なんとなく思うこと・・・ニュースや世間のいろいろなこと、私が思うことと世間が感じることは違うみたいです。

一夫多妻    江戸川クレーン事故    永田議員についておわび
言霊的報道と現実    国会議員の品格    マスコミの責任と求められる見識
出し抜く    和を乱す    いじめ問題と教育再生会議にみる偽善性


一夫多妻

昨年暮れから、姉歯+ヒューザー偽装ブラザースとか、ホリエモン証券取引法違反とか、あまりそそらないニュースが続いたが、ここにきてようやく面白いニュースが飛び出した。東大和市一夫多妻事件のことである。

逮捕されたけれどもたいした罪にならないことが予想されるし、何か重大な事実が発覚してこれから大事件に発展する要素もあまりないと思われるので、テレビのキャスターの人たちもあまり熱心にコメントしない、というか、けしからんけどちょっとうらやましいというニュアンスが窺えるのはご愛嬌だが、私が最初に思ったのは、替わってやるといわれてもあまり替わりたくはない生活だなあ、ということである。

そもそもわが国における普通の一夫多妻(?というのもおかしいが?)は、一人の男が複数の家庭を持つというのが普通である。例えば平安時代の「妻問い婚」というのは女は定住していてときたま男がそこを訪れるという形式であり、時代が下っても「別宅」などという言葉があったように、家には妻が一人だけいて、その家が複数あるというのがポピュラーな形態である。

例外は皇室や将軍家における「後宮」であるが、これは妻たちを世間(=他の男)から遠ざけるという意味があった。しかしこういう女ばかりの社会を作ってしまうと、それこそ「大奥」の藤原紀香や小池栄子ではないが、どろどろした生活感あふれるものとなってしまう。どろどろした生活感は必ずしも男たちが求めるものではない。

今回の東大和でも、「妻」たちが車座になって、真ん中に鍋とかを置いて、皿に何か乗せてみんなで食べている映像があった。確かに、みんなミニスカで柄物ストッキングで、顔はモザイクでわからないけれどけっこうスリムで若いのだが、あれを見て胸がときめくか、と言われたらどうだろうか。きっと、食事のしたくとか後片付けとか、掃除とかゴミ出しとか、洗濯とかお風呂の仕度とか入る順番とか、うるさい人とか序列とかあってたいへんなんだろうなー、と想像してしまう。

男は働かないで「妻」たちがパートとかして稼いでいたらしいが、きっとお金をきちんと出さない人とかいてずるいとかなんとか争いになって、それに巻き込まれてしまう場面もあったような気がする。そんなことを奥さんに話していたら、「あんたみたいに女の機嫌を取るのが下手な人が、10人も面倒見られるわけないでしょ」と言われてしまった。その通りだと思った。

[Jan 31, 2006]


江戸川クレーン事故

今週の月曜日、14日の朝は大変だった。出勤のため電車に乗ったと思ったら間もなくストップ。第一報は「落雷のため都営線が全線で止まっています。直通運転はいたしませんので、JR線で振替輸送を行います」ということだったので乗り換えた。ところがご承知のようにこの停電は、江戸川の送電線にしゅんせつのためのクレーンが接触して起こったもので、都営線だけでなくJRも営団地下鉄(東京メトロだっけ?)もダイヤがめちゃくちゃになっていたのであった。

お盆でお休みの人が多く電車はどこも空いていたのでまだ良かったけれども、これが普段の通勤ラッシュの時だったらあちこちの駅で人があふれかえることになっていただろう。さて、今回の事故のあらましが明らかになってまず第一に思ったことは「日本のプロフェッショナルの数は確実に少なくなっているなぁ」ということである。

河川を航行していて注意すべきことはそれほど多くはない。基本的には、「どこに障害物があるか」ということであろう。何十メートルも上にクレーンを上げたまま航行すれば、電線以前に橋に激突する。どこに橋がかかっていて道路や鉄道が走っているか、どこに鉄塔や電線があるか、どこに構造物があり水深が浅くあるいは川幅が狭くなっているか、他に航行する船はどの程度あるか、といったことに注意しなくては危なくて仕方ないくらい、素人でも分かることである。

ましてや、今回の工事はしゅんせつ(川底に溜まった砂や泥をさらうこと。これを定期的にやらないと水深が浅くなり、船の航行に差し支えたり、流量が増えた場合はんらんの原因となってしまう)である。しゅんせつを必要とするのは河川や港湾だから、つまり99%公共工事(発注者が国や地方公共団体等)のはずである。公共工事である以上、工事業者はある程度以上の社内体制を備えていないと、受注できない(審査がある)。

つまり、余計なところでクレーンを上げて何かにぶつけてしまうなどという初歩的なミスをする会社は本来受注できるはずはないのである。もちろん、人間だからミスはどうしても起こる。ミスが起こりうるということを前提として、それが致命的なものにならないようにするのがプロフェッショナルである。事故を起こした会社も、おそらく昔はちゃんとしたプロ、例えば東京近辺の河川ならどこに何があるか目をつぶっていても分かる、というくらいのレベルの人はいたはずだ。

ところがそういうプロの技術や経験が次の世代に受け継がれず(そういうプロは文章に書くなどということをしないからマニュアルなんて作れない)、また会社も安く入札すれば契約を取れるなどということばかり重視して、ノウハウを会社として維持しようと思わないものだから、こうした取り返しのつかない事故になる。人命にはかかわらなかったものの、あの会社は今後損害賠償請求されることは確実であり、公共工事からも外されるはずだから先行きはかなり厳しい。

こうしたことは日本の相当広い範囲で起こっているように思う。例のヅラ設計士の強度偽装建築の件にしても、昔の現場監督なら「こんなもん、できねーよ」の世界だったのではなかろうか。当り前のことを当り前にできるプロフェッショナルがどんどん減っているのは、とても悲しいことである。

[Aug 17, 2006]


恥ずかしい永田議員について千葉県民を代表しておわび

いまさら国会議員に恥の意識を説いても仕方ないとは分かってはいるが、それにしてもひどい話である。

国会の場で質問するというのは、選挙民(彼の場合南関東ブロック比例だから、その一人に私も入る。ちなみに小選挙区も千葉)を代表して質問するということだから、その内容も根拠もはっきりしたものでなければならないことは明らかである。

ましてや、自民党幹事長がいみじくも言っていたように、「私の息子とはいえ一民間人」に対して、刑事被告人(ちなみに、私はホリエモンが逮捕に相当するとは思っていない)から不明朗なカネの流れがあったかのような告発をするのだから、その真偽にはそれこそ「命がけ」でなければならない。

それを「ごめんなさい」で済ませようというのである。おそらくその背景には、巷間噂されているように、"メールは偽物だが、そういう事実があったらしい"ということもあるだろうし、民主党としては数少ない元大蔵キャリアの議員を(多分、三顧の礼で迎えたのだろうから)むざむざと失業させたくないということもあるのだろう。

しかし、周りがどうあろうと、最終的に自分の身の振り方を決めるのは自分自身である。こういう場合どうすべきかを判断できないのだから、選挙民を代表する資格はない。

大蔵省(現財務省)は俗に「役所の中の役所」といわれる。それはなぜかというと、他の役所は政治家だけには頭が上がらないのに対し、大蔵省は政治家にさえも頭を下げる必要がないからである。だから自然と、「自分が一番正しく、他人は私に従うべきである」「私はミスを犯すはずがないのだから、悪いのは誰か他の人である」というメンタリティに陥りやすい。

もっというと、自分が弱い立場で折衝したことがないから、他人をどう説得したらいいかなどと考えないし、反論されたときにどう対応していくかを考えない。だから、あんな偽メールを得意げにふりかざすことになる。

国会の場で偽メールを証拠に他人の名誉を傷つけることは、飲み会で「よし、三次会いくよ~」といってさっさと帰ってしまうのとは訳が違う。自分のバカさ加減を世の中に知らしめることであり、その自分を選んだ選挙民の名誉を傷つけることである。

かつて、松浪チョンマゲ議員に彼が口汚くヤジを浴びせ続け、怒った松浪議員がコップの水をひっかけて懲罰にかけられたことがあった。「自分にやさしく、他人に厳しい」というのは、これもエリート様にはありがちな性格であろう。

こんな永田議員に私がしてあげられることは、次回の選挙で比例に「民主党」とは書かないことだろう。これまでN田Y彦への義理(じつは、幼稚園の同級生。彼もこの騒ぎで国会対策委員長をクビになった)で民主党に入れてきたんだけど、永田への票になるなら次回からはやめさせてもらおう。恥知らずな議員を選んでしまった不徳を、千葉県民を代表して全国のみなさまにお詫び申し上げる次第である。

八千代を選挙地盤とする元大蔵省職員・永田元議員は、2009年に自殺しました(合掌)。

[Mar 2, 2006]


言霊的報道と現実 ~ワールドカップ日本vsブラジル戦

磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ 柿本人麻呂(万葉集 3254)

大意:わが大和の国は言霊の助ける国です。だから言挙げしてあなたの幸運をお祈りします。どうかご無事で。

わが国には言霊という宗教的観念がある。簡単に言えば「言葉が魔力を持つ」という考え方で、上の和歌でいうと、「どうかご無事で」というと無事に過ごせる、というのである。

これだけなら、中国人だって絵札が欲しければ「コン!」と大声を出すし、欧米人だって ”Come!”とか叫んだりする。だが日本の場合はそれだけでない。不吉なことを言うと悪いことが起こるので言ってはいけないのである。

だから、結婚式に「切れる」と言ってはいけないし、受験生に「すべる」と言ってはいけないのだが、これくらいなら害は少ない。しかし、いよいよ日本時間で明朝に迫ったFIFAワールドカップドイツ大会の一次リーグの最終戦、マスコミの論調である「日本、わずかな望み」というのは一体なんなのだろう。

とにかく優勝候補筆頭のブラジルが相手なのだから、恥ずかしくない試合をするのが第一である。加えてジーコ・ジャパン、というよりここ3大会中心となって日本チームを引っ張ってきた中田英ら主力選手にとっておそらく最後のゲームとなるから、その意味でがんばってほしいと思う。予選突破を決めて格下相手のブラジルが控え選手を大量に出してくることも確実だから、もしかしたらアトランタ五輪の1-0再現、というくらいは期待してもいいだろう。

しかし、「ブラジルに2点差で勝って予選突破(それもクロアチアが1-0でオーストラリアに勝った場合のみ。クロアチア2点差勝ちor引分けなら3点差が必要。オーストラリアが勝てば何点とってもダメ)」なんだそうである。まさか本気でそんなことを考えているとは思えないが、とりあえず新聞にはそう書いてあるしNHKでもそう言っている。

万が一2点取れたとしてそれでも攻め続けるとしたらオーストラリア戦の二の舞で3点取り返されるだろう。それより何より、せっかくワールドカップの舞台で本気のブラジルと戦えるのに、妙なゲームプランで選手もファンも楽しめないとすれば大変不幸なことである。

おそらくブラジル戦終了までこの論調は続き、「有終の美」とか「ドイツワールドカップ最後の試合」とかという表現は不吉だからといって使わないのだろう。それでも現実は冷徹である。日本2-0勝ちのオッズ(英国ブックメーカー)は67倍、3-0に至っては101倍である。

何だ、万馬券程度の可能性でもあるのかと思われるかもしれないが、このオッズはブラジルの4-0(10倍)、5-0(19倍)より格段に高い。さらに6-0(29倍)、7-0(81倍)よりも高いのである。これはつまり「ありえない」ということと同義である。

日本では賭けは合法化されていないので実際には無理だが、日本の予選突破に60:1なら、喜んで受ける。ただ刑法185条但し書きで「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない」とされているから、だれか私にビールをおごりたいという人がいらっしゃったらメールください。もし日本が予選突破したら、私は河内屋酒店仕様の○ン○○(自主規制、剣菱だったりして)をお贈りします。

(締切り2006/6/22午後11時59分。先着20名様まで。   ブログで参加者を募りましたが、期限までに応募者は現れませんでした。当然ですが。

[Jun 22, 2006]


国会議員の品格

この間から、通勤に使っている都営新宿線のつり革に、東京三菱UFJ系列の消費者金融会社モビットが宣伝のネクタイのようなものを貼り付けている。竹中直人が異常に長いネクタイをして、「ご利用は計画的に」とCMしている会社なので、ご存知の方もいるかもしれない。

先週は、ついに都営浅草線にも登場した。なんとも、品がない広告である。紙の宣伝媒体で十分であろうに、再生紙にすらならない化繊を使っている。原油高の現在、資源の無駄使い以外の何物でもない。

ちょうどそれと軌を一にして、金融庁がグレーゾーン金利を温存した法案を準備中と報道されている。グレーゾーン金利とは、利息制限法には抵触するが出資法には違反しない範囲の高金利のことで、いわゆる高利貸のひとたちの貸付業務のことである。

今回の法案ではこれを引き続き(一定期間ではあるが)認めようというものである。その理屈がふるっていて、「この金利での貸付ができないと、小口金融を受けられなくなる層が出てくるので、猶予期間を置くことが望ましい」ということである。全くお笑い種である。

融資先というのは、本来返済することを前提に取引すべきもので、利息を高くすればそれだけ返済することは困難になる。だから、みんなが利息制限法の範囲内の利息で貸せばいいのだが、それをしないのは、その方が商売になるからである。

通常の金利で借りられない層というのは多重債務者など訳ありの人が多いから、そういう人に貸す業者というのは、それなりのノウハウ(回収の手段)を持っていることと、もう一つ、貸倒れは損金として落とせることを前提に商売をしている。

つまり、法律ぎりぎりの高金利で利息がとれればしめたもの、取れなければ親兄弟や保証人やその他諸々の手段(生命保険とかね)で回収する。できなくても損金で落とせばその分税金を払わなくてすむ、というよりは、余計に税金を払うくらいなら貸し倒れる可能性が高くても貸してしまえというメンタリティがあることは想像に難くない。

最初にあげたモビット(ここは利息制限法の範囲で商売しているが)も考え方の根底は同じで、せいぜい金利5%で仕入れたカネを15%で貸して大儲けしているものだから税金がたいへん。余計に税金を払うくらいだったらカネをかけて広告し利益を下げてしまおうという考え方である。

もちろん、彼らも民間人だから、税金をなるべく払わないですませたい、法律・制度の許す範囲で利益を小さくしてしまおうと考えても仕方がない。しかし、税金で生活しているはずの国会議員らが、自分達が献金を受けているからといって、税金を払わないですませようという団体の利益を代表するというのは、電車の中のネクタイ広告と同じくらい品がない。

その意味では、この法案に反対して政務官を辞任した水野真紀の亭主は、さすが後藤田一族というだけのことはある。

[Sep 23, 2006]


マスコミの責任と求められる見識 ~350万年前の子供の化石報道

しばらく前に、≪ゴッドハンド≫F氏による旧石器時代の出土品捏造という事件があった。在野の愛好家からわが国トップクラスの研究家といわれるに至ったF氏の研究成果のほとんどすべてが、あたかも出土したように装った偽装であったという事件である。

この事件、確かに本人が一番悪いのだが、それをあおった要因の一つがマスコミによる過剰な取り上げであったと思っている(皮肉なことに現場を押さえたのも毎日新聞の張り込みだったのだが)。

古代史とか人類史といった遠い過去の研究は一朝一夕に成るものではない。仮説は度重なる検証を受けてはじめて定説となりうる。新発見などというものはそう簡単にできるものではなく、多くの場合は一つの仮説が立てられただけのことにすぎない。

ふだん歴史とか考古学に触れる機会の少ない読者に情報を提供する立場にあるマスコミは、そうした点に留意しつつ、読者に誤解を与えないような記事を書くべきであり、記者にはその前提となる見識が求められると思っている。

何のことを言っているのかというと、9月21日の読売新聞に載った「350万年前の子供の化石、発見」という記事である。この見出しを見た読者が何を想像するかというと、「350万年前に人間がいたのか」「しかも子供の化石というのは珍しい」「なるほどこれは大発見なのだろう」ということなのだろう。

全くのミスリードである。これを書いた記者には、人類学に関する見識もなければ、記事を読むことにより読者に知識を得てもらいたい、人類の歴史に興味を持ってもらいたいという志が全くない。テレビの視聴率と同じく瞬間的に他人の関心が得られればそれでいいという考えが見え隠れする。

ちなみに、350万年前というのが正しいのかどうかもこれから検証されることになるのだが、それ以前に、350万年前にいたとされるのは「人間の」子供ではない。現人類とすでに滅びてしまった人類に近い種族の共通の祖先の、そのまたチンパンジーと分かれた直後の種族なのである。

道具や火を使ったとされるペキン原人やジャワ原人がせいぜい100万年前、ミトコンドリア分析により現在生きているすべての人類の共通の祖先であるひとりの女性がいたとされるのが20万年前だから、それよりはるか昔のことである。

もちろんこの化石の分析により、現人類とすでに滅びてしまった人類に近い種族がどこでどう分かれたのか(いわゆるミッシング・リンクの問題)の研究には大いに役立つことが期待されるが、あたかも人間の子供の化石が、それも350万年前のものが発見されたかのようなニュースにすることは、視聴率獲得以外には何のプラスにもならない。

いずれにせよひとつの仮説が提出され、これからそれが検証の過程に入るという前提を省略して大発見と大騒ぎする感覚は、第二、第三の≪ゴッドハンド≫を生む素地となりかねない。

わが国のマスコミは、近畿で新しい遺跡が発掘されるたびに「卑弥呼の遺跡か?」と大騒ぎするのだが、これも同様である。魏志倭人伝(及び前後の歴史書)を常識的に読む限り、邪馬台国は九州以外ではありえないのだから、近畿は近畿文明圏として紹介すればいいだけのことである。

誰が目的地を説明するのに、「東京からJR総武快速線に乗って△△駅まで行き、駅前からバスに乗って○○で下り、2つめの信号を左に折れてコンビニの角を右に折れたところにあるマンションから車で5時間」なんて道案内をするか、という話である(魏志倭人伝はそう読まないと邪馬台国が近畿にはならない)。

[Sep 25, 2006]


出し抜く

出し抜く[だしぬ・く] 他人の油断につけこんだり、相手をだましたりして、人より先に物事をする。 例:「同業者に―・かれる」

高校の必修科目逃れについていろいろ考えていて、おそらく本質はこういうことなのだろうと思う。もっとも、学校で受験科目を多く教えたところで大して身にならないだろうと思うし(本気で受験勉強しようと思ったら学校で教える速度では遅すぎる)、見つかった以上は1日10時間世界史やったら?と思うだけだけれど、最近の風潮として、少しでも他人より有利に、少しでも他人より楽に、という傾向が強まってきているようなのは残念なことである。

生徒の立場に立ってみれば、現代社会をやろうが地学をやろうが、そんなものは受験のみならず実社会においてほとんど役に立たないことは確実だから、習わずにすむものであればその方がいい。ただ、教える側の学校がそれではいけないのであって、たとえくだらないルールであっても一応はそれに従うのが大人の対応というものである。

それをしないのは、おそらくどこの大学に何人入れたのどうだのということが、職場における評価、ひいては出世や給料に結びついていたからなのだろう。

私自身は現代の日本に生まれてきたこと自体がかなり幸運なことと思っている。世界には住むところもろくになく、お腹いっぱい食事することのできない国はたくさんあるし、日本だってそういう時代は長かった。上を見ればきりがないけれど、いま普通に毎日食べている食事は、王侯貴族とまではいかないけれど世界的にみればかなり恵まれた部類に入るし、昔の殿様だってこんなにいいものを食べていたとは思えない。

加えて、普通に働いていれば海外旅行をするのだって、いまやそれほど難しくはない(かえって国内より安い)。そんなふうに恵まれた境遇にあるのに、さらに他人を出し抜こうというのだから、考えてみればご苦労様である。

私は基本的に怠け者なので、そこまでしたいとは思わないし、そこまでする人たちの気持ちも実はよく分からない。昔から割り込みやずるいことをされると「なんだこいつは」と腹は立つのだが、自分でそうしようとは思わなかったのである。

今回の話は例えていえば高速道路で渋滞しているときにきちんと並ばないで路肩を突っ走り、気がついたらパトカーが待ち構えていたようなもので、ドライバー(学校)のみならず同乗者(生徒)もそれなりの不利益をこうむるのは仕方がない。これを機に、もう少しのんびりした世間になればいいのにと思う。たぶん無理だけど。

[Oct 31, 2006]


和を乱す

昨日に引続き高校の必修科目逃れの問題について思ったことを。ちょっと書き足りなかったのは、昨年のJR西日本脱線事故とこの事件との類似性についてである。

長いこと日本の会社で働いてきて思うのは、なんで社会的なルール・規範よりも自分たちの内々のルールを優先するんだろう、ということである。以前にも書いたけれど私は転職や出向、会社合併などでそれなりにいろいろな会社の企業文化を経験してきたが、ほとんどすべての会社がそうである。

「2、3分ダイヤが乱れるのと、制限速度を超えて運転するのと、どちらをより避けるべきか」「学校としての進学成績を良くするのと、指導要領を守って必要な授業数を確保するのと、どちらを優先すべきか」なんて選択を、常識的にまともにできないのがわが国の会社社会なのである。

私は会社への帰属意識がほとんどなく、自らの身を守るためにはまず社会的なルールを守る必要がある、と思っているのであるが、「ここはこうすべきではないか」と正論を述べても多くの場合良くは思われない。

きっと、問題となった高校でも、そう主張した教師は必ずいたはずである。でも、「みんなやっているよ」「バレるわけないじゃない」「きれいごとだけじゃだめだよ」と言われておしまいである。それでもしつこく言うとどうなるか。「和を乱す」と言われてしまうのである。だから結局私は、他人とは一線を画した世渡りをしてきたけれども、それでもなんとかここまで生き延びてきた。

だからといって、世の中のルールを厳密に守ることがすべてに優先するとは思っていない。スピード違反で捕まったことは2回あるし、NHKの受信料だって支払い拒否したままである。(注.この記事のすぐ後から、ちゃんと集金に来るようになったので払っています)スピード違反の2回は東北道の鹿角(秋田県)付近と国道50号の足利(栃木)付近、ともに片側2車線の直線で晴天、他に車など全然いなくて左側車線を走っていてやられた。規制速度を多少オーバーしても全く危険はないと思われるシチュエーションである。

そういうルールまで、全部守れとは言わない。しかし、結果が深刻なものとなるルール違反(事故で大勢が危険に巻き込まれるとか、バレたら生徒が卒業できなくなるとか)かどうかは、分かるのが大人である。自分たちのコミュニティの中の利害だけを考えていると、そういうことが見えなくなる。私はそういう人間にはなりたくないと思ってきたけれども、そういう人が偉くなってしまう傾向にあるのが、残念ながらわが国の企業風土なのである。

[Nov 1, 2006]


いじめ問題と教育再生会議にみる偽善性

1年ほど前から作家の日垣隆氏の有料メールマガジン(年間10,000円だから、この種のものとしては結構高い)を購読しているのだが、今週の記事にいじめ問題と教育再生会議のことについて書いてあった。この問題については私自身マスコミの論調にかなりの違和感を持っていて、この記事を読んでかなり納得したところがあったので、さわりの部分だけご紹介したい。

氏には「偽善系」という著作もあるくらいで、世の中で常識とされるもの、環境問題や市民運動、マスコミ、官公庁、しまいには細木数子に至るまで怒りの、というかシニカルな視点で論評するのだが(マカオにもしょっちゅう行くらしい。会ったことはないけど)、このたびの教育再生会議の「いじめを見て見ぬふりをするのは加害者と同じだ」という論調に激しく異議を唱えている。

犯罪であれば警察に通報すべきだし、犯罪でなければ自分との関係性において判断する事柄である。犯罪と犯罪でないものの区分があいまいだ、などということを言う奴の方がおかしいので、そういう輩はヤクザにでも喧嘩売っててください。でもそういう人は自分の子供や身近な年少者にきちんと教育的指導をしているんですかね、というご意見(ちょっとはしょりすぎだが)であった。

このあたり私も全く同意見で、そもそも「どーしよーもない奴」というのはどこの世界にもいる。会社にだっているし地域にだっている。どうして学校だけそういう奴がいない純粋培養の世界を想定するのか、と思う。

西原理恵子の「毎日かあさん」に出てくる言葉で、「私立の学校に入ったって、世間はお上品な私立じゃねぇんだよ」というのがあるが、そういうことである。「どーしよーもない奴」への対処を自分なりに工夫していくのが、社会の縮図である学校の役割であり、その工夫の中には学校に行かない、ということも当然含まれる。

また、コミュニケーションというものは、決して善意のものばかりではない。みんながお互いに好意を持ちましょうなどというのは偽善であって、人間誰しも好き嫌いがある以上すべてのコミュニケーションが善意ではありえない。そして犯罪でない悪意のコミュニケーションが全否定されるべきだとも思わない。そんな堅苦しい付き合いは私自身したくないし、みんなが自分に好意を持ってくれなどと主張するのは一種の傲慢であろう。

そして、「見て見ぬふりをする」というのは、結構社会人として要求されるスキルなのではないかと思っている。学校でそんなことを頭ごなしに教え込んで、大人になってカシノに行って、ディーラーが21なのに22と勘違いしてみんなに配当してしまったときに、見て見ぬふりができずに「それは間違いです」なんて言ってしまったら、ラスベガスなら袋叩きで済むかもしれないが柄の悪いところなら殺されかねない。

さらにいうと、困難な問題にぶち当たったときに、残念ながら自殺という方法で解決を図る人もいる。これは子供だろうが、青年だろうが、老人だろうが必ずいる。そのこと自体は悲しいことだけれども、世間なり社会なりがこれを防ぐことができると思っているとすればそれは甘すぎる。

子供の虐待は子供自身で解決できる手段がきわめて限られることから社会ないし制度で防ぐべきだけれど、それとは話が違う。さまざまな選択肢の中から自殺を選ぶことについて、社会や制度で止められる訳がないし止めるべきでもない。

そもそも教育再生会議なんてものが、税金を使って何かしてもらうのが当然と思う人たちが集まって、官僚の作文(それも議員のニーズを慮って作った)の「てにおは」を直して世の中のためになっていると自己満足するだけのものだから、マスコミもいい子ぶってそんなもの取り上げなくてもよさそうなものだ。

[Dec 13, 2006]


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