この図表はカシミール3Dにより作成しています。
八十番竜淵寺 九番東祥寺 旧十三番城ノ内堂 三十三番広福寺
七十四番泉福寺 → 印西大師5日目
2日開けて遍路4日目は平賀スタート [Apr 2, 2022]
月曜日から水曜日まで3日間歩いた後、木・金は天気も良くなかったのでお休みした。その2日で、計画を見直してみた。
今回の印西札所巡拝を6日間で計画したのは、現在のお大師巡行が6日間なのでそれに合わせたのだが、実際に歩いてみると札所間の移動でさえ予定時間では難しいし、それではお勤めの時間もとれない。
私ひとりで光明真言のお勤めなら5分で済むかもしれないが、全員到着するのを待ってお勤めして後片付けしていたら、1札所で少なくとも10分15分くらいかかるはずである。ということは、現在の巡行で札所間の移動はおそらく車なのだ。
もっと早く気付くべきだったのにうかつなことであった。車移動と同じ日数で歩くことなど至難の技である。基本的に1日の距離が20kmとか25kmだから、そういうものと思い込んでいたのであった。
(平成はじめ、まだ歩き遍路の頃は9日間だった。この時すでに、明治ルートの一部は歩かれていないにもかかわらずである。)
それに気づいたので、6日で歩く予定を7日にした。初日・2日目になぜこんなに進まないのだろうと思っていたのだけれど、車に追いつこうとするのが無理だったのである。
4日目からは前日到達地が遠いので、家からスタートすることはできない。奥さんにお願いして、車で送ってもらう。バス路線はあるのだけれど、連絡が悪くて家から2時間近くかかってしまう。いまや、路線バスで通学する高校生などおらず、みんなスクールバスで送迎する時代なのだ。
家から10分ちょっとで平賀支所に到着、7時30分には歩き始めることができた。7時まで天気予報を見ていたのにすごいスピードである。奥さんに感謝である。
平賀支所から30分ほど送ってもらった道を戻る。旧印旛村役場から順天堂経由酒々井に抜ける道で、交通量が多い。しかし、左右が林で建物がないので、数百m先まで見通しが利く。かなり歩かなければならない。
成田射撃場のある角を左に入る。番外札所のように見える小堂を2つほど通り過ぎるが、この間、明治ルートに載っている番外札所は明光院1つである。どちらかがそうなのだろう。
五十六番仲井堂は仲井集落のかなり奥、もうすぐ印旛沼に下りるあたりにある。農家が続く細い道の先に、いきなり広い一角が出現する。昭和六十年代の四国八十八ヶ所巡拝記念碑と、平成に入ってからの出羽三山参拝記念碑が大きい。
奥に大きなお堂と小堂が2つ、左にある小堂が印西札所である。古びた集会所は、かつてお籠り堂に使われていたものだろうか。集落の規模に比べてかなり広い敷地だが、以前はもっと多くの家々に囲まれていたのかもしれない。ご詠歌の額はなかった。
仲井堂を過ぎると農家はなくなり、森の中を続く道を登りやがて下って行く。下り切ったところはかつての印旛沼で、捷水路の開通によって水田となった場所である。対岸は佐倉市。遠くに見える林の向こうに、岩名運動公園や草笛の丘がある。
岩名運動公園は、若い頃佐倉朝日マラソンで走ったことがある。陸上競技場を出発して、印旛沼だった水田地帯を走る。金メダリストQちゃんがトレーニングした場所でもある。何だか、同じような場所を歩いたり走ったりしているみたいだ。
4日目のスタートは平賀支所前。道路反対側に見える民家の向こうあたりが、前日探した観音堂のはず。
平賀支所から2kmほど歩いて成田射撃場の案内のある交差点を左に入る。集落の奥の方に仲井堂がある。
仲井堂から印旛沼に向けて坂を下りる。平賀のあたりは対岸が成田だったが、このあたりの対岸は佐倉、遠くの木々の向こうに岩名運動公園がある。
ナウマン象公園を抜けて普段のお散歩コースへ
仲井堂をお参りして、印旛沼に向けて坂を下って行く。前日歩いた平賀のあたりは、印旛捷水路の入り口付近で東寄りにあたり、対岸には成田市街を望んだが、こちらは捷水路の出口、新川を経て花見川に注ぐ印旛沼の南側である。
新川はいつ行っても岸辺に釣り人が並んでいる。釣った魚は食べられるのかといつも思うけれど、最近はスポーツフィッシングでキャッチアンドリリースが常識らしい。半世紀前とは、感覚が全然違うようだ。
六十二番西定寺は、印旛沼湖畔に建つ明るいお寺である。ご住職がいらっしゃって会釈すると「こんにちは」と言ってくださった。「天台宗」「西定寺」と彫った石柱の山門の奥にたくさんの観音菩薩像が並び、その奥に本堂がある。境内は広い。
札所の小堂は本堂の左、菩薩像の前にある。ご詠歌の額はあるけれども、やはり墨が消えてしまって読みにくい。おそらく、四国六十二番一ノ宮の「さみだれの後にいでたる玉ノ井は…」のご詠歌が掲げられているのであろう。
前日と前々日が雨だったが、この日は晴れて風もなくたいへん歩くのにいい日である。菩薩像の上に桜が散っている。まだ花は残っているけれども、雨で満開から葉桜に移る途中なのだろう。
西定寺のすぐ先が双子橋。ここは印旛捷水路の出口にあたり、ここから先は普段のお散歩コースに入る。
双子橋を渡るあたりに、地元では「ナウマン象公園」と呼ばれている双子公園がある。印旛沼治水工事で道路を作る際、ここでナウマン象の化石が出たからである。トイレも自販機もあって、使い勝手のいい公園である。
公園を越えると、瀬戸集落になる。千葉ニューに越してきた時しばしば来たところである。集落の中にお肉屋さん兼なんでも屋さんがあって、コロッケや鶏唐揚げ、トンカツなどの揚げたてを買うことができた。いまはもう、店を閉めてしまった。
そのお店があったのは集落の中心だが、印旛沼を見晴らす高台にも農家や農地が多くあって、七十六番特性院も印旛沼を見下ろす眺めがいい場所にある。
ここは、江戸時代に付近のいくつかのお寺をまとめたことから、合集山特性院多聞寺というのが現在の山号・寺号で、境内は広く本堂の他にもいくつかのお堂がある。
札所は山門近くのお籠り堂の横に、弘法大師遠忌記念碑などとともに置かれている。四国七十六番は金倉寺、「まことにも神仏僧をひらくれば…」のご詠歌が掲げられているものと思われるが、やはり墨が消えてしまって読めない。
金倉寺が善通寺からごく近い場所にあるのと同様、こちらも印西七十五番の松虫寺から近く、宗旨も真言宗でご住職も兼ねられているとのことである。そうしたこともあって、七十六番に比せられたのであろう。
やはり桜が見事で、何人かのお年寄りが集まって境内を散策していた。もしかすると、昔のお大師巡行の季節をなつかしんで、集まっているのかもしれない。
六十二番西定寺。印旛沼湖畔に建ち、日当たりのいい立地にある。境内も広々としている。
印旛捷水路の出口がある双子橋を渡ると瀬戸。ここからはお散歩でよく来るのでホームグラウンド感がある。
印旛沼を望む高台にある特性院。このあたりのお寺をいくつか併合したことから、合集山というのが現在の山号。
印旛村から日本医大駅に近づく
特性院から国道464号旧道に向けて歩く。周囲は高台なので畑作が盛んで、まだまだ開発は及んでいない。
前回書いた閉店した肉店のある瀬戸集落の中心に近づくと、民家が増えてくる。すぐ近くに六合小学校もあり、昔から人口の多い地域だったらしい。
集落の中ほど、宗像神社の近くに、地蔵堂と看板のかかった集会所風の平屋建てがある。ここが坪ノ内堂だったかもしれない。脱帽して、手を合わせる。
二十四番願成院は、かつて肉店のあった場所から日医大に向かって100mほどの位置にある。お寺があることは知っていたが、中に入ると境内がこれほど広いとは意外だった。
山門前に案内板があり、正式には無量寿山願成院本願寺が山号・寺号であると書いてある。本願寺というと浄土真宗みたいだが、宗旨は天台宗である。
本堂と馬頭観音堂が大きな建物で、他に小堂がたくさんある。明治ルートには、二十四番だけでなく、番外札所もあると書かれている。これだけたくさんお堂があると、どこからお参りするか迷うくらいである。
二十四番札所は山門横にある小堂の左側にある。大きな馬頭観音堂は、ここから右に進む。よく似た大きさでプレートのない小堂が並んでいるので、あるいはこれが番外札所かもしれない。
お参りを終えて時刻はちょうど10時。ちょっと早いけれどお昼にした。ベンチはなかったが、ちょうど座れるようなコンクリの土台がある。買っておいた菓子パンとテルモスのホットレモン。広い境内に私ひとりだけ。奥まった位置でひと通りもなく、のんびりする。
願成院のある瀬戸集落の目印は、国道旧道沿いの印旛郵便局とセブンイレブン。ここからだとこの日の午後に回る鎌苅集落に向かう方が距離的にずっと近いが、順路なので遠回りになるのは仕方ない。日医大駅近くにある角田(かくた)集落を目指す。
日本医大北総病院、スカイアクセス印旛日本医大駅あたりを抜けていく。このあたりは、家から歩いて30~40分の場所なので、よくお散歩に来る場所でもある。思わず家に帰りたくなるがまだお昼、遍路歩きでは一日が始まったばかりである。
明治ルートには、願成院・栄福寺間の距離は二十四丁十間と書いてあるが、私の足では約50分、GPS測定距離は3.7kmあった。1/25000図に定規を当てると11cmあるから直線距離でも3km近くあり、「十間」(18m)と細かく指定しているものの正確ではないようだ。
六十五番栄福寺には、旧本埜村唯一の国指定重要文化財の薬師堂がある。越してきた当時、本埜村に一つだけ重文があるのは妙だと思ったものだが、今回調べてみると印西町の光堂重文指定の際、「うちの方が古い」と主張したらしい。
本堂前に札所があり、2体のお大師様がいらっしゃる。左のお大師様が六十五番で、格子の奥である。右のお大師様は格子を隔てずに座布団にお座りになっている。「ビンズル大師 左甚五郎一夜の作」と書いてある。
左甚五郎といえば眠り猫だが、いくら名工の作だといっても、みんなが触っておびんずる様になってしまってはよく分からない。全国には左甚五郎作が百は下らないというから、そういうものだと思って頷くしかない。
二十四番願定院。寺号を本願寺というが、浄土真宗ではなく天台宗である。境内は広々としている。
願定院の山門・本堂を斜めから。赤い屋根の山門の横が札所。写している手前側に馬頭観音堂がある。
印旛村役場、日本医大前を経て1時間弱歩くと、角田栄福寺。この薬師堂も国の重要文化財。薬師堂前に、2体のお大師様がいっしゃる小堂。
集会所の軒先に鐘が下がっている竜淵寺
角田集落から、総武カントリー印旛コースの外周に沿って歩く。サントリーオープンの会場となることの多い総武カントリー本コースは、少し千葉ニュー寄りの草深(そうふけ)地区にある。
造谷(つくりや)集落は北総線印西牧の原と印旛日本医大の中ほどにある。かなり大きい地域で、水田のある低地を挟んで北側の台地と南側の台地に農家が点在している。
集落の北側は比較的小さいが、工業団地の開発が進んでいてにぎやかである。北総電車の車両基地がかなり広い場所を占めているし、最近ではヤマタネの大型倉庫をはじめとして進出する企業が増えた。
明治ルートに載っている虚空蔵堂は、こちらの側にある小堂を指していると思われる。共同墓地の中にしっかりした小堂が建てられていて、ナンバー札所より立派なくらいである。
南側には十一番真珠院がある。かなり大きな敷地に本堂と無量寿院という大きなお堂がある。集会所、児童公園、道路を挟んで消防倉庫と、札所につきものの施設が揃っている。
札所は、無量寿院の隣にある。他の札所と少し違うのは、共同墓地が近くにないことである。南陽院と同じ天台宗なのに、小廻り大師などの記念碑も見当たらない。
こちらのお寺は寛永寺の直の末寺として江戸時代に建てられたと記念碑に刻まれているから、地域の菩提寺とは違ったのかもしれない。
造谷集落から、印旛コースの橋の下をくぐって進むと、大廻(おおば)集落である。ここも、お散歩コースである。
大廻は旧印旛村でも早くから開けた場所である。大戦後に総武カントリーができ、近年になって高齢者福祉施設や最終処分場ができたことからへき地のイメージがあるが、かつては大きな農村集落であった。
昔、隣の鎌苅集落にお使いに出された若者が、「大ばか曲がり道」と道案内にあるので、自分は大馬鹿ではないから行かなかったという笑い話があるくらいである。「大ばか曲がり道」ではなく、「おおば・かまがり道」で、江戸時代の道案内はひらがななのでそういう話になったらしい。
八十番竜淵寺は集落のいちばん奥にあり、いまでは地域集会所の建物となってしまった。とはいえ、「竜淵寺」の題字が掲げられており、サッシの向こうに仏壇が見えるし、軒先には梵鐘が下げられている。市の広報資料にも出ている図柄である。
札所は集会所と向い合せの場所にある。こちらの側には消防倉庫もあり、ベンチも置かれている。この集落には他に念仏堂という番外札所があるが、集落から水田に下りるところの共同墓地にある小堂がそうなのではないかと思う。
水田地域に下りて、総武カントリー印旛コースの外周を回り込むと真珠院。寛永寺の直の末寺のためか、集落の規模に比べてたいへん大きい。
上の写真で本堂の右に写っている小さな屋根が無量寿院。その隣に札所がある。
大廻(おおば)集落にある竜淵寺は、地区集会所が寺になっている。軒先に下げられた鐘は、市の広報資料にも使われている。
印西大師で屈指の分かりにくい場所にある青竜堂
次の三十六番青竜堂は、印西大師でも屈指の分かりにくい場所にある。
日本医大北総病院の裏手に、旧印旛村役場付近から総武カントリーに抜ける片側一車線の車道がある。ここに、交通安全祈願の観音像があるのは前から知っていたが、その付近から細くて心細い道を下るのである。
水田のある低地に下りたところが古谷集落で、「青龍堂」の題字のある建物の脇に札所がある。建物はコミュニティセンターとして利用されていて、ガラス越しに昭和時代の賞状の数々と、トロフィーが置かれているのが見えた。
札所には何か落ちているので、落ち葉でも飛んできたのかと思ってよく見ると、小豆の入ったお赤飯が供えられていた。きちんと管理されているようである。
四国三十六番は青龍寺。もちろん、名前が似ているから選ばれたのだろう。ご詠歌ではなく、般若心経の書かれた額が掲げられていた。
青竜堂のある古谷集落から、坂を旧村役場方向に登るとすぐに鎌苅集落に入る。こちらも、古くから開かれた集落であり、印西市に合併される前の印旛村商工会はここに置かれていた。
古い集落の真ん中あたりに、曹洞宗の禅寺・東祥寺がある。こちらには、九番と四十番二つの札所が置かれている。明治ルートの時、すでに両方置かれていたから、それ以前にどこかの札所が遷されたものと思われる。
九番は山門の中、四十番は山門の外にあるので、四十番が後から遷されたのかもしれない。その2つの他に、山門横に「夢大師」と書かれたお大師様がいらっしゃる。
それぞれの札所には、四国九番法輪寺、四国四十番観自在寺のご詠歌が掲げられている。比較的新しく墨の色も鮮やかだったから、近年架け替えられたものであろう。
ご住職のご自宅もすぐ横にあって、お参りしていたらご挨拶くださった。子供の声もしていたから、まだお若いご住職なのだろう。次の世代まで続くことは、たいへんうれしいことである。
古谷集落の奥にある青龍堂は、印西大師の中で最も見つけづらい場所のひとつ。ここも地区集会所を兼ねていて、中には賞状やトロフィーが並んでいた。
坂を登って鎌苅地区に入る。ここまで来るとニュータウン区域が近く、すぐ裏が日本医大北総病院である。東祥寺は九番、四十番を兼ねる大きな曹洞宗の禅寺。
東祥寺の九番札所。山門の近くにある。四十番は山門の外なので、あるいは他から遷されたものかもしれない。
師戸集落にあったはずの十三番札所
鎌苅集落から次の師戸集落まで、印旛沼方向に歩く。再び県道を横切ると、資材置き場のような場所やサバゲーフィールドを過ぎて行く。
広福寺の前に、十三番城ノ内堂と番外札所堀込堂・西台堂を経由するのが明治ルートだが、その位置がはっきりしない。また、かつてナンバー札所だったものが移転したのはなぜだろう。
サバゲーフィールドの少し先が師戸集落の中心である。変則の五差路になっていて、左(東)に進むと岡台地区から印旛沼に下り、右(西)に進むと西台地区から師戸川に至る。1/25000図では「西谷」となっているが、土地の人は「西台」と呼ぶそうだ。地形的にも、西側の台地である。
明治ルートでは、東祥寺から十六丁で堀込堂、さらに一丁で十三番城ノ内堂とある。明治ルートの距離は必ずしも正確でないが、ごく近くに旧ナンバー札所と番外札所があることは確かなようだ。
五差路から東に細い道を少し入ると、まさに至近距離に二つのお堂がある。五差路に近い方は中に入れる大きさのお堂と、印西大師によくある小堂である。いずれも近年になって建て替えられたものだが、周囲の様子は最近のものではない。
お堂の周囲に、たくさんの古い石碑がある。あまりに古くて彫ってある字が読めないものも多いが、墓碑もあるし石碑もあるようだ。お堂自体は新しいのだが、掲げられている西国札所結願記念の奉納額は古い。
彫ってある字を読むと、明治時代に巡礼を始めて大正になって結願したとある。百年以上前である。ということは、お堂は建て替えられているものの、この場所自体は少なくとも明治時代からある可能性が大きい。
その数十m先、民家の庭先のような場所にもう一つ小堂がある。こちらは、印西大師の番外札所でよく見るお堂で、寄進者名簿があって般若心経の扁額が掲げられている。
明治ルートの距離からみて、これら二ヶ所のお堂が旧十三番城ノ内堂と番外堀込堂ではないだろうか。「城ノ内」というと師戸城(印旛沼公園)を連想させるが、このあたりの旧家で「城ノ内」という屋号があるらしい。
ではなぜ、十三番は現在では白井に遷されているのだろうか。推測だが、この付近で明治時代に自然災害(台風ないし暴風雨)があり、強風で広福寺の堂宇が倒壊したことがある。ごく近くにある城ノ内堂も、被害を受けておかしくない。
旧三十八番平賀離れ島もそうらしいが、自然災害で札所が被害を受けた場合、より市街地に近い、経済力のある地域に移転されることが多いようだ。施設を再建する費用もあるし、巡礼をもてなす宿泊や食事の手配もしやすいからである。
五差路に戻って西側、Google Mapで神社と書いてある竹林の中のお社から坂を下った集落の中に、西台堂と思われるお堂がある。横には集会所風の建物があり、お大師さまには「南無大師遍照金剛」のたすきがかかっている。
小堂は古びて傾いてしまっているけれど、きちんと手入れされていて、いまでも定期的にお参りされている様子である。集落の中なので、お参りもしやすいのだろう。
ここから広福寺まで明治ルートで三丁十間。距離も大体そのとおりである。広福寺方向に戻らず師戸川に沿って印旛沼に下ると、二十九番長円寺の前を通って印旛沼公園に出る。
※ 師戸集落の番外札所について、印西市立印旛郷土資料館にご助言をいただきました。
師戸集落の岡台地区にある由緒ありそうなお堂。建物自体は最近のものだが、周囲には古い石碑や墓碑がかなりの数残されている。
お堂に掲げられている西国巡礼結願記念の奉納額。お堂と比べてかなり古く見えるし、巡礼は明治に始まって大正時代に結願したと書かれている。
集落内の集会所前にある西台堂と思われるお堂。1/25000図の小字名は「西谷」だが、土地の人は西台と呼んでいるそうだ。場所的にも、師戸台地の西に位置する。
結願寺・広福寺にはひと気がない
三十三番と七十七番を兼ねる師戸広福寺は、南陽院・来福寺とともに印西大師の結願寺として、いまも幹事役を果たしているお寺である。ところが、私のお参りした時はひと気がなく、車さえ一台も駐まっていなかった。
巡礼期間中なのに寂しいものだと思ったのだが、これには理由があったかもしれない。というのは、ある場所でプリントを見つけて、それによると令和四年の結願寺は広福寺と書いてあるのである。
ということは、先達一行とともに、札所巡拝に同行していて、人も車もまったく見えなかったのかもしれない。私にとっては4日目だが、この日は4月2日、前日にこちらから出発して、この日は船尾から白井。私が2日後にお参りする札所を回っていたのかもしれない。
境内は広く、多くの石仏や庚申塔、記念碑がある。そして、結願寺にふさわしく、本堂前にお大師様の大きな銅像。やはり、真言宗のお寺でないと、ここまでお大師様中心にはできにくいのだろう。
本堂を中央に、右手にコミュニティセンターとその前に七十七番札所。「南無大師遍照金剛」の石碑が二つ。左手に三十三番と古い大きな石碑。造りもややこちらが大きく、もともと三十三番で、後から七十七番を兼ねたのだろう。
四国三十三番は雪蹊寺だが、江戸時代はじめまでの寺号は高福寺だった。読みが同じということもあって、当寺が三十三番になったものと思われる。
広福寺から印旛沼公園のある湖畔に下りると、二十九番長円寺がある。あたりは広々として開放感がある。師戸の宗像神社も近くにある。
長円寺も広々とした境内で、本堂の横に三つの小堂がある。右の小さい方が二十九番札所である。その傍らに大きな石碑が建つ。平成に入ってからの本堂再建記念碑である。本堂の横にコミュニティセンターの建物がある。
隣の家からはにぎやかな子供の声が聞こえた。塀で区分けされているので、ご住職ではないかもしれない。
師戸広福寺は三十三番、七十七番を兼ねる印西大師の幹事の寺だが、ひと気がなかった。この年の結願寺であることが判明したから、巡行していたのかもしれない。
本堂左に三十三番、右に七十七番のお堂が建つ。四国の三十三番雪蹊寺の江戸時代の名前が高福寺だから、もともとは三十三番だったものと思われる。
二十九番高円寺は印旛沼のほとりに建つ。こちらは隣から子供の声がしてにぎやかだ。
師戸から岩戸へ歩き、この日の打ち止め
師戸から岩戸まで、また少し歩く。印旛沼病院の裏手の水田地域を抜ける。岩戸集落は旧印旛村でも最も大きな集落の一つで、3つの札所6つの番外札所がある。
そして、旧印旛村に多い宗像神社の中心はこちらだったようで、明治時代には宗像村という名前だった。郵便局の名前も小学校の名前も「宗像」である。印旛村の歴史民俗資料館もここにある。
スケジュールを修正した甲斐があって、ほぼ予定どおりに歩くことができた。時刻はそろそろ午後3時。午後4時のバスで岩戸集落から旧印旛村役場に戻る計画である。
あと1時間しかないが、翌朝もここからスタートなので全部お参りする必要はない。まず、印旛沼病院の方向に少し戻った番外札所広済寺を目指す。これまでの田舎道とは違って、歩道のない2車線で交通量も多いので気を使う。
番外札所広済寺は本堂こそ残っているものの、新しく墓地に開発されているようだった.札所は本堂の横に残っているが、本堂の横に大きな霊園の看板があって、石材会社の電話番号が書かれているのは少し寂しかった。
再び交通量の多い県道を、集落の中心に向かう。道路の右側に、三十二番高岩寺がある。ここは、市の歴史教室で一度来たことがある。千葉氏の庇護のもと、たいへん栄えた曹洞宗の寺院という。
本堂はたいへん立派で、印西札所の中でも最大級の大きさである。道路に近い場所に七福神の福禄寿像と並んで、三十二番札所があり、横に集会所がある。本堂と離れているのは、お寺の所有地でないのだろうか。
高岩寺から県道を渡って、宗像小学校の裏手に七十四番泉福寺がある。札所は薬師堂の建つ一角に、四国巡礼記念碑、弘法大師供養碑と並んでいる。同じ札所でも、こちらの方に記念碑が多いのは、真言宗だからだろう。
札所も簡素な小堂ながら、彫刻も細かく手が込んでいる。境内を広く使って、四国八十八ヶ所の地図、巡拝記念碑、弘法大師石像も置かれている。
そして、こちらにある薬師堂も国の重要文化財である。室町時代に移築されたことが、分解修理の際に判明した。旧印西町の光堂、旧本埜村の栄福寺薬師堂とほぼ同時代で造りもよく似ている。
このあたりで時間になったので、宗像郵便局前のバス停に急ぐ。この郵便局前にも、地面に近い所に小さなお堂が置かれている。ここも、あるいは番外札所なのかもしれない。
この日の移動距離は23.3km、歩数は39,559歩で、前半3日間より約1割減った。
この日の経過
平賀支所前 7:30 → (2.2km) 8:15 五十六番仲井堂 8:20 → (1.4km) 8:40 六十二番西定寺 8:50 → (1.4km) 9:15 七十六番特性院 9:25 → (1.6km) 9:45 二十四番願定院(昼食休憩) 10:10 → (3.7km) 11:00 六十五番栄福寺 11:10 → (2.0km) 11:45 十一番真珠院 11:50 → (1.9km) 12:20 八十番竜淵寺 12:30 → (1.4km) 12:55 三十六番青竜堂 13:00 →(1.2km) 13:25 東祥寺 13:35 → (2.1km) 14:10 広福寺 14:20 → (0.9km) 14:35 二十九番長円寺 14:45 → (2.4km) 15:30 三十二番高岩寺 15:35 → (0.4km) 15:40 七十四番泉福寺 15:45 → (0.7km) 16:55 岩戸バス停
[GPS測定距離 23.3km]
参考資料
印西歴史愛好会編「印西大師八十八か所 札所めぐりで郷土の歴史を楽しむ」
北総ふるさと文庫「印西大師八十八か所(印西・白井編)」「同(印旛・本埜編)」
ままちゃり倶楽部印西支部「印西大師」(WEB)
五十嵐行男「印西風土記」
五十嵐行男「印西地方史よもやま話」
白鳥孝治「生きている印旛沼」
水資源開発公団「印旛沼ものがたり」
[Oct 23, 2022]
師戸から30分歩いて岩戸地区。宗像小学校、宗像郵便局、西部公園があり、印旛村でも古くから開けた地域である。高岩寺は千葉氏の庇護を受けた古刹。
国の重要文化財である泉福寺薬師堂。旧印西町の光堂、旧本埜村の栄福寺薬師堂も重文だが、これは偶然ではなく、指定にあたって「うちの方が古い」という話があったようだ。
泉福寺薬師堂の近くにある七十四番札所。四国巡拝記念碑や弘法大師供養碑もあるので、集落の大師講中心地として古くから位置づけられていたのだろう。
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