この図表はカシミール3Dにより作成しています。赤は4月に歩いたカンナ街道、紫は後日歩いた明治ルートと思われる経路。

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明治の先達、梶原石五郎の梶原大師 [Apr 8, 2022]

印西大師巡拝はついに最終日の朝になった。初日に予定したルートを歩き切ることができず、計画を見直して6日間を7日間に延長するハプニングがあったが、なんとか予定どおり4月8日の誕生日に結願できそうだ。

白井の湯を経由するコミュニティバスは、7時56分白井駅発。間に合うよう早めに家を出る。工業団地に通勤する人達で満員になり立つ人もいる。料金は150円。新京成バスの路線もあるが、料金はもう少し高いはずである。

8時20分少し前に白井の湯に到着。近年できた割にはオールドファッションなスーパー銭湯である。車中泊YouTubeのらんたいむがここに来たことがあるが、外にトイレがあっただろうか。

バス停前の道路はすでにすごい交通量である。落ち着いて身支度もできないので、そそくさと出発。この日まず目指すのは、古名内集落にある嘉兵衛前という番外札所である。

印西大師については参考書もWEBもあるので、ナンバー札所がどこにあるかは地図付きで調べることができる。それでもどこにあるか分かりにくい札所もあるのに、番外札所は何の資料もない。見つけるのに困難を極めるが、ともかく行ってみるしかない。

今回はできるだけ明治ルートを歩きたいと思ったので、長楽寺の後、番外札所の野口地蔵堂、所沢薬師堂、折立来迎寺とお参りした。順路では、ここから嘉兵衛前、東光院、野中と続くが、所在地がはっきりしているのは東光院だけである。

バス停から5分も歩くと昔ながらの田舎道になった。すぐ裏が工業地帯なので、工場や車の音が間近に響く。とはいえ、それを除けば明治時代からこうだったろうという景色である。

ふと見ると、路傍に庚申塔や二十三夜塔、如意輪観音が雑然と置かれている。ここが、古くからの道であったことは間違いない。あっという間に、空気がお遍路モードに切り替わった。

明治ルートの番外札所・嘉兵衛前とは妙な名前である。普通はお寺やお堂、あるいは場所を示す名前がほとんどなのだが、唯一ここだけが人名なのである。候補になりそうなのは、Google Mapにある「東葛印旛大師第37、40番札所」である。

10分ほど歩くと、民家の間に小堂が現れた。お寺ではないものの、古い回向柱が2本立っている。ここだろうか。小堂はまさに札所のように古いものであるが、周囲に鉢植えの花が飾られているのが少し変わっている。Googleの場所とも少し違うようだ。

回向柱の字は薄くなって読めないが、あるいは小廻大師のものだろうか。数珠と経本を取りだし、この日最初のお参り。手を合わせていると、後方からおばあさまが「あらまあ、ちょっと待っていてくださいよ」と声をかけてきた。

小堂の基礎は石とコンクリの立派なもので、寄進者や協力者について書かれている。それを読みながら待つと、おばあさまがタオルとペットボトルのお茶を持ってきて下さった。今回初めてのご接待である。

お礼を申し上げて少し立ち話をする。「今年もコロナでお泊りいただけなくて」と話されていたから、東葛印旛大師の札所であることは間違いないようだ。この日は暑くなったので、お茶はありがたくいただいた。

家に帰ってタオルを広げてみると、「梶原大師」のネームが入っていた。東葛印旛大師の掛所(番外札所)である。明治時代に「下総四郡八十八ヶ所」の再興をめざし活動した梶原石五郎氏の開いた霊場で、高野山から僧を招いて開眼供養をしたという。

ということは、単にあのおばあさまの面倒見がいいということだけではなく、代々そうしてきたに違いない。明治時代ということは、草深の生大師とほぼ同時期ということになる。

※ 梶原大師については、白井市郷土資料館主催の企画展「新四国巡礼~人々の祈りの旅」と、講演会「白井の新四国と二人の巡礼者」を参考とさせていただきました。



7日目のスタートは白井の湯。白井工業団地の中にある。らんたいむの社内泊YouTubeで紹介された。



車通りの多い白井工業団地から100mほど入るだけで昔ながらの農村の道になる。とはいえ、車や重機の音は聞こえてくる。




梶原大師。東葛大師の掛所(番外札所)となっている。明治時代に活動した梶原石五郎氏の開いた霊場である。

白井市名内の東光院・東海寺跡を歩く

東葛印旛大師第37、40番札所は梶原大師の少し先で、お堂と集会所があり広くなっている。庚申塔や供養塔が並び、かつて集落の中心地であったことがうかがわれる。あるいはここが、明治ルートの嘉兵衛前だろうか。

東葛印旛大師は別名柏大師ともいうそうで、WEBをみるといまでも多くの人が巡拝している。江戸時代、文化文政時代に始まった下総四郡八十八ヶ所から分かれた巡拝で、四郡八十八ヶ所はいまの千葉市、船橋市を含む広範囲を歩いていた。

写し霊場は全国にあり、小豆島八十八ヶ所などが有名だが、下総のこの地域もたいへん盛んであった。お隣にある栄町にも別のお大師様系列があり、近辺を歩くと「△番札所」と書いてあるのを見かける。

発祥は印西大師が最も古いとされているが、文化文政時代にはどこの系列もたいへん栄えた。もともと四国八十八ヶ所のお砂を持ってきたことは変わらないし、それぞれの農村集落がバックアップしたのである。家から近い場所の方がお参りしやすい。

明治以来150年経ってしまうとみんな古さは一緒である。いま現在の経済力や人口、バックアップする組織の強さが、歴史の古さよりも活動力に影響するのかもしれない。

嘉兵衛前の次の番外札所は、名内東光院である。こちらは、今日もお寺が残っている。東葛印旛大師の札所でもある。境内は広々としているが、現在ご住職はいらっしゃらないようで、連絡先として石材店の電話番号が書いてあった。

正面に本堂があり、本堂前にいくつかの小堂がある。印西大師のナンバー札所だとプレートが付けてあるのだが、番外札所とか東葛印旛八十八ヶ所にはそういうものはない。どの小堂がどの系列かは見ただけでは分からない。

というよりも、中にいらっしゃるのがお大師様とは限らず、観音様だったりお地蔵様だったりする場合もある。いずれにしても、平和に過ごせることへの感謝とこれからの御加護をお祈りする。

明治ルートで東光院の次は同じ名内集落の野中である。同名のお寺やお堂はないので、やはり東葛印旛大師で札所になっている東海寺跡をお参りする。

東光院からカンナ街道沿いへ進み、昔の手賀沼湖畔に位置する今井青年館の敷地にあって、印西大師とよく似たシチュエーションである。弘法大師遍路姿の小さな石像があり、札所にはご詠歌の額が掲げられている。

このあたりは、手賀沼がたびたび水害を起こした土地で、家屋の地盤に土盛りした水塚があちこちの家に残っている。手賀沼は私の子供の頃「つ」型だったが、いまは上の横棒の半分しかない。名内集落は下の横棒に面し、治水工事によって水田地帯に姿を変えている。



梶原大師から5分ほどの位置にある東葛印旛大師三十七・四十五番札所。他にも小堂や石碑があり、あるいはここが明治ルートの嘉兵衛前か。



名内東光院。立派な本堂と広い境内があり、東葛大師六十六番札所がある。明治ルートの番外札所でもある。



今井青年館前。ここには東葛大師六十一番札所があり、東海寺跡と呼ばれている。このあたりは、昔、手賀沼が増水した際に大きな被害を受けた。

明治ルート再考・現在の工業団地内が遍路道だった

さて、白井市内について、明治ルートの経路表示は以下のようになっている。

なうち とうこういん  七丁
同   のなか     六丁六間
かわらこどう      十五丁半
ひらつかゑのきあふみち 二丁半十間
同   なかだへやくし

場所が明らかであるのは、東光院、河原子堂だけである。名内東光院から河原子堂まで、途中の札所である野中を経由しても明治ルートで十三丁六間、約1.4kmしかない。ところが、実際の距離は2km以上、Google Mapで2.3kmある。

1.4kmと2.3kmではかなり違う。江戸時代と場所が変わったのかもしれないが、単純な間違いだろうか。いずれにしても野中の番外札所は、東光院から河原子堂への途中にありそうだ。ということは、逆方向にある東葛大師六十一番札所の東海寺跡ではない可能性が大きい。

東光院・河原子堂間の粟島神社に、由緒ありげな大師堂がある。工業団地に入るすぐ前だ。ただし、東光院からの距離は七丁ない。七丁進むと、工業団地に入ってしまう。あるいは、野中の番外札所がここに移されたのだろうか。

粟島神社と大師堂にお参りして工業団地に入る。工業団地といいつつ、工場の横に梨畑が残っている。この工業団地はニュータウン計画によるものではないので、すべての土地が工業用地になったのではないようだ。

いくつかの工場・倉庫を抜け、河原子街道を進む。コンビニを2軒抜けると、再び農村の風景となる。JAの集荷場がある。神々廻(ししば)霊園・白井市民プールに入る道のあたりに、河原子集会所がある。

河原子堂はこの集会所の前にある。現在は周辺に数戸の農家があるだけだが、工業団地の住居表示が河原子なので、かつては大きな集落だっただろう。このあたりを南北に抜ける道が河原子街道である。

隣に天満宮があり、消防倉庫と何人か泊まれる集会所という印西の札所によくある立地に、見慣れた大きさの小堂がある。ご詠歌の扁額が掲げられているが、何と書いてあったのか読むことができない。

周囲に置かれている石には戒名が刻まれている。残念ながら崩れて横倒しになっているものもある。平成の年号が記されている「南無大師遍照金剛」の石碑だけが新しい。

お参りをして、平塚集落のある北東方向に進む。坂を登ると工業団地から伸びる太い道路に出る。この太い道はやがて1車線になって阿夫利神社の鳥居まで続くが、平塚集落はそこまで行かない。

「ゑのきあふみち」は榎大三叉と漢字を振られているが、太い道路から平塚集落に向かう三叉路付近に庚申塔があり、その奥にもう一つ三叉路がある。どちらかが、明治ルートの番外札所であったと思われる。

このあたりは工業団地でかなり様相が変わってしまったが、奥の三叉路にそういう雰囲気がある。後方に地域の共同墓地があり、古い石碑がいくつかある。墓地の中には、青面金剛が邪鬼を退治している享保時代の石像がある。

さらに中台薬師まで二丁半十間は、中台集会所への300mとぴったりである。古い庚申塔や二十三夜塔、古い墓碑なども散在しており、かつては集落の信仰の中心だったのではないかと思われる場所である。



東光院近くの粟島神社の大師堂は由緒ありそうであるが、距離が合わない。明治ルート記載の野中は東光院から七丁で、工業団地に入ってしまう。



番外札所河原子堂。後方が集会所で、すぐ前に消防倉庫もある。前に建つのは、白井小廻り大師の回向柱と思われる。



平塚集落に向かう道には2つ三叉路があるが、集落に近いこちらに「ゑのきあふみち」の札所があったのではないか。墓地の中に、享保年間の古い青面金剛石像がある。

カンナ街道から平塚延命寺

巡拝当日は工業団地の中には向かわず、旧手賀沼沿いのカンナ街道を歩いた。のどかな道だが、工業団地の抜け道になっていて時折トラックが通る。

次の中台薬師はよく分からなかったが、中台集落の中ほどにある庚申塔が多くある場所かもしれない。建物はあるけれども古く崩れかかっており、札所の小堂も見当たらなかった。

続く本郷堂は中台東区集会所の前にお堂だけが残っている。延命寺との距離が一丁半(約150m)なので、ここで間違いないだろう。

集落内の細い道を進むと、石造りで「真言宗豊山派」「普登山延命寺」の大きな字が彫られている延命寺である。境内は広く、参道中央にも立派な中門がある。

こちらは印西大師五十四番のナンバー札所であり、四国五十四番も同じ名前の延命寺なので、当初からこのお寺に振られていたものと思われる。印西大師より一段高い位置に東葛印旛大師の札所があり、今はこちらがメインのようである。

たいへん立派な本堂だし庭もきれいに整備されているのだが、このお寺で最も印象に残ったのは山門横に貼られていた檀家総代名の説明板である。

それによると、寺院の経営は苦しく、住職の多くは役所に勤めたり教師をして、その収入をお寺の維持にあてている。堂宇や境内、墓地を維持管理するのは個人の努力では難しく、よって檀家で支援するみたいなことが書いてある。

無理もないと思う半面、釈然としない気持ちも残った。というのは、明治になって信教の自由が保障されるまで、庶民は仏教の信者となるしかなかった。それもどの宗派でもいいのではなく、集落の菩提寺の檀家となる必要があった。

現代に例えれば市役所の住民課の業務はお寺が担っていた訳で、そこに住めばそのお寺に法事を頼むしかないし、お布施も納めなければならない。いまの住民税みたいな位置づけである。

その結果として広い土地がお寺のものになったし、住職一家も生活の不安なく暮らすことができた。何教だろうがどの寺を信仰しようが自由になった現代、かつて三百年間しなかった苦労をしなければならなくなったということではないのだろうか。



中台薬師の札所は、古い石碑が林立するここらしい。Googleには中台集会所とあるが、もう使われていないようだ。



延命寺の一丁半前にある本郷堂の札所。現在は平塚本郷集会所が建っている。



平塚集落の奥まった場所にある延命寺。境内はかなり広い。左が印西大師五十四番、右奥が東葛大師の札所。

旧永治村にある観音寺・吉祥院

まだ11時前だったけれど、お墓参り用の休憩所があったので延命寺でお昼にした。朝、駅で買った菓子パンである。これまでの6日間とは打って変わって暑い日で、テルモスに入れてきた氷水が冷たくておいしい。

すぐに空いてしまい、梶原大師のお接待でいただいたお茶をテルモスに移す。まだ氷が残っているので、歩く間に融けて冷たくなるだろう。

次の番外札所迎台は、同じ読みになる向台薬師堂がカンナ街道に戻る途中にある。こちらにも集会所の建物があり、お地蔵様や観音様の石仏が並ぶ。そして、お堂の前からかつての手賀沼に向かって景色が開ける。

ちょうど、何日か前の印旛沼にかけて開けた景色と一緒である。かつて、たびたび水害を起こし、昭和になって治水工事が進められたのも一緒である。違うのは、後ろに見えるのが成田市街か我孫子市街かだけである。

お四国でもそうだったが、何もないまっすぐな道はえてして距離が長い。すぐそこに見えても、なかなか着かないのである。カンナ街道もまさにそれで、延命寺から下りてまっすぐの道なのに、すぐ先の交差点まで10分歩いてようやくという感じである。

迎台から浦部観音寺まで十七丁(1.7km)という触れ込みながら、とても20分やそこらでは着かない。そして、ここで市境を越えて印西市に入る。浦部集落は、一番泉倉寺のある和泉集落と木下街道の反対側である。

市境といっても、このあたりは明治時代には永治村というひとつの村だった。どういういきさつか不明ながら村が分かれて、平塚は白井町から白井市になり、浦部や和泉、小倉、これから行く白幡は印西市になった。

十六番観音寺もたいへん広い境内である。カンナ街道から案内にしたがって集落に入ると、やがてみごとな石造りの山門が現れる。山門の正面に本堂、そして背後の小高い丘に石段が登っていて、上に見えるのが観音堂だろう。石段の下に仁王門がある。

四国十六番観音寺は街なかにあるお寺でちょっと狭いので、広さからいえば印西大師の方がずいぶん広い。そして、高低差があるので、本堂前からの眺めがすばらしい。

観音堂下の石段の左右に一つずつ小堂があって、右が印西大師十六番である。小堂の周囲は檀家の墓地が囲んでいるが、それでもまだ土地が余っている。

ご詠歌が掲げられているが、まだ墨は新しい。十六番のご詠歌「忘れずも導き給え観音寺」の上の句が筆記体で書かれている。このお寺には、武蔵板塀と呼ばれる石造卒塔婆など印西市指定の文化財があり、本堂前に詳しい説明板がある。

さて、次の白幡吉祥院が、印西大師八十八ヶ所の中でも見つけづらさでは最強のひとつであることは間違いない。

それほど広くない集落だし、地図もあるので油断していたら、微妙に起伏のある道で見通しが利かない。Googleに載っていなければ、もっと時間がかかったと思われる(「この先行き止まり」看板の奥にある)。

集落の一番奥に集会所と共同墓地があり、六十三番札所は集会所の前にある。集会所には「平成十五年度千葉県コミュニティ事業」とともに「白幡山吉祥院」の表札があるので、ここに吉祥寺というお寺があったのだろう。

明治ルートには「吉祥寺」とあるし、四国六十三番も吉祥寺である。額は2つ掲げられていて、1つは墨が薄くなっているがもう一つはまだ新しい。「…みな吉祥を望み祈れよ」のご詠歌が読める。



延命寺から迎台(向台薬師堂)を経由して、再び手賀沼沿いのカンナ街道に下りて行く。



十六番観音寺。お四国の十六番と比べても、境内の広さではこちらが大きい。



印西大師でもっとも見つけるのが困難な場所にある六十三番吉祥院。スマホで位置が示されなければ見つけられなかったかもしれない。

歓喜院と発作最勝寺

白幡吉祥院からは、車の音がする方に歩くと木下街道である。来るときはずいぶん山の中に入ったような気がしたが、出るときはすぐである。木下街道を松山下公園に向かって下りて行く。歓喜院は街道沿いに案内があるのですぐ分かる。

名前からして、ガネーシャの彫刻でもあるのではないかと思わせるが(お四国ではいくつか見かける)、至って普通のお寺さんである。境内はそう広くないが、本堂も札所も整っている。

札所の大師堂は横長で、前の庇が突き出ているのが特徴的である。格子にもガラス(アクリル?)がはめ込まれていて、お大師様が風雨にさらされないようになっている。印西札所では珍しいことである。

こちらには八十八番が振られている。和泉集落の一番泉倉寺まですぐだし、おそらく南陽院の臨唱住職はここで一周という趣旨だったのだろう。みんな天台宗なので、仲が良かったのかもしれない。

さて、明治ルートでは歓喜院からすぐ光堂ではなく、番外札所の発作(ほっさく)・最勝寺に向かう。光堂へは裏道を通れば1kmないくらいであるが、わざわざ3~4km遠回りすることになる。

さて、この発作・最勝寺には興味深いことがある。発作集落自体は新田で、江戸時代後半になってできたので、江戸中期の印西八十八ヶ所選定の際にまだ集落はなかった。

その後集落ができ、巡拝のルートに組み込まれたのは旧印西町・本埜村の新田地域と同様なのだが、こちらの札所にはなぜか三十五番のご詠歌が掲げられているのである。

四国三十五番は清滝寺。土佐市の山の中腹で境内に滝が落ちているお寺で、あまり共通点はないように思える。現在の三十五番は中根にある東漸寺。こちらは三十五番と四十五番のダブル札所である。

明治ルートですでにそうだったということは、江戸時代に旧三十五番はなくなったということである。その際、それならこちらにということで、もともと最勝寺にという話だったのではないだろうか。

中根地区としては、うちにあったものはよそには渡せないということで、おそらく南陽院としてもご近所に無理は言えず、結局東漸寺が2つの札所を兼ねることになったのかもしれない。

ちなみに、中根地区というのは伝統的に「うるさい」集落だったようで、東漸寺境内には、中根新田はうちに権利があったのに飛行場に取られたが、裁判の結果取り戻すことができたみたいなことを書いた記念碑が立っている。「境内に入ると防犯カメラ」の寺も中根集落である。

時が流れて21世紀の現在、東漸寺も最勝寺も寺としては残っておらず、集会所に寺の表札がかかっているのも同じである(最勝寺で法事があるときは、泉倉寺の住職が来ると聞いた)。結果的に痛み分けということである。



いよいよ印西の中心に近づく。八十八番歓喜院は木下街道に案内看板が出ているので分かりやすい。



歓喜院札所。八十八番だから、もともとここが終点だったのだろう。小堂も立派である。



歓喜院から光堂は1kmほどの距離だが、明治ルートでは発作(ほっさく)、亀成を経由するので3、4km余計に歩く。発作・最勝寺の札所には三十五番の札とご詠歌が掲げられている。

光堂で七日間の歩き遍路結願

発作から亀成川に向かうと、やがて巡拝初日に歩いた道に合流する。川沿いにある水神社の敷地には集会所と小堂があって、ここが明治ルートの最終経由地である亀成東光院であったものと考えられる。

私の家のあるあたりが分水嶺となって、亀成川は手賀沼に注ぐ。すぐ南の師戸川は印旛沼で、手賀沼は利根川から太平洋に、印旛沼は新川・花見川を経て東京湾に至る。降ったときは数十mしか離れていないのに、ずいぶん遠くに行ってしまうのだ。

坂を登って泉倉寺の前に戻る。「光堂→」の道案内はあさっての方を向いているが、案内板の前のどうみても民家の私有地という小道を入る。民家の外周を回り込むと光堂である。

実は、帰り道でようやく気がついたのがこのルートで、最初は分からずに集会所から下って登ってえらく遠回りをしてしまった。おそらくこの遠回りルートが昔の参道である。

印西地区で最初に国の重文になった建物にもかかわらず、周囲は鬱蒼として暗い。貴重な古い萱葺き屋根も半分はブルーシートでおおわれている。正式には宝珠院観音堂で、かつては妙蔵寺という寺の別院であったことが解体修理の際分かっている。

(ブルーシートは修理のためかけられたもので、秋に再訪した際には足場で囲われて近づけなかった。)

ごく近所にあるにもかかわらず泉倉寺の管理ではないのか、泉倉寺が整然として明るいのに対し、全体に整備されていない。札所も泉倉寺のものよりかなり古い。傍らの古い建物は、かつての集会所だったものだろうか。

印西大師巡拝もこれで結願である。数珠と経本を取り出し、改めて無事結願できたことに感謝申し上げる。この日が誕生日で65歳、無事迎えられたことにもお礼申し上げる。

地元に八十八ヶ所があることを知り、そそくさと準備して65歳記念に歩いた。現在は車でお参りしているのに歩きと勘違いして戸惑ったが、何とか誕生日に結願することができた。

江戸時代と同じルートを歩いて、ニュータウンのすぐ裏に昔ながらの景色が多く残っていたのにも驚いた。光堂のすぐ先がコミュニティパスの停留所で、1日5本のバスに間に合う時間に着くことができた。ここから市役所で乗り継ぎ、約1時間かけて家に帰った。

この日の経過
白井の湯 8:20 → (0.9km) 8:35 番外梶原大師・嘉兵衛前 8:50 → (2.0km) 9:25 番外東光院 9:35 → (3.7km) 10:35 五十四番延命寺(昼食休憩) 10:50 → (3.0km) 11:35 十六番観音寺 11:50 → (1.0km) 12:05 六十三番吉祥院 12:15 → (1.2km) 12:30 八十八番歓喜院 12:35 → (4.1km) 13:30 十二番宝珠院 [GPS測定距離 15.9km]

参考資料
印西歴史愛好会編「印西大師八十八か所 札所めぐりで郷土の歴史を楽しむ」
北総ふるさと文庫「印西大師八十八か所(印西・白井編)」「同(印旛・本埜編)」
ままちゃり倶楽部印西支部「印西大師」(WEB)
五十嵐行男「印西風土記」
五十嵐行男「印西地方史よもやま話」
本埜村史編纂委員会「本埜の歴史」
筒井功「利根川民俗史」
白鳥孝治「生きている印旛沼」
水資源開発公団「印旛沼ものがたり」
印西市立印旛歴史民俗資料館
白井市郷土資料館
ありがとうございました(敬称は略させていただきました)

[Mar 19, 2023]



亀成川水神社に建つ小堂が、かつての東光院と思われる。光堂前の最後の番外札所である。



一番泉倉寺のすぐそばにある十二番宝珠院。観音堂は国の重要文化財になっている。屋根が傷んで裏にブルーシートが張られていた。



最後の札所は光堂の左奥に建つ。すぐそばにある集会所は、かつて大師講で使われたのだろう。



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