三十六番青龍寺 浦ノ内湾巡行船 三十七番~
三十三番雪蹊寺 [Oct 19, 2016]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
禅師峰寺の坂を下り、古い住宅街を歩く。禅師峰寺から高福寺(雪蹊寺)まで一里半、うち一里は海辺と真念「道指南」にある。そして、渡船場がある種崎まで、遍路地図には6.0kmと書いてあるのだが、こちらも五台山からの道と同様、それ以上に距離がある道なのであった。
午後5時に下り始めて、雪蹊寺まで一里半だから種崎までならそれより短いし、6.0kmなら1時間半あれば余裕で行けるだろうと思っていた。住宅街の道を抜けると幹線道路に突き当たる。遍路地図ではまっすぐの田舎道もあるのだが、もう日がすっかり暮れて暗いので、安全な幹線道路を進む。それでもところどころ足下が見えなかったから、田舎道はちょっと厳しかったものと思われる。
この幹線道路は国道ではなかったけれどキロポストがあって、歩くペースが把握できた。それによると、幹線道路に出てからずっと㌔13分そこそこのラップで歩いていたから、この日の午後五台山と禅師峰寺で山の登り下りをこなした割にはがんばっていたと思う。
しかし、着かないのである。時刻はもう午後6時近く、 もうすっかり日が暮れてしまった。進行方向左手には、空高く道路が持ち上がって街灯が光っている。高所恐怖症の人は歩かない方がいいとされる浦戸大橋である。右手には港に置いてあるクレーンらしい物体に照明が当てられている。ようやくそのあたりで分岐点にたどり着いた。
右に折れてしばらく歩くとファミリーマートがある。あとはもう楽勝だろうと思い、寄ってクーリッシュとミネラルウォーターを買う。ついでにレジの人に渡船場の位置を尋ねると、その先を左に折れてまっすぐだという。ただ、目印はありますかと聞くと、「右に行く場所に、そう書いてあるので分かると思いますが」と微妙なことを言う。
歩き始めて、ちょっと口ごもっていた意味が分かった。渡船場までには相当の距離があるし、街灯もなく真っ暗な道を行くのである。遍路地図によると1.7kmしかないはずなのだが、2km以上歩いているように感じた。そして、道案内など見えないくらい暗い上、住宅街でほとんど人が歩いておらず聞く人もいない。
午後6時半を過ぎて、まだ着かない。渡船の時刻は6時40分だから、半分あきらめた。ちょうどバス待ちをしているおばあさんがいたので、「船着き場はどこですか?」と尋ねると、「引き返して左だけど、その先を右に曲がって堤防沿いに行けばいいよ」と教えてもらった。どうやら、行き過ぎてしまったようである。言われたとおり進むと、3、4分で待合室の灯りが見えてきた。
帰ってからGPSのデータを見てみると、禅師峰寺から種崎渡船場までは6.9kmあった。㌔13分のペースで歩いて1時間35分だから、急がなければ遍路地図のいう1時間半では無理である。まったく、五台山といい禅師峰寺といい、参考にすると痛い目に遭ってしまうのが遍路地図なのであった。
ゆっくり待つ時間もなく船が着いて乗船。私の他に待っている人はいないように見えたのだが、乗客は4、5人いた。乗船料は無料というのがうれしい。きっと、橋ができるまでは多くの人に使われていたんだろう。
待っている時間と同じくらいで向こう岸の長浜渡船場に到着。船着き場の先は、やはり真っ暗な道である。すぐに歩き始めたのだが、10分ほど休んだだけで、体のいろいろなところが痛む。加えて、汗が乾いて服とすれて痛い。
真っ暗な中、携帯が鳴って奥さんからメールが来る。午後7時なので、もうホテルに着いたかというメールであった。まだ歩いていると返事を打つと、驚かれてしまった。15分ほど歩いて、ナンコウスーパーが見えてくると長浜バス停はもうすぐである。7時5分に到着。7時20分のバスは遅れて30分に着いたので、ホテルに帰ると午後8時を過ぎてしまった。
この日歩いた歩数は51,666歩、距離は30.6kmと、神峯寺以来の30km超えとなったのでありました。
禅師峰寺の坂を下りて西に向かう。古い住宅街だ。この時はまだ明るいのだが。
種崎渡船場に着いた時には真っ暗になっていた。禅師峰寺からここまで6kmでは足りないと思う。
県営渡船。なんと無料の行政サービス。ありがたいことです。
日が暮れて真っ暗な中を歩くことになり、ホテルに着いたのが午後8時を過ぎてしまったことについては、見通しが甘かったと大変反省した。その時には、前日に高知駅か少なくとも薊野駅まで歩くべきだったとか、当日の朝ゆっくり食べていないで7時45分の路線バスで出発すべきだったとか考えていたのだが、帰ってからよく考えると別の方法があったことに気がついた。
それは、種崎で切り上げてバスに乗ればよかったということである。禅師峰寺からバス便がほとんどないことから、種崎もそうだと思い込んでいたのだが、調べると1時間に1本、種崎からはりまや橋に直通バスがある。そもそも、渡船場への道を聞いたおばさんはバスを待っていたのだから、そのバスに乗ってはりまや橋に向かえば、1時間早くホテルに着くことができたのである。
幸いに、ケガもなく、事故なく歩くことができたからよかったようなものの、足下が見えなくて何かにつまづいたり、衝突したり、転落したりしたら、それ以降歩けなくなるところであった。遍路地図がいい加減だと腹を立てる前に、冷静に最善の方法を考えなければならなかったのである。
さて、結果的には高知一泊目で長浜まで来ることができたので、今回の遠征で予定していた少なくとも清滝寺というスケジュールは達成できそうである。出発する前は、清滝寺を打って高知に戻るか、あるいは青龍寺まで打って戻ることも想定していたのだが、ここまで来ると青龍寺から内ノ浦湾巡航船に乗って須崎まで歩くという想定した最長のコースを歩くことができそうだ。
高知市周辺はちょうど弧を描くように札所があり、その中心にはりまや橋があるので、ある程度自由にスケジュールを組むことができる。二十八番大日寺から三十七番青龍寺まで、便の多い少ないはあるにせよ、とさでんバスに乗れば直通ではりまや橋に通じている。だから、ホテルに荷物を置いて身軽で歩くことができる。
今回もそれでリッチモンドホテルに3泊して、かなり楽をすることができた。それと、今回は幸いに雨が強かったのが夜中だけだったけれど、風雨が強かったり体調が良くなければ、スケジュールを半日で切り上げたり1日ずらしたりする必要がある。そうした場合も、連泊というのは調整が利きやすいのだ。
この日のスケジュールは長浜スタートで清滝寺までと比較的余裕があるので、ホテルのハーフバイキングでゆっくり朝ごはんをとり、8時のバスで長浜に向かう。高知中心街は少し混んでいたため、8時40分に長浜到着。ちょうど開いた郵便局のCDコーナーでお金を下ろす。バス停の先十字路を右に折れるとすぐに雪蹊寺である。
高福山雪蹊寺(こうふくざん・せっけいじ)。真念「道指南」によると、もともとの名前は高福寺であり、江戸時代初期には両方とも使われていたようである。「雪蹊」とは、この寺の修復に大いに貢献した戦国大名・長宗我部元親の法号である。だから、江戸時代以前にはもっぱら高福寺と呼ばれたということである。現在では「高福」の名前は山号に使われている。
朝早いので参拝客はまばらである。最近、納経開始時間を午前7時から午前8時に繰り下げることが検討されていると聞くが、私自身もこれまで7時にお願いしたことはないから、宿坊泊まりのお遍路さん以外は8時でもあまり影響はないかもしれない。むしろ、終了時間を午後6時に繰り下げてくれるとありがたいのだが。
街中にあることもあって、境内はそれほど広くない。本堂の引き戸の上には、墨で大きく書いた「高福山雪蹊寺」の額がある。左から右に書かれているから、それほど古いものではないのだろう。山門前には、山頭火の「人生即遍路」の石柱もある。山頭火が注目されたのは戦後になってからなので、こちらも比較的新しい。
スケジュールに余裕ができてお金も下ろしたので、気が大きくなって境内で売っていた山北みかんを1箱買い、家に送る。山北といえば関東では富士山麓だが、高知では南国市の北、大日寺のあたりである。
極早生(ごくわせ)だそうで小ぶりなのだが、食べさせてもらうとすごく甘い。皮が薄くて一個いっぺんに食べられるくらい小さいのに、すごくジューシーだ。長年みかんを食べてきたけれど、こういうみかんは初めて食べた。遍路歩きの思わぬ収穫である。
[行 程]禅師峰寺 16:55 →(6.9km)18:35 種崎渡船場 18:40 → 18:45 長浜渡船場 18:45 →(1.3km)19:05 長浜バス停(→リッチモンドホテル・泊→長浜バス停) 8:45→(0.3km)8:50 雪蹊寺 9:15 →
[Jul 12, 2017]
高知リッチモンドホテルの朝食はカツオのヅケ丼。ハーフバイキングで、サラダその他はバフェ方式。
雪蹊寺山門。江戸時代はじめまでは高福寺と呼ばれており、現在は山号に残されている。「人生即遍路」と山頭火が言ったらしい。
雪蹊寺本堂。境内にはみかんの売店があり、山北みかんの極早生(ごくわせ)を買って家に送る。実は小さいのにとても甘くておいしかった。
三十四番種間寺 [Oct 19, 2016]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
雪蹊寺から歩いた1日が、この区切り打ちでは最もグッドコンディションだった。曇り空で10月らしく涼しく、前日までのように太陽がじりじりと照りつけることもない。スケジュールにも余裕ができたし、歩き方もだんだん分かってきたので、心身ともにリラックスして歩くことができた。
そして、実を言うと雪蹊寺から種間寺までの間は、以前歩いたことがあったのである。一番霊山寺から三番金泉寺まで歩いた少し後に、高知に出張があって、せっかくだから歩いてみようと思ったのである。一度歩いた道を歩くのがこんなに楽しいとは思わなかった。これまで通ってきた道も、いつかまた歩くことがあれば、初見とはかなり違った感想を持つことになるだろう。
種間寺へは雪蹊寺を出て西に向かう。しばらくは住宅街であるが、競馬場(何年か前に、ハルウララという全敗の馬がいた競馬場である。当たらないということで、ハルウララの単勝馬券は交通安全のお守りにされた)の道と分かれるあたりから細くなり、細い谷間の道になるあたりは車のすれ違いが困難である。以前歩いた時も工事をしていたが、1年以上経っているのにまだ工事中だった。
雪蹊寺から種間寺への道は、高知市内とはいっても中心街からは山を隔てているのでトンネルをくぐって来なければならず、まったくの田園地帯で市街地の趣きはみられない。交通もたいへん不便で、長浜から種間寺の先、仁淀川大橋までの間は、バスが通るのは1日に数本である。
谷間の細い道を抜けると、道が二つに分かれる。左の車道の方に「←種間寺」の標識があるが、へんろ道は右の細い道である。このあたり、一度歩いているので心強い。初見だと、標識と違う方向なのでかなり不安になりそうだ。
遠くに見える自動車販売店の看板に見覚えがある。こども園の脇を抜け、林の中の細い道を通って丘をひとつ越える。ここでデイケアのバスとすれ違い、立ち止まってバスを通す。バスの中は大勢のお年寄りで、珍しそうに私の方を見ていた。お遍路は見慣れているような気もするのだが、どうなのだろう。
農家の横を通って、小さな丘を登って下りる。ときどき廃屋のような建物があるのは、高知市内に近いこのあたりでも過疎が進んでいるということなのだろうか。坂を下りて進むと、刈り入れの終わった広々とした水田である。水田の境目、あぜ道のような舗装道路を進む。ときどき「種間寺→」の道案内がある。
コスモスの濃いピンク薄いピンク、他にも橙色の花が咲いているのは、刈り入れが終わってから種を蒔いたのだろうか。私が子供の頃、社会科の授業で高知は二毛作ができると習った。温暖な気候を生かして、春から夏に1回目と夏から秋に2回目、年2回米を収穫できたのである。その後すぐに減反政策が始まってしまったが、早くに刈り入れを終えてコスモスを植えるのだろう。
水田地帯を抜けると、しばらく集落の中を歩く。真念「道指南」にある東もろき村・西もろき村はこのあたりであろう。川を越え、やがて水路に沿った道となる。ここからおよそ2kmで種間寺になる。この日は涼しくて汗をほとんどかかず、たいへん気持ちのいい歩きである。途中、自販機のある休憩所で、地元のお年寄りが井戸端会議をしているのものどかであった。
気持ちのいい道を1時間半ほど歩いて、11時前に種間寺に到着した。
雪蹊寺から種間寺までは、以前歩いたことがある。現在の県道はたいへん狭いので、山の中腹に新たな道路を建設中である。
ここで車道とへんろ道が分かれる。右に進んで、こども園の横を通り、丘をひとつ越える。
高知市内でも、ここあたりは旧春野町。山に囲まれた田園地帯である。
本尾山種間寺(もとおざん・たねまじ)。本尾山は寺の建つ地名からとられたもの。行基が土佐を巡礼中、暴風雨に襲われてこの地に避難したことが由来とされる。種間寺の寺号は、空海が唐から持ち帰った五穀の種子を蒔いたことから名づけられたという。
「霊場記」等にもともと堂宇は本尾山の上にあったと書かれているが、その後数百年の間に荒廃し、土佐藩山内家の時代になって再興されたのが現在の地といわれる。澄禅「四国辺路日記」にも、「再興ありて新しき堂なり 山下に寺あり」と書かれている。
種間寺が見えたあたりから、かつてお寺があった山の上はどの山だろうと見てみるが、本堂のすぐ後ろも山だし、少し前方にある山もある。どの山がそうなのか、一見しただけではよく分からない。いずれにしても、山の高さは禅師峰寺と似たようなものであり、かつて山の上にあったというのはありそうなことである。
庫裏の横を本堂・大師堂に向かう。こちらの本堂は広く、中に入ってお参りすることができる。ご本尊は薬師如来である。
本堂には撫でることのできる大黒天像があって、参拝者の人達がみなさん撫でていた。おそらく、体の悪いところを撫でるとよくなるということであろう。関東ではこうした仏様は「おびんづる様」だが、関西では「えべっさん(恵比須)」ともいうらしいから、恵比須大黒ということで大黒様になったのかもしれない。
続いて本堂の隣にある大師堂で納経。その後は山門すぐ奥にある庫裏でご朱印をいただく。こちらのお寺では善根宿もされているそうであるが、どの建物がそれなのかよく分からなかった。それより気になったのは参道中央に立つ回向柱で、こんな場所に立っているのは初めて見た。ぼんやり歩いていたらぶつかってしまいそうだ。
種間寺の納経を終えると11時過ぎ、本来なら昼ごはんの時刻なのだが、何日か前からお昼時に食べるうどんに味がなかったりするのが気になっていた。でも、アイスクリームを食べると冷たくて気持ちいいし甘くておいしいのである。
だから、前の日も五台山でゆずソフトクリームを食べてお昼の代わりにしてしまったし、それでスタミナ切れを起こすこともなかった。だから、特にお腹が空かなければこの日もアイスを食べて済ませてしまおうと思っていた。
実際、この時にはエネルギーが足りないという感じはしなかったので、門前にある売店に入ってアイスクリームの冷蔵ケースをのぞいてみると、大好きな白熊アイスのアイスバーがあった。これなら、ドライフルーツが入っているので栄養補給にもなる。
その時、売店のおばさんは、「今日は蒸しますねえ」と言っていた。私自身は前日までと違って暑くないし過ごしやすいと思っていたのでそう言うと、いつもの年ならこの時期にこんなに蒸さないということであった。確かに、前日までが暑すぎたのでそう感じるだけで、10月半ばであればもっと涼しいのが普通なんだろうと思った。
[ 行 程 ] 雪蹊寺 9:15 →(6.6km)10:50 種間寺 11:15 →
[Jul 19, 2017]
種間寺が見えてきた。かつて山の上にあったと言われるが、どの山だろうか。
種間寺山門。この手前に、広い駐車場とトイレ、売店がある。
種間寺本堂と参道中央に立つ回向柱。四百年前の住職の遠忌のためと書いてあるようです。
三十五番清滝寺 [Oct 19, 2016]
種間寺から仁淀川大橋までの間も、かつて歩いたことのある道である。記憶では15分ほど歩くと細い道の両側に農協か何かの建物があって、昔は村の中心だったのかと思ったように覚えている。しかし今回は、種間寺を出てすぐ、工事標識で通せんぼされていて、前にガードマンの人がいる。
「歩きでも、通れないんですか?」と尋ねると、「舗装工事中なので通れない。あそこに見える細い道を西に向かって下さい」と北の方角を指して言われた。50mくらい先に、工事中の道路と並行して農道が通っているのが分かる。あそこを行けばいいらしい。
そして曲がり角まで行ってみると、軽トラなら通れそうだが普通車ではすれ違いがちょっと難しいくらいの狭い農道だった。脇に用水路が流れていて道路との境が何もないので、車だったら落ちないかちょっと不安で、地元の人以外は通ることはないだろう。
用水路に沿ってこの迂回路を進む。周囲はまさに田園地帯で、水田があり畑がありビニールハウスがある。時折周囲を防風林で囲われた農家があり、大きな倉庫のような建物もある。誘導されなければ、お遍路が歩く道ではなくもっぱら地元の人が農作業に使う道のように思えた。
この道路工事は結構長い区間で通行止めにしているようで、向こうの方の農道に普通車が走っているのが見える。いま通っている道は通行止めの道路と平行に走っているはずだが、ちょっと先でスライスしているようだ。左手に見えている山から離れると不安なので、次の角で左に折れる。
すると、ちょうど先ほどの工事中の道路のあたりに、先ほどとは逆向きに通行止めがされていてガードマンがいたので、たまたま通行止め解除のあたりで左折したようである。ここで正規の道に復帰する。そこからすぐに太い通りを横断し、案内にしたがって古い住宅街に入る。
蔵のような建物や由緒ありそうな神社の脇を抜ける。そういえば、前にここも通ったなと思い出す。このあたり、真念「道指南」のいうひろおか村なのではないかと思う。倉庫のような建物のところに、「お遍路さん休んで行ってください」とベンチが置いてある。トイレはないものの、自動販売機も置いてある。種間寺からちょうど1時間歩いたので、ありがたく休ませていただく。
10分ほど休んで出発。すぐそばが堤防で、その先には仁淀川大橋が架かっている。江戸時代は船で向こう岸に渡ったという。前回はここから高知市内に引き返したので、仁淀川大橋からは初見の道となる。ここは国道56号。55号は徳島から高知だったが、高知から松山までは56号となる。
大きな橋である。しばらくは河川敷の上を通っているが、やがて川幅のある仁淀川の上を渡る。雄大な景色である。三方を山に囲まれた上流のような景色であるが、流れはゆるやかである。すぐ先が海なので、もう河口が近いのだ。橋を渡りきるまで10分近くかかった。
種間寺から西の県道は道路工事中のため、並行する農道に誘導される。すぐ脇を農業用の水路が流れる。
仁淀川沿い弘岡のあたりは、かつて栄えた名残りが残っている。民家の庭先にベンチがあり、「お遍路さんお休みください」と書いてあるところもある。
仁淀川を渡って土佐市内に入る。前回はここまでで、これから先は未知のルートとなる。
仁淀川大橋を渡ると、土佐市内である。遍路地図を見ていた時には地方都市のような風情を予想していたのだが、片側2車線の道路の両側に大きなロードサイド店が続く風景は、首都圏の郊外と変わらない。
ショッピングセンターの中に、ドラッグストアの看板が見えたのでそちらに向かう。というのは、痛み止めや睡眠導入剤を忘れたので代わりに風邪薬を飲んでいたところ、予備がなくなってしまったからである。それと、あせもの範囲が広くて、用意したワセリンもなくなってしまった。併せて、あせもによさそうなベビーパウダーを買うためである。
郊外店にありがちなことだが、すぐ近くに見える建物が意外に遠くて、ドラッグストアまで15分かかってしまった。薬のついでにアイスも買って、再び、国道56号に戻る。山の方向をみると中腹まで道が続いていて、その上に大きな建物が見える。あれが清滝寺だろうか。種間寺から清滝寺まで9.6km、すでに仁淀川大橋まで4.5km歩いているからあと5km、それにしては遠く感じる。
ドラッグストアを出たのが1時10分過ぎ。遍路地図によると街中にへんろ道があるようなのだが、道案内もないので無難に国道56号を進む。コンビニやファミレス、マクドナルドの看板も見えるので、お昼を食べたり休んだりするところには不自由しない。この日は、種間寺とさっきのドラッグストアでアイスを食べてお腹は落ち着いているので、このまま進む。
遍路地図には、国道56号線沿いに天神へんろ小屋があると書かれているのだが、清滝寺へのハイキングコースを示す標識にしたがって進むと、この小屋にはぶつからない。代わりにあるのは、国道から折れてすぐの駐車場にある「笹岡ハイヤー休憩所」である。
こちらの休憩所は、タクシー会社の事務所に併設されている施設であり、水、ベンチ、トイレと、歩き遍路の求めるすべてが整っている(自販機もある)。また、清滝寺の行き帰りに荷物も預かってくれるそうだ。私はこの日デイパックだったが、私がひと息ついている時に清滝寺から帰ってきたお遍路さんが、預けていた荷物を背に次の札所に向かって行った。
笹岡ハイヤーまで来ると、いよいよ清滝寺が目の前になる。とはいってもそこまで2kmの登り坂なのだが、目的地が見えるだけにがんばって歩くしかない。ここからは道案内が頻繁にあるので、それにしたがって高速道路の下から水田の脇、農家の間の道を過ぎて行く。
清滝寺の登り口から、とたんに道が狭くなる。ここを車で上がって行くのだろうかと思うくらいであるが、登る車も下りる車もここを通る。幅が狭すぎるので、車が来るといちいちよけなければならない。しばらく登りがあって、やがて左手に登山道が分かれる。車道を歩くと迷惑だろうと思い、ここからは登山道を歩くことにする。
この登山道、驚いたのは道の端に結構な量の水が流れていることである。特に水路が掘ってある訳ではないのだが、どこから流れてくるのか、簡易舗装の上を小川のように水が勢いよく流れている。さすがに清滝という名前がつくだけのことはある。
笹岡ハイヤーから30分ちょっと、登山口からは10分ほどで清滝寺に到着。山門は登山道の方にあって、車で来るとちょっと歩かないと見ることができない。
土佐市内には遍路小屋がいくつかあるということだが、国道56号線に沿って行くと、笹岡ハイヤーくらいしか見つからない。もっとも、コンビニやファミレスがたくさんある。
国道沿いを歩いている頃から、山の中腹に建物があることは気づいていた。近づくにつれて、あれが清滝寺と分かってその高さにちょっとびびる。
車道の幅が狭いので、仕方なく登山道を進む。その脇を水が流れていくのは、なるほど清滝の名前にふさわしい。
医王山清滝寺(いおうざん・きよたきじ)。山号の医王とは薬師如来のことで、ご本尊からとられている(二十三番薬王寺も医王山であった)。では、「清滝」の寺名はどこからきたのかというと、寺伝では、空海が錫杖で地面を突くと清らかな水が噴き出したことが由来という。
実際に、いまでも登山道の脇を水が流れており、どうやら山中のいろいろなところから湧水があるようだ。ご詠歌にも「すむ水を汲めば心のきよたきじ」と詠われており、本堂の奥にも小さいながら滝があるくらいだから、昔から豊富な湧水があったものと思われる。
空海が杖でついたから水が出た訳ではないだろうが、それはそれとして、個人的には一つ別の考えを持っている。それは、次の三十六番青龍寺との関係である。「青龍寺」にさんずいを付けると、まさに清滝寺になるのだ。
よく知られているように青龍寺は唐の長安で、空海が実際に修行した寺である。それが深く印象に残っていた空海が、「青龍寺の日本版」として、まさに湧水の豊富なこの地に造ったのが清滝寺ではなかっただろうか。ご本尊が薬師如来というのも、空海の時代にふさわしい(青龍寺のご本尊は不動明王)。
その後、中国本土で仏教が力を失う一方でわが国は仏教全盛となったことから、まさに同じ名前の青龍寺が後から造られたのではないか。つまり、設立の順序は、清滝寺→青龍寺ではなかったかと考えている。
清滝寺と青龍寺の造られた年代の手がかりとなるのは、高岳(たかおか)親王との関係である。清滝寺の麓の街を高岡町というが、これは平城天皇の皇子である高岳親王にちなんで名づけられたもので、霊場記にもそのことが書かれている。この高岳親王の供養塔や関連する説話が、清滝寺には残されている。親王は空海と同時代である。
高岳親王は皇太子であったのだが薬子の変に連座して廃され、平城天皇の系統そのものが皇位から遠ざけられた。臣籍降下した在原業平は甥にあたる。その後仏門に入り、真如法親王と称した。真如法親王は空海の弟子となり、のちに空海の十大弟子の一人とされるようになった。高野山の宿坊のひとつに親王院があるが、ここを開いたのが真如法親王である。
真如法親王は60歳を越えてから唐に渡るが、時あたかも会昌の廃仏の時代で唐では仏教は認められておらず(当時、入唐求法巡礼行記の円仁は危ういところを帰国した)、さらにインドに向かおうとして消息不明となった。これは伝説ではなく、史書で確認される史実である。
つまり、清滝寺が高岳親王ゆかりの寺ならば空海と同時代だし、青龍寺が空海の修業した寺にちなんで名づけられたとすれば空海より後の時代ということになる。そうなると、清滝寺は青龍寺よりも起源が古いと考えられるのである。
いずれにしても、清滝寺は空海の時代から開かれたたいへん由緒ある寺なのであるが、山の中腹にあるという立地上の制約があり、境内はそれほど広くない。本堂・大師堂のすぐ下が駐車場であり、庫裏(納経所)には駐車場を通って行かなければならない。私の時はたまたま大きなトラックが止まっていて、納経所への道がなかなか分からなかった。
納経を終えたのが午後2時半過ぎ。これから13km先の青龍寺まで行くのは時間的に間に合わない。青龍寺に向かう宇佐への道は、仁淀川大橋を渡ってすぐ左に曲がる。だからそこまでは打戻りということになる。
時間に余裕があるので、下りの田舎道をのんびりと歩く。途中でファミマに寄って、おやつ兼栄養補給にクーリッシュを買う。昼を食べていないので多めに食べてもよかろうと思い、バニラ味とみかん味の2つ買った。一つ食べ終わっても、もう一つは凍ったままだった。
午後4時前に仁淀川大橋まで戻り、中島バス停で待っていたところ、5分も待たずにバスが来た。たいへんスケジュールに余裕のある1日だった。この日の歩数は39,860歩、距離は22.3kmと、フルに歩いた2日目以降では最も少ない距離であった。
[行 程]種間寺 11:15 →(3.1km)11:55 新川休憩所 12:05 →(3.0km)12:55 ドラッグストア 13:10 →(2.2km)13:35 笹岡ハイヤー休憩所 13:45 →(2.2km)14:15 清滝寺 14:40 →(4.9km)15:55 中島バス停 (→ 高知リッチモンドホテル・泊)
[Aug 2, 2017]
清滝寺仁王門。登山道から来ないと、ここは通らない。
清滝寺本堂。時計は止まっているのか、全然違う時間です。
寺名の由来となった清滝。水不足の時でも枯れることはないとか。この滝の他にも、山中のいろいろな場所から水が出ています。
三十六番青龍寺 [Oct 20, 2016]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
2016年10月20日、今回の区切り打ち最終日である。飛行機は翌21日の昼便を取ってある。
出発前にはどこまで進めるか分からず、あまり細かい計画を立てると楽しくないということもあって、歩き始めてから天候や体調をみて決めようと思っていた。結果的に天気に恵まれ、体調もよかったので、最終日には想定した最も先の札所である三十七番青龍寺に直接向かうことができた。
前々日は大苦戦して、真っ暗になった中を歩きホテルに帰ったのが午後8時過ぎであった。そして前日は清滝寺にお参りした後、午後5時前に帰りのバスに乗ってはりまや橋に向かうことができた。えらい違いである。この日はまだ開いていた大丸の地下に行き、お弁当とお惣菜を買った。そのあとファミマでエビスビールと入浴剤を買って、ゆっくりお風呂に入った。
結局、この遠征では最初から最後までそうだったのだが、夕方宿に着いて、お風呂に入って洗濯を済ませ、夕飯を食べるとあと残っている体力はなかった。高知市内では、せっかく市の中心に泊るのだから1日くらい外食しようと思っていたのだけれど、そんな余裕は残っていなかった。1日約30kmを毎日歩くというのは、気力も体力も消耗するものである。
そして、高知2日目の夜のもう一つの仕事として、荷物を自宅に送り返すという作業があった。今回のお遍路にあたっての荷物は、もちろん着替えが大半なのだが、45㍑のリュックに詰めて持ってきた。とはいえ、それで全部という訳ではなくて、バッグに入れた予備の荷物を自宅から土佐ロイヤルホテル、土佐ロイヤルから高知リッチモンドホテルと送っていたのである。
あと残す日程は2日なので、最後の2日間に使う着替えと荷物だけを残して、あとの荷物は自宅に送り返した。長袖のトレーナーとかジャージの下は、寒くなるといけないと思って持ってきたが結局毎日暑かったので、ほとんど使わないまま送り返すことになってしまった。このあたり、次回以降の教訓である。
朝食ハーフバイキングは、前の日はかつおヅケ丼だったが、この日はトースト。目玉焼きは両面きっちり焼いてもらう。
この日の朝、ちょっと気がかりなことがあった。というのは、前日に長浜郵便局でお金を下ろしたのだけれど、早くも残り少なくなってしまったのである。最大の要因は雪蹊寺で産地直売の山北みかん5,000円を買ったためなのだが、夕飯代や宅配便代、仁淀川大橋からの帰りのバス代などがかかって、あっという間に残り1万円を切って千円札が数枚になってしまった。
これからかかる費用を計算してみると、仁淀川大橋へのバス代、巡航船の運賃、須崎からのJR、空港へのバス代、羽田からの電車代など交通費だけで数千円かかる。その他に食事や飲み物などこまごまとした費用を含めると、手持ちだけでは何かあった時(神峯寺のようにタクシーを使わざるを得ない場合など)に厳しいことになりそうだった。
清滝寺から山を下りて、仁淀川大橋近くの中島バス停まで戻る。ここで宇佐行きと高岡行きのバスが分かれるので、翌日どちらのバスでも来られるからだ。
この日の夕飯は大丸のデパ地下弁当。せっかく高知市街まで来たのに、余力がなくて毎日デパ地下やコンビニご飯でした。
前日に寄ったドラッグストアの前で国道56号線と分かれて宇佐方面へ。宇佐といえば大分にもあるが、こちら高知にもある。後方の山の中腹に清滝寺がある。
バスを下りたのは8時45分、通勤時間帯であったため渋滞がひどくて、市内を抜けるのに時間がかかった。市街地のホテルは風呂も食事も一人でプライバシーが保たれるし、設備が整っているので何をするにも安心なのだが、移動に時間がかかるのがネックである。
今回の場合、往復で1時間半から2時間くらいロスしたようである。スケジュール的に須崎より先に行くのは厳しかったので結果的には同じだったけれど、高知市内に戻らなければもう少し楽に、時間に余裕をもって歩けたのではないかと思った。例えば、朝食バイキングをとらずに早立ちするとか、工夫が必要なのではないだろうか。これも、次回以降の検討材料となるだろう。
仁淀川大橋を渡って、中島バス停で下りる。このバス停、高岡方面行と宇佐方面行ではバス停が違うようなので注意する必要がある。前日の高岡方面行きは国道沿いにあるのに、宇佐方面行きは側道に入ったところにバス停があるのだ。
下りてから国道56号に戻り、前日に寄ったドラッグストアの前の角を左折する。ここから宇佐までは約6kmの一本道、真念「道指南」でいうところの「つかち村 宇佐坂 うさ村」である。
はじめは道の左右の山はかなり後方にあり、川沿いの土地はかなり広くビニールハウスなども見えたのだけれど、それが少しずつ狭くなる。山が迫ってくるからである。露地の畑に植わっているのは生姜だろうか。かなり大規模に作られている。看板があって「宇佐ショッピングセンター 次の信号右」と書いてある。宇佐だから、トンネルをくぐって5km近く先のはずである。そこまで信号がないのかなと思った。
歩き始めて4、50分、県道脇に塚地休憩所が見えてきた。ここまで、山は迫って来たもののそれほどきつい登りはない。道路の右側が休憩所になっていて、かなり広い。トイレも東屋も自販機もある。
水が流れて水車が回っていて、その傍らに苔むしたアンパンマンの人形がある。やなせたかし氏の出身地は高知なので、高知駅の発車の際には「アンパンマンのテーマ」が流れる。アンパンマンやトトロは私が子育てした頃の作品だが、次世代に残りそうなのは何よりである。
そのアンパンマンの水車を流している水に、「大師の泉」と石柱が立っている。おそらくこれから行く塚地峠から流れているのだが、残念ながら保健所の指導により飲用不適であると注意書きがある。それほど標高の高いところを流れている水ではないので、仕方のないことかもしれない。
高岡と宇佐は現在どちらも土佐市だが、かつては別の村であった。そして、2つの村を隔てていたのは真念「道指南」でうさ坂と呼ばれた塚地峠で、久しぶりの本格的な山道である。休憩所の奥から登山道が始まっていて、「四国のみち」の標識も立てられている。
歩き始めると、たいへんよく整備されている道である。トンネルができる前までは、生活道路として人や物資が運ばれていたと説明板に書かれている。このあたり、海も近いが山も近く、海沿いを歩いていると思ったらすぐに山道になる。この日の午後の浦ノ内湾もそんな感じだった。
塚地休憩所を9時40分頃に出発して、塚地峠に10時ちょうどくらいに着いた。それほどきつい傾斜でもなく擬木で階段状になっていたので、特に休むほどのことはなかった。標高差は150mほどあるのでそれほど楽ではないはずなのだが、まだ朝の内だし前の日それほど疲れなかったので、元気だったのだろう。
塚地峠には、休憩所から登ってきた方向、宇佐に向かう方向とさらにまっすぐ遊歩道が続く3方向に大きな行先表示がある。そしてその他に、手作りの小さな表示があって「歩いて1分、展望台」と書いてある。見た感じ1分では着きそうになく実際3分ほどかかったのだが、竹を切って作ったベンチの置いてある展望地に出た。
この展望地からは、眼下に大きく宇佐湾が広がり、遠くにこれから渡る宇佐大橋が見える。もっとも、普通に峠から下る途中にも同じ角度から宇佐湾が見える場所があるので、そちらで見てもいいかもしれない。
宇佐は彼方の山を越えた向こうにある。次の信号がショッピングセンターという看板があったが、トンネルの先まで5km以上信号はない。
塚地峠休憩所。ここで国道と遍路道が分かれる。トイレ・自販機あり。ただし湧水は保健所の指導により飲めない。
休憩所の裏手から峠道に入る。ここはトンネルができるまで、高岡と宇佐を結ぶ生活道路だったそうだ。よく整備されている。
10分ほどで下りに移る。この日はひとつだけ時間的な制約があって、浦ノ内湾の巡航船が13時47分発なのである。これに乗れないと宇佐から高知に引き返すことになり、次回の区切り打ちは宇佐からスタートということになる。宇佐も須崎も高知からかかる時間は変わらないから、ちょっともったいない。
巡航船に乗るためには、逆算すると12時半くらいには青龍寺を出なくてはならない。あと2時間あるので余裕があるように思えるけれども、さきほど塚地峠から見た宇佐大橋が結構遠かったのでちょっとあせった。
そして、この下りはなかなか難路なのであった。スイッチバックでくねくね曲がって下る道なのでスピードが出ない。その上「まむし注意」の看板が頻繁に出てきて気になる。すぐ横が沢なので、いかにもまむしが現われそうな雰囲気である。早く舗装道路になってくれと祈りながら歩く。こんなことなら、最初からトンネルを通ればよかったのだ。
ようやく舗装道路が現われて、道も平らになる。さて、このあたりから宇佐の市街地で家もたくさんあるのだが、青龍寺にはどう行ったらいいのか道案内がない。まあ、方向としては海に出ればいいので間違いようがないのだけれど、あまり遠回りすると時間が押してしまう。なるべく太い通りを通って、ファミリーマートの前あたりで海岸に出た。
この時点で11時、あと1時間半。それほど時間に余裕はなくなってしまった。ファミマでこのお遍路の定番となったクーリッシュを買って、お昼代わりに食べながら宇佐大橋へ向かう。この橋ができたのは昭和48年ということだから、1973年。私が高校生の時である。それまでは渡し船が交通手段だったそうで、江戸時代から昭和までのお遍路はそうやって回っていた訳である。
その後、有料道路として供用されて、償還が終わったので一般道路となった。もともと有料道路はすべて償還が終わったら無料とする建前で作られているので、首都高や東名道がいつまでも有料というのは本来はおかしい。それで外環や第二東名を作って、まだ償還が終わらないということにしているという説もある。
さて、この宇佐大橋。渡ってみると、かなり海面から高いところを通っている。青龍寺へはここを通るしかないのだが、歩道は車道より一段高くなっている。欄干が腰の下あたりまでしかないので、揺れてふらついたら下に落ちそうで結構怖い。その歩道を、地元の人は自転車に乗って平気で走っている。よく怖くないものだと感心する。私だったら、絶対に車道を走るだろう。
橋を渡りきった右手に駐車場とトイレがあり井の尻休憩所と書いてある。真念「道指南」に書かれた「いのしり村」である。江戸時代はここから横浪まで船が出たそうだが、いまは対岸の埋立から巡航船が出る。
「道指南」には、井の尻で荷物を預けて青龍寺に行くようにと書いてあるが、それはここから山道を行ったからで、距離的にはそちらが近道のようだ。いまは海岸沿いを通る道路があるので、そちらを通る人が多く、この日も海岸沿いの道で歩き遍路の人4、5人とすれ違った。その中には、前日清滝寺で見かけた外人さんもいた。
井の尻から15分ほど歩くと、岬の突端のようなところに、トイレや水道、自販機のある大きな駐車場があった。夏場には海水浴客が来るのかもしれない。塚地休憩所以来、久々にトイレのある休憩所である。
この休憩所のある岬を過ぎると、すぐに三陽荘が見えてくる。歩き遍路にも使われることの多い、大きな旅館である。三陽荘の先で、右折してへんろ道の案内があり、そこから4、500mは集落の中を歩く。蟹ヶ池の説明看板を過ぎ、造りかけてやめた公園の遊歩道のような原っぱを通り過ぎると青龍寺。正午前の到着、結構ぎりぎりになってしまった。
塚地峠の峠道は整備されていてたいへん歩きやすい。ただし、まむし注意。
塚地峠から3分ほど登ると、地元有志の方の手作り休憩所がある。宇佐湾が望めるすばらしい景色である。小さく見える宇佐大橋、渡るとかなり海面から高い。
峠道を越えてから国道まで結構歩く。道案内はあまりないが、海に向かって行けばいいので、迷うことはない。
独鈷山青龍寺(どっこさん・しょうりゅうじ)。清滝寺のところで書いたように、青龍寺は唐の長安で、空海が実際に修行した寺である。
山号の独鈷山は青龍寺のある山の名前で、真言宗の仏具である独鈷杵(どっこしょ)からきている。空海が日本における聖地を占うべく自らの独鈷杵を空に投げたところ、青龍寺の建つこの地に舞い降りたという伝説がある。
そして、これは空海とは関係ないが、青龍寺のすぐそばに明徳義塾の国際キャンパスがある。歩いている時は地元の中学校かなと思っていたら、明徳高校だったようだ。ドルゴルスレン・ダグワドルジが朝青龍明徳と名乗ったのは、青龍寺と明徳義塾に由来している(朝青龍は明徳を中退しているが)。
歩いていた時は、左手の山の上にあるのが明徳義塾かと思っていたのだが、後から調べるとそれは国民宿舎土佐で、明徳義塾は三陽荘と青龍寺の間にある。遍路地図だと縮尺や高低差が分かりづらいので、よく地図と現地を見比べないと分からないことがある。加えて、地図が間違っていることもあるのでいまひとつ信用できない。
ご本尊は不動明王。寺では波切不動明王とお呼びしている。札所のご本尊はほとんどが如来と菩薩で、天部(四天王や帝釈天、吉祥天、弁財天など)や明王がご本尊となっているお寺は少ない。天部や明王は古い時代には如来・菩薩の脇侍として作られたので、単独でお祀りされるのはかなり時代が下ってからという印象がある。
清滝寺のところで書いたように、もともと唐の青龍寺の日本版として作られたのは清滝寺であって、青龍寺は中国本土で仏教が禁じられた会昌の廃仏後に造られたというのが私の仮説である。だから、ご本尊を比較しても、清滝寺の薬師如来の方が、青龍寺の不動明王よりも古い時代のものと考えられる。そして、青龍寺には空海の師匠である恵果阿闍梨の墓がある。
恵果は真言宗の寺のほとんどで絵姿や仏像が遺されている真言八祖の七番目の僧で、最後の八番目が弘法大師だから、中国本土における最後の継承者、空海の直接のお師匠さんということになる。とはいえ、恵果が唐の青龍寺で育てた弟子は数千人と言われ、空海はその中の一人にすぎない。
数多い弟子の一人ではあるが、遠く日本から来た修行僧ということで目をかけられたことは十分ありえることだし、会昌の廃仏により中国本土における法脈(師匠・弟子の系統)が途絶えたとすれば、結果的に空海が高弟になってしまったということになるだろう。墓は遺骨がなくても作れるから、日本に来たことのない恵果の墓が日本にあってもおかしくない。
青龍寺の山門までは、それほど登らなくても着く。独鈷山って山があるんじゃなかったのかなと思っていると、山門から先はかなり急な石段が本堂まで続いている。看板に偽りなしである。本堂で今回の区切り打ち最後となる読経。不動明王はご真言が長いので大変である。
さて、ご朱印をいただく時になって、お寺の人から「ご朱印帳が濡れていますよ。色が変わるといけないから、乾かした方がいいですよ」と言われた。見てみると、隅の方がぐっしょり濡れていて、墨がにじまなかったのが不思議なくらいである。
白衣のご朱印用に置いてあるドライヤーを当てて乾かしながら考えた。この遠征中、遍路バックに入れてあった遍路地図が水気を吸って破れてしまったので不思議だと思っていた。もしかすると、あまりに大量に発汗するものだから、遍路バックの中が結露しているのではないだろうか。
今回の区切り打ちではもうご朱印帳は使わないので、きちんと袋に入れて背中のデイパックに入れる。次回以降、歩きが長い場合、ご朱印帳の保管場所には注意しなくてはならないと思った(先の話になるが、この後のお遍路で大雨に遭遇し、リュックの中までびしょ濡れになってしまったもののご朱印帳には被害はなかった。経験はしてみるものである)。
[行 程](→ 高知リッチモンドホテル→)中島バス停 8:45 →(4.0km)9:35 塚地休憩所 9:40 →(0.8km)10:00 塚地峠 10:10 →(3.3km)11:00 宇佐町ファミマ 11:05 →(3.5km)11:50 青龍寺 12:15 →
[Aug 24, 2017]
宇佐大橋を越え、湾に沿って歩くこと1時間。三陽荘の先を曲がり集落の中を進むと、やがて谷の奥に青龍寺が見えてきた。丘の上にあるのは国民宿舎土佐。
「独鈷山」の額が立つ山門。本堂まで、ここから山に向かってきつい傾斜の石段を登る。
青龍寺本堂。ご本尊は波切不動明王。ご真言は不動明王のものと変わらないが、非常に長くて唱えるのが大変である。
浦ノ内湾巡行船 [Oct 20, 2016]
青龍寺を出発したのが12時20分。巡航船が1時47分で1時間半近くあるから大丈夫そうだが、3km以上離れていて場所がはっきりしないので、そんなにゆっくりしてはいられない。宇佐大橋までは来た道を引き返す。結構飛ばして、1時前に到着。ほっとして巡航船乗り場を探す。
巡行船の案内WEBをみると、宇佐大橋から巡航船乗り場までは海岸沿いの道を進む。高校の脇を通り、橋を一つ渡る。資材置き場に使っていたようなコンクリの小屋があり、お遍路さんの絵が描いてあるので休憩所なのだろう。中をのぞくとベンチが置いてあった。左にとさでんバスの車庫を見て、 曲がり角にさしかかるとそこが武市水産。この裏が巡航船乗り場のはずである。
さて、この武市水産。建物の前が広くなっていてそこで作業をしていたところからすると、土地は武市水産のものなのだろう。作業の邪魔をしないように通り過ぎると、コンクリの岸壁に巡航船が接岸されていて、その前が待合所になっている。待合所はあるのだが、トイレとか水道、自販機はない。船の中にもトイレはないようだったが、差し迫った人はどうするのだろう。
時間ちょうどに、船長さんがやってきて乗船。行先を聞かれて運賃を払う。操舵するのも客の相手も全部ひとりでやるワンマン船なので(待合所にも誰もいない)、大変忙しそうである。横浪まで、松ヶ崎、下中山、深浦、塩間、長崎、今川内、福良、須ノ浦と8つの乗船場があるのだが、沖合から見て誰も待っていないと岸に付けないでそのまま次に向かう。地元の人で慣れていないと、途中から乗るのはなかなか大変である。
このあたり、真念「道指南」に「いのしりへ戻り よこなみといふ処迄三里 舟にてもよし」と書かれている由緒正しい海路である。浦ノ内湾の別名が横浪三里というのだが、江戸時代から広くそう言われていたのだろう。ちょうど1時間の船旅である。
この日は塚地峠の峠越えをして、青龍寺まで早足で往復したので、船が動き出すと眠くなってしまった。せっかくの江戸時代からの景色を楽しもうと思っているのに、ちょうどいい揺れ具合で強烈に眠気が襲ってくるのである。少しうとうとすると、窓から奇妙なものが見えた。海の上に、家が建っているように見える。
何だろうと思って窓のところまで行ってみると、確かに海の上に家が建っていて、その横に7、8人乗りくらいの船が着けている。船があるということは海の上なのであり、ある程度の水深があるはずである。よく見ると木を組んだ筏(いかだ)の上に家が建っていて、船もそこに着けているのであった。
「ここは50年前の香港か」と思ったが、帰ってから調べてみると、これは筏釣りの基地で、釣り客をここに船で運んできて、筏の上から釣りをしようというものなのであった。だからこの家も、釣り客が食事したり雨宿りしたりするのに使うのだろう。見たことがなかったので、たいへん不思議に思ったものである。
珍しく思うのは私だけではないようで、ここは「釣りバカ日誌」でロケ地に使われたそうだ。「釣りバカ日誌」はあまり好きな作品ではないので、ビッグコミックオリジナルに載っていた時も読まなかったし、映画ももちろん見ていない。そういえば、「釣りキチ三平」も当時の少年マガジンは毎週読んでいたのに、抜かして読まなかった。
2時50分、横浪乗船場に到着。埋立同様、コンクリの簡単な岸壁であり、そこがそのまま堤防になっている。乗船場の内側はJAの建物で、どこにも乗船場の目印は見当たらない。船を待つ人はどこで待っていればいいんだろうとちょっと不思議に思った。
武市水産の庭先を通って、埋立の巡航船待合室へ。コンクリの簡単な乗船場だ。
浦ノ内湾には筏の上に建っている家が見えて、「ここは50年前の香港か」と思った。その名も筏釣りといって、ここで釣りをするらしい。
船の上から岸壁を見て、乗船客がいなければ船着場には付けずに先に進む。この便の乗客は私ひとりで、横浪までどこにも寄りませんでした。
横浪乗船場の周辺には事務所や商店があり、通りの奥に郵便局のマークが見えた。これからまだ交通費がかかるのでおカネを下ろそうとそちらに向かう。すると、ATMが1台しかない上に、前のお客さんが操作が分からず局員を呼んでなかなか終わらない。7、8分はかかったので、もしかするとこれが最後に響いたのかもしれない。
しばらくは浦ノ内湾に沿って歩く。海岸沿いにきれいなトイレがあったので使わせてもらう。その先には「お接待みかんの木」というのがあって、お遍路さんは食べていいのだそうだ(残念ながら残っていなかった)。浦ノ内湾が見えなくなってさらに進むと、湾の南側から来る道路と合流する。船を使わなければ、ここで今回の道と合流することになる。
このあたり、人家も少ないし休憩所もない。そして、道は徐々に登り坂となる。須崎との境である鳥坂トンネルへの登りである。トンネルの入口が工事中で狭くなっていたが、特に迂回の指示等なかったので先に進む。
今回の区切り打ちでは、最初に八坂八浜のトンネルがあり、最後にこの鳥坂トンネルまで、トンネルの多い道のりであった。このトンネルを越えて、下りに移る。これがまた、山と山とに囲まれた谷間の道で、登りはトンネルまで左右が開けていたのに随分と狭く感じる。下りだというのに、歩くのがおっくうである。区切り打ちも終わりに近づき、疲れが急に出てきたようである。
鳥坂トンネルから先、ずいぶん苦戦した。しかし後から確かめたところ、横浪からトンネル入口まで3.7kmを50分(郵便局でのロスタイム10分弱を含む)、トンネル出口から休憩所まで1.4km20分だから、まずまずのペースである。この区切り打ちの初日に宍喰のあたりで、平地にもかかわらず1km18分かかったことを思うと、そんなに時間がかかった訳ではなかった。
須崎のへんろ休憩所には午後4時ちょうどに着いた。ここのへんろ小屋には屋根があり水があり、奥に入るとトイレも使わせていただけるようだ。歩き遍路向けのパンフレットもいくつか置いてあって、その中には須崎市街の案内図もある。遍路地図では須崎市内の経路がよく分からないので(須崎に限らず肝心なところでよく分からない)、さっそく見せていただく。
すると、ここから目印となるコンビニまでまず1km、そこから住友大阪セメントの正門までさらに1km、目指すJR多ノ郷駅は、縮尺が正しければさらに1km以上はありそうだ。須崎を4時50分、3分後くらいに多ノ郷を出る列車に乗れれば6時過ぎにホテルに戻れると思っていたのだが、あと3km強であと50分では、ぎりぎりというよりは無理かもしれない。
そもそも、遍路地図には横浪から須崎市街の入り口まで6kmないし8kmと書いてあるものの、どこを通ればそうなるのかよく分からない。多めに8kmとみて、横浪から2時間あれば大丈夫と計画を立てたのだが、例によって遍路地図の距離表示がいい加減であった(実際に歩いたのは横浪から多ノ郷まで9kmである)。
とはいえ、あと3km強なら絶対無理というものでもない。5分休んで、4時5分にリスタートした。と思ったら、歩き始めてステッキがないのに気づき、休憩所まであわてて引き返して5分のロス。半分以上あきらめたのだが、ともかく早歩きで須崎に向かって行く。
後からGPSのデータをみると、このあたりは時速5~5.5kmと、私にしてはすごいハイペースで歩いているのである。それでも、住友大阪セメントの正門の前を4時40分、あと1kmを10分しかないのではとても無理だ。これも後からみてみると、へんろ休憩所から住友大阪セメントまで2kmではなくて2.6kmくらいあるのだ。
へんろ休憩所にあったパンフレットをもとに、ケーズデンキの前で折れて、マルナカの角を曲がる。そこに、すき家の看板があった。どうせ間に合わないなら、ここで夕飯にしてしまおうとすきやに入ってカレーをお願いする。カレーはちっとも辛くなかった。道中、うどんに味がなかったりアイスクリームしか食べたくなくなったり、この回の区切り打ちは味覚障害に悩まされた。
すき家から多ノ郷の駅までは、国道56号を渡り、跨線橋を越えて300mほどである。幸い、駅について10分後に次の列車が来た。次回の区切り打ちは、ここ多ノ郷からスタートということになる。最終日の歩数は44,437歩、歩いた距離は25.6kmだった。今回の区切り打ち9日間で歩いた距離は242.5km、1日平均では26.9kmであった。
[行 程]青龍寺 12:15 →(4.4km)13:25 埋立船乗り場 [13:47 浦ノ内湾巡航船 14:40 →]横浪船乗り場 14:50 →(5.4km)16:00 須崎へんろ休憩所 16:10 →(3.6km)16:55 すき家 17:15 →(0.3km)17:20 JR多ノ郷駅 ( → JR高知 → リッチモンドホテル)
[Sep 8, 2017]
横浪の家並み。巡航船の案内がどこにもなかったので、地元の人以外は場所が分からないだろう。郵便局は通りから入ったところにあり、キャッシュカードが使える。
須崎に入る県道は舗装道路だがかなり起伏がある。1時間と少し歩いて、須崎のへんろ休憩所へ。須崎市内の道案内などが置かれていてありがたい。
へんろ休憩所から2.6kmで住友大阪セメント正門前は4時35分。4時50分須崎発の列車はあきらめ、すき家でカレーを食べて高知に戻る。今回の区切り打ちはここまで。