この図表はカシミール3Dにより作成しています。

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別格四番鯖大師 [Oct 12, 2016]

遂に定年前に退職することができて、これからのお遍路は日程の心配がなくなる。そもそもお遍路を思い立ったのは「禊ぎ」という意味であったから、これまでのサラリーマン生活を省みて身を慎むという意味で、本来の趣旨でお遍路をすることができる。ありがたいことである。

前回まで4回の区切り打ちで、阿波の国・徳島県は二十三番薬王寺まで打ち終わり、JR牟岐駅まで歩いて来た。だから今回は、いよいよ室戸岬から土佐に抜けるコースになる。よじ登ったとされる阿波・太龍嶽と並ぶ空海の修行地、室戸の海である。

退職してしばらくは、それなりに片づけなくてはならない雑務もあり、そもそも暑くて、歩くにはあまり向かない季節であった。秋になると歩くにはいい季節だが、今度はNFLが始まって長いこと家を空けたくない。ということで、9泊10日の計画を立てた。これならば、1週だけ録画すれば翌週にはLIVEで見ることができる。

いずれにしても、これまでの最高3泊4日が3倍になる訳であるから、きちんと準備する必要がある。本来であれば予行演習を兼ねて山に行きたかったのだけれど、2016年9月はやたらと雨が多くて難しかった。仕方がないので山歩きの代わりに、家の周りを13km、8km、16kmと歩いた。自然が残る千葉ニュータウンに住んでいてよかったところである。

そして、この予行演習の後、なぜか体が甘いものを要求するのである。思えば、昔マラソンをしていた時にカーボローディングという言葉があった。体力を使うマラソンの前には、炭水化物を摂取して体内にグリコーゲンを貯蔵する方法である。まあ、スポーツ選手ではないのでそこまで徹底する必要はないが、体力を温存することは大切だろう。

今回の長丁場にあたり、荷物をどうするかいろいろ考えた。何と言っても不安なのは、洗濯が定期的にできるかということである。後半戦はビジネスホテルなのでコインランドリーはあるだろうが、前半は宿坊・民宿中心なのでできるかどうか分からない。そこで、当日着て行くものの他に、着替えを2セット用意した。

となると、雨具や緊急用キット、宿で着る普段着・下着、iPad、手持ちの洗面用品や諸々考えると35リットルのリュックには入り切らない。リュックの重さ自体が500g重くなるけれども、45リットルのリュックで行くことにした。

主な装備品は以下のとおりである。

① リュック45リットル (中味)遍路白衣2セット、速乾シャツ、CW-X、靴下2、下着2、Tシャツ、トレーナー、リカバリーウェア(寝間着兼)、登山用緊急セット(ヘッドランプ、ツェルト、テーピングテープ、ロープ等)、折りたたみ傘、モンベル登山用レインウェア上下、折りたたみデイパック、iPad、洗面用品・薬品類、充電器、タオル予備、ビニール袋

② お遍路バック  (中味)納経帳、数珠、輪袈裟、経本、納札入れ、サングラス、遍路地図・時刻表コピー、予備バッテリー・乾電池

③ 身に着けたもの 登山用長袖上下、速乾下着上下、靴下、ウォーキングシューズ、帽子、メガネ、タオル、携帯(カメラ兼)、ガーミンGPS、財布、小銭入れ

出発前にリュックの総重量を量ったところ8.5kgだった。かさばる割に衣服が中心だから、それほどでもない。お遍路中は水と食料が加わるけれども、それでも10kgくらい。登山では10kgより重くなければほとんど影響がないので、おそらく大丈夫だろう。荷物を預けてデイパックで歩けば2~3kgですみ、これなら登り坂でバテることもなさそうだ。

今回のお遍路、前の週に阿蘇山が大噴火して噴煙が1万メートル以上におよび、四国でも広範囲に降灰があったというニュースが流れた。急いで荷物の中にマスクを準備して入れた。また、2、3日前に急に涼しくなってそれはよかったのだが、荷物から半ズボンを除き、Tシャツを減らして長袖のトレーナーを入れるなど直前になってあたふたしてしまった。

徳島空港に下り立ったのは、少しディレイして2016年10月12日の朝9時。空港バスでJR徳島駅に向かう。牟岐線の特急むろと1号は9時51分発なのでぎりぎりになったが、何とか間に合う。駅前のセブンイレブンで非常食を仕入れる。サラリーマン時代から何度も訪れた徳島だが、今回帰るときは高知からになるのでしばらく来ることはない。いろいろと感慨深い。

牟岐までは1時間と少し。徳島・小松島間は仕事の関係で何度も行き来したものだから、見慣れた風景である。そして小松島から先、車窓から立江寺は見えるし、阿南はかつて泊った街である。平等寺の後、新野から阿波福井にかけて歩いたし、日和佐には阿波最後の札所である薬王寺がある。そして日和佐から牟岐まで、ほぼ線路に並行して走る国道55号線を歩いたのだ。



牟岐の駅を出発するとまもなく、国道55号線の標示は室戸まであと66km。



八坂八浜の名前にたがわず、国道は登ったり下ったりを繰り返しつつだんだん海に近づく。

さて、牟岐から歩くと約4kmで名高い鯖大師である。この鯖大師、もともと弘法大師ではなく行基の事跡で、真念「道指南」にもその話が書かれている。

行基が行き会った馬方に鯖を分けてほしいと頼んだのを無下に断られたので、「鯖ひとつ行基にくれで駒ぞ腹病む」と唱えると、馬方の連れていた馬が七転八倒してついに倒れてしまった。驚いた馬方が大変申し訳ありませんと鯖を差し出すと、行基は「鯖ひとつ行基にくれて駒ぞ腹止む」と唱えて、馬は元通り立ち上がったという話である。「くれて」は施してくれること、「くれで」だとくれないこと、一字違うだけで逆の意味になる。

たびたび引き合いに出す五来重「四国遍路の寺」によると、戒律を重んじる行基が生臭ものの鯖を所望したというのは首をひねるところで、魚の「鯖」ではなく「飯」、つまり托鉢をしたのに何も施さなかったということだろうと推察している(「生飯」は唐時代の発音だとサンバンとなるという)。そして行基以前から、峠道で山の神に供え物をするのは不文律であり、それを怠った者に罰が当たるというのがもともとの説話だったらしい。

そういう訳で、牟岐から出発するならせっかくなので鯖大師にお参りするものだろうと思って、今回の一日目は鯖大師に泊まる計画を立てた。

しかし、朝一番で行くと昼過ぎには鯖大師に着いてしまう。それはちょっと早すぎるだろうということで、少し先まで進んでおいて、夕方に列車で戻ってくることにした。前に書いたように、歩き以外の交通機関を使ってもいいが、次の日は前日歩いたところからスタートするというのが歩き遍路のマイルールなのである。

特急むろと1号は、牟岐に11時ちょうどに着いた。身支度を整えてさっそく出発する。さて、鯖大師を通り過ぎてJRで戻ってくるのはいいが、問題は、海部まで歩くのか宍喰まで歩くのかということであった。帰りの牟岐方面列車の時刻は3時38分に宍喰、3時48分に海部である。これを逃しても40分後に次の列車があるとはいえ、鯖大師の納経時間を考えるとできるだけこの列車に乗りたい。

そうすると、持ち時間4時間半で海部ないし宍喰まで歩くということになるが、牟岐・海部間の距離は約12km、牟岐・宍喰間は約19kmと、帯に短し襷に長しという微妙な距離なのである。全コース平坦であれば4時間半で19kmは大丈夫そうだが、道中何ヵ所かの登り下りがある。ここは、「八坂々中八浜々中」と「道指南」に詠われた難所なのである。

まあ、そのあたりは歩き始めてから考えることにした。そもそも、遍路地図(この記事で遍路地図という場合、「四国遍路ひとり歩き同行二人地図編」第10版のことである)の距離表示がそれほど信用できるものではないのは、前回歩いて感じたことなのであった。(太龍寺から平等寺の道中とか)

前の週まで長雨が続いたり、10月だというのに真夏日になったり逆に冷え込んだりして心配だったが、徳島に着くと穏やかな秋晴れである。第一感は東京より5℃くらい気温が高く、厚手の服ではちょっと暑いかもしれないということであった。牟岐の駅からまっすぐ進み、商店街を右折する。すぐに国道55号線で、室戸までは基本的にこの道をまっすぐ進めばいい。

牟岐を出てすぐ、お接待のある遍路小屋があるというWEB情報で、実際に国道のトンネル前に小屋はあったのだが、誰もいなかった。どうやら、この日はお休みのようだ。一息つくには早すぎるので、そのままトンネルを進む。なんだかペースが上がらないので後ろを振り返ると、さっそく登り坂であった。

登り下りを繰り返してトンネルをいくつかくぐると、左手には海岸線が広がる。どの浜もよく似た景色に見える。「フラクタル」(注)という言葉が脳裏をよぎった。1時間ほど歩くと、右に鯖大師への道が分かれる。夕方に戻ってくることになるが、いまは先に進む。

注.フラクタルとは、単純な式を合成することにより複雑な図形が作られるという幾何学の理論。ユダヤ人の数学者マンデルブロが提唱し、コンピュータグラフィックスの基本的な理論となった。この理論によると、リアス式海岸のような複雑な地形も実は単純な動きの積み重ねにより造られ、しかもそれぞれがよく似た形となる。

牟岐から鯖瀬までの間に「逢坂、松坂、しだ坂、ふくら坂」の4坂、鯖瀬から浅川までの間に「はぎの坂、かぢや坂、あはの浦坂、からうと坂」の4坂合わせて八坂と、坂を下った八浜を称して「八坂々中八浜々中(やさかさかなか・やはまはまなか)」と呼ぶ。かつては海岸線に沿って登り下りがあった難所であり、現在ではトンネルや橋があるものの、やはり歩けばそれなりの難所である。



鯖瀬から浅川にかけての海岸。このあたりはサーフィンのメッカなので、10月なのにサーファーの姿がみられた。



鯖瀬を抜けて、大砂海岸に出る。このあたりまで来ると八坂八浜を抜けて、比較的平らな道が続くようになる。

浅川から海部までは、国道55号線を直進するルートの他に、昔の浜街道などのへんろ道ルートがあり、たびたび左右に行先表示がある。ただ、ちらっと見た限り、いきなり急坂があったり道に雑草が繁茂していたりするので、あえてそちらを通ることはしなかった。まだ先は長く、10日間体調を保たなければならないのである。

ようやく八坂八浜の区間を抜けて、JRの高架線が見えるあたりが浅川である。橋の上に無人駅があり、55号線沿いに待合室がある。歩き始めて1時間45分、ここで最初の休憩をとることにした。

10kgの負担重量は登山を考えればたいしたことはないと思っていたのだが、舗装道路の登り下りを続けるとさすがに背中に影響が出る。まだ歩き始めて1、2時間なのに肩や背中が痛い。ただ、国道のキロポストをみてラップを計ってみると、登り下りがあった割には㌔14~15分のペースを維持している。あまり長く休むとかえって疲れるので、5分休んで出発。

浅川を過ぎて次のJR駅である海南まで、最後の大きな峠がある。55号線は左右にカーブを切りながら、長い坂道となった。なかなか厳しい。しかも、日差しが強くなってきて汗がしたたり落ちる。ただ、道の左右には事務所のような建物やゴルフ練習場があって、人里離れたという感じではない。歩き遍路のためのベンチも、何ヵ所か置かれている。

坂を下りると海南の市街地で、さっそく見つけたローソンに飛び込んでペットボトルのいろはすを補充する。まだ自販機もコンビニも頻繁にあるのだが、もう少し先に進めばどうなるか分からない。

ローソンを過ぎると、周囲は開けた住宅地となり、時々飲食店もみられるようになる。ローソンから10分ほどで、道路の左手に遍路小屋が見えてきた。こちらが名高い遍路小屋第一号「香峰おへんろさん休憩所」である。せっかくなので、中で休ませていただく。

小屋の入口には水道が引いてあって、たいへん水質のいい水だという説明がある。大汗をかいた後なので、顔を洗わせていただく。その先の椅子スペースの傍らにはアイスボックスが置かれていて、お接待のオロナミンCが冷やしてある。初日から、今回のお接待第1号である。こちらもありがたくいただいた。一番奥にはトイレがあって、至れり尽くせりである。

しかし、基本的に市街地にある遍路小屋なので、仮眠・宿泊禁止と入口に書かれている。歩き遍路の人も常識的に行動してくれる人ばかりではないから、やむを得ない(鶴林寺道中の遍路小屋でゴミを放置したお遍路は忘れられない)。置いてあったノートに、お礼を一言書かせていただいた。

10分ほどゆっくりして、再びリュックを背負って出発。たいへん気持ちのいい休憩小屋で、リフレッシュした。15分ほど歩くと海部大橋。橋を越えると、ショッピングセンターのある海部の駅である。時刻はまだ午後2時。折り返しの列車が来るまで1時間半もある。

さて、この状況は計画段階で想定できたことで、その1時間半で次の駅である宍喰までの約7kmを歩けるかどうかが問題であった。ところが実際に55号線を歩いてみると、たびたびバスが往復するのとすれ違い、バス停もけっこう頻繁にある。時刻表をみると鯖瀬に帰るバスに適当な時間の便はないが、午後3時前後に宍喰駅前経由甲浦行きという便があった。

時間的に、このバスが宍喰から牟岐方面行きの列車に接続しているものと思われる。だとすれば、あと1時間ほど先に進んでこのバスに乗り、宍喰で帰りの列車に乗ればいいのではないだろうか。計画変更してドツボにはまる例は少なくないが、この場合はあまりリスクはないようである。という訳で、バス便に期待して海部から先に進むことにした。

海部駅を過ぎると、再び55号線は登り坂となる。ホテル遊遊NASAの入口のあたりまで、長い登りである。そして下りになると、目の前に海、その向こうに再び陸地という奇観が続く。那佐湾である。向かいに見える陸地は太平洋に突き出た半島になっていて、まるでカリフォルニアのようである。半島が風よけになるので、湾内は至るところ船着き場となっている。

ところが、この那佐湾に入ってとたんにペースが上がらなくなった。引き続き国道55号線なのでキロポストがあるのだが、微妙な勾配があるとはいえ㌔18分などというとんでもないペースになってしまった。できれば道の駅宍喰まで歩きたいと思っていたのだが、これはちょっと厳しそうだ。



遍路小屋第一号である海南町の遍路小屋香峰。オロナミンCのご接待があり、ありがたくいただきました。



海部大橋を越えると、この先の鉄道駅宍喰までは7kmある。並行して走っているバスに期待して先に進む。

遍路地図をみると、道の駅宍喰の約1.5km前に「走出」(翌日、バスのアナウンスを聞いたら「はせど」と読むようだ)というバス停がある。ここに午後3時ちょうどに到着したので、遠征初日はこのあたりで撤収することにした。リュックを下ろして汗をふき、落ち着いたら屈伸運動をする。バスは3時18分だったので、ちょうどいい休憩時間になった。

よく考えると、この日は朝一番の電車に乗って羽田空港に向かったので、3時半起きであった。10kg以上の荷物を背負ってすでに十数km歩いているのだから、疲れが出ておかしくはない。この日歩いた歩数は30,129歩、帰ってからGPSで測った距離は17.6kmだった。

時刻より5分ほど遅れてバスが来た。乗ってみると、道の駅の前で右折して宍喰駅に向かい、狭い駅前通りを抜けると、今度は田圃道を通るというたいへん長い道のりであったので、歩かなくてよかったと思った。帰り列車の時刻までに宍喰駅に着くのはもちろん無理だったし、道の駅でバスを待とうにも、バス停の位置が分からなかったおそれがかなり大きかった。

宍喰は無人駅ではなく、グランドレベルにちゃんと駅員さんがいる。ホームは高架の上にあるが、この階段を上がるのもかなりきつかった。5分ほど待つと甲浦発海部行き一両のワンマン列車が到着した。阿佐海岸鉄道はトンネルが多いのでイルミネーション列車が名物なのだが、この日乗ったのは小学生の絵がたくさん飾られている列車だった。これもまた地元密着でなごやかな雰囲気である。

この列車は隣の海部駅までで、向かいのホームに停まっている徳島行きに乗り換える。こちらもワンマン列車、JRなのでちゃんと広告が掲示されている。お客さんなどあまりいないと思ったのに、夕方のせいか結構席が埋まっていた。海南、浅川、鯖瀬と歩いた場所を戻る。3時57分鯖瀬着。たいそう苦労して歩いたのに、列車だとあっという間であった。

鯖瀬の駅は無人駅。高架になっていて、階段を下りるとすぐに国道55号である。下から見ると4両編成でも止まれるくらいホームが長かった。いまは1両かせいぜい2両しかないはずだが、かつてはもっと長い列車も走ったのだろうかと想像する。ホームの端の方は基礎がやや弱くなっていて、あまり頑丈ではないように見えた。

「鯖大師本坊すぐ」の案内板があり、本当に駅前すぐに寺の施設がある。広い駐車場になっていて、十二神将の守り本尊の像が納められたお堂のようだ。ここから細い道を2、3分歩いて山門まで。山門の正面に本堂がある。

さっそく本堂でお参りさせていただき、読経の後、納経所でご朱印をお願いすると「OOさんですか?」と名前を聞かれる。よく考えれば大荷物を持って夕方にお参りに来るのだから、泊まりの予約客であるのはみえみえであった。

納経所の横から宿坊である鯖大師へんろ会館に向かう。部屋数は本館・別館・新館で合わせて30あり、収容人数は150名だそうだが、この日の泊まり客は私だけであった。「少し早いですが、夕食は5時前にお出しします。お風呂は部屋のユニットバスをお使いください」とのことであった。

WEBに掲載されている大浴場を使えないのはとても残念だが、コインランドリーの順番待ちの心配がないのはたいへんありがたい。さっそく部屋で着替える。山の中なので窓を開けるのは心配だったので(虫が)、空調を入れさせていただいた。少し冷房を入れた方が気持ちいいくらい、夕方だというのにまだ暑かった。




宍喰で予定した列車に間に合って鯖瀬まで戻る。



駅から歩いて5分かからずに鯖大師本坊に到着。正面が本堂。



境内、納経所あたりから見た本堂。左手に会館があり、建物の背後には八十八ヶ所お砂踏みなどの施設がある。

鯖大師、こちらでは本坊を付けて鯖大師本坊と称している。山号・寺号は八坂山八坂寺で、もちろん「八坂々中」にちなんでいる。

別格二十霊場の四番札所であるが、別格札所としてよりも、鯖大師単独でたいへん名前が通った霊場である。こちらのお大師様は、「鯖絶ち三年」といって、三年間鯖を絶てば願いをかなえてくださるという。私ならそんなに問題ないが、家の奥さんは魚好きだから大変そうだ。

さて、夕飯のお膳が来たのだが、これがまた豪華でたいへんうれしかった。1泊2食で6800円なのでそれなりかと思っていたら、カツオのたたき、野菜のてんぷら、煮しめ、ごま豆腐、茶碗蒸し、酢の物、枝豆にデザートの果物までついている。ビールは大浴場前にコインランドリーとともに自動販売機も置いてあって、洗濯するついでに調達できた。

長い距離を歩くと、なぜか夕飯にはビールを飲まないと物足りない。出発前には毎晩飲む訳にいかないだろうと思っていたのだが、歩き始めてみると毎晩飲まない訳にはいかなかったのは妙なものである。宿坊では夕飯が早いのを恐縮されていたが、何を隠そう、私は普段から夕飯は5時なのでいつもと同じなのであった。

夕飯が終わり、コインランドリーに洗濯物を取りに行って、お風呂にゆっくり入っても、まだ午後6時過ぎである。さすがにまだ眠れないので、遍路地図を見て翌日の計画を立てたり、宿坊に備え付けの法話の本をつらつら読んでいた。それでも、7時半には電気を消して寝た。

鯖大師でいちばん楽しみにしていたのは、強制参加である朝のお勤めである。以前泊った十楽寺の宿坊では、宿泊客が少なかったためお勤めがなかったので、四国では初めての朝のお勤めができると楽しみにしていた。

この日も宿泊客は私だけだったのだが、受付の時に「朝6時からお勤めがありますので、10分前にロビーに来てください」と確認されているので、たいへんうれしかった。翌朝は5時に起きて、布団をたたみ荷物の整理をした。時間にはお遍路装束の白衣に着替えて宿坊のロビーまで下りる。

ちょうどご住職が庫裏の方から来られたところだった。ご一緒して、大浴場の横から護摩堂に向かう。「この蓮の花の下には聖地の土が埋め込んでありますので、踏みながらいらしてください」ということなので、ちょっと大股になるが片脚ずつ蓮の花のタイルを踏んで進む。

すぐそこまでかと思ったのに、インドの霊場、弘法大師にちなむ中国の霊場、別格二十霊場、八十八札所、西国三十三霊場と合計百以上のタイルを踏まなくてはならなかった。帰ってから調べたら、この通路は本堂裏の山腹をくりぬいて作られた観音洞という全長88mの洞窟で、蓮華のタイルを踏むのはお砂踏みという修行だそうである。

その際、いくつかの部屋を通って行くのだが、その横にはおびただしい数の仏像や位牌が奉納されている。これは全国の信者の方々が寄進したものなのであろう。そして、直径十数mはあるだろう巨大な円形の護摩堂に出た。

ご就職は中央の護摩壇に上がり、私は指示された椅子に座る。正面にはご本尊である不動明王が鈍く青色に光っている。脇侍の二柱の仏様は誰だろう。ご不動様がご本尊のお寺に行ったことがあまりないので、よく分からない。そして護摩堂の周囲は、通路と同様におびただしい数の仏像が置かれている。

ご住職ははじめに読経した後、護摩焚きを始められた。お堂中央に、白い煙が上がる。換気をするためか、外から冷たい空気が入ってくる。前の日はあんなに暑かったのに、早朝のお堂の中は寒いくらいである。護摩木をくべながら、何々県の誰それ、何々の祈願、とひとつひとつお祈りする。最後に、私の数珠もお浄めしていただいた。

お勤めが終わり、「朝食は6時半からです」とお札を渡されて部屋に戻る。白衣から部屋着のTシャツ、リカバリーパンツに着替えて朝食会場に向かうと、なんと再びご住職がいらっしゃって「じゃ、般若心経唱えましょうか」。読経した後は朝食のあいさつを唱和して、「では、ゆっくり召し上がってください。食後の挨拶を忘れないように」。

本当に、私ひとりのためにここまでしていただいて、たいへんありがたいことであった。朝食は目玉焼き、焼き魚に切り干し大根、お漬物、ご飯、お吸い物とデザートのみかんもついていた。お膳にはお茶だけでなくインスタントコーヒーの用意もしてあって、これもまたたいへん気が利いていたことであった。

[行 程]JR牟岐駅 11:10 →(10.7km) 12:45 浅川 12:50 →(2.4km)13:30 遍路小屋第一号香峰 13:40→(4.5km)14:55 走出バス停 [→ 阿佐海岸鉄道宍喰駅 → JR鯖瀬 → 鯖大師本坊(泊)]

[Dec 24, 2016]



納経所の横を奥へ入って行くと、鯖大師へんろ会館がある。収容150人と大規模。さらに奥に朝のお勤めのある護摩堂がある。



たいへん豪華な夕食でした。泊り客は私ひとりでしたが、翌朝のお勤めをさせていただきました。

番外霊場東洋大師 [Oct 13, 2016]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

第五次お遍路区切り打ちは、2日目の朝になった。 鯖大師の朝のお勤めが終わり、朝ごはんを食べ終わると午前7時である。計画では7時55分鯖瀬発の下り列車に乗る予定だったが、前の日に歩いたのは海部・宍喰の中間である走出(はせど)までである。バス停で確認したところ、鯖瀬から宍喰方面に向かう徳島南部バスは7時22分に出る。ちょうどいい時間だし、これだと列車より早く歩き始められそうだ。

宿坊の方に「お世話になりました」とご挨拶して出発。私ひとりのために、ご住職、案内してくれたお坊さん、食事を作ってくれたおばさんと何人もの方に大変お世話になりました。ありがとうございました。国道まで2、3分の歩き。ゆっくり眠ったので、まだどこも痛くない。そしてこれから、10kgのリュックをフル装備して一日通しの歩きとなる。

この日の宿は、室戸岬の「うまめの木」を予約してある。問題は、宍喰から室戸岬まで40km以上の距離があることである。フルに歩くと、着くのは夜の8時頃になってしまう。それはまずいので、どこかでバスに乗る必要がある。バスは午後5時34分に室戸岬を通過する甲浦発安芸行きがあるが、途中の時間が分からない。歩きながらバス停で確認することになりそうだ。

鯖瀬を7時22分に出たバスは、前日に歩いた浅川や海部、那佐湾沿いを通って宍喰方面に向かう。走出(はせど)に着いたのは7時45分。宍喰に向かって55号線を下って行くと、1kmほどで街中に出た。道の左手にセブンイレブンがある。入って不足している物を調達する。セブンイレブンのすぐ先が道の駅宍喰だ。道の駅まで買ったものを下げて行き、道の駅でリュックを下ろして荷物を整理する。

真念「道指南」には、この先の野根で「調えものしてよし」とあるものの、現在の野根には、特に55号線沿線にはコンビニもスーパーもない。だからいろいろ道中に必要なものを揃えるのに、こちら宍喰のセブンイレブンがほとんど最後のチャンスとなる。もし真念が平成のいま生きていたとすれば、「しゝくい浦町有 調えものしてよし」と書いていたに違いない。

8時30分に道の駅宍喰を出発。いよいよ今回の遍路第一の関門、室戸岬へのロングウォークが始まる。まだ早い時間ということもあって、前日ほどには暑くはない。ただし時折のぞく日差しは相当に強烈で、さっそくサングラスを装着した。

宍喰川河口の宍喰大橋を渡っていると、背中から風が吹いて押されるように感じる。これは北風ということであり、この日のスケジュールはずっと南を向いて歩くから、向かい風よりもずいぶんとありがたい。橋の上から、広い宍喰川の河口を見て進む。振り返ると、すでに道の駅宍喰はかなり遠くなっている。

橋を渡ってしばらく進むと、全長638mの水床(みとこ)トンネルである。長いトンネルだが、まっすぐで出口が見えているし、ちゃんと歩道があるので安心である。トンネル出口からすぐに、徳島県と高知県の県境となった。ここからが甲浦(かんのうら)で、この先の生見(いくみ)、野根ともに東洋町を構成する。

遍路地図には、55号線を直進するルートとガソリンスタンドを右に折れて街中に入るルートが書かれているが、わかりやすく55号線を直進する。まもなく左手下方に港が見える。甲浦港である。青色のバスが停まっているのがバス停で、ここ甲浦岸壁は室戸岬を経由してはるか安芸までの長距離路線の出発点なのであった。この日の夕方から、何度もお世話になることになる。



セルフタイマーで撮ったこの日の出で立ち。いっぽ一歩堂の軽装白衣上下。



道の駅宍喰。隣にホテルリビエラししくいが併設されており、そちらに温泉施設がある。室戸への最後の整え物は、江戸時代には野根だったが現在は宍喰セブンイレブンのようだ。



全長638mの水床トンネルを出ると甲浦、徳島県から高知県に突入する。すぐ先に見えるGSを右に折れるルートもあるが、ここは55号線を直進する。

「かんの浦、生見、のねうら」と道指南に書かれたとおりの集落を通って行く。江戸時代と同じ名前がそのまま残っているのは感慨深い。生見は現在ではサーフィンの基地として有名であり、関東で言えば九十九里のような位置づけになるのだろう。ホテルや民宿が何軒か集まっているが、真夏ではないのでひと通りはない。

東洋町役場は、生見集落にある。役場から道路をはさんで海岸側に商店や民宿の案内板が掲げられている。屋根・ベンチつきのバス停に着いたのが9時45分。1時間と少し歩いたので、リュックを下ろして小休止する。日差しがきつくて、1時間しか歩いていないのに汗びっしょりである。

ひと息ついて出発。野根集落まで2km余は、30分くらい。集落の入口に55号線から右に分かれて、木々の間に続く東洋大師への道が案内されている。このあたり、55号線の交通量がかなり多かったので、静かになって少しほっとした。やがて、右手に石段と色とりどりの幟旗、その上に東洋大師の建物が見えてくる。

東洋大師は正式名を金剛山明徳寺といい、空海の開創と伝えられる。真念「道指南」にも野根に大師堂ありと書かれているので、古くからあることは間違いない。せっかくなので、お参りさせていただこうと思っていた。遍路地図解説編によると納経もしているとのことだから、少しはにぎやかだろうと想像していたのである。

ところが、東洋大師に着いてみると、まったくひと気がない。本堂前の縁側にはお守りとかいろいろなものが置かれていて、その中にご朱印の入っている箱が置かれていた。代金はお賽銭箱に入れてくださいと書いてある。少し考えたが、目の前で納経帳に書いてもらわないと意味がないように思えたので、ご朱印はいただかず、お賽銭のみ納めさせていただいた。

誰もいないのだけれど、本堂前には縁台が数台置かれていて、それぞれに座布団も用意されている。まだ10時半で少し早かったが、ここでお昼にさせていただくことにした。お昼を食べながら境内を眺める。本堂横には寄進のお願いが掲示されている。こちら東洋大師は真言密教の寺であるのに護摩堂がなく、本堂の修復も十分にできないといったことが書かれていた。

この日のお昼は、朝セブンイレブンで買ったサンドイッチとコーヒー牛乳である。聞くところによると、この先奈半利までコンビニがないそうだ。となると、しばらくコンビニのサンドイッチは食べられないかもしれないので、「シャキシャキレタスサンド」を買ったのであった。夕食・朝食とごはんが続いたので、このあたりでパンを食べたいということもある。

野根は野根川の河口に開けた街で、道指南では「調物(ととのえもの)してよし」と書かれている。真念の時代には五右衛門という長者が宿を貸してくれたそうだが、残念ながら現在は宿がない。歩き遍路の場合、このあたりが最後の人里になるので、どこか泊めてくれるところがあった方がありがたいのだが、現実はなかなか厳しい。

そこで、本堂の右手には野宿遍路の人たちには有名な通夜堂があり、このお堂が善根宿として使われている。造りはいわゆるプレハブで、暑い時期寒い時期は厳しそうだ。それほど広くはないので、二人くらいまでならいいけれどそれ以上の人数が泊まるのは窮屈かもしれない。

おそらく、少人数でお寺の維持管理やら通夜堂の用意やら、境内に用意してある遍路への接待やら準備されているのだろう。ありがたいことである。お守りやご朱印の置かれている縁側には、お茶の用意もしてあった。お寺の方がいらっしゃるときには、お茶のご接待があるのかもしれない。

20分ほど休んで出発。55号線から街中に入ったので、せっかくだから街の様子を見ながら歩く。普通の民家や集合住宅がある。都会であれば社宅のような感じの建物だが、漁村なので公営住宅だろうか。街は国道から右に向かってかなり深くまで開けているようだ。

さて、これから空白期間に入るので、予備のペットボトルを買おうと思って自販機を探したのだが、住宅街のせいなのか見当たらない。やはり国道沿いに出た方がよさそうだと思って左に折れると、ようやく国道沿いに1つだけあった。いろはす500mlを補充する。

この後、野根大橋を渡った先の工事現場のようなところに1台見つけたのだが、それを除くと最後の自販機であった。



東洋大師明徳寺は、野根集落に入り、55号線からへんろ道に折れた先にある。残念ながらご住職は不在。半紙に書かれたご朱印が置かれていた。



本堂横にある東洋大師の通夜堂。この時期で泊まりが一人ならば、何とかなりそうだ。



いよいよ室戸岬に向けて、人家も自販機もない区間に入る。遠くかすんだ岬を7つか8つ望むことができる。いちばん遠くまで行かなければならない。

野根から先、真念「道指南」にも四里の間に集落名はなく、「とびいしとて 難所海辺なり」と書かれているくらいだから、江戸時代から難所として知られていたようだ。現在でも野根から入木までの約10km、 人家もなければ自動販売機もない人里離れた地域である。

計画の時にバス(高知東部交通)の停留所を調べてみたら、東洋町市街を過ぎたところにある伏越の鼻から淀ヶ磯橋までの3.5km、淀ヶ磯橋から水尻までの3.1km、水尻から入木までの3.1kmの間、バス停がない。入木から先はたくさんあるようなので、とりあえずそこまでは早く通過したいと思っていた。

野根集落を通過したのが午前11時過ぎ。ここから寂しい道になると覚悟していたのだが、何となくひと気がある。ちょうど国道55号線の工事中なのであった。30分ほど歩くと、路肩の広くなったところに工事車両がたくさん止まっている。よく見ると奥に看板があって、ここがゴロゴロ休憩所ということであった。

耳を澄ますと、波に転がられた石がゴロゴロと動く音が聞こえる場所なのだそうだが、残念ながら工事の音しか聞こえない。この先休憩所が限られるので5分だけベンチを使わせていただく。ゴロゴロ休憩所から次のチェックポイントである法海上人堂までおよそ4km。左手は海、右手は間近に迫る山を見ながらひたすら歩く。

WEBにあるように遍路地図に載っている法海上人堂の位置はゴロゴロ休憩所で、実際には約4km先、淀ヶ磯橋バス停と淀ヶ磯の中間あたりにある。55号線から、「トイレと水あります。お休みください」と大きく書いてあるのが見えるのだが、残念ながら水は出ていないし(近くに沢が勢いよく流れているが)、トイレはあまりきれいでない。

倒木で崩壊寸前だったものを有志が苦労して建て直し整備したと聞くが、再び荒廃しつつあるようだ。お堂まで登っていくと、手水場には長らく水の流れた形跡はなく、「盗難があるのでお賽銭はお堂の中に入れてください」と書いてあった。法海上人堂には先客がいたので、お参りしただけであまり休めなかった。

遍路地図では2.5kmほど先にある御崎の休憩所も見当たらない。そのあたりに、海水浴かサーファー相手のお店だったような廃屋があったから、あるいはそこが昔の休憩所だったのかもしれない。市町村界を越えて室戸市に入ったところに比較的新しい東屋の休憩所ができていたが、ここにはトイレ・水がない。

結局ひと息ついたのは入木という集落で、野根以来はじめて登場した自販機で桃のいろはす500mlを一気飲みした。時刻は午後1時40分で、野根を出てから2時間半、ゴロゴロ休憩所で最後にリュックを下ろしてから2時間位歩き続けたことになる。

入木からは断続的にバス停もあるので、それほど心配せずに歩くことができる。3kmほど歩いて佐喜浜の街に入る。ここまで10kgの荷物を持って25kmくらい歩いたので、さすがに疲れた。午後2時半、国道沿いに「茶居夢」という喫茶店を見つけて入る。ソフトクリームはないだろうかと祈っていたら、クリームソーダがあった。それをお願いして、お水を立て続けに飲んだ。



法海上人堂。倒木で崩壊寸前だったものを数年前に有志が修理したということである。トイレはあるが水はない。



東洋町から室戸市に入ったあたり、新しくできたらしい休憩所。ただし、トイレ・水なし。



佐喜浜市街地に入り、ようやく休むことのできた喫茶店「茶居夢」。クリームソーダをいただきました。

さて、室戸岬に向かうバスは午後5時過ぎである。バス停の間隔が長いので、時間に余裕を持たないと危ないことになる。佐喜浜から室戸まで、真念「道指南」にはおさき村、しゐな村、かみみつ村と集落名が書かれており、現在もそれらの集落は残っているのだが、距離はたいへんに離れている。尾崎から椎名までは、遍路地図によると5km以上ある。

佐喜浜の喫茶店でどこまで行くのか聞かれたときに「室戸岬まで」と答えると「4時間くらいかかりますよ」と驚かれてしまった。「いや、5時過ぎにバスが来るからそれに乗って行きます」と説明して安心していただいたのだが、喫茶店に入ったのが2時半だから、20~30分休むとしてあと2時間でどこまで行けるか。計画段階では、少なくとも尾崎、できれば椎名まで進みたいと考えていた。

3時少し前に喫茶店を出発して、55号線に沿って佐喜浜市街を歩く。国道は港よりも高い位置を通っており、再び海岸線に出たあたりで旧道に入る。ところが、旧道の入口に道路工事の標識が立っていた。仕方なく国道を進んでいくと、今度は旧道の方に誘導される。国道とは打って変わって風情のある細い道だ。ところどころ空き家があるのは、過疎地域だけに仕方がない。それでも、自動販売機が一定の間隔で置かれている。

このあたりで気になったのは、空き缶の回収場所らしい金網のゴミ箱が頻繁に置かれていることであった。多くに「室戸市」と表示されていたので、遍路とか観光客向けではなく、住民の不燃物回収なのだと思うが、そのゴミ箱の多くに同じ銘柄の発泡酒の空き缶が大量に捨てられていたのである。あれだけたくさん捨ててあるからには、ケースで買って飲んだのだろうとは思うが、どこで買ったのだろうか、いっぺんに飲んで捨てたのだろうかと想像しながら歩いた。

佐喜浜から3kmほど歩いて、尾崎集落に入る。ここにはロッジ尾崎、民宿浜増という2軒の歩き遍路定番宿がある。送迎や交通機関を使わない場合、前の日に宍喰で泊まると、歩けるのはこのあたりまでである。私が午前8時過ぎに宍喰を通過して民宿浜増前を通過したのが午後3時45分だから、通常であれば宿に入る時間である。ただ、今回の場合はバスを使うので、もう少し先に進むことができる。

尾崎集落を過ぎると、いよいよ海岸線が近く感じられる。夕方近くなって太陽は右手の山の向こうに沈み、かなり暗くなってきた。午前中に歩いた海岸は砂浜が多くサーファー御用達という風情であったが、夕暮れの海岸は岩が多くなり、打ち寄せる波が岩に砕けて豪快に散ってゆく。室戸岬に近づくと、奇岩の類も多いように感じる。

漁業関連の施設と思われる建物を過ぎ、学校を過ぎると、民家が続くようになる。結局、午後5時に椎名バス停まで歩いて、ここからバスに乗ることにした。この椎名バス停には徳島経由大阪まで行く高速バスの停留所にもなっているので、乗ってしまえば数時間で本州に行ける。

ここまで歩いてきて手足が硬直していたので、整理体操をしながらバスを待つ。バスは5時19分にやって来た。ここから室戸岬まで、車窓から見てもごつごつした岩が重なった地形が続き、なるほど空海が修行しただけのことはあると思った。この日の歩数は57,810歩、あとからGPGで測った歩行距離は34.7kmであった。

[行 程][鯖大師本坊(泊) →] 走出(はせど)バス停 7:45→(1.0km)8:00 セブンイレブン・道の駅宍喰 8:25 →(9.2km)10:25 東洋大師 10:45 →(3.4km)11:35 ゴロゴロ休憩所 11:40 →(3.2km)12:20 法海上人堂 12:30 →(8.9km)14:30 佐喜浜 14:50 →(9.0km)17:00 椎名バス停 [→ うまめの木(泊)]

[Jan 21, 2017]



ようやく無人区域を抜けて佐喜浜の街へ。国道から旧道に入ると、風情のある港の街並みになった。



室戸岬に近づくと、ごつごつした奇岩が数多く見られる海岸になる。これは民宿徳増より少し先にある夫婦岩。



前の日に海部から先に進んだ甲斐があって、最御崎寺まであと9km余りの椎名まで進出。5時過ぎのバスで宿に向かう。

二十四番最御崎寺 [Oct 14, 2016]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

うまめの木は、室戸岬にある宿である。この日は35km以上歩いて、日が暮れてからバスに乗ってようやく着いたのだが、バス停を下りて場所が分からなくてきょろきょろしていたら、車で通りかかったご近所の方が親切に教えてくださった。

1日に3組しか宿泊できない小規模な宿だが、WEBの評判がいいし、ホームページも開いてあるので大体の様子が分かって安心である。それと、無線LANがあるのはたいへんにありがたい。そして、実際にお伺いして大変うれしかったのは、浴室とトイレがとてもきれいだったことである。

客用のトイレ・浴室は2階客室エリアにあって、オーナーの住居エリアとは完全に分離されている。着くとすぐにお風呂を沸かしていただいた。やや大きめののシステムバス(ユニットではない一般家庭用)なのだが、これがまたたっぷりのお湯で気持ちいいのである。

食堂に飾ってあった椎名誠(同郷である)の色紙が9年前の日付だったから、新築という訳ではない。それでもあれだけきれいに維持してあるというのは、非常に手入れが行き届いているということであろう。

食事はお刺身や天ぷら、煮付けなどが作った順番で出てくるので、温かいものは温かく、冷たいものは冷たい。思わず生ビールをおかわりしてしまった。前日の鯖大師に続いてこちらの泊り客も私ひとりであったが、もともと3部屋しかないのでそういうこともあるのだろう。私一人のために、おかみさんが調理してお酒のおかわりのために待機していただいていたのには恐縮した。

洗濯はお接待でやっていただける。脱水したものを部屋に持ってきてくれて、ハンガーに掛けて一晩干したら、朝にはすっかり乾いていた。食堂入口の冷蔵庫に土地の牛乳が冷やしてあって、1本100円で購入できるのもうれしい。朝食は和食・洋食を選ぶことができる。

こちらの宿はバス通りから1本海岸寄りに出た55号線沿いにあり、窓を開けると目の前はもう海である。布団に横になっても、打ち寄せる波の音が間近に聞こえる。1日よく歩いたので、本当にぐっすり眠った。

翌10月14日は6時起床。椎名まで引き返すバスの時間が午前8時過ぎなので、朝食は7時からお願いしてある。かなり時間があると思ってメールチェックとかゆっくり準備していたら、うかつなことにぎりぎりの時間になってしまった。急いで支払いを済ませてバス停に向かう。

朝になって気付いたのだが、バス停から山の方向を見上げると、大きなカーブで頂上付近から下りてくる道路がよく見える。室戸スカイラインである。最御崎寺への登りは遍路道を通るが、下りはこのスカイラインを下る。だから、ちょうど昼頃に再びこのバス停を通ることになるのだった。

バスにはすでにお遍路姿のご年配の方が乗っていて、次のバス停であるスカイライン入口で下りた。最御崎寺に向かうのであろう。ここからの乗客は私ひとりで、前日の夕方バスで通ってきた道を引き返す。椎名バス停まで10分少々。この日のスタートは8時25分。 前の日に尾崎を通り越して椎名までがんばったので、残す距離は9km少々である。これなら、弘法大師ゆかりの御蔵洞に立ち寄っても昼までには最御崎寺に登ることができそうだ。

歩き始めて間もなく、ジオパーク室戸の巨大な駐車場の前を通る。こんなに目立つ施設なのに、遍路地図には何も書いていない。帰ってから調べてみるとジオパークは室戸東中学校跡にあって、中学校の位置はきちんと載っているのである。ジオパークは安芸からのバスの終点になるほど地元では力を入れているのだから、そう書いてあげてもいいのにと思った。



「うまめの木」の朝食。夕食もたいへんおいしかったのですが、順番に出てくるのでまとめて撮った写真がないのでした。



「うまめの木」エントランス。清潔で、たいへん居心地のいい宿でした。



椎名まで引き返してスタート。前日がんばったので、あと残っているのは約9km。何重にも見えた岬も、もう一つ二つになりました。

室戸岬は足摺岬とならんで、太平洋に突き出している場所である。

おそらく、朝鮮半島や南西諸島から日本列島に入ってきた古代人たちにとって、四国の突端は地の果てに感じられたに違いない。アイヌの人たちが、知床を「シリエトク=(アイヌ語で)地の果て」と呼んだのと同様の感覚があったのだろう。室戸岬、足摺岬とも四国札所中屈指の霊場であり、さらに本州に渡って紀伊半島の先には熊野がある。

室戸、足摺、熊野は中世に補陀落渡海(*)が盛んであった土地でもある。これらの岬は太平洋に突き出ていて、行く手に島影が全くない。九州のどの岬からでも島が見える(もともと原・日本人はそこから海を渡って来た)のに、室戸・足摺岬から海の彼方には何も見えない。だから、そこに観音菩薩の浄土があると考えられたのであろう。

((*)補陀落渡海とは、南方にある観音浄土を目指し、小舟に乗り食糧もほとんど持たずに船出すること。阿弥陀如来が極楽浄土、薬師如来が瑠璃光浄土を持つのと同様、観音菩薩は補陀落浄土を持つとされる。)

そして、空海自身が「三教指帰」の中に、「土佐の海」で修行したと書いている。本当に御蔵洞(みくろど)で座禅を組んだかはともかくとして、自然の猛威を目前にして得るものがあったことは間違いない。そもそも空海という号自体が、山と海から名づけられたこともまた間違いないのである。

洞窟での修業といえば、いまから40年前、大学の哲学の授業で「人生というものは、洞窟の中からわずかに見える外の世界を覗いているようなものだ」という話を聞いた。哲学者の誰が言ったことなのか全く覚えていないのだが、そこだけ覚えているのも妙なものである。

さて、歩き始めて間もなくジオパークを通過し、左手に海岸を眺めながら進む。ジオパークはバスの周辺にもなっている施設なのに、遍路地図には載っていない。というのは、ここはもともと室戸東中学校で、そこが廃校となった跡地がジオパークなのである。遍路地図にはいまだに室戸東中学校と書いてあるが、そこにあるのはジオパークなのであった。

国道なのでキロポストがあり、歩き出しのペースは1kmを14分、13分、12分、12分と悪くない。三津漁港を抜け、海洋深層水の工場・倉庫を抜け、順調に先に進む。

ただ、不思議だったのは、そろそろあるはずのロッジ室戸岬がいつになっても出てこないことであった。通り過ぎてしまったのかと思った頃、ジオパークから1時間以上たってから、ようやく右手にロッジ室戸岬が登場した。こちらも歩き遍路によく使われる民宿であり、私も候補に入れていたのだけれど、宍喰からここまで歩くのはちょっと大変なのでバスを使ったのである。

ロッジ室戸岬を過ぎて15分ほどで山の中腹に白い巨大な像が見えてくる。青年大師像である。どうやら入場料を払うと中に入れるらしいが、あまり(というかほとんど)関心はないので写真を撮って通過する。青年大師像のすぐ先が御蔵洞(みくろど)である。

御蔵洞に来てたいへんがっかりしたのは、洞の入口の前に太い横木で柵がしてあって、入れなくなっていることであった。掲示してある注意書きを見ると、風化により落石が多く、危険防止のため立入禁止にしてあるということであった。かつては中に入って弘法大師と同じ風景を見ることができたのに、残念である。

せっかくなので般若心経を読経させていただき、柵の前から後ろを振り返る。左右の岩の間から、海と空を望むことができた。千年の昔、空海が見た景色もこれに近いものだったのだろうかと思う。「四国遍礼霊場記」には、「座ると波の音が耳に入り続け、空海は、あらゆる現象は因縁の積み重なりによって存在しているとの法理を感じた」と記されている。

御蔵洞入口の案内所に「納経行います」と書いてあって、朝早く人もあまりいないのに、年配の女性がひとり待機されていた。せっかくなので、納経させていただく。弘法大師ゆかりの旧跡であり、こうして朝早くから準備されていただいているのだから書いていただくべきものであろう。

御蔵洞から先、いよいよ海岸線は大小の岩でおおわれるようになり、遊歩道が整備されている。まさに奇観である。いきなりバスで来たらそれほど驚かないだろうが、1日かけて数十キロ歩き、サーフィンのできる砂浜から奇岩が迫る海岸まで見て来ると、まさに奇観と言うべき景色である。

そうこうしていると、右手に登山道との分岐点が現われた。ここから遍路道は55号線と別れ、最御崎寺への直登ルートをとることになる。



青年大師像。ここまで来れば、もう御蔵洞はすぐそこ。



御蔵洞は落石のため、現在は立入禁止となっている。WEBには洞の中からの写真も残っているのに。



御蔵洞前から見た室戸の海。弘法大師もこの風景を見て、名乗りを「空海」と改めたのかもしれない。

室戸山最御崎寺(むろとさん・ほつみさきじ)。最初は岬の名前なのに山号にするのは妙だと思っていたのだが、実際に来てみると結構な登り坂の上にあるので、室戸山という名前に納得した。「ほつみさき」の「みさき」はもちろん室戸岬のことである。

五来重氏「四国遍路の寺」によれば、「ほつ」は「火」のことで、護摩行をする岬の寺という意味だということである。空海が修めた虚空蔵菩薩求聞持法によると、行者は真言・行道・聖火の三つの行をしなければならない。「ほつ」の火は、その中の聖火(護摩焚き)のことを指す。

ご本尊は十二番焼山寺、二十一番太龍寺と同じく虚空蔵菩薩。このご本尊を持つということは、空海が求聞持法を修業した寺ということである。ちなみに、虚空蔵菩薩をご本尊とする札所は、焼山寺、太龍寺、最御崎寺の他にはない。

また、室戸岬周辺にある3つの寺は室戸三寺と総称され、その位置関係から「ひがしてら」「つてら」「にしてら」とも呼ばれている。ご詠歌にもそう詠われているし、納経のご朱印にもそのように書かれている。一方で真念「道指南」には最御崎寺、津照寺、金剛頂寺ときちんと書かれているので、それらの寺に通称と正式名があることは江戸時代から知られていたのであろう。

登山口から山門までは案内標示によると700mほど。標高差が150mあるので、歩くと20分くらいかかる。そろそろ着くと思われるあたりにベンチが置いてあり、もしかするとまだ半分あるのかと疑心暗鬼になるのは悩ましい。標高差100mと聞くといっぺんに登ってしまおうと思うのだが、そう簡単にいかないのは山登りと同じである。

ようやく山門に着いた。11時ちょうどである。計画よりも1時間早い。山の上にあるせいか境内はコンパクトで、本堂と大師堂が隣り合っている。他にも経堂や鐘楼などの建物が密着して建てられており、その中に古い石造りのお大師様がいらっしゃる。たいていのお寺さんではりっぱな銅像のお大師様なのだが、こうした素朴なお大師様も歴史が感じられてたいへんありがたい。

本堂・大師堂で読経し、納経所でご朱印をいただく。前回、薬王寺で押していただいてから、8ヵ月ぶりで新しいご朱印が加わった。前回から八十八札所とそれ以外はご朱印帳を分けているので、前日の鯖大師、この日の御蔵洞は新しいご朱印帳であり、最御崎寺からは一番霊山寺以来使っている八十八札所用の納経帳なのである。

納経所を出たところが少し迷うところで、左に進むと室戸岬灯台、右に進むと室戸スカイライン方面とある。せっかくなので室戸岬灯台に行ってみようと思ったけれど、境内を出て左はいきなり下り坂で、しかもかなり下らなければならないようだったので断念した。下ったら帰りは登りなのである。

右に進むと、駐車場とへんろ会館があった。こちらのへんろ会館は室戸岬ではポピュラーな遍路宿なのだが、順打ちの歩き遍路だと一日の最後に過酷な登りになるので大変だ。後から分かったのだが、逆打ちでもスカイラインを延々と登らなければならない。基本的に自動車やバスで回る人達が使う宿のようである。

駐車場から表参道を通って、スカイライン方向へ。下りはこちらから、室戸市街・津照寺に向かうことになる。

[行 程]椎名バス停 8:20  →(7.2km) 10:00 御蔵洞 10:25 →(2.4km) 11:00 最御崎寺 11:25 →

[Feb 11, 2017]



いよいよ最御崎寺への遍路道。国道から右に分かれる。



これまでの舗装道路から、いきなり登山道へ。10kgのリュックが背中に重くのしかかる。



最御崎寺境内。正面が本堂、左手が大師堂。さすがに多くの人が参拝していました。

二十五番津照寺 [Oct 14, 2016]

最御崎寺へは東の斜面から登ったが、西のスカイライン方向へ下りる。左右にカーブを切りつつ坂を下って行く景色は、いろいろなWEBで紹介されている壮大な景色だ。足下には太平洋に突き出た室戸岬を望み、右手に安芸そして高知へと向かう海岸線がどこまでも続いている。

ただ、歩道のあるところとないところがあるので、歩き遍路には難儀である。難儀と言えば、江戸時代には最御崎寺は女人禁制で、女性はこの道を通らずに御蔵洞から岬を回って合流しなければならなかった。山に登らないだけ体力的には楽かもしれないが、それはそれで難儀なことである。

最御崎寺の標高は165mということだが、スカイライン経由だと大回りなのでずいぶんと時間がかかる。11時25分には下り始めたのに、スカイライン入口のバス停まで下りると12時になっていた。登りが20分に対して、下りが35分である。普通こういうことはあまりない。車道を通っても登山道を通っても、たいして時間が変わらないケースがほとんどなのである。

さて、最御崎寺には食堂も売店も見当たらなかったので、ここから津照寺までの間に食べるところを探さなければならない。スカイラインから見ると、これから歩く津照寺への道は建て込んでいるので、お昼を食べるところを探すのにそんなに苦労しないのではないかと思われた。

ところが、スカイラインを下りてすぐ、バス通りにあった食堂には「準備中」の札が下がっており、その後かなり歩いても登場する気配がない。そもそも、ひと通りがほとんどない。自動販売機は一定間隔であるし、郵便局もあったのでおカネも下ろせたのだけれど、座って何か食べられそうな店がない。コンビニもない。休憩所もベンチもない。あるのは津波避難のタワーばかりである。

そういえば、日和佐の薬王寺もそうだったが、港にあるお寺は高台にあることが多い。おそらく、過去には津波や高潮による被害があったので、そうした懸念の少ない高台に寺やお墓を置いたに違いない。そんなことを考えながら歩いていると、郵便局の少し先に港があり、紀貫之上陸の地という石碑が立っていた。この港は海から水路をさかのぼって小高い丘の裏にある。きっと、台風や高波を避ける工夫なのだろう。

紀貫之の土佐日記は、貫之が土佐国司の任期を終えて帰るまでの記録であるが、土佐国府から室戸まで20日間もかかっている。当時はエンジンなどないから、順風が吹くまでじっと待たなければならなかった。円仁の「入唐求法巡礼行記」を読むと中国沿岸では人力(櫂)で船を進められたようだが、太平洋の荒波が打ち寄せる土佐では潮の流れにとてもかなわない。

20日間もかかるのなら歩けばいいと思うのは治安がいい現代の発想で、紀貫之の場合は国司からの帰任であるため、赴任地で貯めこんだ財物を持って帰る必要があった。当時は銀行もないし送金手段もないから、いちいち持って運ばなければならなかったのである。だから、土佐日記でも海賊の心配ばかりしている。海路だから船に乗ってくる海賊だけが心配なので、陸路ならば山賊・追剥ぎが自分の足で襲ってくる。数も多いので、心配の種が増えるのである。

スカイラインを下りてから旧道を歩いて来たが、紀貫之の碑の少し先で55号線に戻る。そろそろお腹がすいてきたのに、旧道にはお店の気配がなかったからである。しかし、国道に戻ったところで何もないことには変わりがなかった。仕方なく、廃校となった室戸岬中学校の前で、リュックを下ろして一息つく。もう午後1時である。最御崎寺から1時間半歩いたことになる。

室戸岬中学校の前から、案内表示にしたがって旧道に入る。引き続き、座る場所もない住宅街が続く。途中で「お好み焼き」と書いてあるお店があったが、そろそろ津照寺だと思いがまんして先に進む。30分ほど歩くと、再び船着き場に出た。先ほどの紀貫之上陸の地とよく似ているが、こちらの方が船が多い。

「四国遍礼霊場記」の津照寺の挿絵に真四角な港が描かれているが、その絵にたいへんよく似ている。そして、「霊場記」のとおり、港の少し先が津照寺の参道入口であった。午後1時40分到着。遍路地図には、最御崎寺・津照寺間の距離は6.5km、所要時間は1時間50分と書いてあるが、休憩時間を除いて正味1時間55分かかった。



スカイラインの上からみた室戸市街。かなり建て込んでいるので、お昼を食べるところを探すのに苦労しないと思ったのだが違った。中央海岸沿いの黄色の建物が「うまめの木」。



室戸市内の旧道。ご覧の通り自販機はあるのだが、食堂とか売店、遍路休憩所の類は見当たらない。



津照寺のすぐ近くの港。「霊場記」の挿絵にたいへんよく似ている。

宝珠山津照寺(ほうじゅさん・しんしょうじ)。室戸三寺のひとつで、真念「道指南」によれば「津寺(つてら)」とも呼ばれている。これはもちろん「津」(港)にある寺だからである。ご詠歌でも「のりのふね いるかいづるかこのつてら」と詠まれている。山号の宝珠とは本尊・地蔵菩薩のシンボルである如意宝珠から採られたものである。

津寺というくらいで、山を下ると津、つまり港である。室津川の河口にあたるこの地は古くから港であったところで、現在でも室津港がおかれている。「道指南」にも「霊場記」にも、室戸岬は港の普請が立派だという記事が載っている。霊場記の挿絵には、津照寺の足下に真四角に石組みされた港が描かれている。

たびたび引き合いに出す五来重「四国遍路の寺」によると、東寺と西寺はもともとセットで弘法大師由来の霊場であり、津寺は別系統の海上安全の神様だったのではないかと考察している。確かに、最御崎寺と金剛頂寺は山の上に本堂があり、麓の海岸に洞窟などがあって修行場としての構成をとどめているのに対し、津照寺は港の高台にあり多くの堂宇を有するスペースはない。

東寺・西寺は女人禁制の伝統があるが、津寺はそうではない。ご本尊も衆生救済の地蔵菩薩であり、空海の修業した寺というよりも、海上安全を主眼とした寺にふさわしい。現在の本堂も鉄筋コンクリート造で、札所の建築としては珍しい。もちろん、海辺に近く風も強いので伝統建築では持たないということはあるのだが、なんとなく異質な印象を受ける。

さて、最御崎寺から2時間以上かかって、津照寺の門前に着いたのが1時40分すぎ。宍喰以来久々に見るにぎやかな商店街である。目に留まったのが角にある「遍路の駅 夫婦善哉」、売店と食堂を兼ねている。お昼には遅い時間だったが、聞いてみるとまだ食事はやっているとのことで、ざるうどんと天ぷら(四国で天ぷらといえば、さつま揚げのこと)を注文する。

お腹が落ち着いた後、津照寺に向かう。参道は「夫婦善哉」の先で、細い道が急な石段へと続いている。手すりが中央にしかないので、登りの人と下りの人で取り合いになる。傾斜が急なので、すごく危ない。

百段くらい登ったところが踊り場になっていて、そこから右に90度折れさらに登ると本堂である。本堂は山の上のごく狭いスペースにあって、あまり大人数が一緒にお参りできない。一番後ろまで下がっても、鉄筋コンクリート造の本堂全体を写真に収めることができないくらいの狭さである。しかし、景色はいい。はるか下に海までの景色が望めるのは、「四国遍礼霊場記」の挿絵どおりである。

本堂で読経した後は石段を下りて、グラウンドレベルにある大師堂と納経所へと向かう。こちらもあまり広くはなくて、大師堂で読経している人達の前を通らないと納経所への出入りができない。

帰る時に、再び「夫婦善哉」に寄ってアイスクリームを買った。暑くなって冷たいものが欲しくなったことがひとつと、さきほどのざるうどんがいまひとつしっくりこなかったからである。ただこれは、うどんに問題があったのではなく、私の味覚がおかしくなっていたことが原因らしいことがあと数日で判明するのであった。

[行 程]最御崎寺 11:25 →(1.7km) 12:05 スカイライン入口 12:05 →(3.2km) 13:00 室戸岬中学校跡 13:05 →(1.7km) 13:40 津照寺 14:20 →

[Feb 25, 2017]



角のお店が「遍路の駅 夫婦善哉」。どら焼きが名物とのこと。中に食堂と売店があり、仕出しもやっているようだ。宍喰以来の品揃え。



津照寺本堂までの石段は大変急傾斜で、しかも手すりが中央の1本しかない。上の踊り場から90度折れて本堂に上がる。



津照寺の鉄筋コンクリート造の本堂。スペースがせまくて、一番後ろまで下がっても全体を写真に収めることができない。

二十六番金剛頂寺 [Oct 14, 2016]

津照寺で少しゆっくりして、出発したのは午後2時20分。次の札所、二十六番金剛頂寺までは遍路地図によると3.8km。「道指南」には最御崎寺・津照寺間と同じく一里と書かれているが、またもや山に登るので、それほど楽ではない。それでも午後4時までには着くだろう。

津照寺までは住宅ばかりだったが、津照寺から先は、お店も休憩所も頻繁に現れるので安心である。再び55号線に出るまでの間にも、薬屋さんや酒屋さん、魚屋さんやガソリンスタンドもあった。どうやら、このあたりが室戸市街の中心地のようである。ただし、全国チェーンのコンビニがない。GPSの電池が心細いので補充したいのだが、置いてありそうなお店が見当たらない。

まあ、今日明日くらいは大丈夫だろうと先に進む。55号線をしばらく進むと海岸線と内陸寄りの2本の道に分かれて、内陸寄りの方に「金剛頂寺↑」の表示があった。交通量は海岸線の方が多いが、ここは表示にしたがって内陸寄りに進む。暑くてのどが渇いて仕方がなく、自動販売機を見つけるとこの日何度目かのペットボトル一気飲みである。

落ち着いてあたりを見ると、左右に水田が広がるおだやかな景色だ。病院を過ぎ、橋を渡ると、民宿うらしまの前に出た。道の上に「金剛頂寺→」の表示がある。さて、ここで問題である。右に行けとの案内表示だが、右に折れる道は前後2つあるのである。

一方は民宿うらしまに達する前に右折して川沿いに進み、もう一方はうらしまを過ぎてから右に曲がる。遍路地図では民宿うらしまの先を右折するように見えるが、そもそも遍路地図のうらしまの位置が実際と違う。いったんはうらしまの先を折れたけれど、「元小学校方面」と書いてあるので、金剛頂寺への道とは違うようである。

ちょっと迷ってうろうろしていると、通りかかった郵便局の人が「どちらに行かれますか?」と親切に訪ねてくれた。「金剛頂寺に登りたいんですが、どちらを曲がるのか分からなくて」と言うと、「川沿いにしばらく行くと、案内がありますよ」と教えてくれた。お礼を言って、そちらの道を歩き始めた。川に沿って200~300m進むと、道は左にドッグレッグして山に向かう。

正面の山の上が金剛頂寺のようだ。山の中腹を右に大きく迂回する車道が見えるが、相当大回りしているので歩くのは時間がかかりそうだ。かといって直登すれば傾斜が急だし、山道で虫がたくさんいたら嫌だ。そんなことを考えながら山の中をよく見てみると、深い森の中に電柱が何本か見える。あるいはこちらが旧道で、車も通れる道かもしれない。

だとすれば、それほど心細い道ではないだろうと考えて、直登ルートを登ることに決めた。幸い、道案内は山の中の細い道を示している。道案内を立てているのは高知県観光振興部である。徳島では地元のロータリークラブが立てていたから、県によってかなり違うなあと思った。

という訳で直登ルートを登り始めた。登り始めは電柱もあるし簡易舗装もあるし、細いけれども車の通った形跡はあるので安心して歩けたのだが、5分ほど登ったところに簡易水道の施設があり、そこで電柱も簡易舗装も終わっていた。その後は、例によって登山道である。ひいこら言いながらスイッチバックの急坂を登って行く。

金剛頂寺の標高は145m、最御崎寺とほぼ同じ標高である。山登りでは標高差300mの登りに私の足で1時間かかる。とすると、標高差約150mだからあと30分かかる。30分は長いが、ここまで来てしまったら仕方ない。あきらめて登る。路面は石段であったり擬木で階段状になっているので、手までは使わないで登ることができる。

登り始めて25分ほど、ようやく山門が見えてきた。こういうケースでは、山門の先にも石段がずっと続いていることがよくあるのだが、それほど長くなく石段も終わって金剛頂寺の境内に出た。午後3時40分到着、津照寺から1時間20分だから、まずまずのペースであった。




国道55号から右に折れ、元川沿いに山の方に入る。



方向的にはこの山の上が金剛頂寺になる。右に大きく迂回する車道が見えるが、直登する道にも電柱が見えるのでそれなりの道があると思ったのだが。



電柱と簡易舗装があるのは山の中の簡易水道施設までで、そこから上はやっぱり登山道。

龍頭山金剛頂寺(りゅうずさん・こんごうちょうじ)、室戸三寺の西寄りにあるため、「西寺」とも呼ばれ、ご詠歌には「月のかたむく西寺のそら」と詠まれている。

創建当時は「金剛定寺」(こんごうじょうじ)という寺号であったが、嵯峨天皇の命により金剛頂寺に改めたという。嵯峨天皇は空海に弘法大師の諡号を贈った天皇であり、京における真言宗の本山ともいえる東寺(教王護国寺)を下賜した。能書家としても知られ、空海とともに三筆のひとりに数えられる(もう一人は橘逸勢)。

金剛頂という寺号は、「金剛頂経」から採られたものである。山号の龍頭も世界の頂という意味であり、金剛頂経と関係がある。金剛頂経の内容を図解したものが金剛界曼荼羅であり、胎蔵界曼荼羅(大日経を図解したもの)とともに真言寺院には必ず掲げられている。これら2つの経典は。真言宗にとってきわめて重要なものである。

その重要な経典から名前を採っているのだから、この寺はたいへんに重視されていたということである。こちらの寺に納められている金剛頂経・大日経は平安時代に写されたもので、日本最古とされ重要文化財に指定されている。また、鎌倉時代には最御崎寺と金剛頂寺の住職は兼務であったことから、これらの寺が真言宗の重要な寺院として一体管理されていたことが分かる。

ご本尊は薬師如来。薬師如来は阿弥陀如来との対比では前世を司る仏様とされるが、そのお名前と薬壷を携えていることから、古くから病気回復をお願いする仏様であった。だから平安時代以降に阿弥陀如来(極楽浄土)が重視される前には、弥勒菩薩、観音菩薩とともに薬師如来が信仰の中心となった寺が多かったのである。

山門をくぐってすぐ、「こちらから室戸方面が一望できます」という立札があり、案内に従って墓地の横に出ると、なるほどすばらしい眺めであった。切り立った崖になっている金剛頂寺の東の斜面から、 これまで歩いて来た最御崎寺・津照寺の方角を望むことができる。昼に見た室戸スカイラインからの眺めの反対側ということになる。

雄大な風景をしばし楽しんだ後、改めて境内に向かう。正面が本堂、左手が大師堂である。本堂には「瑠璃光殿」の額が掲げられている。もちろん、本尊薬師如来の瑠璃光浄土から採られているのだろう。

大師堂は納経所をはさんで山門側にある。この大師堂は修行の邪魔をする魔物を大師が退散させたとの言い伝えがあり、魔物を追い払った足摺岬の方を向いて建てられているという。読経を終えて納経所に向かう。

納経所には若い男性と年配の女性がいて、ご朱印の係は若い男性の方である。TVでゴルフの中継を流していて、それをご覧になっているようだ。もちろん、ちゃんと納経はしてくれる。「本日泊まりなのですが、宿坊はどちらですか」と尋ねると、「こちらの建物に沿って右手に進んでください。2階が入口になります」とのお答え。さっそく指示にしたがって宿坊に向かう。

宿坊は、いったん坂を下りて、再び上がったところが入口になる。もしかすると、翌日は逆方向に下りることになるので、本堂は再び通らないのかもしれない(実際そうだった)。重要文化財があるという宝物殿が少し心残りだったけれど、それらしい建物は見つからなかったし、もし入れるのなら宿坊で案内があるだろうと思って先に進む。

宿坊の入口にはWEBのとおりに押しボタンがあった。押してみると、「開いてます。お入りください」と返事があった。開き戸を開けると、もうそこにお寺の方がスタンバイされていた。この日の歩数は36,897歩、GPSで測った距離は20.9kmであった。



ひいこら言いながら、ようやく山門へ。大きな草鞋が出迎えてくれる。



金剛頂寺本堂。山の上なのに、かなり境内は広い。というのは、山の西側は広く台地状になっていて集落もあるのだ(翌日分かった)。



金剛頂寺宿坊。エントランスと部屋は2階に、食堂・浴室・売店等が1階にある。

金剛頂寺の宿坊は、WEB上の毀誉褒貶が激しい。たいへん面倒見のいい宿だという評判もあれば、インターホン越しの対応がよろしくないし食事も冷たいという評判もある。

まず応対について言うと、私の時にはチャイムを押すとすぐ中にお寺の方がいてくださったので何の問題もなかった。少人数で運営されていることから、特に1階で準備していると(厨房は1階である)、玄関のある2階まで応対に出ることが難しい場合もあるだろうが、それは仕方のないことだと思う。

食事はたいへん豪華で、食べきれないくらいだった(実際、夕食は炊き込みご飯を食べたら、白いご飯まで入る余裕がなかった)。瓶ビール1本と洗濯・乾燥機使用料を入れて1泊2食7,100円だから、高くないどころか格安である。

この日の泊まりは4名。その中で先達らしいご年配の言うことには、こちらの宿坊は港の魚屋さんにとって上得意なので、魚は間違いないとのことである。本当に、かつおもまぐろも新鮮で、この値段でここまでしていただいていいのかと思ったくらいである。刺身の他にも、天ぷらや煮つけ、焼き魚などお膳いっぱいにお料理が出されて、写真に収まりきらないくらいであった。

お風呂がまたよかった。4、5人はいっぺんに入れる大きな浴槽で、バブルジェットが2人分噴射されている。鯖大師では泊まりが一人だったため部屋のユニットバスになってしまったので、たいへんゆったり入ることができてうれしかった。

そして、カラン(シャワー)の水の出が勢い良かったことが非常に印象深かった。こんな山の上なのにふんだんに水があるのだなあと思ったものである。ただ、これは翌日、反対側(西側)に向かってみると広く台地状の土地で集落もあったので、水道がちゃんと通っているからだと納得した。

金剛頂寺の宿坊で忘れてはならないのは、部屋の窓からの展望がすばらしいことである。前回書いたように、山門の脇、墓地のあたりからも室戸岬への展望が開けているのだが、角度的にはほとんど同じ風景を宿坊の窓から見ることができる。しかも宿坊の方が2階なので視線が高く、応接椅子に座って展望できるのはたいへんありがたいことであった。

はるか室戸岬を望みながら、最御崎寺はどのあたりだろうか、街のどのあたりを歩いてきたのだろうかと振り返るのも楽しいし、夜になってからの夜景もすばらしい。ちょうど満月に近かったので、夜7時過ぎに雲の間からまんまるな月が霞んでいたのは幻想的だった。室戸の山の上は真っ暗で、ひとつだけ灯りが見える。最御崎寺よりも上の方だったので、258mピークの電波塔だろうか、などとと考えていた。

洗濯機・乾燥機はそれぞれ3台ずつ、お風呂場の前にある。コインランドリーではなく宿代と一緒に精算する。乾燥機が電気式なので乾くまでに時間がかかるのだが、この日は泊り客が少なかったので特に問題はなかった。ただし、泊まり客の数次第では混む場合もあるだろうから、着替えは多めに用意しておくのが無難であろう。

8時半頃には床についてしまったので、真夜中に目が覚めて眠れなくなってしまった。仕方なく、応接椅子に座って夜景を見たり、遍路地図を引っ張り出して翌日の予定を確認する。翌日は標高430mの神峯寺まで登って下りてくる、今回遠征で最もハードと思われるスケジュールの1日である。

[行 程]津照寺 14:20 →(2.9km)15:05 民宿うらしま前(ちょっと迷う)15:07 → (1.2km)15:40 金剛頂寺 (泊)

[Mar 18, 2017]



金剛頂寺宿坊の内部。室戸方面に景色が開けている側に泊ることができた。この日の宿泊は4名。



窓からは室戸岬を望むことができる。海に突き出た突端が室戸岬。この日歩いて来た道のりを振り返る。夜景もまたすばらしい。



たいへん豪華な金剛頂寺の夕食。これで文句を言ったら罰が当たります。この他にもご飯、お吸い物、お漬物など、とても食べきれない。

番外霊場不動岩大師堂・御霊跡 [Oct 15, 2016]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2016年10月15日、事前の計画段階においてかなり重要なポイントと思われたのはこの日であった。前の日は金剛頂寺泊、この日は奈半利泊。最初下りでその後はほぼ平坦な17kmなので、奈半利までは問題はない。そこから5kmで唐浜(とうのはま)、唐浜から登りを4kmで神峯寺、「まっ縦」と呼ばれる土佐の難所である。

遍路地図のコースタイムは8時間半、ということは、7時半に出発すれば午後4時には着くはずである。ちょうど同じルート(金剛頂寺→神峯寺→ホテルなはり)をとったWEB記事によると、金剛頂寺を午前7時半に出て、ホテルなはりに荷物を置いて神峯寺に午後4時過ぎに着いている。

とはいえ、4日連続での歩きは初めてであり、疲れが出る頃合いでもある。標高差400mは鶴林寺・太龍寺に匹敵し、けっして楽ではない。あれこれ考え合わせると、神峯寺まで打てればよし、打てなくて唐浜まで進み、神峯寺は奈半利に戻って翌朝一番となってもそれはそれでよしという計画を立てた。

金剛福寺からの下りは、少し遠回りだけれど不動岩経由とすることにした。金剛頂寺の人に不動岩への行き方を尋ねたところ、「ぜひ行かれてください。弘法大師様が修行された当時、室戸岬の御蔵洞のあたりは水面下だったらしいですから、修業されたのは不動岩のあたりに違いありません」ということであった。

「住職が高知に出張中で」とのことで朝のお勤めはなく、他の3名は7時に出発、私もやや遅れて7時15分に宿坊を出る。10kgのリュックを持つのは昼までで、午後はホテルに荷物を置いてデイパックで歩く予定である。

宿坊を出て、教えられたとおりに本堂とは反対側に出る。意外と平坦な道が続き、畑や民家も現れた。登りで通った東側の道は急斜面だったのだが、下りで使う西側の道は山の上が台地状になっていて集落がある。朝早いのに、もう農作業をしているお年寄りもいた。

田畑の間や家の裏手のような所を20分ほど歩くと、小さなお社があって、そこから先はスイッチバックの登山道となる。急傾斜の坂道を下って行くと、やがて小ぶりなお堂と集会所のような建物のある海岸に出た。不動岩大師堂である。ここまで40分、7時55分に到着。

この大師堂は、江戸時代に金剛頂寺が女人禁制であった頃は、女性のみの納経所であったということである。ベンチと自動販売機が置かれている。案内所のような建物もあったが、この日は閉まっていた。せっかくなので、大師堂の裏手、海岸沿いの遊歩道に進んでみる。

確かに、海側には洞窟がある大岩だが、現在はコンクリで補修されていてらしくない。それよりも感動したのは海の眺めで、奈半利から南国、高知にかけてぐっと窪んだ海岸線が、今度は左の方向に幾重にも連なっていて、彼方に霞んだあたりはどこになるのだろう。条件がよければ足摺岬まで見えると、昨晩一緒だった人が言っていたのを思い出した。

改めて身支度を整え、国道55号線を奈半利に向かう。しばらくは、歩道の上に道端から雑草か伸びてきて歩きにくい道だ。数百メートルで道の駅キラメッセ室戸に出るが、あいにく工事中である。まだ朝早いので、工事中でなくてもやっていたかどうか分からない。トイレだけ使わせていただく。

真念「道指南」によると、金剛頂寺の後「ぐろみ村 きらかは村 はね浦」と村が続く。ぐろみ村とは道の駅の後点々と家が続くあたりで、このあたり国道と並行して生活道路が走っている。こちらの方が歩きやすいので使うけれども、ときどき集落の中に入ってしまいどこに出るのか分からないので、そういう場合は安全を期して国道に戻るのである。

さらに歩くと「傍士漁港」(ほうじぎょこう、と読むらしい)という看板があり、そのあたりから急に建物が多くなった。国道から右に分かれ道があって、どうやらその先が吉良川の街並みになるようである。



金剛頂寺の西側は山上が広く台地状になっていて集落もある。江戸時代には女性の納経地だったという不動岩大師堂に向かう。



不動岩大師堂。右手の岩の裏は洞窟になっており、空海が修行したのは御蔵洞ではなくこちらという説もある。



不動岩から西の海を望む。見晴しが良ければ、足摺岬まで見えるということである。

吉良川の街並みに入ったのは9時少し前。不動岩からちょうど1時間歩いたので休む頃合いだったのだが、たいへん風情がある街並みにもかかわらず、休む場所やお店が見当たらないのである。町の中心部に、最御崎寺や金剛頂寺の山道で案内を見かけた虚空蔵空間という民宿があって、喫茶もやっているらしいのだが、この日は扉が閉ざされていた。

そして、当然のようにコンビニはない。古いお店の看板が掛けられている家が多いのだが、それが現在もやっている店なのか、飾りとして置いてあるだけなのかはよく分からない。少なくとも、2軒ほどあった旅館は、遍路地図には載っていない宿であった。

そんなことを考えながら歩いているうちに、町はずれまで来てしまった。これは国道に戻るしかない。でも、どこかで休みたいなと思っていたところ、旧道から国道に出る合流点に東屋があり、そこにトイレと自動販売機があった。時刻は午前9時半。不動岩から1時間半かかった。

この休憩所から羽根浦まで、さらに1時間半。目の前に立ち上がっている稜線がだんだんと近づく。真念はここからあの稜線上にある中山峠を越えた。その遍路道を通る人も多いのだが、午後のまっ縦を控えて体力を温存するため、距離は長いけれども標高差のない羽根岬ルートをとる。羽根岬の休憩所は岬の突端から少し進んだところ、トイレと東屋がある。

羽根岬に回り込むあたりが羽根浦で、古くからの村である。紀貫之が、奈半利と室津港の途中で停泊した港でもある。この羽根浦の市街に入る時、大きな看板で「ローソン」と書いてあった。おお、ここにコンビニがあるのかと思ってよく見ると、「あと9k ローソン奈半利店」と書いてあった。おお、あとたった9kmかと思ったのだけれど、よく考えると9km歩くと2時間かかるのであった。

羽根岬を越えると加領郷で、この集落は道指南でも「かりやうご浦」として記録に残っている。この集落のはずれに御霊跡(ごれいせき)という場所がある。ここは弘法大師が修行した地と伝えられているところで、海沿いに記念碑が建てられ、小さなお堂もある。

御霊跡まで来ると奈半利の市街が見えてくる。海に向けて3つ4つの稜線が下りてきているが、一番向こうがこれから登る神峯寺の方面だろうか。国道を歩いているのでキロポストがあり、この日は朝から㌔12~13分のペースを維持している。10kgの荷物を背負っていることを勘案すると、結構なハイペースである。

出発する前には寒くなるのを心配して、Tシャツを置いて長袖のトレーナーを持ってきたくらいなのだが、実際にこちらに来てみると毎日好天で暑いくらいである。おかげで、常に汗びっしょりである。お腹はそれほど減らないけれども、喉が乾いて仕方がない。奈半利の街の入口あたりで、この日3度目の500ml一気飲みをする。それでも、すぐ汗になって出てしまう。

御霊跡から1時間ほど歩くと、奈半利の街である。ごめん・なはり線の終着駅で、鉄道駅があるのは3日前に通った甲浦以来である。街中に入ると、道が二つに分かれる。左の道は港に向かう下り坂であるが、右の道は丘を越えて登って行く。ホテルなはりは右の道のようだ。遍路地図では、道の登り下りはよく分からないのであった。あきらめて坂道を登る。

登って下ると、右手に看板と、黄色い5階建ての建物が見えてきた。ホテルなはりである。お昼前に着ければ最高だったのだが、12時半到着であればまずまずであろう。フロントに荷物を預け、アイスクリームケースの中から「爽」のヨーグルト味を見つけて購入。なぜか、この遠征ではカロリーになるものより冷たいものが欲しかったのだ。

この日の宿は、こちらホテルなはりである。だからリュックは預け、最低限の荷物をデイパックに詰めて神峯寺に登り、ごめん・なはり線で帰ってくる計画なのだ。12時50分出発。まず目指すのは、7km先の唐浜である。

[行 程]金剛頂寺 7:15 →(1.9km)7:50 不動岩 8:05 →(5.1km)9:20 吉良川休憩所 9:30 →(7.6km)11:00 羽根岬休憩所 11:05 →(5.9km)12:20 ホテルなはり→

[Apr 1, 2017]



吉良川の街並み。風情ある古い家が多いのだが、残念ながら休むところがない。



吉良川から国道に復帰したあたりで休憩所発見。ようやくひと息つくことができた。海の向こうが行当岬。不動岩のあるあたり。



弘法大師が修行したと伝えられる御霊跡(ごれいせき)。背後に見えるあたりが奈半利の街。

二十七番神峯寺 [Oct 15, 2016]

ホテルなはりに着き荷物を置いて、デイパックと遍路バッグのみの軽装で歩き始めたのは12時50分。当初の計画では、唐浜に着くのが3時を過ぎるようだったら神峯寺は翌日に回そうと思っていたのだが、天気予報では翌日は雨ということである。できればこの日のうちにクリアしてしまいたい。

そして歩き始めると、それまでの10kgのリュックがなくなったものだから、背中がたいへんに軽い。昔よく聞いた「裸同然」というフレーズが脳裏をよぎる。

(注.競馬で、ふだんハンデ戦で重い負担重量で走っている馬が、天皇賞や有馬記念を57㌔58㌔で走るとそう言われた。昔は現在と違い、賞金を稼ぐとすぐに60㌔以上で走らされたのである。)

奈半利では、宍喰以来久々のコンビニ、ローソンが国道沿いにある。前の日から気になっていたGPS用の電池と、クーリッシュバニラ味を買う。昼食はホテルなはりで「爽」を食べただけだが、全くお腹がすかないし、暑いので体がアイスクリームを欲している。歩きながらクーリッシュを絞って吸っていると、アイスの甘味がたいへんにおいしい。

奈半利ローソンを過ぎてしばらく歩くと、国道から左に折れて「←へんろ道」の案内がある。いつもの遍路シールでなく手作りの木の案内板である。指示に従って国道を離れると、田野の古い街並みに出た。

田野は真念「道指南」でも、「たの浦よき町なり」と書かれているくらいで、かつて漁業で栄えた名残りがいまでも残っている。奈半利はビルやホームセンターが多かったが、こちらは低層の木造家屋が多く、蔵のような造りの大きな建物もみられる。人通りはほとんどないが、しっとりと落ち着いた街並みである。

ただ、街中を右に左に折れるしなかなか終わりが見えてこない。風情があるのはいいけれども、せいぜい二、三十分と思っていたので、だんだん不安になってくる。もしかすると距離的にかなり遠回りになっているのではないかと心配になってきた。午後2時近くまで1時間くらい歩いてようやく、左手から国道が下りてくるのと合流した。

合流して少し歩くと安田町である。このあたりは、国道に歩道がなく歩きにくいので、並行する旧道を通る。ときどき、ガード下を通るなどたいへん分かりにくい道だが、方向としては西だから間違える心配はない。役場を過ぎてしばらく行くと、神峯寺への道が右折と指示されて、ここからは細い田舎道となる。

WEBによく出てくるビニールハウスの前を通り、農家の間を通る細い道を抜けると、ごめん・なはり線の鉄橋下に出た。ここが四つ角になっており、直進すると唐浜駅、左折すると国道55号線に出る。表示に従ってここを右折して神峯寺に向かう。時刻は午後2時25分。ホテルなはりから1時間半ほどかかった。

WEBによるとここから1時間で登ったという記事もあるのだが、そんなに簡単にいくのだろうか。午後5時までの納経時間には間に合いそうであるが、計画では、引き返して唐浜5時33分の列車で奈半利に戻ることになっている。すると、制限時間は3時間ほど。できれば1時間少しで登ってお参りを30分で済ませないと、きびしいことになる。



いよいよ奈半利に入り、ホテルに荷物を預けて身軽になった。いま通っているのが国道55号、向こうの鉄橋がごめんなはり線。



へんろ道の案内にしたがって田野の街に入る。真念が「たの浦よき町なり」と書いたように、かつて漁業で栄えた名残が残る。



安田を過ぎて、いよいよ神峯への登りに向かう。まだ2時半なので余裕だと思ったのだが…。

竹林山神峯寺(ちくりんざん・こうのみねじ)。寺伝でも神功皇后創建とされているから、もともとは神社である。明治の神仏分離令により神峯神社と神峯寺が分けられてしまったが、江戸時代のご朱印所は現在の神峯神社であり、神峯寺はお籠りをするお堂があったところという。

ご本尊は十一面観音。十一面観音は六道の観音像の中でも古い時代によく作られたもののようで、奈良のお寺でよくみる。四国札所の中でこの仏様をご本尊としているところは、一ノ宮はじめ神社関連のお寺が多いようだ。ここまでの例では十三番大日寺のご本尊が十一面観音であるが、ここは江戸時代には阿波一ノ宮が札所であった。

ごめん・なはり線鉄橋下を通過するのは目標としては2時、遅くとも3時と考えていた。実際に着いたのは2時半だからかなり微妙なところである。時間があれば江戸時代の札所である神峯神社まで足を伸ばす計画もあったのだが、寺よりもかなり上にあるようなので難しいかもしれない。

しばらくは人里を山の方向に歩いていく。石造りの橋を抜けて、にわかに登り坂になる。いよいよ神峯寺への登りである。道案内には「神峯神社まであと4km」と書いてある。かなり長い。距離だけで1時間かかる。標高差があるので、その分余計にかかると考えなくてはならない。

ひとしきり坂を登っても、田畑やビニールハウスがある農家の風景が続く、いったん平坦な道になり、再び登り坂になる。左に「大日寺方面」と書いてある農道が分かれるが、遍路地図の唐浜に抜ける道だろうか。軽トラックを止めて農作業をしている人を見かける。午後3時になると、防災無線からラジオ体操が流れてきた。音楽に合わせて、手足を動かしながら坂を登る。

農道分岐を過ぎてしばらく登ると、道路右手に比較的新しい2階建ての住宅が現われた。裏手に野球グラウンドでも作れそうな広い空地が整備されており、その向こうに見える山がばっさり削られて茶色の山肌があらわになっていることから、ちょっと只物ではない雰囲気がある。宗教施設か何かだろうか。手入れはされているようだが、ひと気はない。

謎の施設のすぐ上が、車道と登山道の分岐点となる。あと2kmと書いてあるので、残り半分ということになる。しかし、もうすでに4、50分登っている。1時間というWEB記事は何だったのだろうか。登山道は暗いし、「まむし注意」の立札がある。

こういうケースでは苦労する割にそれほど時間が変わらないことが多いのがこれまでの経験則である。ノータイムで車道を選択するけれども、それでもかなりすごい傾斜である。とても、平地を歩くようなスピードでは歩けない。

そして、すぐ横を遍路姿の乗客を乗せたワゴン車のタクシーが何度も行き来する。車道だから仕方がないが、そのたびによけなければならない。これで登山道を選んでいたらさらにきつい傾斜になるところだった。まさに「まっ縦」である。

途中のベンチで一度、駐車場の横の自販機で一度休む。自販機では、この日何度目かのペットボトル500ml一気飲み。駐車場から上も、さらに登らなくてはならない。神峯神社の鳥居で道が分かれて、ようやく先が見えた。神峯寺着は午後4時ちょうど、ごめん・なはり線の四つ角から1時間半以上かかった。私には1時間ではとてもじゃないけど無理である。

山門のところで、前の日に金剛頂寺で一緒だった2人組とすれ違って挨拶する。出発で20分くらい遅れたから、結果的にはそれほど差がついた訳ではないようだ。山門から少し先には「神峯の水」という湧水が盛大に出ていて、手水場を兼ねている。水を汲みに来ている人もいた。かなり冷たい新鮮な水だったので、駐車場の自販機で一気飲みしなくてもよかった。

納経所はこのレベルの高さにあるが、本堂・大師堂へは「神峯の水」の横の石段をさらに上に登らなければならない。車で上がってきた団体のお遍路さんは体力が余っているのでおしゃべりしながら軽快に登って行くが、私はここまでやっとのことで登ってきたのでさすがに厳しい。大師堂のところにベンチがあったのでしばらく休ませていただく。

お寺の人が、高枝切りばさみを使って樹木の剪定をしていた。ここから神峯神社に登る道が案内標示に書いてあったのだが、すでに時刻は午後4時半、列車に間に合うかどうか心配なのに、もう一段上のエリアにある神峯神社まではちょっと無理なのであきらめた。江戸時代には札所だったという神社まで行きたかったのだが残念である。



登り始めて2km、謎の施設の先で車道とへんろ道が分かれる。暗いし傾斜は急だし、まむし注意なので車道を通ることにする。



ようやく着いた境内でも、石段の傾斜は急だ。右手の水は「名水神峯の水」。水を汲みに来た人もいた。



もっとも高いエリアにある神峯寺本堂。本堂と大師堂は上写真の石段の上、納経所は下にある。

午後4時半になったので、重い腰を上げる。あと1時間で唐浜の駅まで着けるだろうか。かなり疑問である。「魔境なるの故に、申の刻より後は人行く事を得ず」と四国遍礼霊場記に書かれているように、神峯寺は暗くなる前に引き上げなくてはならないとされている。 昔は不定時法だから、申の刻までということは、日が暮れる前に下山しろということである。

さて、下りは登りと違って息が切れたり疲れて休んだりしなくてすむから、時間は節約できると思ったのだが、実際にはこの下り、傾斜がすごく急なので早く歩くことができないのであった。ある意味、登りよりも下りの方が傾斜が急に感じた。車道でさえそうなのだから、登山道はさらにすごい傾斜になっているはずである。もう日が沈んで足下が暗いし、まむし注意なので通る気は全くなかったのだけれど。

だから、登りよりも時間が節約できたのは休んだ時間くらいで、下りなのにスピードは上がらなかった。途中で、5時33分唐浜発のごめん・なはり線はちょっと難しいと思った。ところが、次の列車の時間を入れてあったiPADはホテルなはりに預けている荷物の中なのであった。次の列車は何時だったろうか。いずれにしても、大体1時間に1本しか走っていない。

その場合はどうするか。国道55号に出て、室戸方面行きのバスに乗るのがもっとも早そうだと思った。途中のバス停で見たところでは、5時台は40分くらいだったような気がするから、それを目指すことにしよう。

山の中なので、日が沈むとどんどん暗くなる。急傾斜の車道を過ぎて謎の施設を過ぎた頃には午後5時を過ぎた。登りの時は農作業をしている人がいたのだが、誰もいなくなってみると大変さびしい道である。歩きで下っているのも私だけである。

曲がりくねった道を一生懸命下って行くのだが、なかなか人里に着かない。登る時はこんなに遠かったろうかと思う。魔境といわれるのも納得である。いよいよ5時半近くなり、止めてある軽トラの姿を見かけるようになって、ようやく道が平らになった。ここから川沿いに歩くと、ごめん・なはり線の高架下に着くはずである。

記憶違いで5時40分発なら間に合わないこともないとはかない期待を抱くが、高架下にさしかかった時、線路の彼方に前照灯を光らせた列車らしき姿が見えた。そして、それが徐々に近づいて来て、目の前で高架上の線路を通り過ぎて行った。ということは、神峯寺からここまでの下りに1時間以上かかったということになる。

下りでさえ1時間以上かかるのだから、登りが1時間で済む訳がない。ということは、そもそもここを午後2時半に出発するのでは遅すぎであり、さらにいうとホテルなはりを午後1時では遅いということである。

後から考えると、ホテルなはりに正午に着かなかった時点でこの日は唐浜までにすべきところだった。そうなると、この日はホテルに預けてきた10kgのリュックを、どこに預けるのかという別の問題が出てくるのだが。

十字路を国道方面に直進して、バス便に望みをかける。室戸あたりからよく見る津波タワーを抜け、民宿浜吉屋の横を抜け、直売所のような建物を抜けると国道55号、バス停はすぐそこである。時刻表を見ると、なんと5時台は35分、そうか、行きに見てきたバス停よりも早く着くのだから時間も早いのは当り前である。

とはいえ、まだ5時40分である。バスが5分くらい遅れるのはよくあることで、前の日うまめの木から引き返したバスなどは10分遅れていた。ということでしばらく待つけれども、全然来る気配はない。こういう時に限って、遅れないで時間通りに行ってしまったようである。

仕方なく、携帯でタクシー会社に電話する。まず104に掛けて、「安田タクシーの電話番号は?」と尋ねたところ、そんな会社は載っていないと言われた。仕方なく、近くにある電話ボックスに行って明るいところで遍路地図のコピーを見ると、そこに電話番号が載っていた。タクシーではなく「安田ハイヤー」だった。

電話すると5分くらいで来てくれた。役場前を抜け、田野のあたりを抜け、奈半利駅前、市街地を過ぎてホテルなはりに着いたのは午後6時ちょうどであった。かなり冷や冷やものだったが、結果オーライだったようである。料金は1,780円。半日歩いて来た割には、たいしてかからないんだなあと思った。

この日の歩数は62,908歩、GPSの距離は35.5kmと、今回も含めこれまでの区切り打ちで最高の歩数・距離であった。しかも400mの標高差もクリアしているのだから、大したものといえば大したものである。



神峯寺からの急傾斜は、下りの時の方がよりきつく感じる。



ごめんなはり線の高架下では、乗るはずだった奈半利行きがちょうど通り過ぎて行った。そのまま国道まで出て、バスに望みをかけたのだが。(この写真は翌朝)



国道55号線から神峯寺方面を望む。どのあたりだったんだろう。この写真も翌朝で、当日はもう真っ暗でした。

さて、いろいろなWEBの記事をみると、土佐の難所・神峯寺の麓にはあまりいい宿がないというのが定評である。このあたりに宿がないというのは弘法大師の時代からのようで、大師が貝を採ってきた女性に施しを乞うたところ、「この貝は食べられない貝だから」とすげなく断られたという話が真念「道指南」に書いてある。

そこで大師は、こういう連中をこのままにしてはよろしくないと、その貝を煮ても焼いても食べられなくしてしまったという。鯖大師の馬方はあやまれば許してくれたのに、本当につっけんどんでとりつくしまがなかったのだろう(私でなく真念が言っていることです)。

そういう訳で、この日は奈半利に戻ってホテルなはりに泊まる計画を立てたのだが、実はこの遠征で夕食が付いている最後の宿でもあった。ここまで4泊、宿に着けば食事の心配をしなくて済んだのだが、これからは懐具合や腹の減り具合、疲れ具合と相談しながら自分で考えなくてはならない。

逆に言うと、おそらく毎日カツオやまぐろが出るのだろうから、目先を変えて普通のものを食べたくなるだろうということを想定したのである。確かにここまで四日間、ごはんと刺身が続いたけれども、飽きたのかと言われるとそうでもなかった。むしろ、夕飯を何にするかという余計な心配をしなくてはならなくなったのは負担であった。

ホテルなはりには部屋にユニットバスがあるのだが、大浴場もある。フロントから階段を登ったり下りたりしなければならないので、長距離を歩いてきた身にはちょっとこたえるのだが、温泉の大きな浴槽でゆっくり手足を伸ばし、太ももやふくらはぎをマッサージできるのは、大浴場ならではである。大浴場の横にはコインランドリーがあり、汗まみれの衣装を洗濯する。お風呂に入っている間に洗濯して、乾燥機に入れたタイミングで食堂に向かう。

夕食は「土佐まぐろ御膳」と名付けられたまぐろ尽くしである。前菜にはまぐろスモーク、酢の物は鮪の皮、お刺身はもちろん天然南まぐろの赤身と中トロ、陶板焼きは鮪カマと野菜の蒸し焼きである。他にも海老のてんぷらや野菜の煮物が付く。とりあえず生ビールを2本立て続けに空けて、自分自身の健闘をたたえる。

お刺身はさすがに本場である。脂がのって大変おいしい。となると、やはりビールでなく日本酒である。メニューを見て、地酒飲み比べを注文する。南特別純米、慎太郎純米、土佐鶴特別本醸造が、冷やしたグラスに出される。いずれも、土佐の酒である。普段東北系の日本酒ばかり飲んでいるものだから、ちょっと口当たりが違う。もちろん、鮪にはよく合うのであった。

さて、この夜のことだが、午後10時前に横になりしばらく眠ったのだが、夜中に体中に激痛が走って目が覚めた。時計をみると真夜中少し前だった。足だけでなく、腰や背中もひどく痛む。風呂上りにバンテリンを塗ったのだが、効きがよくなかったようだ。もう一度塗る。荷物の中に痛み止め薬がないかどうか探したのだが、なんと、持ってきていなかったのである。

海外旅行の時は、睡眠導入剤や痛み止めは必ず用意するのだけれど、国内ということで油断して、普段飲んでいる糖尿病の薬の他は、風邪薬と胃薬、それも2、3包ずつしか持ってきていない。仕方なく、胃薬より痛みに効きそうなパブロン風邪薬を飲み、エレベーターでフロント階まで下りて自動販売機にあったビタミン+アミノ酸ドリンクを買って飲んだ。

神峯寺までのダメージが大きかったのか、はたまた日本酒が効いてしまったのかと思ったのだが、午前3時過ぎにもう一度起きた時には、大分痛みが和らいでいたのでちょっと安心した。

[行 程]ホテルなはり 12:50 →(7.1km)14:25 ごめんなはり線鉄橋下 14:25 → (3.6km)16:00 神峯寺 16:30 →(4.3km)17:40 唐浜東バス停(→ホテルなはり(泊))

[Apr 19, 2017]



ホテルなはり。昼過ぎに到着し荷物を預けて神峯寺に向かった。



ホテルなはりの夕食まぐろづくし。今回の遠征で夕食がつくのはこの日まで。



思わず注文してしまった地酒飲み比べセット1,350円。南、慎太郎、土佐鶴の吟醸冷酒。せっかく高知に来たのでこのくらいは。

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