白村江の戦い・関係図
663年、倭・百済連合軍は錦江河口の白村江において、唐・新羅連合軍に大敗北を喫した。出典:大野城市ホームページ

5.4 白村江の戦い

5.4.1 白村江当時の状況

天智称制2年、西暦663年8月。百済最後の拠点である州柔(ツヌ)城に新羅の軍勢が迫る。百済・豊璋王は城兵を前にこう言った。「もうすぐ、倭国の援軍1万が到着する。それまでの辛抱である。私は、白村江まで援軍を迎えに行く」

百済が食糧の確保をめざして、平野部のヘサシに一時首都を移転したことは前節で述べた。しかし、移転からわずか2ヵ月、新羅の攻勢の前にヘサシを放棄、豊璋王以下はツヌに戻っている。そして6月、百済内部の内輪もめにより重臣であり武将でもある鬼室福信が処刑されたのを知り、新羅は城を包囲したのである。

ここで当時の状況について再度整理してみたい。

唐と新羅が同盟し、百済は高句麗・倭国と組んでこれに対抗している。国力としては圧倒的に上位にある唐が攻勢を強め、663年秋の時点で、高句麗は朝鮮半島北部(現・北朝鮮)に釘付けとなっている。その間、新羅が朝鮮半島南部(現・韓国)を勢力下におき、百済は白村江上流のツヌ城に包囲されている。唐は新羅応援のため、白村江河口に軍団を集結させた。

白村江は現在の錦江であり、その下流域は現在の韓国でいうと全羅北道と忠清南道の境界を流れている。朝鮮半島南端から200kmほど北である。対馬対岸の釜山から朝鮮半島南西端の木浦(モクホ)あたりまで300km、九州北岸から釜山までさらに200km、倭国の軍団が九州北岸から出発したとしても700kmにわたる遠征である。

そして、百済を支援しようとする倭国がしなければいけないことは、孤立しているツヌ城に物資-食糧と武器-を補給することである。そのためには、まず白村江河口に展開している唐の包囲網を突破し、さらにツヌ城を包囲している新羅を撃破して、ようやく戦争目的を達することができる。単に、白村江河口の海戦に勝てばいいというものではないのだ。

さて、その軍事目的を達成するだけの装備を、倭国は有していたのだろうか。まず最初に輸送力を考えてみると、約500年後の源平・壇ノ浦の戦いにおいて潮の流れが戦局を一変させたように、この時代の船には動力はない。風力、潮力、人力で動かさなければならない。義経が八艘飛びしたくらいだから、大きさも大したことはない。おそらく漁に使っていた船、中国沿岸でジャンク船と呼ばれるものと大きく違ってはいなかっただろう。

その動力がない小さな船で、仮に倭国からの出発地点が九州北部だったとしても、壱岐、対馬を経て釜山、さらに朝鮮半島南岸から西岸を白村江まで、700kmにわたる航行をしなくてはならない。潮の流れにもよるが移動日数の単位は「日」ではなく「週」、場合によっては二~三ヵ月を要したとしてもおかしくない。

さらに作戦目的が物資の補給であるから、最終目的地のツヌに届けるための食糧や兵器という積荷がある。目的地に着くまでには戦争をする訳だから、兵士も空腹という訳にはいかずその分の食糧も兵器も必要である。となると、朝鮮半島のどこかに補給基地がないと作戦目的を達成するのは難しい。しかし、白村江までの道のりは663年秋の時点で、すべて敵国・新羅の勢力圏なのである。



5.4.2 戦力の差は歴然

補給基地については、日本書紀に将軍・上毛野君稚子(かみつけぬのきみ・わかこ)が6月に新羅の城を2つ落としたとあるので、もしかするとこれなのかもしれない。ただし、周りがすべて新羅の勢力圏だとすれば、水の補給や兵の野営などは可能であったとしても、本来の意味での補給-食糧や武器の補充-には限界があったと思われる。

いずれにしても、ジャンク船程度の輸送手段で、倭国を出てから十分な休息や補給ができなかったと思われる倭国軍に対し、唐はどうだったろうか。中国における大規模な海戦というと、赤壁の戦い、つまりレッド・クリフがあるが、これは白村江より400年前。この時代すでに、唐はある程度の規模を持った軍船を有しているのである。

日本書紀によると、唐軍の軍船は170艘。一方倭国の軍船は400艘(旧唐書)とも1000艘(三国史記)ともされる。日本書紀の記述からみる限り、兵の人数的には倭国の方が少なかったと思われるので、いかに倭軍の軍船が小規模であったかということである。

輸送力においてそのような差があった上に、武器の性能という点でも倭国は唐に劣っていたと考えられる。白村江に先立つ百済支援においても、矢、糸、綿、布、皮革、コメを送っている(天智称制元年・正月)ように、攻撃においては矢、守備においては皮革が倭国の主要装備であった。金属製品が含まれていない。

古墳から鉄剣が出土するように、2~3世紀以降倭国にも鉄製品があった。しかし、原料となる鉄鉱石はこの時代まだ中国・朝鮮半島からの輸入に頼っており、砂鉄は産出したけれども量的にはそれほど多くは望めない。中国・朝鮮半島からの輸入は、百済が衰えて高句麗は自国の守備に手一杯という状況では、当然難しいということになる。

一方、唐・新羅は自前で鉄製品を用意できる。木製品・皮革製品・繊維製品で武装する倭国・百済と、金属製品を含む武装が可能な唐・新羅とでは、攻撃力・守備力の点でも相当の差があったといわざるを得ない。

このように、輸送力・装備に差があるということは、作戦・用兵上でかなり上回らなくては勝ち目はないということである。しかし、倭国は作戦的にも、かなり拙いやり方をしたようなのである。



5.4.3 やみくもに突撃して壊滅した作戦面の拙さ

輸送力と兵の装備のいずれの面でも不利な倭国が、白村江河口の唐軍の包囲網を突破するには、少なくとも作戦面で上回っていなければならなかったが、どうやらこの点においても倭国は失敗したようである。その経緯は、日本書紀によると以下のとおりであった。

八月二十七日、先着した倭軍と唐軍との間に交戦があり、倭軍は負けて退いた。唐軍は深追いせず、陣形を整えて待機した。翌二十八日、倭軍の本隊が到着した。百済王と倭軍の諸将はこう相談した。「われわれが先を争って突撃すれば、敵は後退するに違いない」

軍船の性能でも、攻守の武器の性能でも劣る倭軍が、いたずらに正面から攻撃しても勝つことは難しい。それも、奇襲するとか全軍が一斉攻撃するならともかく、到着した部隊から順に突撃するのは、戦力の逐次導入といって戦略的にはたいへん拙劣な方法である。

倭軍は乱れた隊列で、唐軍の堅陣に対し正面突破を図った。唐軍は倭の軍船を左右から挟み撃ちにして戦った。あっという間に、倭軍は敗れた。

戦力が劣っていても精神力(気合)で勝てると考えるのは、日本にとって伝統ともいえる考え方である。きわめて愚かな作戦とは思うけれども、倭軍であればそういう考えで突撃するのはある意味当り前なのかもしれない。同様のメンタリティは、白村江から1300年後の太平洋戦争でも、根強く残っているくらいである。

その上、倭軍は風向きや潮の流れもほとんど考慮していなかった。下の「気象」という単語は書紀でも使われている。今日の意味と、ほぼ同じであると考えられる。

気象を考えずに戦ったため、船の向きを変えることすらできず、海中に落ちて溺れ死ぬ者は数知れなかった。エチノタクツは、天を仰ぎ、歯を食いしばって戦い、数十人を殺したが、遂に戦死した。百済王は、数人の部下とともに、高句麗方面へと逃げた。

ここで再び、エチノタクツの登場である。日本書紀の白村江の戦いに関する記事は、ほとんど以上の内容で終わる。登場人物は、百済王、諸将(ひとまとめ)、エチノタクツだけ。これでタクツが書紀の紹介どおり、将軍でも副将でもない地方の豪族、今日でいう県の課長クラスというのであれば、なぜ彼の名前だけが特筆されるのか意味が分からない。



5.4.4 日本書紀の作者は敗戦があまり悔しくない?

白村江で倭軍の船団が全滅してから八日後の九月七日、ツヌ城は降伏した。頼みの綱である倭国の援軍が来ない以上、やむを得ない降伏であった。このあたりの経緯について、日本書紀の記事は淡々としている。

百済の人々はこう話し合った。「ツヌ城は降伏し、百済の名前は絶えてしまった。事ここに至っては、どうしようもない。先祖の墓所にも、再び行くことはできないだろう。テレ城まで逃れて、後のことは倭の将軍達と相談するしかない」そして、妻子に、百済を去る決意を示したのであった。

テレ城とはどこなのか、百済が滅亡してしまったので確かなことは分からない。おそらく朝鮮半島南岸で、対馬に渡ることができるどこかの海岸近くではなかったかと思われる。ちなみに、朝鮮半島南岸からは、晴れた日には対馬を望むことができる。

いまも昔も、戦争に敗れて他国に逃れることができるのはある程度の財産を持った上流階級の人々であって、一般庶民は新たな支配者の下で耐えるしかない。ベトナム戦争終結時の難民もそうだし、今日脱北して中国の日本・韓国大使館に逃げ込む人と同様である。

百済を逃れた人の多くも、旧支配者層であったり、先端技術者であったりした。彼らはこの後日本に渡り、奈良時代以降急速に進められた技術革新に大きく寄与することとなる。

こうして日本書紀の記事をみてくると、全体の印象として、書紀の作者達は白村江の敗戦をあまり悔しく思っていないということがよく分かる。二万数千の大部隊を派遣し、逃げた者はいたにせよ相当の戦死者が出たにもかかわらず、個人名であげられている戦死者はエチノタクツのみということにも、そのことは現れている。

もっというと、白村江以前の記事の中にも、「これは百済滅亡の予兆ではないか」「占ったところ、高句麗・百済が日本を頼ってくるという結果が出た」など、縁起でもないことが何ヵ所かに書かれている。もしも白村江以前にそんなことを公言していたとしたら、当時そんな言葉はないが「非国民」と言われても仕方がないであろう。

ましてや敗戦後に、「負けることは最初から分かっていた」ようなことを書いて、当時の指導者や戦死者の遺族が面白いはずがない。にもかかわらずそういうことが書かれていて、しかも敗戦の記事がきわめて簡単に、たいして感情移入もされていないということは、どういうことなのだろうか。

おそらくそれは、書紀の作者たちにとって、白村江の敗戦が他人事ということなのである。つまり、近畿・大和朝廷の人々は直接白村江に関わっていない。さらに、白村江の敗戦によって、近畿・大和朝廷の日本列島における相対的な地位が上がったとすれば、日本書紀でこのような書き方がなされていることもうなづける。

ということは、以前に書いた結論、「日本列島における代表的な政権が、白村江以前は倭国、白村江以降はじめて日本=近畿・大和朝廷になった」ということである。教科書にはそう書いていないが、常識で考えるとそうなる。そしてそう考えると、天智天皇に関するいくつかの疑問点にも、納得のいく回答が得られるのである。



[Jul 11, 2009]

NEXT