この図表はカシミール3Dにより作成しています。

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十八番恩山寺  [Feb 25, 2016]

2016年が明け、お遍路も2年目に入った。サラリーマン生活も延べ36年に及び、この先何をするにしても禊(みそぎ)はしなければならないとお遍路を思い立ったのは2015年夏。その後2015年に3回のお四国で十七番札所までお参りした。今年はいよいよ新たな出発の年、より本格的に歩くつもりである。

ものの本によると、歩き遍路でつらいのは3日目だそうだ。これまでの区切り打ちは2日連続までで、3日目に突入したことはない。そこで今回は初めての3日目に挑戦することにした。とはいえ、まだ遍路初心者のことゆえ3日目は後泊とし、3泊4日の予定を組んでみた。

という訳で、四たび徳島に向かったのは2016年2月25日。後泊なので朝一番の飛行機である。朝5時前に家を出て、7時10分に羽田発、8時半に徳島着である。前回は十七番井戸寺から徳島駅まで歩いたので、今回は徳島駅からのスタートとなる。井戸寺から恩山寺まで直行すると16.8kmあるが、すでに7km歩いているので、あと残すところ10kmである。

阿波の難所は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われている。焼山寺はクリアしたけれども鶴林寺、太龍寺はこれからである。しかも、この2つの札所間には宿泊施設はない。1日で両方の札所を登り下りし、さらに次の平等寺までもう一回登り下りがあるという難所である。焼山寺遍路ころがしを終わっても、まだまだ油断できないのであった。

空港発のバスでJR徳島駅前まで。今回はここからスタートする。まずは国道に向けてしばらく街中を歩き、徳島県庁の先から国道55号に入る。最初の目標は約6km先、JR地蔵橋近くにあるへんろ用品四国電機・井上商店である。

前回、井戸寺から徳島駅に向かった時も思ったのだが、この平坦路が意外と長い。それと、都市部であるので当然ながら信号待ちがあってその都度いったん足を止めなければならない。これがかなり足を疲れさせる。右手に見えていた眉山が後ろに見えるようになると、もう郊外である。ビルに代わって国道の両側は水田地帯になる。

1時間も歩くと、かなりお腹が空いてきた。朝ごはんは4時だったので、10時を過ぎて腹が減るのは仕方がない。しかし、食べ物屋さんはいずれも反対車線である。わざわざ信号待ちして道路を横断してと思うと面倒くさい。

そうこうしているうちに、最初の目標であるへんろ用品店・四国電機が見えてきた。「お接待の井上商店 どうぞお休みください」と店の前に大きく看板が掲げられている。しかし、見た目も店の中も、普通の電器屋さんである。

せっかくだから気になっていた遍路用品(札所以外も記入できる朱印帳)があるか尋ねてみたけれども、残念ながら置いていなかった。お遍路さん向けに休憩スペースがあり、お茶の用意もあるのだが、まだ休むほどは歩いていない。中を見させていただいただけで失礼した。

四国電機を過ぎてすぐ、徳島市と小松島市の境である勝浦川を渡る。この頃になると、右手に剣山に至る稜線が近づいてくる。いちばん奥の頂は雪をかぶって白くなっている。この日の道のりは、いま渡った勝浦川からいったん離れた後、再び川に沿って遡上することになる。



歩き始めはJR徳島駅。ビルの向こうから眉山が見えます。



勝浦川を越えると、右手に山並みが見えてくる。一番向こう側、剣山の頂上は雪で白くなっていました。

しばらく前からお腹が空いて仕方なかったが、勝浦川を越えてすぐ、四国電機から10分も歩かないうちに、ようやく道のこちら側に食べ物屋が現れた。「ラーメン工房りょう花」と書いてある。営業時間は11時から。ちょうど11時になったところである。迷わず入らせていただく。この日最初の客であった。

ロードサイドに一軒だけあるラーメン店には当たり外れが大きいが、ここは店構えも内装も都会のラーメン店と変わらない。また、徳島ラーメンというと生卵が入っているので個人的には避けたいところだが、こちらはそういったラーメンではないようだ。一番人気の「鶏塩ラーメン」をお願いする、ランチタイムで焼きおにぎりをセットにしてもらった。

さっぱりした塩味で、麺にも腰がある。あまり考えずに選んだ割には、おいしい店であった。たいへん満足して店を後にする。時刻は11時25分。できれば午前中に恩山寺に着きたかったが、ちょっと難しいようである。

お腹も一杯になり、道も平坦で、快調に歩を進める。しかし、なかなか恩山寺への分岐点に着かない。遍路地図を見ると、勝浦川を渡って恩山寺の分岐までそれほど距離がないように見えるのだが、そんなことはない。細かい話になるが、遍路地図19ページの徳島市内は縮尺1/30000、20ページの小松島市内は1/35000で、20ページの方が見た目より実際の距離が長いのである。

30分ほど歩いて小松島警察署を過ぎ、ようやく右に分かれる道が住宅街の方へ伸びているのが見える。「↑恩山寺」と道案内も出てきた。ところが、ここから先もまた長いのである。考えてみれば、恩山寺は山の中腹にあり、いま歩いているのは平地だから、まだまだ恩山寺までは遠いということなのだが、遍路地図を見ているだけではなかなかそこまでは分からなかったのである。

分岐からさらに20分ほど歩いて、ようやく「民宿ちば」の大きな建物が見えた。ただ、「民宿ちば」の他には、門前町らしい遍路用品店とか、食堂とかが見当たらない。もう少し奥にあるのかなと思って進むが、再び山道になってそうした施設は見当たらない。そうこうしているうちに山門を過ぎ、舗装道路とへんろ道とが分かれる地点になった。

もう山門を過ぎたのだからどちらを通っても大した違いはなかろうと思ったのだが、ここのへんろ道は結構きびしかった。徳島駅からここまで平地ばかり歩いてきたせいもあるが、なにしろ傾斜がきついのである。それでも、この日はじめて土の地面を歩くのは気持ちよかった。何回か急坂をクリアして、ようやく本堂のあるレベルまで上がって来た。

12時20分、お昼を食べてから55分で到着した。「弘法大師御母公ゆかりの地」と石碑が建っている。それはいいのだが、その先に石段、さらに奥にまた石段が見える。平地にあるお寺さんだとばかり思っていたのに、実際はかなり山の上にあるのであった。



恩山寺が近づき、10km近く歩いて来た国道55号線とはお別れ。住宅街の道路を進む。



山門を過ぎると、車用の舗装道路と昔ながらの遍路道が分かれる。遍路道はけっこう傾斜がきつい。

母養山恩山寺(ぼようさん・おんざんじ)、四国遍礼道指南等の述べるところによれば、聖武天皇の勅により行基が開山したとされ、当時は大日山密厳寺という名前だった。その後、弘法大師空海がこの寺に母親を引き取ったという故事に由来して、現在の山号・寺号となったということである。

「四国遍礼霊場記」の挿絵によると、本堂・大師堂などの施設があるのは山の頂上である。地図で見ただけではそんな印象はなかったのだが、実際歩いて見ると山門から本堂までかなりの標高差があることが分かる。まさに、霊場記の説明のとおりの立地なのであった。

ただ、寺からみると西の方向に稜線が続いていて、景色が開けているのは東側である。山を下ってまっすぐ進むと小松島港、紀伊水道から奥まったところにある良港である。地形からすると、冬の季節風(北や西から吹くことが多い)があまり当たらない場所であり、土木建築に詳しかった空海が母親の隠居場所に選んだというのはありそうなことである。

ご本尊は薬師如来。この仏様は行基の作ったものといわれ、当時は山上に32の堂宇がありたいへん栄えたということである。そのお寺が、空海が来るまですっかり衰退していたというのである。

しかし、行基から空海まで時期的には50~60年しか違わない。そして行基の時代には、僧侶は国家資格であり、それ以降の時代と違って勝手に修行するということができなかった。そういう時代に、水の手もあまりない山の上に、30を超えるお堂があって大勢の僧侶が修行していたとは考えにくい。天皇の命令で作られた国分寺だって、そんなに大きなものではないのである。

そうした時代背景から考えると、この寺はもともと弘法大師が母親の隠居地として作ったもので、当時からそれほど大規模な寺ではなかったと考える方が、つじつまがあいそうである。

山門からかなり登って「御母公ゆかりの地」の石碑まで着いたけれども、本堂まではさらに石段を登らなければならない。登り標高差からすると、十番切幡寺と甲乙つけがたいくらいの登りである。本堂・大師堂でこの遠征はじめての読経を納めさせていただき、納経所でご朱印をいただく。

ここで前回と違ったのは、納経帳とお姿の他に、「散華です」といって色刷りの小さなカード様のものを渡されたことであった。

カードの中央には「十八番 母養山恩山寺」とご本尊の梵字が印刷されていて、その部分が楕円形に切り取れるようになっている。上部には「平成28年閏年限定 参拝記念散華」、下部には「四国八十八ヶ所霊場会」と書いてある。これは、この遠征で回った他の札所でも、色はそれぞれ違うけれども同様に渡されたのであった。

帰ってから調べてみると、今年は閏年ということで、八十八札所それぞれがこの散華を配っており、ネットで印刷したり霊場会に申し込んだりして台紙を入手し、各札所が一枚の花弁になるように貼って行くという趣向なのであった。(4県それぞれがひとつの花となる)

確かにそれなりに工夫した取り組みなのだが、私の場合は区切り打ちだし1年で全部回れる訳ではない。いま現在の予定では、ことし中に回れるのは徳島県の途中から高知県の途中までになりそうなので、4つの花のうち1つも完成しない。という訳で、いただいた散華はそのまま、お姿を入れる袋に入れたままにしているのでありました。

[ 行 程 ]JR徳島駅 9:25 →[7.2km] 11:05 ラーメン工房りょう花・小松島店 [昼食] 11:25 →[4.3km] 12:20 十八番恩山寺 12:45 →

[Jul 11, 2016]



弘法大師が母親を迎えたことから母養山の山号を持つ恩山寺。東に開けた山麓にあって、冬は過ごしやすそうだ。



恩山寺本堂。このお寺は山門を入ってからかなり登り坂が多い。

十九番立江寺 [Feb 25, 2016]

恩山寺から立江寺までは、これまで歩いて来た国道55号線ともJR牟岐線とも離れた内陸部を歩く。

まず分からなかったのは、恩山寺の本堂から次の立江寺に向かうへんろ道である。「弘法大師御母公ゆかりの地」の石碑のあたりで道案内を探したのだが、見つからない。行きに通ったへんろ道にはそうした道案内はなかったので、舗装道路の車道を下ることにした。

舗装道路は山腹を大きく迂回しながら、かなりの急勾配で下って行く。迂回してこれだから、ほぼ直登だったへんろ道はかなり厳しかったのは当然のことであった。

5分ほど下ると、さびたトタンでできた建物に行き当たった。中は暗くてよく見えないが、においからするとどうやら牛舎のようだ。本堂レベルからここまで、門前町らしい店など全く見当たらず、出てきたのが牛小屋なのであった。

牛舎の横から、人しか通れないくらい狭い幅の道が竹藪の中に続いていて、道案内はそれが立江寺に向かうへんろ道だと言っている。仕方がない。ここを進むしかない。

竹藪の中でかなり傾斜がきつくなり、恩山寺への登りと同様に息が切れる。細い道が2本3本と合流したり分かれたりし、あるいは細い舗装道路を横切って進む。このあたり、道は細いながら要所で道案内の立札があって、赤矢印で進む方向を指示している。傾斜は緩やかになりやがて下りになった。山を一つ越えたようである。

道案内の立札は、小松島市のロータリークラブが設置したと書いてある。そういえば、ロータリークラブやライオンズクラブといった地域の慈善団体は、私の子供の頃にはたいへん盛んだったのだが、バブル以降あまり話を聞かなくなってしまった。慈善とか社会奉仕といったことが流行らない時代になってしまったのだろうか。

ようやく山の中から、小川に沿った田舎道に下りてきた。案内される道は民家の裏、小川の脇へと続いている。ひとつ間違えるとひとの家の庭に入ってしまいそうだが、ロータリークラブの案内に加えて古くからの「へんろ道」石碑もあって分かりやすい。道はやがて、舗装道路の通りに出た。バス停があるので幹線道路なのだろう。

恩山寺から立江寺までは1里、と四国遍路道指南にある。1里は4km、ちょうど1時間の歩きということになる。基本的に下りなのでそれほどきつくはなかったが、それほど早くも着かなかった。

途中、道が大きく左にスライスするあたりで、建設会社のプレハブがへんろ休憩所を兼ねているようで、道路脇で交通整理をしていたおばさんが「お茶ありますよ。休んで行きませんか」と言ってくれた。まだそれほど疲れていなかったので、「もう少しがんばります」と答えると、「あと20分くらいだから」と教えてくれた。

この建設会社休憩所を過ぎてすぐに「お京塚」、不純な動機でお遍路をしたお京に天罰が下ったという伝説の地である。さらにしばらく進むと立江寺への分岐点に達する。そのまままっすぐ行くと通り過ぎてしまうので、左折して街中へ。家並みの中をまっすぐ進むと、巨大な立江寺の本堂が正面に見えてくる。



恩山寺の山門前は牛舎。その横から遍路道に入る。



新旧の道標がいずれも右折を指示している。大きな看板がロータリークラブ設置のもので、恩山寺を出てすぐから道案内をしてくれた。

橋池山立江寺(きょうちざん・たつえじ)。四国遍礼霊場記によれば、恩山寺と同様に聖武天皇の勅願により創建されたという。後に弘法大師がこの寺を訪れた際、延命地蔵尊を彫像され寺名を立江寺と改められた。

当時は方八町というから800m四方の大伽藍があったとされるが、阿波の多くの寺と同様に戦国時代に一度焼かれてしまい、江戸時代になって再建された。道指南の真念が訪れた際には方一町半、150m四方というから、かなり規模が小さくなってしまっていた。とはいえ、今日でも真言宗の別格本山となっており、阿波では第一の真言宗寺院である。

本堂はあたりを圧する大きさで、2つ前の十字路から見えるくらいである。町自体はそれほど大きくはないのだが、商店街があって食堂やいろいろなお店があるのは徳島市内以来久しぶりの景色であった。

それと、人通りがかなり多い。参拝客がひっきりなしに訪れているのは、ここまでの札所の中で一番多かったかもしれない。参拝客が多いので、屋台の出店も多い。たいやき、たこやき、わたあめやよく分からないお菓子の屋台が、さほど広くない参道の真ん中あたりまで進出している。

ただ、本堂の大きさの割には建物は集中して建っているので、本堂から大師堂までの移動はわずかである。そして、参拝客は多いのだが、ほとんどがお参りをしただけで引き上げていき、納経をしてご朱印をいただく人はそれほど多くはない。これだけの人数が納経すると大変だと思っていたので、ちょっと安心した。

さて、立江寺での納経が済むと、もう時刻は2時を回っている。この日の宿は「ふれあいの里さかもと」で、4時半頃に道の駅勝浦から連絡すると伝えてある。立江寺から道の駅までは10kmあるので、時間的にはぎりぎりである。登り下りさえなければ何とかなりそうだが、前回も今回も考えていたより時間がかかっているので、どうにも自信がない。

立江寺から鶴林寺の途中には、弘法大師が虚空蔵求問持法を修めたときに星が落ちてきたという故事に関連する場所がいくつかあると、真念「道指南」に書かれている。

立江寺から南へ約2km、山をひとつ越えたところにある取星寺(しゅしょうじ)には、その時落ちてきた星が納められているということである。その星は青黒色で透き通っていると「道指南」に書いてある。隕石というよりも川で採れそうな石だが、真念は実際に見たのだろうか。

また、これから向かう道の駅勝浦から北に2kmほど入った星谷岩屋寺には、取星寺の星が落ちてきた時のものといわれる数十mの巨石があるという。いずれも、今回は訪問することができなかったのは残念である。さきほど左折して立江寺に向かった十字路まで戻り、この日の宿である勝浦に向かって歩き始めた。

[ 行 程 ]恩山寺 12:45 →(4.0km) 13:50 十九番立江寺 14:15→

[Jul 29, 2016]



立江寺本堂。四国の真言宗では別格本山とされており、本堂は巨大である。



遍路以外にも厄除け祈願などで多くの人が訪れており、出店もかなり多く出ている。ここまで19寺でいちばん多かった。

二十番鶴林寺 [Feb 25, 2016]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

立江寺の次はいよいよ阿波第二の遍路ころがし・鶴林寺である。この間の距離は13.1km。JR徳島駅からの累計では約27kmになる。無理すれば1日で歩けないことはないが、寺には宿坊がなく近くに宿泊施設もない(昔はあったらしい)。だからその日のうちに参拝できたとしても山を下って勝浦町に戻るか、先に進んで大井小学校跡あたりで野宿することになる。

とはいえ次の日に平等寺まで行ったとして、それより先に進むと次の薬王寺まで19.7kmもあってしかも途中に宿がない。それこれ考え合わせると、朝に鶴林寺、昼に太龍寺、夕方に平等寺というのがこのあたりを歩く際の常識的なスケジュールとなる。であれば、無理して鶴林寺まで登らなくても麓の勝浦町で泊まり、翌朝に鶴林寺というのが望ましいように思われた。

ということで、この日の泊まりは「ふれあいの里さかもと」、鶴林寺の登山口から7、8km奥にあるので迎えに来てもらうことになる。電話したところ、勝浦道の駅まで迎えに行きますということだったので、お言葉に甘えることにした。バスもあるにはあるのだが、1日に数本しか走っていないのである。

立江寺から道の駅勝浦まで、約10kmある。鶴林寺まで13kmのうち10kmだから距離的にはかなり近くまで来ていることになるのだが、この先は山道なので感覚としては中間点くらいになるだろうか。いずれにしても道の駅まで2時間以上みなくてはならない。幸いなことに晴天、風もなくおだやかな遍路日和である。

立江寺からへんろ道に戻ってしばらくは、右に住宅街、左に低地という景色が続く。低地の向こうは山で、この山の向こうに番外霊場の取星寺(しゅしょうじ)がある。そして、この低地に無骨なコンクリートの建造物が一列に並んでいるのである。雄大な景色の中に、ちょっと興ざめしてしまった。

帰ってから調べてみると、どうやらこれは徳島・阿南間に建設中の四国横断自動車道の橋脚の一部らしい。国道55号線があれば高速がなくても十分なように思うけれども、高速道路が近くに欲しいというのは地元住民の悲願なのだろう。

おだやかないい景色なのに残念なことだとは思うが、これはたまに来る余所者の感傷にすぎないのかもしれない。いまはまだおだやかなこの道を1時間ほど歩くと、沼江(ぬえ)に向かう県道22号線と合流する手前で、有名な善根宿「寿康康寿庵」の前に出る。

この宿、プレハブの飯場にも見えるのであるが、中には寝具とお茶道具、流し、トイレもあって野宿の歩き遍路の方々によく利用されているようである。「里山再生事業本部」との看板も掲げられているので、地元の方々が集まる拠点としても使われているのだろう。

戸を開けて覗いてみると中は結構広く、3~4人程度は泊まることができそうである。時間があったら休みたい頃合いだったが、すでに3時近くになっており、計画していたより1時間ほど遅れている。写真だけ撮らせていただいた。

寿康康寿庵を過ぎてしばらく行くとへんろ道は幹線道路と合流し、車通りが多くなる。それと、遍路地図ではよく分からないのだが結構な登り坂なのである。工事現場の資材置き場のような無愛想な景色の場所を抜け、峠のようなところで道が左右に分かれる。右に坂を下って行くと右下方に集落が見えてくる。真念「道指南」にも書かれている沼江(ぬえ)である。

このあたりで、前回遠征の井戸寺以来のお接待をいただいた。へんろ道でお遍路の方々に手作りの品をお接待されていた女性で、手作りのティッシュケースにティッシュが入っていた。帰ってから奥さんが見て、きっと着なくなった和服で作ったんだろうということだった。ありがたいことである。

山の中を曲がりながら下りて行く舗装道路を勝浦川まで下ったところに、ローソンが現れた。コンビニだけでなく、商店も自販機もほとんどない立江寺からの1時間であった。数少ないコンビニだけに、午後3時半という中途半端な時間にもかかわらず駐車場は満杯である。

翌日に備えて、1リットルのペットボトルや非常食のゼリー、菓子パンを購入。背中のリュックに詰めるのが面倒だったので、コンビニ袋を手に道の駅まで残り4kmを歩く。途中から道が細くなり、すぐ横を車が飛ばして行くので歩きにくかったが、勝浦川に沿ってほとんど平らな道なので、4時半前に道の駅に着くことができた。




立江寺からもとの道に戻り、沼江(ぬえ)に向かう。4kmほどは平坦な田園地帯で、道路の橋脚を作っていました。



有名な善根宿「寿康康寿庵」。沼江への登り坂の前にある。里山再生事業本部との表札も掲げられており、中には流しや布団が備えられている。



立江寺から6.4km、鶴林寺の途中にある唯一のコンビニ、ローソン。ここで水などを仕入れたが、道の駅のあたりでも大丈夫だった。

「ふれあいの里さかもと」は、遍路界において有名な宿である。廃校となった坂本小学校の校舎を再利用して運営されている施設で、設立から14年目になるそうだ。

この時間、道の駅で送迎していただいたのは私ともうお一人、60代の単独行の男性であった。この日は徳島の少し前、佐古に泊まったということなので、私よりも少し前を歩かれていたのだろう。お住まいは東北で、夜行バスで徳島に入り、一番霊山寺からここまで歩かれたそうである。

迎えに来てくださった男性が「せっかくだから、お雛様を見て行きませんか」と薦めてくれて、県道を少し先に進み坂本の集落に入った。車1台やっと通れるくらいの幅でかなりの起伏がある道の両側に民家が並んでおり、その軒先ごとに7段飾りのお雛様が飾られていたのであった。

よく見ると、お内裏様が二人いたり、お雛様が二人いたり、三人官女が5、6人いたりする。全国から送られてきた雛人形を2月の下旬から3月いっぱい、こうして飾っているということである。(後から「ふれあいの里さかもと」に行くと、校舎の階段に十数段飾りのお雛様もあった)

もちろんそのこと自体驚きなのだが、もっと驚いたのは、お雛様を飾っている道の両側の家々はいまやほとんどが空き家であり、住んでいるのは十軒に一軒もないということであった。だから、これらのお雛様は期間中このまま外に飾られているということである。雨が当たらないよう工夫はされているものの、やはり傷むのも早いそうだ。

お雛様を飾る数十軒の集落を抜けて、窪地に向けて坂を下って行くと「ふれあいの里さかもと」に着く。校舎自体は鉄筋の4階建てで、使用中の施設でもあることからそんなに古いという感じはしない。「改築して間もなく廃校になっちゃったからね」ということである。校庭はそれほど広くはなく、当時も生徒数は多くはなかったんだろうと思われた。

入口は当時の昇降口で、「坂本小学校」の金属製のプレートがそのまま掲げられている。入ると受付で、右に休憩スペース、多少のお土産品が置かれている。受付時に、洗濯機・乾燥機、浴衣、バスタオル等の使用の有無と、翌日に持っていくおにぎりの数を聞かれる。よく知られるように、翌日の鶴林寺・太龍寺周辺では、お昼を食べるような食堂もないし、売っているお店もないのである。

洗濯機・乾燥機は200円、コインを入れるのではなく受付で支払う。さっそく2Fの洗濯室に行くと、100円玉を入れる機械ではなく、普通の洗濯機・乾燥機と洗剤が置いてあった。「△△様からの寄贈」と書いてあったので、どなたかのご好意によるものであろう。ありがたいことである。洗濯機にその日の衣装を入れて、お風呂場に向かう。お風呂は1階の奥まったところにあり、私が泊まるひとり部屋はお風呂場の前であった。

このお風呂がまた、きれいなお風呂であった。築十数年とは思えないくらいきれいにお手入れされていて、浴槽は7、8人はいっぺんに入れるくらい広く、カランは6つほどあった。

この日の歩きは基本的に平らなところが多かったとはいえ、4時起きで朝一番の飛行機に乗り、徳島駅前から約20kmを歩いてきたので、お風呂が何よりのご馳走であった。湯船の中で足の裏やふくらはぎ、太ももをマッサージする。手足を思い切り伸ばせるのは、ビジネスホテルでは味わえない快感である。

お風呂を出ると2階に上がって洗濯物を乾燥機に移し、ちょうど夕飯の時間となった。あゆの塩焼き、こんにゃくのお刺身、野菜のてんぷら、野菜の煮物といった心づくしのメニューで、ぜいたくな夕食とはまた違った味わいがあった。連日、旅館・民宿に泊まっているお遍路さんにとって、胃にやさしい夕飯だと思う。ただし、生ビールはない。

乾燥機が終わるまでまだ時間がかかったので、受付横に置いてあった1袋100円のみかんを買う。これがまた8つも入っていて安くておいしい。そして受付周辺では無線LANも通じていて、メールチェックや翌日の気象情報などを見ることができたのはありがたかった。

朝が早かったので、乾燥機が仕上がったところで翌日の準備をし、9時前には消灯した。



廃校となった坂本小学校跡に作られた「ふれあいの里さかもと」。この日はお遍路さん5人の他、農業実習の団体さんが入っていました。



内装は至って普通の宿泊施設。1階に私の泊った1部屋とお風呂、写真の廊下、突き当たりを左に入ると食堂。



ふれあいの里さかもとの夕食。ちょっと量が少なかったか?

翌日の朝ごはんは6時半、出発は7時。時間がないので5時半頃には起きて支度をあらかた済ませ、着替えてから朝食会場に行った。朝ごはんは賽の目に切ったお芋の入った朝粥、あじの干物、卵焼き、サラダである。朝粥は胃にやさしく、足りなければ白いご飯もおかわりできる。

お遍路組は前日送迎車でご一緒だった方の他に三人いて、合計5名。うち4名が朝一番で鶴林寺に向かった。私は迎えに来ていただいた道の駅に送っていただくことにしたが、他の方は派出所前で下りて鶴林寺まで直登するコースをとった。道の駅で装備を点検して、7時25分に出発。いよいよこれから第二・第三の遍路ころがしである。

(後の話になるが、鶴林寺で追いついて追い越し、私が太龍寺を出る時に上がって来られたから、この日は平等寺の山茶花に泊まられたのだろう)

道の駅からしばらくは勝浦川の支流に沿った集落の中の道を進む。「四国遍路道指南」では、立江寺の後、取星寺、星谷岩屋寺、慈眼寺をお参りした後に鶴林寺に登っているのでこの間の記事が多くなっていて、「鶴林寺に直に行く時は もり村」とある。この「もり村」の現在の名前が「生名(いくな)」であり、ちょうど「民宿金子や」のあたりがその中心であったらしい。金子やを過ぎると道は徐々に登り坂となる。

この傾斜が舗装道路なのにかなりきつくて、オートバイだとひっくり返ってしまうのではないかと思われるくらい、標高をどんどん上げる。10分もしない間に、集落は数十m下になってしまった。

すでに大汗をかいてしまっているので、着ていた薄手のダウン(なんたって2月である)を脱ごうと思っていたらちょうど萱葺きの休憩小屋が現れた。ありがたく休ませていただいたのだが、なんとこの休憩小屋に、ウィスキーの空き瓶と、袋に大量に入れられたゴミが置きっぱなしになっていたのには驚いた。

察するところ、ここで野宿した「職業」お遍路が置きっぱなしにしておいたのだろう。この萱葺きお遍路小屋は、一部のWEB記事では善根宿にあげられている。とはいえ、平地にある善根宿と違って、水道もトイレもないし、ゴミを捨てるような場所もない。そういう使い方ができないことは、立地条件だけみても明らかなのである。

登山を例にとれば、山頂近くの避難小屋と同じことである。急に風雨が強まったり体力的にどうしても先に進めない時にやむを得ず泊まるのであって、ゴミが出たら持って帰るのが常識である。そもそも山の場合は、営業小屋であろうが避難小屋であろうが、ゴミは持って帰るものだが(とはいえ、私が持って下りるべきものでもない)。こういうことをするから、野宿お遍路が白い目で見られるのである。

本当に信心する気持ちがあって回っているのであれば、ウィスキーの瓶などは必要ないし(寒さしのぎだとしても一本空けてしまう必要はない)、大量のゴミなど出ないはずである。どうしてもゴミが出たとして道の駅まで往復してせいぜい1時間、捨ててくる手間を惜しんでひとに迷惑をかけ、休憩所を作ってくれた人の好意を無にしてどうしようというのだろう。

萱葺き休憩所の後もきつい傾斜の舗装道路が続き、さらに20分登ってようやく「阿波遍路道」の入口になる。遍路地図にある「水呑大師」のあたりである。

真新しい説明の看板が掲げられているのは、世界遺産登録をめざす運動の一環なのだろうか。世界遺産になって騒がしくなるのは歓迎しないけれども、昨日の「ふれあいの里さかもと」周辺で人が住まなくなった集落を見てしまった後だけに、地元の人にとって過疎化対策は重要だとは思う。難しい問題である。

へんろ道の登山道に入ると、かえって傾斜が楽になったように感じられた。不思議だったのは、こうした登山道につきものである石を敷いた階段は分かるのだが、その横、道の右端に、アスファルトが50cm幅くらいにずっと敷かれていたことである。それも、平らに整えられていれば歩きやすいように緩斜面にしたのだろうなと思うのだけれど、本当に無造作に、塗りたくったと言わざるを得ないほどの様子なのであった。

最初は、車椅子の人も歩けるようにやったのかなと思ったが、とても車椅子が上がれるようには連続していない。あるいは、これは工事で余ったアスファルトで、建設会社がお接待でやったものなのかとも思ったが、それだったらもう少し丁寧に仕事した方がいいのにと思った。

そんなことを考えながら登って行くとほどなく林道と合流してベンチが置かれている。このあたりでは、時折木々の間からはるか下に出発した生名の集落が、さらに勝浦川へと景色が広がる。やがて石畳の道になるとほどなく鶴林寺の山門が見えてくる。道の駅から1時間半、阿波遍路道入口から1時間、9時前に鶴林寺に到着した。



道の駅まで送っていただき、生名集落の中を通って鶴林寺へ向かう。



登る途中にあった萱葺き休憩小屋。せっかくいい雰囲気なのに、野宿お遍路と思われるウィスキー瓶やゴミが放置されている。こういうことだから野宿は嫌がられるのだ。



阿波遍路道が始まる。正直なところ、ここまで登る普通の舗装道路の方がきつかった。

霊鷲山鶴林寺(りょうじゅさん・かくりんじ)。四国遍路道指南等では、弘法大師がこの寺で修行していたとき鶴が地蔵菩薩を守護していたことが由来と伝えているが、実は「霊鷲山」も「鶴林」も釈迦(ゴータマ・シッタータ)関連の言葉である。霊鷲山は釈迦が説法をした地の名前だし、鶴林は釈迦の入滅を悲しんだ沙羅双樹が枯れて白くなったことを形容した言葉である。

ご本尊は鶴が守っていたという地蔵菩薩である。山門を入るとかなり大きな庫裏までまっすぐ道が続いていて、右手の斜面には苔が生え揃ってみごとである。この鶴林寺では昔、宿坊も経営していたらしいが、現在ではやっていない。あるいは大きな庫裏は、宿坊の名残りなのかもしれない。

庫裏につながる参道の中央から右に長い石段が伸びていて、本堂エリアにはここを登らなくてはならない。ここまで1時間半登ってきて、ほっとしたところで最後の登りはきつい。何とか登り切ると、本堂エリアは結構な混みようだ。今朝まで「ふれあいの里さかもと」で一緒だった人達もいた。

ここの名物は、「狛犬」ならぬ「狛鶴」である。向かって右の鶴は大きく嘴を開いて「阿形」、左の鶴は嘴を閉じて「吽形」である。おそらく、日本中でここにしかない。前後左右から狛鶴を眺めながら息を整え、本日はじめての読経。それほど広くないし混んでいたので、すぐに階段を下りて大師堂に向かった。

焼山寺でも思ったのだけれど、この鶴林寺も、寺自体は街中にある寺とほとんど変わらず、山の上にあるとは思えないくらいである。おそらく、寺域を取り囲んでいる樹木を取り払えばはるか下まで景色が広がるのだろうが、木にさえぎられて外の景色が見えないので街中と変わらない。

大師堂での読経を終え、この日はじめてのご朱印をいただいて時刻は9時10分。次の札所である太龍寺への道は、登ってきた道から90度方向を変えて南に下りる。道はすぐに見つかって、どんどん高度を下げて行く。

さて、この日の泊まりは阿南駅前のビジネスホテルである。平等寺まで打って、2km先の新野(あらたの)か、さらに3km先の阿波福井でJRに乗って阿南まで戻らなければならない。問題は時間で、新野発4時半を逃すと、次は2時間後の6時半なのである。

したがって、平等寺を4時に出れば4時半新野発にぎりぎり間に合う可能性があるが、それより遅くなると6時半まで待たなければならない。ならば駅で待つよりあと3km歩いて阿波福井というのが時間を無駄にしない方法だろう。いずれにしても3時半頃に平等寺に着けるかどうか。逆算すると、太龍寺を12時、阿瀬比を2時に通過できるかどうかが新野か阿波福井かを左右するポイントとなるのであった。

逆に、もう一つの可能性として、太龍寺突破に予想外に時間がかかってしまい、平等寺に5時までに入れなかったらどうしようという問題もある。5時までに着かないとご朱印がいただけないので、翌朝阿南を出て再び平等寺に戻ってそこから薬王寺ということになり、たいへんな遠回りとなる。つまり、遅くとも太龍寺を午後1時、阿瀬比を3時に通過しないと、大変なトラブルになってしまう。

これから太龍寺まで距離的には6.7km。標高差で400m下って400m登る難コースである。目標としては12時、遅くとも1時までには太龍寺を通過しなくてはならないのだが、さてどうなるか。

[ 行 程 ]立江寺 14:15 →(6.4km) 15:30 沼江ローソン 15:35 →(3.5km) 16:25 道の駅勝浦 16:45 →(送迎) 17:00 ふれあいの里さかもと(泊) 7:00→(送迎) 7:20 道の駅勝浦 7:25 →(3.7km) 8:50 二十番鶴林寺 9:10 →

[Aug 27, 2016]




登ること1時間半、鶴林寺の正門が見えてきた。




境内には何ともいえない苔が。正面見えるのは大師堂。



本堂へはさらに急な石段を登らなければならない。登ったところに例の「狛鶴」がいる。

二十一番太龍寺 [Feb 26, 2016]

鶴林寺から太龍寺まで、下ってまた登る難所である。遍路地図によると距離は6.7kmしか離れていないのだが、標高では450m下って470m登る。つまり千葉県の山を一つ登って下るくらいの累積標高差がある。遍路地図の標準タイムは3時間。

時刻は9時10分過ぎ、山門と庫裏を結ぶまっすぐな道の途中から、南に下る道が太龍寺方向である。下りきった谷のところが大井集落で、ここに休憩所とトイレがある。遍路地図によるとそこまでの距離は2.5km、下り坂でもあり、ここを30分くらいでクリアしないことには、とても太龍寺を12時に通過することはできない。

東から登ってきた阿波遍路道は途中から傾斜が緩やかになったが、こちらの下りは擬木の階段状で傾斜はかなりきつい。下りなので息は切れないし、この日最初の下りなので、ヒザも大丈夫。とはいえスイッチバックで行ったり来たりするので距離は見た目より長く感じられる。

最初は走るように下って来たのだが、もうかなり下っただろうというところで「鶴林寺まで四丁」の丁石を見てしまい、まだ400mしか来ていないのかと思ったら途端にペースが落ちた。30分で大井集落まで着く計画だったのに、実際には大井までのほぼ中間点にあたる林道との交差地点までしか下りることができなかった。

とはいえ、ここから下はようやく傾斜が緩やかになり、しばらくすると民家も見えてきた。下ること約50分、ようやく大井集落の中心部に出た。登山道から舗装道路になり、道案内も頻繁に出てくる。やがて「←トイレ →太龍寺」という道案内があるので、トイレの方向に折れると大きな鉄筋の建物の裏手に出た。ここが大井小学校跡である。

廃校というから木造の古びた建物を想像していたのだが、校舎や体育館は鉄筋で、「ふれあいの里さかもと」ほど新しくはないがそれほど古いものではない。おそらく昭和40~50年代に建てられたものであろう。とはいえ昭和20~30年代のものと思われる木造の部分も残されていて、トイレはその木造の部分にある。

昇降口は施錠されており、入口に貼り紙がしてある。

「水道施設やトイレは、地元住民が維持管理につとめ、気持ちよく利用しています。歩き遍路の方が露しのぎに当小学校を利用される場合は、マナーを守り、ゴミは持ち帰ってください。校舎への立ち入り、火器の使用は禁止です。」

ということである。今朝ほど見た鶴林寺道の休憩小屋へのゴミ放置を思い出し、地元の方々も言いたくないけど言うのだろうなと思った。

大井小学校跡でトイレを借りて、民家の間の道を県道まで下って行くと大井休憩所である。県道の川側がタイル張りに整備されていて、東屋やベンチが置かれている。時計を見ると10時10分、鶴林寺から1時間だから、見込んでいた時間の倍かかったことになる。

リュックを下ろして一息つく。太龍寺まで残り4km強、標高差400mとなると、距離で1時間、高さで1時間、計2時間はみなくてはならない。第一目標であった太龍寺12時発はとても無理である。一方、最終目標の太龍寺1時発なら余裕がありそうだ。朝ごはんが朝粥だったので少しお腹も空いてきた。少し早いけれどここでお昼にすることにした。

「さかもと」でお願いしたおにぎりは3つ。ひとつ70円というお接待価格で、3つ作ってもらって210円である。これまで歩いて来た鶴林寺方向と、これから向かう太龍寺への山々を見ながらゆっくりおにぎりをいただく。3つ食べられるかなと思ったけれども楽勝だった。食べ終わる頃になって、急に風が強くなってきた。

あとから考えると、ここでお昼を食べなかったら、あと食べられる場所といえば約30分後の若杉鉱山跡の休憩所しかなかった。若杉鉱山跡の休憩所は谷間にあって日当たりがあまりよくなかったので、結果的にはいい場所でお昼をとることができたのではないかと思う。



太龍寺へは、山門に戻らずに南の道を下る。登ってきた道よりも急のようだ。



麓の大井集落まで下りて、道路の川沿いに大井休憩所がある。ここから先、休憩適地はあまりないのでここで休ませていただくのがベター。



大井休憩所から山の方向を振り返る。鉄筋の校舎は大井小学校跡で、トイレはそちらにある。

大井休憩所を10時半に出発する。歩き始めてすぐ、大社造りの豪勢な建物が出現する。「神光本宮」と書いてある。古事記に書いてある古い神様をお祀りしているお宮のようだが、扉には鍵がかかり、境内は草ぼうぼうで、会所と思われる建物も雨戸がしまったまましばらく使われていないようであった。

奥多摩の天祖神社もそうだが、明治維新直後に神仏分離があって信教も自由になったことから、多くの新興宗教が出現した。おそらくこの「神光本宮」も、その一つではないかと思われる。

基本的に宗教法人には課税されないから、土地が寄進されてある程度のおカネが集まるとすぐこうした施設ができてしまう。信者のコミュニティが残っている間は維持管理していけるが、やがて教祖が亡くなって信者の多くも歳をとってしまうと、宗教組織としての活動ができなくなってしまう。

こういうことを言うと炎上してしまう恐れがあるが、いま残っている宗教のほとんどは、何らかの具体的な現世利益によって存続している。その宗教に入ることにより、公営住宅に入りやすくなったり生活保護が受けやすくなったり、商売がしやすくなったりするのは、例の宗教団体だけに限られたことではない。

かつては心の支えとなるような本来の意味での新興宗教はあったのだと思うが、いまは既存の宗教、仏教やキリスト教を除いてそうした宗教はほとんどない(既存の宗教だって、全くないとは言い切れない)。そんなことを考えながら荒れ果てた社殿を通り過ぎる。社殿自体は鉄筋コンクリート製で築30~40年と思われたが、このまま維持管理しないでそのうち「SPECTOR」とか書かれてしまったら悲しいことだ。

県道を工事現場のところで左折して、太龍寺方向へと那賀川を渡る。この橋がまた幅が狭くて欄干が低くて、おまけに風が強くなってきたのですごく怖かった。前回通った大日寺への途中の橋ほどではなく、水面まで十数mくらいだったが、それでも落ちたらただではすまない。ちなみに、前回通ったのは吉野川の支流で徳島県下第一の大河、今回は那賀川で第二の大河だそうである。

ここでは橋の真ん中を渡っていたら(一休さんかw)車が来て端に寄らなければならず怖い思いをしたのだが、何とか渡り切って対岸へ。渡るとすぐに軽自動車以外通行禁止という細い道へと分かれる。この道がまた急傾斜で、曲がりくねってどこまで続くのか分からない。遍路地図を見ると、登坂口までは川沿いでそれほど傾斜がないように感じるのだが、実際には那賀川を渡ってすぐに急登なのであった。

30分ほど曲がりくねった急坂を登って行くと、若杉鉱山跡の表示がある。古代に水銀鉱山があった跡という。水銀は染料・顔料としてかつて重宝された。ここには「四国のみち」で環境省が整備した休憩所があって石のテーブルやベンチが置かれているが、日当たりが悪く湿度も高く、ほとんど誰も使わないらしく苔むしている。

鉱山跡から少し登ったところに大きな鳥居があり、周囲にはかつて何軒かの家があったらしい痕跡が残っている。電線もここまで伸びているし、散らばっている生活用品もそれほど日にちが経っていないように見えた。奥多摩の廃村が昭和末期まで人が住んでいたとすれば、ここは平成初めまで誰かいたのかもしれない。いずれにしても鳥居が残っているのだから、神社と関係があったのだろう。

この謎の廃集落のすぐ上には現役と思われる物置のような建物があり、その右に入る道からいよいよ登山道になる。登山道の入り口「→太龍寺道」の古い石碑の奥には、かなり大掛かりな石垣が残っていた。かつてはこの上にお屋敷でもあったのかもしれない。

帰ってから調べてみると、この廃集落は若杉といったようで、国土電子ポータルにも地名と建物の記載が残っている。それだけでなく、真念「道指南」にも「わかすき村 家四五軒有」と書かれているから、江戸時代から存在した集落なのであった。

ここからの登りはさらに傾斜がきつい。さすがにペースが落ちて、あるいは後続の組に追いつかれるかと思ってたびたびふり返るけれども、人の姿は全く見当たらない。あるいは前後数kmに私一人しかないのだろうか。登ること30分、森の中の擬木の階段を抜けると、唐突に舗装道路が現れた。

このあたり、遍路地図では分かりにくいのだが、坂口屋から登ってくる道は「P」の先も舗装道路は続いていて、二輪車なら山門まで上がることができる。だから、「P」からH430の合流点、そして太龍寺までのU字型の道は、実際は実線(車道)なのである。傾斜はあいかわらずきついのだが、H430の合流点まで来るとほっとすることも確かである。舗装道路を登って行くと山門である。ちょうど正午頃に到着した。



大井集落を過ぎて那賀川を越えると、すぐに急な上り坂が始まる。かなりきつい。



鳥居のある集落跡を過ぎると、右手に太龍寺への山道が始まる。立派な石垣があり、真念の道指南にも集落があったことが記されている。



若杉山鉱山遺跡や謎の廃集落を過ぎ、いよいよ太龍寺に向けてラストスパート。

舎心山太龍寺(しゃしんざん・たいりゅうじ)。太龍寺は「三教指帰」で空海自身が山岳を攀じ登って修行したと書かれている「太龍嶽」からとられたに違いないし、舎心はもちろん「捨身」につながる山号であろう。山岳修行が文字通り「捨身の行」であることは言うまでもない。

切幡寺も恩山寺も山門から本堂まで遠かったが、この太龍寺もかなりのものである。鶴林寺で400m登って400m下り、さらにここまで400m登ってきているだけに、さらに登るというのは尋常でないきつさである。山門を過ぎて石段、さらにしばらく進んでさらに石段があり、ようやく庫裏のある区域で平らになった。

庫裏のあるあたりは工事中で、白いシートに囲われている。本堂・大師堂はさらに石段を登った奥にある。ご朱印をいただく庫裏と本堂・大師堂とはかなりの距離があるので、さきにご朱印をいただいてしまう。特に今回は、本堂・大師堂のさらに奥にあるいわや道をめざす予定だったのだ。

しばらく進んだところにある本堂で読経。そして大師堂は、多宝塔のある山を挟んで反対側にある。どこまで行っても、坂道を登らなければならないのが太龍寺の厳しいところである。大師堂の読経を終えたときにはすでに12時30分。山門を入ってから30分が経過していた。

さて、これから先であるが、平等寺を4時に出なければ4時半新野発の列車には間に合わないが、これはこの時点ですでに無理。次の列車は2時間後なので平等寺に5時に入れれば大丈夫だが、それにはかなり余裕がありそうだ。こういう場合は、さいきん整備されたという「いわや道」を通ってみようと思っていたのである。

本堂エリアの先にはロープウェイ乗り場があり、麓の集落である鷲敷(わじき)まで通っている。ロープウェイの駅というと、普通は展望レストランとか観光売店とかで開けているのだが、こちらはあっさりしたものであった。さて、ロープウェイ駅までの階段を下りたのだが、目指すいわや道への標識がみつからない。

遍路地図には、ロープウェイと並行して舎心ヶ嶽から国道に南下するルートが描かれているのだが、「いわや道方面」もなければ「舎心ヶ嶽方面」もない。もう一度本堂エリアにまで階段を登り返して探したのだけれど、それらしい標識は見つからない。

誰かに聞こうと思うのだけれど、お寺の関係者らしき人は本堂エリアにはいない。遍路地図を見ると来た道を反対側に抜ける道があるはずなのだが、その方向には「この先通行禁止」としか書かれていない。坂道や階段を登ったり下ったりしているうちに、だんだん疲れてきた。

そうして迷っているうちに、時計を見ると12時50分になっている。かれこれ20分近く迷ってしまった。このタイムロスは大きい。平等寺まで11.6km、距離で3時間、標高差で1時間の合計4時間とみると、これ以上ロスすると平等寺の納経(5時まで)に間に合わない。あきらめて、来た道を戻ることにした。

本堂周辺から庫裏のあるエリアを通って、山門まで下る。その途中で、「さかもと」で一緒だった皆さんとすれ違った。時間的に、いま太龍寺到着だと平等寺5時は微妙なところで、おそらく平等寺門前の「山茶花」に泊まるのだろう。それなら今日でも明日でも特に問題はないが、私の場合は阿南泊まりである。

下りは登山道には入らず、そのまま急傾斜の舗装道路を下って行く。

[行 程]鶴林寺 9:10 →(2.2km)  10:10 大井小学校跡・大井休憩所 [昼食休憩] 10:30 →(4.0km) 12:00 二十一番太龍寺 12:50 →

[Sep 17, 2016]



ようやく見えた太龍寺山門。でも、ここから本堂までが長いのだ。



修理中の庫裏を過ぎてさらに登り、ようやく本堂が見えてきた。手前の坂を右に登って向こう側が大師堂。



太龍寺大師堂。遍路地図によれば、このあたりに「いわや道」入口があるはずなのだが、ロープウェイ駅への下り階段があるだけで見つからず。

二十二番平等寺 [Feb 26, 2016]

太龍寺から「いわや道」というルートも考えたが、入口が分からないので撤退を決めたのが12時45分、そこから山門まで戻るのに5分くらいかかった。太龍寺は山門から本堂エリアまで遠い上に、ロープウェイ駅からだと反対側なのである。

道すがら、「こちらからはロープウェイ駅に行けません」としつこく書いてあるのは、実際にこちらに来てしまう人が少なくないからであろう。山門からは行きに通った登山道には入らず、二輪車用の舗装道路を下って行く。かなりの急傾斜なのでスピードは出ないが、息が切れることはないのでその分早く歩くことができる。

急坂をスイッチバックしながら下って行くと、広い四輪車用の駐車場があった。車で来た人は、ここに止めて急坂を登ることになる。登りだと、本堂まで30分くらいかかりそうだ。しかし、せっかく広い駐車場なのに車は1台しか止まっておらず、料金徴収所らしい小屋にも誰もいなかった。

小屋の傍らにある蛇口から、沢水だろうか、盛大に水が出続けているのは何ともいえず寂しい風景であった。水はまだ十分にあるので素通りする。舗装道路は方向を変えながら続く。これでいいのかやや不安になるが、下りの一本道なのでここを進むしかない。

ここから県道との合流点、民宿坂口屋跡まではそんなに時間はかからないだろうと思っていたのだが、その予想は大きく外れることとなった。まず第一に、遍路地図や国土電子ポータルでは一本道のように見えるのだが実は一本道ではない。第二に、簡易舗装や砂利道が出てくるのでそれほど速く歩けないからである。

第一の点について詳しく言えば、遍路地図では一本道を進むとT字路で坂口屋に突き当たることになっているが、最初に出てくるT字路も、登山道と舗装道路の合流地点も、次に出てくるT字路も、坂口屋とは全く違う場所なのである。T字路は坂口屋のところにしかないはずだからおかしいなと思いながら歩くのだが、どうにも不安である。

舗装道路との合流地点では下りたところに行先表示がなく、たまたま後ろから来た人が「こちらでしょう」と道なりに進み、100mほど先の電柱で「ありましたよ」と例のへんろ道シールを見つけてくれたので助かったが、一人だったら逆方向に進んだかもしれない。というのは、ここで道なりに進むと、方向的には逆なのである。たいへんまぎらわしい。

その合流の先でも道は入り組んでおり、T字路・十字路を越え、集落内の民家の間を進んでようやく坂口屋の裏手に出た。時刻はすでに2時。太龍寺から1時間以上と、予想以上に時間がかかってしまった。

坂口屋はつい先だって廃業したのだが、道路の反対側が広場になっている。ここでいったんリュックを下ろして一息つく。さっき後ろから来て私を追い抜いた人もここで休憩していて、この日どこまで歩くか聞かれた。私がJRの駅まで歩くというと、「本数がなくて大変でしょう」と言われた。そのとおりである。

10分休んで2時10分に出発。まだ平等寺まで7kmあり、さらに平等寺から新野まで2kmあるので、4時半新野発の電車はちょっと無理である。次は6時半の列車になるのでご朱印をいただける5時までに平等寺に着けばよく、それには3時間近くあるからまだ余裕がある。

そう考えてリラックスしたのがよかったのか、あるいは県道になって路面状況がよくなったためか、阿瀬比までの2.5kmを25分ほどで歩いてしまったのには自分でも驚いた。時々道幅が狭くなるので車に注意が必要だが、点々と農家が続く景色はのどかであり、何と言ってもこの日初めての平らな道だったのだ。

WEBでよく見る阿瀬比へんろ小屋で小休止。このへんろ小屋は道端に建っていて、狭い幅なのに数人は座って休めるように工夫されている。2時40分に出発。平等寺まであと4.5km。再び峠越えとはいっても、標高差160mであれば大したことはないと思ったのだが。



2015年に廃業した民宿坂口屋。ここまで下りるのに結構時間がかかった。



坂口屋から阿瀬比までは、道は狭いが意外と早く着くことができた。県道を突っ切って大根峠側にある遍路小屋で一休み。



阿瀬比集落から大根(おおね)峠方向を望む。眺めは穏やかなのだが、けっこうきつい。

大根(おおね)峠はこの日3回目の登り下りである。鶴林寺・太龍寺が標高500mを越える山なのに対し、大根峠は標高200mほど。楽ではないだろうがそれほど苦戦はしないだろうと思っていたのだが、正直なところかなりきつかった。

「四国遍路道指南」で真念が歩いているのは、もちろん大根峠越えである。ただ、遍路地図を見ると、阿瀬比から東へ進んで阿南山口で桑野川に出て、そこから平等寺に向かう道の方が平坦で歩きやすいのではないかという気がしていた。もしかして時間的にはその方が早かったかもしれない。

阿瀬比の集落から大根峠の方向を見ると、それほどの高さはないように見え、またのどかな農村の風情だったので歩き始めはそれほど気にはならなかった。ところが、舗装道路は登山道になり、当然のように擬木の階段道が現れる。やはり平坦路を大回りすべきだったかと思う。今更引き返せないのでがんばって登る。

それでも、阿瀬比からは30分、登山道に入ってからは15分ほど、3時10分過ぎには大根峠に到着した。峠の表示板には「阿瀬比まで1km、平等寺まで3.5km」と書いてある。あとは下りだから大したことはないだろうと思っていたら、ここがまたたいへんな難所であった。

傾斜は登りよりもかなり緩やかだし、足もとも柔らかく負担がかからなくていいのだけれど、杉林や竹林を縫って道が延々と続くのである。傾斜がきついとスピードは出ない反面、高度は確実に下がって行くという実感が得られるのだけれど、この下りはなかなか目的地に着かないという感じを受けながら歩くことになる。

3時10分から3.5kmの下りであれば、4時に平等寺に着いておかしくはないのだが、4時10分前になってようやく麓の集落までたどり着いた。左手にへんろ休憩所が見えるけれども素通りして先を急ぐ。集落内をしばらく歩いてようやく桑野川沿いの道に出た。

ここでまたがっくり来たのが、最初に見た行先表示では「平等寺まで800m」と書いてあったのに、次の表示では「平等寺まで1.4km」と逆に増えていたことである。車道と歩道が違う場合はそういうこともあるが、ここは一緒である。結果的には長い方が正解だった。

川沿いのほぼ直線の道を進むけれども、行けども行けども寺らしき建物は見えてこない。あるいは行き過ぎてしまったのかと後ろを振り返るけれども、そういうこともなさそうだ。こういう時に限って、行先表示もないのだ。あきらめて歩く。「いっぽ一歩堂」とはよく付けたものだと思ったりする。

4時15分、ようやく左手に平等寺が見えてきた。大根峠から3.5kmの下りに、1時間以上かかってしまった。



大根峠。標高200mと鶴林寺・太龍寺ほど高くはないけれども、この日三度目の登りはかなりきつかった。それと、平等寺までは本当に3.5km?と思うくらい長かった。



山道や竹藪が延々と続く。遍路小屋脇を過ぎて集落に入り、もうすぐと思ったのだがそこからもまだまだ着かない。



やっと見えてきた平等寺。山門から本堂まで、コンパクトだ。太龍寺が広すぎたせいか余計そう感じた。

白水山平等寺(はくすいさん・びょうどうじ)。山号の白水は、弘法大師空海が掘ったといわれる「白水の井戸」から採られている。

山門から一直線に石段が上がって行き、てっぺんに本堂がある。この日は鶴林寺も太龍寺も山門から本堂までの距離が結構あったので、コンパクトに感じた。納経所は山門近くにある。時間ぎりぎりなら先にご朱印をいただくことになるが、まだ40分以上あるので大丈夫だろう。

石段を上がるに従い、風が強くなる。本堂エリアでは、帽子を押さえていなければ飛んで行ってしまいそうなくらいである。本堂でこの日5回目、大師堂で6回目の読経。風が強いので、そそくさと石段を下りる。ご朱印をいただいてひと息つき、時計を見ると4時45分になっていた。

さて、列車の時間まで1時間半以上ある。新野(あらたの)経由JR阿波福井駅まで歩くのは、時間的に問題ないだろう。ここでもう一つの選択肢は、真念が歩いた「寺の前川わたり二十丁程は村続き 月夜村 此の名子細ありたづねられるべし」とある月夜村を通るかどうかである。

この道は、弘法大師が歩かれた際に闇夜で水もなく、例によって加持されたところ清水が湧くとともに水底に光る石が現れて闇夜を照らしたという伝説があり、月夜御水庵という番外霊場が置かれている。ここを通るルートも考えられるが、問題はこの日4度目となる峠越えの道である。

2時間くらい時間の余裕があればこのルートも考えられたのだが、あと1時間半しかない。国道55号まで約5kmの峠越え、そこから1km強阿南方向に戻ってようやく阿波福井駅であり、大根峠から平等寺まで大苦戦したことを勘案すると、ここは無理はできないという結論に達した。

当初の計画通りJR新野駅に向けて歩く。ここは交通量の多い道路で信号もあり止まらなくてはならないが、峠道ではないので安心して歩くことができる。予定通り30分で到着。駅前には商店や事務所がいくつかある。考えてみれば朝スタートした道の駅以来のにぎやかな街であった。適当な横道を入ってJRの線路を越える。

線路を越えて突き当りの県道を南下し、国道55号に出て阿波福井駅に向かう。さすが国道だけあって、農協やホームセンター、飲食店もある。時折トラックが大きな音を立てて通り過ぎて行く。日が落ちて、あたりはだんだん薄暗くなっていく。

右手を見るとはるかに山並みが続く。標高差は100mではすまないような印象である。月夜村を目指した場合には、あの山道を歩いたことになる。おそらく街灯はないだろうから、かなり心細い歩きとなるところだった。ちょっと心残りではあるが、またいつか来る機会もあるだろう。

阿波福井駅に着いたのは6時ちょうど。2月なのでその時刻にはすっかり暗くなっており、このルートで正解だったようだ。自動販売機でコーラを買い、朝から持っていた非常食の菓子パンを食べる。携帯の万歩計をみると4万9千歩。前日よりも5千歩ほど多かった。待合室で30分ほど待って列車に乗る。阿南に戻る車窓からは、暗くて何も見えなかった。

[行 程]太龍寺 12:50 →(4.4km) 14:00 坂口屋前 14:10 →(2.4km)14:35 阿瀬比遍路小屋 14:45 →(1.0km)15:10 大根峠 15:10 →(3.5km)16:15 二十二番平等寺 16:45→(5.3km) 18:00 JR阿波福井駅 18:27 [ →18:45 阿南(泊)]

[Oct 8, 2016]



いちばん高いところにある平等寺本堂。



山門脇にある有名な民宿「山茶花」。前日さかもとで一緒だったみなさんはここに泊まったのかな?



来た方向から直角に曲がってJR方向に向かう。こうしてみると、お寺というより古墳みたいに見える。

二十三番薬王寺 [Feb 27, 2016]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

鶴林寺から平等寺まで打った後は、平等寺門前の「山茶花」に宿を取るのが定石とされている。ただ、この宿は不定休であるので、2月終わりというシーズンオフにやっているかどうかは分からない。そして、宿まで他の交通機関を使わないとすると宿泊地がここに限られるため、意外と混むことも考えられる。実際、この日は営業していたようだが、前日のさかもと組はじめ何組か泊ったと思われる。

あれこれ考えて、平等寺から阿波福井駅まで歩き、JR牟岐線を阿南まで戻ってビジネスホテルに泊まることにした。すでにさかもとでは送迎してもらっており(歩きだと往復1時間半ずつ余分にかかる。それを避ければ生名で宿をとらざるを得ない)、歩き限定ではなくなっている。前の日に歩いたところから次の日スタートするというマイ・ルールとした。

(もっとも、多くの歩き遍路の人たちがそういうルールにしていると思われる。民宿の廃業が続き、送迎や他の交通手段を全く使わないのは現実的に難しくなっている。)

阿波福井から阿南まで20分ちょっと。駅で待っている間に菓子パンを食べたのだが、とてもそれでは足りずに阿南駅前のファミマでスパゲティミートソースとおでんを買って夕飯にする。この日の宿である阿南ステーションホテルには部屋の中に電子レンジがあるので、持って帰って温められるのである。

そしてなんと、このホテルには部屋ごとに洗濯機と乾燥機が備え付けされているのである。ホテル内にコインランドリーがあるのはきょう日当たり前なのだが、部屋ごとに付いているというホテルは初めて見た。さすがお遍路向けの施設が充実している四国である。ただし、乾燥機は電気なので2時間以上かかった。翌日の身支度を用意して眠った。

翌朝は5時起き。前日ファミマで買っておいたサンドイッチとサラダ、それとお湯を沸かして熱いお茶を飲む。それからフロントに下りて、ロビーに携帯充電器があったので充電しながらメールチェック(wifiがロビーのみだったので)。始発電車は6時25分なので6時過ぎにはホテルを出た。

まだ夜は明けきらず、駅は照明できらびやかである。よく考えたら列車は阿南始発ではなく徳島から来るので、発車時間まで来ないのであった。ホームで待っていると寒いので階段を上がって待つ。列車は5分遅れで到着した。

列車は前の日に通ったところを戻って行く。新野を過ぎると、歩きながら見た景色が広がる。なんとなくうれしい。阿南に戻った時には、もう暗くなっていて見えなかったのだ。ホームセンターや農協、ガソリンスタンドが通り過ぎて行く。短いトンネルをくぐってまもなく、阿波福井に到着した。

阿波福井駅で身支度をして、7時ちょうどに出発。国道55号線は駅の前を通る。前の日は右から歩いて来たので、この日は左へと歩く。しばらくは古い家が点在する街道筋といった風情だが、次第に家が少なくなり道も登り坂となる。右手にダムへの道案内が現れると釘打(かねうち)集落である。ダムの方向に山を突っ切ると、前日自重して通らなかった月夜御水庵経由平等寺からの道である。

「くぎうち」と書いて「かねうち」と読むのはおもしろい。経本では、鉦を打つタイミングを「丁」と書いてあるので、もともと鉦は釘と書いたのかもしれない。ただ、現代では釘は「かね」と読まない。だからトンネルの名前は「鉦打」と表記されている。

鉦打トンネルに入ってすぐ、「室戸まで96km」の距離表示が出てきた。この日は55号線を室戸に向かって直進し、この距離表示をどんどん縮めて行く予定である。いずれは0kmになるまで歩かなければならないが、それはまだ先の話となる。



朝の阿南駅。まだ夜が明けきらず灯りがまぶしい。朝一番の列車で阿波福井まで戻る。



鉦打トンネルの中で、室戸まで96kmの表示。この日はあと30km歩いて残り60km台まで短縮する予定。



海ルートへの分岐点を過ぎて坂を登ったところに、遍路休憩所がある。休めるところで少しでも休んでおく。

さて、二十二番平等寺から二十三番薬王寺へは、海ルートと山ルートとに分かれる。 海ルートは「道指南」で真念が通ったルートで、由岐で海岸線に出て海に沿って日和佐まで歩く。山ルートはこのまま55号線を進んで日和佐に直行するルートである。真念と同じ海ルートを歩けば海も見えて景色はいいらしいが、多くの人がそう考えるのでWEB報告も海ルートが圧倒的に多い。そこで、報告も少なく距離的にも2~3km短くなる山ルートを選ぶことにした。

鉦打トンネルと次の福井トンネルを過ぎてしばらくは交通量の多い道だが、何度か左に道が分かれるうちに段々とそちらに車が曲がって行き、55号線の交通量は減って行く。特に日和佐道路との分岐を過ぎると車は目に見えて少なくなり、一般道の由岐方面分岐の頃には歩いて車道を横断できるくらいになった。

最後の由岐方面分岐を過ぎると道は緩い登り坂となり、しばらく行った左手にへんろ休憩所がある。東屋とベンチだけで水もトイレもないけれども、歩き始めてちょうど1時間だし、この先どこで休めるか分からないのでリュックを下ろして休憩する。

遍路地図を見ると、これから先トンネルが連続する。十三番大日寺の時のように歩道が狭くて交通量が多かったら、途中から海コースに変更することも考えていたが、その点は心配することはなかった。さすがに国道だけあって道幅が相当に広く、まして車がほとんど通らないときているから、何とも快適な歩きである。

トンネルがあるということは昔は峠道だったということである。だからそこまでは登り坂であるが、国道規格なのでそれほどの急傾斜ではない。右手には低く田畑が広がり、その向こうには人家が見えて、畑仕事に向かうであろうお年寄りの姿が見えるのものどかである。

峠を登り切って、分岐後初の星越トンネルに来るまでに歩道はなくなる。グリーンラインという緑色の線が引かれていて、歩行者とお遍路はその内側を通ってくださいと書いてある。そのグリーンラインが道の片方にしかないものだから、道路の山側から逆側へグリーンラインが移るタイミングには、「お遍路さん横断します。注意」と立看板が置かれている。

幸いこの日はほとんど車が来なかったので渡り放題であった。星越トンネルを出てすぐ、何かの建物があり駐車場も広くとられていたが、ひとの気配がしなかった。昔ドライブインでもやっていたのかもしれない。ひと気のない建物からしばらく進むと再び右手に低く土地が広がり、遠くにちらほらと人家が見えるようになる。

由岐への分岐からすでに4、5km歩いたけれども、さきほど休んだ休憩所から後ベンチひとつ置いていない。その前から自販機もない。こうした点では、山ルートは過酷である。海ルートは海岸線に出ればJRの駅もあるし、自販機くらい置いてあるはずだ(歩いていないから分からないが)。

待望の自販機は、星越トンネルと次の久望トンネルの中間あたり、室戸まで90kmの標識を過ぎたところで、ようやく民家の前にコカコーラ系の自販機が1台あった。もしや電源が切れているかもと心配だったが、ちゃんと動いていた。とはいっても、まだ手許に飲料水はあったので、買わなかったのだが。

先ほどの休憩所から1時間と少し歩いて、9時25分に久望トンネルまでやって来た。ここまで2時間強で約10km、このトンネルを越えれば日和佐市街まであと4km、薬王寺まで6kmだからかなり楽になる。道はわずかなアップダウンはあるもののそれほどでもない。この分で行けば、11時過ぎには薬王寺に着くことができそうだ。



日和佐道路との分岐を過ぎると、極端に車が少なくなった。集落は国道沿いでなく、右下の谷方向に点々と続く。緑の線がお遍路さん推奨のグリーンベルト。



室戸まで90kmを過ぎたあたり、民家の前に、久しぶりにコカコーラの自販機登場。



午前9時20分、久望(くぼう)トンネルが見えてきた。ここを越えればあとは日和佐まで4km少々。

久望トンネルを越えると、道の左手に「CAFE コーヒー・カレー」と書いてある店の前に出た。残念ながら「CLOSE」の看板が出ておりやっていないようだったが、もし営業中であれば久しぶりのお店であった。まだ10時頃だったから、時間が早くてやっていなかったのか、客の少ない時期なのでやっていなかったのかは分からない。

ただ、店の周りにいくつかログハウス風の建物があって、そこで生活しているような雰囲気があったので、CAFEは副業なのかもしれない。そして、店の前にへんろ休憩所があって、東屋とベンチが置かれているのはうれしかった(水・トイレなし)。1時間ぶりに登場した休憩所で、ありがたく休ませていただく。

そして、次の一ノ坂トンネルから先は道が左右から合流するようになり、交通量が次第に増加していく。久望トンネルの前までは山の中を道が通っているという雰囲気だったのだが、一ノ坂トンネルから先は人里近しという感じである。

ここまで来れば安心と思っていたら、このあたりからへんろ休憩所もたびたび登場するようになった。はじめはベンチだけの休憩所、次はベンチプラス山から水が引いてある休憩所、その先では車が増えてきたことを反映してか、道の左側に大きな駐車場のような広場が見えてきた。そこには自販機が数台置かれている。こうなれば、ほとんど街中と同じである。

国道の脇には、ところどころにブロック造りで屋根のある小さな建物がある。一見バスの待合所にも見えるが、バス停の表示はない。あるいは廃品回収所なのかしれないが、よく分からない。緊急時に雨宿りくらいはさせてもらえそうである。

さて、阿波福井駅を出てからここまで、トイレのある休憩所というのはなかったのだけれど、十数kmぶりに登場したのが海賊船前へんろ休憩所である。船の形をしたドライブイン、その名も「海賊船」の前にあり、ドライブイン自体も営業していてド演歌を流している。

本当に疲れてお腹が減るかのどが渇くかしていたら、間違いなくこのドライブインで休憩したのだけれど、へんろ休憩所もちゃんとあって屋根も座るところもあるし、仮設トイレも付いている。たいへんありがたいことであるが、日和佐市街まであと2kmほどであり、まだ疲れていないので先に進むことにした。

ドライブイン海賊船&へんろ休憩所を過ぎて、いよいよ日和佐市街に近づいてきた。さて、日和佐というのはウミガメで有名であり、港町だとばかり思っていたのだが、道の両側に建物が増えてくるようになっても、左にも右にも山、そして市街地の向こうにも山が見える。海はいったいどの方向にあるのだろう。

ホームセンターの先を右に折れると市街地である。橋を2つ3つ渡り、朝以来久しぶりに見るJRの線路に沿ってしばらく歩くと、行く手に白い大きな建物が見えてきた。午前11時ちょうど、二十三番薬王寺に到着した。



久望トンネルを過ぎてようやく休憩所が姿を見せ始めた。ここはCAFE前の遍路休憩所、水・トイレはない。



この休憩所は、トイレはないけれども山の中から水が引かれている。



ドライブイン海賊船とその前にある遍路休憩所。トイレあり。ドライブインは演歌がかかっていたのでやっていたようだ。

医王山薬王寺(いおうさん・やくおうじ)、医王も薬王も薬師如来のことである。街中にあるのと、厄除けに霊験あらたかなお寺のようで参詣者は多く、参道の石段には1円玉がいっぱい撒かれている。

実はこの薬王寺、石段がたいへん多いお寺さんである。最初の1クールで国道レベルから隣の薬師会館屋上レベルまで登る。これで本堂かと思うとさにあらずで、本堂へはさらに1クール石段を登らなければならない。ちなみに、宿坊である薬師会館は休業中と聞いていたが、現在は復活したようである。

ようやく本堂レベルまで登ると、立派な本堂で、幅も奥行きもある。寺号のとおり、本尊は薬師如来で秘仏である。このご本尊、江戸時代に火災に遭った際に4~5km西にある玉厨子山まで飛んでいき、再建なったあとに戻ってきたという伝説がある。旧ご本尊は燃えてしまったと思って新しいご本尊が置かれていたため、旧ご本尊は本堂に後ろ向きに座っていらっしゃるという。

この話を聞いていたので、本堂の後ろに回ろうとすると、通り道の真ん中に置物がしてあったりして分かりにくい。ちょっとドラクエの隠しダンジョン的な雰囲気の参道を回り込んでいくと、本堂の後ろが拝所になっていてお賽銭箱が置かれている。秘仏なのでお姿を拝見することはできないが、間近で手を合わせることができる。

本堂・大師堂にお参りした後は、案内にしたがって登ってきた石段とは別の道を通って下る。納経所はその途中にあって、ご朱印とお姿、2016年記念散華をいただけるが、国道すぐの大きな建物の1階にも納経所と書いてあるので、そちらでもいただけるのかもしれない。立江寺と同様、厄除け祈願の参拝客の方が多くお遍路は少ないので、納経に時間はかからない。

さて、時刻はまだ11時半である。順調に進んでお昼のピークになる前に食事をとることができそうだ。この日のお昼はこのあたりの食堂を予定していたので、あたりを少しだけ歩いてみる。

候補になるのは三つである。ひとつはすぐ先にある道の駅。しかし、見るからに車が多く、あの中に入って行くのは気が進まない。二つ目は薬王寺付属の温泉施設の中。寺の施設だしそんなに高くもなさそうだったが、わざわざ温泉施設に入って行くのも面倒である。

そこで3つめの選択肢である、「厄除けうどん」の大きな看板のあるうどん店・やすらぎに入ることにした。幸い、先客は1人しかいない。せっかくなので、厄除けうどんを定食でお願いする。厄除けうどんには、にしん、かまぼこ、天かす、わかめとお餅が入っていて、定食も白ごはんだったのでお餅とダブってしまった。他に冷奴と小鉢が付く。うどんはまずまずだったが、せっかくだからかやくご飯であったらよかった。

12時の時報が鳴ったので出発する。薬王寺を離れると道は徐々に登り坂となり、JRの線路をまたいで海側に出る。ある程度高くなったところで振り返ると、日和佐の街並みと薬王寺の塔頭を見ることができる。薬王寺は、まさに日和佐のランドマークなのだなあと思う。線路を越えると店はなくなるが、一般の住宅はしばらく続く。

薬王寺から7~800mも歩いたと思われるあたりで、「室戸まで80km」の標識を見つけた。残り80kmは街中で過ぎてしまったんだろうと思っていたので、ちょっとがっくりきた。牟岐までは、あとまるまる16kmあるということになる。

[行 程](JR阿南駅→)阿波福井駅 7:00 →(4.0km) 8:05 由岐休憩所 8:15 →(6.2km) 9:25 久望トンネル先CAFE前休憩所 9:35 →(6.3km) 11:05 二十三番薬王寺[昼食休憩]12:00 →

[Nov 5, 2016]



日和佐の町は久々に登場する都会である。右側の4階建ても後方のお屋敷も、薬王寺の施設。



石段を何度も登ってようやく本堂。本堂の後ろには、後ろ向きでいらっしゃる薬師如来にお参りするお堂があります。扉は閉まっていましたが。



お昼は門前のうどん店で「厄除けうどん定食」。お餅と白飯がかぶってしまった印象だが、この後16km歩いたことを考えるとよかったのかもしれない。

番外霊場 小松大師  [Feb 27, 2016]

薬王寺を過ぎてどこまで歩くか。薬王寺のある日和佐の次の駅は山河原(やまがわら)、次が辺川(へがわ)、その次が特急停車駅の牟岐(むぎ)であるが、山河原と辺川には各駅停車しか止まらない。歩き始めたら、16km先にある牟岐まで行かないことには、列車も少ないし徳島まで戻るのに時間がかかる。

牟岐発の特急むろと2号は4時44分発で、5時54分に徳島に着く。その前の4時6分発の鈍行に乗っても徳島に着くのは6時19分だから、38分早く出て25分遅く着く1時間以上のロスである。だったら特急料金を払っても特急列車である。

牟岐までは約16km、正午に薬王寺を出たので1時間4kmのペースを守れれば4時、途中に休憩と小松大師に参拝するとしても4時半には着くことができそうだ。幸いに、午後も引続き快晴微風である。今回は、前回、前々回と違って天気に恵まれた。修行でありお祓いだと分かっていても、雨や風はできれば避けて通りたいものである。

室戸まであと80kmの標識を過ぎて、道はやや登りであるが大したことはない。日和佐からほぼ30分歩いたところ、「海部木材」さんという材木店の横にへんろ休憩所が作られている。木材店だけあって木製の東屋とベンチがあり、すぐ横にトイレもある。ベンチの横には自動販売機も置いてあって至れり尽くせりである。ありがたく休ませていただく。

10分ほど休んで再起動。海部木材休憩所からしばらく歩くと、690mの日和佐トンネルである。トンネルの入り口右側には、休憩所としてベンチが置かれている。また、トンネルの中には歩道があり、これまでのグリーンラインとは違って余裕がある。690mは決して短くはないが、トンネルがまっすぐなため出口のアーチが見えるので、距離ほどには長く感じられない。

トンネル途中には「非常電話まで△△m」の表示が頻繁にあり、それを見ているうちにいつしか真ん中は過ぎた。だんだん出口が大きく見えるようになり、意外とすんなりトンネルを出ることができた。出てすぐ左側に、「かめ遍路休憩所」が見える。亀の甲羅型の屋根が付いた東屋だが、水とトイレはないようだ。少しだけだが国道から離れているので、寄らずに先へ進む。

日和佐トンネルを通過して間もなく、打越寺の案内看板が見えてくる。打越寺は六番安楽寺と同様、阿波藩が設置した駅路寺で旅人の保護と治安維持に当たった。真念「道指南」にも、「こゝにうちこし寺真言道場 遍路いたはりとて国主ゟご建立」と記されている。この打越寺の近くにJR山河原駅がある。日和佐の次の駅でここまで6km、ちょうど1時半に通過する。

休憩所は打越寺の分岐を過ぎ、山河原トンネルをくぐると現れる。薬王寺への山ルート、久望トンネル周辺ほどではないが、このあたりも人里離れて休憩所が少ない地域である。

山河原トンネルを過ぎて次の辺川のあたりまで、長い下り坂が続く。「道指南」にも記されている、かんばか坂(寒場坂)である。このあたり、向こうから来るお遍路さんがずっと立ち止まっているので何だろうと不思議に思っていたら、逆打ちの場合ここまでずっと登り坂で、しかも休憩所がなかったからだと後から気が付いた。下る分にはたいして苦労はないのだが、長い登り坂はきついだろう。

ひと気のない山道の国道をひたすら下って行く。気が付くと、いつの間にか傾斜が緩やかになり、左右に広がっているのは畑で、害獣除けの電気網で囲われている。ようやく人里が近づいたと分かってほっとする。このあたり、右の山道に入ると鬼ヶ岩屋温泉という温泉があるらしい。由緒はよく分からない。やがて、JR辺川駅への道案内が出てきた。牟岐のひとつ前の駅である。



日和佐から30分ほど歩くと、海部木材さんの休憩所。トイレ・自販機あり。



長さ690mの日和佐トンネル。トンネルの入り口に休憩スペース、出て左側に「かめ遍路休憩所」がある。



辺川に近づくと、人の手が入った土地が見られるようになる。ほっとする。

辺川(へがわ)に近付くと、国道左側に自動販売機ステーションが見えてくる。全体的に、日和佐までの16kmと比較して、牟岐までの16kmの方が遍路にはやさしい場所が多いようだ。

そんなことを考えている間に、道の両側が住宅地のようになり、直進すると牟岐、右に小松大師という標識まで来た。午後の目標である小松大師に到着である。時刻は午後3時ちょうど、日和佐から12kmを3時間でクリアしたことになる。

時間通りに牟岐まで歩けるか少し心配していたので、小松大師まで来た時にはほっとした。30kmを超えるロングウォークは若い時を含めて経験したことがなかった。これまで最高は、終電がなくなって津田沼から家まで歩いた25kmである。還暦間近になってこれだけ歩くという計画は、まだまだ若いという自負が半分、もう半分には不安もあったのは仕方がない。

でも、ここまでくれば目的地JR牟岐駅まであと3km少し、いくら疲れても1時間半で行けない訳がない(もちろん、そんなに甘くはなかったのだが)。

道案内の標示に従い、坂道を少し登る。想像していたのとは違い、小松大師はわが印西市によくある観音様のように、自治会館の敷地内にある。由来書きもありきちんと大師像を納めてあるのだが、お堂はこじんまりしていて、もちろん納経所もなかった。

小松大師の由緒は江戸時代。大師像を作った石工の夢枕に弘法大師が現われ、像を小松に納めるよう言ったのが始まりとされる。せっかくここまで来たしそのつもりにしていたので、納経所はなかったが札所と同じように読経させていただく。今回の遠征で最後の読経になる。

ここまでくれば、目的地JR牟岐駅まであと3kmくらい大したことはないと思ってしまったのがよくなかったのか、あるいは小松大師のすぐ先にあった休憩所で(パン屋さんの横にあった)きちんと休むべきだったのか、この後の残り3kmは大苦戦となった。

だんだんと足が上がらなくなり、股関節が痛くなってちょっとの坂道がつらい。あとからよく考えてみると、このあたりで朝から通算して30km歩いていたので、30kmの壁ということであったらしい。

大きな通りを横切ったあたりで、たまらずリュックを下ろす。あと何kmかと遍路地図を見ると、なんとまだ2km近く残っている。小松大師から牟岐駅までの半分も来ていなかったのである。時間は大丈夫かと思って携帯を見ると、列車の時刻までまだ1時間ある。なんとか落ち着いた。

このあたりからよく分からない標識が出てきた。もしかすると、1kmごとのキロポストではなくて100mごとのキロポストだったのかもしれない。ほどなく商店街が見えてきた。ソフトクリームのオブジェにつられてパン屋さんに入ったら、あったのはソフトクリームではなくて手作りアイスクリームだったが、せっかく店に入ったので買う。

そこから歩いて3、4分、牟岐駅に着いたのは4時5分過ぎであった。ひいこらした割にはそれほどタイムロスせずに歩いたようである。まだ特急列車は着いていなかったので、駅の待合室で先ほど買ったアイスクリームを食べる。2月とはいえ長距離を歩いてきた体は熱をもっていて、冷たいアイスをたいへんおいしくいただくことができた。

4時44分に出発した特急列車は1時間10分で徳島まで戻った。この日は東横インに泊まって、3日間の疲れをいやす。さすがに疲れていて、温泉にも行かず飲みにも行かず、翌朝1番の飛行機に備えて早くに寝ることになった。次の区切り打ちでは、徳島に入って出る時は高知ということになるはずである。

[行 程]二十三番薬王寺[昼食休憩]12:00 →(5.7km) 13:15 JR山河原駅付近休憩所 13:25 →(6.2km) 15:00 小松大師 15:10  →(3.3km) 16:05 JR牟岐駅

[Nov 19, 2016]



小松大師は辺川集落の入り口にあって、コミュニティセンターと隣り合っている。納経所はないけれども、般若心経を読経させていただく。



この日の目的地・JR牟岐駅に無事到着。30分ほど待って特急で徳島に戻る。今回の区切り打ちはここまで。

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