市野瀬遍路道 土佐佐賀・幡多路 番外真念庵 三十八番金剛福寺
中浜・土佐清水 三十九番~
別格五番大善寺 [Mar 29, 2017]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
お遍路区切り打ちも、第6次となる。前回は「発心の道場」阿波を抜けて、「修業の道場」土佐に入った。最終日には高知市街を抜けて須崎の手前まで歩いたが、これから次の難関である足摺岬に向かうことになる。
前回同様10泊程度を考えていたところ、職業訓練所に入ることになってしまい半年間はそちらに行かなければならない(私用で休むと失業保険が出ないのだ)。幸い、3月末から4月初めにかけて春休みがあるので、これを使って先に進むことにした。しかしながら、スケジュール的に5泊くらいが限度で、足摺岬から高知に引き返すことになる。
持ち物は前回とそれほど違わないが、今回は札所が少なく歩きが多いので、お遍路バッグを持たずリュック35リットルだけにした。着替え類の数は変わらないが、前回油断した薬品類についてはきっちり用意した。パブロンと胃腸薬は日数分、マルチビタミンとビタミンC、ロキソニンと下痢止めも準備した。外用薬はバンテリンとワセリン、シッカロール。
歩きは実質5日ではあるが、薬局もコンビニもほとんどない地域なので用心するに越したことはない。時節柄、花粉症の薬も必要だ。リュックの重さを出発前に計ったら、水なしで9.8kgあった。ちょっと重いかもしれない。今回は行程的に荷物を預けることが難しく、道中ずっと荷物持ちなのだ。
2017年3月29日の朝、前回同様に始発電車で家を出て、羽田空港に向かう。JAL491便で高知龍馬空港に着いたのは8時50分。東部高速道路の開通により高知駅への時間はかなり短縮され、渋滞もほとんどないので安心である。高知空港に着いたのも定時より早かったので、9時53分発の特急あしずり1号に間に合った。
須崎まで特急に乗り、いったん改札を出て前回の終了地である多ノ郷駅まで各駅で引き返す。多ノ郷に着いたのは10時41分、高知から各駅で行くより30分早かった。
多ノ郷からは須崎の街中を歩く。須崎は大きな街で、国道沿いにコンビニやドラッグストアが結構ある。日焼け止めとシェービングフォーム、カロリーメイトなどをこちらで買う予定にしてあったので、地元ドラッグストアの後ローソンに寄ってようやく全部そろった。天気は下り坂でぽつぽつ雨粒が落ちてくるが、まだ雨具を用意するほどではない。
登り坂を上がって行くと須崎市役所、そこから下り坂でこんどは住宅街に入る。高速道路の下を抜けて、住宅街を抜ける頃には雨は上がっていた。予報では2、3日後が危ないけれども、なんとかもってほしいものである。
この日は別格霊場の大善寺にお参りした後、まず土佐安和へ、そして土佐久礼まで歩いてそこに泊まる予定にしている。前回お参りした青龍寺から岩本寺を経て金剛福寺、さらに延光寺の地域は八十八の中でも最も札所がまばらなところで、この3区間で最短でも190kmを超える距離がある。コースによっては200kmを優に超える難所なのである。
大善寺は八十八札所ではないので道案内がちゃんとあるかどうか心配だったが、お寺の近くになると津波の避難場所になっているので道案内が分かりやすく掲示されていた。このお寺は、須崎港を見下ろす高台にあることで知られている。
特急が停車する須崎駅。ここでいったん改札を出て多ノ郷まで引き返す。JRは急行がなくなったようだとこの時はじめて気がついた。
須崎の街中を歩く。足摺岬まで、1時間歩いても市街地というのは須崎が最後。
大善寺に近づくと、津波避難場所の案内があるので分かりやすい。
別格五番霊場である大善寺は、須崎港を望む高台にある。室戸の津照寺ほどではないが、高い石段を登って本堂のあるエリアまで登って行く。ちょうど本堂の下あたりに会館があって、ご朱印はそちらでいただく。本堂と会館の間は、荷物用エレベーターで結ばれている。
別格霊場は全部で20あり、四番鯖大師に続いてのお参りである。三番までの各霊場は、八十八札所経路からの距離がやや多かったので回避したのだが、距離の短い四番、五番には行った。これから後も八十八札所経路との兼ね合いになるが、十四ヶ橋などの旧跡もあり、できれば訪れたいと思っている。
もともとこの地は海に突き出た岬となっており、すぐ近くまで山が来ていることから海沿いを通る人が多かったが、打ち寄せる波で遭難する人が多かったという。そこで弘法大師が安全に通れるよう祈願して遭難者が減った。そこから「二つ石のお大師さん」として信仰を集めたのがこのお寺の由来だそうである。
息を切らせて石段を登りきると、ちょうどお寺の方がいらして挨拶する。「どちらからいらっしゃいました?」と尋ねられたので、今日からの区切り打ちで、朝の飛行機で羽田から来たことをお話しする。石段を登ってすぐのところに鐘楼があり、そこから海がすぐそばに見える。室戸からこちら津波タワーをいくつも見たが、この大善寺は自然の津波タワーなのであった。
海を隔てて左側に、前回通った住友大阪セメントの工場が見える。この前は区切り打ちの最後の夕方に見たけれども、今回は歩き始めの朝に見ることになった。時代を感じさせる古い施設だが、2回目になると親近感を覚えるのは不思議なものである。
鐘楼からすぐ先に本堂があり、外部とは網戸で仕切られている。「まむしが入るので、必ず戸を閉めてください」と書いてある。なるほど、本堂の裏手は薮だし、すぐそばが海で水気もあるので蝮がいてもおかしくないシチュエーションである。私も嫌なので、きちんと閉めて久しぶりの読経。
こちらはご本尊が弘法大師なので、いつもの札所であれば大師堂と同じ手順になる。「南無大師遍照金剛」を唱えてお参りを終える。今更ながら、遍路の「遍」は遍照金剛の「遍」である。もともと「辺路」と書いていたものが、いつの時代からか「遍路」と書くようになったのは、弘法大師の道という意味がこめられている。しかし、遍路そのものは弘法大師以前からあるのだ。
石段を下り、山門レベルにあるトイレと休憩ベンチで身支度を整えた後、角を曲った会館にご朱印をいただきに行く。会館は(あまり大々的に宣伝していないが)宿坊も兼ねているようで、鉄筋の立派な建物である。ちょうどお昼になったので心配だったが(ある札所でお昼休みに納経・御朱印をやめ、それがもとで八十八ヵ所霊場会を抜けたのは、この年の話である)、ちゃんとご朱印をいただくことができた。
大善寺をお参りした後、お昼を食べようと店を探す間もなく、お寺のすぐ近くにファミレス「Joyfull」があった。さっそく入る。というのは、前回やや体調がおかしかった(味覚がなくなった)のは、お昼をうどんやアイスクリームですませていたことが原因と考えたからである。そこで今回は、お昼は可能な限りしっかりとるつもりであった。
昼時で混んでいたけれども、幸いフリーwifiもあったので全然問題なく過ごすことができた。オーダーしたのはハンバーグ+サイコロステーキのランチ。この後、お魚が続くことが予想されたので、最初は肉系と思ったのである。「ごはん、大盛りにできますが・・・」と尋ねられたが、「普通でいいです」と答える。まだ10km以上歩くのに、腹一杯にする訳にもいかない。
山門から見上げる大善寺鐘楼。鐘楼の奥に本堂がある。自然の地形を利用した津波タワーである。
大善寺本堂。右手の手水場のあたりから、グランドレベルの会館(納経所)への荷物用エレベーターが下りている。
振り返ると、海が見える。弘法大師が海難が多いのを憐れに思ってこの寺を開いたという。
お昼を食べた後、12時40分にJoyfullをスタート、土佐安和に向かう。まず、国道まで通りを進み、左に折れて56号線に乗る。
この国道56号線は徳島における55号線同様に高知県内を横断する幹線道路で、高知から中村、宿毛を通り、そこから北上して県境を越え愛媛県松山市まで伸びている。もっとも、須崎から松山までの距離は250km以上あり、残り距離が長すぎて距離表示が参考にならない。そして、56号線は足摺岬を通らないので、金剛福寺への最後の直線は国道321号か県道になる。
国道56号線に乗って歩道を歩く。道沿いには、道の駅やドライブインがあって多くの車が止まっている。あわててファミレスで食べなくても、昼を食べる場所に困ることはなかったようである。
高速の入口を過ぎたあたりから道は徐々に登り坂になり、次にトンネルが出てくる。毎度おなじみ、四国の峠道である。1つ目は角谷トンネル、次が久保宇津トンネル。向こう側が見えるくらいの200~300mのトンネルだが、歩道がないので緊張する。「歩行者に注意」「学童は左側通行」と大きな看板があるところをみると、通学路にもなっているらしい。
3つ目の安和トンネルを越えると、道はようやく下りになって、周囲にはみかん畑がみられるようになる。左手には海。続いて目の前に開けてきたのは、大規模に造成された墓地であった。「安和墓地公園」というらしい。
海に向かってたいへん眺めのいいシチュエーションの墓地であるが、空き区画の方が多い。「ご先祖のため、津波の心配のない安和墓地公園へ」なんてことが書いてある。いずれにしても、安和でいちばん目立つ施設であった。
墓地公園を抜けて、ゆるやかに坂を下って行くとJRの安和駅となる。もちろん無人駅で、特急は止まらない。みかん畑の向こうに短いホームがある姿はたいへんかわいらしい。駅前にあるのが、WEBでよくみる喫茶店「ぽえむ」である。須崎からここまで約1時間。
安和には商店街というものはなく、「ぽえむ」を過ぎ、「民宿安和の里」あたりで民家もまばらになり、道は左右に分かれる。56号線はまっすぐ進み、左に折れると「四国のみち」である。土佐安和から久礼までのルートは、環境省の「四国のみち」では海岸沿いのルートを推奨している。
毎度おなじみの遍路地図には、国道も四国のみちルートも載っていなくて、真念の通った焼坂遍路道に決め打ちである。しかし、この焼坂遍路道、標高差があるうえ道の状態もよくないというWEB情報もあるので、四国のみちを選んだのである。「民宿安和の里」前に道案内があり、土佐久礼までは8.7kmと書いてあった。約2時間といったところか。
四国のみちは比較的平坦で歩きやすいが、車道と歩道の区別がない狭い道にもかかわらず、抜け道に利用されているのか、砂利を満載したトラックが時折飛ばして行く。あるいは重量物を積んでいるとスピードが落ちるほど国道は急坂なのだろうか。
そして道の左側は海に向かって断崖になっており、右側は数十mにわたる絶壁である。金網で補強したり場所によっては覆道があるけれども、それらをかいくぐって落石が道に落ちてきている。それでは自然に還りつつある道かというとそうでもなくて、区間によっては最近舗装を新しくしたところもある。
海岸からすぐ沖に大岩があり、その上は盆栽のように松の木が植わっている。あそこまでは波が届かないのだろうか。四国の海には、八坂八浜のフラクタルあり、室戸の奇岩あり、ここ足摺に向かう海もそれぞれ特徴的だ。そんなことを考えながら歩いているうちに、午後3時を過ぎた。
民宿安和の里の前を左に折れて、四国のみちルートをとる。海岸沿いを歩く比較的平坦な道である。
右手は絶壁が続き、左手は海。時折砂利を満載したトラックが飛ばして行く。
こんな感じで、すぐ沖に盆栽のような島が多くあるのが足摺の海の特徴のようです。
民宿安和の里から久礼八幡宮まで8kmちょっとだから、約2時間の見当である。安和の里を過ぎたのは午後1時半だから、4時前には着くはずである。宿の場所がいまひとつよく分からないので、暗くなる前には久礼の街に入りたい。
四国のみちルートは海岸線をたどるルートで景色はたいへんよろしいが、砂利を満載して飛ばして行くトラックと、右は切り立った崖、左は海までさえぎるもののない崖で、神経を使う道である。それと、せっかくの景色を落ち着いて見るベンチとか休憩所がないのは残念なことであった(ロケーション的に駐車場を作れないということもあるのだろうか)。
安和を出てしばらくは家や建築物も見ることができたのだが、30分も歩くと人の住む気配はなくなる。とはいっても、右の崖には落石防止の金網がずっと張られている。誰も住まない場所にこれだけ手間暇をかけて道路を維持する意味はあるのだろうか、とふと考えた。
ずっと海沿いに進んできて、林の前を内陸に向かって入る。もしかすると岬だろうかと思うけれども、しばらくすると再び海沿いに出た。単に難所を迂回しただけのようだ。またしばらく歩く。引き続き、休む場所もないし自動販売機もない。久礼まであとどくらいあるのだろうか。四国のみちなのに、あまり標識もない。
再び岬のような地形を内陸に入る。そろそろ久礼が見えてくるかと思ったが、まだ海しか見えない。1時間と少し歩いて、岬をやり過ごすとようやく見えてきたのは工場のような建物であった。
近くまで行ってみると、どうやらゴミ処理場のようだった。鉄筋5階建てくらいの建屋が入り江に建てられている。内部は焼却場だろうか、トラックが何台か入って行った。ありがたかったのは、入口横に自動販売機があったことである。ベンチはなかったけれど、ここで冷たい飲み物を補充することができた。
この建物から先には道路に電柱も登場して、ようやく人里が近づいた気がした。やがて、久礼のランドマークである双名島が見えてくる。この島、方向によっては地続きに1つの島があるだけに見えるが、近くまで行くと岬から直線上に2つの島があることが分かる。久礼湾が荒れることを不憫に思った鬼が、串に刺して岩を持ってきたという言い伝えがあるらしい。
いよいよ街が近づくと、例によって津波タワーが目立つ。道路近くまで掘られた船着き場には、漁船が係留されている。久礼といえば有名な男尊女卑マンガ「土佐の一本釣り」の舞台である。連載当時は人気というか話題になった作品だが、いまだに高知では登場人物のイラストを目にする。海沿いの街に関していえば、あんぱんマンより多く見るかもしれない。
といっても、私自身はこの作品をほとんど読んでいない(ゴルゴ13を読むためビッグコミックは買っていたのに)。あまりタッチが好きではなかったのである。ただ1シリーズ、たまたま読んだのは、主人公の乗る漁船が謎の船頭の指揮のもと台風のまっただ中に突っ込んでいくという場面であった。
大雨大風大波に転覆寸前まで行きながら何とかやり過ごし、台風一過の海は、腹を空かせたマグロの群れで入れ食い状態である。他の船は来ていないから、大漁のうえ高値で売れる。漁業というのはそういう世界なのか、とたいへん印象に残った。
この日の泊まりは「ゲストハウス恵」である。素泊まり3000円、定収のない身では、節約しなければならない。まず中土佐町役場を目指す。役場で宿に電話して場所を聞かなければ分からない。役場からは病院の前を通り、民家の間の細い道を歩いて5分かからずに「ゲストハウス恵」である。でも、電話では「役場の前を折れてまっすぐ」しか言わないものだから少し不安になるくらいだった。
近くに食堂は見当たらないので、役場近くにある「スーパーマルナカ」で出来あいの助六寿司と野菜の煮物、ヨーグルト、バナナ、パイナップルなどを買ってきて夕飯にする。アルコール抜きで眠れるかと思ったけれど、朝が4時起きだったたので8時頃からぐっすり眠れたのはありがたいことであった。第6回区切り打ち初日の歩数は32,149歩、歩いた距離は17.4kmであった。
[行 程]JR多ノ郷駅 10:45 →(3.6km)11:50 大善寺 12:40 →(4.1km)13:35 土佐安和 13:35 →(8.8km)16:00 土佐久礼(泊) →
[Oct 7, 2017]
岬をいくつか回ると、土佐久礼。「土佐の一本釣り」の漁師町である。
役場の前の道を折れ、病院の前を進むと「ゲストハウス恵」。素泊まり3000円。この窓の奥の和室に泊まらせていただいた。
ゲストハウス恵からは、久礼天満宮が歩いてすぐ。尻ぬけ石ってなんだと思ってよく読むと「厄ぬけ石」だった。
旧三十七番仁井田五社 [Mar 30, 2017]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
第六次お遍路2日目の朝になった。移動翌日の朝は、これから一日中歩きになるため、若干の緊張感がある。そして、この日の行程は岩本寺までで、大坂遍路道が工事中で通れないという情報もあったのでそれも気になっていた。
そもそも真念「道指南」による久礼から床鍋までのルートは「そえみみず坂」である。久礼から少し戻り、北を流れている長沢川を遡る。ただ、現在ではあまり使われないルートで、道がやや荒れているとの情報もある。大坂遍路道は一本南を流れる大坂川を遡るルートで、山の中を歩く距離が最短で済む。ただし、森林組合の作業をしているため通行できないという情報もあった。
その場合は途中で国道に迂回しなければならないが、見たところ特に注意書きもないので谷川に沿ってゆるやかに登って行く。道は舗装道路だし人家はほとんど見当たらないのに、三相三線の電線(この区切り打ちの時期ちょうど職業訓練中で、そのあたりを習っていたのだ)が2組頭上の電柱に続いているので、この先それなりの施設があるのだろうと思って進む。
土佐久礼から30分歩くと、集落が現われた。コミュニティバスの時刻表も貼ってある。こちらの集落を奥大坂というのだが、へんろ道を歩いているとこうした集落を通ることがよくある。学校はどうしたのだろうとか、買い物はどうするのだろう、自分だったらどう生活するだろうと考える。
おそらく実際に住んでいる人達はさほどの不便もないのだろうし(それこそネット通販を使えば都会と同じである)、かえってごみごみした都会の生活など送りたくはないだろうが、毎日をここで暮らすとなるといろいろな意味でのタフさが必要となるのではないだろうか。例えば私なら虫がダメである。
しばらく進むと、集落の真ん中に空高く橋脚が立ち上がり、その上を高速道路が通っている。近くまで行くと橋脚に、「この橋は四国で一番高い橋です」と書いてある。ビル10階分では足りないくらいの高さで、よくあんな空中に作ったものである。その高速道路とは別に、山の中腹を迂回しつつ国道が左上にずっと登り勾配で続いている。
最後の民家のあたり、前日「ゲストハウス恵」で隣の部屋に泊まった若者に抜かれた。「どこまで登るんでしょうか」「向こうに見える橋のあたりですかね」などと話をする。彼方に見える橋までさらに標高差200mほどありそうに見えたので、あそこまでは登らないだろうと思ったのだが、実際そこまで登ることになった。ここまではたいして登っていなかったのである。
さて、最後の民家を過ぎても三相三線2組の電線は続いていたのだが、高速道路橋の方向に分かれて行き、電柱も何もない登山道になった。心配していた登山道の補修は終わったようで、通行止めの注意書きもないし迂回の指示もない。しばらく前から砂利道だ。最後の民家から15分ほど歩いたところの川沿いに休憩小屋が現われた。
中を覗くと、リサイクルの応接椅子やテーブルが置いてあって、建設会社や地元有志の協力で作られたことが書かれている。小屋の向こう側にトイレもあった。ありがたく休ませていただく。
小屋の中には人生訓がワープロ打ちで掲示されている。「年をとったら出しゃばらず」「知ってる事でも知らんふり」「勝ったらあかん負けなはれ」「お金の欲は捨てなはれ。いくら銭金あったとて死んだら持っていけません」「山ほど徳を積みなはれ」おそらく土地のお年寄りが書いたのだろうけれど、勉強になる。勝ったらあかん、のか。ワープロ打ちというのがまたいい。
小屋のすぐ先から、いよいよ本格的な登山道が始まる。傾斜も格段にきつくなり、ここまで軽とか4WDならなんとか通れる道だったのが、馬でも無理な細い道である。それでも、最近の工事で整備したようで、真新しいピンクテープが道端に等間隔で続いている。スイッチバックの急坂が4つ5つと続き、しばらく川に沿って登ると、再び急坂になる。
登山道入口には「七子峠まで1.0km」と案内があるので標高差を考えても1時間はかからないと思っていたが、40分ほど歩くと予想通り最後の階段が現われて、峠まで登り詰めることができた。七子峠到着は8時55分。宿を出発して2時間半ほどで、久礼八幡宮や休憩小屋に寄ったことを勘案すれば、正味2時間ほどで到着した。
奥大坂から七子峠に向かう。山の中に見えているのは高速道。四国で一番高い橋とのことです。
峠道の奥まったところに遍路休憩所。小屋の奥にトイレもある。
いよいよ急勾配の峠道に向かう。最近まで整備が行われていたため、ピンクテープも真新しい。
七子峠まで登ってしまえば、あと岩本寺までの道にはそれほどの起伏はない。関東に住んでいると、峠の先には登ると同じくらいの下りがあるはずと思うのだが、七子峠は峠まできつい登りなのに、その先は平坦なのである。室戸の金剛頂寺もそうだったが、四国特有の地形ではないかと思う。
峠まで登山道そのものの険しい道が数十分続いたのに、峠から先は水田の続く平坦な道というのは、すごく違和感がある。JRの線路もこの間トンネル続きで標高を上げるのだが、歩くと余計に不思議に感じる。峠からは国道と合流し、休憩所・展望台がある。展望台からは、いま登ってきた谷間の道を久礼の街まで見下ろすことができる。
ここでしばらくゆっくりしたかったのだが、変なじいさんが近づいて来て話しかけてきた。世間一般では「和顔施」といって遍路はあいそよくするものだそうで、普通に対応するしていると、甘く見られたのかずっと話しかけてきて煩わしい。仕方がないのでリュックを背に早々に出発する(どうやら、この先で接待しているので来いということのようだった)。
改めて今回の荷物はというと、10kgのリュックを最初から最後まで背負い続けての歩きである。前回のようにリュックをホテルに預けて身軽にという訳にはいかないので、なかなかハードなのであった。中でもこの大坂峠越えは難所とされているので、クリアしてほっとしたことは確かである。もちろん、ここから先さらにつらい道のりが待っていたのであるが。
さて、七子峠から五社まではほぼ国道沿いの一本道である。12km先の道の駅「あぐり窪川」で岩本寺への道と分かれて四万十川に出る。とりあえず目指すのは道の駅である。国道は時折トラックが通るのでへんろ道の表示のある田舎道に入ったのだけれど、家並みの間を曲がりくねっていてかなり距離をロスするような気がして、早々に国道に戻った。
国道に戻って間もなく、「甦る仁井田米の里」の石碑が建っている。平成十八年建立と比較的新しいもので、1997~2004年に区画整理した結果、全国コンクールで優勝するくらいおいしい米ができるようになったという内容が記されている。四国の米というとそれほど味はよくないという印象があるが、よく考えるとこのあたりは四万十川の上流であり、水は間違いなくおいしい。であれば、米もおいしいはずである。
平坦な道はゆるやかなカーブを描きながら続く。山並みは意外と近くまできているが、川に沿っているので大きな起伏はない。大きな荷物を持つ身には、ありがたいことである。国道の表示板に「気温16℃」と出ている。前回(2016年秋の牟岐~須崎)とは打って変わって涼しい気候で、これもありがたい。
七子峠から約1時間、JR駅のある影野近くの休憩小屋「雪椿」でひと休み。トイレはないが、東屋があって木のテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には、この先にお接待の休憩所があって、トイレも飲み物もありますなんてことが書かれている。もしかすると、峠のじいさんが言っていたのはここのことかもしれない。
「雪椿」休憩所からも、時折左右に山が迫る間を、ほぼ平坦な道が続く。JRの駅でいうと影野から六反地、仁井田と進み、窪川の手前に道の駅「あぐり窪川」がある。遍路地図でみると7kmほどあるのだが、「雪椿」から約1時間半、意外に早く11時半に「あぐり窪川」に到着した。
さて、大善寺のところで書いたように、今回の区切り打ちはしっかり昼食をとる方針である。「あぐり窪川」はかなり規模が大きくてレストランも広かったが、それでもテーブルはほぼ満席であった。1人だったので合席用の大きなテーブルに案内されて、とんかつ定食をオーダーする。同じテーブルにほぼ同年輩のお遍路姿の人がいて、今日は岩本寺ですかなどと話をした。
食事の後はアイスクリーム屋さんに行き、ベンチに座って食べる。このあたりにこういう施設が少ないのか、ひっきりなしに車が入ってくる。観光客というよりも、地元の人とか工事関係者のように見える。道の駅には結局1時間ほどいた。あとは五社に行って岩本寺だけであり、あまり早く着いても宿坊に入れてもらえないかもしれないから少しゆっくりしたのだ。
七子峠を登りつめると、その先は広々とした平地。四国でよく見る地形だが、登ったのに下りがないのは何だか違和感がある。
七子峠から1時間、影野にある雪椿休憩所。東屋・ベンチのみ。
道の駅あぐり窪川。売店・レストランはじめ、施設が充実している。五社方面へのハイキングコース案内あり。
仁井田五社は江戸時代の札所である。岩本寺からは四万十川を渡った山側にあり、霊場記の絵図を見ると五つの嶺がご神体だったようで、それぞれに鳥居がある。
この仁井田五社、もともとは古墳だったともいわれ、 社伝によると伊予の豪族・越智玉澄の創建という。越智氏は後に河野水軍となる一族であるが、例の「遍路の元祖」右衛門三郎も河野氏ゆかりとされるように、四国遍路との関わりが深い。五十五番札所三嶋宮(南光坊)も河野氏の氏神である。
遍路地図だけでは心許ないので、道の駅入口近くにあるハイキングコースマップを見る。五社にお参りするにはここから国道を離れて南西に向かうようだ(例によって遍路地図は、このあたり北が上でないのでたいへん分かりにくい)。時間的には1時間かからずに着けるようなので、あまり急がなくてもよさそうだ。12時半、道の駅を出発する。
しばらく平和な田舎道が続く。ところが5分ほど歩くと道は登り坂となり、林の中に入って行く。左側は川に向かって斜面となっており「ゴミ捨て禁止」の立札が何回か現れる。こうした立札は人通りのない道によく立てられているので、ちょっと心配だ。そういえば道の駅からこちら、誰ともすれ違わない。
資材置き場のような広場で右に折れると、下り坂となる。どうやら低い山をひとつ越えたようだ。遍路地図だとよく分からないような山だが、七子峠からここまで平坦な道が続いてきたのでちょっときつかった。ここからは四万十川に沿って五社まで下り坂となる。ちなみに、遍路地図等では四万十川と書いてあるが、橋の表示をみると地元では渡川というらしい。
眺めが開けて、前方に斜めの稜線が立ちはだかる。妙な稜線で、鋸の歯のような凸凹が5つある。あるいは、あれが五社のもともとの発祥だったのかもしれない。きっとあの山の麓が五社に違いないと想像しながら歩くと、まさにそのとおりだった。山裾を回り込んで、最後は橋を渡った直線道路が五社まで続く。1時10分着。
五社は高岡神社、仁井田明神とも呼ばれ、5つのお社の総称である。中央にある中ノ宮は大山祇尊(おおやまつみのみこと)をお祀りしており、これは五十五番三嶋宮と同じである。このあたりの民家の門には三嶋宮のお札が貼られているが、あるいはその関係かもしれない。正面の鳥居に「高岡神社中ノ宮」の扁額があり、拝殿と社務所が置かれている。
小さいながら休憩ベンチも置かれているが、私がお参りした時には誰もいなかった。手水場のところに「元三十七番札所福円満寺の跡」と彫られた石碑が立てられているが、四国遍礼霊場記によると江戸時代の別当寺はすでに岩本寺であり、福円満寺は寺伝によると弘法大師が五社に置いた寺である。明治までは神仏混淆なのだから「元三十七番札所五社の跡」でいいと思うが。
高岡神社中ノ宮を真ん中に、左に2つ、右に2つ大きな鳥居が置かれている。高岡神社のすぐ脇に、もう一つやや小さめの鳥居があるが、神様のお名前をみると五社とは別の神様のようで、あるいはこれは村の鎮守かもしれない。まず中ノ宮にお参りする。神様だから、読経はせずに柏手を打つ。続いて高岡神社の脇から左の二社にお参りする。
いちばん左のお宮は丘のいちばん上に建てられていて、石段も一番長い。扁額には「森ノ宮」と彫られていて、頂上に建てられた拝殿はかなり古くなっているけれども、それでも江戸時代からずっとあるものではなく、戦後間もなくくらいに建てられたもののように見えた。二つ目のお宮「今宮」は、森ノ宮よりは低い位置にある。拝殿の古さは森ノ宮と同じくらいだろうか。
続けて右の二つのお宮にお参りする。「今大神宮」は道沿いの鳥居からずいぶんと奥の方にあり、よくある古いお宮である。拝殿までの参道には民家や納屋が並んでいて、霊場記挿絵のように鳥居、拝殿、本殿がすぐ近くにある訳ではない。一番右が「東大宮」、こちらは鳥居からすぐに石段そして拝殿があり、霊場記挿絵の雰囲気に近い。それぞれお参りしてから中ノ宮に戻った。
[行 程]土佐久礼 6:00 →(4.4km)8:05 奥大坂休憩小屋 8:15 →(1.0km)8:55 七子峠 9:05 →(4.5km)10:00 雪椿休憩小屋 10:10 →(7.0km)11:35 道の駅あぐり窪川 12:30 →(3.5km)13:10 高岡神社 14:00 →
[Oct 21, 2017]
あぐり窪川から約1時間。仁井田五社はあの奇妙な形の山の麓にある。
道路際に鳥居が並ぶ風景は、「四国遍礼霊場記」のさし絵のとおり。
仁井田五社中ノ宮。江戸時代はここが札所だった。
三十七番岩本寺 [Mar 30, 2017]
さて、中ノ宮まで戻ったものの、依然として社務所には人の気配がない。ベンチとトイレがあるのはありがたいものの、自販機が置かれていないのでペットボトルを補充できない。有名な五社だから売店か自販機くらいあるだろうと考えていたのだが、迂闊なことであった。
よく探すと、社務所の窓の横に「ご朱印は○○様宅でお受けします」と書いてあり、地図も描かれている。せっかくだからお伺いすることにした。いったん鳥居をくぐって道路に出て、往きに通った橋の方向に少し戻ったお宅である。庭に入らせていただき玄関のドアホンを押すと、奥様が現われた。
「神職がおられれば筆で書いていただけるんですが、いまはこれだけなんですよ」とすでに半紙に書かれたご朱印を示される。東洋大師のところで述べたように出来合いのご朱印はいまひとつ歓迎しないのだが、 わざわざ玄関まで呼び出しておいて我儘は言えないのでありがたく頒けていただく。
ご朱印をいただくとちょうど午後2時、こちらには50分ほどお参りしたことになる。往きに通った直線道路を戻ろうとすると、「こんにちは」と声をかけられた。五社でははじめて自分以外の参拝客とお会いしたなと思ったら、前日に久礼の「ゲストハウス恵」で隣の部屋に泊った単独行の男性であった。
彼もまた私と同様の区切り打ちで、この日は大坂遍路道を登る前に抜かれている。岩本寺にお参りして帰ると言っていたが、早く着いてしまったので五社にもお参りしてみたということであった。五つお宮があるので小一時間かかりますよ、ご朱印はこちらのお宅で、などと話をして別れる。
再び橋を渡って、岩本寺へ向かう。遍路地図では窪川駅方向に丘をひとつ越えるのだが、現地の案内板では岩本寺は窪川駅とは別方向に、丘を回り込む川沿いの道を指示している。峠越えの坂道は結構大変だったので、案内板にしたがって川沿いの道を進む。
このあたり、四万十川は中流といっていいくらいの川幅があり、傾斜もなだらかになっている。とはいえ川面はごつごつした岩であり、その間を水が流れていく。川の流れもゆったりしていて、清流四万十川という雰囲気ではない。やがて道は川と離れて畑と農家が続く農道となる。依然として自販機はなく、道の駅で仕入れたペットボトルも残り少なくなってきた。
丘をぐるっと回り込んで窪川の街が見えてきたあたりで、ようやく自販機がみつかった。コカコーラではなくダイドーの自販機というあたりがローカルである。それでも150円でペットボトルが買えることに感謝しなくてはならない。道の駅を出てから五社経由ここまで5km以上、お店も自販機もない地域が続いたのであった。
自販機の少し先で、これまでの農道から車の通る太い道路に出た。ここから岩本寺までは大きな道案内があるのでその通りに進む。太い通りをずっと進んで右折し、また少し先で右折する。これじゃ戻ることになるなと思ったら、同じ郵便局の正面と裏口を両方通っていた。どうやら車用の案内だったようで、少し遠回りしてしまったようだ。
みかん販売店の角を左に折れると、岩本寺の山門が見えてきた。時刻は午後3時少し前。これからお参りすれば、おそらく宿坊に入れてもらえる時間になるはずである。この日の歩数は44,927歩、歩いた距離は24.9kmだった。
五社参拝の後は、四万十川に沿って岩本寺に向かう。橋の表示は「渡川」となっていた。
窪川の市街。ここがJR土讃線の終着駅で、この先中村までは土佐くろしお鉄道になる。
みかん屋さんの角を曲がると、岩本寺の山門がすぐそこに。
この日の泊まりは岩本寺である。宿坊に泊まるのは、十楽寺、鯖大師、金剛頂寺に次いで4寺目になる。通りを曲って奥まったところにある山門はそれほど大きいものではないが、山門をくぐった境内の懐は広い。
入ってすぐ右手に鐘楼と大師堂、左手に納経所がある。奥に進んで右の本堂は白・赤・黄・緑・青五色の幔幕で囲われており、左奥が宿坊である。突き当たりは土手になっていて、その上を線路が走っている。JR土讃線は窪川までなので、ここは土佐くろしお鉄道になる。
まず、本堂と大師堂で読経しご朱印をいただく。こちらの本堂は天井画が有名だが、翌朝のお勤めで見ることができるはずである。八十八札所用の納経帳を使うのは半年ぶりになる。ご朱印係のおばあさまと、「さっきの人は北海道から来て暑いと言っていたけれど、こんなのは寒いくらいですよ」なんて話をする。その時は言わなかったが、私もむし暑いと思っていたのだった。
宿坊の受付をお伺いすると、「宿坊でしたら売店の方に誰かいるはずですよ」と言われて宿坊入口にある売店で待つと、ほどなく受付の人が現われた。まだ3時半過ぎだけれど、問題なく入ることができた。すぐ後から何人か続けて受付したので、今回はひとりということはなさそうである。
部屋は和室の6畳。すでに布団が置かれていて、その上に浴衣まで用意されている。浴衣があれば全部着替えることができるのでありがたい。早速着替えて、何はともあれコインランドリーに向かう。前日のゲストハウス恵で洗濯できなかったので、2日分の洗濯物がたまっていた。洗濯機・乾燥機とも3台で、一番乗りだった。
洗濯物を洗濯機に放り込み、部屋に戻って改めて荷物の片付けをしてから、午後4時開始のお風呂に向かう。この遠征はじめての大きなお風呂でゆっくりする。汗を流してさっぱりする頃には、洗濯物を乾燥機に移す時間になる。ちょうど洗濯機・乾燥機が女湯の入口にあるものだから、この時間に到着した女性が入ってきた。
「すみません。すぐに移し終わりますから」「いいですよ」なんて立ち話をした人が、この区切り打ちでは何回も会うことになる「自称時速3kmの彼女」なのであった。もちろん、この時にはそんなことは知らなかったのであるが。
食事は午後6時から。川魚のおさしみ(鱒かな?)があって、鶏のフライとコロッケがあって、かぼちゃの煮つけ、切干大根、ほうれん草のおひたし、酢の物がある。個室で浴衣も付いて、これだけの食事が出て1泊2食6,800円だから、格安である。前後の行程から考えて窪川で宿をとらないと厳しいから、ありがたいことである。
ビールは瓶で、日本酒も「土佐鶴」を1升瓶から注いでくれる。前の日ゲストハウスではアルコール抜きだったので、最初にビール、続いて土佐鶴をお願いする。食堂に集まったこの日の宿泊客は8名。これまで経験した宿坊で最多の同宿者であった。
アメリカから帰省中のご夫婦(奥さんがイリノイ出身とのこと)がいて、一緒に歩いている年配のグループがいて、単独の男性が何名かいる中に、さきほど浴室前ですれ違った女性がいた。単独行の若い女性で、通し打ちでここまで来ているらしい。「私は時速3kmでしか歩けないから」と話しているのが印象的であった。
アメリカから来ているご夫婦は、八十八の順序にこだわらず歩いているそうで、今回は高知を選んだそうである。奥さんは、われわれと話すときは日本語で、旦那さんと話す時は英語というのがおもしろかった。
そしてグループの人達は、「いやしの宿八丁坂」を何とか予約できたと話をしていた。この宿は四十五番岩屋寺の前にあり、まだこれから10日前後かかるはずなのだが、そのくらい前に予約しないと厳しいのだそうだ(区切り打ちで時期は異なるが、私がこの後八丁坂に泊まったのは11泊後になる)。
うれしいことにこの岩本寺ではwifiが使えたので、夕食後は部屋に戻って情報収集。これから先、いよいよ足摺岬まで約70kmの今回の正念場が待っている。そして、予報では翌日、降水確率80%の雨予想なのであった。
[行 程]高岡神社 14:00 →(2.5km)14:40 三十七番岩本寺(泊)
[Nov 4, 2017]
岩本寺本堂。中の天井には、有名な天井画がある。土手の上を時折、土佐くろしお鉄道が走る。
岩本寺宿坊。整った施設です。1泊2食6,800円はお値打ち。
朝のお勤めを終えると雨。この雨は一日激しく降り続いたのでした。
市野瀬遍路道
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
翌朝起きた時にはまだ傘なしでも外に出ることができたが、朝のお勤めが終わって宿坊に戻る頃には雨が降り出していた。
岩本寺の本堂は、何年か前に建て替えた際に天井画を公募し、その中にマリリン・モンローを描いた絵があることで有名である。本堂入ってすぐの頭の上にある。午前6時にお勤めが始まって間もなく、すぐ横の土手を走り過ぎる列車の音が聞こえた。
お勤めは、もともとの札所である五社のご本尊それぞれにお経をあげるので、それなりに時間がかかる。それと、まだ若いご住職(同宿した人が朝食で話していたところでは、副住職らしい)の説教が気合が入って長かったので、その間に雨が本降りになった。
朝食はご飯・味噌汁とさば文化干、焼き海苔、梅干し、大根おろしという純日本風。これだけ食べれば十分である。部屋に戻って雨用のフル装備、モンベルのレインウェア上下を着てリュックにカバーをする。この日は札所はないので、納経帳はまとめてリュックの中にしまってある。
雨天時の遍路姿というと、傘は差さずに菅笠をかぶり、手には金剛杖というのが定番であるが、私の場合は汗っかきなので菅笠(洗えないので汗をかいたらそのまま)というのがどうにも気が進まない。この日は登山用のストックをリュックに結わえつけて、折り畳み傘を左手に持って右手を自由にするというスタイルにした。
出発して間もなく、前日同宿した単独の方に「傘差していくの?峠道はどうかな」と言われてしまった。確かに下り坂にはストックがあった方が安心だが、両手ふさがってしまうのは危険だし、まあ、山歩きほどの傾斜はないだろうという読みもあったのである(先の話になるが、峠道は予想通りストックなしでも大丈夫だったのだが、それとは別の要因で傘の限界を思い知ることになる)。
岩本寺から金剛福寺までは80.7km、札所間では最大の距離である。真念「道指南」にもこの間の距離は二十一里と書いてあり、当時でも二泊以上は必要としたが、宿を貸してくれるのは伊田村の弥兵衛など数少なかった。そこで真念らが尽力して市野瀬に真念庵というお堂を建て、遍路に宿を貸したり、打戻りのための荷物預かりをしていたのである。
岩本寺から真念庵までは、いったん四万十川に別れを告げ、峠を越えて土佐湾に出る。この道は中村街道といって、江戸時代の真念もこのルートをとっている。片坂峠まで約5km、そこまで1時間以上の登りである。そして峠越えは、市野瀬遍路道と呼ばれる山道である。お勤め前後から降り出した雨はかなり激しく、止む気配がない。
窪川市街からは、結構長い登り坂である。電子国土で調べると窪川が海抜220m、片坂峠が310mだから標高差100mくらいしかないのだが、200~300m登っているように感じる。そういえば、神山温泉から十三番大日寺に向かった時も雨で、やはり起伏のある国道を1時間ほど歩いたことを思い出した。
「すっぽん買います」と珍しいことが書いてある看板を過ぎ、登ること約1時間、午前8時半にお大師様と小坊主の石像が立っている曲がり角に着いた。「へんろ道→」の表示があるし、手前にある広場は四国電力の廃棄物保管場所(遍路地図には資材置場と書いてある)だから、ここで間違いない。
国道をそれて遍路道に入ると、しばらくは農家の間を通る舗装道路だが、トラックの止まっている車庫のあたりを過ぎると山道になる。雨であたりが暗く、たいへん心細い。道は再び登り坂になった。
国道56号線を登ること1時間、お大師様の立つ分岐点を左に折れる。傘を差していたので、像がなければ見逃したかもしれない。
倉庫のような建物の脇を回り込むと、遍路道への入口になる。雨が一段と激しくなる。
遍路道は峠に向かってさらに登る。木立に囲まれて暗い中を進む。たいへん心細い。
雨がまた激しくなり、木立の間を進むと真っ暗になったように感じる。へんろ道と書いてあるので間違いないのだが、前にも後ろにも人がいない。山道を10分ほど歩くと国道のトンネルの上に出た。このあたりが片坂峠のようである。ちょうど9時だから、お大師様の分岐から30分かかったということである。
ここから先は下り坂である。ところどころ岩肌の見える油断できない登山道だが、ストックを出さなければ危ないというほどではない。折りしも雨が激しくなってきたので、引き続き傘を差しての歩きである。
前を歩く、雨合羽に菅笠姿のお遍路さんが見えた。下り坂を慎重に下っている。道幅が狭いのでパスするのが大変だなあと思っていたら、後ろから足の速い人が来て私もろとも抜いて行ったので、ついでに私も先に行かせていただく。と、声を聞くと、昨日岩本寺で泊った「時速3kmの彼女」であった。
朝食会場からは私の方が早く出たので、当然私の方が前を歩いているものと思っていたら、なんとここまで先行されていたのであった。下り坂を慎重に歩いているので追いついたけれども、ここまで1時間半は前を歩く姿さえ見えなかったのだから、少なくとも時速3kmなどということはない。大したものである。狭い道なので、挨拶だけして通り過ぎた。
私はというと下り坂は得意であるので、傘を手に快調に下って行く。10分ほどで、西尾自動車脇の休憩所までたどり着いた。こちらでは、トイレと水を使わせていただけるし、なにしろ屋根がある東屋というのはありがたい。ここで10分ほど休んだのだが、後ろから「時速3kmの彼女」は追いついてこなかったから、よほど慎重に下っているようであった。
実はこの山道でちょっとしたミスをした。休憩所でこれからのルートを確認しようと探したのだが、ポケットに入れておいたはずの遍路地図コピーが見当たらないのである。この日歩くのは約35km。大雨だし、途中で土佐くろしお鉄道にエスケープすることも考えられたから、地図がないというのはかなりリスキーだが、まさか戻って探す訳にもいかない。このまま歩くしかない。
西尾自動車の東屋に、「次の休憩地・こぶしの里まで3km」とあったので、とりあえずそこを目標に歩き始めた。片坂峠を越えると、これまでの四万十川から伊与木川の流域となる。町の名前は「伊与喜」、川の名前が「伊与木」で少し紛らわしい。それはそれとして、国道をそのまま進めばいいはずである。
川に沿って標高を下げて行く。土佐佐賀温泉は「こぶしの里」という名前だが、このあたりは拳ノ川という地名で土佐佐賀はまだ数km先である。拳ノ川だから「こぶしの里」なのかとひとりで納得しながら歩く。雨は引き続き激しい。
まだ午前中なのでそれほどバテることはなかったが、ずっと雨に降られたので、こぶしの里の東屋で休憩できた時にはほっとした。時刻は午前10時ちょっと過ぎ。雨の中、わき目もふらず歩いたので、西尾自動車休憩所から40分くらいで着いた。
ちなみに、岩本寺のある窪川で宿を取らないと、こちら土佐佐賀温泉まで泊まるところがない。この日、岩本寺から約3時間かかったから、お昼過ぎくらいに岩本寺を出ないとちょっと厳しいだろう。五社に寄らなければぎりぎり何とかなるかもしれないが、そうなると1日のうちに七子峠・片坂峠と二度の峠越えとなる。あまり無理しない方がよさそうだ。
「こぶしの里」の東屋にはお大師様の石像が立っていて、白衣まで着ていらっしゃるものだから、遠くから見たら先客がいるのかと思った。中は広くて、回りに板が張ってあるので雨が吹き込まないのもありがたい。リュックを下ろして一息つく。
国道トンネルの上を通るあたりから、今度は下り。雨の中、白衣と金剛杖の遍路姿がぼんやり見える。
ようやくへんろ道を抜けたところが、西尾自動車休憩所。東屋・トイレあり。かなり安心する。
再び国道を1時間、こぶしの里休憩所。白衣のお大師が目印。
「こぶしの里」で10分くらい休んで、再び大雨の中を出発する。すごい勢いで雨が降ってくるので、景色を楽しむゆとりもない。こぶしの里あたりでは道路の反対側で工事をしていたようであたり一面の木が伐採されていたが、5分も歩かないうちに再び左手は森、右手は下方に集落が見える。
このあたり、国道を歩くよりも集落の道を歩いた方がいいのにと思いながら歩いたのだが、後から遍路地図を見るとそういう道もあったようである。しかし、前に述べたように山道のどこかで遍路地図コピーをなくしてしまったので、分かりやすく国道を進む他はないのであった。
荷稲(かいな)、小黒の川、不破原と真念「道指南」に載っている古くからの村を通り過ぎる。とはいえ民家は右手ずっと下の方にあり、国道の現地点表示にそう書いてあるだけである。伊与木川に沿って下り勾配のはずだが、山腹にある国道はアップダウンを繰り返すので楽ではない。
そして、朝から降り続く雨で、路面にはどこもかしこも大きな水たまりができている。トラックやトレーラーが通るたびに、歩道まで豪快に水しぶきを上げる。レインウェアを着けているので少々の水しぶきなら大丈夫とはいえ、頭から水をかけられると顔にまでかかって気持ち悪い上、スボンの裾からウォーキングシューズの中に水が入る。
こんな天気で歩いているから遍路と分かりそうなものだが、脇を通る際にスピードを落として、なるべくしぶきを上げないようにしてくれる車もある一方で、むしろスピードを上げてわざとしぶきをあげる車もある。遍路をよく思っていない人も多いということであろう。
こぶしの里から約1時間歩いて、ようやく伊与喜に着いた。土佐くろしお鉄道の駅がある街だが、それほど大きくはない。そして、この先に、一部でよく知られている熊井隧道がある。
熊井隧道は遍路地図にも載っているので歩き遍路のひとは通るところなのだろうと思っていたら、前の日の岩本寺で同宿した人達はみなさん知らないと言っていた。中には、何度も回っている先達もいらっしゃったので、予想に反して分かりにくいところにあるのかと心配していた。
ところが心配することはなく、伊与喜を過ぎてすぐの陸橋の前に大きな看板が立っていた。「88ヵ所参り、ご苦労様です。この先お遍路さんに人気のトンネルがあります。四国の道を堪能してください」とあり、分かりやすく大きな地図が描かれている。熊井隧道ではなく熊井トンネルと書いてあるけれども、これは見逃しようがないのであった。
国道から熊井トンネルに向かう田舎道に入る。田舎道とはいっても舗装道路なのだが、朝からの雨で道路の上に川のようになって水が流れている。トラックに水をかけられて靴の中が濡れてしまったが、ここでも水が入ってしまうかと心配になる。集落の中にも、曲がり角にはちゃんと案内があって、10分ほど歩いて最後は坂道を上がると、トンネルが見えてきた。
トンネルは全長90mとそれほど長いものではなく、自動車のすれ違いが困難なくらい狭いが、明治時代に造られた煉瓦造りの重厚なトンネルである。かつては多くの人々が通った道路だったが、いまや幹線道路からは外れ、わずかに遍路と地元の人達が通るだけである。この日はじめて傘をささずに歩けたのはたいへんありがたかった。
時刻はちょうど12時。トンネル出口で一休みする。誰も通らないかと思っていたら向こうから地元の人の軽トラックが走ってきたので、再び傘を手に雨の中へ。トンネルから先は下り坂で、やがて人家の先に土佐くろしお鉄道のトンネルが見えてくる。そして、行く手に土佐湾が見えてきた。前日の朝に土佐久礼を出て以来、久々に見る海である。
国道と交差する地点まで来ると、「道の駅なぶら土佐佐賀」がすぐそこにある。岩本寺から約20km、午前中の距離としてはそこそこ稼いで少々疲れてきた。そして、雨のあたらない場所というのがなにしろありがたい。道の駅の大きなレストランに入り、朝以来久々にレインウェアを脱いだ。
迷惑にならないよう他のお客さんから離れた場所にリュックを置き、食券売り場でカレーうどんをお願いする。前日までは定食類で攻めていたのだが、ずっと雨に降られて温かい汁物が食べたくなったのである。
[行 程]岩本寺 7:20 →(4.9km)8:30 お大師様分岐 8:30 →(1.8km)9:10 西尾自動車休憩所 9:20 →(3.5km)10:00 こぶしの里休憩所 10:15 →(6.0km)11:50 熊井隧道 12:00 →(1.2km)12:20 道の駅なぶら土佐佐賀(昼食)12:50 →
[Nov 25, 2017]
昼前に伊与喜到着。さんざんトラックに水を掛けられたので、熊井トンネルへのへんろ道に向かう。
このあたりは大雨。熊井トンネル前では、流れる雨で道が川と化している。この後トンネルの中で雨やどり。
再び国道と合流してすぐ「道の駅なぶら土佐佐賀」。ずぶ濡れのレインウェアを拭いて、しばし休憩。
土佐佐賀・幡多路
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
道の駅なぶら土佐佐賀の大きなガラス窓の向こうでは、あいかわらず強い雨が降り続いている。そろそろ午後1時、ここまでのペースは大雨にしてはまずまずだが、この先どうなるか分からないので、カレーうどんを食べると早々に出発した。道の駅のすぐ先が土佐くろしお鉄道の土佐佐賀駅である。ちょうど特急列車が止まり、中村方面へと発車して行った。
さて、この日エスケープルートとして考えていたのは、土佐くろしお鉄道の有井川駅を午後4時過ぎに出る便である。列車の間隔が長く、この前の列車は早すぎるし後の列車は遅すぎる。午後4時に乗って10分ほど先の土佐入野まで行けば、ネストウェストガーデンまで明るいうちに着ける。あと3時間でそのあたりまで行けるかどうか、地図がないのでちょっとあせる。
土佐佐賀駅のすぐ先が横浜トンネルで、600m以上ある。トンネル前に休憩所があったが、大雨なのでトンネルの中を歩いている方が休める。幸いに歩道も完備されている。10分くらい、風にも雨にも苦しめられずに歩くことができた。
トンネルを出ると、左手海側に大規模な公園が見えてくる。その向こうは太平洋、ふり返ると、いま通ってきた横浜トンネルの外は奇岩のそそり立つ岬になっていて、たいへん眺めがいい。晴れていればゆっくりしたかったけれど、あいにくの天気である。午後1時半、ドライブイン幡多路の横を通過。
この頃から、傘の内側から雨漏りがして、ほとんど役に立たなくなってしまっていた。降り続く雨で防水機能が失われてしまったのか、あるいは一定時間以上の雨には耐えられない仕様だったのか。まあ、安い折り畳み傘にそこまで期待することはできないだろう。そして、道が海沿いになったため時折突風が吹いてくるので、骨が逆に曲がってきしむのであった。
午後2時、土佐白浜を過ぎたあたりで、とうとう傘が折れてしまった。ちょうど東屋があったので傘を収納し、レインウェアのシェードを深くして傘なしで歩く身支度をする。こういう場合、壊れた傘であってもないよりましという事態がありうるから(藤井寺の時に体験済である)、濡れた傘はリュックの外ポケットにしまう。
そして、いよいよ傘のない状況で歩き始める。もっともこの時は、風が吹いてきて雨が横殴りになっていて、傘があってもなくても同じ状況であった。そして、身を縮めて、海沿いの道をひたすら前に進む。気が付くと道が前方で90度右折し、井の岬トンネル320mが見えている。時刻は2時40分、このトンネルを越えると有井川だから、4時のエスケープルートは楽勝である。
トンネルを出ると水田地帯を見下ろす下り坂で、心なしか雨も小降りになったような気がした。国道と土佐くろしお鉄道が再び合流したあたりで午後3時、自動販売機があったのでペットボトルを買って小休止する。先が見えてきたので元気が出てきた。でも、ここまで来たら、翌日のためにも宿まで歩いてしまいたい。
有井川の次の駅が「うみのおおむかえ」(と、遍路地図にひらがなで書いてある)という駅で、どういう意味だろうと思っていたら「海の王迎」と漢字で書いてあった。だったら「うみのおうむかえ」でないとおかしいが、いずれにせよ鯨が取れた浜なのだろうと思う(ただ、翌朝ホテルのお姉さんに尋ねたところ、「さあ・・・何でそういう名前なんでしょうね」と言われてしまった)。
有井川で小休止したのが午後3時、それから1時間ちょっと歩いて大規模公園のある分岐点に着いた。このまま国道を進むと道の駅ビオスおおがたになるが、そちらには行かずに公園内の散策路を進む。道案内があるので、この先がネストウェストガーデンのはずである。左手に防砂林が続く道で、ここからが意外と長かった。
散策路は松林の中に入り、しかも分岐点が頻繁に出てきて案内もないので不安である。そして、また雨が強くなってきた。海沿いに進めば間違いなく着くはずと自らを元気づけて30分、40分と歩き続ける。
午後5時前、あたりが薄暗くなった頃になってようやく、ネストウェストガーデンの円形の外壁が見えてきた。結局この日の歩数は59,747歩、距離は35.1kmと、荒天にしてはたいへんな距離を歩いたのでありました。
土佐佐賀駅を過ぎて横浜トンネル前。土佐くろしお鉄道と国道が並行する。トンネルを過ぎた土佐白浜でとうとう傘が壊れた。
午後3時、井の岬トンネルを過ぎて有井川。雨は少し小降りになるが、この後も断続的に激しくなる。
道の駅ビオスおおがたを過ぎて海沿いの道に入る。このあたりからは松林が続く。晴れていれば気持ちのいい道のはず。
この日の宿はネスト・ウェストガーデン土佐。このあたりには数多くの民宿があるけれども、この回の区切り打ちではゲストハウス・宿坊と続いたので、3泊目は自由がきいて洗濯できる可能性も大きいホテルを選んだのである。1泊2食7,200円だから、お値段もリーズナブルである。
フロントまでたどり着いた時にはずぶ濡れだった。そして階段を上がって2階の部屋が畳敷きだったので、濡らさないように狭い靴脱ぎスペースにリュックを下ろし、レインウェアを脱ぐ。まずは着ているものを全部脱いで、宿の浴衣に着替えた。
そして、濡れたものを持って円形廊下を進んだところにあるコインランドリーに向かう。幸いなことに、乾燥機とは別に物干しスペースがあったので、部屋にレインウェアとリュックカバーを取りに戻る。ここに干しておけば夜の内に乾くだろう。
あの雨なら仕方がなかったが、リュックカバーをしていたのにリュックの中は水浸しになっていた。納経帳や着替え類は防水袋に入れてあったので大丈夫だったけれど、そのままリュックに入れていた遍路地図コピーや前日までのレシート類はぐっしょり雨に濡れてしまっていた。修復不可能なものは捨てて、大丈夫そうなものはテーブルの上に広げて乾かす。
そして、まずはお風呂。1階に下りて別棟の大浴場へ。湯船は広く、窓からは防砂林の松林がうっすらと見えるが、まだ雨が降っていて薄暗い。土砂降りの中を歩いて来た割には、それほど体は痛くない。ゆっくり湯船に浸かって手足を伸ばし、1日の苦労をねぎらった。
部屋に戻って、洗い終わった洗濯物を乾燥機に入れて再び荷物整理。折れてしまった折り畳み傘は、ひとまず広げて乾かしておく。そんな傘でもないよりましという万一の事態に備えるためである。夕飯はお風呂と洗濯があるので7時からお願いしたが、宴会がその時間に入るのでちょっと遅れて入ってもらうとありがたいということだったので、15分ほど遅れてレストランへ。
うれしいことに、私が予約したお遍路プランは飲み物サービスが付いたので、生ビールをお願いする。サラダとスープ、ビーフカツと野菜炒め、ライスという洋風の夕食だったが、1日ハードだったのでたいへんおいしくいただいた。夕飯の後は1階にあるケーキショップに寄ってケーキを購入。ポットのお湯でインスタントコーヒーを淹れて、部屋でまったりする。
翌朝はホテルの食事が午前7時からなので、ゆっくり起きる。雨はすっかり上がって、ホテルの窓越しに松林、その向こうに海が見える。ゆっくり景色を楽しむには、やはり天気が良くないといけない。1日雨に降られて体調が心配だったが、ゆっくり休んで何ともないのはありがたいことであった。
「トーストとスコーン、どちらがよろしいですか?」と聞かれたので、せっかくだからスコーンをお願いする。トマトとレタス、スパゲティのサラダとスープ、ヨーグルトが付く。ずいぶん遠くまで来たのに、スコーンなんてしゃれた朝ごはんである。
さて、この日は四万十川を渡り、新伊豆田トンネル1600mを越えて真念庵、さらに下ノ加江までの行程である。真念庵に寄り道することを考えても25kmほどの距離なので、出発はゆっくりでいいだろうと午前8時スタートとした。前日お世話になったレインウェアとリュックカバーはすっかり乾き、小さく格納してリュックの中へ。この日はいっぽ一歩堂の速乾白衣上下である。
ありがたいことに、ホテルにお遍路ルートの案内地図が置いてあったので、それに基づいて歩く。ホテルから海沿いを入野漁港方向へ歩き、前日に歩いた国道56号線には戻らず、県道・広域農道経由で四万十大橋を渡って足摺方面に向かうルートである。
約1時間歩いて、海沿いの公園から県道に出た東屋に、前々日に岩本寺に泊った人達が休んでいた。ネストウェストガーデンでは見かけなかったので、おそらく途中の民宿に泊まって、早くに出発したのではないかと思う。
[行 程]道の駅なぶら土佐佐賀(昼食) 12:50 →(8.5km)15:00 有井川 15:05 →(8.0km)17:05 ネストウェストガーデン(泊) 8:10 →
[Dec 9, 2017]
濡れた雨具を干し、着替えて風呂に入りようやく一息つく。ネストウェストガーデンのお遍路パックの夕食。メインディッシュ前のサラダとスープ。
強行軍の後、たいへんお世話になったネスト・ウェストガーデン土佐。翌朝はありがたいことに雨は上がった。
番外霊場真念庵
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
遍路地図によると、土佐入野から四万十川を渡るまでのルートとして (1) 国道を通って中村市街から四万十川を渡るルート、(2) 国道を通らない四万十大橋への最短ルート、(3) 海沿いを進んで下田の渡しを利用するルート、の3つが描かれている。
その中で、(1)のルートは中村に宿を取る場合以外は遠回りになるし、(3)のルートは渡し船の予約が必要となる。したがって(2)のルートをとる人が多いと思われるが、このルートがホテルでいただいた地図で推奨している広域農道の道なのであった。
県道に合流するまで予想外に時間がかかってしまい、この地図の縮尺は現実と違っているのではないかと疑問を持つほどであったが、県道に出てからは逆にどんどん距離が出て、30分ほどで広域農道への分岐点を通過した。広域農道だけあって水田地帯の中を通るまっすぐな道で、遍路シールもなければ案内板もないのが少し不安なところである。
そして、四万十川が近づくあたりから、急に行き交う人が多くなった。向こうから断続的に何人かのグループが歩いてきて、それがずっと続く。ところどころ幟りが立てられていて、この日は「四万十ウォーク」というイベントらしい。意識していなかったが、前日まではウィークデイ、この日は4月1日土曜日なのであった。
すれ違う人から、「こんにちは」「こんにちは」と声がかかる。ありがたいけどうっとうしいな、などと罰当たりなことを考えていたら、ご年配の男性の方が100円玉を5枚持って、「お遍路さん、これでジュースでも飲んでください」とご接待してくださった。
「ありがとうございます」とお礼を言っていただく。その時は、ジュースを飲む訳にもいかないから金剛福寺でお賽銭にしようと思ったのだが、妙なもので最終的には飲み物代になってしまったから不思議なものである。こういうケースをお大師様の思し召しというのかもしれない(詳しくは金剛福寺のところで。たいへんに助かった)。
「四万十ウォーク」の人の列は、四万十大橋を渡るまで続いた。時刻は午前10時半、ネストウェストガーデンを出てから四万十大橋まで約2時間半であった。もし早くに着いたら川っぺりでのんびりしようと思っていたのだけれど、とてもそういう雰囲気ではない。とりあえず、休まずに人のいないところまで行ってしまわなくてはならない。
四万十大橋を渡ったところで四万十ウォークの順路と別れ、ようやく人混みから逃れることができた。とはいえ休むところも見当たらないので、四万十川に沿って下流へと進む。そして、再び地図のマジックが出現して、四万十川に出るまで飛ぶように距離が伸びたのに、四万十川に出てからはなかなか次の曲がり角までたどり着かないのであった。
橋を渡って左手になった四万十川を見ると、清流として名高い川にもかかわらず、水面は茶色く濁っている。昨日一日あれだけ激しい雨が降り続いたからやむを得ないのかもしれないし、河口に近いからなのかもしれない。
四万十大橋のあたりは中村市街に近く、それなりに開けた場所だったのであるが、歩くにつれてどんどん田舎になる。四万十大橋から1時間歩いた頃、ようやく道は四万十川から離れて山の方向に入った。大きな公園が見えてきて、トイレがある。四万十川のあたりで休憩できなかったので、ここで休むことにした。
四万十大橋に向かう広域農道。水田の脇をどこまでもまっすぐな道路が続く。思ったより距離があって、ホテルから四万十大橋まで2時間半かかった。
四万十川で少しゆっくりする予定が、「四万十ウォーク」開催中で混んでいるので先に進む。ご接待をいただいて、それで後日たいへん助かった。
四万十大橋に到着。前日の雨のせいか、水は茶色だった。これから後方に見える山を越えて行く。
ネストウェストガーデンから四万十川を渡っておよそ3時間、休憩もとらずトイレにも行かないで歩いてきたので、公園で小休止したらいっぺんに疲れが出た。時刻は11時過ぎ、ちょっと早いけれどもお昼にしよう。
公園の前にあった「うどん田子作」はのれんが出ていたので、もう営業しているようだ。この先にもレストランがあるようだが、これだけ車通りが少なくなるとやっていないことも考えられる。ちょっと戻るけれども「うどん田子作」へ。
中に入ると、おでんがおいしそうに煮えている。うどんの他におでんをお願いしようとすると、「定食のおかずにすることもできますよ」ということなので、うどん定食にする。前日と打って変わって好天で、冷たい水がおいしい。うどんとご飯で炭水化物がダブったが、おでんの練り物に辛子をつけるとちょうどいいアクセントになった。
昼食休憩30分で、11時45分に出発。歩き始めて間もなく、標高30mほどの山ともいえない小山の木々が伐採されて、「大」の字の模様になっている。ネストウェストの案内にも書いてあった「小っさな大文字焼」である。もちろん京都の大文字焼のイミテーションなのだが、最近になって地域おこしで作られたのだろうと思っていたら、実は違った。
案内板によると、応仁の乱を逃れてここ中村に疎開してきた前関白一条教房卿をお慰めするため、京都と同様に大文字焼きを行ったのがはじまりという(一条教房の弟が大乗院日記目録・雑事記等で知られる興福寺大乗院の尋尊である)。応仁の乱といえば15世紀半ば、札所再興で知られる蜂須賀や山内の殿様より200年近く前の話である。
このミニ大文字焼を過ぎて坂を登ると、峠前最後の集落となる津倉渕である。街道に沿って、二三十軒の民家が並んでいて、後ろはすぐ山である。足摺岬まで38kmの標識がある。38kmといえば、1日歩けばなんとかなる距離である。いよいよ近づいてきた。
ただ、この津倉渕の民家が見えなくなると、スイッチバックの登り坂をひたすら登る苦しい道となる。四万十大橋からは再び国道(56号ではなく321号になる)なので歩道はちゃんとあるものの、カーブが緩い国道規格なので、ずいぶんと歩かされる。そういえば、トンネルがあるということは峠道であり、トンネルまで登り坂なのは当り前なのであった。
「田子作」からちょうど1時間歩いて、新伊豆田トンネルが見えてきた。そして不思議だったのは、ここまで30分以上民家がないところを登ってきたのに、大きなお寺がトンネルの左手に見えたことである。今大師寺という由緒あるお寺さんなので行きたかったが、ここまで坂道を登ってきて登り坂を歩く気力が残っていなかった。
しばらく息を整えた後、1600mのトンネルに入る。車通りは結構多い。おそらく、中村から土佐清水・足摺岬に向かうルートが限られるためだろう。遠くが明るくなっているのは、トンネルの向こう側なのか車のライトなのかよく分からない。後からGPSを調べると、トンネルに入ってから出るまで25分かかっていた。2km近いから、それくらいかかるのは仕方がない。
トンネルを出て驚いたのは、下り始めてすぐに車の修理工場みたいなのがあって、その向こうが名高い「ドライブイン水車」だったことである。津倉渕からトンネルの入口まで長かったので、出口から人里までも同様に長いのかと思っていた。午後1時20分、ドライブイン水車着。
さて、ここから真念庵までの道がよく分からない。ドライブイン横の山道がそれらしいが、納経所は山の上ではなく人里にあるはずだ。遍路地図に書いてある「真念庵納経所・大塚様」に電話をして尋ねたところ、やはりドライブインの少し前にあったT字路を500mほど行くようだ。ドライブイン水車から戻ってT字路を左(トンネルからだと右)に折れる。
この道は、足摺岬にある金剛福寺から宿毛の延光寺に直行する際、打ち戻って進む道でもある。 そういう要衝でもあることから、真念「道指南」でも「篠山へ向かう場合は真念庵に荷物を置き、月山へ向かう場合は荷物を持って行く」と書かれている。T字路の先に続く集落を市野瀬といい、その一軒が納経所となっている大塚様宅である。
うどん田子作から少し歩くと、小さな大文字焼が登場。イミテーションかと思ったら、室町時代から続く由緒正しいもの。
ミニ大文字から登り坂を上がると津倉渕。峠前最後の集落である。ここからの登りがしんどい。
新伊豆田トンネルは1600m続く。トンネル前に建つのは今大師寺。登り坂がしんどくて、お参りする体力的余裕がなかった。
「ごめんください」と声をかけると、大塚様のご夫婦が現われた。札所のようなものものしさはなく、普通の民家の縁側でご朱印を押していただく。五社と違っていたのは、由緒書きとかいろいろ置いてあったことで、江戸時代以来の歴史説明や新聞記事があった。
ご朱印は古いものと新しいものとどちらにするか尋ねられたので、せっかくここまで来たのだから両方お願いする。どちらも筆ではなくスタンプで、古い方には「奉納経 本尊地蔵弘法大師 土佐幡多郡足摺打戻 市ノ瀬山眞念庵」、新しい方には「奉納経 本尊地蔵 土佐幡多郡市瀬山 眞念庵」とある。「弘法大師」と「足摺打戻」の文字があるかないかの違いのようだ。
ご朱印をいただいていったん県道に戻り、案内に従って坂道を登って行く。さきほどの大塚様宅の裏手を通ってさらに登ると、苔むした石段が現われる。幅は2~3mあるから、そこそこの広さである。石段を登り詰めると、右側に真念庵がある。トタンで覆われた、あまり立派とはいえない建物である。
薬王寺と鯖大師の間にある小松大師よりもみすぼらしいかもしれない。参道をはさんで本堂の逆側には、一番霊山寺から八十八番大窪寺までのご本尊が刻まれた石仏がまとめて置かれている。真念「道指南」によると、かつてはお遍路が泊ったり荷物を置いた大師堂があったということだから、これらの石仏も古くはお堂の周囲を取り巻いていたものをまとめたのだろう。
その晩、宿で真念庵の印象を残したメモがあるので、そのまま書いてみる。
「道指南にも書かれている旧跡にもかかわらず、荒廃している。建物の現状は杖蓮庵(注.焼山寺道の道中にある一本杉のお堂)と似ているかもしれない。せっかく足摺岬への丁石スタート地点というのに、惜しいことである。
湿気のせいだろうか、参道も庵室も苔で一杯である。リュックを置く場所もない。せめて、長戸庵(注.こちらも焼山寺道にあるお堂。きれいに建て替えられ整備されている)のように鍵をかけてきれいにし、納経箱くらいは置けないものかと思った。
往年をしのぶよすがとなるのは、八十八ヶ所のご本尊を刻んだ石仏群のみ。それも、ブロックの上に88並べられているのは、区画整理の際にまとめられた石仏が道端に並べられているようであり、もの悲しい。
ここから足摺に向かう山道には、丁石が4つ5つと並んでいる。もはや彫られた字を読むことはできず、教育委員会の「これは丁石です」という看板がなければ、その由来を知ることはできない。この丁石は一丁(約100m)間隔で足摺岬金剛福寺まで続いていたが、今日ではその多くが失われてしまったという。
せめて、長戸庵のように整備できないだろうかと考えながら歩いた。土佐清水市の教育委員会にそこまでの予算はないだろうし、そもそも宗教施設に地方公共団体の予算は使えないだろう。
県道沿いのお宅でご朱印をいただけるのだが、あまり人も来ないだろうと思うと、かえって気の毒でもある。」
[行 程]ネストウェストガーデン 8:10 →(9.7km)10:30 四万十大橋 10:30 → (3.6km)11:15 うどん田子作 11:45 →(5.5km)13:15 真念庵(ドライブイン水車) 13:55→
[Dec 30, 2017]
トンネルを越えてすぐ、三叉路を折れて500mほどで真念庵納経所の大塚様宅。山に向かって少し登ると真念庵への石段。
真念庵。かつて多くの遍路を泊めた大師堂で、足摺岬への丁石のスタート地点でもあった。
しかし今日では訪れる人も少なく、納経箱も見当たらない。八十八ヵ所のご本尊石仏だけが、当時をしのぶよすがとなっている。
三十八番金剛福寺
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
真念庵を出て、行きとは逆方向に山道を行く。お堂は荒廃気味だったのだが、参道は道幅こそ狭いけれども整備されている。丁石がいくつかあったので、ドライブイン水車まで4~500mは歩いただろう。
ちなみに、ドライブイン水車は現在大判焼き屋さんになっていて、同じ敷地内には別に屋台の食堂としゃれたカフェがある。駐車場は広く、トイレも休憩所もある。せっかくなので、ドライブイン水車で大判焼きを買って休憩所のベンチで休む。腰をおろしたのは「うどん田子作」以来で、峠を登って1600mのトンネルを越え、真念庵まで往復してきたのでちょっと疲れた。
さて、実はこの日のスケジュールは余裕含みだと思っていて、それもあってネストウェストガーデンの出発は8時とゆっくりだったのだが、実際歩いて見るとそんなに楽ではなかった。ことに真念庵で1時間以上かかってしまったので、ドライブイン水車前の休憩所を出たのは午後2時半になってしまった。
計画段階では、下ノ加江まで早く着くようであれば、もう少し先まで歩いて翌日の足摺岬を楽にしようかとか考えていたのだけれど、結果的にそこまで心配する必要はなかったのであった。いずれにせよ、当日以布利方面から戻ってくるバスはあるのだが、翌朝以布利への始発が9時過ぎなので、あまり先に進む意味がないとは思っていたのだが。
ドライブイン水車から下ノ加江まで、下ノ加江川に沿って水田地帯が続く。しばらくは交通量の多い国道沿いを歩くが、集落に入るあたりで国道から右に分かれる道がある。国道は時折トラックが飛ばすのでここで右折、水路が流れる農道を歩く。右手は水田だ。まだ4月はじめなので関東では田植えはまだ先だが、さすがに南国高知はすっかり水が張られている。
農作業中のみなさんの横を通って海の方向へと向かう。貯水池があり、再び人家がとだえて小高い丘の麓を抜けていく。右手の山を越えると三原村から延光寺に向かうようだ。今回はこの道は使わない。
川を挟んで国道沿いは、こちらの道よりずいぶんと賑やかなようだ。この日の宿であるロッジカメリアは素泊まりなのでコンビニに寄りたいし、懐具合も寂しいので郵便局に行けたらいいのだが、それらがあるのはどうやら国道沿いの道のようだ。それでも、車通りがほとんどないのどかな道なので、のんびりと1時間ちょっと歩く。
いよいよ街が近づいたと思われる頃、カラオケ店の看板のすぐ先に、突然という感じで「ロッジカメリア」が現われた。時刻は午後4時、もう入ってもいい時間帯である。郵便局やコンビニに行けないのは気になったが、疲れていたこともあり、そのままチェックインした。
さて、中村市街を過ぎて足摺岬までは、たいへんに宿の少ない地域である。宿が少ないだけでなく街と街の間の距離があるので、歩き遍路にとって厳しいルートでもある。そして、岩本寺から2日後の宿はWEBで「某民宿」を奨める例が多く、行程としてもちょうどいいのだが、よく探すと対応があまりよくないという情報もあるのだ。
その情報というのが、食事を写真撮影しようとすると、すごい剣幕で怒られてデータを消させられるというのである。これは私にとって問題外の対応である。こうした「選択肢が限られる」宿には、えてしてあまりよくない噂が聞こえてくる(徳島にもそういう民宿があった)。嘆かわしいことである。
食事の写真を撮って怒鳴られたら2、3日気分が悪くなる。そこで、この日の行程がやや短くなるきらいはあるのだけれど、下ノ加江にある「ロッジカメリア」を予約した。こちらの宿は3000円の宿泊費で、朝晩の食事がご接待というたいへん良心的な価格設定である。翌日は早出となるので、朝食は付いていなくても全く問題がない。
ドライブイン水車の前を通り、下ノ加江までは川に沿って下って行く。バス停のあたりで国道からへんろ道に入る。
下ノ加江から峠を越えて、三原から宿毛に至ることもできる。「R56」は国道だが、「R21」は県道である。
再び国道と合流するところに、ロッジカメリアがある。歩き遍路専用宿だが、最近自転車遍路も認めているそうだ。
この「ロッジ・カメリア」、WEBでは評判がいいので期待していたら、それ以上にいい宿だった。何しろ宿泊費が3,000円、なのに夕食(カレー)と朝食(パン)がご接待なのである。部屋は洋室のベッドで、これがまた疲れた足腰には大変ありがたい。椅子にすわってベッドにゆっくり眠って、疲れが飛んで行ってしまった。
宿に着いて「いまお風呂入れてますから」と言われたのだが、すぐに部屋に案内があり一番風呂をいただいた。大きさは普通の家庭風呂で、使ったらお湯を抜くようにとのことだった。お掃除も行き届いていて、たいへん気持ちがいい。
脱衣所には洗濯機があって、これもご接待でお願いできるという。乾燥機はないので、部屋のハンガーに掛けて干すのだが、全く問題なく夜中までには乾いた。
お風呂をいただいてから、荷物の整理をする。ここまでの宿がゲストハウス恵、岩本寺宿坊と和室続きだったので、椅子やベッドに腰かけることができるのはたいへんに気持ちがいい。せっかくなので、机に資料を広げて真念庵の感想をメモする。そうこうしている間に夕飯の時間となった。
この夕飯というのがこれまた予想以上で、大盛りのカレーにピクルス、レタスとミニトマトのサラダとフルーツも付いている。ご接待というよりも、こういう食事を求めていたのだという印象であった。
カレーはおそらく業務用のレトルトだが、高知市内から何日も歩いて来てこの味というのがかえって新鮮だった。大盛りはたいへんありがたく、残さずいただいた(体格を見て、増やしていただいたのだろうか)。夕食のトレーを戻しにロビーに行くと、この日の同宿の方が現われた。
それがなんと、前々日に岩本寺でご一緒し、市野瀬遍路道の急坂でお会いした「自称時速3km」のお姉さんである。後で聞いたら前日は上川口の民宿だったそうなので、この日は私よりも6kmほど後ろからスタートしたことになる。それでも到着が約1時間遅れだから、ほとんど私と同じスピードで歩いて来たのである。
夜になって、このお姉さんとともにご主人から情報収集する。この先足摺岬まで気を付ける場所は、以布利に入って小学校の先を左に入る道を見逃さないこと。まっすぐ進んでも着くことは着くがずいぶん遠回りになる。そして以布利を過ぎるとお昼を調達できる場所はほとんどなく、窪津の漁協売店でお弁当を買うか、漁協の食堂で食べるかしかないということであった。
ご主人はもともと関西に住んでいて、お遍路もずいぶん歩いたそうである。「でも、一泊すると安いところでも6千円くらいはかかるから、八十八回ると何十万円もかかってしまう。それじゃ若い人はとても無理だから、こういう宿をご接待でやっている」とのことである(ちなみに、2000年代の写真をみると、いまロッジカメリアのある場所は遍路情報館だったらしい)。
だから本来は歩き遍路専門宿だったのだが、「若い子に、自転車で回るのだって大変なんだよ、と説得されて」サイクリングお遍路までは認めることにしたんだそうだ。そして、価格が価格なので「毎日予約が入るのはありがたいが、忙しいばっかりで」とのことである。カレーもおいしいし、施設も清潔なので、長くがんばってほしい宿である。
翌朝は午前4時過ぎに目が覚めた。前日9時前に床についたのと、この遠征はじめてのベッドでぐっすり眠れたからである。まだ夜中なので物音をたてないように支度する。リビングのポットでインスタントコーヒーをいれて、お接待でいただいたパンを食べる。
前の晩、宿の奥様に「明日の朝は早く出ると思いますので、ご挨拶しないで出かけさせていただきます」と申し上げたところ、「5時過ぎでしたら、鍵は開けておきます」とありがたく言っていただいた。騒がしくならないように、電動ハブラシは遠慮して使い捨てのハブラシを使って歯を磨く。まだ真っ暗な中、出発は午前5時20分。これから足摺岬経由土佐清水まで行かなくてはならない。
ロッジカメリア客室。テーブル・椅子にベッドは、歩き続けてきた足腰にたいへんありがたい。
夕食のカレーはご接待。十分な量があります。ロビーにはコーヒーとかちょっとしたお菓子があるのも気が利いている。
翌朝は夜が明ける前に出発。朝食のパンもご接待で、たいへんありがたい。
まだあたりが真っ暗な中、宿から緩やかな坂道を登って行く。10分ほど登ったところに自販機があり、ペットボトルの水を調達する。この日は、今回の遠征では最も難しい長距離の歩きになる。目標は正午に金剛福寺通過だが、まずは中間点にあたる以布利を目指す。以布利まで約10km、以布利からは約12km。8時半か9時に以布利に着くことができれば大丈夫そうである。
ほどなく空が明るくなってきた。振り返ると、岩の多い海岸に波が打ち寄せており、その後方にロッジカメリアのある下ノ加江の灯りが見える。海沿いの国道を登り下りしながら進んでいく。
道の右側、階段を登った場所に民宿が一軒。そこを抜けて入り江になっている海岸を道なりに進み、午前6時ちょうどに噂の某民宿を通過する。あるいは、「時速3kmのお姉さん」以外の岩本寺組は、ここに泊まっているのかもしれない。朝食はいま時分だろうから、30分か1時間は先行できただろうと思う。
そこから15分ほど歩いた岬の突端のようなところに、廃屋があった。「民宿・ドライブイン」とモルタルの建物に直接ペイントしてある。室内にはブラインドがかけっぱなしになっていて、もう何年も放置されているように見えた。目の前は太平洋という絶好のロケーションなのに、結局は建設会社を儲けさせただけに終わったようだ。もったいないことである。
さらに歩くと、7階建て位のそれほど築年数のたっていない白い鉄筋の建物が見えてきた。場所からみて高齢者福祉施設に違いないと思って近くまで歩いて行くと、すぐ横に「海癒の湯」の看板と別棟の木造の建物がある。とすると、これは福祉施設ではなくリゾートホテル(マンション)なのだ。経営が成り立つことを祈りつつ、先に進む。
「海癒の湯」のあたりから、左手下方向に大岐海岸が見えてくる。後方には小高い丘と山の緑、手前には横に広がる海岸、そして海。砂浜には見る限り商業施設のようなものは何もない。季節が秋だからか朝早くだからか、誰もいない砂浜はたいへんに静かであった。この海岸を歩く遍路道もあるらしいが、案内も見つからないのでおとなしくずっと国道を歩く。
国道は海岸の裏手にある丘を回り込むように続き、そこに大岐の集落がある。すぐ裏が砂浜なのに、水田があるのには驚いた。「国道321号 足摺サニーロード 足摺岬まで20km」の道標の下を通る。時刻はちょうど7時。あと20kmだとちょうど正午に着く計算となるが、国道は以布利から土佐清水に続くので、以布利から直接足摺岬に向かえばもう少し短くなるはずである。
大岐集落を抜けると、次の街が以布利である。前の晩ロッジカメリアのご主人が言うことには、「足摺まで間違いやすい交差点は以布利だけ。学校のところから道なりに進むと遠回りになるから、左に曲がること。まあ、遠回りでも着くから大丈夫だけど」ということであった。確かに、行先表示をみると、どちらでも足摺岬に着く。車ならたいした違いはないかもしれないが、歩きだとかなりの違いになる。
それよりも迷ったのは、小学校の角を曲った後、家並みの真ん中で、右にも左にも遍路道表示があったところである。右は道なりに続く舗装道路で「市内経由金剛福寺 17.2km」とあり、左は細い道に「窪津経由金剛福寺 13km」とある。きっと右は車で左は歩きなのだろうと考えたが、あとから考えると、短い方は山道を経由するのでどちらでも時間は変わらないのであった。
もちろん左の細い道を進んだのだが、すぐに車も通れる舗装道路になって、そこから海岸に向けてゆるやかに下って行く坂である。左手に海、そして港の大きな建物が見えてくる。その建物の近くまで行くと、そこに休憩所とトイレがあった。時刻は7時45分。約2時間半歩いたので、ここでリュックを下ろして一休みすることにした。
この休憩所を「じんべえ広場」といい、あたりの建物のどこかでジンベエザメを展示しているらしい。屋根のあるベンチとトイレがあるし、金剛福寺までちょうど行って帰って1日の距離になるため、歩き遍路にはよく利用されているらしい。前の晩にいただいたご接待のパンの残りを食べる。ここから先、足摺岬まで休むところはあまりないようなのだ。
左手に見えてきた大岐海岸。秋のためか朝早いためか、とても静かだ。
海岸から見える丘のすぐ裏が大岐の集落。砂浜が近いのに水田が開けている。
以布利港にあるじんべえ広場。ロッジカメリアから2時間半と休み頃で、歩き遍路の人には便利な位置にある。
じんべえ広場でゆっくりして、午前8時出発。あと約12kmだから、うまくいけば11時頃には着くかもしれない、と期待したけれども、もちろんそんな甘くはなかった。じんべえ広場から県道に復帰するまでの道のりが楽ではなかったからである。
まず、じんべえ広場のある以布利漁港から堤防沿いに、海からゴミが流されている海岸を進む。あまり歩きたい道ではないが、「遍路道→」の表示があるのでここを通るしかない。海沿いにしばらく行った後に、急傾斜の山道になる。もちろん、歩きでしか通れない道である。道幅も狭く、じめじめしている。滑りそうだし、まむしとかがいてもおかしくない道である。
ようやくこの登りをクリアすると、民家の裏手に出る。ここから道なりに進むのだが、海に沿ったくねくねした道を歩くので、とても長く感じる。道はこれで正しいのだろうかと不安になるあたりで、ようやく県道の太い道に出る。以布利漁港から窪津漁港まで、まるまる1時間かかって9時に到着した。
ロッジカメリアのご主人によると、ここ窪津漁港が足摺岬までの間で唯一お昼を食べられる場所で、弁当も売っているということだったのだが、まだ時間が早いせいかお店には何も出ていなかった。
そして、郵便局を探したのだが、県道沿いには見当たらない。前日から手持ち現金が乏しいことが気になっていたのだが、以布利ではまだ9時前で郵便局が開いていない時間だったし、この窪津は街が小さすぎる。苦労して探しても簡易郵便局で、キャッシュカードコーナーがないかもしれない(後から調べると日曜日の取扱いはなかったので正解だった)。
窪津の港では海抜5mくらいの高さを通っていた県道が、徐々に登って海抜50mくらいになる。おそらく津波があっても大丈夫ということだろう、ここに小学校があった。鉄筋の立派な校舎だったが、残念ながら最近になって閉校されたらしい。
足摺岬に行くには半島東側のいま通っている道を進むか、いったん土佐清水に出て西側から進むかになるのだが、いま通っている東側には車通りがほとんどない。もともと、車のすれ違いが困難なくらい細い道が多いのだけれど、さきほどから見ていると通るのは路線バスか地元の軽トラックばかりである。小学校が閉校になるのも仕方ないくらい子供の数が減っているのだろう。
窪津漁港から再び1時間歩くと、足摺岬までの最後の集落、津呂である。下り坂に沿って多くの民家がある。集落の入口に「お休み処」の看板があったが、店の人もお客も誰もいなかったのでやっていたのかどうか分からない。
そして、道沿いに待望の郵便局の表示があった。それなり大きな建物で横に役場か農協らしき施設もあったので期待したのだが、「日曜日は取扱いしておりません」だった。掲示をみると簡易郵便局だったので仕方ないのだが、これで足摺岬までおカネを補充できないことが確定してしまった。
津呂の家並みを過ぎると、足摺岬までは一本道である。真念「道指南」によると、足摺までの最後の集落はつろ村(津呂)の次に大谷村があるのだが、現在ではひとつながりになっていて区別がつけにくい。郵便局の先からが大谷村だったようである。
このあたり、遍路地図をみると大きなカーブをショートカットする道があるように書かれているのだが、その道を見つけることはできなかった。その代わりに、たいへん多かったのは道路工事である。
何ヵ所かで道幅を広げたり舗装を直したりしていて、そのため脇道が通れなくなっていたのかもしれない。とはいえ、遍路地図でみるほどにはカーブで距離を損しているという気もしなかったので、県道を道なりに歩いても特に問題はない。
10時45分、県道上の表示が「足摺岬2km」となった。あと30分、どうやってもお昼前には金剛福寺に着くことができる。土佐清水3時半発のバスも何とかなりそうだ。実は2kmというのは結構長いのだが、気分がいい時にはどんどん進む。やがて熱帯のような木のトンネルとなり、ジョン万次郎の銅像が見えてきた。
11時10分、足摺岬到着。ロッジカメリアから6時間弱で着くことができた。
以布利港の傍を通って、遍路道を進む。
その後は、いろいろなものが流れ着いている海岸を通り、さらに急傾斜の森の中を登らなければならない。
足摺まで2km地点に到達。遍路地図にはいくつかショートカット道が描かれているが、工事中のためか県道以外のへんろ道は見つからない。
蹉陀山(さださん)金剛福寺。「陀」は足偏であり、蹉陀と書いて「あしずり」と読んだ。足摺岬の地名も、昔は「蹉陀」と「足摺」が併用されていたようだが、明治になって地名の方は「足摺」に統一された。
だから、旧来の字で残っているのは、金剛福寺の山号だけと思っていたのだが、県道沿いに立っている山門の碑文には「足摺山金剛福寺」と彫られている。文科省に配慮してのことだろうか。ご詠歌では「蹉陀山」が使われていて「さださん」と読む。「あしずりやま」と呼んだのでは7字に収まらない。
山内には多くの施設があると真念「道指南」にも書いてあるので大きな境内を想像していたら、意外とコンパクトである。中央に池があり、その周囲にお堂が配置されている。入って正面が本堂、左に折れて大師堂、さらに奥に庫裏が続いている。池を挟んで本堂の反対側には仏足石がある。
おそらく庫裏の奥に宿坊があるのだが、外からはよく分からなかった。聞くところによると団体の宿泊予約があるときだけ開くのだそうで、あるいは他の旅館・民宿に配慮しているのだろうか。足摺岬には多くの旅館・ホテル・民宿があるが、このご時世だから外国人旅行客頼みで、遍路までお寺に泊まられては商売にならないかもしれない。
3日振り、そして今回の遠征では最後となるお経を上げ、納経所でご朱印をいただく。池のまわりを一周すると境内はぼ見終わってしまい、時刻はまだ11時半を過ぎたばかりだった。この日予定していた土佐清水発のバスは15時30分だから、かなり余裕がある。
という訳で、この区切り打ちでは恒例となったきちんとした昼食をとろうと山門前の食堂を目指したのだが、なんと、手持ちの現金がほとんどないのである。少なくとも土佐清水からのバス代は残しておかないといけないので、ひとまず郵便局できちんとおカネが下ろせてからにしようと考えた。足摺岬の郵便局はもう少し先、ホテル街の方にある。
山門からしばらく、海を左手に緩やかな起伏を登り下りして行く。やがて「万次郎足湯」と、その向こうに温泉街の高い建物が見えてくる。そして、そのすぐ先にポストマークが見える。やっと郵便局に着いたと思ったら、入口にはなんと「土曜休日 お取扱いしておりません」の表示が。これでは現金を補充できないではないか。
あたりを見回すが、郵便局以外にキャッシュカードが使えそうなところは見当たらない。車であれば思い悩むほどのことはないだろうが、こちらは歩きである。折悪しく、小雨さえぱらついてきた。泣きそうなのは空もこちらも同じである。ともかく、先に進むしかない。もしかすると、というかほぼ確実に、約10km先の土佐清水市街まで、現金を入手できるチャンスはない。
郵便局の少し先で右に曲がり、足摺テルメ方面への坂を登って行く。登りながら考える。土佐清水から中村へのバス代は1400円、中浜あたりで挫折するケースも考えるともう少し残さなければならない。いま手許にあるのは千円札1枚と百円玉が10枚ほど、さっき食堂でお昼を食べなかったのは正解だった訳である。
幸い、荷物の中には非常食のカロリーメイトが残っているし、150円のペットボトルを1本買うくらいは大丈夫そうだ。何とか気を取り直す。そして気が付いた。前日の午前中に、四万十川でいただいたご接待500円がたいへん大きな意味があったのである。ご接待がいただけなければ、ペットボトルさえ買えなかっただろう。
[行 程]真念庵 14:30→(5.2km) 15:55 下ノ加江(泊) 5:20→(7.0km) 7:00 大岐海岸 7:00→(3.5km) 7:45 以布利じんべえ広場 8:00→(13.5km)11:05 三十八番金剛福寺 11:30→
[Jan 27, 2018]
足摺岬にはジョン万次郎の銅像が立つ。ジョンマンはアメリカに渡った後はよく知られているが、最初は漂流して鳥島にいた。
国道をそのまま進むと、食堂の前が金剛福寺。足摺山と彫ってあるのは、文部科学省に配慮して当用漢字を使っているのだろうか。
仏足石前から池を挟んで本堂を望む。それほど広くない境内だが、池を囲んでいろいろなお堂がある。
中浜・土佐清水
ちょうど峠にあたる地点に電器屋さんがあり、前に自販機が置いてあったのでミネラルウォーターを補充する。こういう時は、お茶やスポーツドリンクよりもミネラルウォーターである。この先10km何があるか分からない。その峠をまっすぐ進むと金剛福寺奥ノ院である白皇神社だが、今回は左に下って土佐清水を目指す。
しばらく進むと、へんろ休憩所があった。「しんきん庵」と書いてある。幡多信用金庫のご厚意による休憩所である。ベンチに腰を下ろし、カロリーメイトとミネラルウォーターでお昼にする。最後になってちゃんとしたお昼をとれないのは残念だが、荷物を少しでも軽くできるのは悪いことではない。
そして思った。予想もしていなかったご接待の500円のおかげで、 安心して先に進むことができる。ありがたいことである。そして、こうしたことはお遍路歩きにとどまらず、日々の生活すべてについて言えるのかもしれない。行いを正しくしていれば、思いがけないところでうまくことが運ぶということがあるのかもしれない。
リタイアして以降、先々の生活について思い悩むこともあるのだが、取り越し苦労はあまりしなくてもいいのかもしれない。考えてみると、就職の時も2度の転職のときも、生活が成り立つかとかそういう心配はしていなかった。自分にとって、正しい選択であるかどうかだけが関心事項であった。
そして、どこが転機かということだって、熟慮のうえ動いたということでは必ずしもなくて、思いがけないことがまずあって、それで動いた一連の結果がいまに至っているということである。羊男風に言うならば「踊るんだよ」ということだし、騎士団長風に言えば「それを断ってはならない」ということになるんだろう(c.村上春樹)。
12時半になったので出発する。制限時間はあと3時間、土佐清水まで残り約10km である。
足摺岬から西岸を歩くと、以前はもっと距離も時間もかかったようである。だが、つい最近、平成28年に松尾トンネルが開通して人も車もたいへん便利になった。私の持っている遍路地図第10版には、まだこのトンネルは載っていない。トンネルの長さは1057m、払川大橋まで含めた松尾・大浜バイパス全体の工事費は約55億円という。
金剛福寺のある足摺岬から、半島の西の突端にあたる臼碆(うすばえ)岬までは結構距離がある。臼碆とは、岬の沖合にある岩が臼のように見えることからそう名付けられたのだそうで、トンネルがなかった頃はこの岬まで県道を大回りするか、あるいは山道を行くしかなかった。途中まではこの臼碆と書いてある道案内にしたがって海沿いを進む。
海岸のため風がたいへんに強く、帽子が飛ばされそうになった。やがて道は傾斜のある登り坂になり、彼方に谷をまたいで地上から立ち上がった陸橋が見える。集落はその橋の足下から海岸に向けて開けている。案内板があって、このあたりの集落が松尾であり、宗田節の本場であると書いてある(その後、空港で宗田節のかつぶしをお土産に買って帰った。たいへんおいしかった)。
陸橋を登り切って平らになったあたりで、道が左右に分かれている。左が臼碆岬に向かう旧来からの道で、そちらに民宿青岬の看板も見える。右が松尾トンネルに向かう道で、分岐点から100mくらい先にトンネルの入り口が見える。トンネル入口着13時10分。金剛福寺から、休憩時間を除くと1時間と少しかかった。
今回の区切り打ちでは、新伊豆田トンネル1600m、横浜トンネル800mなどいくつか長いトンネルをくぐったが、松尾トンネルも1kmを超えるたいへん長いトンネルである。
とはいえ、最近作ったものなので、内部の照明がLEDでたいへんに明るく目が疲れない。それと、基本的にまっすぐなので出口がぼんやり明るくなっているのは安心である。交通量が少ないのに、お遍路仕様で両側に歩道があるのもありがたい。トンネル中央でシールドが若干ずれたらしく、壁に段差があるのはご愛嬌である。
距離どおり、ほぼ15分でトンネル出口に到着。あたりは真新しい道路である。しばらく進んでから振り返ると、トンネルの上にある山の中腹に民家が見えた。昔は西岸を通ろうと思えば、あのあたりまで登らなければならなかったのである。そう思うと、トンネルができたことはたいへんありがたいことであった。
足摺岬のホテル街を越え、テルメへの坂道を登ってしばらく進むと、しんきん庵遍路休憩所。しんきん庵とは、幡多信用金庫の寄進による遍路休憩所である。
かつては海岸に沿って県道を進むか山道しかなかったが、松尾トンネルが通って西岸のアクセスが向上した。
松尾トンネル入口。中はLED照明で、たいへん明るい。臼碆岬を通り越して、大浜の近くまで行くことができる。
トンネルを出て10分くらいで海岸線に出ると、少し先に鉄筋4階建ての建物が見える。足摺岬より先で大きな建物のある街といえば大浜のはずで、大浜まで着けば中浜はすぐ先である。午後2時前に大浜に到着した。バスに乗り遅れるリスクは避けなければならないので、ここからは極力バス通りを歩く必要がある。
ちょうど、予定していたよりも1本前のバスが足摺岬方面から走ってきて、中浜方向に通り過ぎて行った。バス停で時刻表を確認するとやはり1時間半前の便であった。残すところあと約5kmだから、よほどハードな道でない限り土佐清水まで歩くことは可能である。
少し安心して、へんろ道に入る。このあたりのへんろ道は民家の軒先を通る狭い道で、漁村らしく結構な登り下りがある。10分も歩くと中浜に着いた。墓地のある坂道を登ると中浜小学校で、壁にカウボーイハットのおじさんの絵が描いてある。小学校から下りてくる交差点には「知らない人にはついていかないように 中浜万次郎」の立札がある。
中浜万次郎は、もともとこの漁村で育った漁師であった。乗っていた船が難破して鳥島に漂流し、そこで何ヵ月も救助を待った。たまたま近くを通ったアメリカの捕鯨船に助けられ、船長の養子となってアメリカの学校で勉強する。その頃江戸幕府は鎖国しており本来なら帰国できなかったが、幕末のごたごたで幕府も海外経験のある人材を求めていたことから、将軍直参の旗本となったのである。
わずか百軒足らずの漁村に育ち、ろくに読み書きもできないまま10かそこらで漁師となったにもかかわらず、アメリカに渡っていまの高校生くらいの年齢から学校に通い、後に通訳として諸外国との交渉にあたるほどの語学力と専門知識を身に着けたのである。実際にアメリカの学校に通ったというアドバンテージがあったにせよ、勝海舟や福沢諭吉といったアクの強い旗本連中と渡り合ったのだから、並大抵の頭のよさではなかったのだろう。
そのあたり、帰ってから井伏鱒二の「ジョン萬次郎漂流記」を読んでみたが、あまりにもあっさり書かれていてよく分からなかった。いろは47文字よりabcの方が数が少ないから簡単だったなどと書かれているけれど、そんなものではないだろう。ハングルやタイ、アラビア文字が歳いってからだと頭に入らなくなるのを考えても、容易なことではないはずである。
そもそも、現代の村上春樹とかを読んでいる感覚からすると、これが小説なのか、これで直木賞なのかという感想をもってしまう。登場人物の内面についてほとんど書かれていないし、車谷長吉いうところの「虚実」がない。これで直木賞なら、「深夜特急」だって直木賞をあげなくてはなるまい。昔の小説といっても、夏目漱石はもっと昔なのである。
さらに集落を進むと、再び海岸線に出る。ジョン万次郎の記念碑や生家跡への案内図が掲げられている。「ジョン万次郎を大河ドラマに」とも書かれている。せっかくだから生家跡を目指して集落内の狭い道を進む。
ブロック塀に「ここが万次郎の母の実家」などと書いてある。150年以上前の家がまだそのままの場所で続いているというのは、さすがである。生家跡は復元されたもので、普通の民家であった。再びへんろ道に戻る。坂道や階段を登り切ったあたりが資材置き場のような施設で、そこで県道と合流する。今度は下り坂で、そこを下ると海に出た。
すぐ先に港と、その向こうに大きな街が見える。土佐清水である。時刻は14時20分、あそこまで1時間なら楽勝だろう。そう思ったら道は湾内をぐるっと迂回する形で続いていて、午後3時まで歩いても目指すプラザパル停留所には着きそうにない。このバスを逃すとたいへんまずいことになる。
仕方なく、足摺病院前のバス停でバスを待つことにした。近くの銀行でおカネを下ろし、スーパーでバナナとペットボトルの飲み物を買う。バナナを食べているうちにバスが来た。バスで中村まで、そこから土佐くろしお鉄道とJRで宿泊地の高知市内に向かったのでありました。
この日の歩数は64,338歩、距離は37.5kmで、これまでの最高記録を更新して区切り打ちを終了した。この回(第6次)の区切り打ちの総距離は141.1km、1日平均では28.2kmと、札所も少なかったため前回(第5次)より1日平均1km半ほど多く歩くことができました。
[行 程]三十八番金剛福寺 11:30→(5.7km) 13:10 松尾トンネル入口 13:15→ (2.4km) 13:45 中浜 14:00→(5.3km) 15:05 土佐清水
[Feb 10, 2018]
大浜と中浜は隣同士。中浜はジョン万次郎の出身地である。中浜小学校の絵は、万次郎時代のアメリカ人?
中浜には万次郎の銅像や記念碑、生家がある。このあたり、へんろ道が登ったり下ったり、民家の軒先を進んだりする。
午後2時頃には土佐清水のすぐ近くまで来た。だが、これから湾内を回り込むので、すぐ対岸に見える市街中心部まで1時間以上かかる。