別格八番十夜ヶ橋 内子 三嶋神社 鴇田峠
四十四番大宝寺 四十五番~
四十一番龍光寺 [Oct 16, 2017]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
2017年10月16日の朝になった。午前5時起床。気になっていた足の治療ができたので安心したこともあり、今遠征で初めてぐっすり眠った。朝食は前日コンビニで仕入れた、シャキシャキレタスとコールスローのサンドイッチ、オレンジジュース、飲むヨーグルトとコーヒー。普段食べている朝食に近いので安心する。
膨れて水が出ている状態の右足親指はマキロンで消毒した後、滅菌ガーゼとフィルム包帯を付け、その上からテーピングテープで固定した。左足のマメは、足の裏と指の間にマメ用絆創膏を貼り、さらに靴下を二重にしてクッションになるようにした。今日のところは、これで様子をみるしかない。
ホテルの窓から外をみると、山はごく低いところまで雲が下りてきていて、頂上や稜線はまるで見えない。道路は濡れていて、雨粒が落ちているのも見える。これで3日続けの雨、傘を差して歩くことになる。
この日の予定としては龍光寺、仏木寺、明石寺の3つの札所をお参りする予定であるが、仏木寺と明石寺の間には歯長峠という峠越えがある。宿泊地の西予市まで約30km、高低差もあって天気も悪いとなると、楽なスケジュールにはなりそうにない。
もうひとつ気になっていたのは、前日、宇和島市内を歩いている時に次の宿である宇和パークから電話が入り、レストランが休みなので別に食事を手配しているのだが、夕食を何時にするかと尋ねられたことである。レストランの休みが前日まで把握できないホテルというのもたいへん心細いが、仕方がない。
この日最後になる明石寺の納経時間が午後5時までだから、午後6時にはホテルに入れるだろうと思ってその時間で予約したのだが、よく考えるとあまり余裕がない。遍路地図によれば明石寺から宇和パークホテルまで3kmほどだが、車の通れない道を歩かなければならないようだ。
いずれにせよ早く出るに越したことはないので、午前7時20分に出発した。遍路地図には分かりにくい道順が書いてあるが、大通りを国道56号に出て、県道57号との分岐が現われたらその方向に折れるというのが一番分かりやすい。ただし街中なので信号待ちが多く、車も多い。雨はだんだん強くなる。
国道に沿って事務所や倉庫・商店、車の営業所が続く通りを20分ほど歩くと、県道との分岐になった。龍光寺・仏木寺への案内表示も右折を指示している。県道に入ってしばらく進むと「へんろ宿もやい」が現われた。建物はアパートのような造りだ。いずれにしてもここまで宇和島の駅から30分ほどかかるだろうから、立地的には少々不便かもしれない。
道はだんだん登り坂になる。ずっと続いていた家並みもとぎれとぎれになり、やがてほとんど見えなくなった。歩道があるのは大変ありがたいけれども、国道でないのでキロポストがなく、どのくらい歩いたのかよく分からない。歩き始めて1時間半、坂道が続いてしんどかったので、路肩が広くなっているバス停のような所でリュックを下ろす。
新屋敷という場所のようだ。遍路地図で龍光寺までの行程を確認しようとしたら、このあたりに休憩所があることになっている。坂の上の方を見ると、林の陰になって見えなかったが50mほど先に東屋が見える。おお、これで雨宿りができる、とリュックを引きずって東屋に避難した。
こういう大雨の時には屋根のある遍路休憩所がたいへんありがたいが、街中ではほとんど見られないのが実情である。かつて焼山寺から大日寺の間も前半3時間で1ヵ所だけだったし、今回の宇和島市内でも龍光院の途中でコンビニに避難したくらいである。この朝もホテルから新屋敷まで、屋根が付いた休憩所はここが初めてであった。
落ち着いて東屋の中を見回すと、100m先にトイレがありますと書いてある。よく工事現場にある仮設トイレだったが、急を要する人にはたいへんありがたいだろう。そして、「龍光寺まで40分」とも書いてある。宇和島から龍光寺まで約10kmだからあと1時間くらいだろうと予想していたので、それより早そうなのはありがたかった。でも、40分では着かなかった。
ホテルの窓から見た宇和島の朝。雲が低くこれで3日連続の雨。
宇和島市街はかなり大きくて通過するのは骨が折れる。龍光寺・仏木寺の行き先表示に従い、国道から県道に入る。
宇和島から1時間半、新屋敷でこの日はじめて屋根のある休憩所を見つけることができた。
休憩所からさらに登り坂が続き、峠にあたるところが務田(むでん)交差点である。ここまで雨の中、2時間以上も登り坂を歩いてきたので、たいそうほっとした。前方の景色が開けている。太い道路はまっすぐと左と2本あるが、龍光寺へはそのどちらも通らない。
まっすぐ進むとJR予土線に沿って、高知県境の方に向かう。予土線は宇和島と窪川を結んでいて、窪川といえば岩本寺になる。左に進むと仏木寺から歯長峠に向かう。こちらは龍光寺の後で通ることになるが、いまは遠回りになる。狭い道をJRの線路まで下りて行き、そこを渡り直角に左に折れて山をめざすのであった。
山の方向をみると雨雲が麓まで下りてきている。天気の回復は望み薄のようだ。ただ、時刻は午前10時前。朝早く出発したこともあって、考えていたよりも早めに着きそうなのはありがたいことであった。
ここからの道は基本的に平坦であるが、意外と長い。田んぼの中のあぜ道を進み、さらに住宅地を進む。道はまっすぐで間違いようがないけれども、なかなかお寺らしき建物が見えてこない。それもそのはず、龍光寺はもう一度左に折れて山の上にあり、いま歩いている道からは山の影になるのである。
お遍路歩きをしていると、札所近くの大きな町はすべて門前町のような気がするけれども、務田のある三間町(みまちょう)は門前町ではなく、もともと穀倉地帯として栄えた地域である。だから、稲荷山龍光寺関連の施設は村の中を歩いている時点では目に付かず、田んぼだけがずっと広がっているのである。
このあたり、昔の道なのでかぎ型に曲がりながら北に道が続いている。住宅地の一画に、「仏木寺車道→」という案内板があったので、車で来た人はいったんここまで戻って次の仏木寺に向かうようだ。まだ、龍光寺まで500mほどあるので、できればここに戻らずに先に進みたいものだ(と思っていたら、後からひどい目に遭うのである)。
9時45分、龍光寺着。WEBでよく見る「食堂・長命水」の前に大きな石造りの鳥居があり、そこから参道が始まっている。参道は途中から石段になり、その上に赤い鳥居が小さく見えている。見るからに、お寺というよりもお宮である。
そば店「長命水」の他に商店・食堂の類は見当たらず、長命水から先は古い民家が続いている。考えていたよりも早く着いたし、観自在寺の御縁茶屋のところでも書いたように、こうした門前のお店を盛り立てていかなくてはならないため、お参りの後はここでお昼にしようと考えた。
雨は少し小降りになってくれた。石段を登ると本堂があり、そのレベルに大師堂と納経所もある。それからさらに石段を登った上に稲荷神社があり、こちらの方が参道から見通せる位置にある。本堂より高い場所にあることといい、参道から一直線上にあることといい、もともと稲荷社の方がメインであった証拠である。
務田の交差点を過ぎ、ようやく下り坂になる。JRの線路を越えて山の方向へ。
龍光寺の目印になるのは石造りの大鳥居。参拝後、門前の「長命水」でうどんをいただきました。ここから四国のみちの道標にしたがうと痛い目に遭います。
龍光寺へは長い石段を登る。その先にも赤い鳥居があり、まっすぐ進むと稲荷神社。さすがに「稲荷」で札所になっているだけのことはある。
稲荷山龍光寺(いなりさん・りゅうこうじ)、真念「道指南」に「稲荷宮」と書かれているとおり、もともと寺ではなく、明治になって神仏分離により寺となったものである。
不思議なのは、八十八札所の中でただ一つの稲荷社であるにもかかわらず、わが国における主要な稲荷社(伏見稲荷、豊川稲荷、笠間稲荷等)に数えられることもなく、そもそも江戸初期には、久しく荒廃していた(霊場記)、小さなお堂である(辺路日記)などと書かれているように、それほど栄えた稲荷ではなかったことである。
名前に「稲」が入っているように、稲荷は「稲」の神様、農耕の神様であった。だから、起源の古い稲荷社のご祭神は古事記にでてくるトヨウケヒメやウカノミタマといった農耕神である。また、稲荷に付きもののキツネは、ネズミを食べることと尾の形が稲穂に似ていることから平安時代から眷属として祀られたという。
稲荷社が商売の神様になったのは商業が盛んになった江戸時代以降のことで、農耕神としての歴史と比べると比較的新しい。龍光寺の稲荷社も、三間川(みまがわ)中流の穀倉地帯に位置することから、最初は農耕の神様として祀られていたと思われる。しかし、霊場記にも書かれているとおり、戦乱等により久しく荒廃していたという。
おそらく、八十八を定めるにあたり、古い信仰である稲荷社も一つくらい入れておかないといけないと思ったのではないだろうか。私は八十八が確定したのは戦国時代より後のことではないかと思っている。
いずれにしても、宇和島城下にあった願成寺(現・龍光院)や交通の要衝にある満願寺が八十八に入らず、稲荷社・仏木寺・明石寺が、さほど離れた距離にある訳ではないのに3ヵ所とも八十八に入っているのだから妙なものである。逆に考えると、この3社寺は仏教以前の古い信仰の聖地だったのかもしれない。
本堂・大師堂で納経しご朱印をいただいた後、石段を上がって稲荷社に二礼二柏手一礼でお参りする。社殿の脇にもう一つ古い建物があって、そちらをみると軒下や欄間に千社札が貼ってある。お堂も貼られているお札もそんなに古いものではなさそうだ。少なくとも江戸時代のものではないようである。
予定より早く着いたのでゆっくりしようと思っていたのだが、バス遍路の団体客が石段を登ってきたので引き上げることにした。まだ午前10時を過ぎたばかりだが店は開いている。次の仏木寺まで3kmあることだし、門前の食堂・売店はできるだけ利用しようということで、早いけれど「長命水」でお昼にすることにした。
店に入ると、団体客の食事を支度中だったので躊躇したが、ご主人が「すぐできますよ」と言うので、空いている小上がりの席に座ってうどんをお願いする。5つ6つあるテーブルはいずれも団体客の食器が置いてあって、ツアーの名札が付けられている。これだけの数をいっぺんに茹でるのは大変そうだ。 後からおばさんがやってきて、冷たい水を持ってきてくれた。
待っている間、濡れたリュックを拭き、お水を何杯か飲み、落ち着いたところで熱いお茶をいただく。ずっと雨に降られてきたので、ゆっくりできたのは大変ありがたかった。
ふと外を見ると、すぐ外にこの日の宿である宇和パークホテルの広告看板がある。そこには、「四十三番明石寺から5km」と書いてある。遍路地図によると明石寺から宇和パークまでは3km足らずのはずで、それで夕食を午後6時にしてもらったのである。歩道と車道の違いかと思われたが、いずれにしても気がかりなことである。
ここを10時半に出発するとして、次の仏木寺まで遍路地図によると50分。正午に仏木寺を出られれば、明石寺までの所要時間は3時間40分だから、納経時間の午後5時に間に合わせるのは全然問題なさそうだ。ただ、この間には峠越えがあり雨は降り止まないので、それ以上に時間がかかるおそれがある。まして明石寺からホテルまで、3kmならともかく5kmとなると想定外である。
とはいえ、まだ時間には余裕がある。仏木寺を正午出発するには参拝時間を考慮しても11時半到着で十分間に合うし、ここから仏木寺まで50分だから全く問題ない。と思ってゆっくりうどんを食べていたのだけれど、例によってそんなにうまくは行かなかった。
こちらの長命うどんはじゃこ天とかまぼこ、竹の子、ごぼうが入っていて、だしが利いておいしい。それに、痛んでいた右足親指の爪は、テーピングで固定したのが効果あったようで、大分と楽になった。10時40分に出発。
[行 程]宇和島オリエンタルホテル 7:20 →(6.1km)8:45 新屋敷休憩所 8:55 →(3.1km)9:45 龍光寺 10:40 →
[May 5, 2018]
龍光寺本堂。右上に稲荷社の鳥居が見える。
本堂・大師堂より高く、参道から正面に位置する稲荷社。もともとの八十八札所はこちらだった。
長命うどん。じゃこ天とかごぼう天とかいろいろ入っています。雨で寒かったので、温かいうどんはありがたい。
四十二番仏木寺 [Oct 16, 2017]
稲荷山龍光寺の次は仏木寺である。遍路地図ではこの間2.6km、40分ほどで着くことになっているが、これがまた大変な道であった。これが元でこの日のスケジュールが押してしまう結果となったのだから、日程には余裕を持たなければならないということである。
長命水の前の「四国のみち」案内表示によると、仏木寺は左に進む道である。仏木寺まで3.6kmと、遍路地図の2.6kmよりかなり長いのは気になったが、車道を通ればそうなるんだろうと軽く考えていた。大雨だし、山道を通るより車道を行くのが安全策と考えたのだが、そう思って進んだのは車道でもなければ最短距離でもないとんでもない道なのであった。
(後から調べると、正規のルートは参道の途中からお墓の横を通る道だったようである。確かに車の通れない遍路道なのだが、私の通った四国のみちよりは大分ましだったようである。何にせよ、シールが貼ってあるので安心である)
しばらくは、山の中に入らずに農道を進み、さらに住宅地を通る。ここまではよかったのだが、やがてひと気のない道となり、雑草が両側から道を塞いでいる土手を上がると貯水池のような場所に出た。中山池というらしい。「四国のみち」はこの中山池の周りを池に沿って半周あまり歩かされるのである。
雨はざーざー降ってくる、道はどこにどう続いているのか分からない。草むらの中を歩くので、服にも靴にも訳のわからない種だか葉っぱだかが無数に付いてきたない。道はぬかるんで靴はどろどろになる。遍路シールもなければさきほどまであった四国のみちの道案内もない。もう、泣きそうな気分である。
ようやく資材を運搬するような砂利道に出たものの、どちらに進めばいいのか全く指示がない。日が差していれば影で大体の方角が分かるのだが、大雨で空は真っ暗である。これまで歩いてきた方向を思い出して、池とは反対側に進むしかない。
やがて、管理施設のような建物が現われて景色が開け、高速道路の高架が見えてきた。もう、龍光寺を出てから、本来の所要時間である40分になろうとしている。「四国のみち」案内表示はいつの間にか見当たらない。ただ、そんなものより自分の頭の方が信用できる。
背後がいま歩いてきた中山池の方向で、前方に見えるのは高速道路である。高速に並行して県道が通っているはずだが、そこまでまっすぐ進む道がない。仏木寺は右方向なのだが、右に行くと山になるので県道まで通じているとは限らない。遠回りになるが左前方に進む。県道に出ればなんとかなる。
ようやく県道まで出て安心すると、次の明石寺の案内看板が出てきたので通り過ぎてしまったかと一瞬びっくりした。が、その看板の向こうに仏木寺の山門が見えた。11時40分、龍光寺からまるまる1時間かかって仏木寺に到着。
後からGPSで実際に歩いた距離を確認したところ、4.7kmあった。正規の道より2kmも遠回りしているし、「四国のみち」の表示と比べても1km長い。この日以降、四国のみちは二度と信用すまいと思った。
龍光寺からは四国のみちルートをとる。このあたりは開けた田園風景でたいへんよかったのですが。
やがて大きな池の周囲をめぐる暗くてじめじめした道になる。遍路シールはもちろんなく、行き先がよく分からない。
仏木寺の山門までようやく到着。龍光寺からまるまる1時間かかった。もう四国のみちは信じないと誓った。
一果山仏木寺(いっかさん・ぶつもくじ)、「果」は霊場記では「果頁」の一文字であり、山門の扁額は「王果」と読める。いずれにせよ当用漢字ではないので、霊場会HPでは「一カ山」と表記している。
弘法大師がこのあたりを通りかかった際、楠の老木の上に輝くものがあり、よく見ると珠であったので、その老木を伐って大日如来を造りその珠を頭部に納めたことから山号・寺号とされたと伝えられる。
家畜守護の寺院として知られており、ご詠歌にも「草も木も仏となれる仏木寺 なをたのもしき鬼畜人天」と詠われているくらいだから、江戸時代からそうだったのだろう。
霊場会HPによると、境内には家畜堂というお堂があって牛馬の陶磁器や扁額が奉納されているとのことだが、雨が激しすぎて探すことができなかった。すでに通り過ぎた宇和島市の闘牛関係者も来るらしいので、もう少し天気が良かったらじっくり見てみたいものである。
四十一番稲荷は「稲」のことだし、四十二番は農耕の助けとなる牛馬の守護、次の四十三番は役行者ゆかりの修験道の霊地だから、月山・篠山と菅生山大宝寺の間は、もともと仏教以前の古い信仰の霊地だったのかもしれない。
県道の右手に山門があり、そこから石段を上がったところが庫裏になる。ベンチが何脚か置かれていて、「納経は本堂前で行っています」の立札が立てられている。左に90度折れてさらに石段を上がると本堂のレベルに達する。境内はそれほど広くはないが、こじんまりと落ち着いている。
稲荷山でバス遍路の団体客がいたのでちょっと心配だったが、すでに通過したようで、たいへんに静かである。とはいえ、雨が一段と激しく、土の境内は雨で一面の水たまりになっている。
本堂の周辺には雨をしのげる場所がないので、やむなく納経所前のわずかなスペースをお借りしてリュックを置く。本堂・大師堂で納経しご朱印をいただくと、庫裏のレベルまで下りた。ここには、さきほどみつけた雨の当たらない場所とベンチがあったからである。
ベンチに腰かけてようやくひと息つく。ちょうど山門の裏にあたる場所で、山門の向こうに県道、その向こうには高速道の防音壁が見えている。霊場記によると、こちら仏木寺の前には千畝の田が広がっていたということだが、いまでは高速道が景色を分断している。
山門の手前には、七福神の小振りな石像が並んでいる。家畜守護だけでなく、商売繁盛とか家内安全をお願いするお寺さんのようだ。周辺には家も建っているのだけれど、それほど多くはないし、商店や食堂が全くない。いろいろ工夫しないと札所だけでやっていくのは難しいようである。
山門横にも東屋があり、自販機でペットボトルを1本補充して先に進む。龍光寺に10時前に着いた時にはこの日のスケジュールは楽勝だと考えていたのだが、「四国のみち」で遠回りした結果、仏木寺を出たのは12時を15分ほど回ってからになってしまった。
歯長峠を越えて次の明石寺まで、遍路地図のコースタイムは3時間40分。休みなしで歩いても着くのは午後4時になる。納経時間には間に合うとしても、明石寺からホテルまで3kmか5kmかはっきりしない現状では、午後6時の食事時間に間に合うかどうか微妙である。いっぺんに、時間の余裕がなくなってしまった。
話は変わるが、自販機は仏木寺の門前に一つ、少し先の民宿とうべやへの曲り角に一つあっただけで、あとは歯長峠を越えるまでなかった。大雨でそれほど水は必要なかったのでよかったが、遠征前半のような炎天下であれば厳しいことになっただろう。
[行 程]龍光寺 10:40 →(4.7km)11:40 仏木寺 12:15 →
[May 12, 2018]
仏木寺の本堂・大師堂。山門から石段を登った境内は、こじんまりまとまっている。
本堂前から山門方向を振り返る。右側に見える建物が納経所。雨宿りする場所はあまりない。
石段を少し下りて庫裏の前にベンチがある。江戸時代には千畝の田が広がる穀倉地帯だったが、いま山門の向こうを走っているのは高速道。
四十三番明石寺 [Oct 16, 2017]
仏木寺から明石寺まで10.6kmだからそれほど遠い訳ではないが、宇和島市と西予市の境である歯長峠を越えて行くのでかなりの起伏がある。いまではトンネルが掘られているが、昔の峠越えにはかなりの困難を伴ったと思われる。その割に道指南では、「はなか坂」とあっさり書いてあるだけである。
県道の先は、右も左も山である。県道をそのまま進むとたいへん大回りとなるので、へんろ道を歩く方が距離的には短い。問題は、大雨で通行できる状況にあるのかということであった。山の中腹にはいくつも雲が浮かんでいる。雨は強くなったり弱くなったりしているが、仏木寺にいたときと比べると小康状態といえそうである。
民宿とうべやの分岐を過ぎてしばらく歩くと、「四国のみち」の案内が左折を指示、同様にへんろシールも貼ってある。四国のみちには、午前中に大変な困難を強いられたので疑ってかかるが、へんろシールもあるのでこのルートが遍路地図の点線ルートなのだろう。仏木寺までにタイムロスがあったことだし、ここは短い(はずの)へんろ道を選択する。
へんろ道はしばらくは舗装道路が続いているが、安心できない。やがて高速道の脇に出た。このあたりにはパーキングエリアもインターチェンジもないが、資材置き場のようになっているのはこの先の歯長トンネルを掘った時に使ったものだろうか。そして、その少し先から、いよいよ登山道が始まっている。
道幅はそこそこ広く、地盤は細かい石が敷かれていて悪くない。ただ、峠道なので傾斜がかなり急だ。道の状況によっては引き返して車道を歩こうと思っていたのだが、500m1kmと歩いていると、ここまで登ったら進むしかないと思ってしまう。幸い、午前中の「四国のみち」ほどひどい道ではない。少なくとも服や靴に得体の知れないものが付くようなことはない。
石畳の道があり、林の中の平らな道があり、傘を差して歩いて行くと30分ほどで簡易舗装の車道に出た。迂回してきた県道である。仏木寺から2km、歯長峠まで1.2kmと表示がある。心配していたような倒木や崖崩れもなく、仏木寺への「四国のみち」のような暗くてじめじめした行き先もよく分からない道でもなく、まずまず安心して歩ける登山道であった。
県道に合流してから歯長隧道まで見通しの利かないワインディングロードだが、道幅もあるし傾斜も緩やかになった。少し行くと再び登山道との分岐があり、「苦しいのは最初だけ。快適な山道です」みたいなことが書いてある。しかし、せっかく県道に出たのだから余計なことはせずにあとはトンネルを越えるだけである。
何回か曲り角を過ぎると、向こうにトンネルが見えてきた。歯長隧道422mである。車道と歩道の区別がないけれども、車が全然来ないので特に問題はない。後から聞いたところでは、並行して走る高速道が無料区間のため、車はそちらに回るということである。
さきほどの登山道をそのまま行くと見送り大師というお堂があるそうだ。ここには昭和35年まで歯長寺というお寺があったということだが、その頃はもちろん高速道はなかったから、車で峠を越えようとすればここを通ったのだろう。しかし、道路以外に人工物の気配は全くなく、こんなところにお寺を建ててどうやって暮らしていけたのかと思う。
仏木寺から歯長峠に向かう。ずっと雨で雲が低い。ここから先、峠を越えるまで自販機はない。
県道から分かれてへんろ道に入る。仏木寺への「四国のみち」を歩いた後だけに心配したが、まずまず安心して歩ける道であった。
登山道を経由して再び林道に合流、歯長隧道に到着。歩道はないが、並行する高速道が無料区間のため、車はほとんど通らない。左は峠を越える登山道のようだ。
歯長隧道を出たところに東屋とプレハブがあり、仮設トイレも付いている。「お遍路さんもご自由にお使いください」と書いてあるから、もともと遍路用ではなくて何かの目的に使っていたものだろう。
休憩所の少し先で、再び県道と遍路道が分かれている。遍路地図を見ると下りの県道も大変な大回りだし、遍路道の方は擬木の階段と柵が付いているのでそんなに荒れた道ではなさそうと思ってそちらに進む。
ひとしきり坂を下った後は階段も柵もないただの登山道になったので当てが外れたが、すでにずいぶん下っているので先に進むしかない。幸い、登りと同様それほど荒れたところはなく通過、再び県道に合流して道なりに進むと肥料のような匂いが漂ってきて、巨大な建物が現われた。
構造からみて、牛か豚か飼っている酪農施設のようだった。通り過ぎてきた宇和島は闘牛の街なので、牛だったかもしれない。こういう大きな施設は車を利用しないといろいろ不便なので、たいていアクセス道路はきちんとしている。今回も、ここからは簡易舗装ではなくちゃんとした舗装道路だった。
それでも、歯長峠のすぐ下にあるので、急傾斜かつずいぶん曲がりくねった道だ。スイッチバックでどんどん標高を下げ、川に沿って走る道に出た。川の名前は肱川(ひじかわ)、このあたりの地名を下川(ひとうがわ)というようだ。真念「道指南」に、「下川村 河有」と書かれている。
川沿いの道と峠越えの道が交わる地点を歯長峠口といい、東屋や行き倒れた遍路の供養塔がある。ここから先は川に沿って下るゆるやかな下り坂で、少し安心する。時刻は14時10分。仏木寺から約2時間で、歯長峠の難所を通過することができた。
東屋前に、民宿とうべや分岐点以来の自販機が現われたので、ファンタオレンジを飲んで10分ほど休む。後ろを振り返ると歯長峠は雲の中である。すぐ上に高速道の歯長トンネル出口が見えるが、県道の歯長隧道はもっと山奥で標高の高いところにある。よくあんなところを越えてきたものだと思う。 14時20分再スタート。
宇和町まで5kmと標識があったので一気に歩けるかと思ったのだが、朝は龍光寺まで長い坂道を登り、昼には四国のみちの困ったルートを歩き、いままた歯長峠を登り下りしたため、足がなかなか前に進まない。ほとんど平坦な歩道付きの高規格道路なのだが、疲れと激しさを増す雨でどうにも歩幅が伸びないのである。
20分ほど歩いて、導引大師(みちびきだいし)というお堂の前を通り過ぎた。中にはいろいろなものが置いてあるが、ゆっくり見ている時間と体力がないのは悲しい。もう少し余裕のあるスケジュールをとればよかったと思う一方で、この大雨ではいずれにしてもゆっくり見ることはできなかっただろうと思い直した。
導引大師から10分ほどで、屋根と切り株の椅子がある休憩所が現れた。道端にお大師様の石像があり、「交通安全見守大師」と書いてある。ずぶ濡れの上に汗もかいてしまったので、タオルを洗って顔を拭き、小休止する。もう時刻は午後3時を回っている。
龍光寺に10時前に着いた時には今日は余裕だと思ったのだが、やはりそんなに甘くはなかった。まだ明石寺まで3kmある。納経時間の午後5時には大丈夫だとは思うが、道間違いなどしてはいられない。屋根がないところで地図を広げられないほどの大雨なので、ここで慎重に遍路地図を確認した。
この見守大師前休憩所の小休止でかなり回復して、がんばれるようになった。このまま県道に沿って太い道を行くのが安全策だが、遍路シールがショートカットする道を指示している。それにしたがって脇道に入る。
四国のみちの案内だったら無視しようかと思ったが、遍路シールなので少しは信用できる。車通りが少なくなり静かになったが、進む方向は平らに開けていて、どこまで歩けばいいのか定かでない。明石寺は山の上のはずである。遍路シールを見逃さないよう、周囲の電柱に気を配りつつ先に進む。
歯長峠口の休憩所から後方を振り返る。すごい所を越えてきたものだ。すぐ近くに高速の歯長トンネルが見える。
歯長峠口で肱川沿いの県道に合流する。道路のこちら側に東屋と供養塔がある。とうべや分岐以来2時間ぶりの自販機。
歯長峠を越えた疲れと降り続く大雨で、宇和町が近づいたがペースが上がらない。屋根のある見守大師前休憩所があって助かった。
遍路シールの矢印に従って進むと、高速道路の下を2度3度行ったり来たりする。川か用水路かの上を進むので、行き止まりにならないよう注意して進む。やがて行く手に学校のような建物が見えてきた。宇和高校である。下校時間なので、多くの生徒さん達とすれ違う。「こんにちは」とさわやかに挨拶される。
ここまで来れば明石寺はすぐ先である。「四国のみち」の道案内も復活して古い住宅街の細い道を進んでいくと、明石寺の名前の由来となった白王権現の小さな祠があった。うら若き乙女が白い巨石を軽々と運んできたが、ここまで来た時に夜が明けてそのまま石を置き去ってしまったという伝説がある。
寺号は現在は「めいせきじ」と読むが、石を持ち上げるから「あげいし」で、真念の頃は明石と書いて「あけいし/あげいし」と読んでいた。だから「道指南」でも「四国辺路日記」にもそう書かれているし、ご詠歌でも「あげいし」と謳われているのである。このあたりの地名もまた「あげいし」である。
この白王権現のすぐ先で下から登ってくる車道に突き当たり、そこから先は急斜面の登り坂である。一日歩いてきて、最後にまたこの登り坂はしんどい。息を切らせながら登る。雨は小降りにはなったが、止むことなく降り続いている。
明石寺着。もうすぐ午後4時である。特に歯長峠口から明石寺まで1時間半かかってしまったのは予想外であった。後からGPSの記録を調べたら、遍路地図ではこの間5kmほどなのに、6.1kmも歩いている。ショートカットと思っていたらかえって遠回りだったようだ。
源光山明石寺(げんこうさん・めいせきじ)、源光山の山号は、かつて源頼朝はじめ源氏の一族が寄進したことによるものとされる。源氏の一族は以仁王の令旨を全国に運んだ新宮十郎行家や山伏姿で奥州に逃れた義経など、修験道との関わりが深い武将が含まれており、「あげいし」伝説も仏教より修験道の色彩が強い。
霊場記や四国辺路日記の記録に「僧侶はおらず修験者が住んでいる」とあるし、霊場会HPにも「明治までは神仏習合で、住職ではなく別当職がいた」と書かれているから、そもそも寺ではなかったのではないかと思われる。
あげいし伝説にしても、弘法大師や行基などの仏教起源の寺社伝説とはかなりの違いがある。それは明石寺だけでなく、月山神社以来の札所の多くに共通しているように思われる。おそらく、足摺山から菅生山に至る四国西岸の霊場は、それら同様に修験道由来の古い霊場なのだ。
本堂・大師堂は赤い屋根瓦に特徴がある。建物はかなり古びたもので、江戸時代以前のような趣きがあるが、明治時代に入ってからの建築だそうである。また、雨が激しくなってきた。その上、午後4時を回って急に暗くなってきた。そろそろ引き揚げる時間である。
雨の中大苦戦したが、ようやく明石寺が近づいてきた。明石寺は前方稜線をさらに右に行った先にある。高速道の下を行ったり来たりして距離をロスした模様。
明石寺は山の上にあり、最後の急坂はたいへんこたえる。さらに石段を上がってようやく本堂エリアへ。
本堂右奥に大師堂。こちらはそれほど古い建築ではない。
さて、この日の宿はJR上宇和駅近くにある宇和パークホテル。龍光寺前の「長命水」で看板を見ると、遍路地図では3kmと書いてある道のりが5kmとなっているのが気になっていた。そして、明石寺山門から左、山の中に入って行く道に「四国のみち」の案内標示があって、上宇和へはこの道を登れと指示しているのである。
つまり、遍路地図にある遍路道とは、この登山道なのである。時刻はもう午後4時半近い。雨の中、また街灯もない山の中、いくら距離が短いといってもそんな危ない真似はできない。車道なら5km、右足と左足を交互に出していれば間違いなく宿に着くのだ。ノータイムで車道を選択する。幸い、来る時は登り坂だったが帰りは下り坂である。
来た道を忠実に戻って行く。宇和高校の下校途中の生徒さんと再び一緒になり、再び「こんにちは」と挨拶される。上下ともレインウェアで白衣は着ていないのだが、大きなリュックを背負っているのでさすがに歩き遍路と分かるのだろう。街によっては全く無視というところもあるので、宇和高校の生徒さんは非常に気持ちがいい。
挨拶を返しながら歩いていくと、この日の朝以来となる国道56号に出た。この周辺は昔の宇和町、現在の西予市の中心部にあたる。JR卯之町駅は特急停車駅で、真念「道指南」にも「うの町 調え物よし」と書かれている大きい街であるが、宇和島や大洲のような江戸以来の城下町と比べるとやはり小さい。
上宇和は卯之町の次の駅だ。西予警察署から市役所を過ぎ、市街地をしばらく歩くと高いビルはほとんど見られなくなる。通りに面してよく名前を聞く松屋旅館がある。小さなビジネスホテルのような趣きだ。
街並みの背後には、すぐに山が迫っている。山はかなり高く、森は深い。明石寺から山道を歩いたら、当然ヘッデンは必要となった暗さである。それ以前に、道に迷う危険が大きく、遠回りして市街地を来たのは正解であった。明石寺から約5km、1時間ちょっと歩いて午後5時半過ぎに宇和パークホテルに着いた。
このホテルは国道から少し奥まったところにあって、しかも裏側が入口になっているのでちょっと分かりにくい。エントランスもフロントも古びていて、写真を見て予想していたのとはちょっと違っていた。コインランドリー完備の、サイクリングに最適の宿という触れ込みだが、洗濯機・乾燥機は2セットだけ、しかも屋外にある。
部屋は一時代前の洋室といった雰囲気で、40年前、私が就職した頃のビジネスホテルがこんなだったと思い出した。換気扇がうるさくてなかなか眠れなかったが、これは部屋の入口に付いているスイッチを見逃した私のミスであった。足の負傷があるので今回は部屋のユニットバスを使ったが、別棟に大浴場があってそちらに入ることもできる。
1泊2食7,000円(税込)の割によかったのは、夕食である。レストランのおばさんは「普段はバイキングで盛り沢山なんですけど」と恐縮していたが、箱弁当にお刺身、天ぷら、トンカツとカニの酢の物、茶碗蒸しまで付いては、生ビールを注文しない訳にはいかない。バイキングでないのは、歩いて取りにいかなくてもいいのでかえってありがたかった。
レストランの営業がないのに食事をつけなくてはならないのは自動車教習所の合宿教習らしい若い人達がいたからで、同じ箱弁当を持って別の部屋に行っていた。誰も酒類を頼んでいなかったのは、もしかしたら夕食後も講義があって禁酒なのかもしれない。
ベルリーフ大月から送った荷物が届いてその整理をしたり、GPSのデータ格納やブログ記事の更新、足の治療をしていたら遅くなって、寝たのは午後11時と今遠征で最も遅い時間になってしまった。この日の歩きは50,934歩、移動距離は30.1kmであった。
[行 程]仏木寺 12:15 →(5.6km)14:10 歯長峠口休憩所 14:20 →(2.8km)15:00 見守大師休憩所 15:05 →(3.3km)15:55 明石寺 16:20 →(4.9km)17:30 西予・宇和パークホテル(泊) →
[May 26, 2018]
午後5時半過ぎに宇和パークホテルに到着。明石寺からは安全な市街地の道を歩く。ホテル受付は国道からは裏になるので分かりにくい。
食事は1泊2食7,000円とは思えないくらいよかった。この日は食堂の都合でバイキングがなかったそうで、その方がよかった。
部屋は、40年前のビジネスホテルを思い出しました。荷物整理とパソコン作業のためバッグを送ってあったのだが、翌日のAZホテルにすればよかったかな。
別格八番十夜ヶ橋 [Oct 17, 2017]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
注.十夜ヶ橋永徳寺は2018年7月の西日本豪雨により、大きな被害を受けました。謹んで、お見舞い申し上げます。大洲市全体がTVで繰り返し放送されている状況ですが、十夜ヶ橋も橋の下にある弘法大師お泊り関連の施設が完全に水没してしまい、本堂も床上まで浸水、復旧には時間がかかりそうです。四国別格霊場会公式サイトで、最新情報をご確認いただいた上でご参拝ください。
宇和パークホテルで泊まった晩、夜中に右足親指が痛むのでロキソニンを飲む。午前5時前に起きて予備の荷物を送る。送り先は松山市内の「たかのこのホテル」である。デイパックは松山まで使わないと思って送ってしまったのだが、これが後からちょっと困る原因となった。
ところで、このホテルは設備こそ古いが食事はたいへんに良くて、朝のバイキングもたいへんおいしかった。パンとご飯が選べるのは他のホテルでもあるのだが、おかずが気が利いていてどれもおいしい。
卵焼き、ウィンナのケチャップ炒め、肉団子、野菜サラダ、ポテトサラダ、ほうれん草のおひたしとご飯・味噌汁をいただく。ブルガリアヨーグルトとヤクルト、果物とコーヒーも付いている。夕飯の時にも思ったが、これで1泊2食7,000円は安い。
部屋に戻って右足をしっかりテーピングする。左足のマメと水ぶくれは引いているが、こちらも念のため幅広のバンドエイドで保護する。靴下2枚履きはこの日以降右足だけにした。午前8時過ぎにホテルを出発。
まず国道の反対側にあるセブンイレブンに寄って、予備のペットボトルとリポビタンDを買う。2日前、愛南町のドラッグストアでマルチビタミンの錠剤を買い、前日の宇和島でもリポビタンDを飲んだ。右足の痛みがなんとかなっているのはこうしてビタミンを補給しているのが大きいかもしれないので、買えるものは買って飲めるものは飲むのである。
明石寺を出てから、真念「道指南」では卯之町、大江村、東多田村を経て大洲城下に入る。現在の国道56号線ルートである。真念は「戸坂」と書いているが現在の名前は「鳥坂」(とさか、と読む)で、峠はトンネルになっている。
真念のいう大江村、現在の宇和町大江には場外車券・舟券売場のサテライト西予があり、ここには仕事で来たことがある。その時、どこに泊ればいいですかと聞くと、「卯之町には泊まるところがないから、松山に泊まって電車で来るといいよ」と言われたことを思い出す。確かにビジネスホテルはあまりないようだ。
雨は小降りながら朝から降り続いていて、この日も上下モンベルのレインウェア。これで4日連続である。用意した白衣2セットはずっとリュックの中で、軽いとはいえムダな荷物だなあと思ってしまう。そして、いかにモンベルとはいえ3日も着ていると防水機能が弱くなっているような気がする。汗をかいたのが乾き、白く汗じみになっているのも嫌な感じだ。
国道56号線はかなり交通量が多く、歩道を歩いていても水しぶきが飛んでくるので神経を使う。食事の時まわりの人達の話を聞いていたら、このあたりは高速道路の無料区間ではないので、みんな一般道に出てくるのだということを言っていた。世知辛い話ではあるが、歯長峠に車がなかったのは高速が無料だったのかと納得した。
1時間半ほど歩いたけれども国道沿いには休めるところがなかったので、信里というところで旧道に入った。古い住宅街のたいへん静かな道だ。集落の中ほどにお堂があり、ベンチも置かれているのだが、シャッターがあり入れないようになっていて、鍵もかかっている。門扉のところに、印刷してパウチされた注意書きが貼られている。
「信里庵参拝者の皆さまへ この信里庵は私有地です。参拝していただくのは有難いことですが、宿泊等は絶対にしないようお願いします」おそらく、職業遍路と呼ばれる人達が無断で野宿し、ゴミ等を放置して行ったのだろう。
以前、鶴林寺へ登る途中の東屋でゴミやウィスキーの空瓶が放置してあったことを思い出した。寂しいことだが、そういう人達が我物顔でそうした行為をするのだから立入禁止を食らうのも仕方がない。そんな人達がさらに増えるのならば、お遍路を世界遺産になどしなくていいとつくづく思う。
その少し先に、杖と菅笠を持った小僧さんのイラストと、「ひとやすみ 一休み」と書かれた陶板と、その横にベンチのように置かれた石が道端に置いてあった。
どうみても道路ではなく住民の敷地の中だし、さきほどのお堂の注意書きもあったし、「これはオブジェです」と言われたらどうしようかといろいろ考えたが、しばらく休んでいなかったので腰を下ろして休ませていただく。この先はまた峠である。体力を回復させなければならない。
宇和パークホテルの朝。これで4日連続の雨。駐車場とセブンイレブンの間を国道56号線が走る。
大洲に向かう国道沿いには、場外売場サテライト西予がある。無料施設なので、いざとなればここで休むことが可能。
旧道沿いにあったプライベートな休憩スペース。オブジェだと言われたら心配だが、「一休み」と小坊主のイラストがある。
9時50分、石のベンチの休憩所を出発。また、雨が本降りになってきた。これから登る鳥坂峠(とさかとうげ)の方向を見ると、山の中腹まで雲が下りて来ており雨は止みそうにない。曲がりながら登る坂道を傘を手に黙々と歩く。自分以外にお遍路姿を見ることができない。
10時20分、鳥坂隧道1117mの入口に着いた。国道なのにトンネルとは呼ばず隧道というくらいだから古いことは間違いないが、歩道がなくたいへん危険だと定評のあるトンネルでもある。山の中に峠越えのへんろ道はあるようなのだが、この天気で山道を歩くのはトンネル以上に危険である。
トンネルの30mくらい前に、国道事務所が設置した反射タスキ収納箱が置かれている。このタスキをして国道に入り、出口の収納箱にしまってくださいと書かれている。収納箱の扉を開けると、濡れたお遍路の納札がたくさん入っていた。納札はいつでも出せるようになってはいるが、ここに入れてもゴミになるだけで片付ける人が大変だ。自己満足のため入れても仕方がないと思ってそのままタスキをお借りした。
タスキをお借りしたのはいいのだが、雨が強いので身支度することができない。普段ならトンネル入口の雨が当たらないところで身支度するのだが、車道と歩道の境目がないのでたいへん危険である。
車が通り過ぎるのを待って、リュックを下ろし身支度する。次の対向車が来るまでの短時間で、折り畳み傘をしまいヘッデンを出して、最後に反射タスキを掛けた。白線の外トンネルの壁までは、排水溝の蓋の部分50cmほどしかない。対向車がなければ車は少しよけてくれるが、対向車があると体のすぐそばを通る。とてもこわい。
緊張して早足で歩いたので、1kmがそんなに長く感じられなかった。鳥坂隧道を出ると左手に景色が開けているが、雨はトンネルに入る時よりも激しい。タスキを格納箱に返し、少し先にあった屋根のある工場の入口をお借りして、ヘッデンをしまい、再び折り畳み傘を広げた。国道のキロポストは朝見た時松山まで69kmだったが、トンネルを出ると60kmになっていた。
トンネルの先は歩道が復活して、トンネルの中より安心して歩くことができた。下り坂なので、それほど苦労せずに距離を稼ぐことができる。問題は雨なのだが、風がそれほど強くないことが救いである。
トンネル出口から3kmほど歩いて、11時30分に札掛ポケットパークという休憩所に着いた。このポケットパークは宇和島への途中にあった嵐坂のポケットパークと同じ仕様で、駐車場といくつかの東屋、水道とトイレが付いているが売店や自動販売機はない。ゴミ処理や掃除をするのを兼ねて売店を置くのがいいのか、そもそも汚さなければいいので何も置かないのがいいのか、難しいところである。
ともかくも、リュックを下ろして東屋に落ち着き、大休止。ヴィダーインゼリーでお昼にする。この札掛という地名は弘法大師が休まれた際、お札を松の木に掛けたという故事にちなむものという。しばらく前には遍路道沿いに札掛大師堂という番外霊場があったが、管理する人がいないので現在では荒廃しているらしい。
この札掛大師堂を最後に管理していた人は、室戸岬近くの法海上人堂を管理していた人だとどこかに書いてあった。札掛大師堂はWEBでみるだけでも悲惨な状況だが、法海上人堂も遠からずそうなりそうな雰囲気を醸し出している。
思うのだが、ハードだけ復興したところでソフトが伴わなければ、いずれ旧に復するだけである。もし滅びゆく定めにあるものならば、そのままそっとしておくのが一番よく、変にもう一度設備を整えてなどと思わない方がいい。札掛大師堂も、復興して維持できた年数より粗大ゴミとなって朽ちて行く過程にある年数の方が全然長いのである。
札掛大師堂というハードは荒廃しても、札掛という地名と、その由来となった弘法大師の伝説は次の世代に残る。それでいいのではないかと思うのである。
鳥坂(とさか)隧道前のタスキ収納箱。箱の中に納札するのは、片付ける人が大変なので止めた方がいいのでは。
収納箱から100mほどで鳥坂隧道。このトンネルは歩道がなく、すぐ横をトラックが飛ばして行くので大変怖い。タスキは必需品である。
トンネルから3kmほどで札掛ポケットパーク。ポケットパークは愛媛県に整備されている国道沿いの休憩スペースで、東屋、トイレ、水道がある。
11時50分札掛ポケットパークを出発。さらに40分ほど坂を下って行き、国道56号と197号、高速道路入口が交差する大洲市街の入口に着いた。
大洲市街に向かっている時、スピーカーから正午を知らせる一斉放送のチャイムが流れてきた。なんだか、「おはなはん」のテーマに似ている。この曲はクラシックか何かを使ったものだったのかと思っていたら、大洲市内には「おはなはん通り」というのがあったので、まさしくNHK朝のドラマであった「おはなはん」のテーマ曲をチャイムに使っているのであった。
「おはなはん」が放送されたのはもう半世紀前になる1966年。このドラマはたいへんな視聴率で、1983年に「おしん」が出てくるまで、NHK朝ドラの代名詞だった。そのドラマの舞台がここ大洲であり、大洲市ではいまだにこの曲をチャイムに使っているのである。
朝ドラといえば、北海道でもうすぐ廃止される留萌線の恵比島駅がいまだに「明日萌駅」として整備されているのは1999年「すずらん」以来だから、それと比べてもたいへんに長い(明日萌駅のロケ駅舎の方が、本物の恵比島駅より大きい)。
大洲市内の入口で道がいくつかに分かれるが、どの道でも大洲城に通じているだろうと車通りの少ない国道197号線に入る。行先表示をみると「↑大洲市街」と書いてあるので間違いないと思っていたら、どんどんひと気のない方向に道は続いている。
川の向こう岸に見えていた国道56号線はいつの間にか見えなくなってしまった。これは遠回りになってしまったかな、それでも方向は間違えてないんだからと歩いていくと、道端の電柱に遍路シールが貼ってあったので安心する。
半信半疑で矢印の方向を追っていくと、ダムのような大きな貯水池のようなところで左に折れる。臥龍の湯という温泉の横を通って、古い街並みに出た。まっすぐ進むと国道56号線で、近くに「おはなはん通り」があると書いてある。なんとか位置の分かるところに出ることができた。
古い街並みは江戸時代から続く武家屋敷や明治時代の赤レンガ館などが集まっているもので、観光客らしきグループも見ることができたが、なにしろ雨の中である。そして、大洲市街に入ってますます雨足が強くなってきた。傘をしっかり差して、とにかく十夜ヶ橋を目指して歩く。
さて、宇和島市も大きな街で市街地に入ってから龍光院まで2時間以上かかったが、大洲も同様であった。そして、鳥坂峠から大洲に入ると十夜ヶ橋は市街地の反対側になるので、ますます遠い。古い街並みを過ぎ、大洲城を横に見て、JR大洲駅のあたりを過ぎても、まだまだ十夜ヶ橋には着かない。
計画段階では、十夜ヶ橋をお参りしてから大洲に泊まることも考えたが、大洲のホテルはほとんどお城の近くとかJR大洲駅の周りにあって、十夜ヶ橋からだと戻ることになる。その戻る距離も半端なく長い。オオズプラザホテルが比較的近いけれども、戻らなければならないのは同じである。それでそのまま内子まで歩くことにしたのであった。
結局、正午を少し回ったくらいで大洲の市街地に入ったにもかかわらず、十夜ヶ橋に着いたのは午後2時を過ぎてからだった。その間、雨の中を休みなく歩き続け、古い街並みもお城も横を通っただけでゆっくり見ることはできなかったのは残念であった。
正午過ぎにようやく大洲市の入口まで着いた。50年前の朝ドラ「おはなはん」のテーマが正午のチャイムとして流れる。
大洲市内には江戸時代・明治時代の古い建築物も多く残っているが、なにしろ雨が激しくて、十夜ヶ橋へのルート以外に寄る余裕がなかった。
国道からみた大洲城。このあたりから十夜ヶ橋まで、まだ1時間以上かかる。
道指南ではさりげなく「とよか橋 ゆらい有」と書かれている十夜ヶ橋(とよがはし)。かつてここへ来た弘法大師が、宿を乞うたけれども泊めてくれる家もなく、やむなく橋の下で過ごしたが寒さがたいへんに厳しく、一夜が十夜に感じられたという伝説がある橋である。
遍路は橋の上で杖を突いてはいけないというルールは、この橋の下に弘法大師が泊られたという由来に基づくという。ただ、私はこの説には疑問を持っている。というのは、弘法大師の時代には後の時代のように立派な橋はできておらず、せいぜい丸木橋に毛が生えた程度だったはずだからだ。
実際に、かなり時代が下るまで渡し船というのは各地に残っていたし(昭和初めでも数多くあった)、真念「道指南」にもいたるところに渡し船を使う箇所が登場する。古い時代の橋というと義経・弁慶の五条大橋が有名だが、あれだって12世紀、弘法大師の時代とは300年以上違う。橋の下で寝られるような大きな橋は、弘法大師の時代にはなかった。
だから、この伝説が成立したのはもっと後の時代、戦国時代よりも後ではないかと想像している。真念もこの話を聞き(道指南に書いてあるから聞いたのであろう)、弘法大師の時代とするとおかしいと思ったので、細部を割愛したのではなかろうか。ちなみに、「霊場記」「辺路日記」には十夜ヶ橋の記事は載っていない。
話は話として、ここには別格八番札所である永徳寺がある。別格霊場は龍光寺に続くお参りで、八十八ヶ所の順路にあるものについてはできるだけお参りしたいと考えている。
国道56号の左側の歩道を歩いていたところ、十夜ヶ橋への進路は高速道路の出入り口になっていて歩行者の横断ができない。やむなく横断歩道を三回渡って永徳寺の前に出る。通りに面して本堂と納経所があり、その右手に渡り廊下で大師堂がつながっている。大雨の中ではあるが、何人かのグループが本堂前でお参り中であった。
大師堂の前、国道沿いには東屋があって、サイクリング中らしき外人さんが雨宿りしていた。そして、その東屋の横から橋を渡って川沿いに下りる石段があって、橋の下には石像や香炉・ろうそく立て・花立てなどが並べられている。
ご朱印をいただいた後、そこまで下りてみる。左の大き目の大師像は腕を枕におやすみになっているが、右の小さ目の大師像は小さな布団がいくつも掛けられている。これは病気平癒・身体健康のための加持の布団だそうだ。
ベンチがあるので腰かけてしばし物思いにふける。川は水面がすぐ近くだが、濁っていて下水の匂いがする。野宿用のゴザを貸し出していると聞くけれども、ここで泊まれと言われても寒さより匂いでギブアップだろう。それでも、有料で鯉の餌が置かれている。この水の中でも鯉は育つのだろうか。
池の水全部抜きますという番組で、最後は泥のようになった水の中からなんとかガーだかギーだかに体を齧られた鯉が現われるから、水が汚いのも平気だし少々のケガにも耐えられるのだろう。雑食とも聞いたことがある。
この十夜ヶ橋永徳寺には、大師に倣って一泊するための通夜堂も作られているということだが、どこにあったのかよく分からなかった。すでに橋を渡って反対側に来てしまったので、雨の中を戻って探す気力もない。14時50分出発。かなりゆっくりした。この日の宿は10km先の内子である。
[Jun 2, 2018]
十夜ヶ橋永徳寺は国道の左側にあるが、高速道の入口になるため横断歩道を渡ってからしか入れない。
永徳寺本堂と納経所。十夜ヶ橋は、この写真でいうと納経所の右側になる。
橋の下におやすみになる弘法大師像。8~9世紀にこんなに大きな橋はないと思うが、そこは信仰の問題だろう。
内 子 [Oct 17, 2017]
さて、少し話を変えてスケジュールのことを書きたい。今回の区切り打ちでは西予(宇和パーク)→内子(AZ内子)→久万高原(ガーデンタイム)と泊まったのだが、連日の雨の中、久万高原へは峠越えの35kmという非常にきびしいスケジュールとなってしまった。
後から反省したのだが、足を痛めたうえ天候に恵まれないという今回のようなケースに備えて、何日かに一度は1日20kmくらいの日を挟むのが安全だろうと思う。雨だけでなく風も強く、とても歩けないという日もあるかもしれないし、万一の場合、病院に寄らなければならないことだって考えられるからである。
その意味では、今回のスケジュールでは大洲に1泊するのがよかったかもしれない。実際、十夜ヶ橋を出たのが午後3時近かったのだからもうホテルに入っていい時間だったし、そういう余裕があれば古い街並みとかお城にも寄れただろう。
実は計画段階で大洲泊も考えたのだが、それを断念したのは内子から先にはバスがないと思っていたからである。遍路地図にはバス停の表示があるけれど調べてみるとデマンドバスで、歩き遍路には使えないと思った。
実際に、落合トンネルや三嶋神社を走っているのはデマンドバスなのだが、歩いてみると内子・小田間だけは定時の乗合バスなのである。大洲スタートで内子の13km先にある梅津バス停まで歩いて内子まで戻り、翌朝バスで梅津まで行ってリスタートすれば、二日とも25kmくらいのコースになり、より安全なスケジュールになった。
もっとも、今回それをやれば松山に入る時に台風直撃を受けたかもしれないので、どちらがよかったかは何ともいえない。ただ、朝早くから夕方までスケジュールをこなすためだけに歩くというのは精神衛生上もよくないので、次回の区切り打ちからはそのあたりを考慮したいと思う。
十夜ヶ橋を過ぎても、雨はいっこうに弱まらない。レインウェアの中も、雨なのか汗なのか乾く間もなく濡れたままで気持ちが悪い。そして、大洲から内子まではなにげに登り坂なのだ。
国道56号はJR内子線と並行して走る。大洲の次の駅である新谷(にいや)あたりに、「銀河鉄道999の始発駅 新谷」の横断幕が貼られていた。銀河鉄道は東北のはずだが、なぜここが始発なんだろうと思った。帰ってから調べると、男おいどん・松本零士が戦争中に疎開していた土地なのだそうだ。
さて、寒いし登り坂だし大雨だしたいへんつらい。考えてみたら、大洲市内に入る前に札掛ポケットパークでヴィダーインゼリーを食べただけで、もう午後3時を過ぎているのにまともな昼食を食べていない。新谷を過ぎてしばらく先、遍路地図でサンクスと書いてある場所にファミマがあった。店の中は湯気が立ってあたたかそうだ。
この日の夕食はホテルのバイキングなので、多少食べて行っても大丈夫だろうと、ずぶ濡れのリュックを店の外に置いて店内に入る。おでんが温かそうに煮えている。適当に3品選び、ファミチキも付けて500円ほど。イートインコーナーに座り、何時間ぶりでほっとする。
そういえば、大洲市内では何も食べる気が起きなかった。遍路歩きをしていると、市街地はあまり気持ちいい場所ではないのである。休む場所はないし、車は多いし、雨の日には水しぶきが飛んでくる。これで4日連続の雨。翌日の予報も芳しくなく、今回の区切り打ちは空模様に恵まれない。
そんなにゆっくりしてはいられないので、午後4時前にファミマを出発。多少は回復したが外は依然として大雨で、あまり意気が上がらないまま内子を目指す。残りあと6kmほどである。
十夜ヶ橋を渡って内子に向かう。おやすみになる弘法大師像が橋の真下にある。雨は依然として激しい。
十夜ヶ橋から約4km、内子まで約6kmの地点にあるファミマ大洲新谷店。ずぶ濡れのリュックを置いてあたたかいおでんで一息つく。
登り坂になっている国道56号を登って行く。家並みが続いているところもあれば、原野や森林しか見えない場所もある。30分ほど登った頃、左に折れる分岐があって「→五十崎(いかざき)駅」と書いてある。どうやら遍路地図に載っている点線はこの道のようなのだが、いま歩いている国道と比べてかなり道幅が狭い上、すぐ先には山が迫っている。このまま国道を行くことにした。
五十崎駅への分岐を過ぎると道はさらに急傾斜となり、高架上を走る高速道路と交差するあたりで峠を越える。大洲を出てからここまでずっと登り坂だったので、これ以上登らなくて済むと思ったらかなり楽になった。国道は左にカーブして、そこから直線でずっと下っている。下った先に街が見える。内子市街である。
少し戸惑ったのは、この直線道路の中ほどで歩道がなくなってしまったことである。そこから車道だけが続いていて、歩行者は側道に下りるしかない。仕方なく横断歩道を渡り側道へ下りて行くと、そこに「大宝寺→」の大きな看板があった。大宝寺はまだまだ40kmほど先になるが、とりあえずこの道を進めばよさそうだ。
左に曲がったり高架下をくぐったりして10分ほど歩くと、再び国道56号線に出た。行先表示を見ると、松山までの距離は42kmとある。朝、西予市内でみた時は69kmだったから、龍光寺・仏木寺で国道から外れたが、それでも1日で27km稼いだことになる。
内子の街は宇和島や大洲ほど大きくなく、10分ほど歩くと中心部に出た。予約したAZホテルは最近開業したホテルで、私の持っている遍路地図に載っていないので迷うかもしれないと思っていたが、国道に沿って役所の分庁舎の先にありたいへん分かりやすかった。ホテルの先にある郵便局でおカネを下ろしてから17時25分、チェックインする。
このAZホテル、1泊2食で6,130円(税込)とたいへんリーズナブルなのに設備は最新で宇和パークホテルとは雲泥の差がある。部屋はきれいでもちろんwifi完備、コインランドリーはもちろん屋内にある。ユニットバスもぴかぴかで空調も静かで、スケジュールに余裕があればもう少しゆっくりしたかった宿である。
物足りなかったのは夕食だった。バイキングなのは分かっていたのだが、ライスとカレー、サラダ、あとは業務用のレトルトと思われるいわしの煮付け、大根の煮付け、豚肉のキムチ炒めがあるだけだった。まあ、この値段だし、レストランはフロントの職員が兼務していたので仕方がないかもしれない。その中で、生ビールが300円台なのは良心的だった。
翌日の朝は5時台に出発しなければならないので、フロントにチェックアウトは大丈夫か確認して、ついでに近くにコンビニがないかどうか聞いてみた。「コンビニは国道を10分ほど行くとありますが、スーパーがすぐ近くにあって、そちらは10時までやっています」ということであった。そういえば、来る時に分庁舎の向かい側にショッピングセンターがあった。
後で行ってみると、食料品だけでなく生活用品も扱っているそこそこ大きなスーパーだったのだが、慣れないせいかどこに何が置いてあるのかよく分からない。欲しかったのは翌朝の朝食にするサンドイッチなのに、パン売場には菓子パンしかなく惣菜売場にはご飯ものしかない。
雨の中を一日歩いて体力がほとんど残っていなかったので、スーパー内を歩いて探し回る気力が残っていない。仕方なく、菓子パンやヨーグルト、野菜ジュース、非常食にするヴィダーインゼリーとバナナ、ここ数日恒例になっているリボビタンDを買って終わりにした。この日の歩数は54,487歩、移動距離は30.2kmであった。
[行 程]十夜ヶ橋永徳寺 14:50 →(3.7km)15:40 ファミリーマート 16:00 →(5.4km)17:25 内子・AZホテル(泊) →
[Jun 16, 2018]
内子の一つ前の駅である五十崎(いかざき)までずっと登り坂。五十崎を過ぎてようやく下りになり、遠くに内子市街が見える。
心配することもなく、AZホテルはすぐ分かった。スーパーはホームセンターダイキの奥にある。
AZホテル内子はたいへん新しいきれいなホテルで設備も整っており、もう少しゆっくりしたかったです。
三嶋神社 [Oct 18, 2017]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
十四ヶ橋から大宝寺までは、内子から大瀬、三嶋神社、鴇田(ひわだ)峠を経て久万高原に入る。現在では国道380号、農祖峠など別ルートもあるが、真念「道指南」では鴇田峠の決め打ちである。「天然の幽景 目をおどろかす」と絶賛しているエリアである。
ただし、内子から久万高原に至るまで峠越えで約35kmの距離があり、ちょうどいい位置に宿がない。落合トンネルから広田に出ていったん泊まることも考えたが、内子から約20kmだとかなり早く着いてしまう。ところが落合トンネルから先は、久万高原まで約15kmの間に宿がない上に2度の峠越えになる。今回の正念場ともいえる一日であった。
(十四ヶ橋のところで書いたように、内子・小田間にはバス便があるので、大洲に泊まって翌日大瀬あたりまで歩き、内子に引き返して泊まればスケジュールが少し楽だった。)
きついことは初めから分かっていたが、内子に入るまで4日間雨が続き、この日も雨予報となることまでは予想していなかった。35km歩くだけでもきついのに、標高100m以下から歩き始めて570mまで登り、いったん下ってまた790mまで登り、それから300m下るというアップダウンを、しかも雨の中である。お遍路は天候を選べない。仕方のないことである。
AZホテルの朝食は午前7時からなので、食べてから出発してはとても夕方までに着かない。だから朝は自分で用意した。そして、道中には昼を食べる食堂も売店もないという情報である。だから前日にホテルで教えてもらった近くのスーパー「フジ内子店」に行ってみたのだが、探し方が悪いのかサンドイッチが見つからない。
後から考えると、助六寿司でもおにぎりでもよかったのだが、パンにこだわってしまった。食べなれたランチパックは何とか入手できたけれど、菓子パンでよさそうなものはない。朝食にヨーグルトとリポビタンD、昼食にバナナとヴィダーインゼリーを用意するのがせいぜいで、このあたり連日の疲れで頭がまともに働いていなかったようである。
午前3時半に起きる。体調は悪くない。左足のマメは収まった様子で、右足の爪はテーピングで固定している限り痛みはない。5時半に出発。この日は長丁場なので、前日に引き続いて最初から上下レインウェアである。前の晩からこの時間に出ることを伝えてあったので、ちゃんとフロントの人がいた。
まだ外は真っ暗だったので、ヘッデンを点けて歩く。予報では雨だが、まだ降っていなかった。せっかくなので、内子座を見ていこうと役所の方向に戻る。まだ真っ暗なのに、犬の散歩をしている人や軽トラに乗って朝の支度をしている人達に会う。街並みは古いけれども、両側に並ぶ建物は由緒ありそうである。
内子座は通りから少し入ったところにあり、色とりどりの幟が目印となる。ベンチも置かれているので、晴れていれば多くの人達が訪れるのだろう。大洲もそうだが、この内子は生糸や蝋などの集積地として栄えた土地である。それらの商売で大儲けした人達がパトロンとなって大正時代に作られたのが内子座であった。
いまや、生糸も蝋も生産が縮小してしまい、この建物も取り壊される寸前まで陥ったのだが、古い街並みを残そうという動きが高まり、改修されて今日に至っている。中には昔ながらの桟敷席があり、能・狂言や歌舞伎、文楽などの公演が定期的に行われている。何よりのことである。建物は暗くてよく見えないが、ポスターや浮世絵風の飾り看板が付けられているのが見える。
内子座に寄った後、道なりに山の方に向かう。古い街並みには、薬屋や酒屋、米屋などの看板がかかっている。実際に営業しているのか飾りで残しているのか、暗いのでよく分からない。でも、しばらく街並みは続いていたので、かなりの規模といっていいだろう。
道の駅まで来た時、ちょうど午前6時のチャイムが鳴った。大洲ではないので「おはなはん」ではなく普通のチャイムだった。あたりは明るくなってきた。道の駅内子は早くも開店の準備をしていて、中には電気が点いている。歩き始めたばかりでまだ休むには早いので、そのまま通り過ぎる。
ここで道は国道56号線から分かれて379号線に入る。道は川に沿って登り坂だが、ほとんど平坦に感じられるくらいの緩い傾斜である。しばらく歩くと地面に刺された柱に「52」と書いてある。メジャー国道のものとはかなり違うけれども、キロポストのようである。これがあると目安になり、歩くのがたいへん楽になるのだ。
内子座は大正時代に生糸や蝋の製造で大儲けした当地の有力者が作った小屋で、いまでも歌舞伎などの公演が行われている。まだ暗いので誰もいなかった。
ようやく夜が明けた。国道379号線は小田川をさかのぼって進む。
天気予報を聞いて、いくつか考えたことがあった。降水確率が午前40%、午後80%なので、ほぼ確実に雨が降る。距離は35kmとこれまで歩いた中でも最高に長く、しかも標高差800m近い峠越えがある。まず第一に、雨が降り出す前にある程度の距離を稼いでおかなくてはならない。
第二に、大雨になって峠越えが難しいとすれば、より安全な道を選ぶ必要がある。
前者については、内子から約20kmの落合トンネルまで、正午前に到着することを目標とした。落合トンネルから残り15kmを6時間なら、どんなにへたばっても何とかなる。
そして、後者の経路については、へんろ道にこだわらず車道を歩くことも考慮に入れた。なにしろ、仏木寺への「四国のみち」で大変な思いをしているし、遍路地図のルートもあてにならない。場合によっては、距離は長くても国道を経由した方が安全かもしれない。
内子から国道379号に入り、小田川に沿ってなだらかな登り坂を遡って行く。遍路地図をみると両側を山に挟まれた狭い谷を進むような印象があるが、実際には川の両側が開けていて、山は後方にある。
しばらくは人家が続き、その後点々と農家が続く田舎道になる。㌔ポストを頼りに歩く。379号に入ってからしばらくして52kを見つけ、その後も15分置きに㌔ポストを見つけた。49kを通過したのは午前7時ちょうど。その後長岡山トンネル392mを通過、次に見つけた㌔ポストは47kを7時半。登り坂ではあるが㌔15分のペースを維持している。
住居表示が大瀬になった。遍路地図によると大瀬にはいくつか遍路休憩所があるはずなのに、国道を歩いていると見当たらない。仕方なく、道端にあったベンチに座って小休止。
すぐ前で路肩の斜面を工事していて、ずいぶん上の方から地面に何かを投げ落としている。谷に反響してたいへんうるさい。空全体がどんよりと曇り、いつ降ってきてもおかしくない空模様だが、いまのところ大丈夫である。歩き始めて間もなく「四国のみち」の東屋があった。休んだばかりなので、ここは通り過ぎる。
大瀬はノーベル文学賞作家・大江健三郎の出身地で、旧道に入れば記念館があるらしいが、そもそも大江健三郎を読んだことがない。
川端康成だってろくに読んだことはない。日本の純文学作家でちゃんと読んだのは、夏目漱石と村上春樹くらいのものである。ノーベル文学賞が何を基準に選んでいるのかよく分からない。もっとも他人のカネが他人に行くだけのことで、正直どうでもいいことだが。
川を挟んで国道側から旧道方向を眺めていると、見覚えのあるお堂が目に入った。千人宿記念大師堂である。これは、この地の篤志家がお遍路さん1000人を泊めたことを記念して昭和初期に建てたものということで、現在も善根宿として使われている。遍路地図にも載っているし、いろいろなWEBで紹介されているので、見覚えがあったのである。
千人宿大師堂を 通り過ぎると柳瀬トンネル348m。トンネルを出てしばらくすると梅津バス停の前に小振りの休憩所が見えてきた。「休憩所 お寄り下さい」の表札と、中に額装された八十八ヶ所のご朱印が見えるので、バスの利用者でなくても休んでよさそうだ。
バス停前の道路には、「内子道の駅まで13k」とペイントされている。すでに13km余り歩いてきたということである。時刻は午前9時半、リュックを下ろして休ませていただく。
朝食が4時台だったので、ここでバナナ2本の栄養補給。皮はビニル袋に入れてちゃんと持ち帰る。トンネルをくぐるごとに微妙に空模様は変化していて、このあたりでは進行方向の空が明るくなってきた。今のところ計画どおり歩けているけれど、雨が降らない間にできるだけ前に進まなければならない。10分休んで出発。
このあたりでは道端に柿の無人販売屋台が置かれていて、車を止めて買っていく人を時々見かけた。道の両側から山の斜面にかけて、だいだい色の実をつけた柿の木畑が大規模に広がっている。値段をみると、100円でビニル袋に6~7個入っている。私は柿を食べないので相場がよく分からないが、帰って奥さんに聞くと格安だそうである。
ちょうど収穫の時期にあたるようで、どの木にもほどよい大きさに育った柿が実っている。その木々が山の斜面の高いところまで続いているのは壮観であった。
そのすぐ先が、小田川と田渡川(たどがわ、と読むようだ)の合流地点である突合(つきあわせ)である。遍路地図は突合の集落に入る経路をとっているが、国道の行先表示に沿って進むと集落に入る前に左折して吉野川トンネル330mをくぐる。これまでも車通りは多くなかったが、道が分かれてさらに少なくなった。
内子から3時間ほどで大瀬集落に到着。ここは大江健三郎の出身地だ。現役の善根宿・千人宿大師堂も川の向こう側にある。
梅津バス停前にある休憩所。弘法大師様のお姿が見えるので、遍路も休んでよさそうだ。
写真だと分かりにくいですが、山の斜面はすべて柿の木で、柿色の実が無数の点々になって見える。路肩で直売もされている。
田渡川に沿って中田渡、上田渡の集落があり、中田渡には「なみへいうどん」というお店がある。しばらく前から案内板があったので、山小屋風の小さな店だろうと思っていたら、製造直売の工場兼の店舗で、小ぶりの道の駅くらい大きいのには驚いた。
食べていけたらよかったが、営業時間は午前11時からで、まだ10時40分。空模様を考えて先に進まざるを得ないのは残念なことであった。なみへいうどんの開く11時には、次の上田渡の集落に着いていた。ここには薬師堂があって、遠くからよく目立つ。幟も見えたのでお店もあるのかと思ったが、休日だけのようで自販機しかなかった。
こちらの休憩所もバス停待合室を兼ねている。しかし、内子・小田間は定時バスだったのに対し、このあたりのバス停には「買い物バス乗り場」と書いてある。いわゆるデマンドバスで、地元の方が役所に電話して予約するバスなのであった。時刻は午前11時を過ぎたところなので、ここで昼食休憩とする。
ここから落合トンネルまであと1kmほどだし、この先ちゃんとした休憩所があるかどうか分からない。それに対して、この休憩所には水洗トイレが付いている。薬師堂前の自販機で温かいコーヒーを買い、前日スーパーで買ったランチパックでお昼にする。ランチパックの味は全国共通で、しかもピーナッツバターなので当たり外れがない。
11時半出発。幸い、ここまで雨は降っていないが、午後は降水確率80%である。15分歩くと落合トンネル103mに着いた。このトンネルは平成4年の竣工だが、工事後20~30年とは思えないくらい年期が入っている。金属部分はサビだらけだし、コンクリ部分は苔むしている。はじめは、こんなになるまで手入れしなかったのかと思った。
もちろん、過疎地帯でそんな所まで手が回らないということもあるのだろうが、おそらくそれ以上に影響するのは、この地域はたいへん雨が多いということである。そういえば、ここまで登ってくる道にあった地すべり防止のコンクリにも分厚く苔が生えていた。本州であれば主に北側の斜面がこうなるのだけれど、こちらでは北側だろうが南側だろうがこういう状態なのである。
このあたりを歩いている時に不愉快なことがあった。正確な位置は覚えていないけれど、私が登りで、向こうから私同様に遍路姿の年配男が歩いて来た。この日唯一出会ったお遍路である。「こんにちはー」「こんにちはー」「どちらまでですか」「久万高原まで」ここまでは何の問題もない。
だんだん距離が縮まって、すぐ横に並ぶところまで来るとそのじいさんが「私も久万高原から来たんですけどね。朝から・・・」立ち止まってべらべら話し出したのである。相手をせずに通り過ぎたが、たいへん気分が悪かった。
用事があれば遠くからでも言えばいい。「水が手に入るところはありますか」「タクシーはどこで呼べそうですか」など差し迫った用事であれば、お互い様だから手伝えるところは手伝う。しかし、どうでもいい話を自分が下り坂の時にするというのは、何を考えているのかということである。その間、相手は登り坂で立ち止まなくてはならないのだ。
山に行くと登り優先なのは、下りで急ぐと転落の危険があるということが一つと、足を止めるのは下りの時は簡単だが登りの時はリズムが崩れて負担が大きいからである。登ってくる人にできるだけ負担をかけないようにという思いやりなのだ。
どうでもいい話の相手をするために、なぜこちらがきつい思いをしなければならないのか、たいへん腹立たしかった。そもそも、登りの時は息が切れるので話しづらいのだ。
突合(つきあわせ)集落の前で国道が分岐する。歩きのときは久万高原方面ではなく、「松山・砥部方面」へ379号を直進。
上田渡(かみたど)集落の交差点に薬師堂が見える。水洗トイレと自販機もあり休憩適地。この後こういう休憩所はほとんどない。
内子から20km歩いて、お昼前に落合トンネルに到着。銘板によると平成になってからの竣工だが、それ以上に古く感じられるほど苔と錆びがいっぱい。
落合トンネルを越えたところで、国道と県道が分岐する。まっすぐ国道を行けば砥部町を経て松山に出るが、久万高原に行くには右に県道を進まなければならない。ほっとしたのは、行先表示に「久万高原町 23km」と書いてあったことである。
この日の朝、風雨が激しくなったら峠越えはあきらめて国道を歩こうと思っていた。幸い、雨は降らずにここまで来て、あと久万高原まで残り15kmというところだが、車道を通っても23kmであれば6時間あれば着く。まだお昼前だから、その場合でもなんとか夕飯には間に合う計算である。
県道は曲がりくねった登り坂で、しかも道幅が狭い。国道から県道になって、ぐっと傾斜が増したような気がする。
WEB情報によると水場があるということで、確かに道端に水が出ているところが何ヵ所かあった。遠征の初めの頃のような天気であれば喉を潤していくところだが、雨がいまにも降りそうな天気で汗をあまりかかない。喉も乾かないので、しばらく前に買ったペットボトルで間に合ってしまうのだ。
遍路地図をみると落合トンネルから三嶋神社までひと気のないところを歩くような気がするし、実際に人家の見えない山の中を歩くケースは多かったのだが、点々と集落があるのは意外であった。
ひとしきり登ったところに小集落があり、そこには例の買い物バスの東屋がある。傍らに村内案内図の大きな看板があり、ここから三嶋神社までいくつかのバス停があるようだ。そして三嶋神社から先にも、いくつかの集落とバス停がある。
道は一車線の細い道になったり、再び片側一車線の整備された道になったり統一されていない。集落と集落の間はひと気のない山の中であり、こんな場所で道路を整備してどうなるものでもないと思うのだが、まあ地方には地方の事情がある。道の駅大月の選挙演説で主張されていたとおりである。もっとも、この山の中までは選挙カーもやって来ないのはありがたいことであった。
落合トンネルの次の集落にはバス待合の東屋があったが、次の集落は数軒しかなく、そのいくつかは廃屋であり、バス停も見つけられなかった。さらに登ると、川を挟んで反対側に家々が点在している。ここは結構開けているけれども、見る限り商店もなければ自販機も置いていない。そんなふうに落合トンネルから1時間歩くと、細い道の先に鳥居が見えてきた。三嶋神社である。
こんな山の中にあるのに、三嶋神社の鳥居はそれほど古びてはいない。境内にある石柱の年号も平成に入ってからのもので、地元のお医者さんが寄進したもののようだ。本殿もかなり大きく、欄間には絵が寄進されている。まず二礼二柏手一礼でお参りする。ここには古いながらトイレもあったので使わせていただく。昔のような、コンクリを打っただけのトイレだった。
そして、もうひとつ驚いたのは、道路の向かい側に商店があったことである。お昼の時間帯なので店の人は奥にいたようだが、ともかくも自販機が置いてある。上田渡の休憩所前以来、1時間半振りに見た自販機であった。
この先、久万高原まで飲み物を調達できないかもしれないので、ペットボトルを1本調達する。そして、この頃からいよいよ雨がぽつぽつ降りだした。もう午後1時なので80%の予報からみて仕方がないし、まだ傘が必要なほどではない。
三嶋神社から先も、まだ民家が点々と続く。しかし、ここから先には東屋のようなバス停待合室はない。しばらく歩くと分岐点となり、右が車遍路、左が歩き遍路と書いてある。歩き遍路の方向には「上畦々」(かみうねうね)という集落名が書かれている。歩き遍路道を行くと車では峠を越えられないようだが、そんな奥にも集落はあるのだろうか。
分岐点からは、ますます傾斜が急になるが、道は舗装してあり車も通ることができる。そして、しばらく前からぽつぽつ降っていた雨が、いよいよ本降りになってきた。空を見ても雲は濃く暗く、とても止みそうな気配はない。
ちょうど車の折り返しに使われるような道幅の広くなっている場所があった。車どころか人も全く通らないので、端の方でリュックを下ろしリュックカバーをした。再びステッキを縮めてリュックに差し、代わりに折り畳み傘を開き、本格的な雨対応の準備をする。
[行 程]内子・AZホテル 5:30 →(10.7km)8:10 大瀬道端ベンチ 8:20 →(4.7km)9:30 梅津バス停休憩所 9:40 →(5.6km)11:10 上田渡バス停休憩所 11:30 →(1.4km)11:50 落合トンネル 11:50 →(3.7km)12:45 三嶋神社 13:00 →
[Jun 30, 2018]
落合トンネルを越えたところで、右折して県道に入る。久万高原まで車道を通っても23kmという表示を見て少し安心した。
落合トンネルから1時間歩いて、12時45分に三嶋神社到着。鳥居は意外と新しく、平成になってから改修されたようだ。左手に商店があったのは意外だった。
とうとう雨が本降りになってきた。道端に寄って雨対応の身支度を整える。
鴇田峠 [Oct 18, 2017]
ところで、今回新調したものの中で大変役に立ったのは、モンベルの折り畳み傘だった。折り畳み傘は歩き遍路の必需品で、特に菅笠を使わない私にとって重要な備品である。
ところが、過去に藤井寺で1度、土佐佐賀で1度、あまりの大雨で折り畳み傘が壊れて役に立たなくなってしまった。特に土佐佐賀の時には、傘の裏から水滴が漏れた上に、強風で柄が折れて使い物にならなくなったという苦い経験があった。
そこで今回、軽くて丈夫な折り畳み傘はないか探したところ、amazonでモンベルの登山用折り畳み傘を見つけたのである。税込で5000円以上と安くはないけれども、本体重量150gとたいへん軽い上、モンベルであれば登山での使用を想定しているから大雨大風への対応力もすぐれているはずである。実際、かなりの強風にあおられても裏返ることはほとんどなかったし、裏側から水が漏るということも皆無であった。
そのモンベル折り畳み傘が最高に活躍したのがこれから登るところの鴇田峠(ひわだとうげ)であった。上畦々(かみうねうね)集落の最後の家は道端で畑をやっていたのでおそらく住んでいると思われたが、そこから奥はいよいよ山だった。
まだ車道になっているのは農業用の車が通るからのようで、実際に軽トラが止まっていた。網で入れないようにしてあり中は木が組み合わされてずっと続いていたので、椎茸か何かの栽培であろう。その奥でいよいよ舗装がなくなり、車は入れない本当の登山道になっている。
分岐のところに、例の遍路道の石柱が立っている。行先案内もあって、大宝寺まで7.8kmと書いてある。まだ2時だから平地であれば4時には着く距離であるが、もちろんそんなに生易しいものではあるまい。それでも、案外と距離が縮まった。そして、一つめの下板場峠まではもちろん登り坂なのだが、そこそこ道幅もあって地盤もよく、例の仏木寺の「四国のみち」よりずっと歩きやすい道であった。
ひとしきり登って舗装道路にぶつかると、そこが下板場峠であった。午後2時到着。標高570mということだから、房総のどの山よりも高く登ってきたということになる。ここが市町村境界で、そこから先は久万高原町となり、下に伸びているのは舗装道路だけである。遍路地図を確認すると、峠から麓の集落まではこの県道が唯一の経路なのであった。
下板場峠まではずいぶん山奥という印象だったのだが、久万高原町に入るとすぐに民家が現われた。家も比較的最近建てられたもので、急に時代が40~50年新しくなったような気がした。
15分ほど歩くと麓の集落に出る。ここから県道は大きく迂回して久万高原町に向かうが、直行する峠越えが鴇田峠まで2.2km、などという表示を見てしまっては、もう峠越えをするしかない。苦しいのはあと少しである。
まず、「四国のみち」の案内図にあったところの鴇田峠登山道休憩所を目指す。ところが、麓から1.8kmというので大したことはないと高をくくっていたら、すぐに登り坂が始まってなかなか進まない。しばらく歩いたら道端に私設の屋根付き遍路休憩所があったので、ひと息つかせていただく。
大変しっかり作ってある休憩所で、屋根が大きく、座っている分には雨が当たらない。たいへんありがたい休憩所であった。ちなみに、しばらく先にある「四国のみち」休憩所は雨ざらしだったので、こういう天気の時はゆっくり休むことはできない。
14時45分出発。私設休憩所から先はいよいよ厳しい登り坂である。とはいえ、まだ本当の登山道という訳ではない。1kmほど先の登山道休憩所からは、いよいよ本当の登山道になった。大雨の中、峠を越えようとしている人は自分以外には見当たらない。たいへん心細いけれども、道標にあった「鴇田峠 0.9km」を心の支えにして歩く。
一つ目の峠越え、下板場峠への登山道入口。石柱が汚れて見えるのは、「鴇田峠」の下に「下板場峠」と板が貼ってるため。
ひとしきり登山道を登ると下板場峠で車道と合流する。ここから久万高原町で、ここからは舗装道路を下る。
下板場峠と鴇田峠の間にある私設の遍路休憩所。屋根のある休憩所はここしかありません。
下板場峠への遍路道はそれほどハードではなかったが、鴇田(ひわだ)峠への遍路道はまさに登山道で、しかも連日の雨で道の真ん中が川になっている。両側からは丈のある雑草が行く手を阻む。泣きそうになりながら折り畳み傘を手に登り坂を進んで行くと、太い砂利道と交差した。
遍路地図をみると、山中を大きく迂回して行く林道のようであった。下板場峠までの車道は県道できちんと舗装されているが、鴇田峠への車道は本当の林道で砂利道である。傍らに再び登山道の分岐があり、「鴇田峠 0.5km」と書いてある。あと500mなら、がんばるしかない。
「1、2、3、4、…」と歩数を数えながら前に進む。山道だから歩幅50cmとして、1000まで数えれば着くはずである。雨はいよいよ強くなってくる。途中に「大師のなんとか」という旧跡の看板があったが素通りする。いよいよ雑草の丈が高くなってきた。あたりは暗くなって、おまけに霧が出たのか雲の中に入ったのか、白く霞んで見通しが利かない。
と、坂を登ったとろが丘のようになっており、そこに「鴇田峠」の看板が立っていた。15時30分到着。下板場峠から1時間半、三嶋神社から2時間半かかったけれども、あとは山を下るだけなので夕食前には宿に着くことができそうだ。朝5時半からがんばって歩き続けたが、やっと目処が付いてほっとする。
とはいえ、雨は強くなる一方なのでここでゆっくりしていても仕方がない。早々に下りに移る。峠付近には、「鴇田峠便所 0.4km」という身もふたもない道標が立っているだけなので、とりあえずそこを目指す。片手が傘なのでステッキが使えず、急坂がさらにきつく感じられる。しばらく急坂を下ると、砂利道が見えた。
屋根も見えたのであそこがトイレかと思ったらそれは物置で、さらに200m先だった。トイレは思ったより大きく、しかも東屋があって雨宿りができる。とにかく雨に濡れないで傘を差さなくてすむ場所はありがたい。久しぶりにリュックを下ろして小休止した。
遍路地図を見ながら考えた。ここから久万高原市街まで、登山道を下ると2.2km。しかし雨は強く見通しが全く利かない。急こう配の下り坂で転倒してケガでもしたら大変である。時間にも余裕があるし、ここから先は車道を下ってもそれほど長い距離を歩かなくてもよさそうだ。いずれにしても、安全が一番大切である。右足と左足を交互に出していればすむ道の方がいい。
と思って車道を進んだのだが、この道が意外とハードな道であった。砂利道なのは分かっていたが、砂利よりも大きな岩が敷いてあるので、平らに足を置けない上に足の裏が痛くなる。それでも、谷の方向を見ると霧で真っ白になっていたので、そちらを下ったらこわい思いをしたことは間違いない。
かなり迂回した林道ではあったが傾斜はそれほどでもなく、やがて雲の間から久万高原の街が見えてきた。さらに下っていくとお墓と斎場のような建物が出てきて、そこから先はちゃんとした舗装道路になった。雨は相変わらず強く降っていたけれども、人里まで下ってくれば遭難することもない。
鴇田峠への登り坂は、連日の雨で川のようになっていた。泣きそうになりながら登る。
峠からの下りは安全策をとって林道を選ぶ。へんろ道を選んだ場合は、霧の中の急傾斜で危なかったかもしれない。
霧のきれ間から久万高原市街が見えてきた。一日苦労して歩いた甲斐があった。
午後5時前に国道33号線に出た。この国道は、高知市から山の中に入り、久万高原を経て松山市に直接入る道である。ちょうど国道に出たところにコンビニがあったので、買い物をしてから宿に向かう。
この日の宿は国道沿いのガーデンタイムである。17時15分宿に到着。この日の歩数は64,852歩、移動距離は36.7kmで6日連続の30km超えとなった。移動時間は12時間にわたり何度も峠越えがあったので、実質40km歩いていたのではないかと思う。
久万高原の宿は、2度の峠越えをしなければならず到着時間が読めないので、市街に入って一番近そうなガーデンタイムを選んだ。1泊2食で6,700円。1日歩くと、布団から寝起きするだけでもつらいことがあるので、洋室でベッドなのはありがたい。さすがに朝早くから長い距離を歩いてきたので、宿の階段を上り下りするのもつらいほど足腰が疲れてしまった。
それでも、服やタオルは洗濯しなければならず、洗濯機のある1階と3階の部屋を泣きそうになりながら往復する。フロントのお姉さんから「乾燥機は時間かかるので、近くにコインランドリーありますよ」と言われたのだが、雨が引き続き激しいのでなんとか中で済ます。
ざっと乾燥機に掛けた後、部屋のユニットバスに干しておいたら翌朝までには乾いた。大浴場もあるのだけれど、部屋のユニットバスが新しくてきれいだったので、風呂もこちらですませて、その後は換気扇を回して乾燥室として使った。
宿の中は意外と広くて、廊下の両側に約10室ずつ部屋が並んでいる。最初、部屋に冷蔵庫がないので困ったが、エレベーター横に共用の大きな冷蔵庫があった。
この宿は家族で経営していて、フロント担当はきれいなお姉さんである。フロントの奥がレストランになっていて、夕飯時に行くと、お客さんで一杯だった。一人なのでカウンターを案内されたら、隣で中学生?のお嬢さんが食事をしていた。
フロントのお姉さんはレストランも担当していて、「生ビールは大中小どれにしますか?」と聞かれる。いまどき大ジョッキがあるとは珍しいので、大をお願いする。
椅子席も座敷も一杯で、泊り客というよりも地元のお客さんのようだった。厨房はお父さんと息子だろうか、二人が忙しく働いている。選挙が近いためか、偉そうなバッジを着けている人もいるが、誰もあまり気を使っていないのは面白かった。
久万高原には旅館・民宿や飲食施設が多いと思っていたが、あるいは営業している店はそれほど多くないのかもしれない。もしかすると、きれいなお姉さんがいるから地元のたまり場となっているのかもしれない。
夕食は刺身があり小鉢がありから揚げとサラダがあってさらに鍋が付く。ビール大を空けながら、ハードな1日を振り返りつつお料理をいただく。朝早くから35km歩いてどうなるかと思ったが、無事に温かいご飯を食べられるのは実にありがたいことである。
ちなみに、こちらの宿に予約電話をした時、夜の8時くらいだったのだが、「今たいへんばたばたしているので、明日の朝にしてくれ」と言われたのである。私はその時接近している台風のせいかと思って恐縮して切ったのだが、もしかするとレストランの方で手一杯だったのかもしれない。ガーデンタイムの予約電話は、朝が鉄則である。
部屋に帰って、濡れたものを乾かしたり洗濯物を整理したりする。残念ながらwifiがないので、洗濯をして夕飯をいただき荷物を整理して風呂に入ると、スケジュールを検討するくらいしかすることがない。
翌日以降はそれほど長い距離を歩く必要はなくなる。計画段階でも、この日の鴇田峠を越えればあとは余裕だと思っていて(それは大きな勘違いだったのだが)、とにかく大きなヤマは越えたと安心していた。少なくとも、朝早くに出発する必要はないと思ったので、午前7時に朝食をお願いした(お遍路としては遅い時間である)。
部屋にはたいへん大きい48型のTVがあるけれども、見るのは天気予報くらいである。窓に叩き付けている雨は翌日の午前中には止むという予報である。連日早起きして気合を入れていたのだが、翌朝遅くまで寝ていられるこの日になって、夜中にしみじみと、疲れたなぁと思った。左足のマメは引き、右足の爪も小康状態なので助かった。
[行 程]三嶋神社 13:00 →(2.5km)13:50 上板場峠 13:55 →(2.2km)14:35 私設東屋 14:45 →(2.2km)15:45 鴇田峠休憩所 15:55 →(3.7km)17:15 久万高原・ガーデンタイム(泊)
[Jul 7, 2018]
民宿ガーデンタイムは国道沿いにある。部屋数は見た目より多い。夜は地元のたまり場のようになっている。
レストラン併設なので、食事はたいへんいい。お膳の他にお鍋も付く。生ビール大ジョッキもうれしい。
四十四番大宝寺 [Oct 19, 2017]
翌朝になると、レストランは前の晩よりずっとすいていた。泊り客だけだからだろう。私が一番遅いし、食事をとらずに早く出発したグループもあったようだ。厨房も、おかあさんお一人で準備している。ご飯・味噌汁と卵焼き・鮭・焼き海苔・野菜サラダ・ポテトサラダと大変にぎやかである。前日の洗濯機・乾燥機も無料だったし、こちらの宿もかなりの格安である。
午前8時半出発。この時間に出るのは、道の駅までの送迎があったベルリーフ大月以来久しぶりのことである。雨は小降りになっていたが、それでも傘は必要である。これで6日連続の雨。国道に沿って進むと、宿のすぐ先が久万高原の町役場だった。
ここから遍路地図にしたがって旧道に入る。しばらく旧道を歩いて東に向きを変え橋を渡ると、大宝寺の山門がある。ただ、この山門はよくある神社の一の鳥居と同じく街の入口にあるので、大宝寺はまだまだ先、坂を登って行かなければならない。
菅生山大宝寺(すごうさん・だいほうじ)。「道指南」はじめ江戸初期の案内本では単に「菅生山」である。文武天皇の御世、一人の猟師が山に入ると泰山鳴動し、光り輝く十一面観音像から閃光が放たれていた。猟師は観音像にお堂を建て菅を敷いてお祀りしたことから菅生山と称したのだという。
寺伝によると、この話を耳にされた文武天皇から当時の年号である「大宝」を賜ったとしているが、この記事は当時の公文書である続日本紀にはみられない。ちなみに、年号も寺号も、本来は「だいほう」と濁るのが正しい。われわれの世代は「たいほうりつりょう」と清音で覚えたものだが。
大宝年間の大きなできごととして、身分制度や服飾規程を改めたこと(大宝令)と持統上皇の崩御があり、そのため奈良の大きな寺では法要が営まれているが、その中に大宝寺の記事はみられない。伊予に関する記事も、国司(伊予守)が代わったこととイナゴの害がひどかったことくらいしか載っていない。まだまだ伊予は辺地だったのである。
たびたび引き合いに出す五来重氏の「四国遍路の寺」では、大宝寺と岩屋寺はもともと一つの寺だったとあり、「霊場記」にも岩屋寺は弘法大師が開いた菅生山の奥ノ院と書かれている。
実際に行ってみても大宝寺は塔頭があって寺としての施設が整っているのに対し、岩屋寺は奇岩に囲まれたまさに行場である。とすると、この2寺はもともとワンセットで、しかも修験道起源の霊場なのではないかと思われる。
山門から民家の間を10分ほど歩き、駐車場の奥からいよいよ道が狭く傾斜が急になる。ようやく左に大宝寺へのスイッチバックの石段が分かれる。雨のためだけではなく、周囲は木々に囲まれてたいへん暗い。宿からちょうど30分、午前9時に大きな草鞋が奉納されている仁王門に着いた。この頃から、また雨が激しくなった。
国道を右折し久万川を渡ると大宝寺の山門。ただ、ここから先も民家が続き、お寺まであと数百m歩かなければならない。
久万高原から登ってきた道から左へ、ここから大宝寺の参道を登る。降り続く雨もあってたいへん暗い。まっすぐ進むと岩屋寺への遍路方面。
まだ朝早いのに、バス遍路と思われる団体客が本堂に上がる急な石段のあたりに屯ろしている。もう下りて来ていたので、お参りは済んだものらしい。大宝寺・岩屋寺とお参りして松山市内に下るものだろう。こんなに早くに出なくてはならないのだろうかと思った。
(この日の午後、岩屋寺に行くと、バス遍路でも駐車場から30分近く登らなくてはならないということが分かった。きっと、こんなに早くに大宝寺をお参りしても、岩屋寺で2時間近くかかってお昼になってしまうのだろう)
先に納経所に行って団体客をやり過ごす。しばらく待ったが誰も納経に出てきてくれないので、呼び鈴を押すとダミーのようで全然鳴らない。おかしいなと思ってよく見ると呼び鈴の横にドアホンがあった。押すと「お待ちください」と声が出てようやくご年配の女性が現われた。予想外に時間はかかったが、バス遍路の団体客が引けて静かになった。
雨の降りしきる中、本堂・大師堂とお参りする。本堂エリアは意外と広く、鐘楼のあたりは雨が当たらないので、リュックを置かせていただく。バス遍路の団体客がいなくなるとたいへん静かで、雨の音だけが山中に響く。石段の傾斜はかなり急なので、振り返って下を見ると鎮守の森だけで参道は見えない。しばらく、ベンチに座って山の空気を呼吸する。
本当は、読経してご朱印をいただくだけではなく、こうしてお寺にゆっくりしてその空気に浸り、寺社の発する気のようなものを感じることが大切なのだと思う。
宿を予約して歩いているとどうしてもスケジュールが気になって先を急いでしまうが、こうして静かに座っているだけでも来し方行く末のことをいろいろ思う。そういえば、この大宝寺にも宿坊があるようだが、噂によると団体客が来た時だけ開くらしい。すべて商売ベースのようでたいへん寂しいことである。
さて、スケジュールに余裕があるとはいえ、そろそろ出発する刻限である。石段の下から再びにぎやかな声が聞こえてきたので、立ち上がりリュックを背負う。
ここから先、車道は駐車場まで戻って県道に出るが、距離的には山道を峠御堂トンネルの出口までショートカットする方が近い。駐車場からかなりの登り坂だったことを思い出し、下ってまた登り返すのは大変だと思い山道を進むことにした。
遍路地図によると、峠御堂トンネル出口まで1.4km。しかしこの山道は、想像したような整備してある遍路道ではなくて、アップダウンのたいへんきつい登山道だったのでした。
[行 程]久万高原・ガーデンタイム 8:30 →(1.6km)9:00 大宝寺 9:45 →
[Jul 14, 2018]
大師堂からみた大宝寺本堂。雨の中、バスお遍路も去ってたいへん静かにお参りできました。
本堂と並んで建つ大師堂。こちらの軒下にあるベンチで休ませていただきました。