この図表はカシミール3Dにより作成しています。
十五番国分寺 十六番観音寺 十七番井戸寺 → 十八番~
番外霊場 長戸庵・柳水庵 [Nov 1, 2015]
さて、四国遍路遠征も三回目。今回は八十八札所中屈指の難所、「遍路ころがし」と呼ばれる十二番焼山寺の登り下りである。
こうして四国札所巡礼の連載記事を書いているが、WEB等に書かれていることを鵜呑みにして書いてもあまり意味がない。八十八札所は空海ゆかりとされているので、空海の開山とか本尊は空海作とかいう伝説があるのは仕方ないけれども、例えば阿波(徳島県)の多くの寺は戦国時代に焼けてしまっていて、江戸時代に蜂須賀の殿様が再興したのは違う場所だったりするのである。
公式ホームページに載っている由来は由来として、少なくとも、 文献が残されている江戸時代初期の資料くらいは目を通す必要がある。私が参考としているのは、真念「四国遍路道指南」、寂本「四国遍礼霊場記」、澄禅「四国辺路日記」の3つである。他にも古典とされる賢明「空性法親王四国礼場御巡幸記」があるものの、書籍・WEBでの入手のしやすさからこの3つを重視している。
真念「四国遍路道指南(みちしるべ)」はお遍路界のバイブルとされる古典で、生涯に20度以上の遍路巡礼をした僧侶・真念が1687年に大阪で出版したものである。八十八札所を初めて確定したのがこの「道指南」であるとされる。お遍路さんが携行することを想定していたようで、情報としては簡潔である(現代語訳は地図を入れても文庫本1冊である)。ちなみに、私はこの「道指南」を読んで、初めて各札所でいただく「お姿」の意味が分かった。
2番目の寂本「四国遍礼霊場記」は1689年の刊行。各札所の境内略図を載せていることで有名である。この本は、「道指南」で真念が巡拝中まとめた記録と、真念に同行した僧・洪卓の画いた略図をもとにして、2人にとっては本社のお偉いさんにあたる高野山の僧・寂本が編集しており、「道指南」の兄弟本ともいえるものである。全7巻で、「道指南」よりもかなり分量があり、詳しい記事が書かれている。
3番目の澄禅「四国辺路日記」は「道指南」の約30年前、1653年に京都智積院(ちじゃくいん)の僧・澄禅によりまとめられた遍路日記である。近年になって発見された文献で、公刊されていない点で上の2つに比べて資料としての価値はやや割り引かれるものの、内容を見る限り「道指南」よりも古い札所の姿を表しているとみることができる。
これらの参考文献で札所の歴史を勉強しつつ三回目のお遍路に向かったのは2015年の10月31日、前回のお遍路から約2ヵ月後のことであった。今回のスケジュールは、初日はゆっくり出発して鴨島泊、2日目の早朝に十一番藤井寺を経て十二番焼山寺、そのまま神山温泉まで歩いて宿泊。3日目は十三番大日寺から十七番井戸寺まで打って、そのまま徳島駅まで歩くという計画である。
午後1時徳島空港着の便なので、1時50分徳島発の列車に乗れるかと思ったのだが、惜しくも2、3分遅れでJR徳島駅に到着した。例によってセルフうどん「やま」に入って、冷やしぶっかけうどんでお昼にする。そのまま隣のドラッグストアで日焼け止めを買う。今回は天気予報が微妙で翌日の夕方から雨が降りそうなのだが、その時点ではいい天気であった。山の上に行くので、やはり日焼け止めは必要である。
徳島駅ホームの待合室で時間をつぶし、2時46分発阿波池田行の列車で鴨島に向かう。出発直前に走りこんできた老夫婦が、「これは鳴門には行かないですか」と言ってあわてて降りる。しかし、そんなにあわてなくても、すれ違い列車が来ないので5分ほど遅れたのだった。
3時半前に鴨島着。2ヵ月前に工事中だった駅舎はきれいになっており、ホームに隣接してセブンイレブンができていた。前回は大雨の中を急いだ駅前通りをのんびり歩く。今回はいい天気で風もないので、余計にのんびりする。ただし、ひと気がないのは前回と変わらない。
今回予約した宿は「アクセス鴨島」である。藤井寺のすぐ近くにある「旅館吉野」とどちらにするか迷ったのだが、朝早く出発したいと思っていたので早く起きて支度できるビジネスホテルにした。
WEBでは位置が分かりにくいと書いてあったので少し心配だったが、駅からまっすぐ進んで国道と交差するところに看板があった。ファミリーマートの奥にあるので入口が分かりづらいものの、一度見つけてしまえば問題はない。
部屋は少し狭いようだが、清潔で静かなのはいい。カードキーが使い捨てで、ホテル自体も3階建てと低層。廊下の雰囲気や築年数も含めて、前回泊まった七番十楽寺の宿坊とよく似ていた。もしかすると、同じ設計事務所なのかもしれない。
夕飯は宿から右手に約5分のスシローまで歩いたのだが、待ち行列ができていたので通りの向い側、丸亀製麺へ。昼夜続けてうどんになってしまった。
国道192号前から、これから越える焼山寺への稜線を望む。ファミリーマートの後ろがアクセス鴨島。
焼山寺道の前日に泊まったビジネスホテル、アクセス鴨島。感じが十楽寺宿坊と似ている。
翌2015年11月1日、前の日にあまり動いていないせいか、3時半に目が覚めた。
カップヌードルカレー味とポテトサラダ、牛乳で朝ごはん。身支度は山歩きの時と同じで、オーロンのアンダーシャツと冬ズボン、下にCW-X。登山用のシャツの上から新規に調達した「いっぽ一歩堂」の袖なし軽装白衣を羽織る。寒くはなかったので防寒兼用のレインウェアは着なかったが、まだ外は真っ暗なのでヘッデン(登山用ヘッドランプ)を用意して4時半に出発した。
国道に沿ってローソンまで歩き、そこから山に向かって南に進む。前回、雨の中を歩いた道である。進行方向に見える鉄筋4階建ての建物は、公営住宅のようである。階段のところに常夜灯が点けられていてとても明るい。
ふと、幸せってなんだろうと考える。わざわざ騒々しい都会に来なくたって、好きな女の子とささやかに暮らせるならば十分幸せだと思った。なぜそんなことを急に思ったのだろう。
空を見上げると、中空に浮かんだ月が雲に隠れたりまた出てきたりしている。月が明るいので星が降るようにという訳にはいかないけれども、冬の星座であるオリオン座がちょうど南中している。オリオン座を中心としてひし型に明るい星が見えるが、いまひとつ同定できない。
そして東の空に、ひときわ鮮やかに光る二つの星が見える。この時期に見えて明るいのはシリウスだが、それならば二つ連なって見えるのはおかしい。あるいは惑星だろうかと思うけれど、そこまで調べてはいなかった。(後から調べたところ、金星と木星と分かった。明るいはずで、両方ともマイナス等級である)
旅館吉野の前を通ったのは5時少し前。もうすでに、厨房と思われる一角で灯りが点いていた。朝食とお弁当の用意もするので、このくらいの時間から支度するのだろう。ただ、この時間にここを通過できれば、泊まり客に対して1時間以上のアドバンテージがある。ビジネスホテルにして早起きしたメリットである。
旅館吉野を過ぎると灯りの点いている家はなく、街灯の間隔も広がっているので足下が見えない。ここで用意したヘッデンを点灯する。普段はキャンプや山小屋で夜中のトイレに使うくらいだが、今回は本格的な夜の道である。藤井寺への分岐を見逃さないように注意していたけれども、ほぼ道なりに歩いていたらそのまま駐車場に到着した。
駐車場にはもちろん誰もいないし、トイレの建物もシャッターが下りていて真っ暗である(この時間には使えないということだ)。山門の電球が一つだけ明るい。しかし奥の方を見ると、庫裏と思われるあたりの建物に灯りが点いている。まだ5時を過ぎたばかりなのに、もうお勤めをしているのだろうか。
境内に入ると、ちょうど本堂の方から歩いてくるご住職とすれ違った。すでに袈裟を付けた正装である。私の方を見て、「おっ」とか「おお」という声を上げたので、「おはようございます」とご挨拶する。石段の上の本堂・大師堂の中にはすでに灯りが入り、すでに朝のお勤めをすまされたようである。あたりが真っ暗で本堂だけに灯りが入っているので、ご本尊のお姿をはっきり見ることができた。
そういえば、多くの札所では本堂に入れないし、たいてい蔀戸(しとみど)が下ろされているのでご本尊のお姿を直接見られるところは少ない(だから、納経所でお姿をいただくのである)。せっかくなので、前まで進んで中を見させていただく。天井には、水墨画風に竜の絵が描かれている。ご本尊の前に座布団が置いてあるのは、先ほどまでご住職がお勤めしていたのだろう。
もう一度手を合わせて、本堂の左に向かう。時計を見ると5時15分である。真っ暗で何も見えないが、道の左右に、「焼山寺道」「この先トイレはありません」と書いてあるのでここから遍路道が始まるものと思われた。写真を撮ろうと試してみたけれども、携帯のカメラでは暗すぎて何も写らなかった。ヘッデンなしではとても歩けなかっただろう。
歩き始めると、いきなりの登り坂である。小さい祠に石造りの仏像が入っており、横には「一番霊山寺」「二番極楽寺」などと書いてある。八十八札所のミニチュアである。ただ、枝分かれした先に置いてあるものもあるし、そもそも暗いし、道端には「まむし注意」などと書いてあるしで、あまりゆっくり見ることはできなかった。坂は急坂が続いたりなだらかになったりしてしばらく続いた。
時折、木々の間から鴨島市街の夜景が見える。きれいである。20分ほどでトタン屋根の建物が見えてきて、その先に東屋がある。遍路地図にある端山休憩所である。少しずつ東の空が明るくなってきて、6時ちょうどに藤井寺からと思われる低い鐘の音が麓から山の中へと響いた。その頃になってようやく、ヘッデンなしでも足もとが見えるくらいの明るさとなった。
藤井寺の山門はまだ真っ暗。でも庫裏には明かりが点いていて、ご住職が朝のお勤めをしていました。
長戸庵を過ぎてすぐ、風景発心の地という展望地があって、休憩できるベンチがある。
第一チェックポイントの長戸庵に着いたのは、焼山寺道に入って1時間20分ほど歩いた午前6時半過ぎ。リュックを下ろしてひと息つく。
WEBでは休むのにちょうどいいから長戸(ちょうど)庵、などと書かれているが、私の参考としている廃村ブログによると、この庵から少し下ったところに、かつて長戸(ちょうど)という集落があり(いまは廃村)、そこから付けられた名前ということである。このあたりに「石鎚神社鎖場」があるらしく、そのように方向表示があったが、その行場が廃集落のあたりだという。
長戸庵の周囲はそこそこきれいにしてあるので、定期的にひとの手が入っていることは間違いないようだったが、長戸廃村への道がどれなのかは分からなかった。驚いたのは、これだけ山の中を歩いたのに携帯のアンテナが3本立っていたことで、奥さんにメールを打ったりして20分ほど休む。
20分も休んでしまったので先を急ごうと歩き出したところ、長戸庵から5分ほど登ったところで風景が開けていて、狭いながら屋根のある東屋様の休憩所ができていた。すぐ横には、「風景発心の地」と書いた柱が立てられている。こんな近くにこんな場所があるのなら、ここまで来て休んだのだが(水場もトイレもないが)。
さて、遍路地図の表示によれば、長戸庵から次のチェックポイントである柳水庵までの経路は登山道のようなのだが、実際には「風景発心の地」からしばらく進むと車も通れる幅の道と合流し、ここから先は整備された砂利道となる。なんとか幹線と書いてあったので、電力用か林業用か不明ながら巡視道として整備されているものと思われた。
このなんとか幹線ではかなり楽ができたのだけれど、再び右に道が分かれて傾斜のきつい登山道になる。ピークのあたりまで登ってそこから逆落としに急坂を下りてくると、20mくらい下に屋根が見えた。このあたりで人工物があるのは、柳水庵しかない。8時10分頃に柳水庵着。長戸庵から1時間15分、思ったよりも早く着くことができた。
山よりにお大師様ゆかりの水場があり、祭壇のようなものが置かれている。そこから石段を何段か下がって開けた平地にお大師堂と水場があり、さらに木造2階建ての住宅がある。この住宅には数年前まで老夫婦が住んでいて、数部屋ながら宿坊を経営されていたということである。
年齢的に続けていくことが難しくなり、現在では住居内立入禁止と書いてある。しかしながらたびたびいらっしゃって掃除や手入れをされていることは間違いなく、また、水場に流れて来ている水は、宿坊をしている時に使われていたであろう湧き水の集配水施設を使っているようであった。
水場の水源となっているのは、小高いところにある土管のあたりだと思うのだが、それはちょうど尾根が合わさった鞍部にある。水場は鞍部(コル)の近くにあるというのは今でもよく言われることで、おそらく空海はそういうことを知っていて、水の出そうなところを探すノウハウがあったのではないだろうか。庶民はそこまで知らないので、弘法大師様が杖で突いたら水が出た、ということになったのだろう。
実際に見るまでは、水場の水をそのまま飲んで大丈夫だろうかと思っていたのだが、かつて飲み水として利用していた施設から出ていることが推測されたので、顔を洗ってごくごくと飲まさせていただく。冷たくて混ざりもののない、透明な味がした。
住宅から少し下ったところにトイレがあるのだが、このトイレもきれいに掃除されていた。うっかりすると、山の上にある札所のトイレはかなり汚れている(コケとか水垢も含めて)のだが、これだけ山の中にあるにもかかわらずきれいだったのにはすごく驚いた。
トイレから50mほど坂を下ると林道が走っていて、軽トラが一台止まっていた。そして、林道に沿ってWEBでよく見る遍路小屋が建てられている。街中の遍路小屋はたいてい宿泊禁止だが、こちらは宿泊可で布団も置いてあるらしい。中を覗こうかと思ったのだけれど、小屋の前の物干しに洗濯物が干してあったので遠慮した。
長戸庵と柳水庵の間で登山道は車も通れる林道と合流し、傾斜も心持ち緩やかになって、思ったより時間がかからなかった。
柳水庵は数年前まで宿坊として使われていたという。下にあるトイレもきれいに掃除してありました。
柳水庵の水場は、宿泊施設があった頃の水道からとっているようで、水量も多く安心して飲めそう。
十二番 焼山寺 [Nov 1, 2015]
柳水庵を下りてすぐの林道は自動車も走っていて、道路の上には「吉野川市」と表示がある。へんろ道は林道をまたいで南側に伸びていて、かなりの急坂である。しかし次第に傾斜が楽になり、ほとんど遊歩道のような道になった。
まさかこのままでは済むまいと思っていたら案の定、「浄蓮庵まで残り1km」の表示が出たとたん、手のひらを返したように急傾斜の登山道となった。ここの登りは、藤井寺からの取り付きの急坂、最後のこりとり川から焼山寺までの登りと並んで、今回の焼山寺道でのベスト3といえる厳しさであった。
ここで役立ったのは、丁石である。丁石とは昔の道しるべかつ距離表示で、50cmほどの大きさの石造りのお地蔵さんの光背部に「あと何丁」と書いてある。この区間には現代風の距離表示がほとんどないのに対し、丁石は頻繁にある。ここまでの間、お地蔵さんが涎掛けをしていたりして見えづらくあえて深追いしなかったのだが、他に手段がなければ使うしかない。
最初に気付いたのは五十二丁だかそのくらいで、次に見つけたのが四十九丁、毎度見つかるとは限らないが、だんだんと減っていく。「山ゟ四十六丁」とか書いてある。山とは焼山寺のことだろう。数字の「5」にも見える「ゟ」(機種依存。表示されるとは限りません)は江戸時代の略字で、「四国遍路道指南」にもよく出てくる。
「より」というのが正式の読みで、ひらがなの「よ」と「り」の合成らしい。とてもそうは見えないが。いずれにしても丁は町のことで、江戸時代の距離の単位。1町はおよそ100mのことである。焼山寺まであと4kmか5kmということである。
息を切らせて急坂を登り切ったところから、石段が始まっていた。見上げると、お大師様の銅像である。石段を一番上まで登ると、お大師様は大きな杉の木の前に建てられている。そしてお大師様と杉の木を、石の柱で丸く囲んで結界としているのであった。9時20分着。柳水庵からは1時間かからなかった。
これが、「左右内(そうち)の一本杉」であり、この庵を浄蓮庵とも一本杉庵ともいう。一本杉は弘法大師のお手植えという伝説があるが、確かに樹齢千年に及ぶ大木である。根元あたりからすでに枝分かれしていて、高さはそれほどでもないものの太さが尋常ではない。おそらく、かなり古くからご神木としてお祀りされていたものと思われた。
杉の木の先に、お堂とそれに付属する住居がある。住居は社(寺)務所か集会所として使われていたものであろうか。まだ荒廃はしていないものの、柳水庵とは違ってあまり人の手が入っていないようである。住居の前に、広告の入ったベンチが2つほど置いてある。
WEBによるとこの先焼山寺まで休めるところはないらしいので、まだ10時前であるがお昼休憩にする。朝早く出発したので途中でHPが足りなくなるのではないかと少し心配だったけれど、気候も涼しいためそれほど汗もかかないしスタミナ切れになることもない。それでも、食べられる時に食べておかないとバテしてしまうので、ここが最後の休憩と思ってゆっくりする。
お昼はヤマザキランチパックとスポーツドリンク。他にチョコレートロールと元気一発ゼリーも用意してあったが、ランチパックで十分だったので翌日のために取っておくことにした。山歩きでもそうなのだが、私の場合、空腹よりも心配しなければならないのは水である。今回はミネラルウォーターとスポーツドリンクを500mlずつ、それに柳水庵で水分補給したのでいまのところ心配はない。
20分ちょっと休んで時刻は9時45分、そろそろ出発の時間である。あるいはこのあたりで後続組に追いつかれるかと思ったのだけれど、いまのところ後ろから歩いてくる気配はない。いよいよここから、標高差で300m下りて300m登る遍路ころがしの本番である。
柳水庵から浄蓮庵までの道は、前半はこんな感じでゆるやか、後半1kmは急坂の登山道となる。
浄蓮庵、別名一本杉庵。もともと樹齢千年近いと思われる杉のご神木を祀ってあったところに、大正末年に大師の銅像が建てられたということである。
浄蓮庵を過ぎて、いよいよ遍路ころがしの本番である。まずは左右内(そうち)集落まで標高差300mの下りであるが、これがなかなか着かない。
遍路地図に出てくる林道との交差まで15分くらいで着くだろうと思っていたのだけれど、スイッチバックの急坂が続いて、とてもそんな時間では着かない。右へ左へと急傾斜を下るのだが、なかなか広い道が見えてこない。焼山寺まで下りで30分、登り1時間とみていたのに、とんでもない見込み違いである。
もしかしたら道を間違えたかと思う頃になって、ようやく林道との交差点に達した。このあたりは企業とのタイアップで森林整備をしているようで、「△△会社の森」などとそこらじゅうに書かれている。こういうのは、あまり好きではないなあ。
浄蓮庵から左右内村への下りで、この日初めてお遍路さんとすれ違った。挨拶して通り過ぎる。すれ違うということは逆打ちであるが、10時を過ぎていたので焼山寺宿坊ではなく「なべいわ荘」あたりに泊まったのだろう。7時頃に歩き始めたとすれば、このあたりですれ違う計算になる。
林道を横切って再び登山道に入り、しばらく行くとようやく下に左右内集落の屋根が見えて安心した。最後の方では、登山道が民家の裏庭みたいなところを通っているのだが、他に通れるところもない。そして集落内の太い生活道路に出る。
この生活道路は焼山寺までの車道になっているようで、「焼山寺まで6km」と書いてある。6kmといえば、あと1時間半くらいである。胸突き八丁の登山道を行っても1時間半かかりそうなので、どちらを進むかちょっと迷う。だがお大師様が水垢離をとったという、こり(垢離)とり川を確認しなければならない。道案内にしたがって再び民家の庭先、細い道に入る。
このあたり、WEBでは迷ったという記事をよく見かけるのだけれども、いったん川の流れているレベルまで下りると分かっていれば、それほど迷うところではない。ただ、こりとり川を渡る橋のあたりはいかにも民家の裏庭という感じで、通っていいのかどうか気になることは確かである。
こりとり川まで下ったのは10時30分、浄蓮庵からここまで45分もかかった。30分くらいと思っていたので、予定よりも5割増しである。橋の下を流れる川は1mくらいの川幅しかなく、ちょっと向こうには一枚岩の平らな場所があって、なるほど水垢離を取れそうなところである。そしてここまでは下りだったけれど、ここからは登る一方となる。
標高差300mくらいなら大したことはないと高をくくっていたが、さすがにここはきつかった。朝早くから登り下りして、直前では浄蓮庵から標高差300mを下ったばかりである。息は切れるし膝は上がらないし、途端にスピードが落ちた。それでも、手を使わないと登れないような場所はなかったから、きついと感じたのは朝からの疲労とあとは精神的なものが大きかったようである。
下りでは気にしなかった丁石を再び目安に登る。十一丁から十丁、九丁とだんだん少なくなるけれども、登りがきついので丁石の間隔が広く感じる。そして「まだこの10倍も登るのか」と思うと先の長さに落ち込む。
ところが、七丁あたりだっただろうか、登山道が突然に太い林道と合流し、ここからは林道を登れば着くような様子である。引き続き傾斜はきついし、砂利は敷いてあるのに地盤はごつごつして歩きにくいけれども、スイッチバックをくり返す細い道よりもましである。そして、合流した林道を500mほど進んだあたりになると、向こうの方から人の声が聞こえてきた。
やっと着いた、と思ったら、細かな砂利道の参道には、右方向にも左方向にも「本堂まで500m」と表示がある。ということは、いま歩いている参道は円周を描いていて、本堂は現在の場所の反対側にあるらしい。よく見ると、石垣は弧を描いているようである。
右でも左でも行けそうなので、左に進んでみる。傾斜は引き続き登りで、参道のあちこちには最近寄進されたらしい石造りの不動明王やら観音菩薩やらが置かれている。弧を描く参道は結構長い道のりで、永遠に回り続ける無限ループではないかと心配になり出した頃に、向こう側からの参道と合体して石段の下に達した。見上げると焼山寺の山門である。ようやく着いた。
石碑に「四国十二番 焼山寺」と書いてある。時刻は11時25分。こりとり川から約1時間、藤井寺から休み時間を入れて約6時間だから、まずまずのペースで歩けたと言っていいと思う。
浄蓮庵から左右内集落までの下りは傾斜がきつく、なかなか着かない。40分ほどかかって、ようやく集落の屋根が見えてくる。
弘法大師が水垢離したとされるこり(垢離)とり川。川底が岩盤になり、流れもゆるやかになっている。
こりとり川を越えると再び登り。さきほどまでの下りで膝がきしんでいるので、想像以上にきつい。
十二番札所、摩廬山(まろさん)焼山寺(しょうさんじ)。山号も寺号も、弘法大師がこの地を訪れた際、山を火の海にしている大蛇を摩廬の印(まろのいん、水輪を意味する)で封じ込めたとされる伝説に基づいている。伝説は伝説として、八十八札所のうち空海が実際に修行した可能性が大きいとされる寺のひとつである。
というのは、空海自身の著作「三教指帰」に、阿波の山と土佐の海で修行したという記載があるからである。また、「四国遍路道指南」等にも禅定、つまり修行された跡があると記載されていることに加え、他でもない虚空蔵菩薩が本尊となっていることがあげられる。
「三教指帰」には、空海が虚空蔵求聞持法という修行をしたと書かれている。この修行は虚空蔵菩薩の無限の知恵にあやかろうとするもので、虚空蔵菩薩の真言を百万回唱え、捨身や滝行、護摩焚きなどの修行をすることにより、あらゆる経典を理解し記憶することができるという。
虚空蔵菩薩を本尊とする札所は八十八ヶ所の内、ここ焼山寺と、太龍寺、最御崎寺の3寺だけであり、いずれも空海言うところの「阿波の山、土佐の海」である。このことから、空海が実際に修行したと考えられている。
そういう予備知識を持ってここまで来たので、焼山寺は山の中の階段を登り詰めたところにある小さな寺だと思っていたのだが、全くそんなことはない。直前の藤井寺に比べてもかなり境内は広い。なにしろ、山門までの参道外周が半周で500m、山門から石段を上がって納経所があり、さらに石段を上がった本堂レベルに、食堂・売店があるのだ。
納経所にお寺の直営売店が開かれている札所は特に珍しくないが、納経所より本堂寄りに、別棟の食堂・売店があるのを見たのは、焼山寺が初めてである。
そして、山門前で箒をかけていたお坊さんも、納経所でご朱印を押していたお坊さんも、「今日は売店でお茶のご接待をしていますので、お立ち寄りください」とさりげなく言ってくださるのである。WEB情報では、焼山寺は時間にルーズで朝晩は時間通り来ないと評判なのだが、それは多分たまたまであろう。
手水場で手を洗い、本堂・大師堂の順にお参りする。この日最初で最後の読経である。さすがに山の上なので混んではいなかったが、何組かは参拝に訪れていた。ご本尊の虚空蔵菩薩を何とか拝めないものか本堂の蔀戸から中を窺ってみたけれども、暗くてよく見えなかった。朝の藤井寺のようなケースの方が珍しく、またそのためにお姿がいただけるのである。
せっかくなのでお勧めの食堂に行ってみると、驚くことに「田舎うどん 200円」と書いてある。これはすでにご接待価格である。お茶をお持ちいただいたので、すぐにうどんをお願いする。確かに素朴なうどんで、具は薄切りのなるとだけであるが、朝早くから歩いてきたところに出汁と醤油の味、それにうどんの温かさはなんともいいようがなくありがたいものであった。
WEBでは、この後の下りが結構きついので、ここでゆっくり休みましょうと書いてある。ところが、登山の服装をした7、8人のグループが入ってきて、うどんだの飲み物だのを騒がしく頼んでいる。できれば食堂のおばさんから少し話が聞きたかったのだが、あまりにも騒々しいので引き上げた。
さて、焼山寺の関係する施設で杖杉庵(じょうしんあん、と読む。)について書いておきたい。関係するというのは、杖杉庵は無人で、納経(ご朱印)を焼山寺で行っているのである。
右衛門三郎は、田畑も使用人も多く召し抱える物持ちにもかかわらずドケチであった。ある日、托鉢に訪れた弘法大師を追い払った上、大師の鉄鉢を叩き割るという無作法を働いた。その後、息子八人が次々と亡くなるという不幸に見舞われ、これは何としても大師に直接お会いしてお詫びしなければと、家財を整理し四国遍路の旅に出た。
八十八札所を巡ること数十度、体力の限界に達した右衛門三郎は、すがる思いで逆打ち(八十八番から逆回りすること)したところ、虫の息の状態でようやく大師にお会いすることができたのが、ここ焼山寺麓の杖杉庵なのであった。
切々と大師にお詫びした右衛門三郎は、「次は国司の家に生まれたい」と大師に願い、大師は小石を握らせ、「そのとおりにしてあげよう」と約束して右衛門三郎は息を引き取る。そして、遠く伊予国司の家で石を握った子供が生まれ、その子が成長して建てたのが五十一番石手寺だという。このことから右衛門三郎は、四国遍路の元祖と呼ばれている。
ひととおり聞いただけで、うさんくさい話である。なぜ、業突く張りのドケチで弘法大師に無礼を働いた右衛門三郎が、お詫びしただけで国司の家に生まれるのだろう。衛門三郎がしたことは、10桁くらいのマイナスを0に戻したというのがせいぜいであって、プラスになった訳ではない。それなら最初から信心深い一生を送った人はどうするのかということである。
この話は後々また触れる機会があるだろう(「四国遍路道指南」でも、詳しくは石手寺でと後に振っている)。
[行 程]アクセス鴨島 4:35 →(2.4km) 5:10 藤井寺 5:15 →(3.2km) 6:35 長戸庵 6:55 →(3.4km) 8:10 柳水庵 8:30 →(2.2km) 9:20 浄蓮庵 9:45 →(1.4km) 10:30 こりとり川 10:30 →(1.4km) 11:25 十二番焼山寺 11:55 →(1.8km) 12:45 杖杉庵
[Mar 29, 2016]
焼山寺本堂。山の中を歩いてきた割には、広々とした境内です。
階段を下りて納経所前から本堂方向。階段の左に見える建物が食堂兼売店で、田舎うどんが200円!
1時間ほど下ったところにある杖杉(じょうしん)庵。弘法大師につらく当たった物持ちが、巡礼の末に大師に巡り会いお詫びをするというなんだかなぁ・・・なお話。
十三番大日寺 [Nov 2, 2015]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
十二番焼山寺から十三番大日寺までの経路は、「四国遍路道指南」によると右衛門三郎の塚(杖杉庵)から、さうち村(左右内)、あかは村(阿川)、ひろ野村(広野)と順路が書かれているので(現在はすべて神山町である)、玉ヶ峠を越える山道(上の地図だと、鍋岩から府中、長代、本名を経由して広野で合流するルート)を行ったと思われる。
現在では神山町中心部まで下り、鬼籠野(オロノ)経由で広野に出る道が多くの人に使われている。こちらの方が道路がいいし、宿泊の便もいいからであろう。私もこの経路を選んだのだが、それは翌日歩く距離が短くて済むと思ったのと、神山温泉があるので山で疲れた後ゆっくりできると考えたからである。
新旧いずれの経路をとるにせよ、杖杉庵(じょうしんあん)から鍋岩までのルートは共通である。そして、このルート、下り坂で3~4kmだから大したことはないと思っていたらとんでもない。かなり時間のかかる道なのであった。杖杉庵までは山道の下りなのでやむを得ないが、杖杉庵から鍋岩の間も足下が滑りやすい一枚岩だったりして油断できないのである。
歩いている道の両側の木々は梅やスダチのようで、スダチの小さな実がいっぱい落ちているのはもったいないようであった。また、ところどころ家のあるあたりでは、自家製の梅干しがビニール袋に入って売られている。もう少し余裕があればゆっくり見ていきたかったが、もうお昼を回って残りあと10kmだから、そうそうゆっくりしてもいられない。
結局、焼山寺から鍋岩集落までの3km足らずに1時間半かかってしまった。集落に出たところに大きな建物があって、横の壁に大きく「遍路の食事どころ △△食堂」と書いてあるのだが、現在は営業していないようだった。食堂跡を過ぎるとプールの残骸が現れた。もう使っていないのに水が張られていて、そこに藻が繁茂して緑色になったコースが1から3までしかない。
山の中にこんな施設があるとはと思ってよく見ると、プールサイドに階段があり、そこから下に出られるようになっている。その先をよく見ると広い校庭と校舎がある。なるほど、と合点がいった。遍路地図に載っている、休校中の左右内(そうち)小学校である。
焼山寺の登りでこりとり川のあったあたりも左右内村だったし、ここも左右内村というのが江戸時代の地名のようである。そして、このあたりの小字名を鍋岩というようで、道標にもそう書いてあったし、小学校の先の公衆トイレにも「鍋岩公衆トイレ」と書いてある。遍路宿の老舗である「なべいわ荘」は、鍋岩にあるからそう名付けられたのであろう。
午前中に通った左右内集落にせよ、いま歩いている鍋岩集落にせよ、そんなに子供などいないだろうと思われるくらいの過疎地域である。と思っていたら、神山町中心部から自転車で登ってくる体操服姿の中学生に「こんにちは」と挨拶された。さすがに徳島市街まで1時間、子供がいないなんてことはなかったのであった。
さて、休校中の小学校の少し先、公衆トイレのある広場の向かいあたりに、有名な遍路宿である「すだち館」がある。最初は野宿しそうな若い人をご接待で泊めていたのを、それではいろいろ差しさわりがあるということで、1泊2食4000円とほとんど実費以下で泊めた上に神山温泉まで無料送迎しているという、頭の下がる話である。
忙しそうにしている老夫婦がそうらしい。せっかくだから私も何か買わせていただこうと、入口のガラス戸に貼ってあったソフトクリームがあるかどうか聞いてみたところ、「すみません。切らしてまして」と言われてしまったのは残念なことであった。ソフトクリームは私の大好物であり、ここまで歩いて疲れたのでぜひ栄養補給したかったのだが。
すだち館を過ぎてしばらく行くと、道の右奥になべいわ荘が見える。結構大きな規模で、建物も新しく立派に見えた。そして、なべいわ荘から少し下ったところに玉ヶ峠への遍路道の分岐がある。新しい石碑が建てられているので分かりやすい。木の橋がかけられて山の中に細い道が森の奥へと続いているので、この先の険しさが想像できるようであった。今回はそのまま舗装道路を下って行く。
舗装道路とはいってもそんなに楽ではない。なべいわ荘から神山市街まで1時間、そこから神山温泉までさらに1時間を要した。朝明るくなってから出発していたら、このあたりを歩く時間には暗くなっていただろう。日の短い時期には、スケジュールや泊まる場所をよく考えなければならない。
そういえば、神山町中心部から神山温泉に向かう途中のこと、ちょうど私くらいの年恰好のおばさんが近づいて来て、「おばあさんが歩いているのを見ませんでしたか」と尋ねられた。特にそういう風体の人は見なかったからそう答えると、そこから引き返して道の両側を何百mも探して行くのだった。おばあさんは一体どこまで行ってしまったのだろうと気になった。
焼山寺から鍋岩に下る道には、左右に梅やすだちの木が植えられている。梅干しがいろいろなところで売られていた。
「すだち館」「なべいわ荘」の少し下で、左に遍路道が分かれる。ここから玉ヶ峠を越えるのが「道指南」のルート。
鍋岩から1時間歩いて、ようやく神山町の中心部が見えてくる。ここから神山温泉まで、さらに1時間を要する。
夜遅くから降り始めた雨はかなり激しく降り、朝起きて外を見ると屋根の上に雨粒が跳ね返っているのが見えるくらいだった。軽装白衣の上に、上下ともレインウェアを着けて出発する。7時から朝ごはんだったが、支度に時間がかかってしまい出発は7時45分になった。
上下レインウェアで白衣は見えないのだが、山野袋を下げていたので歩き遍路と分かったのか、駐車場で「今日は雨だよ。でもこういう時こそご利益があるというから。」と話しかけられた。そう言うおじさんは車に向かっていたので歩き遍路ではないのだった。私の方は傘を広げて、道の駅の方向に向かう。
遍路地図には、焼山寺から大日寺へのルートとして、甲・乙・丙の3つのルートが記載してある。甲ルートは玉ヶ峠から阿川に下りるルートで、この道はすでに前日に鍋岩で分かれている。乙ルートは神山中心部に出てからオロノ経由広野のルートで、今回選んだ道順である。そして丙ルートが、オロノから北上して養瀬トンネルを通らずに直接大日寺方面に抜けるルートである。これ以外にルートはないと思い込んだのが、今回少し考えが足りないところであった。
さて、神山温泉からオロノまでは大きく2つの峠を越えるが、地図では分からないけれどその他にも登ったり下ったりかなり起伏があった。傘を差しているので手の自由が利かない上に、歩道がない場所もあり、交通量も多いので猛スピードで行き交う車の水しぶきを浴びないようひどく神経を使った。
道の駅からしばらく進んだところに、おそらく車用と思われる「大日寺15km」の標示があった。15kmといえばおよそ4時間、加えて強い雨の中という悪コンディションである。それ以外には、遍路シールも行先表示も見当たらない。いずれにしても先は長いので、ペースを抑えめにしなければならない。
長い登り坂を登って行く途中、峠らしきところに人影が見えた。最初は集団登校の小学生が待ち合わせているのかなと思った(この日は平日であった)のだが、ずっと見ているのに動きがない。なんだかおかしいなと思って近くまで行ってみると、それは人形であった。全部で20体近くあって、中はサザエさんの家族に似せた人形もある。
添えて立てられていた説明書きによると、この人形はこの地区の伝統的な工芸品であり、阿川にある保存会の方々が作ったということである。阿川といえば遍路道指南に書いてある「あかは村」、遍路地図のAルートで玉ヶ峠から下りてきたところである。いま歩いている道から左に折れると、4kmほどで阿川に出るらしい。
雨が降っていなかったら地図をよく見て検討したところだったが、立ち止まって地図を出すのもおっくうだし、遍路地図に載っていないルートだから問題があるんだろうと思ってそのままオロノに向かったのだった。
しかし帰ってからよく地図を見てみると、ここから阿川経由広野への道は川に沿った下り坂であり、そちらを通ればオロノ付近で余計な登り下りをしなくてもよかったのである。それにそのルートをとれば、阿川から先は昔からの遍路道と合流するので標識も整っていたと思われるし、(この先で通るところの)養瀬トンネルからの怖い道を通らなくてもよかったのである。
出発から50分ほどでオロノに到着、ここまで歩いてきた国道438号線から左(北)に進路を変える。雨が降り続いているし休む場所もないので歩き続ける。オロノからはまたもや登り坂である。そして、歩道だと思って擁壁の上を通る道に上がって行ったら、そこは行き止まりだった。
たかだか100mをくよくよしながら引き返し、もとの場所に戻って歩道なしの車道を歩く。相変わらず交通量は多い。たいていの車は除けて行ってくれるけれども、すぐ横を水しぶきを上げて疾走していく車もあってとても気疲れする。
長い登り坂を登り切ったところにトラック用の駐車スペースがあり、隅の方に丸太を倒してベンチのようになっている。屋根がないので濡れていたけれども、レインウェアを着ているので腰をかけさせてもらって一休み。山野袋に入れておいたドライフルーツとミネラルウォーターを口にすると、なぜか頭がはっきりしたように感じられた。5分ほど休んで、再び歩き始める。
緩やかな登り下りをクリアすると、道が3つに分かれる。直進すると養瀬トンネル、左折は集落に続く道で、右に折れると一宮、つまり大日寺に向かうと表示されている。一宮への道が遍路地図の丙ルートである。乙ルートはトンネルを直進するか集落を経由するかだが、雨も降っているのでトンネルの方が楽である。とはいえトンネルの中を見ると、歩道はあるにはあるがかなり幅が狭いのである。
翌朝はざーざー降りの雨。レインウェア上下の完全武装で大日寺までのロングルートに臨む。
オロノまでの国道は結構な登り下りがあり、雨の中の歩きは厳しい。登り坂の上に人影が見えたと思ったら人形だった。ここから阿川に道が分かれる。あるいはそちらに向かうのがベターだったか。
トンネルの中に歩道はあるにはあるが、幅は50cmちょっとくらいしかない。おまけにトンネルの上部は半円形になっているから、頭のあたりはさらに狭く感じられる。ただ、遍路地図にはトンネルの中に赤線が引いてあるから、多くの歩き遍路がここを通っているはずである。いずれにせよトンネルの中には雨は降っていないので、傘をたたんでトンネルに入る。
念のため、ヘッドランプを装着する。このヘッドランプは、前の晩登山靴と一緒に家に送り返す荷物の中に入れたのだけれど、そういえばトンネルがあったはず、と思い出していったん荷造りした中から戻したものである。路側帯がほとんどなく歩道も狭いので、トラックが来るとすごく怖い。あまり意味がないとは思いつつ、すれ違う際にはいったん壁に寄ってやり過ごす。
トラックが通るときは怖かったが、この日初めて傘を差さないで歩くことができ、またわずかながら下り坂であったことから、車が来ない時は非常に快適であった。500m余りのトンネルだったので、それほど歩かずに反対側に出ることができた。しかしそこから先は、高い橋の上を通るこれまた怖い道なのであった。
行く手の左側には急傾斜の斜面があり、標高差で50~60m上に集落の家々が見える。もしかしてトンネルに入らず集落への道を選んだ場合には、あの高さまで登ることになったのかもしれない。そして、橋の上には歩道がない。50cmもない路側帯で、トラックとすれ違わなければならないのである。
欄干の脇まで一段上がれば少しはスペースができるが、そうすると今度は欄干の高さが50cmくらいしかなくなるので橋から落ちてしまう危険がある。橋を越えると50mくらい下に流れている川まで、何もない。向かってくるトラックが怖いか、落ちたら助からない平均台のような欄干が怖いか、究極の選択である。
まあ、普段なら交通量もあまりないだろうし、そこまで心配する必要はないのかもしれないが、少なくとも私には安心して通れる道ではなかった。こんな道だと分かっていれば、人形のある分岐から阿川に向かう道を選んだところである。地図で見る限りそんなに距離は違わないし、道は下り坂だし、途中から遍路道に合流する。何にせよ人為的な危険は少ないはずなのである。
どうにかこうにか危険地帯を通過して、左右にうねりながら道はゆるやかに下って行く。下を流れているのは鮎喰(あくい)川の支流のはずだが、支流とは思えないくらい水量がある。ともあれ、川に沿って歩いているということは、基本的に下り坂ということで何よりである。
出発から2時間経過した午前10時、ようやく雨が小降りになってきた。玉ヶ峠から直行する遍路道と合流するのが広野である。遍路道指南の時代には「ひろ野村」だったが、現在は神山町広野になる。ちょうど橋の向こうから、お遍路姿の人が歩いてくるのが見えた。
合流点からしばらく行くと学校があり、公衆トイレの標識がある。この先トイレがあるかどうか分からないので、標識に沿って脇道に入る。公衆トイレは神山東中学校の校庭に面しており、道路から見えた校舎から校庭を挟んで反対側にある。
まだ新しい休憩所で、トイレの前にはベンチもあり屋根も付いている。この日、宿を出てから初めて見る休憩所らしい休憩所であった。雨も止みそうなのでレインウェアの下を脱ぎ、傘も折り畳んでステッキに持ち替え、リュックのカバーも外すとかなり身軽になった。ここで休めたのは大成功であった。
20分ほど休んで出発。しばらく歩くと、先ほど玉ヶ峠の方から歩いてきたお遍路の人に追いつく。20分も休んだのにすぐに追いついたものだと思っていたら、この方、なんと手に大きなビニール袋を持って、路上に捨てられている空き缶やゴミを拾いながら歩き遍路をしているのであった。
非常に立派なことだとは思ったが、一緒のペースで歩いていたら帰りの飛行機に間に合わない。申し訳ないことであったが、タイミングをみて抜かせていただいた。そうこうしているうちに、予報通り雨は完全に上がってくれたようだ。
その後は一宮寺までノンストップで歩く。途中、徳島刑務所があるので遍路道から見えるかと思っていたけれども、山の奥へと道が続いているだけで敷地も施設も見えなかった。番外霊場・建治寺への道を分け、残り2kmくらいで休憩所「おやすみなし亭」前を通ったが、考えていたよりも時間がかかっていたので、残念だが立ち寄らなかった。
おそらく役所であろう建物に、「気に入った、入田」と書かれている看板があった。おそらく、市町村合併以前は「入田町」という自治体だったのではなかろうか。それはそれとして、この看板を見てこの地名は「いった」と読むと思ってしまったのだが、少し先にあった交差点のアルファベット表示にNyutaと書いてあったのでおそらく「にゅうた」が正しい。
大日寺の前の県道は、微妙にカーブを描いている中をトラックが飛ばして行く。道を挟んで大日寺と一宮神社が向かい合っており、10mほどしか離れていないものの、車通りが多くて渡るのに気を使う。到着時間は11時50分、神山温泉から休みを入れて4時間かかった。11時過ぎには大日寺という胸算用であったので、それからするとかなり遅れてしまった。
養瀬トンネルを越えると、歩道のない橋。路肩が狭いのにトラックが向かってくる。低い欄干の向こうは50m下に川!
約2時間の歩きで広野の町が見えてくる。向こう岸に見える家並みは、玉ヶ峠を下って阿川から来る昔の遍路道に沿っている。
神山東中学校の校庭にあった、お遍路用トイレ兼休憩所。ここで休んだのは大正解。
十三番札所、大栗山大日寺(おおぐりさん・だいにちじ)。弘法大師の創設と伝えられるが、もともとこの場所にある札所は阿波一の宮であり、「四国遍路道指南」等にも「一宮寺」と書かれている。一の宮とはその国で一番の神社という意味であり、もともと寺ではない。また、一の宮自体は阿波国府のできた頃にはあったはずだから、空海よりも時代的に古い。
明治になって神仏分離令が出される以前、神仏習合は当り前であり、神社にも仏様を祀ってあったし、寺にも神様が祀ってあった。明治政府が無理矢理神仏を分離したのでいまの姿となっているが、もともと神様と仏様の区別はファジーなものであった。
八十八札所のうち、もともと寺ではなかった霊場は、阿波、土佐、伊予、讃岐それぞれの一ノ宮と、仁井田五社(37番)、稲荷宮(41番)、三嶋宮(55番)、八幡宮(57番)、琴弾八幡宮(68番)、崇徳天皇社(79番)で合計10を数える。多くは天皇家のご先祖をお祀りしている神社であるが、明治時代になって神仏分離により、別当寺(神社に付属する寺)が新たに札所となったのである。
十三番札所も、明治以前には阿波一ノ宮が札所となっており、別当寺と一体化して一宮寺と呼ばれていた。それが、明治になって分離せよということになり、一宮神社と大日寺に分かれた。その結果、大日寺が札所ということになっているものの、本来の由緒としては阿波一ノ宮が札所なのである。
ちなみに、律令時代の阿波国府はこのあたりに置かれていた。江戸時代以降今日まで、徳島城が置かれたためJR徳島駅周辺がこの地方の中心になっているが、古い時代にはこのあたりが中心だった訳である。「国府」「府中」は地名・駅名に残っているし、国分寺・国分尼寺もこの周辺にある(国分寺は十五番札所だ)。
なお、WEBを調べると山号の「大栗山」は一ノ宮のある山から名づけられたという説がある。しかし、それだと大粟山(おおあわさん、粟はもちろん阿波と通じる)と呼ぶのが本当のようだ。そのあたりの経緯はよく分からない。
境内はそれほど広くなく、山門の左に手水場と本堂、右に大師堂と納経所がある。山門の脇に何脚か木のベンチが置かれているが、ここでお昼を食べられるほどの広さはない。お寺で何か売っている訳でもないので、WEBには、セブンイレブンでお昼を買ってここで食べると書いてあったけれど、ちょっと難しいかもしれない。
ご朱印を押してもらってから、お向かいにある一宮神社にお参りする。広さという意味ではこちらの方が広く感じるが、あるいは建物が少ないのでそう感じるのかもしれない。気になったのは大きな馬の銅像で、本殿前に置かれていて、お参りするにはその馬の腹の下を通って行かなければならない。
よほど由緒ある馬なのか、あるいは馬上にどなたかやむごとなきお方がいらっしゃると想像せよということだろうか。意味がよく分からなかった。
[行 程]焼山寺 11:55 →(1.8km) 12:45 杖杉庵 13:00 →(8.2km) 15:30 神山温泉(泊) 7:45 →(9.1km) 10:00 広野・神山東中学校前 10:20 →(7.2km) 11:50 十三番大日寺 12:15 →
[Apr 26, 2016]
神山東中学校の休憩所から、1時間半ノンストップで大日寺へ。道路をはさんで大日寺と一宮神社が向かい合っている。
こちらが一宮神社。馬の銅像の腹の下を通って本殿にお参りするのだが、意味はよく分からなかった。
十四番常楽寺 [Nov 2, 2015]
大日寺までの長丁場をクリアして、十三番から十七番まで5つの札所は比較的近い距離にある。このあたり、「国府」(こう)というJRの駅があり、国府町(こくふちょう)という地名がある。つまり、律令時代にはここに阿波国府があったということである。一ノ宮や国分寺もこの一帯にあることから、人も多く、寺も多かったことから札所も集中しているのだろう。
さて、道草を食っていた訳でもないのに、予定よりも1時間近く遅れてしまっている。神山温泉から大日寺まで思ったより距離が長かったのと、雨の中を登り下りして歩く速度があまり速くなかったためである。徳島に戻るのが遅れると、風呂に入って着替える時間がなくなってしまう。着替えるだけなら空港でもできるが、できれば風呂に入りたい。
十四番常楽寺へは大日寺の先を左に折れ、かどや旅館と名西旅館の前を、大日寺の建物を裏手から見ながら鮎喰(あくい)川に向かって進む。じきに石造りの道案内やお地蔵さんが現れ、この日はじめての遍路道らしい遍路道になった。
これまで歩いた県道とは違って、車もほとんど通らないしすれ違う人もいない。安心して、歩きながら元気一発ゼリーで栄養補給する。まだ空腹は感じないけれども、補給できるときに補給しておくことは山歩きにしてもお遍路にしても大切である。
一番霊山寺から十二番焼山寺まで、遍路道シールや次の札所までの道案内・距離表示の他に、「四国のみち」という道案内がずっと続いていた。おそらく関東自然歩道と同じように、環境省や都道府県の予算が付いた環境整備で、案内板も要所に分かりやすく置かれていたのだが、この「四国のみち」標識を焼山寺以来ほとんど見かけなくなったことに気がついた。
帰ってから調べてみると、「四国のみち」は焼山寺を過ぎて遍路道とは分かれ、さらに尾根を2つ3つ越えるのであった。どうりで「四国のみち」標識を見かけなくなったはずである。そのこともあってここから先、市街地の中、分かりにくい道となるのであった。
遍路道の両側は田んぼや草むらが広がる田舎の風景であったが、くねくね曲がった突き当りを左に折れると、何やら工場か倉庫のような建物、雑草の生い茂る傾斜地の近くへと進んでいく。もう鮎喰川は目と鼻の先である。まるでゴルフ場で使われているような鋼矢板の橋を渡ると、鮎喰川を渡る大きな橋と合流した。この橋が一の宮橋である。
もちろん、「阿波一ノ宮」がもとになっているのだろう。車通りは多いがここからは歩道がある。そのまま鮎喰川を対岸に渡り、突き当たりに車用の大きな「→常楽寺」の標識があるので、そこを右折する。さて、遍路地図では常楽寺までは平地のようなのだが、家並みのすぐ後ろに山が迫っている。曇っているのでお日様は見えないし、方向感覚が分からなくなってきた。
道案内はないけれども、電柱に矢印の遍路シールが貼られている。この矢印にしたがい、坂を登って行く。登り切ったところで今度は下りである。平らな道を通っても行けたのではないかと思う。方向感覚さえきちんとつかめていれば、多少遠回りになったとしても登り下りは避けるのだが。そんなことを思っていると、えらく寂しい谷底のような一角に出た。
左側にかつて池であったような湿地帯があり、「不法投棄禁止」の立札があるのにたくさんゴミが捨てられている。右側は暗い草むらが続いている。そしてその草むらには、なんと「大便禁止」の立札が立てられているのである。そんなことをするお遍路がいるのか、あるいはそれ以外の人なのか、ちょっと背筋が寒くなった。
一番霊山寺からここまで何人か女ひとりの歩き遍路の人を見かけたが、あまりお薦めしたくない道である。ちなみに「四国遍路道指南」によると、「是(一宮)より常楽寺まで十五町、此間(鮎喰)川有 ゑんめい村」とあるから、昔の遍路道は県道に沿って国府町延命から常楽寺に向かったと思われる。
うら寂しい一角を抜けてしばらく行くと、今度は水が満杯になっている池に出る。先ほどの湿地帯とは違ってこちらには鴨が何羽か泳いでいるが、水の色はこげ茶色でなんとも言いようのない寂しげな池であった。池の脇が高台になっていて、上に建物が見える。一枚岩を削って作ったような石段が伸び、その上が十四番善楽寺になる。
12時50分着。十三番大日寺から30分ちょっとで着いた。
大日寺の横から田舎道に入る。この日はじめてののどかなへんろ道。
ところが田畑は次第になくなって、工場・倉庫・荒れ地の前を抜けていく。鮎喰川の前で県道と合流する。
十四番札所、盛寿山常楽寺(せいじゅさん・じょうらくじ)。阿波にある古寺のほとんどは戦国時代に長宗我部軍によって焼かれてしまった。十四番から十七番についても同様で、江戸初期の「四国遍礼霊場記」「四国辺路日記」等には、草堂のみ、礎のみ、無住(住職はいない)など、荒廃した様子が記録されている。
したがって、WEBなどには弘法大師創建、本尊は空海御製などという由来が判で押したように出てくるが、これには首をひねらざるを得ない。それでも歴史ある寺院であろうと推定されるのは、この4ヵ寺が阿波国府の中心地にあるからである。
もし札所が江戸時代になって初めて成立したものならば、これらの寺社は含まれていないだろう(なにしろ、江戸初期には住職さえいないのだ)。それが八十八の中に入っているというのは、それ以前に栄えていた霊場であるという伝承が残っていたからに違いない。
中でもこの常楽寺は、本尊が弥勒菩薩ということからみても古い歴史を持つことが推察される。ちなみに、八十八札所の中で弥勒菩薩を本尊とするのはここだけである。
弥勒信仰はわが国における仏教信仰の中でもかなり古い形のものであり、弥勒菩薩が盛んに作られたのは飛鳥時代や奈良時代である(中宮寺や広隆寺の半跏思惟像など)。戦国時代に焼かれてしまってからしばらくは無人のようだったので、現在のご本尊が創建当時からのものであるかどうかは定かでないけれども、古くから弥勒菩薩がご本尊だったという由来は確かであろう。
弥勒菩薩は仏陀入滅後56億7千万年の後に現われて衆生を救済するとされ、それまでは菩薩として修行中であるとされる仏様である。弥勒信仰は飛鳥時代にはすでに成立しており、平安初期に日本に入った真言密教の大日如来よりも、平安後期から鎌倉時代に盛んになった極楽浄土の阿弥陀如来よりも、古い時代の信仰を伝えていると考えられるのである。
ということは、この常楽寺は空海以前からの信仰を伝えてきた可能性がある。国府や国分寺の制度は奈良時代、すなわち空海以前の時代である。現在は平安仏教(天台宗・真言宗)・鎌倉仏教(禅宗・念仏宗など)が古くからの仏教と認識されているが、それ以前の時代というのももちろんあったのである。
階段を登り切ると常楽寺境内である。高台の上だが思っていたよりも広い。境内には自然石の地形がそのまま残っており、山門までの石段も自然石を削って作ってあるし、山門から奥、本堂・大師堂へも自然石の傾斜を登っていかなければならない。それほど高さはないが足場が不安定なので、滑りそうになる。
ご本尊の弥勒菩薩を拝見できるかと思って本堂の中を窺ってみたけれども、例によって蔀戸が下りていてよく分からなかった。境内には供養塔のような施設が置かれている。せっかくだから拝ませていただく。
ここまで来るとすっかり雨は上がって、少しではあるが薄日が差すくらいに天気は回復してきた。納経所の前が広場になっていて、ベンチが置かれている。十三番大日寺よりもかなり広くて休みやすいので、追加のお昼にしようとリュックからチョコクロワッサンを取り出した。
ところが、寺で飼っているのか居ついているのか分からないが、ネコがにゃあにゃあいいながらベンチの下から出てきて、やたらと私の足にまとわりつくのである。他にも人がいるのに私のところに来るというのは、クロワッサンを寄越せというのか、あるいはここでは物は食べるなというのか、ともかく私にメッセージを送っていると思われた。
ネコがクロワッサンを食べるかどうかよく分からないし、肉付きのいいネコなので食べ物に不自由はしていないようだ。ということは後者と考えて、せっかく出したクロワッサンを山野袋に仕舞ったのであった。
[行程]大日寺 12:15 →(2.3km) 12:50 十四番常楽寺 13:20
[May 6, 2016]
寂しい窪地を抜けると大きな池があり、常楽寺への石段が現れる。
常楽寺の境内は自然の岩が階段のようになっていて、本堂・大師堂へはその岩を登って行く。
間近で撮影した自然岩の階段。
十五番国分寺 [Nov 2, 2015]
常楽寺ではネコに阻まれてチョコクロワッサンを食べ損ねたので、お行儀は悪いが十五番国分寺までの道すがら食べながら歩く。午前中悩まされた雨はすっかり上がって、食べながら歩くのに何の支障もない。常楽寺の敷地を囲んでいる石垣を回り込むような形で、来た方向とは反対側に坂を下りて行くと両側に住宅が立ち並ぶ道に出た。
すでに時刻は1時半近く、予定した札所はあと3つ。歩きに1時間参拝に1時間とみると、井戸寺を打ち終わるのは早くて3時半。それから1時間半で徳島に着けば5時だから風呂には入れるが、それより遅いと6時過ぎの空港バスにギリギリである。
雨は止んだがどんよりとした曇り空で、お日さまは顔を出さない。その上曲がりくねった道なので、依然として方向感覚に苦しむ。太陽さえ出ていればたいてい何とかなるのだが。
方向感覚は人並み以上にはあって、道に迷うことはあまりない。少なくとも東西南北どちらの方向に進んでいるかを間違うことはほとんどない。以前、房総の石尊山で大間違いをしたけれど、あれは北と北北東に15度ばかり方向の違う尾根を辿ってしまったためであり、平地であればそのくらい間違えても大きなトラブルにはならない。
ところがこの日歩いたルートは、曇り空で方向がつかみづらい上に周囲は住宅地で見通しが利かず、土地勘もない。1/25000図でも持っていれば多少は違うのかもしれないが、持っているのは北が上になっていない遍路地図である。困ったものである。
遍路地図の困ったところは、北が上になっていない(ことが多い)ことと、縮尺がページによってまちまちなことである。特にこの日歩いたような住宅地の場合は、もう少し分かりやすくしてほしいと思う。また、推奨ルートの赤線はあくまで参考であり、最終的な決定は自分でしたい。最短経路でなくても、起伏の少ない道や紛れのない大通りを通った方がいいことも多い。
とはいっても、1/25000図は住宅地が分かりにくいことについては同様であるし、遍路地図に代わる地図は現実的にはほとんどない。多少の不具合には目をつぶって、使わざるを得ないということなのだろう。いずれにせよ、最終的なリスクは自分で取らなければならない。
十四番常楽寺から十五番国分寺までの距離は0.8km、800mである。坂を下りてしばらくすると左手に規模の大きいお寺さんが現れる。十四番奥ノ院である慈眼寺(じげんじ)である。後から調べたところ、この慈眼寺には杉の木に刻んだ「生木の地蔵尊」という仏様が置かれているらしい。
さて、国分寺への道はまっすぐな一本道となったが、道案内はあまり出てこない。そうこうしていると、交差点に工事のトラックが数台、道幅一杯に広がっている。細い生活道路であり、のんびり地図を広げていたら後から来る人の邪魔になるので、瞬時の判断で直進する。道案内は「国分寺→」と続いていたので合っていたようである。
そんなこんなで神経を使っていたら結構長く感じた。トラックの交差点からしばらく進むと、畑と住宅地の間から、奈良市内でよく見る雰囲気の建築物が見えてきた。あれが国分寺に違いない。
住宅街の向こうから、忽然と奈良にあるようなお寺さんが見えてくる。いかにも国分寺という雰囲気である。
境内に置かれていた説明書きによると、現在の国分寺は奈良時代の国分寺のごく一部だそうである。
十五番札所、薬王山国分寺。国分寺とは奈良時代に聖武天皇が国家鎮護を目的として各国に設置した国分寺のことであり、当然のことながら弘法大師空海よりも古い時代の寺である。ちなみに、一ノ宮と同様、国分寺も阿波、土佐、伊予、讃岐の4ヵ寺とも八十八札所に含まれている。
境内に置かれていた説明板を読むと、かつて、奈良時代に置かれていた国分寺の領域は周辺の住宅地も含む広さであり、現在の国分寺は当時の何分の1の規模しかないそうである。それでも、本堂と大師堂、納経所は広々として境内にはかなりの空間がある。「四国遍礼霊場記」には、荒廃して礎石と本堂のみが残り、旅の僧(乞食坊主?)が住んでいるだけと書いてあるから、江戸時代初期にはそういう状況だったのだろう。
山門を入ってまず感じたのは、えらくあっさりした寺だということであった。境内の広さの割に建物が少なく、駐車場だけがやけに目立つ。本堂と大師堂の間も、途中に何もないものだからえらくそっけなく、こんなに離さなくてもいいのにと思うくらい広い。大師堂はつい最近建てられたもので、まだ新しい。札所には珍しく曹洞宗ということもあったのだろうか。
おそらく、蜂須賀の殿様の時代から、由緒あるかつての国分寺を再興するということに意味があって、檀家がいて住職と弟子がいてというような普通のお寺さんではなかったのかもしれない。普通の寺だと本堂の裏には墓地があるのだけれど、ここではそういう庶民の生活的な施設は見当たらなかった。
蜂須賀の殿様が寄進して建てられた本堂はなかなか立派である。宗派が曹洞宗というのは、その時に招へいしたご住職が曹洞宗だったのだろう。本堂と大師堂の間には、塀に囲まれた空間がある。非公開の庭園である。国の名勝に指定されているとのことだが、塀に囲まれている上に特に何も書いていないのでは、工事中と変わらない。
かなり驚いたのは、手水場の水が底にたまっているわずかの量しかなかったことである。水道の蛇口にホースがつないであるのだが、栓は外されていて捻ることができない。普通はこういう場合、少しずつ水を出し続けているところなのだが、止めたままなのである。
私はそうしていないけれども、手水場では口もすすぐという作法もある。まさか雨水ということはないだろうが、いつから溜めてあるか分からない水を口に入れる人がいるのだろうか。かなり首をかしげるところなのであった。
さて、国分寺で納経を終えると2時ちょうどになった。あと札所は2つ、距離は4kmちょっと。3時半は無理だとしても、何とか4時には井戸寺を出られそうな目処がついてきた。徳島発空港行のバスは6時25分。5時半に駅に着いて大急ぎで風呂に入れば間に合いそうだが、ご飯を食べる時間はなさそうである。
ともかくも、十六番観音寺へと急ぐ。WEB上にあるお遍路の記録をみてあまり急ぐのは考えものだと思っていたのに、自分がその羽目に陥ってしまったのは残念なことであった。
[行 程]常楽寺 13:20→(0.6km) 13:35 十五番国分寺 14:00→
[May 21, 2016]
本堂はさすがに蜂須賀の殿様が寄進しただけのことはある。鐘楼も立派。
しかし大師堂は最近の建物だし、手水場に至っては水が出ていない。江戸時代に真念らが「荒廃している」と嘆いた名残りがいまだに残っている
十六番観音寺 [Nov 2, 2015]
十五番阿波国分寺を出ると、周囲は建て込んだ住宅地である。十三番大日寺から鮎喰川を渡ってから、方向がよく分からない状態がずっと続いていて、国分寺を出たところでもちょっと迷った。遍路シールを頼りに住宅街を右左と進むと、一ノ宮の先、国府町延命からJR徳島線に向けて南北に通っている太い幹線道路に出た。
ここでようやく、方向感覚がしっくりきた。遠くに見える山も、どのあたりの稜線なのかようやく見当が付く。幹線道路だけあって信号待ちが長かったが、もう大丈夫である。十六番観音寺へは、幹線道路から斜めに北へ向かう遍路道に入って、2km弱歩くと右手に見えてくるはずである。
この時歩きながら考えていたのは、なぜこんなに切羽詰まった時間になったのだろうということであった。すでに2時を回ってあと札所が2つ。距離が4kmだから、どうがんばっても3時半よりは遅く、4時に井戸寺を出られれば御の字である。当初の計画では、4時には徳島駅に着いてびざんの湯で汗を流し、その後どこかで夕飯を食べて6時25分の空港バスという予定であった。
それどころか、2時前に井戸寺を出られれば、次の十八番札所への近道となる地蔵越に行けるかもしれないという楽天的な計画を立てていたのである。2時に井戸寺だと逆算すると11時には大日寺を出なくてはならないことになるが、15kmを3時間半で歩くのは可能と考えたのである(ちなみに、WEB「歩き遍路情報」のプランでは、神山温泉発7:30で大日寺着は11:10である)。
それが2時を過ぎて、井戸寺どころか2つ前の国分寺を出発したばかりである。なぜこうなったのか。第一には、朝方の雨で支度に時間がかかって出発が遅れたこと、第二に、意外とアップダウンがあって歩くスピードも出なかったということが原因である。そして第三に、そもそも15kmくらいが午前中に歩ける限度だったので、見通しが甘かったということであろう。
計画段階では、平地で札所での参拝時間を考慮に入れなければ午前中20km、午後20kmの1日40kmは可能だろうと思っていた。ところが実際に歩いてみると、山道でなくても結構なアップダウンがあって時速4km以上をコンスタントに維持することは難しい。休憩だってちゃんととらないとペースが落ちる。いろいろ考えると、もともと午前中に歩けるのは15kmくらいだったということである。
そんなことを考えながら歩いていると、進行方向左側は畑であったのにいつの間にか住宅が立ち並んでいる。畑越しに見えていた幹線道路も住宅に遮られて見えなくなってしまった。右側は学校か何かの施設で、ずっとフェンスで囲まれている。観音寺を通り過ぎてはいないはずと思いつつも、なぜかこのあたりには遍路シールも案内板もないので、不安は増すばかりである。
次に十字路が見えたら現在地を確認しようと思って進むと、それらしき角が少し先に見える。そこまで行ってみると、交差点の右手に、山門と本堂らしき建物が見えた。住宅街の中にあるので、直前になるまで分からなかったのである。2時半前に十六番観音寺に到着した。
幹線道路から斜めに入るこの道が、「遍路地図」で示しているへんろ道のはずである。
右に折れるはずなのだが、右側には延々と施設のフェンスが続く。右折する場所を見逃したかと不安になるほどまっすぐである。
十六番札所、光耀山観音寺(こうようさん・かんおんじ)。「かんのんじ」ではなく「かんおんじ」と読む。このあたりの地名は「かんのんじ」で、寺の名前が「かんおんじ」なのでまぎらわしい(ちなみに、讃岐の観音寺は地名が「かんおんじ」で、寺の名前が「かんのんじ」)。
観音とは観世音菩薩のことで、唐の時代に「世」の字が使えなかったことから観音菩薩と呼ばれるようになったけれども、経典にはそんな制限はないから当時も現在も観世音と書かれている。したがって寺の名前が観音様に由来しているならば、本来「観世音寺」ないし「観自在寺」とするのが正式である(観自在菩薩は観世音菩薩の別名。般若心経の冒頭にも出てくる)。
私が昔聞いたところでは、「観音」とは経典の別の個所に書かれている言葉で、観世音菩薩を直接指すものではないということだった。そうであれば本来「かんおんじ」と読むのが正しいということになる。まあ、檀家の人にとって経典のどの部分から採ったかにはあまり関心がなく、観音様と同じ字だから「かんのんじ」で数百年やってきたということであれば、どちらが本当かというような議論は野暮というものであろう。
阿波国分寺から1.8kmと距離的に近い。もともと国分寺を作る際に、聖武天皇が行基に命じて作らせたという寺伝がある。また、五来重氏の「四国遍路の寺」では、境内に寺とは別管理である八幡神社があることから、もともと村の鎮守だったのではないかと推測している。
村の鎮守が札所として霊場に数えられたという推測は、私にはあまりしっくりこない。むしろ、観音寺から次の井戸寺に向かう途中にある大御和(おおみわ)神社との関連を重視すべきではないかと思われる。
大御和神社はその読みが共通であるように、奈良の大神(おおみわ)神社と同じ神様である。そして記紀の崇神天皇伝に記載されているように、そもそも大神神社とは、大和朝廷に滅ぼされた畿内の旧勢力なのである。(全国にある三輪神社も同じ神様である。三輪そうめんの名前もここから採られている。)
畿内に勢力圏を持つ豪族が他の地域に勢力を伸ばそうとする場合、山を越えて行くよりも、海沿いに行く方が多くの人や物資を輸送することができる。まして阿波は、大阪湾の対岸であり肉眼で確認できる。畿内の勢力が出先機関を持つのはある意味当然ともいえる地域なのである。(淡路島は、阿波に行く途中にあることから「あわ路」となったという。)
奈良時代に国府が置かれた場所であることからして、このあたりが四国でもっとも早くから開けた地域なのだろう。その阿波に置かれている神社で、「おおみわ」という名前が付けられているということは、大和朝廷以前の勢力が祀られた神社である可能性が大きい。少なくとも無関係ではないだろう。
その大御和神社の目と鼻の先に、八幡神社(応神天皇、つまり大和朝廷の神である)があって、かつ観音寺が置かれている。それが大御和神社と無関係と考えるのはむしろ不自然である。井沢元彦氏の逆説の日本史的に言えば、大御和神社は前時代の支配者の祭祀(三井寺でいえば大友皇子陵)であり、八幡社と観音寺は新支配者の祭祀(三井寺と新羅善神堂)ということになる。
記紀の伝えるところでは、わが国に仏教が伝わったのは蘇我・物部の崇仏戦争の頃とされるが、釈迦が生きていたのは紀元前6世紀、中国に伝わったのは1世紀であるから、少なくとも4~5世紀には非公式ルートで日本にも伝わっていたと考えるのが自然である。大和朝廷が成立したであろう5~6世紀に、阿波での祭祀に仏教(寺)が使われていたとしてもおかしくはない。
(個人的には、大和朝廷の全国制覇は天武天皇の時代、7~8世紀と考えているので、時代的にも矛盾しない。詳しくは日本史の連載記事「常識で考える日本古代史」にて)
それはそれとして、観音寺を見てまず思ったのは、直前の札所である国分寺と比べて、敷地は小さいもののあるべきものがきちんとあるまとまった寺ということである。敷地を囲っている石の柱も檀家から寄進されたもので、氏名と金額が彫られている。その金額も三十円とか五十円、百円であるから、おそらく第二次大戦前のものであろう。
隣家の住宅がすぐ裏にあるコンパクトな敷地内に、本堂と大師堂、庫裏やその他の建物が軒を接するばかりに建てられている。大師の像もあるし仏足石も置かれている。過去の歴史には不明な点もあるが、いまなお信心を集めている札所だということは確かである。
[行 程]国分寺 14:00→(1.8km) 14:25 十六番観音寺 14:45→
[Jun 4, 2016]
長い直線の道を進むと、突然という感じで十六番観音寺に至る。国分寺よりコンパクトだが、施設はむしろこちらの方が整っている。境内に鳥居が見えるのは八幡社。
観音寺本堂。階段脇にある仏足石が珍しい。そして小坊主像はどこの札所でも壊れかけている。補修しないのかな?
十七番井戸寺 [Nov 2, 2015]
十六番観音寺を出た時点で、すでに時刻は3時近い。予定ではすでに井戸寺を出ていなければならない時間であり、ちょっとあせる。徳島駅前の「びざんの湯」で汗を流して着替えるためには、少なくとも4時には井戸寺を出発したいところである。
十六番観音寺から十七番井戸寺までは市街地を通る。方向としてはJRの線路を南から北へ渡るので、そんなに大きく間違いようがないけれども、それでも道間違いは避けたい。山野袋に入れておいた遍路地図のコピーを取り出し、手に持ちながら歩く。
しかしながら困ったことに、このあたりの遍路地図は南北逆さなのである。私にとっては、北が上の方がずっと分かりやすい。というよりも、そうでないと間違える。カーナビでさえ、進行方向を上にしていると訳が分からなくなるのである。
観音寺の前の通りをまっすぐ進むと東である。つまり、方角としては徳島に向かっている。井戸寺は線路を渡って北なので、方向としては前か左に向かわなければならない。しばらく歩くと有名な遍路宿である「鱗楼」(うろころう)があった。閉まってはいないようだがあまりひと気はないようだった。
鱗楼の先で太い通りと交差したので、左に折れてみる。左手は大きな神社である。「大御和神社」と書いてある。井戸寺の項で触れたように、崇神天皇の時代に建てられたという、前時代の支配者の神社である。国分寺と違って、境内にはひとの手が頻繁に入っているように感じられた。上から押し付けられたものはあまり根付かないが、人々が畏れ奉った神々は、長い時代を生き残るということだろうか。
大御和神社の前をまっすぐ進むと、やがて交通量の多い通りに出る。近くにスーパーマーケットも見えるので、駅前通りなのかもしれない。このあたりで、井戸寺に向かう道案内を見つけた。この大通りを渡って、反対側の細い通りへと行き先を指示している。しかし、指示のとおりに通りの向こう側に渡ると、案内もシールもなくなってしまった。
幸いにすぐ近くがJR府中(こう)駅である。遍路地図を見ると、駅の先で線路の北に出るようなので、それらしき道を探す。しかし、そんな道は見当たらない。仕方なく、渡れそうな踏切のある道まで200mばかり歩く。すぐそばに病院が見えたので遍路地図の示す経路よりずっと先(東)なのだけれど、その道を北上して踏切りを渡る。
この道は、車は通れるものの真ん中に線は引かれていない一車線の道路である。だから、車が来るたびに立ち止まってやり過ごしてという繰り返しであった。とはいえこのあたりからようやく遍路シールが復活したので、少し安心していたのである。
向こうから来た車が端に寄って止まったので、よけようと思って道の中央に出たら、車を運転していた中年の女性が下りてきた。何だろうと思っていると、手に持っていた昔風の買い物かごを差し出して、「お接待させてください」と差し出すのである。おお、これが名高いお接待か、と驚いたのが半分うれしいのが半分である。
かごの中には、お手製の巾着袋が十個くらい入っている。ありがたく一ついただいた。「どこからいらっしゃったんですか?」「今朝は雨だったんで、大変だったでしょう」など、歩き遍路ならではの話題を振っていただき、「それでは、気をつけて」と車に戻られたのである。
この回は泊まらずに徳島から帰ったので、家に帰ってから開いてみると、小さな巾着袋の中に、おせんべいやクッキー、キャンディ、柿の種とピーナッツ、黒糖などいろいろな種類のお菓子が詰め合わせてあった。ありがとうございました。
初お接待から5分ほど歩くと、十七番井戸寺が見えてきた。住宅街の中、はるか向こうから山門が見えた時にはうれしかった。時刻はまだ3時半、なんとか徳島に戻って風呂に入れそうな時間である。
十六番観音寺を出たところ。ここからはほぼ街中である。シールも減って分かりにくい。
国府駅から北上する細い通りを振り返る。この道で、お接待のお菓子袋をいただきました。家に持って帰ったら、奥さんが大変喜んでくれました。
十七番札所、瑠璃山井戸寺。「四国遍路道指南」には井土寺と書いてあるが、意味としては同じである(井土の方が本来の意味に近いともいえる)。弘法大師空海が、水不足に悩む土地の人のため掘った「面影の井戸」があり、これが寺の名前となったとされる。
弘法大師空海ゆかりとされるのは、面影の井戸だけではない。国の重要文化財に指定されている十一面観音菩薩像は、空海御製とされているのである。しかし、この十一面観音菩薩、他の札所のご本尊と比べても格段に古い仏様であるにもかかわらず、井戸寺のご本尊ではない。
山号の瑠璃山とは、もちろん薬師如来の瑠璃光浄土(浄瑠璃世界ともいう)のことである。つまり、本尊である薬師如来からとられている。そしてこの薬師如来、聖徳太子が作ったと言われているのである(実際に造ったのは鞍作鳥だろうが)。もちろん、聖徳太子は空海より200年以上古い。
また、「道指南」には「明照寺ともいふ」とある。寺伝によると、天武天皇(空海より150年前)の勅願により開かれたとされ、その頃の名前が明照寺ということである。ときの天皇陛下にお名前をいただいたのに、空海が井戸を掘ったから井戸寺に変えたというのは、陛下に対していかにも軽々しいような気がする。
これについて五来重氏の「四国遍路の寺」では、本尊格の仏像が複数あること、それに境内の構造等からみて、複数の寺が現在の井戸寺に併合されたとの仮説を立てている。ありそうなことである。
「道指南」には「△△寺または▲▲寺ともいふ」という書き方がいくつかある。四番大日寺に黒谷寺、室戸岬3寺に東寺・津寺・西寺という別名があるのは、一種の通称と考えられる。そして六番安楽寺を瑞運寺とも呼ぶのは、徳島藩の駅路寺制度にともなう改称、つまりお殿様の命令である。
おそらく真相は、戦国時代に一度焼かれてしまったので、周辺の寺と仏様をひとつ所にまとめたということなのではないだろうか。だとすると五代説に近いことになる。いずれにしても、土地の人達にとって、弘法の井戸も七仏薬師も、いずれも霊験あらたかでおろそかにはできなかったに違いない。
これから徳島に向かうので、さっそく本堂へ。札所の中でも、本堂の中にお参りすることが可能なところは決して多くはない。こちらでは本尊七仏薬師が祀られている本堂をお参りし、ご本尊の目の前で読経することができる。
七仏薬師の絵画は結構な数残っているが、仏像は少ない。私自身、七仏薬師像は初めて見た。観世音菩薩が6つの世界それぞれに違った姿(馬頭観音とか千手観音とか)で現われるのと同様、薬師如来は7つの世界に違った姿で現われるとされる。
ちなみに、七仏薬師は平安朝における加持祈祷では頻繁に用いられたようだ。薬師というお名前と、薬壺を持っていることから、病気の治療や安産の祈祷に用いられたらしい。(ちなみに、奈良の浄瑠璃寺にあるのは九体阿弥陀仏)。
境内には本堂・大師堂の他にも大きな建物がいくつかある。ゆっくり見て行きたかったが、予定時間をかなりオーバーしていたので、4時になる前に失礼させていただく。あとは徳島駅まで平地の舗装道路。6kmくらいなら1時間と少しで着くだろうと思って歩き出したのだが、最後に再びつらい目に遭うのであった。
住宅街の彼方に、ようやくこの日最後の札所、井戸寺の正門が見えてきた。
井戸寺正門。脇に納められているのは普通なら金剛力士像だが、こちらの場合は大きなわらじが奉納されている。
井戸寺から徳島駅までは江戸時代すでに開けていた場所であったようで、「四国遍路道指南」には「あくい川 徳しままでは家つづき」と書かれている。井戸寺を出たあたりでは田園地帯であるが、やがて交通量の多い片側2車線の道路にぶつかる。ここからはビルの連続で、まさに「家続き」の状態である。
さて、この2車線道路で右折するのか、細い通りを直進するのかちょっと迷う。遍路シールも行き先案内もない。交差点で彼方を見てみると、2車線道路の向こうに橋があるようで登り坂になっており、さらにその後方に眉山が見える。眉山ということは徳島市街の方向である。仮にひとつ通りを間違えて鮎喰川を渡ったとしてもそれほど距離のロスはない。
と考えて、2車線道路へと右折した。最初に見当をつけたとおり、遠くに見えた橋は鮎喰川を渡る橋で間違いなかったのだが、そこまで到達するのが長かった。すでにこの日は神山温泉から大日寺までの15kmを歩き、大日寺から井戸寺まで切れ切れとはいえ7、8kmを歩いている。すでにかなり膝に来ている。
足を引きずっているのか、右足を付く時に金属的なこすれる音がしているのがしばらく前から気になっていた。信号待ちの時にスポーツシューズを脱いで裏返してみると、大きな石のかけらが2つ靴底に刺さっていた。ゴムの靴底に食い込んでしまっていて、取るのにやや手間がかかった。でも、そのかけらを取ったら音はしなくなり、歩きやすくなった。
ようやく鮎喰川の橋にたどり着く。ここまでビルに囲まれていたので、しばし開けている景色を楽しむ。結構な川幅がある。11月で4時をとうに回っているから日が暮れて少し暗くなってきた。あまりゆっくりしているような余裕はないようであった。
川を渡ってしばらく行くと、遍路地図の指示に従ってショッピングプラザの先を右折して裏通りに入る。このあたりから遍路シールが復活するが、道幅は狭く車が来ると避けなければならない。立体交差を抜けて踏み切りを渡ると、徳島大学病院の前に出た。病院前の太い通りが、JR徳島線と並行して走る国道192号線である。ここまで来れば、徳島駅まで一直線のはずである。
少しほっとする。それと同時に、もう徳島駅に着いたかのような錯覚を覚えてしまった。通りかかりにオフィスの時計を覗いてみると4時45分。これなら5時頃には着くのではないかと思ったのだ。
ところが、そんな甘いものではなかった。徳島の隣の駅が佐古だが、「佐古×丁目」の表示が延々と続く。歩けども歩けども佐古である。5時を10分ほど回ってようやく「←佐古駅」の表示が出た。一体、佐古は何km続いているのかと思った。
佐古が終わってようやく徳島駅に近付いたと思ったら、今度は横断歩道のない交差点が連続する。交通量の多い道路なので仕方ないのだが、30km歩いてきた1日の終りに歩道橋の昇り降りが続くというのは、足腰よりも心に響く。ようやくそごうの前まで来ても、サンルートの側に行くには歩道橋に昇って交差点を3/4周しなくてはならないのだ。
結局、びざんの湯に到着したのは5時半。尾瀬御池に下りてきた時ほどではなかったものの、あわただしく風呂と着替えを済ませたのであった。急いで風呂に入り着替えたため、徳島空港に向かうバスの中で、びざんの湯にステッキを忘れてきたことに気付いた(着払いで送ってもらった)。第三次お遍路の最後は、やはりあわただしいことになってしまった。
[ 行 程 ]観音寺 14:45 →(2.8km) 15:30 十七番井戸寺 15:50 →(6.5km) 17:25 JR徳島駅
[Jun 24, 2016]
左の建物が十七番井戸寺本堂。中に入ることができ、ご本尊の七仏薬師如来を拝むことができる。
井戸寺から徳島までは、眉山をめざして進む。この7kmはきつかった。