20円切手に描かれた遣唐使船
当時の船は動力もなく風力と人力に頼った小さなもので、ジャンク船と同様のものであった。天候や風向き、波の高さに大きく影響を受けたと思われる。出典:切手サロン「記念の切手」

5.3 白村江前夜

5.3.1 白村江と倭国の百済支援

この時期の朝鮮半島情勢を知る一級資料は、日本書紀である。

これまで日本書紀には信用できない部分が多いと書いているが、これは中国・朝鮮半島から検証することのできない日本国内の記事についてであって、対外的な記事については信用していいのではないかと思う。なぜなら、そこに明らかな間違いが書いてあれば、日本書紀そのものが中国・朝鮮半島の読者に信用されないからである。

現在みることのできる日本書紀は、漢字かな交じり文で書かれている。これは、現代の日本の読者にはそうでないと読めないからで、もともと日本書紀は漢文(中国語)で書かれている。当時の朝鮮半島や日本は中国語文化圏であった。(ひらがなができたのは平安時代、ハングルはずっと後)

つまり中国・朝鮮半島の人々にとって、同時代に自国語で書かれている文書であるから、日本書紀を入手すればその内容をすぐに精査することができる。だから日本書紀の作者としては、特に中国・朝鮮半島の記事については、可能な限り正確な記事を書く必要があった。そうでないと、日本書紀そのものの信憑性が問われることになるからである。

唐が滅亡してから後に編纂された国書「旧唐書」「新唐書」において、日本についての記事の中に日本書紀から引用されたと思われる部分がある(歴代天皇など)。これは、中国側が日本書紀に一応は信用を置いている、ということであり、この点からみても当時の中国・朝鮮半島の記事について大きな誤りはない、とみる。

従って以下では、日本書紀の記事から白村江前後の状況を検討してみたい。念のため付け加えると、信用できるのは中国・朝鮮半島の読者から検証可能な対外的な部分であって、そうでない日本国内の動きについては後の政権(大和朝廷)にとって有利なことしか書いていない、という前提は変わらない。

さて、朝鮮半島情勢が風雲急を告げたのは、西暦661年である。この年の7月、斉明天皇が崩御されたのと同時期に、唐軍が高句麗城下に進軍したとある。

そして日本書紀によると、皇太子である中大兄皇子は即位せず、天皇とならずに戦争を指揮したことになっている。これが本当だとすると、この時期、日本は国家元首がいないまま戦争状態に突入したことになる。そして中大兄皇子は、白村江の戦後処理が終わるまで天皇とはならない。

これが何を意味するかについては諸説ある。中大兄皇子が実の妹であり先代・孝徳天皇の皇后でもある間人大后(はしひとのおおきさき)を妻としていたから、という説もある。しかしどのような理由があろうとも、勝戦国が、敗戦国の元首の責任を問わない、などということは考えられない(特に古代)。

ということは、中大兄皇子は当時唐と交戦した倭国の責任者ではなく、白村江の戦後処理に伴って、日本列島の主として認知された、と考えるのが自然ではないだろうか。この問題は後でまた検討することとして、この時代、斉明天皇が崩御してから天智天皇が即位するまでの7年間を「天智称制」と呼ぶ。

朝鮮半島に話を戻すと、唐軍の進軍に伴う対策として、翌月から翌々月(8月~9月)にかけて倭国から百済に武器、食料の援護、そして援軍五千が送られている。唐が高句麗を攻撃する一方で、新羅が百済に攻勢を強めたからである。

さて、この五千という数、当時の倭(日本)の国力から見て、どの程度の負担となったのだろうか。



5.3.2 倭国の支援はどの程度の規模だったのか

百済支援にあたり、倭国は最終的に二万七千の援軍を送ることになる。この数が累計なのかその時点での追加支援なのか不明であるが、少なめにみて累計と考えることにする。

われわれがTV番組等で知識を持っているのは、太平洋戦争(第二次世界大戦)である。最終的に日本軍の総兵力としては800万人前後(陸軍550万人、海軍250万人)とされるが、よく指摘される「員数主義」(形式的に数だけ合わせておく)や国内に残存する軍備等から考えて、外地に展開されていたのは200万人前後と考えられる

さて、昭和20年の人口は国勢調査で分かっていて、約8200万人。これに戦没者300万人を加えると8500万人。この総数に対して800万人が兵力で、うち200万人が外地に展開されているということである。

一方、白村江当時の日本列島の人口はというと、おそらく200~300万人前後ではなかったかと推定される。

現在の日本の人口は約1億2千万。江戸時代の人口はほぼ2千万人で安定しており、これが100年間でほぼ6倍になったのは、工業化によりより多くの食料が確保できるようになったことと、医療水準の向上により死亡率が下がったことによる。

江戸時代の人口2千万人にまで増えた要因は、金属製農具の普及と牛馬による生産力(および輸送力)の向上であり、具体的には武装農民(=武士)による新田の開発によって増産が可能となったことによる。それ以前(平安時代前半)の日本列島の人口は、おそらく5~6百万人前後であったと推定される。

白村江はさらにそれ以前である。金属製農具が普及していない以上農業生産はそれほど大きくはなく、魏志や隋書の記事にあるように、半農半漁の生活をしていたと思われる。人口として維持できたのは多く見積もって3百万人前後であろう。

さて、人口3百万人のうち2万7千人を海外派兵するという規模は、割合とすれば太平洋戦争の3分の1程度であるが、相当に高い比率ということはお分かりいただけると思う。さらに、当時は道も輸送手段も整備されておらず、太平洋戦争と違って工業が発達していないので、船さえ十分なものは作れなかったはずである

そうした中でとりあえず5千人を派兵するというだけで現代の数十万人にあたるだろうし、最終的な2万7千人は太平洋戦争の2百万人に匹敵する負担、と考えることは、それほど的を外れているとは思われない。



5.3.3 太平洋戦争クラスの派兵に、県の課長クラスが指揮?

国力の相当部分を傾けた戦争を指揮するのに、どのような人物が現地司令官であるのが自然だろうか。特に考えなくてはならないのは、7世紀には無線も電話もなく、指揮命令は人力に頼らなくてはならないことである。それなりの格を持った人物、最高司令官ないし少なくともその次のクラスでなくてはならないだろう。

さて、斉明天皇七年(661年)の唐軍の攻勢を、高句麗は再びしのいだ。これは日本書紀には、「厳寒で河川が凍結したため」と書かれているが、通常の場合河川の凍結は輸送を容易にするので攻め手(この場合は唐)に有利なはずである。とりあえず、寒地装備が十分でなかったため退却した、と読んでおくことにしよう。

翌、天智称制元年(662年)、気候が暖かくなると再び唐軍が来襲する。百済にも、新羅の攻勢がある。この年の12月、百済首都の州柔(ツヌ)城で重要な会議が持たれる。議題は、百済首都の移転についてである。

豊璋王をはじめとする百済の意見は、「山城であるツヌにいつまでも篭城していては、食べるものがなくなってしまう。平地の避城(ヘサシ)に都を移すべきである」というものであった。これに対し倭国の意見は、「ここ(ツヌ)にいるから新羅が攻めてこれないのであり、ヘサシに陣をひいて守ることは困難である。腹が減ることよりも、滅亡しないことが大切である」というものであった。

この意見を述べたとされるのが、朴市多来津(エチノ・タクツ)という人物である。詳しい素性は不明で、近江の豪族だという。日本書紀の中では、この百済滅亡~白村江のくだりにしか登場しない。位階は小山下(しょうせんげ)というから、後の官位でいうと従七位下、司令官でもなければ高官とすら呼べない。

しかし、考えてみてほしい。例えば今日の六ヵ国会議で北朝鮮問題を議論している中で、県の課長クラスが会議のメンバーとして発言し、他国の首脳に意見するなどということがありうるだろうか。仮に意見があったとしても、それをしかるべき立場の者に伝え、その人の意見として会議において表明するというのが普通ではないだろうか。

今と違って昔はそういうことにうるさくなかった、という説明は困難である。昔の方が、身分上下による差別は比較にならないほど大きい。さらに、このエチノタクツ、後段の白村江における奮戦でも記事になっているのである。

ここから考えられることは、おそらくこういうことである。エチノタクツという人物がいたことは確かであろうが(記載のとおり派遣軍の中級役人として)、ここに書いてあることは彼がしたことではない。本当は白村江の戦いの重要人物であるのに、日本書紀としては「いなかったことにした」人物がしたことなのではなかろうか。

ずばり、その人物とは倭国王である、と考えている。この時点まで、日本列島を代表する政権の責任者として認知されていた人物(大和朝廷の天皇ではない)がいて、その人物が百済滅亡から白村江においても重要な役割を果たしていた。しかし、天皇家が万世一系で日本列島を治めていたというのが日本書紀の建て前であるので、その人物の実名は書けなかった。

このエチノタクツに仮託された人物が、隋書のアマ・タリシヒコの後継者(子供か孫)であり、この時点でオオキミと呼ばれていたのではないか。そう仮定すると前後の事実と非常によくつじつまが合うのである。



5.3.4 百済滅亡の3つの要因

翌、天智称制2年(669年)に百済は滅亡するのだが、その大きな要因となった3つの失敗がある。戦略的には、「唐に味方しなかったこと」が最大の失敗なのだが、これは民族の自立という理由もありやむを得ない面もある。

第一の失敗は、エチノ・タクツ(実際には、同盟軍司令官である倭国王とみる)の意見にもかかわらず、遷都を強行したことである。百済王の思惑通り収穫の時期まで持ちこたえられればまた違ったかもしれないが、実際には平地のヘサシに遷都して早々の2月には、新羅の攻勢の前に首都の確保が困難となってしまった。

都を移すということは、物資と人員という資源を移動するということである。そして、相手の攻勢を受けて首都を放棄するということは、物資(特に食糧と兵器)の多くを置いたまま逃げ出すということである。ただでさえ食糧を心配していた百済王は、余計な遷都をすることによってさらに物資が乏しくなったのである。

第二の失敗は、むしろ唐・新羅の諜報活動を誉めるべきかもしれないが、百済内部で対立を起こしてしまったことである。この時代の百済は正確には復興・百済であり、原・百済は斉明天皇七年(660年)、義慈王が唐に降伏していったん滅びている。復興・百済はもともと倭国にいた豊璋王と重臣・鬼室福信(きしつ・ふくしん)のいわばレジスタンス政権である。

この政権において、豊璋王と鬼室福信が対立し、鬼室福信は謀反の疑いで斬首されたのだから、攻める側にとっては相手の守備力が半減したということである。福信が処刑されたのが6月、それを知って新羅が山城であるツヌにまで迫ってきたのが8月。電話もインターネットもない時代に、おそろしく早く情報が流れている。やはり、何らかの工作があったとみるべきであろう。

第三の失敗は、戦力を分断されたことである。この年、倭国から百済に派遣されたとされる兵力は2万7千。この時代の人口を考えると、国力を傾けた派兵であることはすでに述べた。そして、日本書紀の記載をみると、山城であるツヌを守る兵力と、倭国の主力とみられる兵力が、どうやら分断されているのである。

ツヌを包囲しているのは新羅軍であり、ツヌへの入口にあたる白村江の河口で待ち伏せているのが唐の水軍である。そして倭軍はツヌを支援するため、まず唐の包囲網を突破して、ようやくツヌの支援ができるという状況なのである。百済と倭国本軍との間に、いつの間にか唐と新羅が割り込んでしまっている。

前年12月の段階で、百済王とエチノ・タクツが作戦会議を行っているくらいだから、この時点では倭国と百済は分断されていない。しかし、翌夏にはこういう状況となっている。やはり、戦術的なミスがあったというべきであろう。あるいは、倭国の反対にもかかわらず百済が遷都を強行したことで、倭国王がへそを曲げていったん国へ戻ってしまったというのが真相かもしれない。



[Jun 4, 2009]

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