この図表はカシミール3Dにより作成しています。

印西大師2日目←  二十一番竜腹寺地蔵堂  二番竜泉院  番外萩原新田弥陀堂
七十五番松虫寺   五十二番岡の堂   五十三番迎福寺  旧三十八番平賀離れ島
四十九番円天寺   六十六番来福寺   → 印西大師4日目


深川不動尊に地蔵堂を譲った竜腹寺 [Mar 30, 2022]

3日目の朝になった。初日に予定したルートを歩くことができず、約2時間遅れとなってしまった。2日目はがんばったのだけれど、1時間半遅れまで挽回するのがやっとだった。

3日目は、2日目の予定を3ヶ寺回ってから当初予定のコースを進むことになる。あいにくと小雨がぱらついているが、予報では暖かくなるという。前日よりさらに早く7時半スタート。最初は、家から20分ちょっとの竜腹寺である。

竜腹寺はこの周辺の地名にもなっている古寺で、一番札所の泉倉寺より古い歴史を持つ。3つに割けた竜が落ちてきたという伝説があり、腹が落ちたから竜腹寺。他に竜角寺、竜尾寺がある。

竜腹寺の本堂は20年以上門が閉じられたまま中に入れない。入れるのは、100mほど北にある延命地蔵尊で、ここに仁王門と数々の石碑、共同墓地、集会所がある。

現在の竜腹寺延命地蔵尊は地元の人達だけが訪れる場所になっているけれど、第二次大戦以前はもっと大きなお堂であったという。というのは、江戸時代のお堂は、東京大空襲で焼失した深川の成田山別院に移築されたからである。現在の深川不動尊である。

そのことは本埜村の村史にも記載されており、延命地蔵尊前にある「大悲利生無窮」の石碑にその経緯が刻まれている。70年経過して字が読みにくくなっているのだけれど、成田山からの要請に檀家一同協議したうえ、寄進することになったという。

現在の地蔵尊も年季が入っているように見えるのだけれど、60年ほどしか経っていないことになる。確かに土台のあたりしっかりしているし、一回り大きい建物が建っていたとしても不思議はない。

歩き終わって特に思うのだけれど、歴史のある建造物や美術品だからといって、それだけで尊重されて末永く保存される訳ではない。国宝や重文なら国の予算が当てにできるが、そうでなければ基本的に所有者の負担である。

特に、大きな建造物を維持管理していくためには、財政的な裏付けがどうしても必要になる。個人の住宅だって20年に1度くらい大規模修繕が必要だ。歴史ある建物であればなおさらである。

だから、そういう建物の管理を住職一家とか檀家一同で面倒をみようとするには無理がある。成田山という財政的にまったく問題のない組織が管理保全してくれるのであれば、お任せする方が得策のように思える。

桓武平氏の千葉氏の庇護を受けたことから、延命地蔵尊の脇には千葉氏の奥方の髪を祀った髪塚がある。浮気性の亭主を恨んで入水自殺したため、祟りを恐れてお祀りしたと説明が書かれている。

竜腹寺本堂は100mほど日医大側の扉に閉ざされた一角にある。私が越してきた20年前からこういう状況である。中はたいへん広く、公開しないのはもったいないくらいである。扉の前から中を見ると、かつて札所だっただろう小堂が、本堂の前で寂しげである。

現在の延命地蔵堂の右前に二十一番、本堂寄りの仁王門前に三十九番のプレートが貼られた小堂がある。ともに、ご詠歌の額が掲げられているが、墨が薄くなって読めない。四国二十一番は大龍寺、竜腹寺と同じ「龍」の字である。

竜腹寺から、水田に沿った田舎道を東漸寺(とうぜんじ)まで10分ほど歩く。立派な石造りの山門に「天台宗」「東漸寺」と刻んであるが、中に建っているのはコミュニティセンターで、ポストの表示だけ「東漸寺」である。

遠目からお寺のように見える赤い屋根は稲荷神社で、2尾のお狐様が拝殿を守っている。札所は稲荷神社の前にあって、四十五番は神社前から水田を望み、三十五番は神社に正対して、桜の下にある。

四国四十五番は深山幽谷の岩屋寺、明治ルートでは東漸寺本堂に当てられている。お四国において重要な札所の一つであり、発案者である南陽院も、隣村の中根に置いたのはそれなりの思い入れがあったかもしれない。

三十五番は同じ中根の浪ノ堂にあったが、現在は四十五番とともにここ東漸寺にある。これについてはどうやらいざこざがあったようで、三十五番のプレート・ご詠歌を掲げている札所が別にある。かなり先なのでいまから申し上げておくと、発作(ほっさく)にある最勝寺である。



3日目の朝は小雨。三十一番竜腹寺地蔵堂は立派なお堂だが、もともと竜腹寺は千葉氏の庇護を受けた下総でも有数の大寺院だった。





竜腹寺本堂は、深川の成田山が大空襲で被災したため、そちらに移築された。現在の深川不動尊である。(資料出典「本埜の歴史」)




東漸寺。稲荷神社左に四十五番、対面して三十五番札所がある。これは三十五番。

巡拝は旧印旛村に入る

六番・十八番の札所がある安楽院は、旧・本埜村の荒野という集落にある。「こうや」という名前ではあるが、住宅と畑は高台に、低地に水田のある農業集落である。

すぐ近くに印旛日本医大の駅があるので開発が進んでもおかしくないが、いまのところ工業団地も倉庫もコンビニもここにはない。集落の奥に入ると、昔ながらの田園風景である。

その奥に、集会所と公園、消防倉庫が集まった一角がある。そこに、六番・十八番の札所が置かれている。集会所のある一角の入り口に「天台宗」「安楽院」の石柱が立っているが、お寺自体は残っていない。

集会所前にあるのは六番。四国六番は安楽寺だからここに安楽院があったのだろう。明治ルートでは1丁(約100m)離れたところにあった十八番名木の堂の札所は、現在は集会所と対面した公園の遊具の前に置かれている。

遊具に囲まれた中に、南無大師遍照金剛の供養塔が置かれている。大正時代の日付がある。左側面に「先達 南陽院・西福寺・龍泉院」とあるから小廻り大師である。その後ろに、如意輪観音も何柱かいらっしゃる。手を合わせてお参りする。

荒野集落の隣は旧印旛村。最寄りの萩原集落へは水田の中を2kmほど回り込まなければならない。直線距離で進もうとすると、そこはニュータウンの住宅地なのである。

五十七番慶昌寺は萩原集落に入って3つめくらいの道を入る。お隣にご住職の家が建っており、境内は広く本堂前には桜が満開であった。本堂は大きく、札所は本堂の左にある。

横長の小堂で中には2体のお大師様がいらっしゃる。ご詠歌の額はかけられているものの、墨が薄くて読みづらい。四国五十七番は八幡宮、「…来世は人を救う弥陀仏」と書かれているのであろう。 慶昌寺から次の二番竜泉院は直線距離で100mも離れていない。現在は萩原構造改善センターと八坂神社の脇にある札所で、最初ちょっと探した。

この竜泉院、近年になって無住となり構造改善センターになったと思われるが、かつては萩原集落の中心的なお寺だったのではないか。というのは、小廻り大師大師供養塔に先達として刻まれているお寺のひとつが、「萩原龍泉院」なのである。(龍泉寺と刻んである供養塔もある)

萩原近辺には、慶昌寺もあるし松虫寺もある。なぜ、竜泉院が幹事役となったのか、あるいは、南陽院のご住職と歴代仲がよかったのか、想像すると楽しい。いずれにしても、西福寺も竜泉院も、南陽院から歩いて30分ほどで着く距離である。

萩原も小林も、南陽院のある笠神と隣り合わせの位置にある。だから印西大師は、もともとこの地域限定で構想されたのかもしれない。近在の仲のよかったお寺とかお堂に、四国八十八ヶ所のお砂を埋めるというのがもともとの発想だったのではないだろうか。

本山の泉倉寺に相談したから、真言宗の寺に筋を通さなければとか言われて、話が大きくなってしまったのだろうか。実際歩いてみると、旧本埜村では共同墓地やお堂に札所が置かれているのに、それ以外の地域では古くからあるお寺なのに札所でないという所もある(日蓮宗系など)。



荒野安楽院。こちらにも札所は2つあり、消防施設の側に見えているのが五番、十八番は対面して遊具の中にある。



五十七番慶昌寺からは旧印旛村に入る。布袋様の後方、本堂の前に札所がある。



二番竜泉院は慶昌寺からすぐ近く、構造改善センターと八坂神社の前にある。最初ちょっと探した。

萩原新田周辺の番外札所

さて、明治ルートでは萩原の慶昌寺、竜泉院(現構造改善センター)をお参りした後、萩原新田の番外札所をお参りすることになっている。

竜泉院は二番という目立つ番号であり、小廻り大師の先達のひとつにも挙げられているので、おそらく近在で名前が通っていたお寺であったと思われる。記念碑の一部に「竜泉寺」という表示もあるので、ご住職がいらっしゃったことは間違いなさそうだ。

印西大師の「小廻組」については、ほとんど資料がなくよく分からない。名前からして、八十八巡拝するのは日数もかかり難しいので、一部をお参りしたものと推測される。

そして、小廻組の痕跡が残っているのは、旧本埜村と旧白井町周辺に限られるのである。おそらくこれらは別の組であったと思われる。前者は墓石に似た規格の供養塔があり、後者は回向柱が立てられている。

旧本埜村の小廻組は、供養塔に先達として、竜泉院・西福寺・南陽院の名前が刻まれている。建立年月は古いもので明治時代、新しいもので昭和三十年代の日付がある。

地域的には、もっとも木下寄りで平岡東大寺と別所地蔵堂、もっとも日医大寄りで萩原観音堂にある。ただし、私のお散歩コースで探した範囲なので、もっと広い範囲にあるのかもしれない。

小廻りとはいえ、1日で回るとなると昔の人の足でも相当ハードスケジュールである。それぞれの場所でお接待もあっただろうから、1泊2日とか、日を改めてということだったかもしれない。

さて、先達の一寺が萩原竜泉院なので、萩原新田周辺にも小廻組の供養碑が残っている。場所がはっきりしないので当日はお参りできなかったけれど、後日お参りすることができたので補記しておく。

萩原新田弥陀堂は、萩原新田の真ん中、神社と集会所のある一角にある。古い地図で「本埜村飛び地」とあるあたりで、県道本埜線の分岐のすぐそばである。

本埜第二小・プレーゲ本埜老健施設のある低地にあり、萩原集落の人達が開発したことから萩原新田の名前となった。萩原から直線距離で1kmほど離れているが、あたりは低地なので遠くに望むことができる。移ってきた人達も、それほど寂しくはなかっただろう。

札所の横に小廻り組の供養塔がある。きっと、毎年春の巡礼の際、萩原からお参りした人達がここの集会所に泊まって旧交を温めたのだろう。集会所は近年建て替えられた新しいものである。

萩原新田弥陀堂から15分ほど笠神方向に歩くと、大日堂と稲荷堂がある。大日堂は集会所と併設され、お大師様のいらっしゃるところだけ格子になって、お参りしやすくなっている。その横に稲荷神社があり、神社と並んで稲荷堂の小堂がある。

大日堂と稲荷堂は明治ルートでは二丁(約200m)離れていることになっているが、今日では隣り合わせにある。小廻り組供養塔もあるので、場所は間違いないようだ。

建物の新しさからみると、大日堂の方が近年遷されたもののように思われる。時期的には、印旛沼整備事業(昭和20~30年代)というよりもウルグアイラウンド(昭和60年代)かもしれない。水路整備と区画整理に際し、ここに集約されたのだろう。



萩原新田の番外札所は、県道本埜線の入口付近にある。低地で間に何もないので、約1km離れた萩原集落まで見渡すことができる。新田に移ってきた人たちも、寂しくなかっただろう。



下曽根新田大日堂は、いまはコミュニティセンターに併設されている。格子戸になっている奥にお大師様がいらっしゃる。



明治ルートでは大日堂から二丁離れている稲荷堂は、いまは大日堂のすぐ横にある。この周辺はウルグアイラウンドで区画整理された場所なので、おそらく大日堂の方が遷ってきたものと思われる。

松虫寺と周辺の札所

慶昌寺とすぐ近くの萩原構造改革センターにある竜泉院から少し戻り、印旛沼方向に進んだ後再び集落の坂道を登ると、七十八番観音堂である。

観音堂は、印西大師の札所にたいへんよく出てくるお堂である。それだけ、江戸時代以前には観音様の人気が高かったということであろう。観音様は法華経におけるスーパースターであり、ウルトラマン的な存在であった。

目立つのは大きな狸の像。信楽焼だろうか。観音堂も札所も傾いているが、柱にも細かく透かし彫りの入った手の込んだものである。札所の横には「南無大師遍照金剛」の小廻り大師供養塔が建つ。

観音堂の次は番外札所の猫屋敷、弥陀堂という順路である。猫屋敷はすぐ近くの八坂神社脇の共同墓地の中、弥陀堂は先週説明した1kmほど離れた萩原新田にある。

次の松虫寺までは、ニュータウンの中を通るルートもあるが、田舎道を辿ることもできる。坂を下って登ってのハードな道だが、途中の路傍に小さなお堂がある。番外札所の権現下かもしれない。

七十五番松虫寺は、以前にも何度か来たことがある古寺である。聖武天皇の皇女・松虫姫が転地療養したという伝説がある。札所は、本堂への参道入口にある。

四国七十五番は善通寺だから、発案した南陽院もこのお寺に敬意をもっていたことがうかがわれる。宗旨は真言宗だが、新四国霊場勧請にあたり松虫寺へは結願寺をお願いしていない。村落の菩提寺的な寺ではなかったのかもしれない。

松虫寺は通常「まつむしでら」と呼ぶし、集落の名前も「まつむし」である。しかし、明治ルートでは「しょうちう寺」と表記していて、寺号としてはもともと「しょうちゅうじ」なのかもしれない。

ここからは200mも歩かないうちにニュータウン区域に出るが、巡行はそれとは逆側に進む。次の六十八番大竹は、坂を水田地帯まで下りて、少し登り返した場所にある。ここも、かなり分かりにくい場所である。

というのは、札所からもう少し登ると大竹集落で、ここには昔、何世帯か住んでいたのは確かなのだが、いまでは廃屋が数軒残るだけなのである。近くの畑や山林に柵がしてあるので管理はされているようだが、しばらく前から誰も住んでいないように見える。

旧印旛村にはこうした廃屋は少なくないが、1/25000図に建物の表示があって、小字名も残っている集落に人が住まなくなっているのは、もしかするとここだけかもしれない。日本全国を見れば、いまや珍しくもないことかもしれないが。



七十八番萩原観音堂は竜泉院から坂を登る。信楽焼の狸がたいへんユーモラス。なぜここに?という疑問はあるが。



七十五番松虫寺は聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)ゆかりの寺。散歩で何度か来たことがある。



松虫寺から谷を下ると六十八番大竹。すぐ裏にあった大竹集落は廃屋群となってしまっている。

印旛沼を望む高台にある札所・岡の堂

大竹札所から坂道を下り、水田地帯を印旛沼に向かって歩く。振り向くと、北千葉道路の高架橋が見えるのだが、前を見ている限り現代的な構造物は何も見えない。

左手の山すそに障害者福祉施設いんば学舎がある他は、低地は水路と水田、その上に雑種地、谷地田の両側を覆う小高い丘と林だけである。水路に沿って印旛沼方向に進む。右手の一帯は吉高(よしたか)と総称される。

吉高は単一の集落ではなく、いくつかの集落から成り立っている。もっとも西にある舟戸集落は、北千葉道路改修以降交通量が目立って少なくなった国道464号旧道を挟んで、萩原・松虫の逆側にあたる。

ここは、かの柳田国男が土蔵の中で熟読したという「利根川図誌」の著者・赤松宗旦が長く過ごした母方の里で、近くの印旛沼に伏流水が噴き出していたという佐久知穴(さくじあな)があったと記している。

その穴は大小五つあり、どのくらい深いか分からないほどの穴から伏流水が「水面より一、二尺も高く吹き上げ」ていたという。ボラの子が大量にいて、水揚げするとすぐ死んでしまうので当地の漁師しか食べることができなかったという。

この穴は、印旛沼治水事業の進展とともに埋められて水田となってしまったが、いくら土を入れてもすぐに沈んでしまうような土地だったと言われる。

その舟戸集落の入り口近くにあるのが、十九番西の堂である。大竹から約1km。国道464号旧道を渡って、15分ほど歩く。

敷地は集会所と共同霊園となっており、札所は横長の小堂で2体のお大師様がいらっしゃる。定期巡行の時期だからだろう、小さな花束が供えられている。

西の堂から、吉高集落を奥へ奥へと進む。小字名は舟戸から仲村となる。10分歩いても、集落は続いている。警察署の「駐車禁止」の看板が目立つのは、このあたりで有名な「吉高の大桜」が近いためだろう。ここに駐めても、かなり歩くのだが。

奥まったところから左折して印旛沼に向かって坂道を登る。はじめはゆるやかだが、だんだん急になる。道幅は広くないのに、ここしか道がないから車も通る。息を切らせて急坂を登り切ったところに、五十二番岡の堂がある。

四国五十二番は松山市近郊の太山寺。やはり急坂を登る札所である。ご詠歌も「太山へのぼれば汗も出けれど」で、印西五十二番も同様に汗が噴き出してきた。

他の札所のように小堂ではなく、中に何人か入れるくらいのお堂にプレートが貼ってある。屋根の上に「大山」とあるのは、太山寺を意識したものだろうか。お堂の前には小堂があり、こちらにも石造りのお大師様がいらっしゃる。

そして、急坂を登ってきただけあって、岡の堂の前から印旛沼を望むことができる。たいへんのびやかな景色である。ただし、順路は印旛沼に向かって伸びる道ではなく、さらに細い畑の中の道を進む。心細い山道は、宗像神社に向かっている。




十九番西の堂周辺はいまでも多くの家々がある。共同墓地があるのは、印西札所でよく見る立地。



坂道を登ると五十二番岡の堂。屋根の上に「大山」とあるのは、四国五十二番の太山寺を意識したものか。ご詠歌にあるように、「登れば汗」の出る札所です。




岡の堂のすぐ近くから印旛沼を望むことができる。

印旛沼捷水路を越える

岡の堂と迎福寺(こうふくじ)の間には、明治ルートでは美加堂という番外札所がある。これは、経路上にあるし距離的にも合っているので、宗像神社の参道にある小堂でおそらく間違いないだろう。

五十三番迎福寺は吉高集落の印旛捷水路寄りの平地にある。曹洞宗のお寺で、石造りの立派な山門がある。曹洞宗は全国的にもお寺の多い宗派だが、当地の場合は鎌倉以来の名門千葉氏が帰依した影響が大きかったらしい。

2022年現在工事中で、何か新しい建物ができるようだ。札所の隣にある記念碑らしきものにも、養生のブルーシートが被せられていた。スカイアクセスと北千葉道路からは目と鼻の先で、そのためなのか広い駐車場があり、新しいトイレも備えられている。

札所である大師堂は、他の場所の多くが高床式の簡易な小堂であるのに対し、一回り大きく地面からきちんと建っている。ただし、人が入ってお勤めできるようには作られていない。やはり、曹洞宗で大きな大師堂という訳にはいかないのだろう。

迎福寺の次は、明治ルートでは一丁半(約150m)の距離に、広畑堂という番外札所が記されている。ちょうどそのくらいお寺から離れた坂の途中に、市の文化財である高さ117cm、幅93cmの板石塔婆の納められたお堂がある。

板石塔婆は板碑ともいわれ、現代の卒塔婆にあたるものだが、木ではなく石で造られている。五輪塔や宝篋印塔に比べると目立たないが、武蔵型と呼ばれる形式の板碑は関東各地に点在している。

印旛沼に向かって下る斜面の中ほどにあり、広畑堂という名前とはしっくりこないが、室町時代前期に作られた古いものである。せっかくなので、ここもお参りした。

さて、これから印旛捷水路を越えて、旧印旛村の突端にあたる山田・平賀地区に入る。北千葉道路の高架下をくぐり、捷水路にかかる橋を渡る。このあたり、北千葉道路の建設中に書いた記事で、大きな鉄橋のできたあたりである。

ここまでは、ニュータウン区域外とはいっても、スカイアクセス・北千葉道路が見えていたし、すぐそばがニュータウンという安心感もあったけれど、この橋を渡るといよいよ前時代的な風景となる。

印旛沼治水工事でこれから歩く道路もきちんと舗装されたけれど、それまでここは印旛沼だったはずである。やがて、かつての湖岸に出た。

向こう岸の成田市まで、ずっと低地が続く。対岸になるのは、「きたなシュラン」い志ばしや、谷養魚場のあるあたりで、成田図書館に行く時に通る道である。かつて、佐倉宗吾が直訴のため江戸に向かった道とされる。

その右手はるかに、成田の市街地も見える。こうしてみると、その昔の印旛沼は広大だったと改めて感じる。いまは、カミツキガメで話題になるくらいだが、昭和になるまでここは、何度も洪水被害を招いた暴れ沼だったのである。



岡の堂から印旛沼に向けて坂道を下ると宗像神社前を通って迎福寺(こうふくじ)に至る。2022年3月現在工事中であった。



迎福寺境内の五十三番札所。前のブルーシートは灯篭か何かを養生していると思われる。



スカイアクセス&北千葉道路の高架下を通り、旧印旛村平賀に向かう橋を渡る。ここから先は、昭和初めまで印旛沼だった。

旧札所平賀離れ島まで歩く

この日のメインイベントは、平賀離れ島へのお参りであった。この旧三十八番札所は明治ルートに載っているし現在の大師巡礼でもお参りされている場所なのだが、現三十八番は木下の厳島神社なので、参考書に載っていないのである。

順路にも疑問がある。この離れ島は平賀にあると明治ルートに書かれているのだが、距離的には山田集落がやや近いし、平賀集落からは遠い。印旛沼の形状が変わったとしても、何か不自然である。

想像だが、印西大師に不可欠なお接待の担当をどちらの集落も嫌がったのではなかろうか。休憩や宿泊、飲食のお世話をしなければならないのだが、離れ島はどちらからも遠い。2kmほど離れているのではないだろうか。

明治ルートにある以上平賀集落の担当だったのだろうが、洪水で通行できなくなったりすれば無理である。そんなこともあって、古くからの霊場だったにもかかわらず、ナンバー札所から外れたのかもしれない。

印旛沼捷水路を渡ってしばらくすると、左手は成田市街までさえぎるもののない低地で、なるほど百年前まで印旛沼だった地形なのだが、正面に小高い丘が見えている。1km以上先である。

あれが離れ島であれば、なるほど印旛沼が暴れても島のままだったろうと思わせるのだが、どうみても自然の地形である。資料によると、県の古墳一覧にも載っている古墳だそうだが、一からあれを作ったとは思われない。古墳だとしても、自然の地形を利用したのだろう。

いよいよ離れ島が近づくと、道はかつての湖岸に沿って大きく回り込む。この道は治水工事以降に整備されたものだろうから、かつては陸側からお参りしたものと思われた。それにしても、参道が見えてこない。

島の3分の2ほど回り込んだ頃、ようやく頂上への参道が見えてきた。鬱蒼とした林の中を登って行く。その割に、雑草が道をふさぐことがないのは、定期的に除草されているのであろう。標高差40~50m登ると、ようやくお宮が見えてきた。

人が何人か入れる大きさのお堂が正面にあり、右手に札所でよくあるタイプの小堂がある。小堂が番外札所らしく、ご詠歌の額が掲げられているが、墨は消えてしまっている。なぜか、市で配布する賀正の紙が貼られていた。

正面のお堂はどこかの神社のように思われたが、何も書いていないのでよく分からない。周囲には古い手水鉢があるだけで、札所につきものの記念碑も庚申塔もない。やはり、もともとは古墳なのかもしれない。

明治ルートに載っていることからみてもここが旧三十八番であることは間違いなさそうだが、その経緯はよく分からない。実際にお参りしてみると厳島神社(現三十八番)ではなさそうだし、四国三十八番の足摺岬・金剛福寺との共通点も思いつかない。

あえてあげれば、印西大師のテリトリーの中でもっとも足摺岬的な、人里離れた雰囲気があるかもしれない。特に明治以前には、周囲に湿地帯が広がる中をここまでお参りするのは、距離以上に長く感じたことは確かなように思える。

さて、明治ルートのもう一つの疑問点は、平賀離れ島まで来てから、もう一度山田集落に逆戻りすることである。

かつての湖岸に沿って舗装道路ができた現在もそうだが、当時であっても先に山田集落の東寄りの札所を回り、平賀に行く途中に離れ島にお参りした方が距離ロスが少ない。

ただ今回は土地勘がなかったので、明治ルートにしたがって離れ島にお参りしてから山田集落の円天寺・円蔵寺を回ることになり、結果的に歩く距離が長くなってしまったのであった。



明治ルートで次の札所は平賀離れ島(花島)。かなり遠くから、印旛沼が干拓される前からあれは島だったに違いないと分かる。



山のように見える森をぐるっと回り込む。花島古墳群ともよばれるから、自然地形を利用した古墳だったのだろうか。



墳丘頂上には2つのお堂が並ぶ。右のお堂が旧札所でGoogle Mapに載っている。

射撃場の銃声が響き渡る平賀地区

平賀離れ島を出て山田の円天寺・円蔵寺に向かうと、すぐに気づくのが成田射撃場から聞こえる銃声である。周囲の山々に反響してずいぶん大きく聞こえるし、ひっきりなしに撃たれている。

地元の人達は慣れているのかもしれないが、普段聞きなれないとたいへん神経に触わる音である。銃声などというものは警戒心を高めるものだから、当然ストレスとなる。それが、5秒と開かないで次々と聞こえてくるのだ。

その銃声を聞きながら、あまり日の差さない暗い林の道を歩く。左手にサバゲーフィールドやオートキャンプ場が見えるが、車が入っていく様子はみられない。サバゲーフィールドは旧印旛村にはたくさんある。射撃場とも連携しているのだろうか。

30分歩いて、ようやく山田集落に入る。明治ルートには十二丁半(約1.3km)と書いてあるが、とてもそんな距離では着かない。しかも、この後同じ道を引き返すことになるのだ。

円天寺へは、参考書には広い道のように書いてあるのだが、実際は昔ながらの細い道である。舗装はされているがまっすぐでないし、車線は引いてなくて、道幅は何とか車がすれ違えるくらいである。

四十九番円天寺の山門前には、桜が満開であった。ここまでの道路が狭かった割に境内は広く、ご住職の家もそばに建てられている。

山門も本堂も鐘楼も立派で、何だかほっとする。本堂にお参りした後、鐘楼横にある札所に手を合わせる。お四国四十九番は浄土寺。念仏を唱えると口から阿弥陀仏が現れた空也像の置かれているお寺である。

七十三番円蔵寺は、円天寺から5分ほどの位置にある。立派な山門と石造りの仁王様がいらっしゃるお寺なのだが、庫裏と思われる建物にはひと気がなく、墓地と札所だけが寂しく建っていた。

Googleによると、すぐ近くに新しくできた墓地に観音堂があって、こちらが円蔵寺の管理らしいから、拠点はそちらに移っているのかもしれない。札所にお参りして、入り口にある賽銭入れの石塔に10円玉を入れたところ、石塔の中を通って地面に転がってしまった。

円天寺と円蔵寺の間に、明治ルートでは不動院という番外札所がある。ここは、円天寺からすぐの林の中を進み、何もない空き地に小堂だけが建っている。かつては熱心にお参りされたのだろうか、昭和四十三年の念仏講のご詠歌が掲げられていた。

山田集落を出て平賀来福寺まで、再び長い距離を歩く。結局さっき通った道を引き返しているとすぐに気づいた。離れ島から来た時に折れたT字路を直進する。印旛沼治水工事まで、平賀への道はここが主だったであろう。

山田から平賀へのメイン通りにふさわしく、何ヶ所か由緒ありそうなお堂を見つけた。あるいは番外札所だったのかもしれないが、明治ルートに書かれている距離と合わないのでよく分からない。旧印西町や旧本埜村のように、集会所や消防倉庫とセットになっている訳でもないようだ。

来福寺は、平賀でも一番先の方にあり、再び湖岸の道に出てまたもや出てきたサバゲーフィールドの近くである。平賀のランドマーク・順天堂大学が見えてきた。ここまで歩くことはめったにない。すぐ先は、JR・京成電車の走っている酒々井である。

「来福寺→」の案内看板を入ると、お寺が見えてくる。こちらも桜が満開だ。そして、遠目に見ても広い境内であることが分かる。さすが、天台宗中本山の泉福寺が、「お大師様を祀るならあの寺に話をしておけ」と言っただけのことはある。



離れ島から円天寺まで、来た方向に戻るように進む。射撃場の銃声がずっと響いていた。



円蔵寺はたいへん立派な石造りの門と仁王様だが、庫裏には誰も住んでいないように見えた。門のすぐ奥が札所。



円蔵寺から来福寺までたいへん長い。ときどき、由緒ありげなお堂がいくつか見られるけれども、番外札所なのかどうか同定できなかった。

真言宗の来福寺はさすがの大師堂

六十六番来福寺は真言宗で、結願寺のひとつとして印西大師の幹事役となっているお寺である。

南陽院の住職である臨唱法印が、水害や干害の被害に苦しむ農民を救うには弘法大師のお力に頼るべしという霊夢を見て、四国遍路に赴いたのは18世紀初め、享保年間のこととされる。

四国八十八ヶ所のお砂を携えて帰った臨唱が、地元に四国霊場のお砂踏みを作ろうと構想し、中本山の泉倉寺に相談したところ、お大師様だから真言宗の来福寺と広福寺に協力していただくようにと助言を受けた。

いまの発想だと、天台宗の僧侶がいくら夢のお告げがあったにせよ「南無大師遍照金剛」と唱えて八十八ヶ所を巡拝するのは違和感があるのだが、当時は歴史も宗教も教科書や参考書で勉強できた訳ではない。

まして、江戸時代までは神仏混淆であり、宗門は幕府の禁制によりきびしく管理されていた。神様仏様はみな同じであるというのが、一般庶民だけでなく多くの僧侶の感覚だったかもしれない。

来福寺が六十六番なのは、雲辺寺と似ているというよりも、八十八の4分の3というキリのいいゾロ目の番号ということだったらしい。同様の理由で、結願寺の残り2つ、広福寺は三十三番、南陽院は四十四番となっている。

お寺が近づくと、子供の声がしてなかなか賑やかである。札所回りをしてここまで、あまり子供の声が聞こえたことはなかった。春休みの時期で、子供が集まっていたのだろうか。

簡素な山門の横には、やはり満開の桜。大きな本堂と、小堂がいくつもある。そして、真新しい木で作られた大師堂が目立つ。中に人が入ってお勤めできる大きさのお堂は、札所の中でも珍しい。

その大師堂に、お参りする中で見慣れた印西大師のプレートが貼られている。いまのところ何だかミスマッチだが、年季が入って渋い色合いになれば気にならなくなるだろう。

広い境内なので見るものがたくさんあるし、階段を登った先にもお堂があるようだったが、時刻がすでに3時半だったので名残り惜しいものの切り上げることにした。帰りのバスの時刻が4時15分だったので、急がないとならない。

この日はできればもう少し先まで回りたかったが、平賀支所バス停まで着ければ旧印旛村役場までバスで戻ることができて、奥さんに迎えに来てもらうことができる。ぎりぎりもうひとつ、平賀観音院までお参りできそうだ。

六十九番平賀観音院は平賀支所から5分ほどの場所にあるのだが、Googleでは出てこないし、参考書を見てもたいへん分かりづらい。どうやら、資材置き場の奥に入るらしいのだが、資材置き場自体大きなものではなく、民家の物置きのようにも見える。

ただ、畑の向こうにそれらしき建物が見えたので行ってみると、はたしてプレートが貼ってあった。桜の大木と神社、奥に観音堂と思われるお堂と、札所の小堂がある。神社はお神輿を大きくしたような立派なものだが、Googleには載っていない。

四国六十九番は観音寺。「観音の大悲の力つよければ…」のご詠歌の額がかかっている。この日打ち上げの光明真言と「南無大師遍照金剛」を唱える。少しあわただしかったが、何とかここまでお参りすることができた。

5分歩いて平賀支所まで戻り、4時15分のバスに乗る。この日の移動距離は25.0km、歩数は43,142歩でした。

この日の経過
自宅 7:30 → (1.8km) 7:55 竜腹寺地蔵堂 8:00 → (1.2km) 8:25 東漸寺 8:30 → (1.2km) 8:50 荒野安楽院 8:55 → (2.0km) 9:30 五十七番慶昌寺 9:35 → (0.2km) 9:40 二番竜泉院 9:45 → (0.4km) 9:55 七十八番萩原観音堂 10:00 → (1.7km) 10:35 六十八番松虫寺 10:45→ (0.7km) 10:55 六十八番大竹 11:00 →(1.1km) 11:15 十九番西の堂 11:20 → (1.3km) 11:40 五十二番岡の堂 11:45 → (1.3km) 12:15 五十三番迎福寺(昼食休憩) 12:30 → (3.1km) 13:20 旧三十八番平賀離れ島 13:25 → (1.9km) 13:55 四十九番円天寺 14:00 → (0.8km) 14:20 七十三番円蔵寺 14:30 →(3.5km) 15:20 六十六番来福寺 15:30 →(2.2km) 16:00 六十九番平賀観音院 16:10 → (0.6km) 16:15 平賀支所前バス停   [GPS測定距離 25.0km]

[Aug 28, 2022]

参考資料
印西歴史愛好会編「印西大師八十八か所 札所めぐりで郷土の歴史を楽しむ」
北総ふるさと文庫「印西大師八十八か所(印西・白井編)」「同(印旛・本埜編)」
ままちゃり倶楽部印西支部「印西大師」(WEB)
五十嵐行男「印西風土記」
五十嵐行男「印西地方史よもやま話」
本埜村史編纂委員会「本埜の歴史」
白鳥孝治「生きている印旛沼」
水資源開発公団「印旛沼ものがたり」
筒井功「利根川民俗史」




順天堂大学さくらキャンパスがすぐそばになると、来福寺の案内看板が出てくる。ここも桜が満開で、小さなお堂もたくさん置かれている。



さすが真言宗のお寺だけあって、平成になって建てられた真新しい大師堂が見事である。六十六番と、ゾロ目の番号を持つ結願寺である。



八十九番平賀観音院は、平賀支所の近くではあるがたいへん分かりにくい場所にある。左が大師堂(札所)で、正面が観音堂だろうか。

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