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八丁坂 [Oct 19, 2017]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

大宝寺を出て、奥ノ院といわれる岩屋寺に向かう。朝の天気予報では、雨は午前中には上がって午後の降水確率は10%ということであったが、雨は本降りで止む気配はない。

とはいえ、まだ朝の9時を回ったばかりなので、雨雲が抜けないのだろうとこの時点では楽観的であった。大宝寺のスイッチバックの石段を下ると、道は左右に分かれる。右の道は下りで、久万高原市街に戻る。左の道は登りで、山中をショートカットして岩屋寺方向に向かう道である。

へんろ道のシールは、左の山道を示している。心配なのは、もう何日も雨が続いているので山道がどうなのかという点である。一方、右の道は車遍路の人達が通るので安心ではあるが、ここからかなり下るからその分登り返さなくてはならない。途中、駐車場のあたりで工事の人が立っていたようなのも気になる。

しかし、距離的には山越えの方がずいぶん短いし、なにしろ遍路地図で決め打ちされているルートでもあるので、少考して左側の道に進む。山越えとはいえへんろ道であり、それなりに整備されているだろうとも思ったのである。

ところが、この山道はとんでもない難路であった。やはりここ数日の雨で道が川と化していて、歩きにくいことこの上ない。そして、このルートは大宝寺から山をひとつ越えるので、さらに登ってそれから下るという道なのであった。累積標高としては、いったん戻ってトンネルをくぐった方がかなりましであった。

私の場合、一度高いところに登ってしまうと下るのがもったいないという気持ちが強い。だからこういう場合も下らずに登るという選択をしてしまうのだが、急がば回れで、いったん戻るべきであったかもしれない。そして、いつまで登っても峠地形が見えてこない。ベンチもなければ、休む場所もない。ともかく雨の中を登るしかないのである。

谷に沿って登るので、何度かカニが道の真ん中にいるのを見かけた。大宝寺に限らず、この遠征では雨が多かったせいかカニをよく見た。前半の暑い日には、でっかいクモをよく見た。東南アジアではクモも食べるというが、さすがにそういう気は起きない。一方で、カニは油で揚げても味噌汁に入れても食べられると思うから、不思議なものである。

後から考えてみると、大宝寺・岩屋寺間の県道で何人もの歩きお遍路さんとすれ違った。この区間は打戻りなので必然的にすれ違うことが多いのである。ところが、この峠越えの道では誰ともすれ違わず抜かれもしなかった。おそらくあまり使われないルートなのだろう。なぜか遍路地図では決め打ちされているルートなのだが。

息をきらせてようやく峠まで登り詰める。ほっと一息つく。下りは登りよりかなり楽だし、心なしか道もよくなったような気がした。それでも、県道との合流地点である峠御堂トンネル出口に出たのは10時半、大宝寺を出てから1時間かかった。

大宝寺から車道を戻っていれば、1時間で「いやしの宿八丁坂」まで着いたはずなので、ずいぶん余計にかかったということである。この日は大宝寺・岩屋寺をお参りして「いやしの宿八丁坂」に泊まるだけであり時間的には余裕があると思っていた(だから遅く出発して大宝寺でもゆっくりした)のでよかったけれど、そうでなければかなりあせるところであった。

峠御堂トンネル出口から畑野川集落まで、遍路地図ではよく分からないがずいぶん下る。そして、右側に切れ落ちている谷の奥に何軒かの家が見えていい景色である。考えてみれば、いま歩いてきた山道ではほとんど景色が開けるところもなかった。道がきつくて時間がかかり、しかも景色がよくないのでは、何のために登ったのか分からない。

畑野川集落に近づくと家がまとまっている。交差点の右に見えるお社は、真念が「住吉大明神あり」と書いている住吉神社だろうか。JAや郵便局があり、しばらく行くと休憩所もあるようだが、山道で時間を食ってしまったので先を急ぐ。もう11時になるので、いやしの宿八丁坂でお昼を食べられる時間である。

畑野川には集落の中心地からは少し離れて点々と何軒かの遍路宿がある。まず「和佐路」があり、しばらく坂を登って「いやしの宿八丁坂」がある。その先にはふるさと旅行村がある。11時を5分ほど過ぎて「八丁坂」着。どうやら雨も小降りになってきたようだ。



大宝寺から岩屋寺の山道は例の「四国のみち」にもなっているルートだが、特に6日連続雨という中では安全に県道を選ぶべきであった。大宝寺からさらに標高差150mくらい登る。



1時間歩いてようやく峠御堂トンネル出口で県道と合流。標高差150mは余分に登ってしまった。



畑野川集落に向かう県道からは、両側を山に挟まれた村の景色を望むことができる。右の峰は大宝寺に続き、左の峰は岩屋寺に続く。

「いやしの宿八丁坂」は昼食も営業していて、大宝寺・岩屋寺間で昼を食べられる場所が限られるため、たいへんありがたい。メニューはかきあげと大根おろしの「すずしろうどん」とキジで出汁をとった「こっこうどん」、サラダバーが付いて600円はお値打ちである。

「お泊りでしたら、夕食にこっこうどんが出ますから、すずしろうどんの方がいいですよ」と言われたのでそちらにする。うどんは2玉、だしは温かいのと冷たいのを選べる。雨に降られてかなり寒かったので、温かいのをお願いする。待っている間に、預ける荷物と持っていく荷物の整理をする。

午後から雨が上がるという予報なのでレインウェアを脱いで上下とも速乾白衣に着替え、荷物は山野袋に入るだけにする。レインウェアを置いて行くので、念のため折り畳み傘は持った。ご朱印帳と経本・数珠、GPSとカメラ、500mlのペットボトル1本を山野袋に入れ、ステッキを持つ。あとの荷物はロッカーに預ける。

荷物を預ける時に宿の方に「どのくらいかかりますか?」とお伺いした。

「どちらの道で行かれるんですか」
「天気によりますが、八丁坂から行こうと思ってます。」
「往復で4時間半から5時間でしょうか。八丁坂はいいところですよ。ぜひいらして下さい」
「でも、さっき大宝寺から山道を来てかなりきつかったんですけど、大丈夫でしょうか。」
「雨が続いて歩きにくかったかもしれません。あれほどにはきつくないと思います。」とのことであった。11時半過ぎに出発。

ふるさと村を過ぎてゴルフ場の看板が見えてくるあたりで、右に入る細い道に矢印の指示がある。相性のよくない「四国のみち」の案内があるのが気がかりだが、ともかくこちらに入る。しばらくは谷川に沿って、石畳の整備された道が続く。

予報では上がると言っていたのに、再び雨が降り出した。ステッキを畳んで折り畳み傘を開く。こうなると、山野袋ではなくデイパックが欲しかったところだが、あいにくデイパックは松山の宿に送ってしまった。若い外国人カップルに追い抜かれる。こんな雨の中レジャーだろうか。ウィークデイで休みを取ったのでやむなく歩いているのだろうか。

道はやがて登り坂となり、細い登山道となる。やっぱり四国のみちだと思いながら登る。しばらく登ったその時、突然、山野袋が地べたに落ちて中の荷物が周囲に飛び散った。えっ、と思って見てみると、山野袋の肩紐が縫い目のところから切れてしまっている。これには参った。とりあえず、飛び散った荷物を集める。

その時まず思ったのは、「平らな場所でよかった」ということである。この日は朝から山野袋を肩から掛けていて、片側が切れ落ちた谷というような場所を何度も歩いている。そんな場所で壊れて、財布や納経帳、カメラやGPSが谷底に落ちていたら、進退窮まるところであった。落ちても支障のない場所であったのはラッキーなことだ。

思えば、私の人生ではこういうことが何度かあった。大震災の時にたまたま仕事だったのはアンラッキーだったが、宿直でホテルを確保してあったのでそれほど混乱しなくて済んだ。香港で財布をすられたのは不注意だったが、帰りの飛行機を待っている時だったので被害は最小限で済んだ。この時もそうで、山野袋は壊れたけれど何も無くさないで済んだのである。

とはいえ、ただでさえ傘で片手が自由に使えない上に、山野袋を抱えて持たなくてはならないというのは難儀である。これから八丁坂の登りがあり、さらに岩屋寺まで山道歩きがある。レインウェアを着ていればフードを出して傘をしまうことができるが、降水確率10%を信頼してレインウェアは宿に預けて来てしまった。仕方がない。いまから戻る訳にもいかない。

八丁坂に登る分岐のところには何かの施設の建物があり、休憩ベンチがあった。ベンチでは、先ほど追い抜かれた外国人カップルがお弁当を食べていた。もう少し天気がよければ快適なハイキングだったはずだが、お気の毒なことである。女の子が、そのまま登山道に向かう私を見てにっこりと挨拶してくれた。ここから先が八丁坂である。

この八丁坂、説明書きによると弘法大師が岩屋寺に向かう際に往復した道だそうで、現在の県道にあたる下の道もあったのに、あえて厳しい山道を選んで通ったそうである。ただ、私の感想としては、上から行っても最後は標高差150mを下らなくてはならないし、下から行っても標高差200mを登らなくてはならないので、どちらにしてもきついということである。

宿で言われたとおり、大宝寺からの峠道よりも登りやすく、20分ほどで峠まで登ることができた。ベンチが置かれていて、「八丁坂の茶店跡」と書いてある。T字路になっていて、いま登ってきた八丁坂と岩屋寺への道、もう一つは大宝寺を通らずに久万高原に出る道である。これは「打ち戻りなし」(同じコースを戻らない)の古来の遍路道ということである。

壊れた山野袋を抱えて登ってきたが、ここまで来ればなんとかなりそうだ。ペットボトルの水もそれほど必要としないはずなので、最低減を残して飲みきってしまう。これで手荷物はかなり軽くなった。心配なのは、雨が全然止まないということであった。降水確率10%はいったい何だったのだろう。

[行 程]大宝寺 9:45 →(1.7km)10:35 へんろ道県道合流点 10:35 →(2.0km)11:05 いやしの宿八丁坂 11:35 →

[Jul 28, 2018]



「いやしの宿八丁坂」のお昼のメニュー。どちらのうどんにもサラダが付きます。



林道から八丁坂の登山道に入る。予報では午後から雨は止むと言っていたのに全然止まない。山野袋の肩が切れて「泣きっ面に蜂」状態に。



八丁坂の茶店跡で尾根に乗る。ここから岩屋寺までは尾根道だが、5つ6つコブを越えて行かなければならない。雨は全然止む気配がない。

四十五番岩屋寺 [Oct 19, 2017]

「四国のみち」の案内板によると茶店跡から岩屋寺までは1.9km。八丁坂下の案内図に落書きされていた「何回もアップダウンがある」登山道である。ただし、奥多摩の市道山や臼杵山のようなアップダウンではなく、まあ房総程度のものである。

残り1.5kmを過ぎてすぐ、十丁の丁石が現われた。おお、これがあると分かりやすいとうれしくなって進むと、残り二、三丁のはずなのに「七丁」と残り距離が急に増えた。これはどうしたことだろうと疑問に思いながら進むと、いよいよ残り一丁になって岩屋寺の施設が見えてきて理由が分かった。

いまいるのは行場の最上部で、岩屋寺の本堂は、ここからさらに何百mも下ったところなのである。その数百mの距離はともかく、急傾斜と標高差がたいへん厳しい。ステッキを出して三点確保したいけれど、雨は全く止む気配はないし、フードのない白衣姿では傘を手放すことはできない。やむなくステッキなしで急坂を下って行く。

丁石の最終地点には午後2時前に着いたものの、そこから本堂エリアまで約20分かかった。それでも、このルートをとってよかったのは、登山道から岩屋寺の敷地に入って150mの標高差を下る間、その最上部に近いところに「一遍上人絵伝」に描かれた白山大菩薩特別行場(せりわり行場)があったことである。

「一遍聖人絵伝」(別名、一遍聖絵・いっぺんひじりえ)は岩屋寺の歴史を語る上で忘れてはならない資料で、鎌倉時代後期の成立である。九百年近く前の岩屋寺の姿が絵に残されていて、目の前で見るいま現在の姿と比べることができる。その風景が九百年前と現在とでほとんど変わらないのは、驚くべきことである。

岩屋寺を描いた絵は一遍聖絵の中に2枚あって、1枚は本堂エリア、これは切り立った岩壁の下にお堂が建っていて一遍上人と師僧が向かい合っている図である。このアングルは岩屋寺の紹介でよく使われている。もう1枚はそそり立つ岩山の頂上にお社が建っている図で、これが最上部にあるせりわり行場の絵である。

この行場は二つの巨大な岩壁の上に白山大権現が祀られているもので古くから神聖視され、一遍聖絵では、その頂上に行者が梯子を掛けて登り、それを下で願主らしい上流階級の婦人が遥拝している様子が描かれている。

私は、八十八札所の中でも古い寺社の多くは、空海以前からある修験道・アニミズム起源の霊場であると考えている。空海自身が「三教指帰」に書いているように太龍寺や室戸の諸寺はそうだし、足摺・金剛福寺や大宝寺・岩屋寺も間違いなくそうである。こうした寺社は平安時代の空海より奈良時代の行基より古く、まさに日本草創期から信仰を集めてきたものである。

この一遍聖絵に描かれたせりわり行場には現在、「白山大菩薩特別行場」と墨書された木製の扉が建てられており、その扉には「梯子が老朽化しているので登れません」と書かれていて木戸には鍵が掛けられている。もっとも、このエリアには寺の関係者はいないので、禁止でなくても鍵がないため中に入れない。

そして、この回の区切り打ちから帰ってしばらくして、まさにこの行場の梯子架け替えの寄進呼びかけを見つけたのである。この年はリタイアしてすぐだったため毎年行っていた社会福祉活動への寄付ができなかったので、その代わりということで些少ながら協力させていただいた。鎌倉時代以来長く続いている行場の補修にいくらかでもお手伝いできれば幸いである。

本堂エリアからこの行場まで標高差150m以上あり、さらに本堂エリアから県道までの標高差もそのくらいあったから、県道からだと300m登らないとここまでは来られない。300mといえば私にとって1時間かかる標高差である。もし県道から登ってきたとすれば本堂エリアまでで体力を使い果たし、とても行場の最上部まで登る気にはならなかっただろう。



一遍聖絵に描かれている白山大菩薩特別行場(せりわり行場)。「梯子が老朽化して登れません」と扉に錠前が掛けられている。



岩の上部はこうなっている。頂上に白山大権現が祀られていて、行者がそこまで登ったということである。




昨年末、せりわり行場梯子架け替えに若干の寄進をさせていただきました。

さきほど丁石の表示のずれが5丁くらいあったので、本堂エリアまでは約500mというのは見当が付いたが、それにしても下りは長かった。もう本堂より下まで下りてしまったかと思ったくらいである。

ひと気がないのでまだ着いていないだろうとは思ったけれど、それにしても遠かったし、下り傾斜がきつくて難儀した。ようやく何人か登って来るのが見え、続けて仁王門が見えるまで15分以上かかった。

この仁王門は本堂エリアと行場エリアの間にあるもので、門の向こうには大師堂がある。八丁坂から仁王門を経て入ると、大師堂、本堂を経て手水場となるので普通の順序とは逆になる。行場を経由してきたので禊は済ませてきたと考えて、そのままお参りする。さすがに本堂エリアは大勢の人がお参りしていた。

本堂エリアもさきほどの白山大菩薩特別行場と同じく、後方は四国カルストの切り立った崖になっていて、せりわり行場ほど高くはないものの岩の洞まで登ることのできる鉄製の梯子が掛けられている。一遍聖絵に残されているもう一つの絵の場所である。こちらには、何人かの人が登っていた。

それにしても、異観というべき風景であった。来る前から写真では見ていたものの、現物を前にするまでそのすごさは分からなかった。私自身、何枚も写真を撮ってみたけれども、とても写真で現物のすごさを表わすことはできない。

海岸山岩屋寺(かいがんさん・いわやじ)。海岸山の山号は弘法大師の「山高き谷の朝霧海に見て 松吹く風を波にたとえむ」から採られたものといわれるが、ご詠歌は全然別で、「大聖の祈る力のけにいわや 石の中にも極楽ぞある」である。わざわざ大師御製の歌があるのに別の歌をご詠歌にしたのだろうか。歌の格としても大師の方が上のように思える。

いずれにせよ歌の意味は、「山の上から見ると谷を流れる朝霧は海のようで、松林に吹く風は波のようだ」と、山の中を海岸に例えている。残念ながら雨が激しくて、どこで詠まれた歌なのか探すことはできなかった。

本堂エリアは、いろいろな写真で紹介されているように石灰岩の壁の下に作られているが、なかなか全容を見渡せる場所がない。普通に歩いているとお堂が建っているだけなのだが、上を見ると岩壁であり、まさに「岩屋」の名にふさわしい。

本堂エリアには納経所など、近年建てられたと思われる鉄筋の建物が何棟かあったので、トラックや重機が上がれたのだろうが、地図を見ても参拝者が登り下りする参道の他に道はないようなのである。工事の人はどうやって、資材や重機をここまで上げたのだろう。山小屋ではヘリコプターで運ぶが、ここは石灰岩の壁に囲まれて、ヘリポートを作るような平地は見当たらない。

納経所でご朱印をいただくと、午後3時近い。いやしの宿八丁坂では往復5時間と聞いていたが、すでに3時間が経過している。境内もそれほど広くないので、名残惜しいが出発する。本堂エリアから麓まで参道がスイッチバックで下って行くが、傾斜が急なのでどんどん標高が下がるのが分かる。

参道の傍らには多くの石仏が並べられており、それが例外なく苔で緑色になっている。雨が多いからだろうか。今日の雨も予報では止むと言っていたのに依然として降り止まない。遍路姿の人達とも何人もすれ違ったから、いまや多くの歩き遍路は県道を経由して登ってくるようである。

海岸山の扁額の掛かっている山門を出てからも、スイッチバックの石段が際限なく下っていく。ようやく駐車場レベルまで下りると「岩屋寺まで30分」と書かれていたから、バスや車のお遍路の人はこの参道を30分登らなくてはならない訳である。足腰の強くない人は大変である。

参道のいちばん下にはいくつかお土産屋さんが軒を連ねているが、いずれも規模は小さい。有料駐車場も用意されているものの、こちらもそれほど広くはない。八十八の中でもたいへん有名なお寺なので、それなりの規模の駐車場や休憩所・トイレがあるだろうと予想していたのだが、その予想は外れた。唯一、屋根のある公共の休憩所は、乗合バスの待合所だけであった。



本堂・大師堂の奥にある仁王門。ここから上が行場となり、標高差150mくらい登って八丁坂への山道に達する。



岩屋寺本堂。右に見える梯子が、すぐ上にある岩場に登る梯子。この風景も、一遍聖絵に描かれている。



参道を下る途中に本堂エリアを見上げる。すぐ裏が切り立った石灰岩の壁である。

参道を下りきってようやく平らになる。県道沿いに、乗合バスの待合所があった。屋根がある休憩所はここしかないので、バスがしばらく来ないことを確認して抱えてきた山野袋を下ろす。

八丁坂への登山道で山野袋が崩壊して以来、片手には傘、片手には壊れた山野袋という苦しい体勢で3時間以上歩いてきた。ここまで来れば後は舗装道路、右足と左足を交互に出していればなんとかなる。バス待合所でちょっと休み、県道を「いやしの宿八丁坂」に向かう。

時刻は15時15分。ここから先は山道でないので、それほど時間はかかるまいと思っていた。ところが、降り続く雨のせいもあって、なかなかスピードが上がらない。傘と荷物を右に持ったり左に持ったりして負担の均等化を図るが、すでに数時間この体勢だったので両腕がだるい。

返す返すも、宇和パークホテルでデイパックを送ってしまったのは大きな間違いだった。たいした重さではないのだから、リュックに入れておけばよかったのだ。もちろん、「いやしの宿八丁坂」にレインウェアを置いてきてしまったのもミスで、傘で片手がふさがったのも痛い。山中で進退窮まったら一大事になるところだった。

岩屋寺下のバス停近くには何軒かの人家があったけれども、そこから古岩屋トンネルまでの間に人家は見当たらない。県道なので片側一車線、歩道付きできれいな道だけれど、誰もいないところにこんなきれいな道路を作ってどうするんだろうと思うくらいひと気がない。

15時30分古岩屋トンネル通過。トンネルの出口にへんろ道への入口があったが、「道が崩れていて現在通れません」と書かれていた。遍路地図でもへんろ道が点線で示されているけれども、この大雨ではたとえ注意書きがなくても安全な道を進んだ方がいい。

トンネルから20分くらい歩いてそろそろ休もうかなと思った頃、国民宿舎古岩屋荘の立派な建物が見えてきた。WEB等の写真で見るより立派に見えるのは、いままで何もないところを歩いてきたせいかもしれない。ここは歩き遍路によく使われている宿で、車も何台か泊まっているから観光客もいるのだろう。

エントランスもきらきら光っている。 古岩屋荘の隣に遍路休憩所の東屋があり、その横にトイレもある。ずっと雨に降られてきたから、屋根のあるところは本当にありがたい。荷物を置いてひと休みする。東屋の中に、大きなリュックが置いてあった。察するところ、岩屋寺に向かう歩き遍路が置いたのだろう。

ここに置いてあるということは、古岩屋荘に泊まるのではない。そして、「いやしの宿」とか周辺の民宿に泊まるのなら、荷物は預けてきたはずだ。時刻はもう午後4時、天気が悪いこともあって暗くなってきた。あと30分で戻ったとしても、久万高原町まで少なくとも2時間かかるので歩いている間に真っ暗になる。

それとも、ここで野宿するのだろうか。屋根はあるけれど壁で遮られてはいないので、雨が当らない訳ではない。荷物の大きさからみるとテントが入っていておかしくはないけれど、野宿だとしたらこういう天気では厳しいだろうと思った。古岩屋荘は日帰り入浴が可能らしいが、寝る場所がここでは湯冷めしてしまいそうだ。

古岩屋荘の少し先で、県道とへんろ道が分かれる。安全策で県道を直進する。しかし、ここから先の県道歩きはかなり長かった。思ったよりも高低差があって登るのに骨が折れるのに加え、見通しが利かないのでどこまで歩けばいいのかよく分からない。温泉前というバス停がありこのルートには珍しくまとまった民家が見えたが、どこが温泉なのかよく分からなかった。

ゴルフ場のあたりでは、だらだら続くきつい登り坂であった。一生懸命足を前に出すけれども、なかなか前に進まない。ようやく下りにかかるところで、後ろから来た女の子に抜かれた。私と同じく荷物を預けた軽装で、ポンチョを着ている。

「お疲れ様でーす。今日はどちらにお泊りですか?」

「八丁坂です」

「私はもう少し先です。もうすぐですね、がんばりましょう」とダブルストックで軽快に進んで行った。

結局、古岩屋荘からいやしの宿八丁坂まで、まるまる1時間かかった。到着は17時10分。正直なところ、着いた時にはくたくただった。予報外れの雨、壊れてしまった山野袋などの要因はあったにせよ、時間的に余裕があると思っていたのに、そうではなかったという精神的なダメージも大きかったのである。



参道の登り口近くに小さな仲見世がある。でも、観光バスが止まるような駐車場とか大きな売店・食堂はありません。



小一時間歩いて古岩屋荘。WEBとかで見るより立派な建物に見えた。並びに東屋とトイレがある。結局この日は一日雨でした。これで6日連続。



へんろ道の方がショートカットかもしれないが、ひたすら県道を進む。結構アップダウンがあってしんどかった。歩き遍路の女の子にあっさり抜かれた。

癒しの宿八丁坂はたいへん評判のいい遍路宿で、差し迫ってからだと予約をとるのが難しいと聞いていて、1ヵ月前に予約を取った。宿を確保してからスケジュールを詰めたため、前日は久万高原泊となった。

だからこの日は、大宝寺から岩屋寺に行って、いやしの宿八丁坂に帰るという余裕含みのつもりであった。ところが、予報外れの6日連続雨に加えて予想外に難しいコースのため、考えていたよりもずっと遅い到着となったのである。

濡れた服や荷物を片付けたり洗濯していたら時間がかかってしまい、あわててお風呂に入り食事時間の6時に少々遅れて食堂に入る。この日用意されていた夕食は6人、すでにみなさん食事中で話に熱が入っていた(この他にも泊まり客はいたようだが、素泊まりのようであった。食事はどうするんだろうと疑問だったが、考えてみると歩き遍路とは限らないのである)。

そういえば、今回の区切り打ちで他の遍路の人達と一緒に食事するのは、10泊目のこの宿が初めてであった。前日のガーデンタイムでも遍路の人はいたが私はカウンター席で別々だったし、宇和パークでも席が離れていた。あとはホテルだったり泊り客が一人だったりして、こういう機会はなかったのである。

他の人達の話を聞いていると、先達になるには結局おカネが要りますとか、あまり興味のない話だったのでおとなしくしていた。興味を引かれたのは通夜堂の話で、どこそこの通夜堂はシャワーが付いているとか、どこそこは部屋が一つしかないのに男も女も関係なく泊めてしまうなどという話をしていた。

洗濯機に洗濯物を入れっぱなしだったので中座して乾燥機に移したりして落ち着かない夕食だったが、1泊2食6,800円、しかも山の中とは思えないほどの立派な夕食だった。さすがに人気のある宿だけのことはある。この宿のよかった点をあげてみると、

1.食事がたいへんにいい
繰り返しになるが1泊2食6,800円である。前日のガーデンタイムもそうだったのだが、これでちゃんとした夕食と朝食が付くのだから、たいへんに安い。内子のAZホテルが6,130円で食事サービスだが、業務用食品のバイキングで、それも悪くはないのだがやっぱりちゃんとした食事があるのはありがたい。

2.部屋がたいへんにきれい
部屋がたいへんにきれいで、濡れた服で入るのに恐縮したくらいである。濡れたものを置く場所は部屋の入口に若干とあとは窓際にある荷物置きスペースなので、工夫しなければならない。私は本館の一番奥に案内されたが、トイレは部屋にあった。

3.洗濯機・乾燥機無料
お遍路にとって、洗濯機・乾燥機無料はありがたい。戸外に出なければならないのは雨の時は少々つらいが、無料となれば贅沢は言えない。予報が大外れで一日雨だったので、たいへん助かった。

4.Wifiが使える
もう一つ、たいへん助かったのはwifi。ずっと雨続きで、かつ季節外れの大型台風がこの時点で沖縄付近に来ていて、そろそろ帰りの便が気になっていた。私のタブレットはWifiが通じてないと単なるゲーム機になってしまうので、非常にありがたかった。

食事が終わって部屋に戻り、洗濯物を整理して翌日以降のスケジュールを再検討する。翌日は三坂峠を越えて松山市内に入り、浄瑠璃寺前の長珍屋に泊まる。その次の日は松山市街の札所を回る。予備の荷物を送ってある「たかのこのホテル」に泊まるのは、長珍屋の次の日から2泊の予定である。

ところが、台風の進路によっては、歩くのが難しい事態も想定しなくてはならない。そして、万一飛行機が飛ばない場合はどうするのか。すでにリタイアしているので仕事の心配はないものの、足の状態が万全とはいえないので無理はできない。

あれこれ考えることはあるけれども、さすがに疲れたので午後9時まで起きていられなかった。そして、夜中に目が覚めてトイレに起きること5回。これはレインウェアを着ずに雨に当たって冷えたせいだろうか。あるいは普段飲んでいるノコギリヤシを飲まないせいだろうか。

この日の歩数は37,915歩、移動距離は18.0kmであった。

[行 程]いやしの宿八丁坂 11:35 →(3.5km)13:10 八丁坂上ベンチ 13:15 →(2.4km)14:15 岩屋寺 14:50 →(0.7km)15:15 岩屋寺バス停休憩所 15:20 →(1.9km)15:55 古岩屋荘前休憩所 16:05 →(4.2km)17:10 いやしの宿八丁坂(泊) →

[Aug 4, 2018]



いやしの宿八丁坂。評判のいい宿だけあって、ずいぶん山の奥深くにあるのにそんなことを感じませんでした。



いやしの宿八丁坂の夕食。写真の他に雉だしの「こっこうどん」が付きます。この区切り打ちで初めて他の歩き遍路の人達とお話しした。



いやしの宿八丁坂の部屋。和室だったので、濡れた服や荷物で部屋を汚さないよう気を使った。

三坂峠 [Oct 20, 2017]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2017年10月20日、いやしの宿八丁坂は朝になった。まだ明るくなっていないものの、窓の外には雨の音がする。これで7日連続の雨である。季節のいい時を選んで来ているつもりなのだが、ずっと雨降りだったり台風が接近したり、普段の心がけがよくないのだろうか。

計画段階では、この回のお遍路は内子から久万高原まで35kmの峠越えが最大の難所で、そこを過ぎればあとは余裕だと思っていた。ところが、案に相違して岩屋寺の往復は厳しい道のりであった。でも、さすがに久万高原から先は松山市に向けて下って行くだけで、それほど苦労しないと思っていたのである。もちろん、そんなことはなかった。

1週間以上の雨降りと何度も繰り返した峠越え、また遠征序盤で足の爪をおかしくしたため、肩も背中も足も体中が痛む。特に、前日に山野袋が壊れて岩屋寺までずっと抱えて山道を歩いたことが響いて、腕と肩が痛い。そして、夜中トイレに何回も起きたため、少し寝不足である。

天気予報によると、前線が活発化してこの日も雨が予想されるものの、午後の降水確率は午前中よりも低い。一方、沖縄にいる台風はスピードを上げて北上する気配であり、3~4日の内に本州に接近する可能性が高くなってきた。予報円の中には、もちろん四国も含まれている。

午前7時に食堂に行くと、すでに他の皆さんは食事を終わって、出発した人もいるようだ。夕食をご一緒した通夜堂泊まりの男性は、翌日は八坂寺と言っていたから私と同様それほどの距離は歩かないはずだが、通夜堂には早く入らないといけないのかもしれない。

朝食はあぶった魚の干物と、焼き海苔、豆腐、ウィンナ、お新香、サラダ、それにヤクルトが付いた。それほど急ぐ必要がないので、ゆっくり食事をとる。支度をして8時過ぎに出発。この日も朝から雨だが、午後に札所があるのと降水確率が低くなっていることに期待して、上はレインウェア、下は白衣にした。

前日来た道を峠御堂トンネルまで戻り、今度は山道には行かずにちゃんとトンネルをくぐる。歩道がなく路側帯も狭いのだが、にもかかわらず左側を歩いてくるお遍路がいるので閉口する。常識のない連中もかなりいるようで、これではお堂に鍵をかけられてしまうのも無理はない。

トンネルから先、県道はかなり曲がりくねって距離のロスが大きいが、前日の経験に懲りて迷わず舗装道路を進む。それでも宿から1時間弱で大宝寺の分岐点まで来た。逆方向は登りが長いので若干のタイムロスはあるかもしれないが、前日歩いた山中の遍路道に比べるとずっと早いし安全である。

久万高原で国道に出るところの角に、於久万大師がある。ここは、当地に住む老女「於久万」が弘法大師をご接待したとされる場所で、「於久万」の名前がここの地名「久万高原」になったという伝説がある。お堂には「四国霊場番外札所」の表札がかかっていて、ご朱印は大宝寺で押してくれるということである。

さて、このあたりから私が歩いているのと同じような速度で、横に選挙カーが並んで大声で候補者名を連呼している。週末が総選挙で、それと同じ投票日に県議会議員選挙があるようだ。とにかくうるさい。「沿道からのご声援、ありがとうございます」と大声を張り上げるのだが、実際には雨なので誰もいやしないし、誰も声援などしていないのだ。

少し先にある道の駅・久万高原でひと休みしようと思っていたのだが、選挙カーも道の駅に来て止まった。また大月の時のように演説会を始められたら嫌なので、トイレを借りただけで早々に出発する。選挙に出る連中というのは、なぜあんなに大声で、他人の邪魔になるような立ち居振る舞いをするのだろう。そもそも、なぜに私の遍路期間中に総選挙などやるのだろう。



「いやしの宿八丁坂」から久万高原町に戻る途中の峠御堂トンネル。左に登る山道が前日歩いた大宝寺からのへんろ道。



久万高原市街に戻ってきた。これで7日連続の雨で、鴇田(ひわだ)峠の方向は雲の中である。



於久万(おくま)大師。岩屋寺から戻ってくる県道が、国道と交差するところにある。久万高原の名前はここからきたという。

久万高原から松山まで単に下るだけだと思っていたら、実は三坂峠という峠道なので、登って下る難路である。 もちろん、下りの方がずっと長いのだが、登りの方も久万高原が標高480m、三坂峠が710mだから標高差で200m以上ある。距離にしても於久万大師の角から明神ポケットパークまで7~8kmあるから、休みなしに歩くのは結構疲れる。選挙カーのせいで道の駅で休めなかったのは影響が大きかった。

久万高原から続いていた家並みは西明神簡易郵便局のあたりで途切れ、林の中を登って行く坂道になった。西明神、中明神、東明神と、このあたりどこまで行っても地名に明神が付く。東明神まで来るといよいよ山の中で、こういう場所にありがちな資材置き場や採石場、生コン工場などが国道の両脇に見える。

そして、このあたりでもともとの国道33号と、自動車専用の三坂トンネルに分かれる。もちろん、歩き遍路は旧国道を通らなければならない。分岐の先に、民宿「桃季庵」の看板があり、それらしき建物を見ることができた。道路建設のため建てたプレハブを再利用したと聞いているが、国道から少し離れているのでよく分からなかった。

三坂トンネル分岐からさらに傾斜がきつくなったが、坂の途中に明神ポケットパークが見えたのでここで久しぶりの休憩にする。午前11時、いやしの宿から約3時間かかった。愛媛県に入ってこれまで何ヵ所かにあったポケットパークと同様、東屋があり、トイレと水を使うことができるが、自販機は置いていない。

ここまでもずっと小雨が降っていたが、ポケットパークで休んでいる間にいよいよ本降りになった。午後になると降水確率は低くなるという予報なのに本降りになるというのは、前日に続いて予報が外れたのか、それとも山の天気だから仕方がないのか、いずれにしても不安なことである。

さて、ここから先は遍路地図では点線のへんろ道一択である。浄瑠璃寺まで標高差600m以上下る。どういう道なのか見当もつかないが、途中に坂本屋という民宿跡があるというから、それほどハードな登山道でないことを期待した。いずれにしても車道を通るとたいへんな遠回りで、遍路地図には距離さえ書いてないくらいである。

へんろ道への分岐はポケットパークから30分ほど、松山まで26kmの国道キロポストの向かいに入口がある。この頃になると、雨だけでなく霧が濃くなってきて、見通しが20mほどしか利かなくなった。幸い、自動車の多くは三坂トンネルの方に行ったらしく車通りはなかったが、横断するのが危ないくらいの霧である。

へんろ道に入ってしばらく民家の脇を通り、いよいよ山道に入る。その入口には「この先、歩行者専用。危ないと思ったら引き返してください」と書いてある。引き返そうと思った時には簡単に引き返せないんだよなあと思う。心配させるようなことは書かないでほしいし、本当に危ないなら整備してほしい。松山市は金持ちなので、予算はあるはずである。

さて、三坂峠は、真念が「松山の城堂々とし 中ににょっと伊予の小富士 駿河の山に劣らず 嶋しま山やま嶋 遍路の憂きをはらす」と道指南でも絶賛している名勝である。(駿河の山とはもちろん富士山である)

ところがこの日は雨が降っている上に、霧で全く見通しが利かない。遍路道は標高をどんどん下げて行くけれども、前方に見えるのは白い霧ばかりで、どこが山でどこが海なのか全く分からない。

12時15分前に遍路道に入ったので、浄瑠璃寺まで4時間かけても大丈夫である。しかし、途中で進退窮まって引き返さなくてはならない場合、山道を登り返して国道を遠回りしたら5、6時間かかるかもしれない。

転んだりしてケガをした場合、鴇田(ひわだ)峠でさえタクシーを呼ぼうと思えば呼べる(いくらかかるか見当がつかないが)。ところがこの三坂峠のへんろ道は、全く助けを呼べない場所である。歩き遍路が多く通るならともかく、この日はすれ違う人も追い抜いていく人もいないのであった。



「いやしの宿八丁坂」から3時間歩き続けて、三坂峠に近い明神ポケットパークでようやく休憩。雨は止まない。



ポケットパークからちょうど2kmで、右にへんろ道への分岐。霧が出て来て見通しは全くきかない。



へんろ道へはこの先を進む。ここから先へは車は入れない。この状況で「危なければ引き返してください」と言われても不安が増すだけである。

三坂峠の下りに入る。連日の雨で道がぬかるんでいて、ずっと足下に注意しなければならない。スイッチバックの急坂でスピードが出ない上、ところどころ側面が崩れているところもあるし、道が川になっているところもある。遍路道というよりは登山道レベルの道というべきである。

この回の区切り打ちで何度か峠越えを経験したが、その中でも最も困難な道であった。疲れたといえば久万高原への鴇田峠越えや、大宝寺から峠御堂トンネルまでの方が疲れたけれども、あの時以上に足場が悪かった。へんろ道はたいてい砂利くらい敷いてあるのだけれど、この道は泥の中を下りて行くのである。

ひとしきりスイッチバックを下りた後は、谷に沿ったトラバース道である。見通しが利かないので、実際にどういうところを歩いているのか分からない。建物の屋根のようなものが見えたと思ったが、そこまで下りても何もないということが2、3度あった。

谷に近くなると、今度は登山道を遮って川が流れている。足が乗る程度の大きさの岩を足場にして、なんとか渡渉する。この川は普段からこんなに水量があるのか、あるいは連日の雨でこうなったのかよく分からない。いずれにせよ、山歩きの経験のない年寄りが歩くとすれば危険の多い道と言わざるを得ない。

さらに下って行くと、今度は山側の斜面が崩れて土砂が登山道を覆っている。滑らないよう慎重に進む。すでにウォーキングシューズは半分以上泥に埋まり、速乾白衣も泥まみれである(後の話になるが、この泥汚れはとうとう落ちなかった)。

あとから振り返ると、こういう天気の時には時間がかかっても国道を行った方がよかったように思う。下りるのに1時間かかるのだから登り返さなければならなかったとしたら2時間である。いよいよ進退窮まってからの登り返しは精神的肉体的な負担が非常に大きい。それよりも、転落事故でも起こした日には誰も助けに来てくれない。

1時間歩いてようやく東屋が見えてきた。12時45分一ノ王子休憩所着。一ノ王子とは修験道で道中に設けた祠のことで、修行者を守護する神仏が童子の姿をとるとされることからそう名付けられた。もちろん、菅生の岩屋に向かう修験者が建てたものであろう。

この休憩所は谷川が流れるすぐ脇にあり、全体が苔で深い緑色に染まっている。大雨で水量も多く、谷沿いの湿気の多い場所でじめじめする。雨はざーざー屋根に当たるし、川のざーざー流れる音も重なる。腰は下ろしたものの、ゆっくり休めなかった。

ここで遍路地図を見てがくぜんとした。三坂峠からこの休憩所まで、地図ではほんのわずかの距離で浄瑠璃寺までの10分の1も来ていないのに、すでに1時間かかっているのである。このペースでいけば、浄瑠璃寺に着くころには午後8時になってしまう。とりあえず、「あと1100mで坂本屋です。一休みしていってください」という案内書きを頼りに重い腰を上げる。

すると、休憩所を出てすぐに道が太くなり、車が通れる幅になった。傾斜は相変わらず急だが、左に切れ落ちた谷には物置小屋が見え、電線も走っているので人がいるということである。荒天だし、高知・愛媛県境で痛めた足の状態もよくない。誰も通らない困難な道を歩いてきただけに人のいる気配を感じてたいへんほっとした。

15分ほど歩くと家畜小屋のような建物があり、そこから下は簡易舗装となったのでさらに歩きやすくなった。とはいえ30度の傾斜が15度になったくらいのもので、急坂には変わりはなくペースも上がらない。

谷の底で何かの畑を作っており、狭い谷の間を3相3線の電線が上に伸びている。この上には今休んでいた休憩所があるだけで他には何もなかったように思うのだが、何か電気を使う施設があるのかなと不思議に思った。

[行 程]いやしの宿八丁坂 8:10 →(10.0km)11:00 明神ポケットパーク 11:15 →(2.0km)11:45 三坂峠遍路道分岐 11:45 →(1.5km)12:45 一ノ王子休憩所 12:50 →

[Aug 15, 2018]



三坂峠の説明看板があるあたりから、道は下りになる。このあたりは普通の下り坂だが、すぐにスイッチバックになる。



連日の雨で路肩が崩れているところもあり、道が川と化しているところもある。登山道なら驚かないが、遍路道である。



峠から1時間の一ノ王子休憩所から先は車も通れる道になり、谷筋には電線も走っていて安心する。この写真は振り返って撮影。

四十六番浄瑠璃寺 [Oct 20, 2017]

一ノ王子休憩所から40分歩いてようやく傾斜が緩やかになり、家並みが見えてきた。真念「道指南」にも名前の出ている桜集落である。集落の入口に、坂本屋跡がある。明治時代終わりから昭和初めまで、ここに遍路宿があった。

その頃の遍路道はさらに過酷であったことは想像できる。いまの時代なら久万高原から国道を歩いてきて、登山道になるのは三坂峠から一の王子休憩所までの1時間だが、三坂峠までの登りと一の王子からの下りが登山道レベルだったとすれば、このあたりで日が暮れてもおかしくない。

「坂本屋」の表札はかかっているが、表にはすべて戸が立てられていて中に入ることはできない。横を入るとトイレがあるようだ。水道があって蛇口を捻ると水が出る。そして、親切なことにタワシが置いてある。ここを通る人の靴がドロドロであることを分かっているのである。ありがたく使わせていただく。

坂本屋から坂を下りて行くと桜集落の民家となる。たまたま、JAの移動販売車が来ていた。軽トラより少し大きいくらいの車で、野菜などの食品、生活用品を販売している。急坂だし道幅は狭いので、これくらいの車でしか上がってこれないのだろう。それでも、このあたりに住んでいるお年寄りにとって、なくてはならない移動販売車である。

それにしても、江戸時代からある古い集落なのに、バスが来ないような過疎地なのだ。集落には十数軒の家があったが、半分は誰も住んでいないように見えた。九十九折の坂を下りながら考えた。景色は間違いなくすばらしい。自然にも恵まれていて、水もおいしいだろう。松山市街まで車で行けば1時間かからない。それでも、歳とって坂の多いところで暮らすのは大変だ。

桜集落を抜けると、道はいくつかに分かれる。遍路道の矢印は山の方に続いているが、過酷な山道を下ってきてまた山に入るのは嫌だ。ここまで来ると、ようやく道幅がある普通の舗装道路になったので、一番太い舗装道路を下る。

このあたりでは土砂を運ぶトラックが行き来していて、ようやく街に近づいたような気がした。三坂峠から苦労して下りてきたが、やっと先が見えてきた。トラックが通る道を避けて家並みの方に進むと、ちょっと開けた一画に小ぎれいなお堂が建っていて「あみかけ大師」と書いてある。大師関連の旧跡・網掛石である。

お堂の前は公園風に整備されていて、雨さえ降っていなければ腰かけてお昼を食べられる場所もある。網掛石は弘法大師が網を巻いて石を運んできたという伝説があり、ここを通る遍路は石の割れ目に納札を挟んでいく習いとなっていたという。無事に峠を越えることができたという意味であろう。その気持ちはたいへんよく分かる。

そして、あみかけ大師前に石柱が立っていて、「浄瑠璃寺3km」と書いてある。ここから浄瑠璃寺まで1時間かからないということである。時間は14時10分、一ノ王子から1時間20分で着くことができた。遍路地図をみると三坂峠から一ノ王子までの7~8倍あるように見えるから、峠越えにいかに時間がかかったかということである。

すぐに丹波のバス停があり、松山市駅までのバスが出ている。バス停の近くに「丹波の里接待所」という屋根付きの立派な休憩所があり、このあたり次々と休む場所が出てきた。さきほどまで腰かける場所もなく坂本屋でも道端で立って小休止していたのに、あるところにはまとめてあるのであった。



かつて遍路宿であった坂本屋跡。土・日は開いているとのことですが、この日は戸が閉まっていました。水道があったので、ドロドロの靴を洗わせていただきました。



坂本屋を経て桜集落へ。舗装されているが急傾斜の細い道だ。松山市内とはいえ山の中である。



バス停のある丹波集落近くまで来て、ようやく道が平らになる。網掛け石のあたりから撮影。

網掛け石のところに浄瑠璃寺まで3kmと表示があったのですぐに着くだろうと思ったら、結構時間がかかった。その理由のひとつは、バス通りとはいえほとんど一車線しかない狭い道路だったにもかかわらず、松山市内に入って車が多くなってきたからである。

郵便局の横を抜けて網掛け石から40分ちょっと歩くと、まず鉄筋の4階建て、長珍屋の建物が見えてきた。民宿旅館という名乗りであるが、外見はホテルといってもおかしくない。この日の宿がこちらである。まだ午後3時前、一ノ王子ではどうなることかと思ったが、意外に早く着くことができた。あとは浄瑠璃寺から先、どこまで回れるかである。

荷物を預けていこうかと一瞬思ったが、よく考えたら山野袋は壊れてリュックの底だし、デイパックは松山に送ってしまった。納経帳や経本を裸で持ち歩く訳にもいかないから、荷物は重いけれどリュックのまま行かざるを得ない。

狭いバス通りをはさんで向かいに続く石垣が浄瑠璃寺である。境内に上がる石段の脇に、松山の誇る正岡子規の句碑「永き日や衛門三郎浄瑠璃寺」が立てられている。もともとの句碑は石に行書体で彫られていて読みにくいが、その前に説明書きも建てられている。

医王山浄瑠璃寺(いおうさん・じょうるりじ)、医王も浄瑠璃もご本尊である薬師如来にちなんでいる。「霊場記」に、「昔のことは伝わらず寺の荒廃については分からない」とあるし、「遍路日記」にも「昔は大伽藍なれども今は衰微して小さき寺一軒」と書かれているくらいなので、江戸初期には大掛かりな寺ではなかったようだ。

ただ、寺伝によると奈良時代に行基が開き弘法大師が再興したという歴史の古い寺で、菅生山が古くからの霊場であったことは間違いないので、そこからの遍路道が下ってきた浄瑠璃寺も重要な寺であったことは確かである。前にも書いたように、薬師如来の信仰は仏教伝来以来かなり早い時期に成立している。

右衛門三郎もこの近辺の物持ちであったとされ、この先の八坂寺や文殊院、松山市街にある石手寺の周辺では山伏姿の右衛門三郎像が結構見られるのであるが、浄瑠璃寺にはなく、あるのは正岡子規の句碑だけである。このあたりの寺の名前で5・7・5にうまく合うのは浄瑠璃寺だけなので、子規もいろいろ考えてそう詠んだのだろうか。

バス通りから左に折れて境内に入ると、一直線で本堂が見える。参道の途中、左手に納経所があり、右手に手水場やベンチがある。雨が小降りになってきたので、ベンチにリュックを置いてお参りさせていただく。

「医王山」の扁額が掲げられた本堂には20人ほどのグループが読経中だったので、先に大師堂をお参りする。しばらくひと気のない山道を歩いてきたせいか、人がたいへん多いような気がする。参拝者が引けてきたのを見計らって本堂にお参りする。もしかするとこれからこのグループと宿が一緒かと思うと、峠道とは違った心配事が出てきた。

幸い、納経所での待ち時間はなかった。「歩き遍路さんですか?」と尋ねられたので、そうですと返事する。峠道の様子や今日の泊まりはどこかなどとお話ししていると、「少々お待ちください」と奥に入られて、みかんを2つお接待していただいた。

降り続いていた雨は、いったん止んでいる。まだ午後3時半なので、雨さえ降らなければもう少し先に進んでおきたい。1km先の四十七番八坂寺か、さらに1km先の番外霊場文殊院か。大きなリュックを背負ったままバス通りを歩き続ける。

[行 程]一ノ王子休憩所 12:50 →(1.1km)13:20 坂本屋跡 13:25 →(2.6km)14:10 網掛石 14:15 →(3.0km)15:05 浄瑠璃寺 15:25 →

[Aug 22, 2018]



1車線しかないバス通りの右に長珍屋、左に浄瑠璃寺がある。山門前の石段には、正岡子規の句碑が立つ。



参道と本堂。本堂前の扁額には「医王山」と書かれている。



こちらは大師堂。この後納経所で、みかんをご接待していただきました。

四十七番八坂寺 [Oct 20, 2017]

浄瑠璃寺まで下りてきた時間が午後3時だったので、先に進むことにした。ここから五十一番石手寺まで、10kmちょっとの距離に6つの札所があり、他に別格霊場の文殊院もある。特に浄瑠璃寺から八坂寺は1km足らずで、本当にすぐそこである。

足摺岬で、50kmとか60km、80kmを歩いて来た後では、あっけなく感じるほどである。徳島の十四番常楽寺から十五番国分寺までの距離の方がさらに短いのだが、あちらの場合は建て込んだ住宅街の中にあってなかなか見えてこないので、すぐそこという感じはしなかった。八坂寺はバス停ひとつ歩くとそこから奥に見えるのである。

妙に狭い山門をくぐると右手に納経所があり、石段を登って本堂・大師堂などの施設がある。以前ロッジカメリアでいただいたパンフレット「八十八霊場おもてなしの宿(愛媛版)」に、八坂寺の火渡り修行の広告が掲載されている。それを見て、境内の広いお寺と想像していたのだが、本堂こそ大きいものの境内は比較的こじんまりしている。

熊野山八坂寺(くまのさん・やさかじ)。熊野も八坂も修験道に関連の深い名前で、火渡り修行をしているくらいだし、何といっても寺を開いたとされるのは役行者小角だから、修験道の色彩がたいへん濃いお寺さんである。

ご本尊は阿弥陀如来で、真念「道指南」に恵心僧都源信の作と書かれている。源信は平安中期の僧で、浄土信仰の理論書である「往生要集」を著したことで有名である。浄土教の祖とされ(まだ浄土宗、浄土真宗は成立していない)、後の法然や親鸞に多大な影響を与えた。

役行者と阿弥陀信仰はすぐに結びつかないような気もするが、松山は一遍上人にゆかりの深い土地柄である。一遍上人が教義を確立し時宗集団を構成するまでに各地の霊場を回ったことは確かであり、その中には四十五番岩屋寺も含まれている。まさに一遍上人が、修験道と阿弥陀信仰を結びつけたのかもしれない。

ここ八坂寺は、もともと菅生山(大宝寺・岩屋寺)への参道にあたるため修験道が盛んな霊場であった。国家仏教の隆盛により復興したものの一時は衰え、源氏や越智氏の財力と源信・一遍など浄土信仰の隆盛とともに平安末から鎌倉期に再び盛んとなったものとされる。

四国札所の多くと同様、戦国時代に戦災被害を受け、真念の時代にはまたもや衰えていたようで、「道指南」の記事もご詠歌とご本尊を紹介するだけのあっさりしたものである。霊場記には、「古いお堂に風が凄まじく吹き付け、石段は苔に覆われている」と書かれているから、足摺の真念庵のような雰囲気であったらしい。

現在は、本堂も大師堂もたいへん立派である。本堂の建物内には、全国の信者から寄進された「万体阿弥陀仏」が納められており、本堂後ろから入って拝観することができる。ただし、宗旨は真言宗醍醐派なので、浄土信仰というよりも密教の色彩が濃いお寺である。

それを如実に表わしているのが、本堂と大師堂の間にある閻魔堂という小さなお堂である。向かって右に「極楽の道」、左に「地獄の道」と書いてあり、小さなゲートをくぐるとそれぞれに極楽、地獄の様子が極彩色で描かれている。

浄土信仰のお寺ならば、阿弥陀如来の本願で衆生すべて極楽浄土に救い取るのが本来だから、極楽だけではなく地獄もあるというのは、信仰のあり方として浄土信仰とは別ものと考えなければならないだろう。

この頃になって、再びぽつぽつと大きな雨粒が落ちてきた。午後4時を過ぎたところなので次の文殊院まで5時前には行けそうなのだが、もう暗くなりかけているのに雨に降られて歩くのも気が進まない。あきらめて元のバス通りに戻った。



浄瑠璃寺からバス通りを歩くと、すぐに八坂寺の入口になる。お大師様が出迎えてくれた。



バス通りを左折してまっすぐ進むと、八坂寺の山門が見えてくる。境内に比べて小さな山門だ。



山門から正面奥が本堂。大きな本堂で、中には全国から寄進された万体阿弥陀仏が納められている。

長珍屋さんには午後4時半に戻った。ちょうどいい時間である。ただ、ちょうどいいのは私だけではなかったようで、バス遍路の団体客とぶつかってしまい、入口が大混雑している。

これは参ったなあと思いつつ、とりあえず雨に濡れないエントランスの中に入る。そして、よく見てみると宿が宿泊客の受付をしているのではなく、バス遍路ツアーがエントランスで動かないまま翌日の予定などを説明しているのであった。

案内役の先達らしき図体のでかい男が、一般遍路客の下駄箱前で立ちふさがっている。宿にとって泊り客に変わりはないのに、自分達の世話しているお遍路以外は客でないという態度である。おそらく宿に対しても、使ってやっているのだから多少のことをしても文句は言われないと思っているのだろう。

とっさに、前日の「いやしの宿八丁坂」で聞いた話を思い出した。先達といっても知識とか経験とか信仰心で選ばれる訳ではなく、車でささっと回って納経帳にいくつもご朱印をいただいて、あとはなじみのご住職に推薦状を書いてもらうだけのことで、結局のところカネでなれるという話であった。

おそらく、こういうツアーの案内をするのに「公認先達」という資格にネームバリューがあるのだろうが、そんな心得で資格をとった人が常識的で気遣いの行き届いた対応などできる訳がない。現に、こうして自分達の商売に関係ないお遍路のことを無視するような態度をとるのである。嘆かわしいことだ。

そんなこんなで戸惑っていると、宿の奥様が「こちらにどうぞ」と私を見つけて案内してくださった。この奥さまには出発まで何かとお気遣いいただいて大変ありがたく思ったのであるが、おそらく奥さまが若い頃には個人客だけを相手に民宿としてやっていたのだろう。

だが、ひとたび莫大な設備投資をしてしまうと、どうしても売上を確保しなければならない。ディスカウントしてでも団体客を誘致しないと借金が返せない。その結果、個人客への対応が行き届かなくなるのは目に見えているが、奥様としてもそのあたりは気になるのだろうと思った。

団体客と鉢合わせになるのは嫌なので、食事は彼らの時間より遅らせて午後7時にお願いした。彼らの食事時間である6時ならお風呂が空いているだろうと思い、洗濯物を持って地下の浴室・ランドリースペースへ向かう。

まずコインランドリーに行くと、なんと洗濯機・乾燥機が5セット揃っていて、いままで泊まった宿の中で最大の台数だった。食堂の下の階にあって宿泊するエリアとは離れているので「24時間お使いいただけます」とあるのもうれしい。100円入れなくてはならないのだが、5セット確保する必要経費と思えば高くはない。

洗剤は売店で1回分の袋入りを分けていただく(無料)。ここには白衣や菅笠、経本や納経帳、遍路地図等の関連書籍など遍路用品がひととおり揃っている他、リポビタンDまで置いてあった。翌朝出発前に飲ませていただいた。

コインランドリーの奥が大浴場で、団体客が食事時間になる6時を過ぎてから入ったのだが、広々として湯船も大きく、たいへんくつろげる。この回の区切り打ちの中で、最高に気持ちがいいお風呂であった。その理由の一つが団体客と一緒に入らなかったことで、大勢で騒いでいたらゆっくりできなかっただろう。

1泊2食7,200円で、予約の電話をした時には「バストイレは共同です」と言われたのだが、ちゃんとトイレは部屋に付いていた。他の宿と同様、ずぶ濡れの服や荷物で和室を汚さないよう気を使ったが、これは宿のせいというより天気のせいだろう。

この日の歩数は42,862歩、移動距離は22.5kmだった。



八坂寺大師堂。本堂の左手にある。こちらも大きい。



本堂と大師堂の間に閻魔堂というお堂がある。右が極楽の道、左が地獄の道で、入るとジオラマがある。

夕食は、刺身、天ぷら、煮物、鍋、酢の物、フルーツなど盛り沢山で、瓶ビールの他に日本酒もお願いしてしまった。日本酒はベルリーフ大月以来1週間振りで、そろそろ今回の区切り打ちも終わりに近づき、無事ここまで来れたことを感謝しつついただいた。

さて、こちらの宿でもうひとつありがたかったのは、wifiが完備されていたことである。団体客がいたので少し心配したのだが、ツアーで回る人達だからwifiには用がなかったようでさくさく通じた。気になるのは台風の状況である。いよいよ沖縄近海からスピードを速めて北上しつつあった。2、3日後には確実に四国に近づくという予報である。

予約していたのは3日後の午前便であるが、すでに天候調査中に指定されていて、飛ぶ保証はない。逆に言えばペナルティなしでキャンセルできるということである。明日の宿である「たかのこのホテル」にはすでに荷物を送ってあるので泊まらなくてはならないが、最速で2日後の朝一で帰ることが可能である。

この時点では、新幹線、夜行バスなどいろいろな選択肢が考えられたが、とりあえず2日後のJAL松山・羽田便の予約状況を見てみる。すると、驚くべきことに夜便まですべてキャンセル待ちにもかかわらず、朝一のクラスJだけが一席空いている。これはお大師様のお導きだと判断して、すぐにクリックした。

翌日以降の話になるが、2日後の松山・羽田便は、午前中のANAが機材調達ができずに欠航となったので、朝一のJALは当然のことながら満席。空港ロビーも大混雑で、ぎりぎりのタイミングで帰りのエアを押さえられたということである。

そしてもし、安いからと言って新幹線を選んだ場合、この日は台風接近により遅れに遅れ、東京着が翌朝になったケースもあった。もし長珍屋さんにwifiがなかったら、JALの空席状況を見なかったらどうなったかと思うと、お大師様のお導きに感謝するとともに本当に冷や汗ものであった。

ということで、日程を1日切り上げることとなった。当初の計画では、松山市内に入って初日に石手寺、2日目に太山寺、円明寺までお参りしようと考えていたが、2日目の予定はキャンセルである。キャンセルしなくても、台風だから歩けなかっただろう。初日の石手寺にしたところで、台風接近と前線活発化により大雨大風が避けられず、どこまで歩けるか保証はない。

そして、今回歩き終わったところから次回の区切り打ちがスタートするから、できるだけ交通の便のいいところで終わることが望ましい。可能ならば、朝一の飛行機で松山まで来て、すぐに歩き始められる場所であることが理想である。

足の具合は、左足はほぼ完治して絆創膏もしないで済むようになったが、右足の親指は爪が完全に白くなり血がにじんでいて、指全体が赤く腫れあがった状態であった。何日間か痛みが出てロキソニンを飲んだが、よく1週間もってくれた。その晩はスケジュールのことも頭に浮かび、夜中まであまり眠れなかった。

翌朝食堂に入ると、すでに食べ終わっていた歩き遍路の個人客3人とご一緒することになった。歩き遍路だと6時台に朝食は当り前なのだが、バス遍路だとゆっくり起きて7時台であるらしく、団体客はまだいなかった。私の他には年配の男性2名、若い女性1名。ここに限らず、たいていの歩き遍路は男の年寄りか若い女性、あとは外国人である。

先客の話におずおずと参加する。前日の三坂峠は道がひどかったとか、次はどこに泊まりますか、などと当たり障りのない話である。話しているうちに、女性の方から「おととい岩屋寺でお会いしませんでしたか?」と尋ねられた。なんと、岩屋寺からいやしの宿に帰る途中、ハイペースで私を追い抜いて行った彼女なのであった。

この方は通し打ちでここまで来ているということであった。坂本屋はたわしが置いてあって助かりましたねとか、台風が来そうだから大変ですね、などと話をした。

[行 程]浄瑠璃寺 15:35 →(1.0km)15:50 八坂寺 16:15 →(1.2km)16:30 長珍屋(泊)

[Sep 1, 2018]




雨が激しくなってきたので長珍屋さんに戻る。バス通りをはさんで向かいが浄瑠璃寺。



こちらの夕食もたいへん結構でした。区切り打ちも最後に近づいたので、ビールに加えて日本酒も注文。

別格九番文殊院 [Oct 21, 2017]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2017年10月21日の朝になった。夜中まで眠れなかったが、5時に目が覚めた。窓の外はすでに雨が本降りである。

あくる日のJAL羽田便を予約してしまったので、この日が区切り打ち最後の歩きである。進んだとしても松山市内までなので、全く急ぐ必要はない。食事の後歯磨きをし身支度も終わって、そろそろ団体客が食べ終わったと思われる時刻に食堂に行くと、まだ連中は食事前でロビーに屯ろしていた。

出掛けに、宿の奥様が見送りに出て来られる。「民宿・旅館」と名乗っている宿だが鉄筋の大きな建物で、民宿という規模ではないのだけれど、きっとこの奥様はそれこそ坂本屋のような小さな規模の頃からやっていらしただろう。歩き遍路にはたいへんありがたいロケーションの宿であり、長く続いてほしいと思う。

午前8時過ぎに出発、雨は相当に強い。上下レインウェア、リュックにはカバーで傘を差した完全装備である。実はこの時、雨は激しけれども大した距離ではないので、それほど苦労しないだろうと思っていた。全く見通しの甘いことであった。

その見通しは、歩き出してすぐに怪しくなっていた。なにしろ、傘を差していても横から雨が吹き込んでくるほど風が強く、傘が裏返らないように注意しながら歩くだけで、景色どころか正しい順路を歩いているのかどうかもおぼつかないのである。

前の日にお参りした八坂寺の分岐を過ぎると片側1車線の太い道にぶつかるが、遍路地図によれば進むのは太い道ではなく真っすぐ伸びる細い道である。こういう場合は太い道が安心なのだが、方向が90度違うので仕方なく直進する。

細い道はずっと住宅街の中を進むけれども、お寺らしき建物は見当たらない。こういう天気で歩いていると実際の距離より長く感じられて、通り過ぎてしまったかと思うくらいである。

ようやく左手にお寺の建物が見えてきた。長珍屋さんから文殊院まで2kmしかないのだけれど、40分近くかかって、8時50分文殊院に到着。

このお寺さんは浄瑠璃寺側から来るとなかなか見えないのだが、逆側から来ると道路際にお大師様の大きな石像があるので分かりやすいし通り過ぎることもない。

それにしても雨が激しい。屋根があって雨が当たらない鐘楼のところにリュックを置かせていただく。1つ目のお寺からこんなに苦労するのでは、今日はたいへんつらいことになりそうだ。



台風接近でいよいよ雨が強まる中、文殊院への道を進む。なかなかお寺が見えてこない。



順打ちだといきなり境内の前に出る。逆打ちの場合はお大師様の大きな石像が目印となる。



鐘楼の屋根の下にリュックを置かせていただきお参りする。境内にはいろいろな像があったのですが、ゆっくり見る余裕がなかったのは残念。

文殊院徳盛寺(もんじゅいん・とくせいじ)、真念「道指南」に「恵原村大師堂あり この村の南に右衛門三郎の子八人の塚あり」と書かれているのがこの徳盛寺である。

敷地はそれほど大きくないが、本堂・大師堂・鐘楼・庫裏が境内を囲むように建っており、大きなお大師様の石像だけでなく、不動明王の銅像、七福神、江戸時代からあると思われるさまざまの石仏が境内のあちこちに立っている。

お参りをした後、庫裏の納経所にお伺いしご朱印をいただく。こちらは別格二十霊場のうち十四ヶ橋永徳寺の次の九番にあたる。大洲から松山だから、かなり距離が開いているが、それとともに有名なのは、このお寺が例のお遍路元祖である右衛門三郎の屋敷跡に建てられたという由来があるからである。

そのことは、真念「道指南」も書いているので江戸時代にはすでに流布していたことは確かである。札所の多くが弘法大師との関わりを持つとされるが、その多くは出所不明の説である。その中で、文殊院の記載はたいへん具体的であり、少なくとも古くからそう伝えられていることは間違いない。

ご朱印をいただく時に、右衛門三郎ゆかりの塚はどこでしょうか、と聞いてみると、お寺の若住職が、親切に教えてくれた。

「前の通りをまっすぐ進んで、電信柱を5つくらい過ぎたところに、古い遍路石があります。そこを左に折れて100mほど進むと、最初の塚があります。その向かいが二つ目。あとは家と工場の間を歩いて行くと、分かりにくいものもありますが右衛門三郎の子供の墓といわれる8つの塚が続いています。ぜひお参りしてください」

案内されたとおりに進むと、すぐに最初の塚が見つかった。「文殊院八塚群集古墳群」と石柱が立っている。古墳であれば、弘法大師の時代より少なくとも400~500年古く、お大師様に狼藉をはたらいた右衛門三郎の子供の墓というのは考えられないが、そこはそれ、信仰の問題だからあまり深く追及すべきではないだろう。

一つ一つの塚はそれほど大きいものではないが、それぞれに祠が建てられ、お地蔵さんがお守りしている。松山市内に入ってからかなり進んだので、再開発されておかしくない場所である。

天皇陵や皇室ゆかりとされる古墳にも、すぐそばまで住宅となっているところは少なくない。この古墳群は再開発にも巻き込まれず今日に至ったが、大師伝説がなかったら、皇室由来でない古墳群がこうして長く保存されただろうか。

右衛門三郎は四国のかつての支配者である越智氏の末裔とされている。四国札所にも三嶋神社、仁井田五社など越智氏ゆかりの霊場が含まれている。あるいは右衛門三郎とは、表向きにはできない四国草創期の支配者を顕彰する伝説であったのかもしれない。

そうしている間にも雨はますます激しくなり、持っている傘も飛ばされそうな勢いである。台風が接近しているのは間違いなさそうだ。これから松山市の市街地なので峠の登山道を歩く訳ではないが、それにしても不安なことであった。

[行 程]長珍屋 8:10 →(1.6km)8:50 文殊院 9:10 →

[Sep 15, 2018]



文殊院で教えられたとおり、八塚古墳群へはへんろ石が目印となる。



お大師様に狼藉を働き頓死した右衛門三郎八人の子の墓とされる八塚古墳群の最初の塚。古墳だから弘法大師よりかなり古いのだが。



最初の塚で右に折れ、バス通りと平行に進むと八つの塚が次々と現れる。なぜか遍路地図には記載がない。雨はいよいよ激しくなる。

四十八番西林寺 [Oct 21, 2017]

文殊院八塚古墳群を見て、バス通りに戻る。ここまで来るとずっと家並みが続いており、古墳群のように少し中に入らないと空き地はない。次の四十八番に向かうにはどこかで右に折れなければならないが、とりあえず遍路シールの道案内があるのでそれに従って進む。

雨はいよいよ強くなってきた。こういう時に東屋があると助かるのだが、住宅街では望み薄である。ようやくバス通りから離れて、川の方向に向きを変えた。あたりの状況はよく分からない。傘を差して前に進むのが精いっぱいである。

雨に濡れて寒い。普段は歩いていると汗をかくのでそれほどトイレは近くないのだが、この時は寒くてそうはいかなかった。この日のコースは1時間ごとに札所があるので心配するには当たらなかったが、それにしても寒かった。

倉庫のようなところを左に折れるように指示があり、車の入れない細い道を進むと、立派なお堂の前に出た。「札始大師堂」と書いてある。ここを目指して来た訳ではないのだが、せっかくだからお参りしていこう。お堂の引き戸を開けると中は結構広い。椅子も置いてあるので、しばらく雨宿りさせていただくことにした。

お堂の隣に普通の民家のような建物があり、トイレはそこにあった。靴を脱いで室内に上がるようになっていて、とてもきれいである。あるいはお寺の施設なのかもしれない。もう一度大師堂に戻ってひと休みする。

奥にはお大師様の像があり、香炉の横に大師堂の縁起が書かれた印刷物が置かれている。それによると、そもそもこの大師堂は折からの大雨で大水となったため、弘法大師が法力をもって作られ仮の住まいとされたのがはじまりという。

その後、土地の長者である右衛門三郎に復興の相談にいったところ、お大師様を乞食坊主と思った右衛門三郎に鉄鉢を割られ、それがもとで三郎の子供八人が次々と死んでしまうという例の話につながるわけである。

悔い改めて大師を追うことになる右衛門三郎がまず訪れたのがこの大師堂で、それからここの大師堂を「札始大師堂」と呼ぶことになったそうである。ということは、お大師様も私と同様に大雨で困ってここを作ったということだ。

外の雨は引き続き激しく、雨宿りしていてもおさまる兆しはみえない。もともとそういう予報なのだから仕方がない。こういう天気のために予備日を作るべきだと思う一方で、それでも歩くからお遍路なのだということもできる。難しいところである。

いつまでも雨宿りしている訳にもいかないので、意を決してお堂を出る。傘を両手で支えながら札始大師堂から少し歩くと、片側一車線の太い通りに出て、そのまま重信川にかかる久谷大橋を渡る。

札始大師堂の由来書によると、重信川の名は、江戸時代にこの川の治水工事をした松山藩の家臣足立重信の名前をとったものだそうで、右衛門三郎が弘法大師に寄進して工事していれば衛門川か三郎川になっていただろうと書いてあった。時代は800年ほど違うが。



文殊院・西林寺間にある札始大師堂。右衛門三郎がお大師様にお詫びするため遍路を始めた場所といわれている。



札始大師堂内部。大雨の中ずぶ濡れで歩いてきたので、屋根のある大師堂はたいへんありがたく休ませていただきました。



重信川を越え、いよいよ松山の中心部に入ってくる。車の数も浄瑠璃寺あたりとはかなり違う。

川を渡ったところが大きな十字路で、まっすぐ進むと西林寺、左に折れると300mで杖の渕公園と表示がある。杖の渕は大師が杖で突いて水が出たといわれる旧跡で、もともと西林寺の境内にあったといわれる水源であるが、なにしろ大雨で、往復600mを歩こうという気になれない。

後から振り返ると、この日は一日中風も雨も強かったのだが、特に激しかったのは札始大師堂の前後、西林寺の前後と石手寺にいる間だったように思う。移動中に多少弱まってくれたのはありがたいが、いずれにせよ杖の渕公園のあたりでも激しい雨であった。

その冷たい雨の中、横断歩道で私を抜いて行ったのは半ズボンの若い人と髭もじゃの中年男、いずれも外国人であった。この時間ここにいるということは浄瑠璃寺かそのあたりから歩き始めたと思われ、長珍屋にはいなかったので一体どこに泊ったのだろうと疑問に思ったことでした。

そして、その二人連れに西林寺で会ったのだが、その半ズボン姿は、若い男とばかり思っていたら女の子だったのである。歳の差があるのでおそらく親子だろうと思ったが、なんともいえない。この近くの宿は長珍屋しかないから、あるいは松山市内に住んでいるのかもしれない。

せっかくの土曜日なので、この大雨の中でも歩くわざわざ歩くのだろうか。やはり大雨の中、八丁坂の遍路道を歩いていた外国人カップルを思い出した。

杖の渕公園の交差点を越えて100mほどで、右側に西林寺がある。通りから直角に折れていったん川沿いを進み、もう一度直角に折れて、八坂寺と比べると巨大という他にない山門をくぐる。10時20分着。札始大師堂で雨宿りしたので、文殊院から1時間ちょっとかかった。境内はかなり広い。

清滝山西林寺(きよたきやま・さいりんじ)。山門の上には「清瀧山」の扁額が掲げられている。「霊場記」では清涼山となっている。いずれにしても寺近くにある杖の渕にちなんだ山号である。現在では杖の渕公園と数百メートル離れているが、霊場記の挿絵では西林寺のすぐ横にある。

というよりも、杖の渕のすぐ横にお堂がひとつあっただけなのが西林寺なので、もともと杖の渕が主で西林寺が従なのかもしれない。雨の中、本堂・大師堂で読経して納経所でご朱印をいただく。長珍屋で一緒だったバス遍路の団体客はかなり前に進んだようで、姿が全く見えないのは静かでよろしいことであった。

山門のあたりで雨宿りしつつ、今後の方針を再検討する。時刻は11時前。次の浄土寺まで3km、この日の宿である「たかのこのホテル」は浄土寺のすぐ近くである。ただ、お参りの時間を考えても12時前後には着くので、まだチェックインできる時間ではない。

次回の区切り打ちスタートを考えた場合、今回の終了地点は浄土寺まで進んで伊予鉄の駅まで歩くか、石手寺まで進んで市電の道後公園が望ましく、あとは強まる一方の風雨との兼ね合いである。ともかくも、浄土寺までは行かなくてはならない。10時45分に出発した。

[行 程]文殊院 9:10 →(2.3km)9:35 札始大師堂 9:45 →(1.9km)10:20 西林寺 10:45 →

[Oct 6, 2018]



西林寺は大通りに面している。こういう場所にある札所はしばらくぶりだ。



西林寺境内と、正面が本堂。こちらをお参りしている頃、また雨が激しくなってきた。



本堂右手に大師堂。お大師様が杖で叩いて清水を得たとされる杖の渕が500mほど離れたところにあるが、激しい雨のため断念。

四十九番浄土寺 [Oct 21, 2017]

西林寺から浄土寺まで3kmほどであるが、田舎道の3kmと市街地の3kmは体感距離(?)が違う。田舎道はあたりの景色を楽しみながら1時間ほど歩いてもたいした負担はないけれども、市街地ではそうはいかない。

まず車通りが多い。車道と歩道が分かれている高規格道では車がスピードを上げて通り過ぎるので気を使うし、分かれていない道路ではぶつかりそうで気を使う。まして雨ともなると、水しぶきを掛けられるのは避けられないのである。

もう一つあるのは、信号待ちと一時停止である。信号が多いのは市街地だから仕方ないとしても、露地から出てくる車はほぼ例外なく頭を車道深くまで突っ込んでくるから、これをよけていたら走ってくる車にぶつかってしまう。一時停止は本当は「とまれ」の停止線で止まるべきところ、最近の警察はもっと前で止まれと指導しているようなのだ。

こういう地方都市の場合、道路は狭いのに車は多い。いまの時代バスや電車で移動しろというのも無理な話だし、区画整理や都市計画があったとしてもできるまで何十年かかるか分からない。もっとも地方では公共事業が最大の景気対策であるから、住む人さえ減ればすぐにでもできるのかもしれない。

西林寺の前のバス通りは片側一車線あったが、遍路シールは脇にそれて細い道を進むことを指示している。「たかい公園」という晴れていれば一休みしたい小公園の横を過ぎて、田園地帯を進む。そして再び車の多い道に出た。片側一車線あるが、歩道はあったりなかったりする。神経を使う上に、雨はいよいよ激しい。

病院の前あたり、屋根のあるガレージの軒先を拝借して現在位置を確かめる。全然進んでいないことが分かり、愕然とする。1週間以上雨の歩きが続いて、スケジュールがどうこうよりも、雨の中を歩き続けること自体がもう嫌だ。

浄土寺から30分ほど歩き、ようやく小野川を渡る。この橋の名前が「遍路橋」である。石手川を渡る橋も遍路橋というようなので、地元の人は遍路道にある橋を一般名詞的にそう呼んだのかもしれない。

遍路橋を渡ってもまだまだ浄土寺は見えてこない。というよりも、その前にあるはずの伊予鉄の線路が見えてこない。伊予鉄にぶつかる前に、片側2車線の立派な道路を横切る。国道11号線である。

国道11号線は若い番号から推測できるように四国の幹線道路で、松山から高松を経て徳島へと瀬戸内海沿いを通る国道である。これまでの歩き遍路では徳島から高知を経て松山と来たので54号、55号というローカル国道を通ってきたのだが、これからはこの11号を通る機会が多くなるはずである。これを通って行けないものかと思うが、残念ながら浄土寺も石手寺も通らない。

国道11号を渡ると、ますます道は細くなる。見通しがきかない上に、クランク状に続いていたりする。遍路シールもほとんどなく、江戸時代からある遍路石に従って歩かなければならない。

この方向で合っているのかと不安になりつつ細い通りを折れたり、ようやく現われた伊予鉄の踏切を渡ったりしているうちに、左手ずっと奥に山門が見えた。方向的にはあっているので、シールも何もないけれどもそちらに向かって歩いて行く。もう一つ大通りを渡ると、山門に「西林山」と扁額がある。浄土寺である。



西林寺を過ぎるといよいよ街中になる。へんろシールはこの方向を示しているが、交通量が多く道幅は狭く、雨の日はつらい道だ。



伊予鉄久米駅が近づくと、細い住宅街の道に古い標石が浄土寺への道を指し示す。



上の写真の「左」を折れると、浄土寺の山門が見えてくる。再び雨が激しくなってきた。

西林山浄土寺(さいりんざん・じょうどじ)、この浄土寺と次の繁多寺は、孝謙天皇の勅願所で源頼朝の寄進を受け、河野氏の庇護を受けたという共通点がある。河野氏が伊予の支配を安堵されたのは源平合戦で源氏に味方したからなので源頼朝は分かるが、孝謙天皇が出てくるというのはよく分からないところである。

先ほどお参りした四十八番札所の寺号・西林がこちらの山号になっているのも気になるところで、たびたび引き合いに出す五来重氏によれば八坂寺が勢力を持っていた時期の末寺だったのではないかという。

この浄土寺は、称名念仏の空也像があることで有名である。空也自身もこの寺にいたことがあると伝えられる。空也は平安末期の浄土教の僧で、寺を持たず巷に出て「南無阿弥陀仏」を唱え続けた。そのため空也が唱えた阿弥陀如来がそのまま仏となったというのが空也仏であり、京都の六波羅蜜寺のものはよく教科書に載っている。

となると、当然ご本尊は阿弥陀如来であると思われるところ、釈迦如来である。後の浄土宗系と同様、浄土教でも阿弥陀如来を重視するが、本尊がお釈迦様の寺は、阿弥陀如来や薬師如来、観音菩薩がご本尊の寺より古い歴史を持つものが多い。それ以前から霊場として盛んだったということであろう。

山門のところが雨が当たらないので、ずぶ濡れのリュックを下ろし必要なものだけ持って石段を登る。ただ、リュックを置いた場所が死角となって見えないのが気になる。どこかで、松山市内に入ったら荷物を置きっぱなしにすると置き引きに遭うから注意しろと書いてあったことを思い出す。街中だから注意するに越したことはない。戻ってリュックを背負ってお参りする。

本堂の横に、空也仏を説明する案内板が立てられているが、空也仏がどこにあるかは書いていない。本堂の扉は閉ざされていて、小さな隙間から覗くけれども中が暗くて分からない。それとも隣のお堂だろうか。いずれにしても公開していないようなので、手を合わせてお参りする。

納経所は本堂の横をしばらく進んだ庫裏の中にある。そして納経帳を差し出してびっくりした。筆を持っているのは高校生にしか見えない女の子で、しかもかなりの美少女なのである。手慣れた様子で「奉納 釈迦如来 浄土寺」と筆を走らせ、ご朱印を押す。たいしたものである。お寺の跡取り娘だろうか。

この子が他のお寺のおばさま達のようになる頃には、私はこの世にいないだろうな、と思ってしまった。そして、(例えば切幡寺とか岩本寺とか延光寺とかの)あのおばさま達もこの子の頃からご朱印を押していたのかなあと想像すると、なんだかおかしかった。

納経所から出ると、正午を回ったところだった。雨は依然として強い。ここ浄土寺の住所が「松山市鷹子町」だから、伊予鉄鷹子駅や「たかのこのホテル」はすぐ近くである。ただ、ホテルのチェックインはまだだし、次回ここからスタートというのもちょっと面倒かもしれない。

あれこれ考えて、いよいよ進めなくなるまでは石手寺を目指そうと決めた。時間的にも、石手寺に着くのは午後2時頃になりそうなのでちょうどいい。問題は、その前に風雨が強まってどうにも歩けなくなってしまうことである。でも、そうなった時は仕方がない。ともかくも次の繁多寺に向かった。

[行 程]西林寺 10:45 →(3.2km)11:40 浄土寺 12:15 →

[Oct 13, 2018]



浄土寺本堂。山門からまっすぐ進んだところにある。



こちらのお寺には国の重要文化財である空也仏があるが、残念ながら案内看板だけである。



こちらは大師堂。納経所は本堂・大師堂をさらに進んだところにありちょっと離れているので、用心のため荷物を取りに戻る。

五十番繁多寺 [Oct 21, 2017]

浄土寺から繁多寺までは2km弱、風雨さえ強くなければすぐ近くといっていい距離である。しかし、この頃になると風が強くなってきて、時折傘が裏返りそうになる。そうすると傘が壊れてしまうから、傘を畳んで頭にはレインウェアのフードをかぶる。いずれにせよ顔も頭もびしょ濡れである。

考えてみると、この回の区切り打ちでは観自在寺を過ぎて柏集落の前で雨が降り出してから、いったん止むことはあっても半日以上降らないことはなかった。こういうことがないように梅雨時とか台風シーズンを避けて10月を選んでいるのに、1週間以上も雨の中を歩くことになるとは、物事はなかなか予定どおり進まないものである。(この雨は首都圏でも同じ様に降り続け、そのため冬の野菜市況は高騰した)

中でも、台風が北上しつつあったこの日の雨は一段と激しく、また風も強く、つらいお遍路歩きとなった。お遍路の趣旨からいって毎日好天に恵まれることまでは期待しないとしても、1週間以上降り続けて日に日に強まって行くという状況は厳しい。これ以上風雨が強まれば、ケガをしては元も子もないので避難することも考えなくてはならない。

繁多寺へは、浄土寺の先を右斜めに入る。すぐに、ホテル&入浴施設の「東道後のそらともり」があり、駐車場にはたくさん車が止まっている。気がつくとこの日は土曜日である。私のようにリタイアしていなければ普通は土・日しか休めないのだから、混むのは当り前である。

しばらくその通りを直進する。バス停があるので、バスも通るようだ。時刻表をみると伊予鉄久米駅行きが30分に1本走っている。久米は「たかのこのホテル」の最寄駅だから、いざとなればこのバスに乗って戻ることができる。少し安心した。

遍路シールの指示に従って右の路地に折れる。路地から細い道に入るとそこから墓地が広がっていた。お遍路歩きは寺から寺に歩くのだが、お墓の中を通ることはあまりない。思い出すのは二番から三番の間の「極楽霊園」くらいである。こんな道を通らなければ繁多寺に行けないのかと思うが、太い道路のように車の水しぶきがあがらないので、かえってありがたい。

お墓の中のショートカット道から住宅地の裏手に出る。このあたり「畑寺」という地名である。しばらくは住宅街の裏手を進む。古い家並みもあり、新しく開かれた住宅地もある。このあたりから松山市内中心は近い距離にあるので、通勤圏内であることは間違いない。

やがて、道幅の広い道に出た。前方は小高い丘になっていて、遍路シールは丘の上を指示している。大回りのカーブに沿って坂を登って行くと、そこが繁多寺の駐車場だった。浄土寺から30分かからず、12時45分に着いた。

境内は細かな砂利で整えられていて、土の境内のお寺さんよりも水たまりが目立たない。石段を四、五段上がった本堂レベルとの間は庭園になっていて、松や庭石が整えられている。山門の方を振り返ると、雨雲が低く垂れ込める向こうに松山市の中心地を望むことができる。たいへん落ち着く境内で、晴れていたらゆっくりしたいところだ。



浄土寺から繁多寺へは、幹線道路から右に入った通りを進む。ここもバス通りだ。



道案内に従うとお墓の中をショートカットする。車が通らないので水しぶきが飛ばずありがたい。



さらに畑寺の住宅街を通って丘の上が繁多寺。畑寺は繁多寺のもともとの名前と言われる。3

東山繁多寺(ひがしやま・はんたじ)。東山は寺の裏山の名前であるという。繁多寺の周辺の地名を畑寺といい、「霊場記」には畑寺がもともとの名前ではないかと書かれている。「四国遍路の寺」の五来重氏は、東山の山上に奥ノ院があり、麓の畑のあるあたりにお寺があったからそう呼ばれたのではないかと推察している。

「道指南」ではご本尊とご詠歌くらいしか記載がないが、「霊場記」には孝謙天皇の勅願所で源頼朝も寄進したと書かれている。「辺路日記」には「もとは律寺である」と書かれているから、あるいは奈良時代に戒壇があったのかもしれない。戒壇は当時の僧侶認定施設で、鑑真和上を唐から招いたのはわが国に正式な戒壇を置くためであった。

当初、戒壇は大和の東大寺、大宰府観世音寺、下野薬師寺に置かれたが、時代が下るにつれ各地に広がったので、四国にもあっておかしくない。伊予は当時の先進地域であり、繁多寺を開いたとされるのは行基である。行基というと四国では鯖の話で有名になってしまったが、東大寺大仏建立の総責任者だから、律の学識ももちろん深い。

孝謙天皇は聖武天皇の娘で大仏開眼時の天皇であるから、繁多寺創建にあたって名前が出てもおかしくない。実際には孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の治世は中央で政変が多かったのでのんびり伊予に静養に来ていたかどうか分からないが、松山近在の札所のいくつかは孝謙天皇の勅願を謳っている。

それから約400年後の鎌倉時代には、一遍上人が学んだ寺であったという。一遍上人は河野氏の血縁だから、遍路元祖・右衛門三郎の親戚ということになる。行基や孝謙天皇より時代が新しいし、河野氏が勢力を持つ松山近郊だから十分うなずけることで、松山市内には一遍上人との関連が伝えられる寺は数多い。

岩屋寺のところで書いたように、一遍上人が岩屋寺の行場で修業したことは当時の資料に残されている。本拠である松山から出発して三坂峠から久万高原に入り、さらに山中を岩屋寺まで登って修業したとすれば、途中の寺に一遍上人の事績が残っているのは当然のことである。

その後、他の多くの札所と同様、室町から戦国時代にかけての戦乱で、繁多寺も衰微してしまった。江戸時代前期に書かれた「四国辺路日記」には、「塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極ノ躰ナリ」と書かれているから相当に荒れていたようだが、かつての規模がかなり大きなものであったことが窺えるのである。

塔頭が再建されたのは寛文年間というから1661-1673年、真念「道指南」が書かれる直前である。「道指南」で西林寺・浄土寺・繁多寺の記事がいかにもそっけないのは、そういう背景があるからかもしれない。

さて、時刻は12時半過ぎ。一部のお寺さんを除いて、納経所はお昼休みでもお願いできるはずだが、いろいろ騒ぎになっていることは耳にしているので、やはり行きづらい。雨が引き続き降る中、気持ちのいい境内をしばし散策、午後1時になったのでお伺いして無事にご朱印をいただいた。

さて、石手寺まではあと3km。大雨で景色を楽しむゆとりもないし、これ以上進んでも仕方がない。石手寺をお参りしてから市電と伊予鉄で久米に戻れば、ちょうどいい時間にホテルに入れそうだ。大変厳しかったこの回の区切り打ちも、ようやく打上げに近づいてほっとしたのだったが、やはり物事はそう簡単には進まなかった。次の石手寺は、想像を絶するワンダーランドだったのである。

[行 程]浄土寺 12:15 →(1.8km)12:40 繁多寺 13:05 →

[Oct 27, 2018]



繁多寺山門。山門はこじんまりしているが、境内は結構広い。



繁多寺境内。正面が本堂、鐘楼を挟んで右手が大師堂。本堂の左に納経所。玉砂利の庭園も風情がありますが、雨降りでゆっくりできないのが残念でした。



こちらは大師堂。たくさんの折鶴が奉納されていました。

五十一番石手寺 [Oct 21, 2017]

繁多寺を出ると、いよいよ松山の市街地に入る。次の石手寺までは約3km、繁多寺では一時収まった雨が、再び激しく降ってきた。

繁多寺のもともとの名前だったという畑寺の住宅地から、いつのまにか住居表示が東野に変わっている。道なりにバス通りに出た。ここのバス通りも歩道があったりなかったりする。かなり松山市中心部に近づいてきたので、車通りがたいへんに多い。住宅街の中を歩いている方がまだ安心であった。

石手川が近づくと、道がいくつかに分かれる。基本的にまっすぐ進めば石手寺のはずだが、微妙に角度が斜めになっているのではっきりしない。そして、通りの右を進んだり左を進んだりしてふとバス停の行先表示を見ると、伊予鉄久米駅方面のバスはいつの間にかなくなって、松山市駅行きばかりになっている。

松山市街の中心地でありバスの起点・終点となっているのは、JR松山駅ではなく伊予鉄松山市駅である。そして、愛媛県庁や松山市役所へ行くには、伊予鉄松山市駅からは歩けない距離ではないが、JR松山駅からは時間がかかり、市電に乗るのが普通である。

これはもともと、松山市の中心が松山城であり、県庁も市役所もお堀端に作られた一方で、鉄道を引くことができたのは街はずれであったことに起因している。そして、日本国有鉄道が松山まで伸びたのは昭和初期で、明治時代から営業していた伊予鉄に比べて歴史が浅い。それだけ不便な場所にしか作れなかった訳である。

石手川の大きな橋を渡ると、正面に石手寺の山門が見えてきた。時刻は午後2時、繁多寺から1時間かかった。3kmで1時間はかかり過ぎだが、市街地に入るとどうしても信号待ちがあるので仕方がない。今回の区切り打ちでは宇和島や大洲でそういう経験をしたが、何と言っても松山は県庁所在地である。

通りに面して山門があり、その周囲にいろいろなものが置かれている。「熊野山石手寺」と彫られた標石は、墓石のようにしか見えない。その周囲に盆栽を大きくしたような松の木があり、古い標石があり、山伏姿の右衛門三郎もひざまずいている。なんだか、統一感のない門前である。山門と金剛力士像、大わらじがあるくらいのシンプルな方が安心する。

雨が激しいので、屋根のある仲見世に入ってほっとするが、半分くらいしか店は開いていない。閉まっている店が、昔は白かっただろう布を垂らしているのも独特である。右に入ると食堂があり、餅とかおでんを売っているようだったが、雨が激しく屋根に叩きつけるので落ち着いて見る気にならない。それでも、他の札所と比べると人は多い。

その仲見世を過ぎると仁王門がある。確か国宝のはずだ。他にも石手寺には国宝・重文があるというので楽しみにして来たのだが、頭がくらくらした。そこら中に立て看板、模造紙一面に書かれた文字が林立しているのである。

お遍路に限らず、寺社古墳をお参りする時には頭の感度を最大にするようにしている。霊域の発する微細な信号を受け取るためである。ところが、この石手寺は微細な信号ではなく、直接的・顕在的な立て看板がいきなり目に飛び込んでくるのである。まるで、感度最大にしてあるアンテナを目がけて大音量のスピーカーで怒鳴られているみたいな気がした。

「仏陀」「悟り」「心身安楽」「即身成仏」などなど。中国の少数民族云々というものもあれば、霊地お砂踏みみたいな立て看板もある。どう関係があるのか「集団的自衛権」なんてものまである。夢枕獏の小説で安倍清明が「言葉は呪である」と言っていたのを思い出した。



繁多寺を出ると、貯水池の向こうに松山の中心地が見える。この日は雨雲でよく見えなかったが、晴れていればいい景色のはずだ。



歩くこと1時間ほどで石手寺に到着。よく見るとこれは墓石ではないだろうか。山門前に小さく右衛門三郎も見える。



屋根のある仲見世を進む。店は半分以上閉まっている。すでに独特の雰囲気である。

熊野山石手寺(くまのさん・いしてじ)。ご詠歌に「安養の寺」と詠われているように、もともと安養寺と呼ばれていたようである。右衛門三郎伝説に基づき現在の「石手寺」に改められたが、いずれにしても伊予の豪族で律令時代以前に四国の覇者であった越智氏(時代が下って河野氏)が基礎を築いたことは確かである。

石手寺は、越智氏・河野氏の保護により古い時代から盛んだったようで、鎌倉時代に造られた仁王門は国宝、本堂や三重塔など塔頭の多くが国指定の重要文化財となっている。

ところが、せっかくの国宝・重文も立て看板に押されてその存在が目立たなくなってしまっている。おまけに、境内に建物がありすぎて、またそのそれぞれに納札箱が置かれているものだがら、どれが本堂でどれが大師堂だかよく分からない。日本人観光客やら外国人観光客も右往左往していて、落ち着かないことこの上ない。

10kgのリュックを背に境内を歩く。おそらくいちばん高いエリアにあるのが本堂だろうと見当をつけて石段を登る。五色の垂れ幕におおわれた建物がそのようだが、どこにもそう書いてない。

でも「大勝薬師」という立て看板があるので、ご本尊薬師如来のいらっしゃるお堂のようだし、「本堂へは大師堂から入ってください」と書いてある略図からすると、この建物のようだ。

引き続き大雨である。リュックから数珠と経本だけ出して、読経。他の札所だと周りに来るのは私同様のお遍路なのだが、この石手寺はそうではない。お遍路以外の参拝客がほとんどである。大雨とはいえ土曜日ということがあるのだろうか、人が途切れることはない。

棟続きになっている絵馬堂・大師堂との間にも、所せましとお札が貼られていて、まさに「呪の嵐」である。大師堂では、ガイドが外国人観光客相手に説明をしている。雨に濡れずに読経できる場所が限られるので、あわただしい納経となった。外国人観光客もこういうお寺に来て何か感じるところがあるのだろうか。

仁王門の横まで戻って、納経所でご朱印をいただくと、「お寺からです」と小冊子をわたされた。A4版の厚手の紙でできているパンフレットで「極楽即身成仏 大日曼荼羅建立勧進」と書いてある。二つ折りにするのも気が引けたので、リュックカバーを外してリュックの中に入れる。帰ってから見てみたら、寄付のお願いだった。

ここまで五十数ヵ寺回ってきて、ここまで立て看板が林立したお寺は見たことがない。というよりも、いまだかつてこのような文字によるメッセージを前面に押し出している神社仏閣古墳は見たことがない。お寺というよりも、まるで昭和時代の大学構内のようである。

京都奈良の拝観料を取るお寺で立て看板を置くようなことをするとは思えないし、神域とか霊域というのは、神仏からの微細なメッセージを五感を最大限に敏感にして受け取るものだと思っていたから、この石手寺はかなり面食らった。

そんな具合だったので、右衛門三郎再生の経緯やら、歴史の渦に飲み込まれてしまった四国の覇者・越智氏の命運に思いを致すこともできなかったのは残念なことであった(帰ってから調べると、自民党の河野洋平氏やら一郎外務大臣も越智氏の末裔らしいので、しぶとく今日まで人材を輩出しているようである)。



石手寺仁王門。国宝だったと思うが、「集団的自衛権」の立て看板は異様。



どこが本堂なのかよく分からないが、おそらくこれだろう。こちらも「大勝薬師」の立て看板。



そして大師堂。「すくう大師」だそうですが、ラティスはホームセンターであつらえたのでは。このあたりではすでに頭痛が。

石手寺を文字通り「這う這うの体」で抜け出した。大分お腹も空いていたので帰りにおでんでも食べていこうと思っていたのだけれど、お参りした後はとてもそういう気にはならなかった。

石手寺の周辺は松山有数の繁華街であり、観光名所である道後温泉のすぐ背後にあたるが、雨が激しいのでとても歩き回る気にはなれない。へんろ地図のコピーも手近に用意してあったけれど、雨風が激しくて出して見るのは大変である。特に考えるまでもなく、いちばん太い通りを市街地に向かって歩き始める。

傘を差して重い荷物を持っているうえ、昼を食べていないので力が入らずなかなか足が前に進まない。このあたり、右手の坂を登って行けば市街電車の道後温泉電停までショートカットできるはずであるが、その余裕もない。ともかく右足と左足を交互に前に出して距離をかせぐ。やがて左手に道後公園が見えてきた。もうすぐである。

この道後公園は戦国時代まであった湯築城の城址で、河野氏の拠点であった。つまり石手寺や五社、次回お参りする三嶋宮と同じで、八十八札所とは縁の深い施設である。機会があれば訪問したいところではあったが、大雨なので今回はあきらめた。道後公園の脇を通って市電通りに出る。すぐ先が道後公園電停であった。

終点であり始発駅でもある道後温泉電停が右手奥に見えているのだけれど、何しろ大雨なものだからそこまで行く気力がない。リュックを下ろし、14時55分、GPSの電源をOFFにする。今回の区切り打ちはここまで。次回はここからスタートすることになる。

次に来た電車が松山市駅行きで、ようやく雨の当たらない場所に入ることができた。車両の隅にずぶ濡れのリュックと傘を置かせていただき、ひと息つく。何しろ、今回の区切り打ちは雨に悩まされた。足腰よりも、傘を差す右腕が痛くなっている。市電はゆっくりと県庁前・市役所前を経由して松山市駅へ。ここで郊外電車に乗り換えて久米駅へ。

久米から宿をとってあるたかのこのホテルまで、10分ほど歩く。午前中に通ったへんろ道を再び通るので、左手に浄土寺の山門が見える。やかて巨大な屋根の建物とその向こうに8階建てくらいのビルが見えてくる。たかのこのホテルの温泉施設と宿泊棟である。宿に着くと、午後4時を回っていた。

フロントに行き送ってあった荷物を受け取り、翌日の予約をキャンセルする。台風が来ているし、1泊はしているのでキャンセルには特に問題はなかった。仮に明後日の飛行機が予定どおり飛ぶとしても、次の日もこの天気の中を歩くのは無理である。予定よりも10km以上手前で終わってしまうけれど、それは仕方がない。

部屋に入って濡れた荷物やレインウェアを広げ、ホテル備え付けの作務衣に着替えて温泉施設に向かう。ここの温泉施設は宿泊客より日帰り入浴が圧倒的に多く、浴室は満杯である。家族連れや若い人たちがたくさん入っている。体を洗って湯船に体を沈める。アルカリ性単純泉。道後温泉と近いので、泉質も似ているようだ。

お風呂から出て、レストランで昼夜兼の食事をとる。1500円くらいの「湯上り御前」、お刺身・天ぷら・煮付けなどなどたくさんのおかずとご飯・お吸い物・サラダが付いてお値打ちである。生ビール500円はセルフの自販機。これもまた手軽でうれしい。

ともかく今回はしんどいお遍路であった。これまでのお遍路では1日平均30km近く歩いても体重が増えていたのだけれど、さすがに今回は帰って計ったら体重が減っていた。

この日の歩数は31,239歩、移動距離は15.2km。11日間の総移動距離は287.7km、1日平均は26.1kmであった。

[行 程]繁多寺 13:05 →(2.8km)14:00 石手寺 14:30 →(1.5km)14:55 市電・道後公園駅(→ 松山市駅 → 伊予鉄久米駅 → たかのこのホテル)

[Nov 10, 2018]



納経所の裏から山門に戻る。ここでも幟旗が何かを主張している。



道後公園まで歩き、市電と伊予鉄で浄土寺に近い久米駅に戻る。今回最後の宿は「たかのこのホテル」。



ホテル併設の「たかのこの湯」は、温泉というよりスーパー銭湯でしたが、レストランは気が利いていた。セットメニューで連日の苦労を自らねぎらう。

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