この図表はカシミール3Dにより作成しています。

一番~三番 ←    四番大日寺    五番地蔵寺    六番安楽寺    七番十楽寺
八番熊谷寺    九番法輪寺    十番切幡寺    十一番藤井寺    → 十二番~


四国札所歩き遍路  四番大日寺 [Sep 5, 2015]

7月の出張にあわせて試験的にやってみた半日の四国お遍路では、それほどの問題なく三番札所まで歩くことができた。若干の抵抗感があったのは観光団体お遍路との遭遇であったが、まあなんとか我慢できる範囲ではあった。

次の段階として、1泊2日でもう少し本格的に歩いてみることにした。1泊2日にしたのは、それ以上進むと「遍路ころがし」焼山寺道に入るため、2泊を通り越して一気に3泊4日になってしまい、休みの都合がつきにくいからである。机上の計算では1泊2日で羽田行の夜便に乗れるが、まだ遍路初心者でもあるので、後泊を入れて2泊3日の計画を立ててみた。

さて、限り打ちとはいえ本格的な歩き遍路を始めるにあたり、2つのことを考えた。一つは、当たり前のことだが、物見遊山ではなくお寺参りだということである。

特に前回、観光バス遍路の人達を見ていたら、必ずしも全員が読経している訳ではなくて休憩所で休んでいる人達がかなりいた。そういう人達も、長生きできる井戸とか弁慶の石などは見に行っているのだが、やはりそういうのはどうかと思った。

お参りするのは、私にとってある種の「お祓い」であり、目的はあくまで霊場で心身を清めることにある。もちろん、お寺の施設を見せていただくのはその延長上にあると思うし、地域の山海風土や歴史を身近に感じることも有意義だとは思うが、ただ有名だからという理由で名所を訪ねるのはやめようということである。

もう一つ考えたことは、そんなに急ぐ必要はないということである。前回の半日遍路以降、いろいろなホームページやブログを拝見させていただいたが、その際気になったのが、「次の札所へと先を急いだ」式の記載である。

考えてみれば、先を急ぐ必要などないのである。時間をかければそれだけ「お祓い」ができるということだし、デメリットがあるとすれば時間をかけ過ぎて宿も交通機関もないところで日が暮れてしまうリスクがあることと、その分費用がかさむということくらいであろう。

そんなことを考えながら徳島行のJAL便に乗ったのは9月5日の土曜日。この夏は8月終わりから秋雨前線が停滞して雨模様の日が続き、週末も微妙な天気予報であった。当日の朝はとりあえずまだ雨は降っていない。

徳島空港からJR徳島駅までバスで移動し、高徳線に乗るところまでは前回と同じ。そして、前は板東までだったが今回は2つ先の板野まで。列車が板野に近づくと、車窓右側の斜面に墓地が見えてくる。あれは前回歩いた極楽霊園だ。なんだかうれしくなる。

再びばんどう旅館の前を通って、遍路道に復帰する。ついこの間来たような気がするが、実際2ヵ月しか経っていないのだった。この日の足回りは普通のスポーツシューズ。まだ慣らし運転の段階なので、いろいろ履いて試してみようということと、前回のランニングシューズは軽くていいのだけれど、ややクッションが弱いような気がしたからである。

遍路地図によると、三番から四番までの距離は5.0km。三番金泉寺からでもJR板野駅からでも距離はほとんど変わらないようだ。前回歩いた二番から三番までが2.6kmだから、いきなり倍近い距離になる。



JR板野駅。前回はここまで歩いたので、今回はここから。正面に見える稜線の山裾を歩く。



大部分は舗装道路の歩きだが、古い遍路道に入るとこんな風景が出てくる。

駅からまっすぐ進み、曲がり角で進路を西にとる。このあたりは駅前からの商店街が続いている。じきに三番からの遍路道と合流すると、板野から北に方向を変える高徳線の踏切となる。

踏切の前には石碑がいくつも立っていて、線路に沿って進路を右(北)にとると大坂越とある。源平の昔、源義経が屋島を急襲した道である。四番大日寺に向かうには、直進して踏切を渡るので、ここで道が分かれる。石碑はかなり古いものだが、びっしりと苔が生えていて、いつ建てられたものかは分からなかった。おそらく江戸時代のものだろう。

周囲は商店街から住宅地に変わり、徳島工業短期大学を過ぎたあたりで、舗装道路から遍路道になる。「電気自動車充電可」みたいなことが書いてある。徳島は意外と先進的な県で、ポカリスエット、カロリーメイトの大塚グループ発祥の地として有名だし、私の若い頃は「一太郎」のジャストシステムが有名だった。今回の遠征中にも、徳島が四国でもっとも公衆無線LANの設置が進んでいるということも知った。

土の遍路道をしばらく進むと、道なりにお寺さんの境内に入ってしまう。三番奥ノ院の愛染院である。ここは刷毛(はけ)納経で有名なのだそうだが、遠征前に納経帳の余白を確認したところ5~6寺分しかなかったので、残念ながら割愛させていただいた。遍路道は愛染院の裏門から正門へ抜け、川沿いの道が続いている。5分ほど歩くと、右手に「うどん萌月(ほうげつ)」が見えてきた。この日はここでお昼にする予定である。

まだ10時45分くらいだったので営業しているか心配だったが、店の前には「営業中」の幟りが立っている。のれんをくぐると、ご主人が畳敷きの小上がりに座って書き物をしていた。「よろしいですか?」と、テーブル席の方に座らせていただく。店内は10人も入ると一杯になりそうだ。奥が厨房になっていて、大きな鍋から湯気が上がっている。ざるうどんの大盛りをお願いする。普通盛りが500円、大盛りだと100円増しとなる。

この店はお客さんが来てから茹でるので、かなり時間がかかるということはWEB情報で知っていた。まあ、この日は七番までなので、それほどあわてなくても30分くらいは平気だろうという読みであった。ただ、実際に茹で時間は結構あって、20分くらいはかかったのではないだろうか。厨房で湯加減をみていたご主人が戻ってきたので、雑談かたがた情報収集する。

ここでお昼をとって十楽寺泊まりなら、のんびり歩いても全く問題ないとのことである。ただ、翌日が十楽寺スタートで藤井寺まで打って夕方の飛行機に乗るとなると、ちょっと急がないといけないということであった。私の場合は徳島に後泊する予定だが、夕方便も乗れる時間に徳島着として歩くつもりであったので、参考になった。ご主人によると、遅くとも正午前には十番切幡寺を出るくらいでないとということであった。

ようやくうどんが茹であがる。見るからに太い手打ちうどんだ。薬味にゴマ、ネギ、生姜とかぼすが付けられている。かぼすというのは徳島らしい。他の薬味はつゆに入れ、かぼすはうどんの上に直接絞る。かぼすの爽やかな酸味がうどんに移って、たいへんにおいしかった。ただ、大盛りでも個人的には普通盛りなので、もう少し量がほしかったかな。

幸いに他にお客さんがいなかったのでゆっくり食べることができた。「まだ9月入ったばかりだから、まだまだ歩きの人は少ないですよ」とのご主人談。そして、ほとんどの歩き遍路は初日に六番か七番まで歩くので、一番からだと、ここに着くのはもう少し遅い時間になるようだ。

うどん萌月を過ぎると、遍路道はやや登り坂となるがそれほどの傾斜ではない。まもなく高速・徳島自動車道の下を通って北側へ。この高速は、これから十番まで何度も行ったり来たりすることになる。



三番奥ノ院を過ぎて5分ほど歩くと、「うどん萌月(ほうげつ)」に到着。太い手打ちうどんは茹で上がるまで20分ほどかかりますが、薬味のかぼすを絞るとおいしい。



うどん萌月を過ぎると、遍路道はやや登り坂となる。この後十番まで、何度も高速道路の下を行ったり来たりする。

黒厳山大日寺(こくがんさん・だいにちじ)、黒厳山の山号は、三方が山に囲まれ人里離れたこの集落が「黒谷」という名前であることによる。かつては地名どおり黒谷寺とも呼ばれたようで、江戸時代初期の巡礼記である澄禅「四国辺路日記」、寂本「四国遍礼霊場記」では、黒谷寺とも大日寺ともいっている。

矢来重氏の著作「四国遍路の寺」によると、ほとんどすべての札所が弘法大師由来と主張しているけれど、江戸時代以前に札所を訪れた記録等や、寺の施設やご本尊、ご詠歌など昔から変わらない要素をもとに考察すると、弘法大師以外が出自と考えられる霊場も多いらしい。それはその通りだと思う。

大日寺の寺号については弘法大師がここで修行した際、大日如来像を彫ったことが由来とされるが、真言宗の最高仏である大日如来の名前を採っている以上、少なくとも弘法大師の教えに沿った寺とはいえそうだ。なお、八十八札所の中に大日寺は3ヵ所あって、うち2ヵ所が阿波(徳島)のお寺さんである。空海自身の著作でも、阿波・土佐で修業したと書かれている。

山号から思い浮かべるイメージが谷のずっと奥であり、実際に遍路道から最初に見えてきた大日寺は山のぎりぎりに建っているように見えたのだけれど、実際に歩いてみると「黒谷」と言われるほどには暗くはない。11時40分到着。うどん萌月で30分以上休憩したことからすると、板野駅から2時間弱というのはまずまずのペースである(遍路本の三番~四番標準タイムは1時間26分)。

寺に着くとまず最初に、駐車場に観光バスが止まっていないか確かめてしまうのが悲しいところ。幸いに、この日は観光バスの姿は見えずほっとする。本堂前で、数珠と経本を取り出して読経。この遠征に合わせて新調した山野袋にそれらの遍路備品を入れてあるので、いちいち背中のリュックを上げ下ろししなくていいのは非常にスムーズである。

今回の遠征に備えて、iPODに般若心経をダウンロードし、毎日通勤の行き帰りにそのスピードとリズムを練習してきた。真言宗の監修なので、お遍路には最適であろう。この音声によると、再生時間は3分30秒で、昔のシングル盤1曲分とほぼ同じ。唱えるにはちょうどいい時間である。

はじめに一礼して開経偈、読経後に光明真言。最後にご本尊のご真言、弘法大師のご宝号を唱えさせていただき、「ありがとうございました」と一礼。この順番がいまのところ一番しっくり来るようである。こちらの本堂から大師堂への回廊には、観音像が何十体も置かれている。まだ、今回の遠征で最初のお寺さんだったから、ゆっくり見る余裕がなかったのは残念。

ちなみに、観音菩薩は法華経と関係が深い仏様なので、真言密教や大日如来とはやや色合いが異なる。江戸時代初期に書かれた澄禅「四国辺路日記」によると、荒廃していた寺を室町時代に地元の富裕者である杢兵衛が再興したということのようだ。大名や教団ではなく在家の富裕層が作るとなると、観音さまというのはなじみがあるのだろう。

大師堂での読経が終わって、納経所でご朱印をいただく。あわせて、本堂大修理の寄付が募られていたので、志だけ寄付させていただく。そういえば、観音様の置かれている回廊とか山門前の駐車場あたりが、工事のため狭くなっていたようである。

山門を出ると、ちょうど正午であった。お昼も食べたし、歩き始めはとても快調で、どこも痛くない。これは今日は楽勝だな。荷物を置いて八番まで往復できるかな、などと考えていたのだけれど、もちろん実際はそんなに甘いものではなかったのである。

[行 程]JR板野駅 9:45 →(3.0km) 10:40 うどん萌月 11:15 →(1.8km) 11:40 四番大日寺 12:00 →

[Oct 22,2015]



ほとんど谷のどん詰まりに位置する大日寺。でも登り坂としては、この後と比べるとまだまだ。



大日寺山門。ここまで来てみると、それほど谷の奥に建っているという感じではない。

五番地蔵寺 [Sep 5, 2015]

今回の第二次お遍路にあたり、新調した遍路用品が2つある。

1つは上下の白衣。これは納経所でお遍路だと分かってもらうために必要のように思ったので、WEBをいろいろ探して「いっぽ一歩堂」というお店の軽装白衣上下を購入した。自分の体質を考慮した場合、寒くて薄着で難儀する可能性よりも、暑くて大汗をかいて苦しむ可能性の方がずっと大きいと思ったからである。

ひとつ懸念されたのは、パンツのサイズにLLまでしかないことで、正直なところもう1サイズ上があればよかったのだけれど、寸法をみると大丈夫そうだし、ウェストラインはゴムで伸縮が利くのでとりあえず買ってみることにした。実際はいてみると、ところどころメッシュが入ったり風通し穴が開いているのがいい。

問題はどこで着替えるかということで、徳島空港にはお遍路用の着替えスペースがある。ただ、空港バスやJRを遍路姿というのはちょっと恥ずかしい。試しに奥さんに聞いてみたところ、「私は恥ずかしくないから、着て行ったらいいんじゃないの」という。「じゃあ家から着て行ったらどうだ」とさらに聞くと、「ご近所に恥ずかしいからやめてくれ」とのことであった。

空港で着替えないとあとは駅のトイレということになるので、それはちょっと差支えがあるかもしれない。という訳で、その日は下だけ着替えておいたのだが、下だけでも、上に普通のシャツを着たところで遍路装束だというのはまる分かりのような気もする。

板野の駅で上を着替える。女子高生が時間待ちをしていたのでちょっと恥ずかしいが、まあお遍路の駅でもあり勘弁してもらおう。板野駅から四番大日寺まで、坂道や狭い遍路道も歩いてみたけれど、違和感はない。白衣のパンツはきついようで伸縮が利き、裏地が網目になっているので少々の汗ではなんともない。さすが軽装白衣として売り出しているだけのことはある。

四番大日寺から坂道を下り脇道に入ったところにある喫茶店の前に、等身大の人形が椅子に座っていた。これはTVとかWEBかで見たことがある。四国のどこかの過疎の村で、案山子(かかし)の人形を作っている人がいて村のあちこちに置いているというあの人形である。

昔、村にまだまだ人が多かった頃にいた人を思い出しながら作って通学路やバス停に置いてあるそうで、今では住んでいる人より人形の方が多いそうである。ネットで見た外国人がわざわざ村に実物を見に来るということだ。

せっかくだからこの喫茶店に寄っていこうかとも思ったが、先ほどうどんを食べたばかりで休憩にはまだ早い。残念だったがなだらかな坂道をさらに下って行き、再び高速道路の下を抜ける。

四番から五番までは2.0kmと距離的にはわずかであるが、道案内がほとんどないので少し不安になる。遍路地図を見るとまっすぐ坂道を下りて行けばよさそうなのだが、太い通りを渡る際にあたりの電柱を見る。ところがこういう時に限って、遍路シールがないのである。案内がないのはまっすぐだと判断して先に進む(これが原因で、このあと道を間違えるのだ)。

20分ちょっと歩いた頃、右手に五百羅漢駐車場が見えてくる。五百羅漢は、五番地蔵寺の敷地内にある施設で、等身大の五百羅漢像が置かれている。順路なので、せっかくだから寄らせていただく。



四番大日寺下の喫茶店の前にあった人形。確かこういう人形を作る人が四国にいて、過疎の村に置いてある人形は人間の数より多いとか。



五番地蔵寺の北、階段を登ったところにある五百羅漢。この写真で正面が入口の弥勒堂、入口横が拝観料徴収所。建物がコの字型に並んでいる。

五番札所、無尽山地蔵寺(むじんさん・じぞうじ)。嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海が創建したと伝えられる。山名の無尽とは、御仏の功徳は尽きることがないという意味で、もともと法華経の言葉だったが、後に庶民金融「頼母子講」の別名となった。いまに残る「むじんくん」は、無人と無尽をかけたネーミングである。

まず五百羅漢をお参りする。コの字型になった建物が内部でつながっていて、正面の建物が釈迦如来をお祀りする釈迦堂、向かって左が弥勒菩薩の弥勒堂、右がお大師様の大師堂である。弥勒堂から入って大師堂が出口である。

入口の前に、拝観料徴収の建物があり、おばあさんと孫で番をしている。拝観料200円をお納めすると、お孫さんの方が「パンフレットです」と色刷りのパンフを手渡してくれた。

内部に入ってみる。見ているのは私だけである。かなり暗い上に木像の彩色も剥がれかけているので、細部が見えづらい。写真撮影禁止とは書いていないようだが、写すかどうかは拝観者の良心に任される。私の場合は携帯のカメラなのでフラッシュ撮影ができないため内部の撮影はしなかった。本来は遠慮すべきものだろうと思う。

羅漢(らかん)ないし阿羅漢(あらはん)とは仏教教団の出家修行者のことであり、五百羅漢という場合は釈迦入滅後の初回結集の500人を示すといわれる。いずれにしても、釈迦に従って修行中の弟子という位置づけであり、如来や菩薩とは違ってほとんど普通の人間の風体で造形されている。

この五百羅漢が作られたのは比較的新しく、江戸初期の巡礼記(澄禅「四国辺路日記」、寂本「四国遍礼霊場記」等)には出てこないし、ご詠歌にも触れられていない。安永・天明年間というから江戸時代も後半に入ってから作られたもので、五来重「四国遍路の寺」によると、当時の仏教復古主義が影響しているとのことである。

羅漢とは釈迦に従った出家修行者のことであるから、自力作善の小乗仏教で重視される。だから空海の真言密教とも、絶対他力の浄土宗とも、只管打坐の禅宗ともなじみの薄い存在である。しかし江戸時代半ばの仏教復古主義では、そうした後からの解釈ではなく、釈迦の仏教に戻るべきだという主張がなされたらしい。ありそうなことではある。

ひな壇になり奥の方が高くなっていて、3列に羅漢が並んでいる。印形を結んだり仏具を持ったりしている者が多い。初回結集時代はインドのはずだが、なぜか中国風の顔つきで作られているようである。すぐに目が行ってしまったのが、眉毛がもみ上げまで伸び、そのままあごひげに繋がってしまっている羅漢。そういう毛深い羅漢が4、5体はいらしたようである。

あと、中ほどのあたりだったか、両手に力を込めて腹の中を開けている羅漢がいる。おそらく仏典にモデルがあるのだろう。腹の中には何もないので見ろ、ということだろうか。ゆっくり歩いて見ていくが、座るところがないので10分もすると出口に着いてしまった。

五百羅漢を出て本堂までは、石の階段を下って行く。下りる分には大したことはないが、登るのは結構大変かもしれない。ちょうど下りきったところで、中年のおばさんから「五百羅漢は上に見えるあれですか?」と尋ねられる。そうですよ、と答えると、

「行く価値はありますか?」と尋ねられる。

それは本人がなぜこの寺にお参りしたかによるだろうと思ったが、何と答えたらいいか迷っているうちに、

「腰が痛いから、あそこまではちょっとね」と言いながら行ってしまった。

このおばさんを含むグループは観光バスで来ていたようで、出る時に駐車場に止まっていた。今回の遠征で観光バス遍路に遭遇したのは、この時だけであった。巻き込まれないように、手早く、かつ丁寧に読経をすませ、納経所へ。この日二つ目のご朱印をいただく。

次は六番安楽寺、ここから5.3kmがこの日の長丁場だったので、気を引き締めて望んだのだが。

[行 程]四番大日寺 12:00 →(1.8km) 12:25 五番地蔵寺(五百羅漢見学) 12:55→

[Oct 31, 2015]



五百羅漢内部は撮影しなかったので、いただいたパンフレットから引用。五百体の羅漢像が3列に並んでいる。



地蔵寺山門。こちらが正面になるが、五百羅漢から入ると出口になる。山門の背後にそびえる大木は樹齢七百年といわれる大銀杏。

六番安楽寺 [Sep 5, 2015]

さて、五番地蔵寺から六番安楽寺までのおよそ5.2kmは、一番霊山寺の前を通っていた県道12号線に並行して遍路道が通っている。だから、距離は多少長いけれど、道に迷うことはあるまいと思っていた。ここが大きな落とし穴であった。

この日の行程は、JR板野を下りてほぼ真西へ向かう。四国北部を西から東に流れている吉野川の左岸を遡上することになる。

一方、JR高徳線は板野を過ぎると90度右に折れ、瀬戸内海に向かって大坂峠を越えていく。この曲がり方がやけに機械的だと思っていたのだが、実はもともとの線路は板野を過ぎても吉野川に沿って直進し、六番安楽寺のちょっと前、鍛冶屋原というところまで走っていたのであった。国鉄鍛冶屋原線という。

1971年の交通公社時刻表をみると、1日に7往復しか走っていない弱小ローカル線だが、その起源はというと大正12年に池谷から鍛冶屋原まで開業したもので、高徳線よりも古い歴史があった。しかし、1972年というから、まだ国鉄のうちに廃線となってしまったのであった。板野から2つ目の駅が羅漢といったが、これは地蔵寺の近くの地名で、五百羅漢からとったに違いない。

地蔵寺を出てしばらく進むと、進路を左にとれと遍路シールが指示する。左ということは南であり、遍路道と並行して南を走っている県道を渡ってしまうと思ったのだが、県道との交差点には何も書いてない。書いてないということはまっすぐだろうと思って、そのまま県道を横断する。さらに歩く。歩いても歩いても、次の指示が出てこない。

10分くらい歩いた後、これはちょっとおかしいなと思った。それでも来た道に引き返さなかったのは、上に書いた鍛冶屋原線の記念碑があるのが県道の南なので、90度右に折れて県道の南を並行すれば、かえってショートカットできていいと思ってしまったのである。

川を渡って西方向に進路を変えたと自分では思っていたのだが、この日は曇りでお日様は出ていない。かなり歩いて大きな通りに戻ったのはいいが、そこは最初に横断した県道12号線であった。およそ30分無駄な歩きをしてしまった。おまけに、遍路地図で見当をつけていた場所より1km近く手前であるらしい。このことに気が付いて、どっと疲れてしまった。

これ以上は間違えたくないので、県道の道端を歩く。交通量の多い幹線道路なので依然として車が多く、ところどころ歩道がない。しばらく進むとセブンイレブンがあったので、「いろはす」みかん味を買って一息つく。さらに大きな川があったので、県道から少し北に入って橋を渡る。橋の名前は泉谷橋で、これは遍路地図に載っていた。ようやくこの時点で正確な現在位置が確認できた。

泉谷橋の対岸には、遍路地図には載っていなかったが小奇麗な遍路小屋が建っていた。小柿休憩所と書いてあって、中には般若心経とかお大師様の写真が貼ってある。壁に沿って座れるようになっていて、座布団も置いてある。へんろ道ならぬへんな道を通ってかなり疲れてしまったので、ありがたく休ませていただく。

5分ほど休んだら、だんだん元気が出てきた。迷ったとはいえ、すでに六番への中間くらいまでは来ている。変なことは考えず、初心者らしく慎重に目印を確認しながら進むことが大切だと痛感した。リフレッシュして出発、時間はまだ2時、十分に余裕がある。



1時間近く迷って、ようやく正規の遍路コースにたどり着いた小柿休憩所。しばし休ませていただきました。



遍路コースに沿って進むと、かつての中心街と思われる通りとなる。思わず携帯カメラのシャッターを切る。

せっかく正規の遍路道に復帰したので、迷わないように慎重に進む。遍路地図で指示されたルートは再び県道12号線を越えて南側に渡る。一定間隔で電柱に遍路シールが貼ってあるので、先ほどまでとは違い、正規のルートであることを確かめながら進むことができる。

県道を渡ると、遍路道は旧街道のような通りとなる。左右に並んでいる住宅には古いものが多い。大正年間に鉄道が通ったくらいだから、古くから栄えている地域なのだろう。時折、明治大正時代から建っていると思われる古い家もみられる。

しばらく進んだあたりで、昔はそれなりの旧家であったと思われる古いお屋敷の庭が、もう誰も住んでいないのが明らかなほど荒れ果てていた。よく見ると、家の側面の土壁が骨組みだけになってしまって、あとは何かのきっかけで倒壊するのを待つだけのようだ。こんなに道路近くにあるのに、親戚なり縁者がいて後片付けをしないのだろうか。

さらに進むと、今度は家の前に大量のゴミ袋、空き缶、空き瓶を積んで、異臭を放っている建物があった。人が住んでいるような様子ではあるが、まともな住環境とはいえそうにない。何十年か前には、それなりに整った通りだっただろうに、今日ではこの状態である。この先復活する望みも、おそらくない。

こうした街の盛衰をみて何かを感じるのも、お遍路の目的の一つのように思える。とりあえず思うのは、盛者必衰であり諸行無常ということだろうか。永遠の繁栄もないし不滅の組織もない。かつてはこれだけ大きい家に嫁げば一生安泰と思っていた美人もいたかもしれないが、何十年か経ってしまえば廃屋という現実がある、なんてことをふと考える。

そして、これまでは諸行無常が仏教の悟りだと考えていたのだけれど、毎度札所で唱える般若心経には「諸法空想不生不滅」「空中無色無受想行識」の言葉がある。文字通り解釈すれば、すべては空であり、盛者必衰の「盛」も「衰」もなく、諸行無常の「行」がそもそもないということであろう。

こうして札所をお参りするのは、現世利益を求めてのものではない。そして、盛者必衰や諸行無常を理解することでもなさそうだということもだんだんと見当がついてきた。それを通り越しての「空」の境地に至ることができるのかどうか、それはこれから歩いていくうちにおいおい分かってくるのかもしれない。

そんなことを考えながら古い商店街を撮っていたら、路地の向こうに「阿波銀行」の看板が見えた。阿波銀行といえば、例の鍛冶屋原線記念碑の建っているところである。探していると道に迷うのに、探さないでいると偶然目に入ってくるというのも妙なものである。路地を抜けて太い通りに出る。阿波銀行の前面で特に道幅が広くなっていて、かつての終着駅の姿がおぼろげに想像できるようだ。

さて、記念碑は駐車場にあるのだったかなと思い出しながらそれらしいところを探すと、銀行と隣の建物の境い目、どちらの土地か判然としないあたりに記念碑はあった。じかに地面に置かれている上、それほど大きいものではないので目立たない。「国鉄鍛冶屋原線跡」と読めるが、特に来歴や説明書きはなく、もうしばらくすると何の記念碑なのか分からなくなってしまうような気もする。

宿題を一つ片づけて、再び先ほどまでの旧街道というか古い商店街に戻る。そして再び県道12号線を渡って住宅街の道を進む。しばらくすると、竜宮城のような山門が見えてきた。六番安楽寺である。



国鉄鍛冶屋原線記念碑。大正時代に開通した歴史ある鉄道なのだが、1972年というから国鉄時代に廃止された。



記念碑前の道路は道幅が広くなっていて、かつての終着駅の様子が想像できるようである。

温泉山安楽寺(おんせんざん・あんらくじ)。温泉山の山号は、文字通りこの地に古くから温泉が湧出することによる。ここ安楽寺には宿坊があり、天然温泉の大浴場があるそうだ。そういえば、全国の温泉でもかなりの数が、弘法大師による開湯という伝承があるのはおもしろい。

さて、この安楽寺は江戸時代には駅路寺とされており、当時の名前を瑞雲寺という。駅路寺とは徳島藩蜂須賀家独特の制度で、一定間隔で寺に宿舎が置かれ旅人の便宜を図る一方で、治安維持、つまり不審人物の取締りに当たった。安楽寺自体は戦国時代に焼ける前はもっと山の中にあったようで、温泉もそちらに出たらしい。そのこともあるのか、江戸時代には駅路山とか瑠璃山という山号で呼ばれていた。

竜宮城のような山門をくぐると、左手に多宝塔が、右手に宿坊が見える。境内の敷地は、それほど広くはない。納経は宿坊でやるのかなと思っていたら、「納経は本堂で行っています」と書いてある。まっすぐ進んで本堂へ。

本堂の建物に入るとご本尊があって、その前にいつもの銀色の納札入れがある。さらに左、ご本尊の並びの位置に納経してくださる方が座っている。それはいいのだが、よく分からないじいさんが、ずっと大声でその方に話しかけているのである。すぐそばで読経している人達がいるのに、たいへん無神経なことである。

ともかく集中して読経する。そして、本当なら大師堂をすませてからご朱印をいただくのだが、せっかくこちらにいらっしゃるのだから納経をお願いする。この方は、雑談じいさんにあまりつきあわず、粛々と納経していただいたのには安心した。

本堂を出て大師堂で読経。境内にある多宝塔は、その前に「厄除けのさかまつ」という大きな掲示があったように何やら由緒がありそうだっだが、手を合わせるにとどめた。七番十楽寺への順路は入ってきた方向とは90度ずれていたのでそちらに進むと、売店になっていてソフトクリームのオブジェが置いてある。ちょうど3時過ぎだし、ソフクリで休憩もよかろうと思って入ってみる。

ところが、ここにいたのが先ほど本堂で大声を出していた雑談じいさんである。しまったと思ったがもう遅い。おまけに、出てきたのはソフトクリームではなくアイスクリームだったので、ちょっとがっかりする。じいさんは今度は売店の人に大声で話しかけている。内容を聞いていると、この寺のOBか、あるいはかつて出入りしていた業者らしく、寺の内情に詳しい。

こういうじいさんに先輩顔してたびたび来られたら、相手する方はたまったもんじゃないよなと思っていたら、今度は矛先がこちらに向かってきて、「どこから来た」だの「今日はどこに泊まるか」だの、うるさく聞いてきた。

和顔施(わがんせ)といってこういう場合もおだやかに対応するのがお遍路の心得とされるが、それをいいことに傍若無人にふるまうような者にやさしくできるほど人間ができていないので、いい加減に答える。こいつは相手にならないと思ったのか再び売店の人に、「今日は泊まりか」などと話かけていたから、ここで時間をつぶすべく強く決心しているのであろう。

WEB情報によると、お遍路目当ての詐欺などもあるそうだ(送ってやるというので車に乗せてもらったら白タクだったというような)。これはお遍路側にも非常識なことをする奴もいるのでどちらが悪いとも決められないが、お遍路だからといって関わり合いにならなくていいものにはならない方がいい。

お接待は断ることができないとか、お遍路はかくあるべきなどという予備知識に惑わされるよりも、普段の生活が常識的であり自分にも他人にも恥ずかしいものでないならば、自分で考えて判断しそのように振る舞うことに特に問題があるとは思わないのである。

[行 程]五番地蔵寺 12:55 →(3.8km) 13:50 泉谷橋・小柿休憩所 13:55 →(1.7km) 14:20 鍛冶屋原駅跡 14:25 →(1.4km) 14:50 六番安楽寺 15:15 →

[Nov 21, 2015]



竜宮城のような安楽寺山門。正面が本堂、右奥に見える屋根が宿坊。



境内に入ると、由緒ありそうな多宝塔がそびえる。その前の「厄除さかまつ」は、例によって弘法大師ゆかりの逸話がある。

七番十楽寺 [Sep 5, 2015]

六番安楽寺の北側に出る。この道はすでに県道12号線ではなく、交通量はそれほど多くない。安楽寺の敷地に沿ってしばらく道なりに歩く。

宿坊の裏にはボイラーのような施設が見える。温泉山安楽寺の宿坊は山号通り温泉なので、その施設かと思われる。ここに泊まると、大浴場があるというのは大きな魅力であるが、この日の泊まりを七番としたのは、まるでビジネスホテルという宿坊が楽しみだったのと、少しでも先に進んだ方が翌日の行程が楽だということが大きな理由であった。

安楽寺の敷地を過ぎると道路は狭くなり車のすれ違いが困難となるが、遍路道はそこからさらに右左と折れて細い道に入る。「昔からのへんろ道」と書いてある。低い家並みの農家が続くが、しばらく歩くと周囲を圧する鉄筋の建物が見えてくる。あれが噂に聞くビジネスホテル宿坊に違いない。

六番と七番の間は1.2km、20分も歩くと着いてしまった。山門は六番同様に竜宮城のようだ。実は六番も七番も(他にもこのあたりの札所の多くは)戦国時代に長宗我部軍の攻撃で焼けてしまい、江戸時代になって再建された。この門は中国・明時代の様式で、そのものずばり竜宮門と呼ばれる。江戸時代初めは明朝末期にあたり、当時流行の建築様式だったということだろう。

光明山十楽寺(こうみょうさん・じゅうらくじ)。弘法大師空海の開山とされるが、1687年の真念「四国遍路道指南(みちしるべ)」では、「十楽」という寺名は極楽十楽から採っているとある。本尊が阿弥陀如来でもあり、浄土思想の影響を受けた霊場であることは間違いなさそうだ。

源信の往生要集によれば、阿弥陀如来の浄土である極楽浄土には、聖衆来迎(しょうじゅうらいごう)の楽をはじめ十の楽しみがあるという。聖衆来迎とは、仏教画等でよく題材にされる、死ぬときに阿弥陀如来はじめ諸仏が迎えにくるというあのイメージである。

正面の本堂、石段を上がった大師堂に順を追ってお参りする。幸いに六番も七番も参拝者が少なくて、落ち着いて読経できたのはありがたかった。竜宮門の中にも何かの施設があるらしかったが、さすがに1日の終わりで少し疲れていたので早々に納経所に向かう。

さて、この日の予定はここまでである。時間をみるとまだ3時半、「うどん萌月」のご主人の言うとおり、ゆっくり歩いて十分間に合った。あるいは六番に至る経路で道迷いがなければ3時くらいには着いたかもしれない。ただ、次の八番熊谷寺までは4km以上あるので、早く着いたとしても行って戻ってくるのはちょっと難しかっただろう。

何しろこの日は午前3時起きで支度をして、5時の始発電車に乗ってここまで来ている。翌日も20km以上の長丁場が待っているし、ここは無理せず体を休める手だろう。

納経所は宿坊入口にあると書かれている。まずはご朱印をいただかなければならない。宿坊の入口を入ると、納経所へのガラス戸正面に「納経所内は撮影禁止です」と書かれている。撮影禁止はそうかもしれないが、そんなことをことさらに書いてある札所はここまで記憶にない。少し不思議に思いながら中に入った。

納経所に座っている女性を見て本当に驚いた。すごい美人なのである。そう思ったのは私だけではないようで、後から探したら方々のサイトにそう書かれていた。やっばりカメラ小僧がいたのかもしれないなあ。気持ちは分かるけど。



六番安楽寺を過ぎると、交通量はぐっと少なくなる。道案内にしたがって「昔からのへんろ道」に入る。



低い木造の建物が続く中、見えてきたのが鉄筋4階建ての豪壮な建物。噂のビジネスホテル宿坊に違いない。山門は六番同様、竜宮城のようだ。

「雛には稀な」という決まり文句がある。ひなびた田舎には珍しいという意味で、少し引っ込んだところにいる美人を示す形容詞なのだが、十楽寺で納経していた女性は都会水準で見てもすごい美人であった。

お前は身近に美人がいないんだろうと思われるかもしれないが、三、四十年前はそれなりの会社にはそれなりの美人が必ずいて、「ミス△△」と呼ばれたものである。バブル崩壊以降、各社とも新卒採用をほとんどしなくなって、いまや受付も役員秘書も派遣社員が当り前である。建前上、派遣社員は顔で選んではいけないことになっている。昔は少しは柔軟だったが、現在では実務能力で選ぶのが常識となった。

加えて男女雇用均等法以来二十年が経過し、女性もきっちり仕事をするのが当り前の時代になってしまった。二十年といえば、ほとんど一世代の違いである。いまの女子社員は、昔、若手の嫁候補と言われた時代があったことを知らない。仕事よりも美容とか身だしなみに気を使っていられる時代ではなくなったのである。(私見だが、女性同士で仲間外れにならない程度の身だしなみにしているように思える)

私の記憶に残っている美人も、考えてみれば少なくとも15年、うっかりすると30年前までさかのぼる。15年くらい前の例だと某オリンピック委員会の方とか、某自治医大の方ということになるし、25年ほど前、太陽神戸銀行の本部にいた美人もすごかった。(家の奥さんも、それはそれは可愛らしかった。30年以上前だけど)

これまで六番札所まで納経所で筆を握っていたのは、中年のおじさんかおばさん、それかおばあさんというのが定石であった。さすがに四国八十八札所、奥が深い。うら若き女性の納経というのは、ここまで見たことがなかった。その上すごい美人である。あるいは「撮影禁止」を強調するのは、美人の納経風景を写そうという輩が多いせいなのかもしれない。

若いけれども達筆な納経が終わった後、「今日、宿坊を予約しているんですが、もう入れますか?」と聞いてみる。「入れますよ。こちらにどうぞ。」と宿坊入口の窓口を示される。入れ違いに納経の人が来たので、彼女はそちらに対応。宿坊受付と納経と、一人でこなしているようだ。綺麗なだけでなく手も早い。大したものである。

少し待ってそちらが終わると、宿坊の説明。B5用紙に注意書きがあって、それを説明してくれる。夕食は6時、朝食は7時、ともに1階の食堂。この日は大浴場はお休みなので、部屋のユニットバスを使ってください。コインランドリーは各階の北側にあります。そして申し訳なさそうに「明朝のお勤めはありません」

その言い方からすると、こちらのお嬢さんかお嫁さんなのかもしれない。緊張して(w)しまって聞くことができなかったので寺との関係は不明ながら、とにかくここ最近見たことのないくらいの美人であった。

エレベーターを上がると、廊下がすでにビジネスホテルである。カードキーを使って部屋に入ると、西側に向かって眺めが開けていてとても気持ちがいい。エアコン、TV、冷蔵庫も完備、電気ポットもある。唯一、無線LANが飛んでいなかったが、後から食堂に行ったらソフトバンクだけ通じていた。

かなり汗をかいていたので、白衣上下と速乾下着を脱いでシャワーを浴びる。ずいぶんとさっぱりした。持ってきた泊まり用のTシャツと半ズボンに着替えて、コインランドリーで今日着た白衣上下、速乾下着と汗みどろのタオルを洗う。洗濯機の横に、ニュービーズが置いてあった。



七番十楽寺の本堂と、左上が大師堂。澄禅「四国辺路日記」には、お堂は形ばかり残っていると書かれているが、江戸時代に入ってすぐに復興されたようだ。



宿坊入口。入口からまっすぐ進むと宿坊受付、右に折れて椅子が見えるあたりが納経所。この日は同じ人がやっていましたが、その方がまたすごい美人!でも撮影禁止。

洗濯を待つ間、気になる翌日の天気予報を探してTVをつけてみる。ところが驚いたことに、映る局はNHK徳島の他は本州の民放で、それも和歌山、神戸、大阪の局なので徳島県の天気予報までやらないのである。仕方なく、NHK徳島の天気予報を待つ。

ようやく始まった天気予報は、あまり芳しい結果ではなかった。気圧の谷が接近しており今夜から雨、翌日の降水確率は80%と言っている。ほぼ確実に雨が降りそうな形勢である。

洗濯・乾燥が終わって翌日の支度をする。乾燥時間は30分100円ですませたので乾くかどうか少し心配だったが、速乾白衣は熱くなるくらいに乾燥したし、タオルも心地よくふわふわになった。そうこうしているうちに6時になり、「夕食の用意ができました。お客様は1階食堂にお集まりください」と館内放送が流れる。

夕食に集まったのは3人で、いずれも中年男のひとり遍路であった。給仕をしてくれるのはやはり中年の男女。男性は寺の人のようだったし、女性は食事専門のパートの方のようだった。

「ビールは缶もありますし、生もできますよ」とのことなので、迷わず生ビール。中ジョッキがキンキンに冷やしてあって、ビールを溢れるほど入れてくれる。料理はカツオのたたきがメインで、煮物の炊き合わせにはカニが入っているし、豆腐と何かのゼリー寄せ、それと山菜のお漬物などの付き出しである。

実はWEB上で、こちらの料理はおいしくないと書いてあったのでそのつもりでいたのだが、そんなことはなくたいへんにおいしい料理だった。カツオは冷えていて生臭さは全くなく、薬味に生姜と大蒜のすりおろしが付いているのも気が利いている。思わず生ビールをおかわりしてしまった。

もう一つ驚いたのは、ご飯が尋常でなくおいしかったことである。普段、東横インの朝食ばかり食べているせいかもしれないが、西日本で食べるお米はいつもちょっと物足りないのである。今回のお遍路も四国であるので、お米はそんなにおいしくないだろうという先入観があった。ところが、ちゃんとおいしいのである。

いまや日本全国どこへ行ってもコシヒカリを作っているから驚くにはあたらないのかもしれないが、四国はそこいら中にため池があるように水不足の本場であり、それほどおいしいお米が作れるとは思わなかったので本当に意外であった。

食事中は、おばさんと中年遍路3人組で情報交換会。もっとも話題になったのは十二番焼山寺のことで、日が短くなるこれからの季節は、例年行き着けない人が出て夜中に捜索ということになるのだそうだ。だから、できるだけ十一番藤井寺に近い場所に宿を取って、朝早くに出発すべきだというのがおばさんの意見であった。

印象的だったのは、何かのはずみで今日はすいてますねという話になったとき、「今年の春は忙しくて2、3日しか休みが取れなかった。お昼はお昼で団体さんの食事があって大変だった。」ということなので、全く経営が成り立たないということでもなさそうなので安心した。

それにしても、WEB情報には当てにならないのもあることだなあと思ったものでした。朝早かったので8時前には電気を消して寝てしまった。

[行 程]六番安楽寺 15:15 →(1.2km) 15:35 七番十楽寺(泊)

[Dec 12, 2015]



これが噂のビジネスホテル宿坊。看板に偽りなし。WEBに出ていますが、カードキーです。



この日の夕食。食堂は1階で、時々団体客のお昼も出すとのこと。これがまたおいしい。ビールも生があってジョッキも冷えてます。

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

四国札所歩き遍路  八番熊谷寺 [Sep 6, 2015]

前の日は8時前に寝てしまったので、翌朝は早く目が覚めた。とはいっても5時に起きるのはいつもと同じである。窓を開けて外の様子を見る。予報通り夜の間にひと雨あったらしく、屋根も道も濡れている。雨の朝のお寺というのはいい雰囲気である。ただ、いま現在は雨は降っていないようである。

普段ならネットでメールチェックやブログ記事の確認をする時間なのだけれど、残念ながらネットはソフトバンクしか通じていない。前日訪れた札所や道中の様子について忘れないようにメモをしておく。6時を過ぎてニュースと天気予報をチェック、6時25分からは家にいる時と同様にテレビ体操である。体操を終えると着替える。

天気予報が怪しかったので、登山用のモンベルレインウェア上下は用意していた。上は山野袋に入れていつでも出せるようにしておくとして、下はどうするか。道中で着替えられるところはまずないだろうし、安全策としては最初から着て行くのが無難かもしれない。そんなことを考えながら支度をしていると午前7時、朝食の時間になった。

夕飯同様、朝ごはんもおいしかった。実は生卵が食べられないので返すことが多いのだけれど、こちらのメニューはゆで卵で、半分に切ってサラダに乗っているのも気が利いている。さばの文化干し、味付け海苔、梅干しにたくあんもある。ご飯をおかわりしていただく。

ご飯をおかわりしたのは、お米がおいしかったことが一つの要因だが、もう一つ理由があって、この日の昼食を食べられないかもしれないと思っていたからである。

前の日に「うどん萌月」で話を聞いたところ、夕方に徳島まで戻るためには12時までに切幡寺を出なければ難しいとのことである。そして2時には藤井寺、3時前には鴨島駅に着いて徳島行きの電車に乗ることになる。そういうスケジュールだと、切幡寺までよほど早く着いていない限り、お昼を食べている時間的余裕がないのである。

そして、もし時間に余裕があったとしても、確実にお昼を食べることができそうな場所は切幡寺の周辺だけで、藤井寺への10km弱の間に食堂とかコンビニがあるかどうかよく分からない。そしてコンビニで食糧を調達できたとしても、雨が降れば食べる場所が心許ない。あれこれ考えて、いざそういう場合になっても大丈夫なように、しっかり朝を食べておこうという作戦である。

朝食が終わって7時半過ぎに十楽寺を出発。考えた結果、レインウェアの下はここから着て行くことにした。チェックアウトに昨日の美人がいないか気になったのだけれど、美人どころか誰もいなかった。ご用の際は内線XX番と書いてあるが、あえて呼び出して挨拶することもないので、誰もいない受付に「お世話になりました」と一礼して出発する。

ゆうべ窓から見えた道を西へ進む。しばらく行くと、遍路地図に載っている民宿、「天然温泉いしだ」が見える。新興住宅街のように区画整理されている中にあって、「公文」の塾兼住宅のような感じだったので、ちょっとイメージが違った。天然温泉というから、野中の一軒家を想像していたのだ。

八番熊谷寺まで遍路地図によると4.2km。はじめは徳島自動車道と並行して走る一般道を歩いていく。時折り歩いている横をトラックが通るのは、高速道路に入る車なのだろうか。



朝起きてみると、夜の間にひと雨あったようで道は湿っている。ただ、いまのところ雨は降っていない。



十楽寺宿坊の朝食。夕食と同様においしい。豆が見えるが、納豆ではなく煮豆。お味噌汁は席に着くと温かいのを用意してくれる。

高速道路を越えたところで、道路は山の方向へと大きくスライスしている。念のため遍路地図を確認しようと思って見てみると、何ということか、遍路道は高速道路よりずっと南を通っていて、いま歩いている道は車で八番に行く場合のルートだった。どうしようかと思っていると、やはりこの道を歩いてきた、昨日七番に泊った単独行の人が追い付いてきた。

「どうしました?」と聞かれたので、「へんろ道とちょっと違うみたいなんですよ」と遍路地図を見せる。「ああ本当だ。でも方向あってるし大丈夫でしょう」と特に気にする様子もなく先に行ってしまった。

確かに、遍路地図の赤線コースではないものの、いま歩いている道をそのまま進んでも熊谷寺に行き着くことは間違いなさそうで、前日の鍛冶屋原のケースとは違う。やっぱり推奨コースにしようかなと少しだけ考えたが、結局そのまままっすぐに進む。

高速インターへの入口を抜け、日帰り温泉「天然温泉御所の湯」の前を過ぎると、行く手には緩やかな曲がり角とその先の登り坂が見える。登った先が熊谷寺ならいいけれども、登った分だけ下りる道だったら嫌だなと思っていたら、その通り登って下りるだけの道だった。ただ、高くなった分景色がいい。向こうに見える山との間、吉野川に沿って広がっている街が、鴨島の市街地のようである。

鴨島は、吉野川に沿って開けている町である。街の向こう側には、幾重にも重なった稜線が見える。あのどれかが、いずれ歩くことになる焼山寺の遍路ころがしであろう。四国はそれほど広くない割に高い山が多くて、祖谷(いや)山など秘境とされる村も残っている。あの稜線をずっと奥までたどると、祖谷山に至るはずである。

さて、雨に備えてレインウェアの下を着てきたのだけれど、空は明るいし今すぐに降り出しそうな様子でもない。降水確率は午前中で80%、午後で70%というから雨降りを覚悟していたのに、午前8時のこの段階では山もきれいに見えていて、雲もまだ高い。予報によると午後から南風が強くなるということだから、雨雲は南の山を越えてくると思われる。

一方で、レインウェアの下は通気性があまりなくて、汗ばんでいるのが分かる。前の日に履いていた軽装白衣がメッシュが入っていて軽快だっただけに、べとつくのが少し気になる。十番切幡寺を過ぎると10kmの長丁場となるので、そこまでに着替える場所があればいったん着替える方がいいかな、と思う。

ずっと車道を歩いてきたため、熊谷寺に近づくと歩道がなくなってしまう。車用の「熊谷寺→」の道案内に従って進んでいるのでいずれ着くことは間違いないれども、なんだか遠回りをしているような気もする。大きな通りから側道のようなところを通り、再び大きな通りに出て登り坂を上がったところがようやく熊谷寺だった。



車道ルートを歩いたせいか、道は広いのだが山を突っ切るのがやや厳しい。正面左に見える丘を越えていく。この時点では天気は曇り、山も見えていた。



丘の上から鴨島市街を望む。南に見える稜線のどれかが焼山寺に向かう道と思われる。空はこんな感じで、雨はまだ大丈夫そうなのだが。



歩くこと1時間で熊谷寺に到着。札所にもいろいろあるが、ここは規模の大きい方で、この先に大駐車場がある。

普明山熊谷寺(ふみょうさん・くまだにじ)、弘法大師空海の開山と伝えられる。普明山の山号は、大般若経、大宝積経などに登場する普明菩薩に由来すると考えられる。「熊」谷寺の寺号は、深い谷にあるこの地で弘法大師が修行していた際、紀州から「熊」野権現が現れたことによるものであると言われている。「くまがい」と読みそうになるが、正解は「くまだに」である。

五来重の「四国巡礼の寺」では、熊谷寺のご詠歌(札所それぞれにある和歌で、その寺の由来・功徳などを詠んだもの。独特の節回しで詠まれる)に入っている「薪とり」「水汲み」「難行」という表現から、修験道由来の霊場であると考察している。本尊が千手観音であることも熊野那智大社と同様であり、古くから千部法華会という法華経の行事があったことも修験道との深い関わりを表しているとのことである。

現代では法華経というと日蓮になってしまうが、鎌倉時代以前には法華経は修験者のお経で、後白河法皇の編纂した「梁塵秘抄」にもそういう内容の歌(今様)が残っているそうだ。また、この日は確認できなかったが、山の上まで登るとはるかに海を臨むことができることから、海洋信仰(補陀落信仰)の霊場でもあったという。

広い駐車場の向こうから、朗々たるご詠歌が聞こえてくる。朝のお勤めだろうかと参道の方へ声の出所を探して歩いていくと、音が出ているのは木の陰にあるスピーカーからだった。

ご詠歌のスピーカーから先は、道がいくつかに分かれているのでちょっと迷う。いちばん広くて登り坂になっている道が参道だろうと見当をつけて進むと、道なりに石段に至る。こういうケースは石段の上が本堂でほぼ間違いない。

石段を上がったところに本堂と大師堂がある。この日初めての読経である。まだ9時前と早かったため、静かに読経することができた。大師堂の読経が終わって引き上げる時に、中年のおばさんとすれ違った。このおばさん、本堂、大師堂だけでなく、弘法大師の銅像やら何やら、施設という施設の前で「南無大師遍照金剛」と繰り返し唱えていた。何かお願いすることがあるのだろう。

納経所は石段を下りて入口方向に戻り、大駐車場の脇にある。中年の男性が2人で納経していた。WEBによるとここの納経所の対応は冷たいとのことだが、余計なことを話さないだけで私にとっては当り前の対応である。ただ、トイレへの出入り口が納経所の中にあるので、ちょっとお借りしづらいところはあるかもしれない。

ご朱印をいただいた後、トイレをお借りしてレインウェアの下を速乾白衣に着替えた。トイレの中はさほど広くないので、リュックを下ろして中から荷物を出し入れするのも着替えるのにもちょっと窮屈だった。しかし着替えてみると、湿気が内にこもるレインウェアに比べて、速乾白衣は断然涼しい。雨が降ってこなければこの方が絶対にいい。

身軽になって、次の九番までは遍路地図によると2.4km、38分の行程である。この日の札所4ヵ所の中で、最も短距離であり、かつ下り坂なので歩きやすい。大したことはないだろうと思って高をくくっていたのだけれど、今回の遠征で最大の窮地に陥ってしまうのだから恐ろしいことであった。

[行 程]七番十楽寺 7:35 →(4.2km) 8:30 八番熊谷寺 8:55

[Jan 2,2016]



熊谷寺の大駐車場。納経所はこの手前にある。本堂・大師堂は中央に見える多宝塔のさらに奥に進む。



石段を上がった先にある大師堂。まだ早い時間なので、静かにお参りできました。

九番法輪寺 [Sep 6, 2015]

八番熊谷寺から九番法輪寺までの間については、実はほとんど記憶がない。というのは熊谷寺を出てトイレに行きたくなってしまって、法輪寺までの間それどころではなかったからである。

腹部に違和感を感じたのは熊谷寺を出てすぐなのだが、下り坂の2.4kmだから30分もあれば着くものと思って悠長に構えていた。しばらく歩いて大きな通りに突き当たり、信号待ちをしている頃にはちょっと具合が悪くて、進行方向左にある土成役場に寄って行こうかなと思った。

ただ、この日は日曜日である。特に地方の役所の場合は首都圏と違って日曜日はきちんと休むはずで、何百mか歩いて無駄足というのはショックが大きいと思った。次第に腹痛もおさまってきたので、30分くらいはもつだろうと思って先を急いだのだった。

ところが、法輪寺までの道のりは思いのほか長かったのである。道標にしたがって大通りから細い道へ、さらに区画整理された直線道路へと進むのだが、残り1.5km、1.2km、0.8kmとなかなか縮まってこないのである。

だんだん腹に差し込むような痛みが走るようになる。おさまってはまた差し込む。まずいなと思う。まっすぐの道の向こうにある森が目的地だといいなと思っていると、幸いにも森の前の広場が九番法輪寺の駐車場であった。

そそくさと山門をくぐり、トイレを探す。本堂の前、納経所の建物にあるようだ。奥でなくてよかった。急いで男子トイレに駆け込む。なんとか助かった。

落ち着いて見てみると、広くてきれいなトイレである。札所のトイレにもいろいろあって、必ずしもきれいなトイレばかりではないが、この時ばかりは助かった。和式しかなかったけれども、そんなことに文句は言っていられない。入るときには気付かなかったが、入口に「浄財」と書いた小さな賽銭箱が置いてある。この非常時に大変ありがたかったので、志を納めさせていただいた。

トイレのすぐ奥が納経所だったので、せっかくなので先にご朱印をいただく。「納経はなさいましたか?」とか聞かれたらどうしようと思ったけれども、やさしそうなおばさんだったので特に何も言われなかった。六番安楽寺でもそうだったが、配置的に遠回りになるときには納経の順序にこだわることはないのかもしれない。

それにしても、2.4kmだからよかったようなものの、札所間が5kmも10kmも離れていたら悲惨なことになるところだった。お遍路においては、食べ物や水の用意よりも体調管理が大切だということが身にしみてよく分かった。



ようやくたどり着いた法輪寺の山門。この2.4kmには参った。

正覚山法輪寺(しょうがくさん・ほうりんじ)。かつてこの寺は現在より4km北、熊谷寺よりさらに山奥にあったという。戦国時代に全焼し、江戸時代初期の「四国辺路日記」「四国遍礼霊場記」には荒廃しお堂だけが残っていると書かれている。江戸時代に入って現在の場所に再建され、これまでの白蛇山法林寺から正覚山法輪寺に山号・寺号を改めて今日に至るという。

五来重氏の「四国遍路の寺」では、法輪寺の寺名そのものが「転法輪」(釈迦が悟りを開いて教えを広めたこと)から採られたと考えられること、本尊が札所の中では珍しい釈迦如来であることから、法華経と修験道(山岳修行者)との関係を示唆している。あるいは、五百羅漢を有する五番地蔵寺と同様、仏教復古主義の影響があるのかもしれない。

抜き差しならない腹痛から解放され、ようやく落ち着いて境内を見回してみると、結構コンパクトに建物がまとまっている。納経所のすぐ横に本堂があり、本堂の右側、納経所の向かいにあたるところに大師堂がある。

トイレに行った際、先にご朱印をいただいてしまったので、境内を掃除している巫女さんに見とがめられているような気がする。本当は、本堂・大師堂にお参りしてからご朱印をもらわなくてはいけないんだよなあ、と思う。ん?なんでお寺に巫女さんがいるのだろう。まあ、細かいことは気にしないことにしよう。

さて、この法輪寺についてもう一つ気になることがある。納経の際に「お姿」つまりご本尊の絵をいただけるのだが(じつはその意味がしばらく分からなかった。ご本尊は通常、公開していないのである。)、この法輪寺のご本尊は、「お姿」によると釈迦涅槃像なのである。釈迦涅槃像自体わが国では珍しいし、まして札所のように長い歴史のある寺院であればなおさらである。

にもかかわらず、江戸時代初期の「四国遍路道指南」「四国遍礼霊場記」には、法輪寺のご本尊は高さ一尺五寸(霊場記では一尺八寸。いずれにせよ40~50cm)の釈迦如来座像と明記されているのである。さらに、この座像は弘法大師御製とさえ書かれている。

「道指南」等の記事が本当だとすると(少なくとも真念が江戸時代に何十回もお遍路したときはそうだったということだ)、2つのことが分かる。一つは、法輪寺のご本尊は江戸中期以降に座像から涅槃像に入れ替わったということ、もう一つは、本当に弘法大師御製のご本尊だとすれば簡単に入れ替えはできないはずだから、おそらくそうではなかったということである。

まだ結論を出すのは早い。八十八札所を回り、あわせて勉強を進めていく中で、自分なりの答えが出てくるのではないかと思っている。

この日2ヵ寺目、今回の遠征で6ヵ寺目となる納経で、かなり慣れてきた。大師堂のお参りが終わって、屋根のある休憩ベンチで一息ついていると、細かな霧雨が降ってきた。

上はともかくレインウェアの下を着替えるのは面倒だなあと思っていると、5分も経たないうちに止んだ。空を見上げるとまだ雲は高い。これから十番切幡寺までは3.8kmと距離はさほどではないが、登り坂もあるし寺に入ってから何百段もの階段があるという。大雨になったら難儀だが、何とか天気は持ってくれそうである。

変に急いでちょっとのどが渇いたので、山門前の売店で牛乳を1本いただく。十楽寺宿坊の朝ごはんはとてもおいしかったのだけれど、牛乳がなかったので飲みたくなったのである(私は普段朝はパンとコンフレークなので、牛乳がないとさびしい)。腹痛のすぐ後で冷たい牛乳というのも大胆だが、なんだか大丈夫そうだったし、実際にこの後腹痛を起こすこともなかった。

[行 程]八番熊谷寺 8:55 →(2.4km) 9:20 九番法輪寺 9:50 →

[Jan 16, 2016]



法輪寺境内。正面が本堂で、左側自転車の向こうの建物が納経所。もちろん先に納経所に飛び込んでトイレをお借りしました。



山門を出たところ。右側の建物が茶店になっていて、ここで牛乳を飲んでようやくひと息つく。法輪寺を出た頃から、雨が降ったり止んだり。

十番切幡寺 [Sep 6, 2015]

急な腹痛から解放され、ようやく落ち着いて歩くことができるようになった。十番切幡寺までは3.8km、距離だけみると1時間かからないくらいだが、最後に長い登り坂と階段があるという難所である。

道の両脇は水田が目立つようになって、農家の庭先にはトラクターが置いてある。まさに田園地帯という雰囲気である。しばらく歩くと、右手に大きな駐車場のあるお寺さんがあった。看板を見ると浄土真宗なので、札所ではない。札所ではなくても、これだけ大きなお寺さんがあるのだなあと思って見ていると、道を挟んだ向かいにある小さなお堂が小豆洗い大師であった。

この小豆洗い大師、四国地区のあちこちにある弘法大師の水利伝説の一つである。これまでも三番金泉寺など大師が杖で突いて出したという井戸があったが、ここもそうである。

四国はあちらこちらにあるため池が示すように、水の便の得にくいところであった。また、ここ二十年くらいでも何回か渇水という事態があり、降らない時には全く雨が降らない。阿波地域は吉野川があるので瀬戸内より恵まれているものの、こうした伝説が多く残されているということは、水利にはかなり苦心があったようだ。

弘法大師は建築や地学にも造詣が深かったようで、讃岐・満濃池の整備では政府から現場監督として派遣されている。だからダウジングくらいはできたかもしれないが、これだけ水利伝説の数が多いとちょっと疑わしい。何しろ空海は遣唐使以降は有名になってきわめて多忙となり、四国にそうたびたびは来られなかったからだ。

小豆洗い大師を過ぎてしばらくは住宅街だが、しだいに家はまばらになり右側は斜面になる。林の中に看板が立てられている。細かい字で読みにくいので少し近づいて見てみると、「秋月城跡」と書いてあった。

説明書きを読むと、ここに室町時代勢力のあった秋月氏の居城があったとのことである。戦国時代に長宗我部氏との戦いで敗れ、四国全域が長宗我部の勢力圏となった。そういえば、このあたりの札所の多くは戦国時代に一度焼かれているのだけれど、それは秋月氏をはじめとする阿波の勢力と長宗我部氏の戦いによるものだったのである。

秋月城跡を過ぎてしばらく歩くと、山の方向、北に向きを変えるよう道案内がある。これまでの片側一車線の道路から、車一台ようやく通れるくらいの狭い路地で、ここから十番切幡寺まで長い登り坂となる。

この道路、道幅は車一台ようやく通れるくらいの狭さなのだが、よく見ると左右に民宿がある。ただ、「本日6000円」の看板も裏返っているし、玄関口には 「本日お休みさせていただきます」と書いた紙がセロテープで貼ってあったりする。本日だけではなく、ここしばらく営業していないように見える。あるいはシーズンのみの営業なのだろうか。

さらにお土産屋さんと思しき間口の広い家には、シャッターが下りている。この日は日曜日で、もうすぐお昼である。この時間にやっていないということは、多分朝からやっていないのであり、平日もやっていないと思われる。

家並みの最後に、1軒だけシャッターを開けているお店があった。WEBでよく見るところの「スモトリ屋」である。看板にお相撲さんの絵が描いてある。店の 人はいるのだけれど、店番をしながら、子供なのか孫なのか小さな女の子と遊んでいる。私以外に通る人もいないが、いずれにしても店の外に注意を 払っている様子はなかった。

察するところ、ここが切幡寺の門前町なのである。WEBで事前に調べたところでは、この門前町で時々お接待もあるらしいのだが、とてもそんな雰囲気ではなかった。とにかく人通りがないし、店も開いていないのである。



浄土真宗の大きなお寺さんの前、通りを挟んで反対側に地味に建っている小豆洗い大師。弘法大師が祈願して水が出たという逸話がある場所は、阿波には結構たくさんある。



ここで大通りから北に方向を変え、切幡寺の門前町に入る。車のすれ違いはできない細い道で、左右の店や民宿もやっていないところが多い。

話は変わるが、四国遍路が盛んになったのはここ2、30年だという記事を見ることがある。もちろん、現地の人には現地なりの感じ方や考え方があると思うけれども、個人的にはこの主張にはあまり賛成できない。その大きな根拠が、こうした門前町の衰退なのである。

私の住んでいる千葉県でも、以前は繁栄していた門前町がここ何十年で急激にさびれてきている。成田山だって、50年くらい前は京成の駅から新勝寺までずっと商店や食堂、土産物店が続いていたが、いまは新勝寺の石段下にかたまってあるくらいだ。

露店も年末年始でもないと店を畳んだままである。名前はあげないが他にも地図に名前の出ているお寺や神社で、昔営業していたと思われる店が廃墟になっているところは多い。

戦後まもなくから高度成長期まで、庶民の数少ないレジャーが寺社詣でだった。いまならテーマパークやイベントやさまざまなグルメがあるけれども、当時は映画とかデパートめぐりがレジャーの中心だった。そのうちの一つが江戸時代から伝統のある寺社詣でである。そして、1970年代以降これらの産業はずっと右肩下がりで、今日では斜陽産業化している。

まだ自家用車もあまり普及していない時代、みんな国鉄や路線バスを利用してお寺さんお宮さんにお参りした。みんな歩きなので必然的に門前町を通るし、時間がかかるから食事もしなければならない。主要駅では必ず駅弁とお茶を売っていたし、食堂のニーズも今とは比べものにならないくらい大きかった。

さかのぼって明治時代の状況を、宮本常一の名著「忘れられた日本人」から引用してみる。

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女の組はわしらばかりでなく、ずいぶんよけいまいておりました。まいているのは豊後の国の者が多うて、わしら道々何ぼ組も豊後の女衆にあいました。お互いに名乗りおうて、それからは二、三日いっしょにあるく、そのうちに何かの都合ではなれて、ほかの組といっしょになるというように・・・。

わしら金も持っておらんので、阿波の国と土佐の国の境まで歩いて、また戻って来ました。歩く分には宿には困ることはありませだった。どこにも気安うにとめてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食うものも十分にありました。
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これは、昭和初期に宮本常一の郷里である周防大島で老女から聞き取り調査したもので、明治時代初めのことである。その当時、世の中のことを知らないで家の中ばかりにいたのでは嫁のもらい手もなかったということで、新聞もラジオもない時代だから他の土地に行くことが推奨されたようである。

江戸時代に高野山の僧・真念が「四国遍路道指南(みちしるべ)」を上梓した頃、すでに八十八札所は成立していた。江戸の人々は成田山や丹沢大山、伊勢神宮、善光寺、出羽三山などにお参りしたが、京都大坂からは高野山や熊野三山、四国札所にお参りする例が多かった。

ちなみに、八十八札所をバスで順繰りに回ろうという「遍路ツアー」は近年になって出てきたものではなく、戦前からあった。もちろん、その頃の札所を実際に見たことはないのだけれど、昔よりも現在の方が札所回りが盛んであって、人が多くなったとはどうしても思えないのである。

最近でも、札所周辺の民宿が次々と廃業している(一番霊山寺の民宿阿波や、二十一番太龍寺の坂口屋も)。車遍路の増加も一つの要因ではあるけれども、札所にお参りする人の絶対数も減少しているのではないだろうか。

十番切幡寺に話を戻すと、遍路道はスモトリ屋の前を通って、再び徳島自動車道の高架下をくぐる。すでにかなりの傾斜があるので、歩くのに骨が折れる。寂しい門前町の後は、舗装はしてあるものの草むらの間を通るひと気のない道である。女性に人気の札所というのでもっと華やかなところを予想していたけれど、ちょっとそういう雰囲気ではない。

坂道の先に、ようやく山門が見えてきた。山門の先には川が流れていて、小広い境内になっており、その脇から急な階段が立ち上がっている。全部で三百三十段と書いてある。息をきらせて、最初のシリーズを登り切る。降ったり止んだりしている雨が、このあたりで勢いを増してきた。折り畳み傘を開く。第二シリーズが始まる。胸を突くような急勾配の登りである。



門前町から高速をくぐり、さらに坂道を上がってようやく切幡寺の山門が見えてくる。



山門からさらに坂を上がって、ようやく噂の石段にたどり着く。これは三百三十三段のうち百段くらい登った後の二つ目のシリーズ。さらに上に「女やくよけ坂」「男やくよけ坂」が続いてようやく本堂。

得度山切幡寺(とくどさん・きりはたじ)、この寺も弘法大師空海の開山と伝えられる。この地で修行していた弘法大師が、ほころびた僧衣を繕うために機織りの娘に布きれを所望したことが由来とされる。

たいへん感謝した弘法大師が娘に何か望みはないかと尋ねたところ、実はこの娘は薬子の変(平安時代初期の政変)で罰せられた貴族の子供で、父母に代わって観音様をお祀りしたいという希望であったので娘を得度(出家)させたところ、娘はたちまちのうちに千手観音に変身したという。このため、女人成仏の寺とされる。

一方で、たびたび引き合いに出す参考文献、五来重「四国遍路の寺」によると、切幡寺の「幡」は機(はた)ではなく幣(ぬさ)のことであり、この寺で長く流水灌頂会(るすいかんじょうえ)があったことと合わせて考えると、水神信仰から発展した霊場ではないかと考察している。流水灌頂会は水難やお産による死者を供養するものであり、いずれにしても女性との関わりが深い。

さて、門前町の入口あたりからずっと続く登り坂はその傾斜のまま山門を過ぎ、境内を流れる川にかかっている橋を渡り、ようやく噂の長い石段にたどり着いた。

三百三十三段あるらしい。いずれにせよ、登らなければ仕方がない。最初の1シリーズを登るとお堂がある。手を合わせて次の石段に向かう。あと二百三十段。息を切らせつつ登ると、やや左に角度を変えて「女やくよけ坂」、続いて「男やくよけ坂」と登って、ようやく本堂エリアに到着した。

山の上なので、それほど広くないスペースに本堂、大師堂がある。奥の上の方に塔が見えるが、さらに石段を上がらなければならない上に時間が気になるので断念する。読経を終えて、階段脇の納経所へ向かう。ここでご朱印をいただけるのはかなりご年配の女性というWEB情報だったが、果たしてそのとおりだった。

このおばあさん、WEB情報によると、TVを見ながら納経するとか、挨拶の代わりにげっぷをするとか大変な評判だったのだが、幸い私の時にはそんなことはなかった。筆を握るとすらすらと三行の文字を書き、ご朱印を押してくれた。

時刻はまだ11時20分、前日に「うどん萌月」のご主人から聞いたタイムリミットである12時には余裕がある。とりあえずトイレへ。ここのトイレに行くには納経所の横、お寺さんの庫裏の横を抜けていく。庫裏は宿坊でもできそうなくらい大きかった。トイレの横からみると、庫裏のすぐ隣が駐車場となっている。お寺の関係者であれば、三百何十段の石段を上がらなくても車で来れるようだ。

ここから十一番藤井寺まで、10km弱の長丁場である。雨がぽつぽつ来ているのでレインウェアを着ける頃合いなのだが、残念ながらトイレも屋外だし、着替える場所がなかった。自動販売機とベンチがあったので、座って水分補給をしながら作戦を練る。

先ほどから雨が降ったり止んだりしているものの、速乾上下の遍路白衣は裏がメッシュなので全然べとつかず、湿った感もない。八番までレインウェアで歩いた際にウェアの内側が蒸気で湿ってしまったことを思うと、このまま行ってしまった方がいいのではないかという気もする。いよいよ本降りになってしまったら、そのときはそのときである。

いずれにせよ、本降りになる前にできるだけ前に進んでおかなければならない。11時25分に切幡寺の石段を下り始めた。

[行 程]九番法輪寺 9:50 →(3.8km) 10:50 十番切幡寺 11:25→

[Feb 6, 2016]



切幡寺本堂。左が納経所。納経所の奥(さらに左)に、宿坊ができそうなほど大きな庫裏、というかお寺さんの住居がある。



切幡寺大師堂。女人成仏の寺というので、もう少しにぎやかなお寺を予想していました。まあ、読経するにはひと気が少ない方が望ましいのですが。

十一番藤井寺 [Sep 6, 2015]

十番切幡寺から十一番藤井寺までは、およそ9.3km。遍路本のコースタイムで2時間40分という長丁場である。この間、吉野川を北から南に渡り、鴨島市内を抜けて山まで歩くと十一番藤井寺となる。名高い遍路ころがし、十二番焼山寺への山道は、藤井寺の境内からスタートする。

計画時点で迷ったのは、切幡寺から藤井寺に向かうか、それとも藤井寺は次回にして鴨島か阿波川島から徳島に戻るかということであったが、こればかりは実際に歩いてみないと分からないので、当日の体調をみて決めるつもりでいた。そういう含みもあって、帰りの時間が気になる夜の飛行機を止めて、この日は徳島泊まりとしたのであった。

切幡寺の坂を下り、再びスモトリ屋の前を通って門前町を抜け、さらに九番から歩いてきた通りを横断して先に進む。通りの南側にも商店があり、こちらの方がスペース的には広く取れているし駐車場完備である。

いまの世の中、駐車場がないと集客は難しいだろう。そんなことを考えながら歩いていると、今度は民家の壁沿いにベンチが置いてあって、マネキンのご遍路さんが長い脚を組んでいる。人形やらマネキンやら、いろんなものが置いてある町である。「ご自由にお休みください」と書いてあるが、十番を出たばかりで休むにはまだ早い。

住宅街を抜けさらに水田地帯を抜けていくと、彼方に金網に囲まれたエリアが見える。おそらくあれが遍路地図に載っているところの変電所であろう。変電所の前の通りをまっすぐ進んで吉野川を突っ切るのである。変電所のすぐ前に、2階建て木組みの遍路小屋がある。「空海庵」と書いてある。着替えるには都合がいいが、さきほど降っていた雨はいったん止んで空も明るい。まだ着替えはしなくてよさそうだ。

変電所を過ぎると、遍路地図に載っている大川スーパーの横を通る。この先コンビニがないようなのでお昼を調達するならここだと思っていたのだが、残念ながらシャッターが閉まっている。地方に来ると、土・日が休みの商店がよくあるのだ。幸いに自動販売機だけは特に探さなくても出てくるし、お腹もすいていないのでこのまま歩くことにした。

道の両脇は基本的に住宅が続く。時々出会う人に「こんにちは」と挨拶される。こちらも「こんにちは」とお辞儀をする。やっぱりお遍路だと分かる服装というのは、大切である。このあたり、小さな公園の脇のようなところに建てられたお遍路小屋をいくつか見かける。雨でも降ってきたら雨宿りには大変にありがたい。でも、いまのところはまだ天気が持っているので、降らないうちに目途をつけておきたい。

八幡という集落に入り、左右に神社やお寺さんが見えてくる。「トイレはこちら」という案内標識もある。おそらくお遍路用だろう。このあたりで、11番は右折という道案内が出てくる。遍路地図を見るとまっすぐ進むように見えるのだが、方向的には右に折れると吉野川らしいので右折する。工場や畑の入り混じった通りを進む。行く手が壁のようになっているところに出た。吉野川の堤防である。

案内表示は、堤防の階段を上がれと指示している。階段を上がると、広大な吉野川の河川敷が目に入ってきた。絶景である。ここまでの四国お遍路で、最高に広大な風景である。しばらくの間、眺めを楽しむ。反対側の階段で堤防を下りると、道は左右に分かれている。どちらに行くかちょっと迷ったが、直進する道の道端に「お遍路さんいつまでもお元気で」と書いた看板が置かれている。こちらが遍路道のようである。



切幡寺から下りてきたところに座っていたマネキンお遍路。「お休みください」と書いてあるのだが、休むにはまだ早い。



約1時間歩いて、吉野川の堤防を越える。堤防の上から中洲を望むとみごとな風景。



どっちに進むんだろうと迷っていたら、道端に「お遍路さんいつまでもお元気で」の看板が。

道は、吉野川に直交する方向にまっすぐ進んでいる。ほどなく、半分草むらに埋まったような細い舗装道路が見えてきた。これが有名な潜水橋で、北側の橋が大野島潜水橋、南側が川島潜水橋という。大野島は吉野川北岸、川島は南岸の地名で、現在は地続きだけれども、名前からすると昔は本当に島だったのかもしれない。

潜水橋とは徳島県で使われる言葉で、パンフレット等にもそう書かれている。他の呼び方として沈下橋、冠水橋などがある。いずれにしても川の水面近くに掛けられた簡易的な橋で、普段は使えるけれども増水時には水面下に沈んでしまうものを指す。舗装してあるくらいだから車も通るのだが、その場合、歩行者は路肩に退避しなければならない。

1車線しかないし、車なんてほとんど通らないだろうと思っていたのだが、その見通しは甘かった。農業用の軽トラックやら観光客と思われるセダンやら、結構通るのである。そのたびに、路肩に上がって通過するのを待つ。路肩から川まで遮るものはないので、よろけたらそのまま川に転落してしまう。ただし高さはそれほどでもないので、濡れるだけですみそうである。

大野島潜水橋を渡った先の中洲は農地になっていて、道の両側には水田や畑が広がっている。中洲だけあって区画が広い。私の住んでいるあたりもちょっと歩くと利根川の中洲なので、よく似た風景だと思った。

それよりも身に迫った問題は、雨が本降りになってきたということであった。十番切幡寺では見えていた南側の山並みも、雲が張り出して山頂の方は見えなくなっている。山自体も灰色に見えるのは、おそらくそのあたりでは雨が激しく降っているものと思われた。予報どおりとはいえ、さすがにがっかりする。

たたんだり出したりしていた折りたたみ傘は、この頃から差しっ放しになる。できればレインウェアに着替えたいのだけれど、さっきまでは頻繁に見えていた遍路小屋が全く出てこない。私の前200~300mを歩いていた単独行の男性も、大きな木の下で雨宿りしつつ、レインウェアに着替えていた。

風はそれほど強くなかったが、さえぎる建物もなく見渡す限り数百m以上休むところはない。こういう場合、見通しが利くというのもかえって精神的につらい。傘をかかえてひたすら歩くだけである。汗を拭くために用意していたタオルは、顔に当たる雨を拭いていたらずぶ濡れになってしまった。唯一の救いは速乾白衣の裏地にメッシュが入っていることで、この雨の中でも肌にまとわりついたりしないのは助かった。

北側の大野島潜水橋から20分歩くとようやく道が左カーブとなり、南側の橋である川島潜水橋が見えてきた。大野島潜水橋では川の水はそれほど見えなかったが(下の写真)、川島潜水橋の下は結構な川の流れがある。こちらの潜水橋も、路肩の脇には何もない。ちょうど橋の中ほどで対抗車が来る。慎重に路肩に上がってやり過ごす。

潜水橋を渡り終わり、堤防を上がったところにWEBでもよく出てくるお遍路小屋が見えた。どうせなら、潜水橋の前にあればよかった(ぜいたくを言ってはいけない)。



吉野川北側の大野島潜水橋。増水したら沈んでしまうが、沈んでも大丈夫なように余計なものはついていない。



雨が本降りとなる中、中洲に作られた農地を延々と歩く。すでに雨は本降り、雲の流れも速い。

堤防の上にあるお遍路小屋まで行ってみる。「1泊に限り宿泊可」と書いてあるが、トイレは付いていない(石垣に沿って公園まで上がるとトイレがあるようだ)。隙間が多くて雨が吹き込んできそうだし、小上がりになっている場所はそれほど広くない。

もちろん野宿するよりはましかもしれないが、こだわるのでなければ、宿を探すなり近くの阿波川島駅から徳島に向かった方がいいかもしれない。川島潜水橋を渡り切ると雨も小降りになり、空もいくらか明るくなったようだ。でもまだ傘は必要である。遍路小屋からは川沿いを離れて、斜めに住宅街に入る。

住宅街ではあるが遍路道でもあるようで、約100m間隔で電柱に遍路シールが貼ってある。見晴しの利く川の中洲を歩くよりも、立て込んだ住宅街を歩く方が疲れないように思われる。逆でもいいような気がするのだが、人の気配がある方が安心するのだろうか。

すでにお昼を過ぎてそろそろお腹がすく頃だったのだが、吉野川を横断するあたりからスイッチが入ったというのか、体が熱くなって休むのがもったいないような気がした。朝もしっかり食べてきたので、すでに十番切幡寺から5km以上、朝から20km近く歩いているにもかかわらず、空腹感もなかったし疲れも感じなかったのは不思議であった。

進路はやや右にスライスしながら、住宅街のゆるやかな坂を登って行く。車が行き来する音が大きくなると、片側2車線の太い道路に出た。国道192号線である。国道に出たところが自販機ステーションになっていて、プラスチック製のベンチが置かれている。

自動販売機をみると、私の大好きな「桃の天然水」が置いてある。昔、華原朋ちゃんがCMをやっていたロングセラー商品なのだが、コカコーラ系でないのであまり売っている自販機がないのだ。「桃天」を見た途端、のどが乾いていたことに気が付いた。ここに来るまでは自販機を見ても買おうとは思わなかったのに、妙なものである。

この自販機ステーションで5分ほど休む。時間は午後1時を過ぎたばかりで、このペースでいけば十一番藤井寺を打って鴨島まで歩いても、4時前の徳島行き電車には間に合いそうである。計画段階から十一番をどうするかペンディングにしていたが、行くことに決定し、藤井寺に向けて再び歩き始めた。

鴨島駅に向かうにはこのまま国道を直進するが、藤井寺へは右斜めの道に入る。この分岐は、自販機ステーションのすぐ先だった。藤井寺への道に入ると交通量は一気に減り、おまけに雨も止んでくれた。

ああよかったと傘を振って雨粒を払っていると、折りたたみ傘の柄が、がくんと折れ曲がってしまった。軽くて持ち運びしやすい折りたたみ傘なのだが、こんなに簡単に折れるとは思わなかった。いま現在は止んでいるとはいえ、いつまた降ってくるか分からないのでたいへんにあせった。

ここから藤井寺への最後の登り坂まで2km弱あったのだが、歩きながら傘を直すのに必死であまりよく覚えていない。なんとか曲がった柄をまっすぐに直したものの、折りたたむことができなくなってしまった。ただ、ともかく雨が降ってきたら差せる程度には復活させることができた。

いよいよ道は山側に右折して、残りあと500m。ここで道標の示す方向が2つに分かれる。右に進むと歩道、左に進むと車道とある。左へ進むと遠回りになるような気がして、右に進んでみる。

ところが、ここから傾斜が一段ときつくなる。坂の上の方で住宅もなくなり、あたりは山林、舗装道路だったのに登山道になってしまった。おまけに、登山道を登った後は急坂の下りである。ずいぶんと、余計な高さを登ったような気がする。もしかすると、車道を行くのが正解だったかもしれない。

最後は石段になって、いよいよ藤井寺の境内に近いようだ。廃屋のように見える民家の軒先を抜けて、駐車場の脇に出た。9.3kmを歩き切って、ようやく十一番藤井寺である。



吉野川を突破、川島潜水橋上の堤防の上から、来た道を振り返る。この時点ではまだ雨、傘を差しながらの撮影。



いったん雨が止んで、藤井寺への住宅地を急ぐ。このあたりでは、壊れた折りたたみ傘のことで頭が一杯。

金剛山藤井寺(こんごうさん・ふじいでら)、八十八札所のほとんどは弘法大師の真言宗だが、ここは浄土宗の寺院である。

このあたりのいくつかの寺と同様、戦国時代に一度焼失しており、江戸時代に臨済宗の南山国師が再興したことから臨済宗となったものである。開山は弘法大師と伝えられ、大師42歳の厄年に八畳敷の大きな岩の上に「金剛不壊」といわれる護摩壇を築いて修法され、お堂の前に五色の藤を植えたという故事から、金剛山藤井寺の名前となったと伝えられる。

臨済宗の寺なので何か違いがあるのかと思っていたのだが、他の寺と同様に大師堂もあるし、見た感じでは違いが分からなかった。それよりも困ったのは、藤井寺に着く頃からいよいよ雨が本降りになってしまったことである。

あたりが暗くなって、これは止みそうにないとあきらめざるを得ないほどの本降りである。やっとの思いで読経を済ませ、納経所でご朱印をいただく。次回のために十二番焼山寺への入り口を見ておきたかったのだが、探す余裕もないほどの大雨となってしまった。

ただ、時計をみるとまだ2時である。鴨島駅までは下り坂でもあり30分あれば余裕だろうとみていたので、予定していた徳島駅の電車には間に合いそうだった。十番切幡寺からトイレに行っていなかったので探すが、境内では見つからない。あきらめて山門を出ると、駐車場のところに大きなトイレがあった。

この後、鴨島までの歩きは雨との戦いだった。半分壊れた折りたたみ傘なので短く持たなければならず、雨は容赦なく白衣を濡らす。地図を見る余裕もなく、ともかく歩く。途中で、WEBで有名な「旅館吉野」の前を通る。なるほど藤井寺までは10分かからないくらいで、ここに泊まると焼山寺道がかなり楽になりそうだ。

大きな通りに出るたびにそろそろ駅と思うのだが、まだ着かない。「駅前商店街南」のバス停が出てきた時には行き過ぎてしまったかと思った。これは遍路地図が北を上にしていないために生じた誤解で、藤井寺から鴨島駅まで遍路地図では右方向なので東に歩くと思い込んでいたら、この部分、遍路地図の右は北だから、商店街南は駅に向かう途中なのである。

鴨島駅に着いたのは2時40分。けっこうぎりぎりになってしまった。それでも、10分ほどの余裕はあったので、そんなにあせることもなかったのだが、雨の中なので荷物から時刻表のメモを取り出して確認する手間を惜しんでしまったのであった。

かなり濡れてしまったので、電車を待ちながらベンチに座って白衣や荷物を拭いていたら、わざわざ隣にじいさんがやってきて、あれこれ話し始めた。最初は穏当に受け答えしていたのだが、次第に「遍路はかくあるべし」「人生とはこういうものだ」というような話をこちらの返答とは関係なく始めるのである。

前にも書いたように、お遍路なので「和顔施」をすべきであるとは思っているが、誰の相手でもしなければならないとは思っていない。それは違うという人がいたら「じゃあ貴方は、遍路中にエ△バや統一◆会が来たら、おだやかに話を聞くんですか?」と聞いてやりたい。

前にも書いたけれど、普段の生活が常識的でまっとうなものならば、お遍路だからといって普段のペースを崩すことはないと思っている。

[行 程]十番切幡寺 11:25 →(3.3km) 12:15 大野島潜水橋 12:15 →(3.2km) 13:00 国道合流地点 13:05 →(2.8km) 13:45 十一番藤井寺 14:05 →(1.6km) 14:40 JR鴨島駅

[Mar 5,2016]



藤井寺本堂。納経を終えると雨が本降りになってきて、十二番焼山寺への遍路道入口は確認できませんでした。



藤井寺から鴨島駅までの道は、本降りの中ずぶ濡れで歩きました。電車に間に合わないかと思った。駅から南側を振り返ると、雨で山の方向はすでに見えない。

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