仏国寺遺跡
韓国の世界遺産・仏国寺の1920年代の姿(現在は再建整備されている)。新羅時代に首都・慶州に建設されたが、その後李氏朝鮮時代に仏教弾圧により廃寺とされた。出典:Wikipedia

5.2 7世紀の朝鮮半島情勢

5.2.1 唐に徹底抗戦した高句麗

朝鮮半島は、中国東北部と地続きである。したがって、中国の歴代王朝にとって朝鮮半島は領土の一部であり(あえていうと、日本列島も同様である)、当然朝貢してこなければならないと認識していたことは間違いない。

しかし、2世紀に後漢帝国が衰退して以降、6世紀に隋が再び統一するまでの約400年間、中国には強力な統一国家が登場しなかった。魏志倭人伝の「魏」も、呉・蜀と並ぶ三国の一つであり、その後も南北朝という分裂時代が長く続いた。中で争っているため周辺に遠征する余力はなく、その間に朝鮮半島において、中華王朝から独立した国家が成長してきたものと考えられる。

日本書紀の中にも(天智天皇紀)、「高麗の仲牟王、初めて国を建つる時に云々」という記事がある。高麗(こま)とは高句麗、仲牟王(ちゅうむおう)とはテレビドラマにもなった朱蒙(チュモン)のことである。伝説では紀元前後に、朱蒙が朝鮮半島に初めての統一国家高句麗を建国し、その初代王となったとされている(実際には後漢末の混乱期であろう)。

その後、朝鮮半島南西部に百済、南東部に新羅が建国されて、「(朝鮮半島における)三国時代」となるが、領土的にみると中国東北部から沿海州に及ぶ高句麗が群を抜いて大きい。

19世紀になって発見された「広開土王碑」は西暦414年に作られたものと推定されているが、この碑があるのは現・中国の吉林省であり、この碑文には「百済、新羅はもともとわれわれの属国である(のに倭が侵犯した)」と書かれている。このことからも、高句麗が朝鮮半島の盟主として君臨していたことが推定されるのである。

さて、6世紀終わりに、隋が400年ぶりに中国を統一した。しかし、国家の基盤が固まる前に矢継ぎ早に大土木工事や領土拡張のための軍事行動を行ったことにより、隋は建国からわずか20年で滅亡する。その滅亡の大きな要因の一つが、まさに高句麗遠征の失敗であった。

隋を滅ぼして統一王朝となった唐にとっても、朝鮮半島への進出は大きな政策課題であった。618年に建国された唐は、国内体制を整備した後(律令など大和朝廷の国家体制は、唐の制度を真似たものである)、7世紀半ばに満を持して高句麗攻撃を開始した。高句麗は、朝鮮半島の南西部にあたる百済と連携し、この動きに対抗しようとした。

ここで問題となるのは、高句麗・百済の東にあたる新羅と倭国の出方である。この二つの国は、全く異なる戦略でこの状況に対応しようとした。



5.2.2 高句麗・百済に味方した倭国の思惑

高句麗は、百済と連携して隋による4回の攻撃、唐による5回の攻撃をそれぞれしのいだ。この間、倭国はどうしたかというと、物資の支援や援軍の派遣を行っている。基本的に、高句麗・百済連合軍と同盟しようとしたのである。

倭国が数百年来、朝鮮半島進出(回復)の念願を持っていたことは、南北朝の「倭の五王」の時代に、何度も「倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍」に任命してくれるよう朝貢を重ねていたことからも明らかである。この間の時系列を示すと、以下のようになる。

西暦400年前後  高句麗・広開土王、朝鮮半島南部の領有をめぐり、倭と交戦。
     441年      広開土王碑が建てられる(倭を撃退した記念碑)。
      478年       倭王武、南朝の宋に朝貢、「安東大将軍」の地位を求める。
      502年       倭王武、南朝の梁から「征東将軍」に任命される。
      562年       倭の朝鮮半島拠点(任那・みまな)滅亡。
      612年       隋・煬帝、高句麗攻撃を開始(失敗に終わる)。


      644年       唐、高句麗攻撃を開始。

3世紀半ばの邪馬台国が朝鮮半島南部に領土を持っていたことは、魏志倭人伝に記録がある。4~5世紀にかけて十分な量の記録はないが、広開土王碑や「倭の五王」の記録から、高句麗をはじめとした諸国と倭が朝鮮半島南部の領有権をめぐって、度重なる戦争を行っていたことは、ほぼ確実であろう。

その倭の朝鮮半島拠点が滅亡したとされるのが6世紀半ばのことである。その50年後から開始された隋・唐の高句麗攻撃に際し、倭が朝鮮半島利権の復活を優先課題として考えたのは明らかである(ちょうど、今日の北方領土問題と同様のタイミング)。こうした状況の下で、高句麗・百済に味方しようとしたのはなぜなのだろうか。

まず第一の理由は、高句麗がこのまま勝ち続けるとみていたということであろう。何しろ、唐はついこの間できた国、高句麗は数百年にわたり朝鮮半島に君臨している国である。そして現実に、何度となく遠征してきた隋も唐も、撃退され続けている。このあたり、例の「日出る処の天子」の国書と思想が似ているともいえる。結局、国力の差を甘く見ているのである。

そして第二の理由として、高句麗・百済から支援の見返りとして、何らかの利権が約束されたということがあるのではないか。この当時の日本書紀をみると、高句麗・百済から何度も使者や貢ぎ物が贈られている。任那(みまな)が滅びた直接の原因は新羅の攻撃であったから、倭国の朝鮮半島における領土について、新羅を滅ぼすことにより復活させるという密約があったことは十分に考えられる

一方、倭国と同様に高句麗・百済の東にあたる新羅は、そうは考えなかったのである。



5.2.3 遠交近攻の観点から唐と同盟した新羅

新羅は唐とは直接国境を接しない。新羅にとってむしろ脅威を感じていたのは、直接国境を接する高句麗・百済であり、その両国を支援するとともに自分達に敵意をあらわにする倭国であった。

つまり、新羅にとっての仮想敵国はまず高句麗・百済、次に倭国である。その高句麗・百済が連携して唐に対抗している。となると「敵の敵は味方」だから、新羅にとって唐とは利害が共通することになる。

問題は、唐の思惑は当然、朝鮮半島全土の直接支配であるから、唐にとって新羅と同盟することに意義を認めるかどうかである。となると、唐が高句麗・百済に対してきわめて優勢という状況になってしまったら遅い。唐が苦戦しているこの時期しか同盟を持ちかけるタイミングはないのである。

次に倭国に対する考え方であるが、倭と新羅は海を隔てており直接国境を接しない。だから、直接攻撃される危険は少ない。そうなると、できれば高句麗・百済に対する人的物的支援はほどほどにしてもらい、また将来連携できる余地を残しておくために、あからさまな敵対関係にならないようにすることを考えたのではないか。

この時、新羅の特命大使として各国と折衝したのが王族の金春秋である。この金春秋、唐との同盟に先立ち、高句麗に行ったり日本に来たりしており(日本書紀に大化三年=647年来日したという記事がある)、必ずしも最初から唐と同盟しようと考えていた訳ではなさそうだ。

しかし、各国の対応をさぐるとともに情勢分析を行った結果、この戦争は最終的に唐の勝利に終わると判断したのである。新羅が唐と同盟し、国家体制や風俗(言語や服装)を唐と同じものに改めたのは、西暦649年。これは同盟というよりも、唐を宗主国として新羅はその臣下となることに他ならない。

もちろん、こうした方針にはかなりの抵抗もあったはずである。実質的に属国となることによる人的経済的マイナス、それにようやく成長してきた民族文化や伝統を捨てることになる。それを押し切るには相当の決断、その根拠となる緻密な分析、冷静な判断が必要だったはずである。

それでも金春秋は唐との同盟を推し進めた。彼は後に新羅王となり、太宗・武烈王と呼ばれることとなる。



5.2.4 唐は何を考えていたか

最後に、こうした朝鮮半島情勢をふまえつつ、唐は何を考えていたかということである。

なにしろ唐(中国)といえば、「孫子の兵法」の本家本元である。軍団による直接攻撃を行う一方で、より安全確実に戦果を上げるため、さまざまな手段をとったであろうことは間違いない。

第一の手段は、外交である。先週、先々週考察したように、朝鮮半島の三国は一枚岩ではなく、高句麗、百済、新羅でそれぞれ思惑が違う。これを利用して、三国の間で争わせることが可能であるとすれば、そうすることで唐の朝鮮半島進出はより容易になると考えられる。

「三十六計逃げるにしかず」の三十六計は中国古来の戦略をまとめたものである。その三十六計の一つに、遠交近攻(えんこうきんこう)がある。この言葉は、戦略上、遠くに位置する国とは同盟し近くの国を攻めることが有効という意味である。そうすることにより、いわゆる挟み撃ちをすることになり、敵は2方面への対応を余儀なくされるからである。

今回の場合、唐が攻撃しているのは高句麗であるから、その場合の遠交近攻とは、遠方の新羅、百済または倭国とひとまず同盟することである。それによって高句麗は北方の唐軍とともに、南方にも敵を迎え撃つ必要が生じる。単純計算しても兵力が半減するのである(移動に要する日数を考慮すれば、さらに減少する)。

だから唐の同盟相手としては、おそらく百済、新羅、倭国のどの国でも良かったはずであるが、この中で百済と倭国が高句麗に味方し、新羅が唐と同盟するという方針をとった。おそらく唐の本心としては、いずれすべての国を直接統治するという腹であっただろうから、この段階では朝鮮半島の三国を一枚岩でなくしたということで十分である。

第二の手段は、諜報活動である。敵国内にスパイを送り込み、相手国の内部に路線対立を生じさせる。それにより、敵国の国力を削ぐという作戦で、これは第一の手段である外交を「陽」とすれば「陰」であり、表立って記録に残せないことも多くあったに違いない。

実際、直接の交戦国である高句麗においてさえ、唐との融和を図る勢力があり、対唐強硬派がこれをクーデターで打倒するという事件もあったくらいである。百済にも同様の動きがあり、新羅については、取り込みに成功した。当然、倭国に対してもそうした働きかけは行われたはずであるが、そのことについては後で詳しく考察してみたい。

こうして、朝鮮半島における対立の構図は、唐・新羅vs高句麗・百済・倭という形をとることになった。もちろん当時の戦力の大部分は陸軍だから、北西方面から攻める唐を高句麗が迎え撃つという形になる。ここで唐・新羅同盟のとった作戦が、まず背後の百済への攻撃であった。



[Apr 24, 2009]

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