2020年に突如発生した世界的パンデミック。以降、マスクがデフォルトになりました。
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コロナウィルス、世界と日本の温度差    そんなにしてほしいか非常事態宣言
コロナは日本では大きな被害にならないかも    非常事態宣言と正常性バイアス
不要不急って何だろう    非常事態宣言は治安悪化を招く    10万円給付はすぐに税金で
非常事態宣言延長。でも空気は変わってきたか?    コロナは悪い影響ばかりではない


コロナウィルス、世界と日本の温度差

先週末の3連休、日本では大阪・兵庫間の移動自粛要請があり、「翔んで兵庫」(w)がお祭りとなる騒ぎがあったが、ニュースを見ると聖火を見に大勢集まったり、上野公園で花見散歩をしたりコロナウィルスはどこ吹く風といった雰囲気である。

しかし海外では、渡航禁止の国や地域は増える一方だし、外出自粛要請や宗教施設を含む集会禁止が多くの国で実施されている。アメリカも、カナダとの交通やヨーロッパとの移動を制限、ラスベガスMGMは当面休業。ショーン・ペイトン感染がニュースとなるなど、感染拡大が終息する気配はみられない。

だから世界の趨勢では、4月からの公共施設再開などとんでもないという雰囲気なのだが、日本のニュースをみると4月から小中学校が始まる予定など、コロナは終わりという空気である。今回のコロナウィルス、世界が騒ぎ過ぎなのだろうか、それとも日本が騒ぎ足りないのだろうか。

私の考えは、どちらもそれぞれに理由があるけれども、リスクミニマムという観点からは世界の対応が当り前で、日本のやり方では最悪の展開になった場合どうしようもないということである。まあ、80年前にそうやって最悪の展開になったけれども、何とか現在に至っている訳であるが。

WHOが「パンデミック」と言っても日本ではピンとこないが、ヨーロッパでは14世紀にペストのパンデミックがあり、人口の半数近く、特にイタリアでは人口の8割が死亡した。当時の状況は多くの文学作品に残されており、現在の欧米主要国の住民は当時のペスト禍を生き延びてきた人々の子孫である。

イスラム諸国も同様であり、未知のウィルス、疾病に対して神経質になるのは過剰反応とはいえない。そうしなければ生き延びることはできなかったのであり、その子孫に同様の思考回路が残っているのは当然のことである。

一方、日本にはペストのパンデミックは襲来しなかった。四方を海に囲まれるという立地条件が大きかったと思われる。日本における伝染病は結核(労咳)と天然痘(痘瘡)がよく知られるが、ペストのように致死率も感染力も高くなかった。

日本において脅威となったのは、病気よりも飢饉であった。農作物が不作になって生活できなくなる事態は近世以降もたびたび発生し、日本人の多くはそうした飢饉を生き延びてきた人々の子孫である。

だから、生産活動を制限してでもリスクを最小化しようという発想になじまない。病気から逃れたからといって、農作物ができなければ飢饉を避けられないからである。

原発がメルトダウンしても特効薬のないウィルスが蔓延しても、それよりどうやってご飯を食べるかが重要なのである。最低限国民が飢えないだけの蓄えがあるというのに、もっと稼ごうとオリンピックを誘致するのだからあまり賛同できないが。

そうやって、第二次大戦の壊滅的敗退の後も、バブル崩壊の後も、阪神淡路や東北の大震災の後も、命よりカネで対応してきた。だから今回も、もしかしたら世界の方が騒ぎ過ぎでそんな深刻な事態にならないのかもしれない。

しかし、リスク管理というものは、10回リスクがあれば10回避けられることが本来であって、10回のうち9回ではダメなのである。このような対応をしていれば、いずれいつかカタストロフが訪れることは避けられないだろう。

それが今回のコロナウィルスであるかどうかは分からないけれども、いずれにしてもみんながそうしているからといって花見に行ったり聖火を見に行ったりすることは避けた方がよさそうだ。10人のうち1人が見合わせれば、うまくいけば日本の人口は1200万人残る。人口がそのくらいの国や民族は、世界中にたくさんある。

春分の日の3連休、日本では大阪・兵庫間の県境封鎖(w)が話題になりましたが、世界的には笑い話ではすまないシリアスな状況となっています。


先週、コロナウィルスの受け止め方が世界と日本で相当違うと書いた。その後、先週末には東京と神奈川・千葉・埼玉など近県との移動を自粛するよう各都県の知事が記者会見し、大阪・兵庫の時よりかなり真剣になってきたけれども、それでもまだ世界の趨勢とは温度差がある。2週続けてになるが、思うところを述べてみたい。

各知事の言うことを要約すると、「現在は感染爆発への重大局面であり、拡大しないようみなさんの自粛をお願したい」ということである。住民に負担を強要するだけで、いまだにマスクの供給さえできないのだから、無用な買いだめをするなと言っても無理なのだがそれはさておき。

外出禁止や人の集まる施設の休止に踏み切ったドイツやイギリスの首相会見を見たが、そこで述べられているのは、「感染拡大は止まらない。われわれにできることは治療方法が見つかり病院に収容できるまでの時間を稼ぐことだ。」ということである。そこが全然違う。

日本のニュースだけ見ていると、ここ数週間我慢すれば自粛が終わって通常稼働に戻るような報道なのだけれど(ホランは、「早く日常生活が戻るといいですね」と言っていた)、事態はそんなに生易しいものではない。

独首相の会見では専門機関の調査結果を踏まえてきちんと説明していたけれど、外出禁止等によって感染拡大のスピードを緩められたとしてもいずれそのスピードは増し、感染爆発は避けられないのである。

今回のウィルスの全貌は明らかでないが、感染爆発が避けられないとしても、ダイヤモンドプリンセスの例から分かるように感染者全員が発症することはないし、重症化するのはほとんど年寄りである。だから、感染爆発イコール医療崩壊で都市封鎖になる訳ではない。

だから、いま世界の多くの国が注力しているのは、一度に重症患者が集中して発生しないことである。感染爆発が避けられないところを一時に集中しないようにすれば、当然の帰結として事態の収拾は長期化する。

医療崩壊という言葉の定義も使う人によって違っていて、多くの人は武漢のように病床数より患者数の方が多い状況を指しているようだ。確かにそれも心配なのだが、私はそれよりもむしろ、医者や看護師が次々と感染して医療従事者が足りなくなること、あるいは、病院や診療所が感染リスクの最も高い場所となることが心配である。

すでに済生会や台東区の病院などいくつかの病院で起こっている事態であるが、実際はその程度に治まるものではないはずだ。誰も中国の防護服のような装備で患者と相対していないし、マスクでは外からの感染は防げない。

病床があったとしても治療方法は確立しておらず、人工呼吸器や人工心肺など対症療法しか方法はない。機器によっては操作に経験と技術が必要で、医師・看護師であれば誰でもできるというものではない。どうしても、医療従事者が足りなくなる。

病床数が足りない、あるいは医療従事者が足りないということになれば、発症しても自宅で療養するしかない。この半世紀、病気になれば当然のように医者に行って薬を処方してもらい、悪化すれば入院するということが行われてきたが、もしかすると医者にもかかれず病院にも行けず、自力で治すしかない時代に逆戻りするかもしれない。

もちろんそれは最悪のシナリオであり、コロナウィルスは日本では猛威を振るわないかもしれないのだけれど、われわれにできることは、TVを見ることでも政府の無策を責めることでもなく、そうなった場合にどうするかシミュレーションし、準備することである。

コロナ問題で国民に向けテレビ演説するドイツのメルケル首相=ドイツ政府HPより


昨日は、コロナウィルスの感染拡大は避けられず、事態収拾は長期化するというところまで書いた。だとすると、今後どのような展開が考えられるだろうか。(注.この原稿は、土曜夜の総理大臣会見以前に書いたけれど、事態はその方向に進みつつあるようだ。)

公共スポーツジムの臨時休館も、図書館の閉鎖もまだまだ続く。公共交通機関が危険な状況も、むしろこれから本番だろう。いまのところ自粛要請にとどまっているが、運行ダイヤの調整に進むことも想定される。私のお遍路歩きは数ヶ月前に結願したばかりだけれど、危ないタイミングであった。

日本の病床数はイタリアやスペインのように少なくないし、ニューヨークのように低所得者の医療環境がひどくないので、医療崩壊・都市封鎖まで進む可能性は低い。それに、最初に書いたように日本人が怖いのは伝染病よりも飢饉なのである。全員仕事を休めなどという思い切った施策が出されるとは思えない。

米国では、ボクシングのビッグイベントは今年前半には行われないし、ケンタッキーダービーも秋に日程変更された。NFLだって予定通り開催されるかどうか分からない。日本はこういう点ではアメリカに追随するから、残念ながら野球やサッカーがいつ開幕するか分からないし、皐月賞の無観客はほぼ確実。ダービーも風前の灯である。

デパートやスーパーの営業時間短縮、休業増加も確実だし、イベント自粛も続く。これを機会に、一般参加型のイベントは転機を迎えるだろう。AKB商法や、コミケや、ディズニーランドといった永遠に続くと思われたビジネスモデルが成り立たなくなるかもしれない。

サービス産業への波及も広範囲に及び、ホテルや旅館、飲食店、旅行代理店や中小の交通機関に経営不安が出てくるだろう。景気への影響が甚大になることは避けられない。ドイツでは「第二次大戦後最大の試練」と言っていたが、オイルショック以来の本格的な不況に陥るかもしれない。

この状況がいつまで続くかだが、わが国の指導者にはそれを決めるだけの知識も判断力も決断力もない。結局は欧米主要国が安全宣言を出すまで動けないだろう。オリンピックも開催時期を決める権限は米国テレビ局にあり、わが国が関与できる余地はない。個人的には、規模を縮小して開催することになるのではないかと予想する。

つい最近になって、BCGを義務付けている国はコロナが軽症という指摘が出てきている。検証には時間がかかるので早期の事態収拾には結びつかないだろうが、十分ありえる話だ。とはいえ、国際的なヒトやモノの移動が制限されることに変わりはない。

すでにリタイアした身の上なので、できないことはできないとあきらめるしかないのだけれど、いずれにしても、去年まで当たり前にできたことが、今年もまたできるとは限らないという覚悟が必要なことは間違いない。

ウィルスとの戦いという言い方は好きではないが、この戦いは退却戦である。より多くの収獲を得るためではなく、被害をより少なくするための戦いである。

日本は昔から退却戦が大の苦手で、きちんと退却戦をしたのは信長・秀吉・家康まで遡らなければならない。関ヶ原の島津軍のような戦い方は、退却戦でなく玉砕戦である。しかし、わが国ではああいう負け方が評価されてきた。

その意味では、検査ができないといって実態把握を先延ばしにしてきたのは、疫学的に全然ほめられることではないし、戦況を把握しないということだから玉砕への道まっしぐらである。何百年も変わらない、いつものやり方なのかもしれない。

別のところで書いたけれど、「亀は甲羅に似せて穴を掘る」。現代の政治家も第二次大戦前の軍隊もそのように程度が低いのは、日本列島に住む人達の程度が低いからである。スーパーで買い占めるような人が大勢いるのだから、行くところまで行かないとどうにもならないのかもしれない。

誤解のないよう補足しておくが、非常時に物資を備蓄するのが悪いと言っている訳ではない。そんなことは普段から準備しておけという話である。

[Mar 31, 2020]

そんなにしてほしいか非常事態宣言

普段はあまり見ないのだけれど、このところTVを見る時間が増えている。欲しい情報は感染者数もさることながら、重症者がどれくらいいるか、もしもの場合どこの病院で診てもらえるかということなのだが、NHKも含めてそういう内容はほとんど流さない。

この期に及んで、志村けんがどうしたとか、手を洗いましょうとかいうことが知りたいのではない。もしかしたら、大部分の人達の関心はそちらなのかと心配になる。

そして、ここ数日気になるのが非常事態宣言を早く出せという論調である。言うまでもなく、非常事態宣言は私権を制限するので、軽々に出すものではない。

だから、本来マスコミの立場としては非常事態宣言には慎重であるべきで、早く出せ今すぐ出せと急かすのはおかしい。あるいは、早く1940年代に戻したい自民党連中のプロパガンダかと思いたくなる。しかし、おそらくは世論の方向もそのようなものなのだろう。

こういう報道を見ていると、第二次大戦で悪かったのは軍部だけでなく、マスコミも国民もみんな同罪だと思ってしまう。そして、なぜ非常事態宣言かというと、どうやらコロナ被害で少なくなった収入を補填しろということらしい。

非常事態宣言を出せと急かしている同じ口で、オリンピックの選手村に軽症者を収容すると資産価値が下がるなどと言っている。おかしいと思わないのだろうか。非常事態になれば、国や地方自治体がそういうことができるという法律だというのに。

コロナで影響を受けている人達を何とか援助しようというのは当り前のことで、そのために税金を払っている。私権を制限するのといま困っている人を何とかしようというのは全然別のことで、非常事態を宣言しなくても普通に補正予算を組んでコロナ対策の支出をすればいいだけのことだ。

それをせずに、「1世帯マスク2枚」などというから、祭りになる。同じ手間なら、当面必要なものを買ってくださいということでお買い物券を何千円か贈る方がまだましだ。アリバイ的にやった感を出すためだけにこんなことをしても、意味がない。どうしてもマスクが配りたければ、社協や民生委員、それとも小学校に配ればいい。

それに、非常事態宣言といっているが、仮に宣言が出されたとしても、自粛が少々きびしくなる程度のことで強制力はない。もしかすると、非常事態宣言では生ぬるいということで、戒厳令にしたいのかと勘繰りたくなる。

非常事態宣言が出されても出されなくても、ひとりひとりが現状を判断して、取るべき行動をとるのが自由ということである。行政から指示が出てみんな一斉でないと行動できないというのでは、どこかの国と一緒である。もしかして、知能程度は一緒なのかもしれない。

そのために必要な情報を提供するのがマスコミの役割のはずなのだが、啓発の名を借りて大本営発表を流すだけである。これで受信料を強制徴収するのは、詐欺のようなものである。STOP!詐欺被害!

幸い、いまの時代はWEBを使えば世界の情報が入ってくるし、全国いろいろな地域の実情を知ることができる。個人的には、現在の状況は「ぎりぎり」というほどではないと思うけれども、戦争まで一直線で進む国民性だから、何とも言えない。

検査で陽性になった人をすべて指定医療機関に収容しようとすれば、入りきれないのは最初から分かり切ったことである。だとすれば、軽症者はどうするのか考えるのが役所の仕事であって、そのあたり臨機応変にできなければ何のために給料もらってるんですかということである。

いま最優先でしなければならないことは、ハードとしての病床数を確保することである。これは、やろうと思えばすぐにでも始められる。実際、大震災の時には万単位の仮設住宅を学校の校庭や役所の遊休地、つまり誰かの土地を強制収容しなくても作れたのである。

患者の搬送に必要な車両や人手の確保にしたところで、中国人観光客の減少で供給には余力がある。感染の危険が懸念されて二の足を踏む事業者もいるだろうが、逆にチャンスと考える事業者もいるはずである。いずれにしても、非常事態を宣言しなくてもできることはたくさんある。

とはいえ、非常事態宣言を出すのに慎重な安倍内閣を信用しているのかというと、そうではない。彼らははっきりした指標で数字に出れば、例えば、株価が急落して15,000円くらいにでもなれば、あわてて非常事態にするだろうと思うからである。

その前に、お腹が痛くなって仕事を投げ出すかもしれないけど。

#翔んで兵庫に続いて、#マスク2枚がお祭りになってしまいました(総統閣下は相当ウケた)。笑いごとじゃないはずなんだけど。


[Apr 3, 2020]

コロナは日本では大きな被害にならないかもしれない。でも、安倍の手柄じゃない

毎週コロナウィルスのことを書くのは疲れるのだけれど、この島に住む人々の付和雷同性や騒ぎを大きくするか大本営発表しか流さないマスコミにひとこと言わずには居られない。しつこいけどまたコロナの話題。

先週、先々週はコロナが今後どうなるか予想したけれど、予想どおりデパート、スーパーの営業時間・営業日の短縮が先週末から始まり、皐月賞の無観客開催も決まった。

花見や聖火見物に繰り出したと思ったら、外出自粛、密着したサービスのある飲食店(なんのこっちゃ)への夜間外出自粛、ガーゼマスク配布決定など極端から極端に振れるこの国。24時間の無認可保育所に子供を預け、生活のため夜のバイトをせざるを得ないシングルマザーに小池砲はあまり同情心は持っていないようだが、それはさておき。

冷静に世界と日本の感染者数と死者数をみてみる。2~3週間前のニューヨークやイタリアの数字と日本の数字を比べると、桁が違うことは明らかである。

先週末には東京都発表の感染者数が100人を超えたとマスコミは危機感をあおるけれども、2~3週間前にそれらの地域では感染者数が数千~数万人、死者数が数百人であった。2桁違う。

なぜこうなったか考えてみる。まず、日本ではちゃんと検査をしていないという要因がある。実際、検査しているのは外国からの帰国便の乗客と、発症が疑われる人、それにクラスタと呼ばれる集中感染場所だけで、希望したってやってくれない。

とすると、発表された感染者数は、感染者よりも発症者に近い数字ではないかと推測される。つまり、1日の発症者が都内で100人、全国で数百人ということである。対して、死者は十人前後。2~3週前には自粛しなかったのにこの数字ということは、普通に考えればニューヨークやイタリアとは違う要因があるということである。

何が違うか考えてみる。まず、ウィルスが猛威を振るいだしたのは中国である(最初に発生したのが中国であるかどうかは分からない)。空気感染か飛沫感染かは不明としても、欧米より日本の方が地理的に全然近く、伝染するのも日本が早くなければおかしい。

では、なぜ日本ではこれまで感染爆発がなかったのだろう。2つの仮説が考えられる。第一の仮説は、世界的には流行するけれども日本では流行しにくい何かの要因があったというものである。

すでに、BCG接種されている国と地域ではコロナが重症化しにくいという指摘がある。それ以外にも、コロナ以前からマスクをして外出する人が珍しくなかったし、抗菌・除菌はここ数年のトレンドであった。

TV画面等の印象にとどまるけれども、諸外国と日本でマスクをして街を歩く人の数は有意に違ったように思うし、武漢もニューヨークもイタリアも、そこまで除菌にうるさくないのではないだろうか。

第二の仮説は、すでにコロナウィルスは日本に侵入していて、重症化する人はすでにしているしそうでない人には免疫ができている可能性である。

昨年1年間の日本の死亡数は約137万人と推計される(厚生労働省・人口動態統計)。うち、肺炎による死亡は9万6千、1日当たりにすると約300人である(誤嚥性肺炎、老衰、原因不明を含まない)。

この冬以来、実はコロナウィルスなのだけれども、調べないからただのインフルエンザだと思っていた可能性はないのだろうか。3分の1の1日100人に12月以来の日数を掛けると、すでに1万人以上がコロナで亡くなっているのかもしれない。

以上2つはいずれも仮説であり、実際にそうであったとしても検証には時間がかかる。ただ、普通に考えればとっくの昔に日本でも感染爆発があっておかしくないのに、そうなっていないのだから、何らかの要因を想定するのは見当違いではないように思う。

いずれにしても、旧正月まで中国人観光客を受け入れ、プリンセスプリンセスはじめ水際作戦で後手後手に回り、学校は休校させても移動は制限せず、あげくのはてにマスク2枚を配ろうというアベノマスクが感染爆発を抑えた訳ではない。

現在マスコミがヒステリックに危機感をあおっているけれども、もうしばらくするとなぜ日本ではコロナが爆発しなかったのだろうという議論が始まるような気がしている。

とはいえ、前にも書いたけれど、わが国が欧米主要国にさきがけて動けるとは思えず、公共図書館やジム、ディズニーランドはじめ人の多く集まる施設の休業はまだまだ続く可能性が大きい。プロ野球もサッカーも、NBAが始まらないと無理だろう。

誤解のないよう付け加えるが、外出や集会の自粛が必要ないという意味では全くない。2週間前に書いたように、リスクヘッジは10中10が求められ、欧米の方法が当たり前というのが私の基本的な考えである。極端から極端に流れる風潮が嫌だし有害だと思うだけである。

手のひらを返したように危機感をあおるマスコミも情けないが、布マスク2枚で胸を張るこの人もかなり問題。「これまでにない」ことは確かだけれど。


[Apr 6, 2020]

非常事態宣言と正常性バイアス

正常性バイアスという言葉がある。脳の働きのひとつで、目の前に壊滅的なことが起こっているにもかかわらず、これは正常の範囲内でわが身に危害が及ぶことはないと判断してしまう傾向のことである。

近年の例では、東日本大震災で津波警報が出たのに、実際に津波が来るまで避難を始めなかった人達が少なからずいたらしいし、御嶽山の噴火では噴火後の山頂直下で写真や動画を撮っていた人達がいたという。

3月の3連休には、花見に行ったり聖火だオリンピックだと言っていたのに、東京都の感染者(重症者ではない)が1日100人程度で非常事態宣言だと大騒ぎである。だったら始めからあわてろという話である。

先週非常事態宣言があって、週末には都知事がいくつかの業種に営業休止(協力)を要請した。非常事態宣言はいまのところGW終了まで予定されており、その先も延長される可能性がある。

図書館や公共スポーツジムは宣言以前から自粛しているので、見た目に大きな変化はない。TVでは相変わらずお笑い芸人がいろんな番組に出張っているし、局アナは街の様子を報道するという名目で外に出て不要不急の取材をしている。無人カメラでできるだろうし、インタビューなどもっての他だ。噴火後に動画を撮影していた人とあまり変わらない。

私が心配することではないかもしれないが、このままだと正常性バイアスが働いて、多くの人がたいしたことはないと思い込んでしまうだろう。

私も、前に書いたとおりコロナウィルスが壊滅的な被害を与えるとは思っていない。とはいえ、予想を超えた大きな感染爆発となる可能性は少なくないので、いろいろな情報は目を通すようにしているし、リスクの大きい行動は避けるように心掛けている。

そういう観点からすると、「非常事態」と言いながらやってることはいつもと同じだったり、「前例にとらわれず」「しっかりと」「みなさんに」布マスク2枚配るような口だけ非常事態は、百害あって一利なしなのである。

私の住んでいる県も非常事態宣言が出されているので、一日に何回も、防災無線で「不要不急の外出はしないようにしましょう」と放送がある。迷子のお知らせ(大部分は認知症の高齢者)の放送はちゃんと聞くけれども、「非常事態宣言が・・・」と始まったとたん、早くもろくに聞かないようになってしまった。「光化学スモッグ」と同じである。

TVでは「感染者が過去最多の一日△百人を超えました」などと言っているけれども、これまでろくに検査をしていないのだから陽性者が増えるのは当り前である。ちゃんと検査をしたら1日に数千人になるだろうし、そのくらいに増えても全く驚かない。

この間はTVで、「4日以上微熱がある人が全国で2万人以上いる」と言っていたけれども、コロナがなくてもそれくらいはいるはずだし、知りたいのはその中で人工呼吸器が必要になるのは何人くらいかなのである。医療崩壊と大騒ぎするけれども、コロナ対応医療機関を限定してキャパシティを超えるのは、ちゃんと必要病床数を見極めない役所の頭が悪いのだ。

いま個人的に気をつけていることは、マスコミはじめいろいろなノイズに影響されないよう、頭をクリアにしておくことである。ひねくれているようだが、多くの人が騒いでいる時にはあわてる必要はなく、みんなが油断してる時こそアラームを全開にしなくてはならない。

GWまで、政府とマスコミの情報誘導で、感染者がますます増えているという報道が続くだろう。それはそれで構わない。実際に重症者がどれくらいいて、万一重症になった場合どこで診てもらえるのかも、いまさら教えてくれなくてもいい。

自宅で自力で治すという覚悟と、最悪の場合、数日で容体が急変しても仕方ないとあきらめさえすれば済むことである。ただ、役所だの福祉だの善意だのに期待しない代わりに、自分の判断で「不要不急の」外出をする際には四の五の言わないでほしい。

家の前の公園には、市の防災無線のスピーカーがある。迷子の放送は気をつけて聞くのだけれど、非常事態宣言は聞くのをやめた。


[Apr 14, 2020]

遍路自粛に思う、不要不急って何だろう

今般の非常事態宣言に伴い、四国八十八ヶ所霊場会が参拝自粛を呼びかけている。私自身は昨年の秋に結願しているので直接の影響はないのだが、正直なところ、相当の違和感を感じている。

WEBを見ていると、この時期にお遍路など控えて当然という論調がほとんどだし、裏の事情としては、寺の収入の大半を占めるであろうツアー遍路が激減して、納経所を開くだけ人件費負担が大きいのだろうと想像はつく。

けれども、仮にも宗教を名乗る施設が、自らを不要不急とみなしていいのだろうか。困った時に神様仏様を頼るのは、江戸時代でも認められた庶民の心のよりどころである。寺社は、レジャー施設でもないし観光名所でもないと私は思っている。

百歩譲って、納経所や宿坊を閉めますというのは仕方ないと思う。しかし、参拝しないでくださいというのは、信仰は不要不急で仏様は鰯の頭だとお寺が自ら認めたようなものである。お大師様ならどう思うだろう。仏様は実在しないからお願いしてもムダだと言うのだろうか。

一般参拝者はお断りとはいっても、檀家が墓参りに来るのを止める訳にはいかない。畢竟、葬式や法事は「感染対策を万全にして」対応することになるのだろうし、そうでなければ檀家はますます離れていく。でも、仏様に一般と檀家の区別はない。区別してカネ勘定するのは寺の事情である。

個人個人と神様仏様は寺や神社を経由してつながっている訳ではない。あえて言うならば、「場」を経由してつながっているのである。その「場」に寺や神社があるから参拝するのであって、祠だけだとしても拝む人は拝む。

もちろん、寺の方で「ここで拝んだところで効果はありませんよ。家で仏壇を拝んでください」と言うのは自由である。しかし、その「場」だから神仏とのつながりが保たれると思っている個人に、たまたま百年ほど土地の私有を認められているからといって、寺がここに入るなと言えるものだろうか。

お百度参りにせよ禊祓いにせよお籠りにせよ、費用対効果では効果を実証できないだろう。しかし、少なくとも二千年近く続いてきた神仏への祈願という行為が、たかだか非常事態宣言などという人的要因によって、価値を貶められるものではないと思っている。

イスラム圏の場合は、多くの信者が一日に何度も3密のモスク内に集まって、クラスタになるおそれが大きいという要因があるのでいまのご時世では仕方がないかもしれない。それでも、信者が自分一人でメッカの方を向いて礼拝することまで禁じてはいない。

行政がどうこうというかもしれないが、本来、国や地方自治体と宗教団体とは別の価値観で動くべきものだ。でなければ、なぜ宗教法人は原則非課税なのだろう。費用対効果とか収支相償うとかいうなら株式会社のように税金を納めるべきだろうし、自治体と一緒ですというなら各宗派は平成の大合併のように統廃合したらいい。

明治になって神仏分離、廃仏毀釈運動が起こった時、いくつかの大きい寺で昔から伝わる仏像・仏画をはじめとした貴重な文化財が焼却された。鹿児島県には、古くから続く寺はほとんどない。その理由の一つが、寺が幕府や藩と一緒になって庶民を統制していたからだと推測される。寺が政府と一体になっても、いいことはない。

似たような話として、ゴールデンウィークになっても来ないでくださいといくつかの県が言っている。普段から観光客は呼びたくないと思っているのなら首尾一貫しているが、きっとコロナがなければ是非来てくださいと言うのだろう。事態が平静化しても行くものかと思う。

日本の場合、会社に行くのはよくてそれ以外は不要不急という区分である。セールスだの会議だのどう考えても不要不急でも、会社で給料をもらえるならやっていいことで、心のよりどころである宗教施設は参拝を遠慮せよという。なんだかおかしい。

本当に接触8割減にしたいのなら、その前にやらなければならないことはたくさんある。電車やバスを平日ダイヤで走らせる必要などないし、ガソリン税も臨時で上げたらいい。宅配料金も値上げすれば不要不急の通販など利用しなくなるだろうし、目障りな通販番組も減る。

[Apr 28, 2020]

非常事態宣言は治安悪化を招く・ストレスの閾値

なんだか「週刊コロナ」みたいになって心苦しいのだが、それだけ大きなニュースなのでご勘弁いただければありがたい。

先日NHKニュースで、「配送に携わっている運転手に、『東京からコロナウィルスを持ってくるな』と心無い言葉を投げる人がいる。行き過ぎはよくありません。」と言っていた。

自分達でさんざん危機感をあおっておいて、「行き過ぎ」とはそれこそマッチポンプだろう。もっとも、彼らはマッチポンプという言葉を知らないのかもしれないが、私がひっかかったのはそこではない。

何の落ち度もない人にそういう言葉を投げることを「言いがかり」という。そういうことをする人は決して多くはないが、集団の中に必ずいる。「迷惑をかけない偏差値」とか「攻撃性に抑えがきかない分布」があるとすれば、平均から2σ下回る人は正規分布表によると100人に1.5人くらいいる(σは標準偏差で、2σずれているとは偏差値でいうと30未満)。

私も他人のことは言えず1σくらい下なので、このご時世に近所で熊谷ナンバーとか品川ナンバーを見ると「どっから来てんだよ。自粛だよ自粛」と思うけれども、面と向かって言うことまでしない。それをするのは、ある意味かなりの人である。

そういう私でも、これ以上自粛が長引いてストレスがたまれば、ある時点で閾値を超えて暴発する危険はある。それはまた別の機会に書くとして、今日の問題はそういう2σ超の人が普段どこにいるかである。

考えるに、そういう人達が普段どこにいるかというと、多くはパチンコ屋であり、競馬場競艇場であり、場外売場である。夜の盛り場まで含めれば、おそらく全国で十万のオーダーになるだろう。

中年以上の男の数を3000万人として、1.5%は45万人である。彼らは、普段ならパチンコ屋や競馬場競艇場にいるのに、行くところがなくて昼日中の街中に出没しているのである。

安倍はお坊っちゃまだし、小池は世間知らずなので、普通のおとなしいサラリーマンがパチンコ店やギャンブル場に出入りしていると思っているかもしれないが、そんなことはありえない。そういう場所には、平均より2σずれた人達がいるのである。

しばらく前からそうした業界はイメージアップを図り、瑛太やら渡辺直美が出ているのだが、もとをただせば鉄火場でありカタギの近づくところではない。私自身は半世紀近く出入りしていたけれども、そういう人が多くいるのを忘れたことはない。体が触れたらいきなり殴られるくらいは、十分ありうる場所なのである。

非常事態宣言だといって、そういう人達を吸収してきた場所をすべて閉鎖して、彼らがおとなしく「Stay Home」すると思ったら大間違いである。街中をうろついて、好きなことができないストレスを発散する。それが表面化した一つが、他人に言いがかりをつけることではないだろうか。

禁煙が徹底されるようになって目立たなくなったが、そうした人達の特徴の一つが、タバコを振り回しながら歩くことである。いまだって多くの市街地で歩行喫煙禁止のはずだが、コロナ騒ぎ以来そういう連中を明らかに多く見かけるようになった。

だから、このままいくと、間違いなく風紀は乱れ、治安は悪化する。これを避けるためには諸外国のように、法律に罰則規定をちゃんと整備して、それに基づいて警察がパトロールするしかないけれども、日本ではそこまでする気はない。

わが国は治安がいいので心配する必要はないという人がいるかもしれないが、私はそういう楽観的な考え方はとらない。そうした輩は統計上100人に1.5人必ずいるし、彼らから身を守ることを念頭に置かなければいつか災難がふりかかるからである。

(急に思い出したが、「南西下北天下銭所」を逆読みすると、「しょせん勝てん、来たか災難」となるそうだ。三角寛のサンカ本に載っているらしい。)

愛読する小田嶋先生が、一律10万円給付は経済対策ではなく治安対策だと書いているけれども、そのとおりである。このままの状態で自粛だけが長期化すれば、風紀の乱れ、治安の悪化は避けられないだろう。

競馬場やパチンコ店を閉めっぱなしにしたら、いろんな人達が昼日中から街中に出没することになる。(写真は記事と関係ありませんw)


先週、「攻撃性に抑えがきかない分布」で平均より2σ以上偏りがある人達が、パチンコ屋や競馬場競艇場に行けずに昼日中の街にあふれてきているという記事を書いた。

その時少し触れたのだが、2σほど偏りがない人でも、いつまでも自粛自粛と言っていると閾値(いきち/しきいち)を超えてしまうだろうと思う。今日はそのことについてもう少し書いてみる。

最近TVを見ていると、わずかな時間でもかなりむかつくことが多い。おそらく私も、閾値が下がっているのだろう。知ったような説教を垂れるキャスターや、操作したデータでだまそうとする自称専門家、やるべきことをせず指図ばかりする政治家。新聞をやめて本当によかったと思う。これ以上そんな記事を読んでいたら、どこかの血管が爆発する。

誰にとっても、自分がしたいことを止められれば心穏やかではいられない。しかし、それ以上に腹立たしいのは、こういう機会を利用して自分達の有利なように計らいたいという彼らのさもしい根性である。

もともとインドア派で引きこもりが苦にならない私にしても、「外出はしないでください。接触8割減」とか言われると、知ったことかと思う。他人に指図したり説教したり、嘘のデータで言いくるめることを快感と感じる人達と付き合ってはいられない。

先日WEBを見ていたら、「このご時世に他府県ナンバーの車が多い。自分が感染者かもしれないという自覚をもって、この時期県境を越えるのはやめてほしい」と書いてあった。他府県ナンバーの車に傷をつける人もいるらしい。

「感染の危険があるので遠出はやめましょう」と言われれば納得するれども、「他人に感染させる危険があるのでお前は外に出るな」と言われるとちょっと待てと思う。少なくとも私にとって、「自分が感染者」とかいうキャッチフレーズは逆効果である。

そんな広報をするくらいなら、なぜ1月からきちんと検査しなかったのかということである。中国も台湾も韓国もやっていた。やっていないのは、おそらく北朝鮮と日本だけであろう。感染拡大しているデータがあるなら、ちゃんと出せということである。

いまだに検査を十分してないから感染者数が1日数百程度なのだろうが、あれで拡大しているとみんな納得しているのが不思議である(前も書いたが、コロナがなくても肺炎で亡くなる人は1日平均約300人いる)。

感染爆発するとオリンピックができないというサメの脳味噌・森の事情できちんとした検査体制をとらなかったツケを、なぜ関係ない自分がかぶらなければならないのか。ちゃんと検査していれば少なくとも現状を正確につかめていたはずで、少なくとも私は、正しい生データを見れば納得する。

大部分の人達は、本来なら自分がリスクをとって活動できていたはずのところを、自粛などというあいまいな形で行動に制限を加えられている。そのストレスは不手際をした政治や行政に向かうべきところを、自分が我慢するのだから他人も我慢させるという方向にスライスしているのである。

おそらく、第二次大戦中もこんな状況で、「ぜいたくは敵だ」とか「欲しがりません勝つまでは」とみんなでお互いを監視していたのだろう。軍部が横暴だとか政府が無能という要因もあるけれども、そういう付和雷同性が被害を大きくしたのではなかろうか。

話は戻って、このように理不尽な形でストレスが加えられると、他人の行動に目くじらをたてる方に傾く。結果として、普段なら2σ以上ずれている人が言いがかりをつけるところが、1σ以上にまで範囲が広がるのである。

つまり、普段ならそういう人は100人に1.5人しかいないはずなのに、100人に16人くらいにまで増えてしまうということである。言いがかりをつける人が10倍である。危なくてやっていられない。

本当のことを言えば、1日歩いて2、3人しかすれ違わない「3密」の逆の「3疎」という山はいくらでもあるし、家の近所を歩くよりむしろ安全である。とはいえ、車を止めて落書きされたり傷つけられたりしたら嫌だし、そういう連中が100人に16人もいるとしたら、ウィルスよりずっとこわい。

ゴールデンウィークに家から出るなと言われて、ストレスの閾値を超えてしまう人達は大勢いるだろう。それを避けるためには、御用学者や自称有識者が言うことではなく、正確な情報、生データが何より大事なはずなのだが、多くの人はそう思わないのでますます危険な人が増えるのである。

[Apr 30, 2020]

10万円給付はすぐに税金で召し上げられる

先週、補正予算案が可決されて、一律10万円給付が決まった。30万円があっさり撤回されたので、10万円だってどうなるか分からないと思っていたが、経済対策であれ治安対策であれ、早くやるに越したことはない。

コロナ騒ぎで収入がなくなり、家賃の支払いに困っている人は大勢いる。それは、病気のせいというより政府・行政の不手際のせいである。自分達の不手際に対処するのは当然のことだ。

さて、WEBをみていると私の感想とはみなさん違うようなので、あまり同意されないだろうけれど書くだけ書いてみたい。

すでに固定資産税は引き落とされたし、もうすぐ自動車税や地方税も請求される。7月からは年金保険料(奥さんの)や健康保険料が加わる。コロナだからといって、自動振替だから待ってもらえない。その金額は、10万円が給付される頃には10万円を超えるだろう。 いまの人達は物分かりがよくなったので、目的も使途も違うのだから払って当然というのだろうが、半世紀前はこうではなかった。もっと、税金を支払うことに抵抗があり、使い道にもうるさかった。

消費税導入の際にも、広く浅く消費税をかければ直接税を減らすことができるというバラ色の未来が示されたけれども、結果的には他の税金はそのままで消費税だけが純増となった(高所得者の税率は下がった)。さらに、その税率は上がる一方である。

高速道路の料金だって、いつの間にか払うのは当然という空気になってしまったが、もともと償却が終われば無料になる建て前だったはずである。実際に無料になったものもあるが、収入の大きい道路ほど言い訳をつけて有料のままである。

何が言いたいのかというと、もともと税金など最小限にすべきで、こうした時期には請求や納付を猶予して当然だし、「10万円給付」などと偉そうにしないでくれということである。そもそも、誰のカネですかということである。

1人当たり10万円で総額12兆円にのぼる事業規模を自画自賛しているけれども、安倍のカネでもなければ公明党のカネでもない。国民の多くから取っているものを、みんなが困っている時に戻すのは、当り前のことではないだろうか。

12兆円にしたところで、つい最近の完全な人災である銀行・住専の破綻処理は、税金棒引き等々含めれば数十兆円のオーダーである。世界的なパンデミックの対応に十兆円の財政支出は、私はそれほど桁違いのものとは思わない。

そして、全国津々浦々の山間部に造りかけのまま放置されている道路や、管理できなくなった砂防ダム、使われなくなったハコもの等ムダな土木建築に使われた税金は、少なくとも数百兆円というケタの違うものであったと推測される。

年金生活者や生活保護受給者はコロナで所得が減った訳ではないので、10万円を返せとか受け取るなと言う人達がいる。言いたい人には言わせておけばいいのだけれど、その考え方にはおかしな点がある。

というのは、コロナで直接の影響を受けた受けないにかかわらず、この財源を賄うのは赤字国債である。結局のところ、影響は国民全体に及ぶということである。

それが、消費増税という形になるのか、インフレによる実質所得の減少という形になるのかは分からない。最新の財政理論の主張するように政府の負債は中立なのかもしれないが、いずれにせよ、何らかの形で国民全体にリスクを負わせることは間違いないのである。

10万円一律給付は決まったけれど、よく考えるとすぐに税金で消えるのでした。


[May 5, 2020]

非常事態宣言延長。でも空気は変わってきたか?

非常事態宣言が延長されて、5月末までとなった。延長自体は予想されていたので驚くことはないが、何となく空気が変わってきたような印象を受けている。

3月の3連休の後、早く非常事態にしないと大変なことになるとマスコミが煽って、4月早々に非常事態宣言が出された。その当時から、私権を制限するなら正確なデータの裏付けが必要だと思ったけれども、たいした数でもないのになしくずしにそういう状況となった。

いま図書館が休みなので調べるのが難しいのだけれど、4月末には感染者が爆発して少なくとも数万人、悪くすると数十万人という予測だったはずである。現実は、もちろん検査をないがしろにしている影響もあるけれど、感染者が累計でも1万数千、死者に至っては数百人レベルである。中国やイタリア、NYのようにはならなかったのである。

非常事態宣言で人出が減ったからとは到底考えられない。都心こそ人がまばらになったけれども少し離れると相変わらずで、わが家周辺のスーパーやホームセンターは人だかりだし、公園に来る人は増えている。

こうした状況にもかかわらず感染者が増えない、少なくとも重症者や死者がそれほど増えていないとすれば、考えられるのは前に書いた二つの要因、日本が諸外国とは違う特別の要因があったのか、あるいはすでに多くの人が感染して抗体ができているかである。

ネットでもようやくそうした論調が目に付いてきて、人口10万人当りのコロナ死者は日本の場合明らかに少ないとか、検査をするしないと重症者の数はほとんど関係ない(というか反比例する)という記事を見かける。世間が私に追いついてきたようだ。

TVでも、中国では外出制限を解除して観光地はごった返しているとか、欧米でも規制を緩めて経済活動を再開しているという内容を流している。コロナウィルスは紫外線と高温に弱いとも言っている(大リーグボールは水に弱い、みたいだ)。

非常事態宣言直前のヒステリックな報道内容から一転して、そろそろいいんじゃないの的な空気を感じるのは私だけだろうか。日本のゆるゆるの規制でコロナによる死者がそれほどいない(少なくとも数万にはなっていない)とすれば、諸外国とは違うと考えるのが普通である。

自粛疲れや、背に腹は代えられないという実情もあるけれども、何かTVや総理大臣・都知事が言っているのとは違うと感じている人が増えているようで、いい傾向である。

思うに、諸外国がやっているから同じように外出制限をしてみたかっただけで、そろそろ飽きたから元に戻してほしいみたいな雰囲気である。データの裏付けなしに非常事態を始めたのだから、やめる時もデータなしで帳尻が合う。

(最近になって、「陽性率」なんてことを言いだしたのも、検査を増やせば感染者数が増えるので、陽性率は下がってますと言い訳にしたいからだと思う。帰国者や感染者周辺しか検査しなかったのだから、下がるのは当り前である。)

医療現場の実態からすると、いま現在すでに病床も機器も医者も足りないので切羽詰まっているけれども、削減したのは維新の会と自民党である。八つ当たりするなら、一般庶民ではなく安倍とか橋下にしてほしい。

一般庶民は、自分が感染しないこと、万一感染しても軽症で済むことが一番大事である。自分がつらい目に遭わなければ、正直言って関心は薄い。自粛させられている飲食業や旅行業関連の人達も、本音はそうなのではないだろうか。

だとすれば、狼少年の童話が示す通り、非常事態宣言を長くすればするほど一般庶民の危機感は薄れていく。一方で、自粛で売上が減ったり家賃が払えなくなるのは目の前の現実である。

10万円どころかマスク2枚すらいまだに届かないのに、前例にとらわれず画期的な迅速とカンペを読む嘘つきに怒りの矛先が向かうのも、そう先のことではあるまい。

[May 12, 2020]

コロナは悪い影響ばかりではない

非常事態宣言が多くの県で解除された。諸外国の状況をみても、終息するかどうかはまだ分からないけれども外出制限は終わりという雰囲気である。これからは、GDPがどれだけひどいことになるのか明らかになる時期で、かえって楽しみである。「V字回復」なんて、しない方にブラックチップを賭けてもいいくらいである。

もちろん、病気が流行していいということではないが、コロナは必ずしも悪い影響ばかりではないと思っている。約20年前のSARSの前と後とで、香港・マカオの清潔度がかなり違ったように、今回もコロナ後にはいろいろ違ってくると思うからである。

コロナ騒ぎになってすぐ思い出したことがある。以前、奥さんとクラシックのコンサートに行っていた時期があった。ある時からぷっつりと止めてしまったのだが、そのきっかけというのが、後ろの席のじいさんが演奏中ずっと咳をしていたことである。

ロックじゃないんだから、後ろで咳などされてはせっかくの音楽が台無しである。それに、病原菌をまき散らしているのと同じことだから、前の座席にいれば感染してしまう危険が大きい。もちろんマスクなどしていない。咳エチケットは最近言われだしたが、そんなの昔から常識である。

気になって後ろを振り返るのだが、そのじいさんは平気で、とうとう演奏終了まで居続けたのだった。連れがいたけれども(女房だろう)、なぜ「ロビーに出ましょう」と言わないのかと腹立たしかった。入場料がもったいないのかもしれないが、他人の入場料をどう思っているのだろうか。(佐倉市民音楽ホールである)

それ以降、常識のない人達と一緒に音楽を聴くのに1万数千円払う気にならず、コンサートに行くのはやめてしまった。今回のコロナでコンサート自体開けなくなってしまったが、仮に再開されたとして、ああいう連中が入場できなくなるとしたら、たいへんいいことだと思う。

今頃になってソーシャルディスタンスがどうたら言っているけれども、他人と至近距離になることはコロナ以前からとても嫌だと感じていた。

JR沿線から北総線に引っ越したのも、理由の一つが満員電車に乗りたくないからである。飛行機でも長時間の場合はできるだけビジネスクラスに乗るようにしていたし、電車やバスも可能な限り隣がいない席を選んできた。

書いていて思い出したが、昔の知り合いで、新幹線の3人席は真ん中の席がいちばん幅が広いので、自分は真ん中を選ぶという奴がいた。それを聞いていて私は、多少幅が広くても確実に隣が埋まる席で平気なのかと思ったものである。(私と違って小さくて痩せていたが)

不要不急の典型ともいえる高校野球が、これを機に縮小されるとたいへんうれしい。


つい先ごろ餃子の王将に行ったところ、カウンター席が3人置きにしか座れないようになっていた。たいへんいいことである。店としては回転率が下がって苦しいかもしれないが、営業自粛よりましであろう。

非常事態解除を待たずにスーパーやホームセンターの混雑は戻ってきているが、「1家族1人でお願いします」「3密は避けましょう」と入口に書いてある。これを機に、スポーツジムでトレーニングもせずマシンに座って無駄話しているばあさん共も何とかしてほしいものである。(ジムの再開はいつになるか分からないが)

話は戻るけれども、今回のコロナでこれだけうるさく言うのだから、これからコンサート会場や映画館は座席の間隔を広くするだろうし、長距離バスも2人席に1人しか座らせなくなるのではないかと思う。

そして、咳が出たり熱がある連中を同席させる訳にはいかないだろうから、そういう連中には入場料・乗車券を払い戻してお引き取り願うことになりそうだ。

ということは、イベントや交通機関は、ある程度以上の空席やキャンセルを見込んでおかなければならない。これまでのように薄利多売、安い方がお得的なビジネスモデルが成り立たなくなる。AKBもディズニーランドも、これまでのような商売はできない。

学校が約3ヵ月にわたり休校を余儀なくされたが、そもそも学校は勉強するところであり、部活などというものは不要不急と気づく人が一人でも多くなるとしたら、これもコロナのいい影響に数えられるだろう。(勉強自体不要不急という見方もあるが、世界の趨勢としてラディカル過ぎるかもしれない)

本来、スポーツとは勝ち負けを争うものではない。もちろん、一握りのレベルの高い人達が争うのは勝手だが、公立学校を含むすべての学校がそうする必要はない。スポーツの安全な楽しみ方を教えるだけで必要十分であり、応援は各自がやりたいようにやればいい。

コロナ後は、部活をする方も見る方も、これまで同じという訳にはいかないだろう。甲子園を一気に廃止する訳にはいかないかもしれないが、全国の高校でトーナメントなどということはやめて、観戦は関係者のみにすれば、3密がかなり軽減されるだろう。

個人的には、これらのことがコロナを機会にいくつかでも実現してくれたらうれしい。そもそも人が大勢集まる場所が好きではないし、見ているだけでも暑苦しいし、そういうニュースを見るのも嫌だ。

家の奥さんに言わせると、ほとんどの人はみんなが集まる場所に行きたいし大勢でいると楽しいということなのだが、正直言って、その気持ちがまったく分からない。この点でも、時代が私に追いついてきたようである。

[May 21, 2020]

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