荷は翌11日の月曜日。私は会社に行き、奥さんがクロネコヤマトに対応。後から聞いたところ、2人で来ておそろしい速さで荷物をトラックに運び、レンタル品を分解・回収して、1時間もかからないで終了してしまったそうだ。電気、ガス、水道はすでに連絡して手続きを済ませてあったので、水回りを確認し、ブレーカーを落とし、施錠して一件落着である。

引っ越し当日は終了時間がはっきりしなかったので、いつも行っている大仁温泉フィットネス付属の宿泊施設(コテージ)を予約してあった。コテージの方は昭和の香りがする古い建物で、冷房の効きも良くなかったのは残念だったが、温泉の方はいつもながらのんびりゆったりできた。

会社の引き継ぎについては、もともと身の回りはきれいに整理してあったので、私物は持ち帰って引っ越し荷物に入れたり、最終日に宅配で家に送ったりしてあまり手間はかからなかった。仕事の引き継ぎも、普段から引き継ぎ書類を作っておく習慣があったので、それほど追加で行う作業はなかった。

まあ、作業手順やペンディング事項については、いくらデータに残してあるといっても、頭の中身までは引き継ぎできないので後の人にがんばってもらうしか仕方がない。最後にパソコンのメモリや、インターネットの閲覧履歴を消して終了。IDとパスワードはポストイットに書いてキーボードに貼っておいた。

考えてみれば、いまの会社にいるのも23年目になるから、その前の14年と合わせてサラリーマン生活は37年目ということになる。長い年月だったと思う一方、あっという間だったような気もする。就職した頃は、これで夏休みがなくなってしまうと真剣に悩んだことがなつかしい。これからは毎日が夏休みになる(はずである)。

[Jul 18, 2016]

片付けが終わり、がらんとしたリビングダイニング。短い間でしたが、お世話になりました。


FA初日 (注.ホームページのごあいさつにありましたが、こちらにまとめました)

23年勤めた会社を7月末で退職し、今日からFA(フリーエージェント)になった。

思えば、早かったようでもありいろいろあったようでもある。退職に向けた算段をするようになったのは10年以上前だからもちろんいろいろあったし、具体的な資金繰りをし始めたのは1年前で、いろいろくよくよしながらも早く過ぎてくれてよかったと思う。

公私にわたるストレスから解放されて、いま現在は正直言ってほっとしている。そして、とりあえずやらなくてはならないことが結構あるのだが、それと同時に心がけなくてはならないのが新たな体制の構築である。

これまで数十年の間、いい意味でも悪い意味でも、勤務先からミッションが与えられて、それを効果的効率的にこなしていくという毎日を過ごしてきた。自分には適していないしやりたくもないミッションがほとんどだったとはいえ、やらなくてはならない仕事は常に目の前にあったし、それさえこなしていれば少なくとも生活には困らないというメリットもあった。

しかしこれからは、ミッションを指示するのも自分だし解決するのも自分である。考えてみれば、そういう立場になるのは初めてである。これからはこういう生活をしてこういう境地を目指したいという構想はあるけれども、それをどう具体的に達成していくかこれから考えなくてはならない。

ともあれ、これまで60年生きてきて、これから先1年後まで生きていられない確率が約2%ある。2年後だと4%になるし20年ちょっとで50%になる(平均余命ということだ)。ポーカーを集中的にやってきて、2%だの4%だのといった確率の事象が、実にしばしば目の前で起こるのを見てきた。身体的感覚でいえば、起こってほしくない25%は、半々の確率で実際に起こる。

その意味では、サラリーマンを辞めるにはいい時期だったと思うし、最悪の場合の被害を最小にするという統計的決定理論(ミニマックス理論)からすれば、最も適切な選択であっただろうと思っている。

[Aug 1, 2016]

待望のリタイア~せいうち日記95

7月末をもって23年と4ヵ月勤めた会社を退職、待望のリタイアを果たすことができた。この先どういう展開になるか分からないが、とりあえず現時点の感想を書き残しておくことにしたい。

7月最終週まで出張の予定が入っていたのだけれど、7月半ばで借上げ社宅を引き払って千葉ニュータウンの自宅に戻ってきた。それから後、出張や最後の出勤は自宅から行った。

日に日に、仕事絡みのストレスがなくなっていくのが自分でも分かって、本当によかったと思う。退職前は使わなかった数十日の休暇が心残りだったが、そんなものどうでもよくなったのは自分でも不思議である。

さて、巷間よく言われているのが、退職前後に心身の状態がおかしくなる人が少なくないということである。実は自分自身ではあまり心配していなかったのだが(なんたって3回目である)、それでも、ある程度心がけておいたことがある。ひとつがフィジカル面、もうひとつがメンタル面である。

まずフィジカル面について書くと、心がけていたのは、会社がないからといって不規則な生活になってはよくないということである。ただでさえ生活が激変するのだから、生活のリズムはできるだけ変えないようにして、体にあまり急激な変化=ストレスを与えないことが大事だと思った。

だから、サラリーマンの時と同じく朝は5時から6時の間に起きて、6時25分からのテレビ体操は必ずする。その後朝ごはんを食べ、午前中はパソコンに向かって、ブログやホームページに手を入れたり、秋の計画のための下調べをする。通勤がないだけで、パソコンに向かっているのは会社の時と変わらない。

前から気になっていたホームページのリンク切れやデザイン乱れに手を入れ始めたら、なにしろ1000本近くの記事があるものだから、次から次へとやることが出て来てしまった。おまけに、自分が昔書いた文章を読んでいると、つい読み入ってしまって作業が中断する。書いた当時のことはほとんど覚えていないので、ほうほうよく書けているな、と思ったりする。

そういえば、先週末からリオ・オリンピックが始まったけれど、ホームページの作業をしているのでほとんどTVを見ていない。ボクシングを日本選手以外を含めて予選からやってくれれば見るけれど、普段見ないスポーツを見ても楽しくない。

あっという間に11時を過ぎてお昼の時間である。昼は少し早くなった。会社の時と同様にカロリーメイトで済ますこともあるし、奥さんは昼をしっかりとる主義なので、つきあって食べたりする。お昼ごはんの後は読書の時間。眠くなったら昼寝をする。国道沿いの社宅では車がうるさくて昼寝どころではなかったが、自宅周辺は静かで昼寝を妨げるものはない。

週に4、5回、午後遅くか夜にスポーツクラブに行く。前半はジム、後半はプールで汗を流す。会社勤めをしていた時と行く回数は変わらないが、トレーニングの時間は少し増えた。通勤がない分歩くのが少なくなっているので、エアロバイクやプール歩きの時間を増やすよう心掛けている。

<プールの後はお風呂に入って、空いていればマッサージ椅子。帰って9時か10時には布団に入る。7月は涼しい日が多くて、エアコンなしで眠れる夜が続いたのは、体調にも経済的にもありがたかった。8月は連日暑くて、夜中もエアコンがないと厳しく、電気代が心配である。

リタイアすると亭主が奥さんに濡れ落ち葉のようにまとわりついて、奥さんが「亭主在宅ストレス症候群」になってしまうという話があるので、意識してできるだけ生活は別にするようにしている。

幸いなことに私はほとんどひきこもり生活だし、奥さんは庭に出るのが好きである。夏の間は汗をかくので外出するのは気が進まないが、気候がよくなったら本屋や図書館に行って、ウィークデイに何日か家にいない日を作ろうと思っている。

単身赴任先から帰ってきた時の引越し荷物。クロネコヤマトの単身パック2万円で賄うことができました。


リタイアに当たり心がけたことのもう一つは、メンタル面である。メンタル面は非常に重要で、くよくよ考えていたらフィジカル面に間違いなく影響する。気を付けていたことは二つ。働かないことに対する負のストレス、大げさに言えば罪悪感みたいなものにどう対処するかということと、かつての勤務先に対する不満からどうやって気持ちを切り替えるかということである。

約三十年前に最初の転職をした頃、時間ができて読み始めたのが藤沢周平であったが、彼の作品「三屋清左衛門残日録」の中で、隠居した清左衛門が「自分を世の中に無用な存在であると思う」という表現があった。これに限らず、世の中には死ぬまで働くのが人間として当然なのだという書き物があふれている。

せっかく時間を自分の好きなようにできるというのに、そういうネガティブな考え方をしていたらメンタルによくない。それにもともと、「死ぬまで働け」というのは「若い時には苦労して当然」というのと同様、他の誰かにとって有利な考え方であって、当人にとって有利という訳ではない。みんながそう思えば、上前をはねる誰かの取り分が増えるだけのことである。

それに、働くのが作物を育てるとか、物を作るとかいうのならともかく、いま働こうとすればそれはほぼすべて「他人のカネ儲けの手伝いをする」ことである。何かを達成する結果としてカネ儲けになるならばともかく、いまの世界はカネ儲けのためのカネ儲けである。そんなことを死ぬまでする必要はない。

歴史をさかのぼれば、衣食住の生活を確保できた人間が次の目標としてきたのは、思索であり探究である。もちろん、浮いた時間もさらに働いて田畑を耕し、家族が末永く飢えないようにするというのが近代以降のスタンダードだったかもしれないが、貯蓄(耕作地を増やすこと、住みやすい家を作ることを含めて)にはきりというものがない。どこまでいっても、これで十分ということにはならない。

WEB上をいろいろ見ても、リタイア後の生活について圧倒的に多いのは、どう収入を確保するかということである。デイトレードとかアフェリエイトとか、検索の上の方に来るのはそういった記事ばっかりで、そうでなくても年金の上手なもらい方とか節約の仕方とか、カネ勘定損得勘定ばっかりである。

私だって、霞を食べて生きている訳ではないし、首都圏に住んでいれば東京電力や東京ガス、NHKやCATVから請求が来る。でも、もう損得とかそういうことに必要以上に神経を使うのは嫌だ。幸いに、潤沢とはいえないまでも多少の蓄えがあるし、60歳以降は年金の繰上げ受給が可能である。だから、もっともストレスが少ない生き方にシフトしていくつもりだ。

もう一つ、かつての勤務先に対する不満は、忘れようとしているのだが時々頭に浮かんでくる。前にHPに書いたように、「狡兎死して走狗煮ら」れないよう身を処した范蠡(はんれい)の生き方を目指してはいるものの、理屈通り行かないのは人間だから仕方がない。

若い頃在籍した2つの組織は、このままではダメだろうと思って辞めたら、まさにそのとおりで、2016年の現在では組織として残っていない(合併したり整理されてしまった)。おそらく今回も同様の結果になりそうな気はするけれども、20年後30年後に私が生きてその結果を見られるかどうかは分からない。

結局のところ、自分の生活を充実させて、この方がよかったと思うことが唯一の解決方法になるのだろう。だとすれば、時間が解決するのを待つというお決まりの結論になってしまうのかもしれない。

[Aug 12, 2016]


ばたばたしているうちにリタイア1ヵ月 ~せいうち日記96

早いもので、リタイアしてから1ヵ月余りが過ぎた。 リタイアすると当然のことだが給料が入ってこない。最後の給料日が7月20日で、8月19日までの生活費はそこから出た。以降定収入はなく、今日でほぼ1ヵ月が経過する。 いまのところ予定したとおりに資金繰りは回っていて、予定外の大口支出があったり見込んでいた収入が入らなかったりということはない。そのように準備していたとはいえ、ありがたいことである。

収入面については、リタイア後をにらんで毎月20日頃を満期とする1年定期を何本か組んでいて、それが月20万円ある。だから、しばらくはこれまでと同じように生活すれば、資金繰りは回るようになっている。給料は入ってこないものの、以前の給料日である20日に口座から1ヵ月の生活費を 下ろしてきて、封筒に小分けして管理している。

支出については、退職するしばらく前から、1ヵ月の生活費を20万円以内にするよう心掛けてきた。食費や生活用品、医療費、ガソリン代などの金額はこれまでと同額であるが、夫婦のお小遣いだけはこれまでの約半分に減額した。まあ、これは仕方がない。支出の中で大きな比率を占める公共料金が、原油安の影響もあって前年比大幅に減っているのはありがたい。

二十六年前、最初の転職の時もこういう準備をしておけば、もっと余裕をもって職探しできただろう。実際、酒だのゴルフだのに余計な散財をしなければ、収入が多かったのだからいま以上にちゃんと準備できたはずである。でも、どちらがよかったかは何ともいえない。過去のいろいろな経験があって、いま現在リタイアしても困らない生活ができているのである。

この1ヵ月余りを振り返ってみる。

最初の1、2週間は、ばたばたしている間に終わってしまった。住宅ローンの返済とそれに続く抵当権抹消登記、健康保険組合に行って任意継続の手続き、失業保険受給のために必要なハローワーク訪問、さらに国民年金切換えの手続きなど早々に片づけなければならない仕事(?)があった。これについては、せいうち日記番外編でお届けしたとおりである。

退職後に急ぐ手続きと並行して、急きょギリヤーク尼ヶ崎師の函館公演が組まれたので、あわててエアとホテルを予約した。自分の懐具合と奥さんの機嫌以外に気にすることはないというのは、リタイアしたメリットである。結局ギリヤーク師の公演自体は中止になったけれど、遠征自体は予定どおり行くことにした。

函館遠征の週には、台風が北海道を襲って道内に多くの被害をもたらしたが、幸いに函館は小雨がぱらつく程度で済んだのは幸いであった。土・日で3つの温泉をはしごして、五稜郭と四稜郭を歩き、函館市立博物館を見学し、千代台公園ではギリヤーク師の代打キノさんを見て、プールで泳いで、弓道大会を見学した。行く先々でソフトクリームを食べた。

そこまではよかったのだが、翌月曜日のJAL便が、台風9号の関東上陸で欠航になってしまったのは厳しかった。進路予想をみると翌日は北海道に来る可能性が大で、最悪の場合2日足止めを食うことになりそうだった。もう1泊するのに全く問題はないが(何せ仕事がない)、2日となるとちょっと面倒なので、北海道新幹線を使って帰ることにした。

9時半新函館北斗発の新幹線は、前日の段階ですでに満席(函館新聞には鉄道と飛行機の空席情報が載っている)、全席指定なので自由席はない。でも、函館駅の自動機で「立席特急券」を売っている。立席特急券は席が空いていれば座れるけれども、空いていなければ立たなければならないというもので、昔はよくあった。この特急券を使うのは45年振りくらいである。

まあ、新青森までと大宮からは座れるだろう。立つのは最大3時間くらいだと思っていたら、まさしくそのとおりで、新青森からはデッキまで満員だった。上野からの電車も遅れていたけれども、それほどの影響なく帰ってくることができた。ただ、傘が役に立たない大風・大雨でずぶ濡れになり、新幹線立ちっぱなしの影響もあって、帰ってから体調を崩してしまう。

体調を整えつつブログやHPを整理しているともう9月。ハローワークの第1回認定日に出向き、健康保険、国民年金を支払うとNFLの開幕である。オープニングゲームが終わり、10日に全日本ポーカー選手権東京予選、11日にGGG、ロマゴンのボクシング祭り。録画したNFL中継でWEEK1を振り返っていたら、あっという間に9月も半ばを過ぎた。

リタイアしたらやることがなくなって、何に時間を使うか苦労するとよく言われるが、いままでのところそれどころではない。次から次へとやることが出てきて余裕がないくらいである。できていない最大のミッションは日本古代史の研究。せっかく国会図書館の図書カードを作ったのに、全く活用できていないのは残念である。

初めの話に戻って資金繰りについて言えば、これから失業保険が給付制限期間となる3ヵ月が正念場である。この3ヵ月を破綻せずに過ごせれば、次の局面が見えてくる。大丈夫なように計画を立てたとはいえ、無事に過ごすことができるよう祈るのみである。 [Sep 19, 2016]


リタイア2ヵ月 予定どおり四国お遍路 ~せいうち日記97

リタイア2ヵ月目もここまで無事に過ぎて、いま四国お遍路の第5次区切り打ちの最中である。昨日から高知市内のホテルに連泊して、ここから札所に向かっている。高知市内は市街地を中心として円を描くように札所があるので、その日の終わりにバスではりまや橋に向かい、次の朝、前の日歩いたところまで戻るということが可能なのである。

サラリーマンの時には3泊4日が限度で、これまでの区切り打ちでは徳島県内をかなり刻んで歩いたのだが、今回は9泊10日の長丁場。室戸岬を経由して徳島イン高知アウトという距離的にもかなり長いルートであったので、リタイアして余裕のある日程を組めたことはたいへんありがたい。

前回、前々回の区切り打ちでは、遍路ころがしと呼ばれる焼山寺、鶴林寺、太龍寺を歩いた。今回は距離が長いものの海岸沿いの平坦な道を歩くことが多かったけれど、それでも二十七番神峯寺(こうのみねじ)は標高430mという結構な高さがあった。ここが今回のポイントであったが、天候にも恵まれて予定どおり歩くことができたのは大変よかった。

さて、8月からフリーになったのに10月にお遍路を計画したというのは、暑くて歩くのには厳しいだろうという見込みからであったが、実際は見込み以上に天気に恵まれず、9月は長雨、10月に入っても台風+真夏日があって、ここまで予定を遅らせておいてよかったと思うことしきりであった。

それでも炎天下で日向の温度が30度を超える日もあって、標高100mくらいの五台山、禅師峰寺、清滝寺では大変苦しいこととなった。ようやく昨19日には曇りになり、涼しい風が吹いて心地いい歩きとなった。それまでは、これで本当に10月中旬かと思いながら毎日25kmから30kmを歩いていたのである。

さて、9月からはNFLが始まったので、毎週の月・火・金はGamedayである。残りの日にも録画した放送を見なければならないし、NFL.comなどのデータもチェックしなければならない。自分のHPのデータを修正し、翌週のオッズを確認してブログに予想記事を書いて、となかなか忙しい。お遍路も10日以上は難しい情勢であった。

その中で、10月8日には奥さんと原宿までEPOのコンサートを見に行った。そして1日置いた体育の日はギリヤーク尼ヶ崎師の新宿公演と、イベントスケジュールも目白押しであった。この上さらに仕事があったら大変なところだった。幸いにいまはリタイアして仕事はない。

今日20日は仁淀川大橋からスタートして、朝青龍の四股名の由来となった三十六番青龍寺に登る。予定どおり進めば巡航船に乗って須崎を目指す。これで今回の区切り打ちは終了し、明日の昼便で東京に戻る。

週末には録画してあるWeek6の試合をチェックして、月曜日にはWeek7である。果たして寝る時間はあるのだろうか。そしてお遍路の記録を整理して、あと1回ハローワークにも行かなければならないし、11月になるとパッキャオの再起戦である。

9月の長雨で山歩きもしていないし、古代史の勉強は手つかずのままである。リタイアしてからもこんなに忙しくなるとは思わなかった。でも、仕事と違って、ストレスはほとんどない。ありがたいことである。

三十五番清滝寺に向かう途中、仁淀川の風景。今回見た中でも最高に雄大な景色のひとつでした。


先週末に第5次の四国札所歩き遍路から家に帰ってきた。予定した9泊10日を終了した時点ではまだまだ大丈夫と思っていたけれど、さすがに一息ついてしまうと体のいろいろなところに支障がでてくる。まあ、歳だから仕方がない。私の体力と集中力では、このあたりが限界ということであろう。

今回の移動距離をGPSで集計したところ、9日間で242.5km、一日平均26.9kmであった。標高差400mの神峯寺、100m以上の最御崎寺、金剛頂寺、五台山、禅師峰寺、清滝寺をクリアしての平均27kmだから、たいへんがんばったと言っていい。四国遍路全体では約1100kmなので、今回だけで全体の4分の1近くを歩いたことになる。

せっかくの機会なので、改めて歩きお遍路マイルールを紹介しておくと、

① 順打ち、区切り打ち。現地との往復は航空機。

② その日の歩き終わりから宿泊施設までの移動手段は、宿の送迎または電車・バス等を利用してもよい。次の日の歩き始めは、前日の最終地点まで戻ってスタートする。
かつて歩きお遍路が盛んだった頃には宿坊・民宿が多く営業しており、歩きだけで完結させることも可能であったと思われるが、昨今その多くが廃業を余儀なくされており、宿泊施設までの移動なしに歩き遍路を行うのは困難になっている。そこで、送迎や交通手段を使ってもいいことにした。

③ ②との兼ね合いで、宿泊施設等に荷物を預けることが可能な場合は、軽装で札所を回ってもいい。
江戸時代にも、山の上にある札所では、麓に荷物を預けて往復した。真念「四国遍礼道指南」にも、どこどこ村のだれそれが預かってくれるなど逐一説明してある。

④ 江戸時代に渡船を使った場所では、渡船の使用可。

江戸時代には大きな橋はかけられなかったから、渡船を使ったと書かれている。真念が舟を使うと書いてある場所については、渡船を使用してもいいことにした。

さて、今回長丁場を歩いてみて実感したのは、景色をのんびり見て、温泉でゆっくりしてなどという余裕はあまりないということであった。

朝はできるだけ早く出発して距離を稼ぎたいし、歩き始めるとなるべく目的地までの目処がつくところまで早く着きたい。これは残り距離が長いと精神的につらいということの他に、道中トイレがないところがたいへん多いので、安心できる場所まで早く行っておきたいということがある。四国遍路を世界遺産などという声はあるが、そのあたりの整備はまだまだである。

昼食も少し楽しみにしていたのだけれど、実際には歩いているうちはそんなにお腹がすかない。だから日程の後半では、アイスクリーム(特にコンビニで買うクーリッシュ)や自販機の飲料ですませることが多くなった。

夕飯も、予定では高知市内に着いたらいろいろ食べようと思っていたのに、実際には風呂に入ると後は洗濯して寝るくらいしか余力がなく、デパ地下やコンビニ飯ですませることになったのは、昔の出張のようであった。

そして、自分でも予想外だったのは、どこの寺を何時に出て、夕方何時のバスに乗って、などと思っていると、いつの間にか早足になっていることであった。よく考えれば急ぐ理由などあまりないし、遅れたら次のバスにすればいいだけの話なのだけれど、そのあたりはまだまだ修行が足りない。

実は、参考にしている遍路地図「四国遍路ひとり歩き同行二人」の距離表示はかなり適当で、7kmと書いてあるのに実は9kmあるということが頻繁にある。7kmなら2時間あれば着くだろうと思っていても、実際には9kmあるので全然着かないというケースはしょっちゅうである。たいへんいらいらしながら歩くのだが、よく考えるとそれもこれも含めてお遍路なのであろう。

[Oct 24, 2016]

須崎市営浦ノ内湾巡航船。ここを舟で移動するのは、江戸時代からお遍路のスタンダードだったようです。


リタイア3ヶ月(注.ホームページのごあいさつにありましたが、こちらにまとめました)

7月末でリタイアして、3ヵ月が経過した。

前にブランクがあった25年前は2ヵ月半で再就職したから、最長不倒ということになる。できるだけ生活ペースを変えないように過ごしているので、改めてどうこうという感じはしないが、考えてみればどこにも所属していないというのは子供の頃以来のことだ。

毎朝出勤しなくたって、社員証を持っていなくたって、朝になれば明るくなるし日が暮れると夜になる。別に地球は私のことを考えて回っている訳ではないし、私の身の振り方が変わったところでどこの誰に影響するものでもない。ごくごく限られた家族とか周りの人に関わりがあるだけである。

先月はしばらくの間、四国に遠征していた。第5次の歩き遍路区切り打ちのためである。リタイアしたらのんびりいろいろ考えながら歩けると思っていたのだが、実際には、坂道になれば早く登ってしまいたいと思うし、トイレや水のことやら、スケジュールのことやら考えてばかりいる。貧乏性といえばそれまでだが、なかなか悟りの境地にはたどりつけないものである。

日常生活も同じようなもので、資金計画は破たんしないよう計画を練ってあるのだけれども、失業保険はちゃんと入ってくるのかとか、年金をもらうのを遅らせるにはどうするかとか、いろいろと考えてしまう。

自分では、せっかくなくなったストレスの種を作っているような気もするのだが、もしかすると生きているということはこういうことなのかもしれない。昔、山岸凉子の「妖精王」で、「悩む者」が生き返らせる薬で、「悩まぬ者」が死んでしまう薬という場面があったが、きっとそうなんだろうと思ったりする。

[Nov 1, 2016]

年末に向けて諸々のこと~せいうち日記98

2016年も残すところあと10日、リタイア後はじめての正月がもうすぐやってくる。最近は、リタイアしてから何ヵ月とは思わずに、前回山に行ってから何週間とか、お遍路に行ってから何ヵ月とか思うようになった。どうやら新しい生活に頭と体がフィットしてきたようである。うれしいことである。

一方で、暮れになってリビングの一番使うエアコンと1階トイレの具合が悪くなった。現役時代であれば何も考えずに新しいのを買っていたのだけれど、リタイアすると収入が限られる。おカネがない訳ではないのだけれど、貯金が減るのが嫌でなんとかならないかと思うのは情けない。トイレは2つあるので来年また考えることにして、エアコンは年内に工事をお願いしたところである。

さて、年末といえば、例年恒例となっていることがいくつかある。来年のカレンダー手配、年賀状の印刷、年末年始に向けての酒その他の手配などだが、それらに加えて、4、5年前から、社会福祉協議会への寄付をさせていただいている。今年もわずかではあるが協力させていただいた。

年末の募金は自治会でも取りまとめているし、ネットでも可能ではあるが、せっかくなので地元の社会福祉協議会を直接訪問して募金している。共同募金会にしろNHKにしろ、集めた募金は最終的には地域の社会福祉協議会に還元されるので、直接募金した方が中間マージンがないだけより役立ててもらえるのではないかと思うからである。

世の中に「こうすると△△円お得です」という情報はあふれかえっているけれども、1年を振り返って、無事に過ごすことができたという感謝の気持ちを何かの形にしましょうというアドバイスはほとんど見ることがない。大きな災害ともなればマスコミが大騒ぎして多額の募金が集まるのだから、普段からみんなが心がけていればいいのにと思う。

昔子供に読んだ「かさじぞう」という昔話に、正月買い物という言葉があって、以来わが家では年末年始に向けた買い物のことを「正月買い物」と呼んでいる。その「かさじぞう」は、正月買い物をする資金を稼ぐために笠を売りに行ったおじいさんが全く売れず、お地蔵さんに笠をかぶせて帰ってきたという物語である。

自分たち(おじいさんとおばあさん。いまのわが家と同じ)の正月はともあれ、見えないところで自分たちを支えてくれているお地蔵さんに感謝したいというこの物語は、結構深いところで私の意思決定に影響しているから、昔話というものは馬鹿にできないものである。来年以降、収入が乏しくなる中でどうなるか分からないけれど、そういう気持ちは大切にしたいものである。

その他にも、せっかく一年の区切りだから片付けようと考えていたこともある。今年の場合は歯の治療であった。

リタイア前から歯茎が腫れていたのは気になっていたのだが、ばたばたしていたので後回しにしていた。一方、健康保険は任意継続にして、月約4万円という多額の保険料を納めている。見込んであったとはいえ、かなりきつい負担である。もとを取ろうとしている訳ではないのだが、この際年末までにはやってしまおうと思い立って、11月になって歯医者に行った。

ということで診てもらったところ、昔治療した歯が何本かおかしくなっていて、そこが歯周病になっているということであった。腫れてはいるものの痛くないので先送りにしておいたのだが、歯周病とは尋常でない。さっそく治療を始めたのだが、これがまたなかなか進まない。

最初に直すことになった上の奥歯は、就職してすぐに直したものだから、もう三十五年も前のものである。よくこれまで持ってくれたと思うけれど、先生が言うことには、昔の治療なのでいま使わないやり方や材料を使っていて、直すのが大変ということである。なるほど、歯科治療も日進月歩ということなのであった。

結局、最初の1本すら年末までには終わらない(20日現在、まだ型をとっていない)ので、必然的に年越しということになる。今年中に片付けようとしていたのだが、残念なことである。もっとも、早く始めなければもっと遅くなったと思われるので、仕方のないことではある。

[Dec 20, 2016]


新年の抱負「少欲知足」~せいうち日記99

2017年が明けた。なんといってもリタイア後はじめての新年であり、感慨深いものがある。記事にも書いたように職業訓練校に行くことにしたので、しばらく忙しくなるのだけれど、その前に今考えていることを整理しておきたい。そうしないと、半年一年あっという間に過ぎてしまうからである。特に、NFLシーズンが始まってしまうと早い(w

新年というと、今年はこれだけはしたい、ここには行きたいということを考えがちであるのだが、今年はそういったことは考えないようにしようと思っている。お釈迦様がいうところの「少欲知足」、孔子いうところの「心の欲する所に従い、矩をこえず」の境地をめざそうと思うのである。いきなりは無理としても、なるべくそういう心がけでいることは大切だと思う。

思えば、これまで何十年も、目の前の仕事を片付けることに優先順位を置いて生きてきた。カネがすべての世の中ではない、待ったなしでなくてもいいんじゃないのと思いつつ、そうした傾向に流されてきたのは、給料をもらって暮らしてきた以上は仕方のないことだったかもしれない。

でも、リタイアを機に、そうした考え方とは一線を画すことにしたい。こうして毎日を暮らしていると、この毎日がずっと続くように錯覚するが、少なくともあと数十年のうちに明日がない今日が必ずやってくる。それまでの一日一日を、なるべくストレスフリーに、今日もいい一日だったと満足して過ごせるようにしたいと思うのである。

いまだによく思い出すのは、ポーカーをしていて、maosさんが「ああ、今日もよく遊んだ」と言ってテーブルを立たれていたことである。トーナメントは100人いれば99人が負けて終了する。参加するほとんど全員が、必ず途中で負けるのである。だとすれば、勝とう勝とうと思っていると、その希望はほとんどかなえられることはない。

だから、勝ち負けとは別の次元で楽しみを見つけていかないと、せっかくの時間が無駄になってしまう。そう考えると、ポーカーの楽しみというのは1ハンド1ハンドの中に見つけられる。きっと人生もそういうものなのだろう。勝ち負けを左右するのは確率(偶然ともいう)だが、考えること自体が楽しいのである。

新年にふと、子供の頃何をしたかったっけと思い出してみた。私の十歳年上は戦争直後なので腹いっぱい食べることが望みだったと聞くが、ありがたいことに何を食べたいという切実な望みはなかったように思う。覚えているのは、海外旅行に行きたいと思ったこと、家にプールがあったらいいなと思ったこと、トランシーバーがほしかったことであった。

あれから半世紀以上経ってみると、海外旅行には何十回も行ったし、プールはスポーツジムにあるので行きたい時に行ける。トランシーバーどころじゃない情報機器であるケータイがこんなに普及して多機能になるとは思わなかった。もちろん、お腹をすかせたことも貧乏したことも、ほとんどなかった。子供の頃に願ったことの多くが叶えられているのである。

そしていま書いていて思い出したのは、いまから三十数年前、社会人になりたての頃のことである。当時勤めていた銀行の先輩と芦屋の六麓荘(高級住宅街である)のあたりを車で通っていた時に、その先輩が「住む世界が違うから」と吐き捨てるように言ったのである。

その時は、銀行員なのにそんな夢のないことでいいのかなあと思ったものだが、あれから三十数年たって思うのは、たいして違う世界ではなかっただろうということである。10の要素があったとして2か3は確かに手が届かない世界だけれども、2か3は手が届く世界だし、残りの5つは程度問題ではないかと思う(ペトリュスかラトゥールポイヤックかという違い)。

そうしたあれこれを考えあわせると、いま漠然と願っていることのほとんどは、「もっと・・・したい」という相対的なことであって、絶対的に何かが不足しているということではない。だとすれば、「少欲知足」、自らの欲望をコントロールして、他人との比較や相対的な多い少ないではなく、あと残された期間で本当にしておきたいことは何なのか、考えなくてはならない。

話は変わるが、1月8日の日曜日、奥さんとコンサートに行ってきた。ウィーン交響楽団ヨハン・シュトラウス・アンサンブルの演奏で、佐倉市民音楽ホールの新春コンサートである。

奥さんはたいへん喜んでくれたし、いい演奏だった。私としては、バイオリニストが「チゴイネルワイゼン」で超絶技巧を見せるとゴルゴ13がG線を狙撃したらどうなるんだろうとか、「美しき青きドナウ」を聞いているとどうしてもモンティ・パンソンの爆破ギャグを思い出してしまうということはあったけれども、美しい音楽で新年を祝うことができて本当によかったと思う。

これまでの60年間で、もっと時間を割きたいと思いつつできなかったのは、いい音楽を聴くことだと思っている。CDでもTVでも音楽に変わりはないのだが、生で聴く演奏には一期一会の感動がある。演奏する方も今日の演奏は今日限りのものだし、聴く方だって同じである。基本は「少欲知足」ではあるのだが、そのあたり可能な範囲で欲張ってみたいものである。

[Jan 18, 2017]


それなりに落ち着いた訓練生活~せいうち日記100

せいうち日記もとうとう100話目となった。2005年1月に第1回を掲載して以降、12年と少しかかってここまで来た。幸いに、1回目の時よりも少しは減量できたし、いま現在、精神的なストレスをかなり軽減したリタイア生活を送れているのは、何よりありがたいことである。

さて、1月に職業訓練が始まって早くも3ヵ月目に入った。6ヵ月コースだから、ほぼ半分ということである。毎日が過ぎるのがとても早い。職業訓練の受講中は失業保険が出るので、生活の不安がなく勉強できるのはとてもうれしい。資金が潤沢という訳ではないにせよ、それなりに工夫すれば何とかやっていける。

訓練前半のハイライトである二級ボイラー技士、危険物取扱者乙4の試験は先週までに終わり、来週は3日間のボイラー実務講習がある。免許試験の詳しい内容や感想は改めてお届けする予定であるが、ひとつひとつスケジュールをこなしている最中である。

それにしても思うのは、ボイラーにせよ現在講習中のシーケンス制御にせよ、半世紀前にすでに確立しそれ以降は大きな進歩のない分野である。いまシーケンスで扱っている「電磁リレー」という製品があるが、製造しているオムロンの生産ラインは果たして採算に乗っているのかと思う。

農業にせよ機械工業にせよ、かつて日本の成長を支えてきた基幹分野が、現在は採算に乗るかどうかという瀬戸際にある。正直なところ、JICAで途上国の開発援助とかしない限りは、いま勉強していることを実際に使うことはほとんどないのではないかと思う。でも、それでもいいような気もするのだ。

というのは、日本の近代化以来、もっと大げさに言えば産業革命以来、人類が積み上げてきた工業技術の一端を、現役人生の最後に勉強することは、得難い機会だと思うからである。あのままサラリーマン生活を続けていれば、こうした分野を実地で知ることもなければ、その分野の脳を使うこともなかったのである。

あと半分の訓練期間では、空調とか、給排水とか、消防設備とかを勉強する。最初は、家の電気とかエアコン、水道を自分で手入れできたらいいなと思っていたのだが、実際習ってみるとどの分野も奥が深いし、新たな発見がたくさんある。繰り返しになるが、生活の不安なくこうした勉強ができるのは、得難い機会でありたいへんうれしい。

毎日朝7時半の電車に間に合うように奥さんに車で駅まで送ってもらい、成田で電車を乗り換え、さらに四街道でバスに乗り換えて、午前9時過ぎにポリテクセンターに到着する。30名の同期入所の訓練生は2人が就職して28名となった。9時半から講義が始まり、50分の昼休みをはさんで午後3時40分まで続く。雇用保険との兼ね合いがあるようで、時間までみっちりやる。

社交的にしている訳ではないのだが、毎日同じメンバーが顔を合わせるので、席が近い面々とか、通勤経路が一緒の人と話すこともある。リタイア後はほとんど人と話すことがなかったので、新鮮といえば新鮮である。特に仲良くしようとは思わないけれど、できるだけジェントルに対応できればいいと思っている。目立つ必要もないし、いい成績をとる必要もない。

お昼は大抵は奥さんの作ったお弁当を食べるが、週に2度ほどはこちらで調達する。駅でパンを買って行ったり、センター出入りのお弁当屋さんを使うこともある。お弁当は400円。1時間販売員をはりつけることを勘案すると採算が取れているのか微妙なところで、おかずは寂しいといえば寂しい。だから、おとなのふりかけを持って来てロッカーに置いてある。

講義が始まると、座学にせよ実習にせよ集中しているので時間のたつのが早い。これまで60年間ほとんど経験のない分野なので、これまで使ったことのない部分の脳を使っているという実感がある。実習がうまく行かないとぐったり疲れるし、新しいことを覚えると単純にうれしい。

電車に乗ってから乗り換えて下りるまで約1時間、その間に図書館で借りてきた本を読む。通勤の時よりも短い時間だけれど、午前中の早い時間に本を読むのは、1年振りくらいのことである(会社勤めの最後は電車通勤がなかったし、その後はリタイア生活)。限られた時間に集中して読み、下りる駅が来たら続きは翌日というのは、それなりに落ち着いたリズムである。

それとは別に、村上春樹の新刊「騎士団長殺し」が出た。早速買ったのだが、そちらの方は家に帰って落ち着いた時間、寝る前とかに読む。静かな環境で少しずつ読まないと、もったいないような気がするのである。いまようやく1冊目の最後、「ふかえり」みたいな女の子が出て来るあたりである。いずれ読み返すのだが、電車の中とかで読むのは、その時でいい。

[Mar 9,2017]


ポリテクセンターのお弁当。1食400円。日替り弁当の他に、から揚げ弁当、エビフライ弁当、カレー弁当などがある。


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