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五十二番太山寺 [Mar 12, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

前回の第7回区切り打ちは、1週間以上雨に降られた上に最後は台風接近のため日程を短縮して終了した。早いうちに天気のいい日を歩いていいイメージを取り戻したいと考え、短期の区切り打ちを計画した。何しろ、松山市内の札所を回って松山・今治間まで歩く予定だったのに、石手寺に入ったところで中断してしまったのである。

朝一番の松山便で四国に飛べば、午前中から区切り打ちを再開できる。2018年3月12日、早起きして始発電車で羽田空港に向かった。羽田・松山のエアは16,290円、マイルを使ったので持ち出しは1,290円で済んだ。空港からJR松山までのバスが460円、JR松山から市電が160円。道後公園まで4km以上あるので歩くと大変だが、160円で運んでもらえるのはありがたい。

前回の到達地点である道後公園から、市電に沿って道後温泉駅まで歩く。真念「道指南」では道後温泉について詳しい記事を書いているが、何度か入っているしこれから長い歩きなので今回は寄らなかった。まず初めに目指したのは護国神社近くにある一草庵。漂泊の俳人・種田山頭火終焉の地である。

山頭火はこのブログでも何回か触れたことがある。自由律俳句で知られた俳人で、おそらく日本全国にある句碑の数では芭蕉に次ぐだろう。明治以降の俳人の中で一人あげよと言われれば、私は山頭火を第一にあげる。実際には、生活能力のほとんどない困った人で、昭和戦前期という時代背景もあり存命中の評価はあまり高くなかった(ほいと坊主[=乞食坊主]と呼ばれていたそうである)。

昭和14年から15年、山頭火は後援者の世話で松山市内にある一草庵で暮らしている。「生きていくのにそんなに物入りはなくなった」と書いていても、後援者に酒をご馳走になる機会は多かったようで、最期も護国神社の祭礼で一杯ご馳走になった後、一草庵に帰りそのまま亡くなったという(岩川隆「どうしやうもない私」)。

ということで、昔風に言えば歌枕である。芭蕉は西行の歌枕を訪ねて奥の細道の旅に出た。私も松山を通る以上は一草庵を見ておくべきだろうと思い、前回の区切り打ちで訪れる予定にしていたが、残念ながら季節外れの台風襲来でここまで来ることはできなかった。今回は、四国で最初の目的地となる。

道後温泉から西に歩いていたつもりなのに、いつの間にか影の方向に歩いている。これでは北である。左に方向を変えてしばらく歩くと、小川というか用水路というか、疎水沿いの道に出た。この水路に沿って歩けば護国神社を経て一草庵のはずである。

まず護国神社に出た。最初の鳥居があり、そのまま通りを進むともう一つ鳥居がある。普通、一の鳥居・二の鳥居は順番にくぐるのだが、並列にあるのでどちらかを通るというのは変わっている。道後温泉側の鳥居からは本殿・拝殿に向かうが、もう一つの方は遺族会・戦没者などの案内が書かれていた。

その護国神社から少し歩き、山側に入ると一草庵である。奥が真言宗のお寺で、一草庵のすぐ横も墓地になっている。現在は松山市によりきれいに建て直されていて、お隣は公衆トイレ兼資料展示のための施設に整備されている。

一草庵の中にはいくつか面白そうな資料が見えたが、残念ながら月曜日なので鍵がかかっていた。トイレの脇にある常設展示には山頭火の筆跡や袈裟姿の写真などが貼られている。おそらくずいぶん後の時代のものだが、山頭火の息子さんの写真があり、歳とってたいへんそっくりになっているのがおかしかった。

現在の松山市内は交通量がたいへんに多く、タクシーで移動すると結構時間がかかったりするのだが、このあたりはたいへん静かで車の音もほとんど聞こえない。山頭火はここから道後温泉に行ったり、後援者に援助してもらって米や酒を手に入れ、たまに俳句の同人とつきあって悠々自適の生活を送っていた。

一草庵から再び水路沿いに戻り、松山大学のグラウンド横を西に進む。静かなのも道理で、このあたりはお寺が続いている。真言宗、浄土宗、真宗、禅宗、日蓮宗など通りの右左に十以上はあったのではなかろうか。あるいは、松山藩の方針で、このあたりにお寺さんを集めたものかもしれない。



道後公園から疎水に沿って歩くと護国神社に出る。山頭火が死ぬ前に一杯ご馳走になったのは護国神社の祭礼の日だった。



山頭火の終の棲家となった一草庵は護国神社のすぐ先にある。この家は公園として整備する際に建て直されたもので、すぐ横は真言宗のお寺の墓地。



一草庵を出て、そのまま松山大学のグラウンドに沿って進む。このあたりはお寺を集める藩の方針だったのか、禅宗系・浄土宗系・日蓮宗系など十余りの寺院が続く。

今回、松山から今治に歩いて特に目に付いたのは、てっぺんの尖っている軍人さんのお墓だった。ほとんどの墓地に軍人仕様の墓石があって、少ないところで十数基、多いところで20も30もある。あの変わった形の墓石が5行6列も並んでいるのは、壮観でありかつ異観でもある。

千葉ニュータウンにも戦没者慰霊碑はいくつかあるが、ほとんどは大きな石に「慰霊碑」と大書され、階級とか氏名は何十人分かまとめて細かく書かれている。ところが松山周辺では、ひとりひとりが個別の墓石なのである。それも、「海軍上等水兵」とか「伍長」だからそれほど階級が上という訳ではない。徳島や高知でもあまり見たことがなく、松山に独特の風景である。

県名と県庁所在地が違っていることに現れているように、明治維新時には幕府方に付いた。将軍家の親戚にあたる松平家が長く藩主であったためである。「坂の上の雲」の秋山兄弟や正岡子規の出身地であり、風光明媚で文化水準が高い。そのことと軍人墓地と直接関係があるかどうか分からないが、経済的に余裕があったことは確かである。

一草庵から用水路に沿って15分ほど歩き、国道196号線に出た。コンビニに寄って日焼け止め、シェーブガード、ポケットティッシュ、歯磨きとミネラルウォーターを補充する。日焼け止めが700円以上したので千円札1枚では足らなかったが、日差しがきついので日焼け止めをつけないで歩くのは危険である。前回は、鼻に火ぶくれができてしまったくらいである。

国道沿いは道に迷うことがないので安心だが、信号待ちがあるのと歩道橋で横断しなければならないのが煩わしい。この日歩いた場所は松山市街の中心地から離れているのでそれほどではないが、それでも歩道橋を無視して横断できるほどには車は少なくない。

11時半くらいに「和食どんと」の看板を見つけて入り、うどんとミニ天丼のセットをお願いする。食事を待つ間に日焼け止めを塗る。食後にアイスコーヒーもお願いした。街中を歩いていても食事がとれるところに行き着くとは限らないので、こうしてファミレスを使えるのはありがたいことである。

石手寺から次の札所太山寺までの二里について、真念は「遠回りだが三津浜まで出るのが、何かと便利である」と書いている。一方で、三津浜に寄らずに山越えで室岡山を通り、東から太山寺に入るルートもあわせて紹介している。今回選んだのはその折衷コースともいうべきもので、山頭火一草庵を経て、国道196号から室岡山に向かうルートである。

室岡山には真念が「本尊薬師 諸遍路札打也」と書いた蓮華寺がある。国道196号沿いに北上し、潮見小学校の近くにある。道後から山越えで来るルートが、右から合流する。寺伝によると、室岡山の上から薬師如来が現われたという。境内からは古墳時代の石棺が発見されており、このあたりが古代の霊地だった可能性がある。

ところが実際にそのあたりまで行ってみると、蓮華寺への道案内がないのでちょっと分かりにくい。おそらく右手に見える森がそうだろうと思って歩くのだが、なかなか入口が分からず結局一周してしまった。

石段を上がって本堂エリアへ。境内は意外と広く、本堂と鐘楼、広い中庭がある。本堂前にしばらく座っていたら、テープでお経が流れてきた。石段のところに庫裏があり、納経所があるのでベルを鳴らしたけれども、どなたも出てこられなかった。置いてある抽斗には、半紙に書かれた納経印の他、スタンプのご朱印が置かれていた。

石段を下りて今度は国道ではなく西に方向を変える。やはり用水路沿いである。一草庵からずっとつながっているのだろうか。よく見ると例の「四国のみち」の石柱がある。この「四国のみち」は、最短経路を通る訳ではなく歩きやすい道とも限らないので注意が必要である。前回の区切り打ちではひどい目にあった。

用水路に沿って、再び北に方向を変える。右側はため池のような干潟のような四角い池が続き、左側は水田である。水田の向こうには稜線が一つ二つと続くのが見える。昔、松山に出張に来てJRで高松方面に走ると、なぜ瀬戸内海のある方向が山なんだろうと思ったものだった。海のすぐ近くまで山が迫っているのは、瀬戸内の特徴である。



潮見小学校のすぐ先が蓮華寺のはずなのだが、案内標示もないし住宅街の中でよく分からない。あの森がそうらしいが、山門を見つけるまでに結局一周してしまった。



蓮華寺本堂。定期的に中からテープらしいお経の声が流れる。



蓮華寺を出て用水路沿いに方向を変える。四国のみち標識が立つが、これに頼るとろくなことがないのは学習済みである。

さて、今回の区切り打ちだが、数えて8回目となる。前の週にいきなり20℃を超える暑い日があったりまた最高気温が一桁になったりしていたため、出発前に鼻風邪をひいてしまった。

この時期は花粉症もあるので体調万全という訳にはいかないことは分かっていたが、鼻がぐずぐずしたままで連日歩くのは厳しい。短期間なので何とかがまんして歩く他にないが、案の定、ティッシュを手放せないままの歩きとなり、とりあえず気がかりなことであった。

蓮華寺からしばらく西向きに歩き、用水路に沿って北に方向を変える。まだこのあたりはJR松山から駅2つも来ていないはずだが、あたりはほぼ水田で、見渡す限りの田園風景である。

その田園風景の中で今回、軍人墓石とともにたいへん多く感じたのは、外側を焼き杉で作った家であった。焼き杉というとビフォーアフターでおしゃれな外壁として紹介されていたが、実際には防水・防腐を主たる目的としていて、費用対効果のすぐれた伝統工法である。

大規模な農家が家全体を焼き杉で囲っている風景は壮観で、塗料を何度も塗り替える手間もかからない。とはいえ長い年月で地面に近いところは色が薄くなってしまっている家も多い。

炭化しているとはいえもとは木材であるから、湿気が多い場所では傷むのも早い。だから、雨の少ない瀬戸内ではたいへん多い造りだったのだが、時代の流れに押されていまではサイディングの家が主流派である。それでも、特に規模の大きい農家では焼き杉が残っていて、遠くからでもよく目立つ。

ため池のような干潟のような池を過ぎたあたりで、用水路の向きが右斜めに変わっている。特に行先表示はないけれども、「四国のみち」の行先表示が当てにならないことは学習済みであるので、用水路を離れ、山の見える左側に方向を変える。

行く手には稜線が2つ見えている。遍路シールも現れたので、道は合っている。やっぱりどこかで、四国のみちと遍路道は分かれたようだ。遍路地図で確認すると、手前の稜線を回り込んで向こう側の山の中腹に太山寺があるはずだ。

ところが、手前の稜線まで達すると、遍路シールの道は登り坂を指示する。このまま登ると山の中である。とはいえ下ると資材置き場で私有地のように見える。困ったなあとうろうろしていると、ちょうど軽トラで通りかかった地元の方から、

「太山寺?このまままっすぐが遍路道だよ」

と教えていただいた。進んでみると資材置場の横から山裾に道が続いていた。民家の裏の細い道を抜けて行くと太い道に突き当たり、そこに太山寺の山門があった。



用水路に突き当たって再び北に方向を変える。太山寺があるのは向こう側に見える峰のはずである。



山の中腹に入り、遍路シールもまばらになって行き先に迷う。ここは間違ったかと思い、引き返して地元の人に教えていただいた。遍路道は資材置き場の奥へつながっている。



太山寺はまず山門があり、住宅街を進んでようやく写真の仁王門がある。本堂はここから600m先にあり、そこまでずっと登り坂なのだ。

遍路地図に「山門」と書いてあるのは実は仁王門で、山門はもっとずっと前にある。山門の奥まで民家が続いているのは大宝寺など例があるが、太山寺の場合はバス停すら山門の奥にある。そして、仁王門の奥にも、お寺の施設でない民家があるのであった。

普通は山門・仁王門とくぐれば本堂エリアはすぐ先のはずだが、太山寺の場合はここからがまたひと苦労である。仁王門のところに、「納経所まで350m、本堂まで550m」と書いてあるので心の準備はできるのだが、ただの300m、500mではなく急傾斜の坂道である。

本堂エリアまでさらに急坂を登らなければならないので、申し訳ないが、お手洗いをお借りするついでに先に納経所でご朱印をいただく。あの石手寺以来ひさびさのご朱印である。石手寺では、あまりのワンダーランドで頭に電波が飛び込んでくるような気がしたが、太山寺はそのようなことはない。ありがたいことである。

「のぼれば汗の太山寺」とご詠歌を口ずさみながら、かなりの急傾斜がある坂道を登る。本堂エリアのすぐ下まで、何軒かの家が建っている。最初はお寺の施設かと思ったのだが、軽トラとか普通の車が止まっていて、玄関先ではみかん(いよかん?)の産直販売をしているところをみると、普通の民家なのだろう。なんだか不思議な気がした。

午後2時前、ようやく本堂エリア着。蓮華寺からは1時間半かかった。ご詠歌の通り、ハードなお参りであった。とはいえ、山をずいぶん登ってきて、しばらくぶりで札所の引き締まった空気に触れることができたような気がした。

龍雲山太山寺(りゅううんざん・たいさんじ)、「霊場記」には、聖武天皇の創建であり境内には孝謙天皇(聖武天皇の娘)が建てた石塔があると書かれている。「霊場記」にも、後冷泉院から後白河院まで平安後期の天皇が観音像を奉納したとある。

寺伝によると、豊後の富豪である真野長者が松山沖で難破しそうになり、観音様に祈願して助かったことから建立されたものという。現在の本堂・仁王門は鎌倉時代に河野氏が寄進したもので、古くから栄えていた寺院であることは間違いないようだ。本堂は国宝であると大々的に看板がある。

蓮華寺から休むところもなく、また仁王門から登り坂を登ってきたため、ベンチのある広い東屋でひと休みさせていただく。ずいぶんと山を登って来たのに、広い境内である。参道正面に横に広く本堂があり、中には歴代の天皇陛下が納められた観音像があるそうだが、外からは分からない。

左に階段を登って大師堂。右側は鐘楼と厄除け大師の幟が立っている。東屋で座っていると、静かで落ち着くお寺である。境内の雰囲気に心と体を一体化させる。札所をお参りするのは、こういうことをしたかったからなのだ。石手寺のように集団的自衛権だの仏陀の嘆きだのと書かれた立て看板を見るためではないのだ。

息も整ってきたので、重い腰をあげる。時刻は午後2時をすでに回った。午前4時前から起きているので、ちょっと足が重たい。

参拝者が本堂の前で何か見ているので私も行ってみると、般若心経の文言が刻まれた摩尼車だった。チベットのお寺にあるのをときどきTVで見るが、日本では珍しいのではないだろうか。金銅製の立派なもので、重くて回すには力がいる。

[行 程]道後公園駅 10:10 →(2.2km) 10:40 山頭火一草庵 10:15 →(2.8km) 11:30 和食どんと(昼食)11:50 →(1.7km) 12:15 蓮華寺 12:30 →(6.1km) 13:55 太山寺 14:15 →

[Nov 17, 2018]



仁王門から坂を登り、300m先に納経所、さらに300m先に本堂エリアがある。この坂の奥にも何軒かの民家がある。



太山寺本堂。鎌倉時代の創建、国宝である。重機もない時代、山の上にこれだけのお堂を作るのは大変だっただろう。



般若心経が刻まれた摩尼車。回すとお経を読んだと同じ功徳があるという。本堂前にあるのは珍しい。

五十三番円明寺 [Mar 12, 2018]

太山寺から、再び山門を経て山側を歩く。距離的には3.6kmと1時間弱であるが、朝早かったためかこのあたりではガス欠気味であった。

円明寺への道は、遍路地図(このブログで遍路地図とは、「四国遍路ひとり歩き同行二人」地図編第10版のことである)では紛らわしく描かれているが、実際には太山寺の山門を出て左に折れ、そのまま道なりにまっすぐ進めば着く。ただし、信号が何ヵ所かあるので赤になれば止まらなくてはならない。

途中で一車線で歩道なしの狭い道となるが、そこを除けば片側一車線歩道付きの高規格道路である。行先表示も、要所でちゃんと「↑ 円明寺」と出てくる。ローマ字表記をみて、こちらが「えんみょうじ」だったと再認識する。というのは、五十三番と五十四番は「円明寺」と「延命寺」だが、この二寺は江戸時代には「圓明寺」で両方同じだったのである。

手許にある「象頭山参詣道四国寺社名勝八十八番」によると(象頭山は金毘羅様のこと)、五十三番は「ゑんミやうじ」、五十四番は「ゑんめいじ」とあり、当時も今と同じ読み方である。ただし漢字で書くと圓明寺が二つ続くというのは紛らわしいので、明治になって両寺の話し合いで五十四番が「延命寺」に改めたという。

その結果、漢字で読む分には区別がつきやすくなったが、逆にどっちが「えんめいじ」か「えんみょうじ」かが分からなくなった。読み仮名としては、両方ともどちらでも読めるからである。

ということで、松山市郊外の方が「えんみょうじ」である。道はひたすらまっすぐ進む。遍路地図ではお寺近くになって左折して境内に入るように描かれているが、歩くのであればまっすぐ進むと山門である。

須賀山円明寺(すがさん・えんみょうじ)。江戸時代に土地の有力者であった須賀氏が再興したことから山号としたと伝えられる。境内は街中に位置していることもあり、たいへんコンパクトだ。太山寺の巨大な本堂を見た後なので、余計にそう感じる。これまでお参りした中では、徳島の観音寺に似た感じだ。

その広くない境内の中に、もう一つの山門(中門)があるので本堂までのスペースはかなり狭い。大師堂と納経所は山門と中門の間にある。ご詠歌に、「来迎の弥陀の光の圓明寺」と謳われているとおり、ご本尊は阿弥陀如来である。

こちらの寺は、明治になって米国の学者が発見した銅製の納札があることで知られているが、本堂の中、ご本尊をお納めする厨子の扉に打たれているので、実際に見ることはできなかった。

江戸時代初め(1650年)の銅板の納札で、これが確実に時代を確定できるものでは最も古く「遍路」という言葉を使っている資料だそうで、真念「道指南」より20~30年古い。とはいえ、ご本尊の厨子などに打つことが可能だったのか。あるいは銅の納札は珍しいということで、お寺の方でご本尊近くに移しておいたものか、いろいろ想像できる。

明治の神仏分離・廃仏毀釈ではお寺にあった多くの文化財が失われた。八十八ヶ所の中にも、いったん廃寺になったところは少なくない。そうした混乱期を経て、こうした記念品が現在まで残っているのはすばらしいことである。



太山寺の山門を出て、来た方向にV字型に戻る。円明寺までは道なりにまっすぐ進めばよく、遍路地図は少々わかりにくい。



遍路地図ではお寺の入口手前で曲がるように書かれているが、ひたすらまっすぐ進む。横断歩道マークの下に見えるのが山門。



山門の近くまで来た。市街地の中にあるのがよく分かる。

円明寺で銅板納札とともに有名なのは「キリシタン灯籠」である。禁教とされていた江戸時代に信者が隠れて参拝していたとされ、こちらは山門脇のスペースに案内書きがある。

高さは50cmほどだろうか。一見すると「T字型」にしか見えないのだが、上の部分が分かるか分からないかほどに突き出ていて、「十字架」になっている。前面には菩薩像が浮き彫りされているが、これも信者にとってはマリア様になるのだろう。わざとお寺の境内に置くことにより、カモフラージュしていたのかもしれない。

当初の計画では、JRの次の駅である堀江まで歩いて翌日のスケジュールを楽にしたかったのだが、円明寺まで歩いてかなり疲れてしまった。さすがに3時半起きで午前中からの歩きはハードだったようだ。もうホテルに入れる時間だから、すぐ近くの伊予和気駅に向かう。

1時間に2本の電車はあと20分ほどの待ち時間で、駅のベンチでしばらく休む。ここの駅は面白い造りで、駅舎の大部分が飲食店舗となっていて、ホームに通じるスペースには券売機と自販機、ベンチしかない。それでも発車時刻が迫ると三々五々学生服姿が集まって来たので、それなりに利用者はあるようである。

この日の宿はターミナルホテル松山、素泊まりで5,670円。夕食はホテル1階の食堂で日替わり御膳と生ビールをいただく。日替わり御膳には鯛のあら煮が付いていて、食べるのに時間がかかるのでお酒も頼もうかと思ったのだが、健康増進法対象外のお店のようで、喫煙者がいたためゆっくりできなかった。ちょっと残念である。

以前泊まった宿毛の秋沢ホテルもそうだったが、四国に来るとホテルのパブリックスペースで当然のように喫煙可となっているのはいただけない。四国はまだまだ地方で、喫煙人口が非常に多いのかもしれないが、改めていかないといつまでもこのままである。

一方、客室は最近リフォームしたらしく、たいへんきれいだった。2Fに上がった時は床が傾いているのでこれはやばいかなと思ったのだが、客室に入って安心した。地方のビジネスホテルは得てして造りが貧弱で、どうしても築年数の浅い建物を選びがちなのだが、こうして設備を更新してくれるとありがたい。

このホテルはすぐ近くにあるキスケの湯と提携していて、こちらの大浴場に入ることも可能である(若干ではあるが割引になる。割引がなくても650円と安い)。ただ、この日は疲れて外に出る気がしなくて、最終日に空港に行く前に寄ってみた。値段の割にたいへん整った施設で、もちろん禁煙である。

ロケーション的には駅の真ん前にあるので、夜遅くまで路面電車の音が聞こえる。ただ、この日はたいへん疲れていたので、特に気になることもなく眠ることができた。

この日の歩数は36,318歩、GPSで測定した移動距離は16.1kmでした。

[行 程]太山寺 14:15 →(2.6km) 14:50 円明寺 15:05 →(0.6km) 15:15 JR伊予和気 (→ 松山(泊))

[Dec 8, 2018]



このお寺には、境内に中門がある。まっすぐ奥が本堂。




大師堂は山門と中門の間にある。



山門脇の小スペースにあるキリシタン灯籠。T字型の上の部分が微妙に出っ張って十字架のように見えるので、隠れキリシタンがお参りしたという。

養護院・鎌大師 [Mar 13, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2018年3月13日の朝となった。この回の区切り打ちは天気には恵まれて、予報段階から連日の晴天が予想されていた。前回は観自在寺から石手寺まで1週間以上雨が続き、この回も出発前の週は雨で寒かったのだけれど、久しぶりに傘とレインウェアなしで歩くことができたのはありがたいことだった。

今回の3泊4日の中では、ほとんどの札所間が短距離であるのに対し、五十三番と五十四番の間だけは30km以上ある。松山から今治まで、札所がないからである。そして、伊予の札所は26あるのだが、その半分以上の14札所が松山市と今治市にある。古くから開けた地域だったのである。

それはそれとして、松山から今治までの間、宿泊地がないので一気に歩いて今治市街まで行くことになる。となると、40kmを超える距離歩かなければならない。久万高原への峠越え35kmとは違って、高低差がほとんどない瀬戸内海沿いの国道歩きではあるが、厳しい道中になることが予想された。

そして、前日に駅一つ分だけでも歩ければよかったのだが、体力に余裕がなく、円明寺をお参りしたらすぐ近くの伊予和気駅に足が向いてしまった。となると、翌朝は一番の電車に乗るしかない。宿の朝食は最初からパスしていたし、ホテルも駅のすぐ前だからよかったものの、この日も4時半に起きなくてはならなかった。

朝食は前の日にコンビニで買っておいたハムとレタスのサンドイッチ190kcal、スープパスタ180kcal、野菜ジュース79kcalとヨーグルト125kcalで合計574kcal。家でパソコンを打っているのなら十分なエネルギーであるが、これから40km歩くにはかなり心許ない。どこかで栄養補給が必要だろう。

身支度して15分前にホテルを出て、5時59分の始発電車に乗る。あたりはまだ暗い。さすがに四国は西にあるので日の出が遅いのである。それでも、駅2つ走る間にはヘッデンがいらないくらいに明るくなった。無人駅なので、車掌さんに切符を渡して下りる。GPSの電源をONにし、午前6時10分、長丁場のスタートである。

さて、伊予和気から国道196号に出るには、遍路地図によると円明寺の先の角を右に折れ、さらにファミリーマートの角を右に入るといいようだ。このあたり遍路シールの矢印が見当たらないが、線路と海岸の間を東に進めばいいはずなので、道なりにのんびり歩いていく。

最初は工場と倉庫に囲まれた道であったものが、住宅地になった。住居表示をみるとまだ「和気」である。そろそろ「堀江」になる頃なんだがなあと思ってさらに進むと、なんということか、目の前には防波堤がある。こんなところで瀬戸内海に出てしまったのであった。

本来であれば、和気から堀江に斜めにショートカットすべきところ、海岸まで一気に出て、そこから防波堤に沿って堀江という、三角形の2辺を進むようなルートをとってしまったのである。仕方がない。ここまで来たら戻るよりもう1辺を進む方が近い。前日にこんなことをしていたら、疲れていたのでかなり落ち込んだに違いない。

防波堤に沿ってボートを置いてあるお店が続き、河口にぶつかったので内陸部に入ると、車通りの向こうに堀江郵便局が見えた。郵便局の前の道が、遍路地図の示すメインルートである。ちょっと遠回りしたが、なんとか遍路道に復帰したようだ。

ここからしばらく、土讃線に沿って進む。ようやく堀江駅を過ぎ、光洋台、粟井、柳原と過ぎて次の駅が伊予北条である。伊予北条には番外霊場の養護院があり、円明寺から養護院まで11.1kmと遍路地図にある。朝の目標としては、この養護院を目指すことにした。



松山始発の各駅停車で前日歩いた伊予和気に向かう。四国だけあって6時前はまだ暗い。



伊予和気から遍路地図どおりに歩いたはずなのに、海岸に出てしまった。とりあえず瀬戸内海を望むことができた。



ようやく正規の遍路道に復帰して、しばらく海沿いを進む。途中、東屋などはないのでファミマで一休み。

堀江に近くなったあたりで「今治まで39km」という標識をみたので、あまりの長さに気が遠くなったのだけれど、いくらも歩かないうちに「今治まで35km」となったのはうれしかった。

しばらくは海沿いの道を進む。歩道があるのだが、たいへん幅の狭い歩道で、しかも高校生がやたらと自転車を飛ばしてくるのでそのたびに止まってよけなければならない。通学時間帯なので仕方がないのかもしれないが、歩道を走る自転車は、本当は押して歩かなければいけないのだ。

海鮮北斗という、海に張り出した巨大な飲食施設の横を抜け、粟井の井戸という何やら由緒のありそうな旧跡を過ぎて、午前7時半、行く手に四国遍路の救世主ともいうべきファミリーマートが見えてきた。そろそろ休み時間だし、イートインコーナーのあるファミマは大変ありがたい。

チキンカツサンドと温かいカフェオレをお願いし、朝が軽かったので栄養を補給した。遍路地図を見ながら、今後の方針を検討する。考えることは二つ。伊予北条から峠越えのルートをとるのか国道を行くのかが一つ、もう一つはお昼をどこでとるかである。

前者については体調との相談だが、国道ルートは2km近い遠回りになるので、基本的には峠越えのルートを選びたい。だが、どんな道なのか不安が残る。もし山道になるようであれば、2kmの距離差以上に時間がかかるかもしれない。

そして後者については、お昼頃に通る「遍照院近くの遍路嫌いのラーメン屋」には近づくなというWEB情報である。となると2~3km前にある「海賊うどん」が候補だが、時間的にやっているかどうか、そもそも今も営業しているのかという問題がある。とにかく伊予北条まで進むのが先決である。

午前8時の時報を聞いて出発。このあたり、車通りの多い道路だし海もあまり見えないので、地図で想像するようなのどかな道ではない。そして、対向車線を何分かおきに「松山市駅」行きのバスが通るのも気になる。別にJRの駅でなくても、適当なバス停まで歩けばこの日のスケジュールが少しは楽になったのである。

1時間ほど歩いて、ようやく伊予北条の街中に入る。大通りから少し脇道にそれると養護院があった。こじんまりしたお堂だが、「納経所」と書かれた窓口がある。残念ながら窓が閉まってカーテンが引かれている。窓口の下に抽斗があり、スタンプ類が置かれているのは蓮華寺と一緒である。

この養護院は杖大師とも呼ばれ、夢枕にお大師様が現れて杖、草鞋、数珠など身の回り品を置いて行ったという言い伝えがある。本堂に手を合わせて退出しようとすると、門前にいた3名ほどのご老人に呼び止められた。

「歩き遍路ですか、大変ですねえ」
「ありがとうございます」
「私も札所は回らせてもらったが、体力がないのでもっぱら車です。がんばってください」

こうした受け答えがあって、峠越えの道を選びたくなったから妙なものである。峠越えの途中には鎌大師というこれも番外霊場があり、街中にも大きな案内板が行き先を示している。

大通りに復帰していったん国道沿いに南下、行先表示に沿って東に向きを変える。とたんに車通りがなくなり、静かな田園風景が広がった。心配したような山道ではなく、山の上まで舗装道路が続いているのが見える。なにしろ、車の騒音がなくなったのでたいへんリラックスする。

この鎌大師の道は正解であった。坂はきついが道は舗装されていて、歩くのには全く問題はない。そして鎌大師はきちんと整備されているお寺さんで、境内は広く、東屋もあるしトイレもちゃんとある。

お大師様が自ら鎌で刻んだ大師像をご本尊としているということで、真念「道指南」に「かうの坂ふもとに大師堂」と記されている古いお寺である。本堂に並べられている十二支の焼き物が気になったが、これはこの後、菊間を抜けるあたりで真相が判明することになる。午前10時まで、こちらで小休止させていただいた。



伊予北条には杖大師とも呼ばれる養護院がある。お大師様の杖が寺に伝わる。



伊予北条から鎌大師への遍路道に入る。また山道かと思って心配したら、きちんとした舗装道路でした。



お大師様が自ら鎌で彫った大師像が伝わる鎌大師。東屋・トイレも整備されていて一休みするのに最適。干支の焼き物が気になるが、その正体はおいおい明らかになる。

鎌大師からさらに坂道を登る。頂上付近は社会福祉施設になっていて、そこには「トイレお使いください」とうれしいことが書いてある。しばらく平らな道の後は下り坂で、そこにも遍路休憩所があった。ここは海に向かって開けていて、鎌大師に続いて再び腰を下ろし景色を楽しむ。峠道を選んだ甲斐があった。国道ではこうはいかなかった。

休憩所からはたいへん傾斜の急な坂道を下り、人里に下りる。真念「道指南」のあさなみ(浅海)村で、江戸時代にはここに番所があった。つまり、松山藩と今治藩の境ということである。この浅海を歩いていたら、農作業中のおばさんから「お接待」と収穫中のいよかんを2ついただいた。今回の区切り打ちで初、久々のご接待であった。

再び国道196号と合流する。もう11時なのでお昼にしていい時間だが、果たして「海賊うどん」はやっているだろうか。江戸時代と同様、今日でも松山市と今治市の市境となっている海沿いの国道を進んでいくと、海に突き出した建物が見えてきた。

すぐ近くまで行くと、ちょうど店のおばさんが暖簾を出しているところだった。よかった。やっている。「いいですか」と店の中に入る。もちろん最初の客で、食べ終わるまで私ひとりしかいなかった。

メニューを見て、せっかくなので一番高い「海賊うどん」をお願いする。この海賊うどん、他のメニューでトッピングされる肉、えび天、油揚げ、天かす、とろろ昆布、わかめなどが舟型の器にすべて乗ってくる豪華版で、これで700円である。おまけに、おいなりさんを1つご接待していただいた。続けてのご接待、たいへんありがたい。

おばさんが一人でやっているお店で、かつ開店して早々だったので天ぷらを揚げるところから始めたため、30分ほどかかったが、その間、窓の外に広がる瀬戸内海の景色を楽しんだり、置いてある「土佐の一本釣り」を読んだりしてゆっくりすることができた(例の台風に突っ込んでいくところである)。

11時50分、身支度を整えて午後の部スタートである。あと延命寺までは残り15~6kmのはずなので、納経時間には間に合うはずである。国道歩きなので、例によって㌔ポストを見てペースを計って行く。ここから1kmごと、13分・13分・15分・14分・13分。1~2分余計にかかっているのは菊間にある番外霊場・遍照院の写真を撮ったりしていたためである。

遍照院近くにあるラーメン屋には「参拝帰りにどうぞ」と書いてあるが、にもかかわらずお遍路は嫌いというのだから看板に偽りありである。隣にファミリーマートが建設中であったが、経営が一緒だったらどうしようと気になるところであった。

遍照院のある菊間市街を抜けると、石油コンビナートである。その近くで、遍路シールに沿って国道から旧道に入る。国道の両側が瓦店で、その半分以上が現在では営業していないように見えたが、旧道に入っても小規模な瓦店が続いている。コンビナートに向かう海岸線では、防波堤の内側がすべて瓦店である。

そういえば、この前後の住宅地では、鬼瓦が4つ5つある家やら、外壁の上に七福神の焼き物を乗せている家が目立って多かった。鎌大師本堂にあった干支の焼き物もおそらくそうで、すべてこの地域で製造されている瓦なのであった。

半分以上閉まっている瓦店や、放置されている在庫品をみて、いろいろ考えさせられた。たまたまこの地域に生まれ、瓦店の仕事をするのは運である。でも、いまや新築住宅に瓦を使う時代ではない。仕事を増やそうとすれば鬼瓦などアクセサリー的な焼き物を売るしかないが、それだって限度がある。

私の若い頃には、どんな業種であっても努力次第で仕事を増やすことができると言われていた。確かに、京セラだってtotoだって窯業から出発した会社だから可能性はゼロではない。でも、この仕事をずっと続けている人には悪いかもしれないが、生き残るのはほんの一握りであって、ほとんどの瓦店は続ければ続けるほど赤字になってしまう。

努力次第でどうにでもなるというのは建前に過ぎず、それでうまく行かなくても誰もどうにもしてくれない。自分自身を振り返って、運がよかったんだろうと思う。瓦屋さんに生まれていたら、私などでは状況を打開できないことは明らかである。

[行 程](JR松山→)JR伊予和気 6:10 →(6.6km) 7:45 ファミマ松山磯河内店 8:00 →(5.9km) 9:15 養護院 9:20 →(1.7km) 9:45 鎌大師 10:00 →(4.1km) 11:10 海賊うどん(昼食) 11:50 →

[Dec 15, 2018]



鎌大師からの下りでは、海に向かって景色が開けている。峠道を歩いてきた甲斐があった。



海賊うどんでお昼にする。店名の海賊うどんは、すべての具が乗った豪華版。これで700円でなおかつ接待のお稲荷さんをいただきました。



菊間の石油コンビナート前。右に続くしもた屋はすべて瓦店。閉まっているところも多い。

五十四番延命寺 [Mar 13, 2018]

そんなことを考えながら太陽石油のコンビナートを抜け、ちょっと疲れたのでバス停のベンチでひと休みした後、再び国道を歩く。

ここからのペースは㌔ポストごとに14分・14分・13分・13分で、大西町の大規模公園の近くまで来た。側道に遍路シールがあって「延命寺まで5.8km」と書いてある。なんとか、目処がつくまで進めたようである。大規模公園の休憩所がなかなか見つからなかったが、いちばん奥に見つけてリュックを下ろす。時刻は午後2時半。

あと6kmを1時間半でクリアすれば、納経時間には間に合いそうだ。すでに8時間以上歩いているので、さすがに足全体が痛む。伸ばしてマッサージし、3時10分前に腰を上げる。あと6kmプラス今治市内まで4km、合計10kmならこれまでだって歩いてきた距離である。

ところが、先が見えてきたと思ったとたん、足が伸びなくなる。JR線路沿いの側道に入ったのでペースがわからないけれど、㌔13分では歩けていないことが分かる。踏切を越え、大西駅の周辺に入ってきた。「ご苦労さん。あと4kmだよ」と声がかかる。ありがたいより先に、あとまだ4kmもあるのかと思ってしまった。

再び国道と合流するところでファミマをみつけ、まだ大規模公園の休憩から30分ほどしか経っていないにもかかわらず、たまらず入ってしまう。マンゴーのジェラートをお願いする。ベンディングマシンでホットミルクを入れるのは、前回の区切り打ちで何度かやったのでお手の物である。

時刻は午後4時前。1時間しかないけれど、あと2kmほどだからいくらバテても大丈夫だ。疲れて足が上がらなくなった場所で思い出すのは、小松大師から牟岐の間、海部を抜けて那佐湾、神峯寺の下り、延光寺の往復、歯長峠を越えて明石寺までといったところだが、それらはすべて同じ時間、午後3時を過ぎたあたりである。まして今回はすでに30km歩いて来ている。

4時10分前にファミマを出発、再び合流した国道をしばらく進むと、今治市街に向かう道との分岐となる。車の多くはそのまま国道を進むので、交通量がいっぺんに少なくなった。小学校の見える長い直線道路を必死に歩き、延喜の交差点を過ぎると、道が一層狭くなる。歩道がなくなる場所もあり、車をよけながら道路表示に注意する。

やがて左に延命寺の表示があり、遍路シールにしたがって進むと、池が見えてきた。車遍路の人達が、車を下りて歩いている。やっと着いた。もう午後4時半を過ぎている。結構ぎりぎりの時間になってしまった。

納経所には「お参りをすませてから来てください」と書いてあったが、「ぎりぎりだからいいですか」とお願いしたら大丈夫だった。大汗をかいて息をきらせているので、「どちらから歩かれました?」「松山から」と答えると、「途中で泊まらないで松山からずっとじゃ大変でしょう」と言われてしまった。



大西町手前の海浜公園でひと休み。ここまで来れば大丈夫と思ったのだが。



大西駅近くで国道から古い住宅街に入り、「延命寺まであと4km」と声をかけられた。まだ4kmもあるのかと思って、ちょっとめげた。



延命寺まであと2km。さすがに30km以上歩いて来ると、もう足が上がらない。

近見山延命寺(ちかみさん・えんめいじ)。近見山は今治市を一望する山の名前で、延命寺から近見山の向こう側が今治市である。瀬戸内海やしまなみ海道の好展望地で、もともと近見山に堂宇があったものが戦国時代に焼かれてしまい、現在地に移転したものと伝えられる。

こちらのお寺は、池からすぐの位置に仁王門があり、そこから奥に山門がある。普通は逆なのに珍しいと思って説明書きを読んでみると、この山門はもともと今治城の城門であったということである。

明治維新で取り壊しになりそうなところを、延命寺に持ってきて移築したそうである。明治といえば神仏分離・廃仏棄釈とすぐ結びついてしまうが、こうやってお城で壊されそうなものをお寺に持ってきて保存したりするところもあったのである。

四国札所でも神仏分離・廃仏毀釈の影響はかなりあったのだが、九州のようにほとんどのお寺が廃寺になってしまったような地域と比べると、数多くのお寺が今日まで残っている。一時廃寺になっても、間もなく復活したところも多い。八十八ヶ所の伝統がイデオロギーをしのいだということだろう。

もうご朱印をいただいているので、落ち着いてお参りする。山門入って正面が本堂であり、左手に納経所がある。大師堂は本堂と納経所の間を左に登って行く石段の上にある。もともと山号にあるように近見山の頂上に堂宇があったというから、その名残りかもしれない。

本堂の柱や欄間にはたくさんの納札が貼られたままになっている。少々なら珍しくないが、多量に残っているのは珍しい。現代のものではないようだが、いつ頃のものなのだろう。

お寺に大小は関係ないけれども、昔は同じ「圓明寺」であった五十三番と五十四番が、かたや街中にあるコンパクトなお寺で、かたや境内に山も池もある大規模なお寺という違いはたいへん興味深い。

境内が広いので、ゆっくりしていたら午後5時を過ぎてしまった。ホテルには午後6時着と伝えてあるのと、暗くなる前に着きたいので重い腰を上げる。次の南光坊への遍路道は、池まで戻らずに左にある丘を越えて行く。ここまで来れば市街まで歩くしかないが、足腰はいよいよ重く、少々の坂道がつらい。



こちらのお寺は、仁王門をくぐってから山門がある。この門はかつて今治城の城門であったものを移築したそうだ。



延命寺本堂。左手納経所。納経所の奥を左に石段を登ると大師堂がある。かつて近見山の山頂に堂宇があった名残りかもしれない。



本堂右手に遍路道が続く。仁王門まで戻ってはいけない。

境内が広いので、ゆっくりしていたら午後5時を過ぎてしまった。ホテルには午後6時着と伝えてあるのと、暗くなる前に着きたいので重い腰を上げる。次の南光坊への遍路道は、山門まで戻らず、境内途中から左にある丘を越えて行く。足腰はいよいよ重く、少々の坂道がつらい。

延命寺から大谷霊園までの遍路道は、道が集落の中を斜めに行ったり来たりするので、「へんろ道→」の案内がないと分かりづらい。方向としては途中から見える高速道路の高架を直角に横切ることになる。高速道路を越えると、また登り坂となる。ちょうど大谷霊園の中央くらいまで、つらい登り坂が続く。最後と思ってがんばるしかない。

大谷霊園は山一つを墓地にしてしまったような大規模なもので、いくつかの区画に区切られている。ちょうど敷地の真ん中、一番高くなっているあたりに管理施設と休憩所、オープンスペースがある。

大谷霊園という名前からして、おそらく浄土真宗系の墓地と思われる。今日、もっとも寺院数・信者数が多いとされるのが浄土真宗系であるが、例の神仏分離・廃仏毀釈の時、浄土真宗系への影響が相対的に少なかったということが原因のひとつであるらしい。

なぜ神仏分離・廃仏毀釈の影響が小さかったかというと、幕末の混乱時、薩摩・長州の志士が本願寺に大変お世話になったからだそうである。本願寺には皇室の血も入っているので、さすがの明治新政府も遠慮したのかもしれない。奈良の興福寺が大幅に縮小されたり、内山永久寺が廃寺になったりしているのと比べると、かなりの違いがある。その当時から、地獄の沙汰もコネ次第なのだ。

もう日暮れ近い時間で、オープンスペースにはテントが張られている。あるいは、歩き遍路の人だろうか。今治市内には泰山寺に通夜堂があるのだが、ここは広いし水もトイレもあるので、WEB等で調べるとここに泊まる人もいるようだ。

ここから今治市街までようやく下り坂である。松山・今治間でよく見かけた軍人仕様の墓石群もある。出口のところに巨大な慰霊碑があって、そこから市街地に進む。下り坂から平地になると、体が登り坂だと思うらしく歩くのがつらい。でも、あともう少しの辛抱である。

今治城と間違えるようなお城のような変な建物の脇を抜け、学校の横の用水路を通って、市街中心部に到着した。横断歩道の目の前にCoCo壱番屋があったけれど、止まってしまうと歩くのが辛くなるのでホテルまでがんばる。後から思うと、ここで食べておくべきであった。

駅前までまだ何百mかある。そして、予約してある今治アーバンホテルは駅の反対側である。ひいこらしながら、ようやくホテルに着く。エレベーターは1つしかなく若い連中が行ったり来たりしているので階段を上がり、ようやく2階にあるフロントに着くと、「xx様のご予約は新館です。いったん出ていただいて50mほど先になります」と言われた。

再び重いリュックを背負い、はるか向こうにある新館まで歩く。午後6時10分ホテル着。もう体力はほとんど残っていなかった。部屋の隣がコインランドリーなのは大変ありがたかったものの、レストランは朝食しかやっていない。売店もない。コンビニも食べる店も駅前まで戻るしかないが、もう一歩も外に出たくない。

館内の自動販売機にある食べ物はカップヌードルとおつまみだけで。仕方がないからカップヌードルを買ってお湯を沸かし、洗濯をしながらご接待のいよかんとビールで夕飯にすることにした。そのコインランドリーも、「使用は夜8時まで。施錠9時。朝の使用は8時から」などと書いてある。あまり親切ではない。

レストランをやっていないビジネスホテルでは、デリバリーでピザとかお寿司とか取れるところもあるのだが、そういうメニューもない。朝食付きで予約したのに食券を渡されなかったのでフロントに電話すると、「忘れてました」と言われた。これで7,500円である。「お遍路の方にご接待です」と今治タオルをいただいたが、もう二度と今治に泊まるのはやめようと思った。

この日の歩数は66,348歩、GPSで測った距離は40.4kmと、とうとう40kmを突破して過去最長となったのでありました。

[行 程]海賊うどん(昼食) 11:50 →(6.6km) 13:15 太陽石油バス停 13:25 →(5.5km) 14:35 星浦海浜公園 14:50 →(3.0km) 15:35 ファミマ大西店 15:50 →(3.0km)16:35 延命寺 17:10 →(4.0km) 18:10 今治アーバンホテル(泊)

[Jan 5, 2019]



行き先案内に従い集落の道を右へ左へと進み、高速の下を通る。遍路地図はほとんど役に立たない。



大谷霊園内をショートカットして今治市街へ向かう。霊園内の休憩所にテントを張っている人がいた。



この日の移動距離は40kmを超え、ホテルに着いたら一歩も外に出る気がしなかった。夕飯はカップヌードルとご接待のいよかん。

五十五番南光坊 [Mar 14, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

前日は40km歩いて疲れ果ててしまい、お風呂に入って洗濯を終えると9時前だというのにベッドに倒れ込んで寝てしまった。真夜中に目を覚まして、だるい体に鞭打って太ももとふくらはぎにバンテリンを塗る。そして再びぐっすり寝る。朝方、寒気がして暖房をつけた。個別エアコンではなく集中冷暖房なので、調節できているかどうかよく分からない。

レストランは朝しかやってないしデリバリーはできないし、コインランドリーは時間制限ありだし本館と新館は離れているし、値段(朝食付き7,500円)ほどの宿ではないように思うのだが、前日フロントで満室と言っていたから、稼働しているし採算は取れているのだろう。

しかし、周囲をみると地元のホテルばかりで、全国チェーンのホテルは見当らないし、東横インやルートインなどビジネスホテルもない。そうしたホテルが進出してくればこのサービスでやっていけるか首をひねるところだが、いまのところは需要が供給を上回っているものと思われる。

そういえば、かつての松山市内がそうだった。最近、ようやくロイネットができたものの、東横インも比較的最近できたものだし、全日空ホテルや第一ホテルを除けば地場のホテルばかりだし、需要に供給が追い付いておらず予約を取るのがひと苦労だった。最近になってようやく大街道周辺に、新設されるホテルが多くなってきたのである。

午前7時の朝食開始から30分ほど遅れてレストランに入るが、心配したような混み具合ではなかった。無料ではないから頼む客はあまりいないし、だからフロントも朝食券を渡すのを忘れるのだろう。

朝食は意外とおいしかった。ロールパンとコーンスープ、ハムエッグ、ウィンナ、ナポリタン少々、マカロニサラダとグリーンサラダ、フルーツとヨーグルト。ロールパンはおかわりできて、飲み物がつく。前の晩はカップラーメンだけだったので、ロールパンは2つ追加してもらった。久しぶりにお腹いっぱいになってうれしかった。

前日に今治市街まで歩くことができたので、この日のスケジュールは大変に楽である。佐礼山まで山登りをしなければならないものの、移動距離としては15kmに届かないくらいである。朝もゆっくりできるし、いろいろ見る余裕がありそうだ。

午前8時半ホテル出発。前日にはこの時間すでに10kmほど歩いていたことを考えると、たいへん余裕がある。駅前に戻り、大通りを北上していく。ちょうど通勤時間帯だが、人も車もそれほど多くはない。適当なところで左に折れ、南光坊を探す。本当の街中であるので、ホテルから10分も歩くと見えてくる。

駅前からの最短距離を進むと、南光坊の山門を通らずに横から入ることになる。面白いことに山門横の「別宮山南光坊」の石碑は山門の外ではなく境内の側を向いている。

では山門はどこを向いているのかというと、もちろん大三島を向いているのである。お隣にある大山祇神社も、山門と並んだ位置に鳥居が建っている。そして驚いたことに、まだ9時前だというのに大型の観光バスから遍路姿のお年寄りが大勢下りてくるのである。

ここでは団体客と個人客は別に対応してくれるのは分かってはいるが、50人近いご朱印帳が来るのでは大変である。リスクヘッジのため、お参り前に納経所に向かう。



南光坊には今治駅前の通りを進む。通勤時間帯のはずだが、ひと通りは決して多くはない。



海側には立派な仁王門が立つ。境内は中に駐車場があるくらい広い。門の内側に向かって石碑が立っている。



南光坊本堂。バス遍路の朝のコースになっているのか、まだ午前9時前なのに人でいっぱい。

別宮山南光坊(べっくさん・なんこうぼう)。山号に残っているように、もともとの札所は別宮である。別宮というからには本宮があるはずで、本宮は大三島にある大山祇神社である。真念「道指南」は札所は「三嶋宮」としているが、「海上七里有 故にこれより拝む」として、別宮にお参りする行程としている。

松山市には右衛門三郎と一遍上人の伝説がある寺が多かったが、今治市に特徴的なのは越智氏・河野氏につながる札所が多いということである。

これまで見てきたように、八十八の札所の中には空海に関係の深いお寺の他に、空海以前の古い信仰にちなむものが少なくない。土佐の五社とか今治の別宮(南光坊)、佐礼山(仙遊寺)は、四国草創期の支配者・越智氏との関係が深い霊場である。

もともと大三島は、大和朝廷以前の四国の覇者とみられる越智氏の氏神である。大山祇神社とも三嶋大社とも呼ばれる。海上安全にご利益のある神様で、熱海の次にある東海道新幹線の三島は、三嶋大社があることからその地名となったほど、古代には霊験あらたかな神様であった。

三嶋大社と大三島大山祇神社の関係は明らかでないとする見方もあるが、律令時代以前からの古い神社で、神社の名前も祀っている神様も同じならば、どちらかが勧請したものと考えるのが自然である。

その大三島まで、江戸時代でも今治から舟を使えばそれほど遠くはなく、現代であればしまなみ海道でつながっている訳だけれども、八十八の中に選ばれているのはあくまで「別宮」である。真念「道指南」もそれ以前からあるご詠歌でも、同じ垂迹なので別宮にお参りする、とされているのである。

ご朱印をいただいた後、本堂にお参りする。ご本尊のご真言は「なむ だいつうちしょう ぶつ」で、他の札所のようにサンスクリット由来の真言ではない。漢訳前の原語は「マハー・アビジュニャー・ジュニャーナ・アビブ」というのだが、確定された漢訳語がないためか、大通智勝仏とお呼びしている。

大通智勝仏は、法華経化城喩品の冒頭に登場する仏様であり、この世界が微塵に砕かれて細かな塵となり再び固まって世界となり、それを何千億回繰り返すほど昔に悟りを開いた仏であるとされる。

それほど昔の仏様を釈迦がなぜ弟子たちに講義しているかというと、大乗仏教の「久遠実成(くおんじつじょう)」の理論を説明するためである。簡単にいうと、お釈迦様はゴータマ・シッタータとして悟りを開いたのではなく、はるか昔にすでに仏として悟りを開いていたという、一種のたとえ話である。

その大通智勝仏を本地仏とするのだから、三嶋明神も起源が古いと考えられていたことは確かである。何しろ、アマテラス(本地仏は大日如来)、イザナギ(同釈迦如来または阿弥陀如来)よりも時間的に古いとされている仏様なのである。

いまであればビッグバン以前には時間がないので140億年より前はないと言われるかもしれないが、当時はそんなことを言う弟子はいなかった。もし言われたとしたら釈迦は、膨張した宇宙が熱量死していつの日か再びビッグバンが起こり、それが何百億回も繰り返される時間だ、と言うかもしれない。

愛媛県第二の都市・今治にあるだけあって、境内も本堂もたいへん立派である。団体のバス遍路が終わるまで待って、ご本堂・大師堂と納経させていただく。屋根の高さが建物本体と同じくらいあって威圧感がある。境内中央にすっくと立っている回向柱は、高知市の種間寺を思い出した。

南光坊をお参りした後、通りを隔てた大山祇神社にお参りする。観光バスの連中はこちらには来ない。せっかくの機会だし、すぐ近くにあるのだからお参りしていけばいいのにと思う。明治の神仏分離以前には、こちらが札所であったのである。

大通智勝仏という耳慣れない仏様は、もともと大三島の垂迹仏とされた仏様で、それでご詠歌にも「別宮とてもおなじ垂迹」と謳われている。そして「道指南」では、他の札所にはご本尊の絵姿が描かれているのに、大通智勝仏の絵姿はなく、ご本尊がどのような仏像であるかも記載がない。おそらくご神体であり見ることはできなかったからであろう。

拝殿はみごとな檜皮葺で、愛媛県の重要文化財になっている。せっかくお参りしたので、社務所でご朱印をいただく。神社ではあるが、見事な達筆である。「日本総鎮守 別宮 大山祇神社 御前 平成卅年三月十四日」と書かれている。

[行 程]今治アーバンホテル 8:35 →(0.7km) 8:50 南光坊・大山祇神社 9:20 →

[Jan 19, 2019]




南光坊大師堂。こちらも人でいっぱい。



道路を隔てた大山祇神社。神仏分離前はこちらが札所だった。訪れる人はほとんどいない。



大山祇神社(別宮)拝殿。みごとな檜皮葺きで桃山時代の建築。ご詠歌に謳われているように、大三島にある三島明神と同体とされる。

五十六番泰山寺 [Mar 14, 2018]

南光坊から再び駅の方向に戻り、線路の下をくぐって南側に出る。こちらの駅前も人通りは少なく、遍路シールが貼ってあるのも平和である。次の泰山寺までは、駅から伸びる道をひたすらまっすぐ進む。

ここ今治市は江戸時代の城下町から現在に至る地方都市なのだが、同じく城下町であった宇和島、大洲と比べてひと通りも車通りも少ない。駅前の大通りも信号を渡るたびに細くなり、とうとう一車線の住宅街になってしまった。この日も天気に恵まれて、日差しもきつく暑いくらいである。

しばらく歩くと汗だくになってしまい、やや広くなっている学校の門のあたりでひと休みさせていただく。校名を見ると今治西高校であった。今治西といえば甲子園の常連、野球の強い高校として記憶に残っている。最近は高校野球を見ることがないので今でも強いかどうかは分からないが、県立高校だけに昔のようにはいかないだろう。

さらにまっすぐ進むと、あたりはいよいよ住宅街である。奥ノ院である龍泉寺の案内が先に出てきたので行き過ぎてしまったかと思ったが、辛抱して進むと右手に巨大な建物が見えてきた。あれが泰山寺に違いない。すぐに左手が参拝用駐車場となり、そこから右に山門が見えた。

金輪山泰山寺(きんりんざん・たいさんじ)。山号の金輪山は裏山の名前で、寺号は延命地蔵経の文言から採られたという。ただ、泰山といえばまず思い浮かぶのは泰山王であり泰山府君であり、道教の聖地である泰山である。

(延命地蔵経はもともと仏教経典にあったものではなく、日本で作られたもの。だから内容をみても、道教や浄土教の影響が窺われる。このお経で地蔵菩薩の言っていることは、まるで阿弥陀如来である。)

泰山府君は死後の世界を管轄する。十王信仰では、四十九日に死者を審判するのが泰山王である。この泰山寺、今治市を流れる蒼社川の低地から金輪山に向かって小高くなった丘の上にあり、ご本尊が地蔵菩薩であることを考えあわせると、もともと水害や伝染病による死者を供養する霊場であったのではないだろうか。

山門を入ると正面に本堂があり、そこから右手に境内が広がっている。本堂の右隣が庫裏で、きれいに咲いているのは紅梅だろうか。その右の建物が同行会館で鉄筋の大きな建物。この会館が遍路道から見えたのであった。

お寺全体に比較的新しい建物であるが、中でも同行会館はたいへん新しい。現在の霊場会HPには宿坊なしと書かれているが、かつてはこの同行会館が宿坊として利用されていたようである。

庫裏・同行会館の向かいに大師堂。本堂に続いてこちらで読経させていただき、同行会館入口にある納経所でご朱印をいただく。南光坊ではバス遍路が大挙して訪れていたが、幸いこちらは通過したようでたいへん静かである。

時間に余裕があるので、境内のベンチに座ってひと休みする。丘の上にある境内からは、市内の住宅地を見ることができる。荷物を置いて座っていると、暑くもなく寒くもなく、日差しは穏やかで風もなく、なんとも過ごしやすい陽気である。こうやって、札所の雰囲気を感じることのできるスケジュールが好ましい。前日40km歩いたおかげである。

こちらのお寺には通夜堂があるということだが、どこだろうと探してみる。本堂・大師堂と庫裏・同行会館の他に建物は見当たらない。トイレはあるが、横に用具置き場のようなドアがあるだけで、とても通夜堂を置けるスペースではなさそうだ。きっと会館の裏にでもあるんだろうと思っていたら、帰って調べてみると、あのトイレの横のようだった。

水もトイレも使えるので、あの場所で不都合ということもないのだろうが、通夜堂のもともとの趣旨はお通夜で一晩過ごすことにあるのだから、なんだかなあという気がする。しばらくゆっくりして、11時10分前に出発した。

[行 程]南光坊 9:20 →(3.3km) 10:15 泰山寺 10:50 →

[Jan 26, 2019]



泰山寺へは南光坊から駅の反対側をひたすらまっすぐ進むが、道はどんどん狭くなる。



泰山寺の本堂(いちばん奥)と納経所。建物はたいへん立派で、遠くからでもすぐ分かる。



本堂から境内の逆側に大師堂。大師堂の並びにトイレがあり、トイレの横が通夜堂ということが帰ってから判明しました。

五十七番栄福寺 [Mar 14, 2018]

泰山寺を11時10分前に出て、蒼社川に向かって下りて行く。蒼社川と並行して、国道317号が通っている。この国道は松山から海沿いを走る国道196号と直交して、山の中を松山に向かい、石手寺の前に出る。道路工事中の箇所を抜けて15分ほど歩き、11時過ぎに国道317号に出た。

さて、ここで片付けたい用事が二つあった。一つは昼食をすませること、もう一つはこの日の宿である佐礼山に備えて食糧の補充をしておくことである。遍路地図を見る限り、そうしたことが可能なのはこの国道沿いである。ただ、地方都市とはいえ、今治駅から1時間、約4kmしか離れていない。いくらなんでもこの先何もない訳ではあるまい。

昼食については、ちょうど国道に出たところにラーメン屋があったが、やっていない。この時間だから開いていないのか、すでに営業していないのかは分からない。100mほど先にサークルKの看板があるが、ファミマでなくサークルKではイートインコーナーがあるかどうか。ふと見ると、サークルKへの途中に喫茶店のようなものが見える。

店舗兼の住宅で、営業中と書いてある。店の前に幟りが立てられていて、そこには「ハンバーグ」と書いてある。昨晩カップラーメンのみ、今朝はロールパンだから、ボリュームのあるハンバーグでエネルギーを補充できればありがたい。何せ、この後1泊2食の精進料理なのである。

ドアを開けると、気難しそうなマスターと奥さんのやっている喫茶店であった。「ハンバーグはありますか」と尋ねると、メニューにあるハンバーグランチ1000円を「これだね」と示される。待つことしばし、ハンバーグ、ライス、サラダ、スープのランチであった。

爆弾ハンバーグやココスの方がおいしいと思ったけれど、値段もそれなりなので文句は言えない。11時半出発。国道をそのまま進んでもいずれ合流するが、遍路シールに沿って脇道を川の方に進む。10分も歩かないうちに、「四国遍路無縁墓地」の大きな石碑の立つ場所に出た。

大きな石碑の周りには大小さまざまの古い石が置かれ、かつて遍路中にここで亡くなった人達を葬った跡のようであった。江戸時代、遍路の道中手形は「捨手形」と呼ばれ、もし遍路中に亡くなったらその土地のやり方で葬っていただいて差し支えないと書かれていた。まさに、そういう無縁仏が埋められている場所なのであった。

現在、無縁墓地の裏には遍路休憩所が置かれ、東屋が建っている。そして、その休憩所が建っている敷地には、高齢者福祉施設の大きなビルが建っているのである。かつての遍路無縁墓地と現代の高齢者福祉施設、なんだか新旧の対比になっているようでシュールであった。

そのすぐ先が堤防で、蒼社川の河川敷である。遍路地図によると、「渇水期には川の中を歩いた」ということである。四国のこのあたりは雨の少ないところだし、いまでは上流にダムがあるのでますます水量は少なくなっている。歩いて渡れなくはなさそうだが、せっかく橋があるのにわざわざ川に入ることはない。川に沿って橋まで歩く。

橋を渡った先に、高さ100mくらいの山が見える。昔、樟葉(くずは)に住んでいた時に見た男山によく似ている。すると、あれが八幡宮に違いない。遍路シールが示す曲がり角の先にスーパーらしい建物がある。ここを逃すと、あるいは佐礼山まで補給できないかもしれないと心配になるが、わずかの遠回りができないで通り過ぎてしまった。

山の右手に出た後、遍路シールは用水路に沿った細い道を指示している。しかしそこには、「全面通行止」の看板が大々的に置かれている。普通、こういう場合には「こちらに迂回してください」と地図が貼られているものだが、それがない。車両通行止なのだろうかと首をひねりつつ、ガードを乗り越えて中に入る。迂回ルートが分からないのでは仕方がない。

用水路沿いの道は真新しくコンクリで舗装されているが、すでに固まっているし資材等も置かれていない。いまのところは車両通行止でいいのだろうが、つい最近まで歩行者も含めて通行止だったのだろう。看板を外すか、迂回路を指示してほしいものである。

そのまま民家の間をぬう道になり、左手に坂を登ると、駐車場と大きな建物が見えてきた。12時15分、府頭山栄福寺(ふとうざん・えいふくじ)到着。府頭山は栄福寺の建つ山の名前で、今治の札所は近見山、金輪山、府頭山とすべて実際の山名である(佐礼山もそうだ)。

もともとの札所は「八幡宮」で、府頭山頂上に建つ。こちらも神仏混淆の霊場で、別当寺として霊場記には長福寺・浄寂寺の名前があるが、栄福寺の名はみられない。明治の神仏分離で栄福寺が札所となった。

霊場記HPには、弘法大師が海難事故を防ぐため護摩を焚いたという由来が書かれているが、おそらく大師以前から灯台の役割として火を焚いていたのだろう。霊場記には大師起源のその話は載っておらず、「神が海から上がって、濡れた衣を干した場所」と書かれている。



遍路道の傍らに遍路無縁墓地が現れた。江戸時代は「捨て手形」といって、急病死した場合はその土地のやり方で葬うよう道中手形に記されていた。いまでは後方に高齢者福祉施設が建つ。



水路沿いの道は「全面通行止」とあったが、他に進むべき道も指示されていないので仕方なく進む。特に問題はなかった。



水路沿いのコンクリ道から道なりに進み、山側に曲がるとほどなく栄福寺となる。参道がU字型になっていて、石垣の上が本堂になる。

栄福寺の境内はコンパクトで、参道がUの字型になっている。だから、石碑のある入口の真横、石垣の裏が本堂となる。本堂の前、山側に大師堂、Uの字の底辺のところに売店と納経所がある。駐車場の奥に見えた大きな建物は、庫裏兼ご住職一家の自宅のようだ。

こちらのご住職は先代のお孫さんにあたり、大卒後すぐにこの寺を継いだ。納経所前の本堂に向かうところに掲示板があり、ご住職の著書「ボクは坊さん」のポスターが貼られている。

この本は、ご住職が連載されていた「ほぼ日」こと「ほぼ日刊イトイ新聞」の記事をまとめたものである。ほぼ日は、吉田戦車のエハイクくらいしか見なかったので読んだことはない。

本堂も小ぶりなので、葬儀とか法事をする時には多人数入れる大きな部屋が必要と思われ、駐車場から見える大きな建物にはこうした施設も含まれるのかもしれない。ご住職のお父上は現役の教師とのことなので、ダブルインカムで大きな家も建てられるのだろうなどと世知辛いことを考えてしまった。

ちょうどお昼時なのでご朱印をいついただこうかと思っていたら、私の後にお参りしたおばさん2人連れが納経所に入って行ったので、終わった頃合いを見計らって納経所に入る。窓口に待機されていたのはまだ若い女性で、あるいはご住職の若奥様なのかもしれない。昼休み時間にいていただけるとたいへん助かる。

ご朱印をいただくついでに、八幡宮の場所を聞いてみる。「登って来られた坂道をそのまま上がっていただくと、山の上にあります。ちょっと道が荒れているかもしれません」とのことであった。

一休みして、八幡宮まで登る。少し距離がありそうなニュアンスだったので、重いけれどもリュックを背負って行く。坂道はすぐに石段となり、上の方まで続いている。石段はところどころ崩れていて、なるほど荒れている。頭の上に電線が通っているので上に建物か少なくとも電灯があると思われる。木々が電線を覆い、昼なのに暗い。

10分ほど登ると、頂上に達する。広くなっていて、いきなり社務所と自販機が見えたのにはびっくりした。電柱は栄福寺経由であるが、表参道は逆側の集落から上がってきているし、もう一本車道も通っている。栄福寺経由はあまり使われない裏参道といった趣きであった。

本殿は栄福寺の本堂よりも大きく、真新しい犬の絵が貼られていたので初詣客も多かったのだろう。さすがにかつての札所である。二礼二柏手一礼でお参りする。残念ながら、社務所は無人で自動販売機だけが動いていた。

本殿から一段下がったところに、昭和五十四年建立の「一千百年式年祭」の石碑がある。1979年から1100年を引くと869年、清和天皇の御代である。つまり、空海よりも新しいが、清和源氏よりも古いということになる。

この八幡宮で特筆すべきは、本堂前からの瀬戸内海の眺めである。標高100mなので眼下に今治市街がはっきり見え、しまなみ海道まで一望の下にある。なるほどここに火を焚けば闇夜であっても目印となることは間違いなく、海上安全の神のいる場所というのもうなずける。佐礼山では高すぎて雲や霧に隠れる可能性があるし、ここより低いと遠くから見通しが利かないだろう。

[行 程]泰山寺 10:50 →(1.0km) 11:10 喫茶デリシャス(昼食) 11:30 →(0.4km) 11:40 日高荘前休憩所 11:45 →(2.2km) 12:15 栄福寺 12:40 →(0.2km) 12:50 石清水八幡神社 13:00 →

[Feb 9, 2019]



本堂と右側に大師堂。石清水八幡宮の別当寺であったためかコンパクトだ。



栄福寺から5分ほど石段を登ると、石清水八幡神社がある。寺からの参道はだいぶ荒れているが、逆側から車道と参道が昇ってきている。そちらが表参道だろうか。



石清水八幡神社から瀬戸内海の眺めはたいへんにすばらしい。この日は風もなく暖かで、花粉が飛んでなければ言うことなしでした。

五十八番仙遊寺 [Mar 14, 2018]

八幡神社には午後1時の時報が鳴るまでいた。市街からだろう、サイレンかチャイムのようなものが聞こえた。今治市街・瀬戸内海を望む大変いい景色で、また風もなく暖かい日だったのでゆっくり過ごすことができた。

仙遊寺の宿坊には、午後3時到着と伝えてある。遍路地図には五十三番・五十四番間の所要時間は40分と書かれているが、山門を過ぎてから本堂まで20分かかるという情報もある。標高255mと2.4kmから考えて、標高差で40分、距離で40分の約1時間半はみる必要があるように思われた。

帰りは栄福寺には寄らず、集落を通る道路と交わる地点まで下る。交差点に、遍路地図には載っていないが小さな売店・食堂がある。「手作りソフトクリーム」と書いてあるので、「ソフトクリームはありますか」と入って聞いてみると、「4月からなのよね。今日は暑いからみんなに言われるんだけど」と、残念なお答えであった。

すぐ後からお昼を食べに家族連れが入ってきたので失礼したが、結果的にみると最後の補給基地であった。店の前には自販機もあり、少ないながら土産物も置かれていた。もっとゆっくり見れば、何か非常食にできるものを見つけられたかもしれない。

このあたり、前日のホテルで夕食をカップラーメンといよかん1つで済ませた経験が物を言っていて、いよいよこのままでも1泊2食付いていればなんとかなると思っていた。

泰山寺から登ってきた道をそのまま奥に進む。左手に高くなっていた八幡宮の稜線が低くなってきて、その低くなった稜線に向かって道が登って行く。ほどなく、アースダムの地形が見えてきた。

瀬戸内はアースダムの本場であり、愛媛県に入ってよく見かけるようになった。あの、龍光寺・仏木寺間の中山池もそうである。

降水量は平均して少ないものの、ひとたび大雨が降ると川幅では収まらないくらいになるので、治水面からも農業用水確保の面からも、古代からアースダムが建設されてきた。行基や空海も、札所の由来で語られるだけでなく、実際に各地の治水工事に携わったと史書に書かれている。

空海が満濃池建設に従事したのは記録で確認できる史実であるから、宗教家であっただけでなく土木建築等の知識も持っていたのだろう。もっとも、当時の先進国である唐に派遣されるというのはそういうことで、薬学とか地理・歴史など各分野に広く知識があったと考えられるのである。

アースダムとは、簡単にいうと川を堰堤でせき止めてため池を作るものである。まったく水の出口がないと巨大な水圧がかかって決壊してしまうし、必要な場合に水を供給するのが目的だから、水量が調節できるよう水の出口が設けてある。放っておくと土砂で池が浅くなってしまうので、定期的に放水するのが「池の水全部抜く」で有名になった掻い掘りである。

「池の水」では掻い掘りして有害外来生物を駆除しているが、中世の掻い掘りで得られた魚介類は農民にとって貴重な蛋白源であった。いまや、こうしたため池に棲んでいる魚など臭くて捨てるしかないので、現在では掻い掘りはほとんど行われない。

栄福寺の上にあるアースダムを犬塚池という。昔、栄福寺と仙遊寺の鐘に合わせて行ったり来たりする犬がいて、ある日両方の鐘がいっぺんに鳴ったものだから、どうしていいか分からず中間の池で溺れ死んでしまったという伝説がある。伝説のとおり、池の先にそびえているのが佐礼山で、この池は宿坊の窓から見ることができる。

道なりにダムの端まで行く道と、堰堤を登る道が分かれていて、登り口のところに「名勝 八幡山 犬塚池 佐礼山」と石碑が建っている。ここを登ると、ダムに沿った堰堤上の細道になる。かなり大きな池で、これだけあればずいぶん広い水田に水を流すことができるだろう。

ダムの端まで進むと集落から通じてきたさきほどの道と合流し、山の中に入って行く。遍路シールがないので心細いが、丁石がときどき現われ、ここが古い遍路道であることを示している。しばらく歩いて車道に出て、ここから上は車道歩きとなる。

「ここは私道であり、道路保全のため協力金をいただきます。納経所にお支払いください」と料金表が書かているが、幸い歩行者は無料のようである。バス遍路からはいくらでも取ればいいと思うが、お寺にとってみればバスや車の参拝客が大多数であり、貴重な収益源でもあるだろうからそうそう無理な価格設定もできないだろう。



栄福寺から山道を登ると、アースダムの犬塚池に達する。後方が佐礼山で、宿坊の窓からこの池が見える。



山道には遍路シールは少なく、昔ながらの丁石が目印となる。



再び車道となり、栄福寺から1時間少しで仙遊寺仁王門に達する。

佐礼山仙遊寺(されいさん・せんゆうじ)、道指南では単に「佐礼山」である。

例の五来重氏はもともと「泉涌寺」であったと推測しているし、実際に急傾斜の参道には「お大師様お加持水」もあるのだが、実際に佐礼山に来てみると、山上から瀬戸内海への雄大な景色が印象的である。寺を作ったとされる阿坊仙人が雲と遊ぶようだったという伝説の方がしっくりくる。

天智天皇の勅願という寺伝と実際に資金提供したのが越智氏であったことを考えあわせると、もともと白村江直後の海防の必要性から開かれた山というのはありそうなことである。

だが、実際に唐が攻めてくることはなく、壬申の乱で非天智系の大海人皇子(天武天皇)が政権を取ったこともあって、唐との関係は改善に向かった。それにより、防衛拠点としての作礼山は、従来どおり海上安全の神に戻った。あわせて、山岳宗教の拠点となったのである。

八幡宮を出てから1時間弱、午後2時前に仙遊寺の仁王門に到着。門の前は広くなっていて、その一角に東屋が置かれている。水も自販機もトイレもない。とりあえず、リュックを下してひと休みする。ここから境内本堂エリアまで、評判の急傾斜が待っている。

仁王門で、参道は車道と歩道に分かれる。車道は仁王門をくぐらずに、そのまま山腹を右に登って行くが、歩道は谷に沿って直登する。傾斜も、車道よりずっときつい。仁王門のところに、「本堂まで徒歩20分」と書かれているし、さまざまなWEBで難所とされているところだ。

だが、足下はコンクリートの階段が続いていて、手すりもある。多くの参拝客は車で本堂まで登ってしまうので、混みあうこともない。そして、ゆっくり登っても15分もかからないで本堂レベルに達することができる。それほど心配することはない。

とはいえ、同宿した人の誰かは、しんどいから帰りは車道を下ると話していたので、感じ方には個人差があるのかもしれない。もちろん、どの程度歩いてここまで来たかによるだろう。私の場合は今治市内発なので、この日のスケジュールが楽だった。

参道から境内に上がると、本堂の向かい側にある鐘楼のあたりに出る。午後2時40分到着。仁王門の東屋で休んだので、実質1時間半。見込んだとおりの時間で、遍路地図にある40分というのは、ちょっと無理である。

ずいぶん上まで登ったように感じたし、実際に標高255mの高さがあるので佐礼山の頂上(281m)近くにあるのだが、境内は広く、狭い場所にひしめき合っているという感じはない。霊場記の挿絵をみても頂上から少し低くなったところに神社と本堂、庵があるので、江戸時代からこの場所にあるのだろう。

霊場記挿絵によると、佐礼山本堂と仙遊寺の場所は離れていて、仙遊寺は国分寺への分岐あたりに描かれている。このことから、かつての仙遊寺は現在より下の位置にあり、佐礼山の別当寺であったものと思われる。

大師堂の隣に昭和に建てられたと思しき古い住宅がある。かつての庫裏かもしれない。古い住宅の隣が大師堂、さらに奥が本堂で、本堂の向こうに宿坊と駐車場がある。まず手水場を使わせていただき、本堂、大師堂の順にお参りする。翌朝にお勤めがあるので、またゆっくりお参りできる。

納経所は、本堂の中である。副住職にご朱印をいただいた。

「これから次も回られますか」
「いや、今日はこちらを予約させていただいてます。もう入れるでしょうか。」
「大丈夫ですよ。入ってすぐが食堂で誰かいますから、声をかけてください」

ということで、まだ午後3時前であったが宿坊に入らせていただけた。



仁王門で車道と別れ、谷沿いの石段を登る。徒歩20分と書いてあるが、それほどはかからない。



本堂エリアに登ってきた。山の上にあるのに、かなり広い境内である。



本堂手前に大師堂。隣の古い建物はかつての庫裏か。

宿坊である創心舎は本堂の横の真新しい建物である。入ってすぐに食堂があり、すでにこの時間から支度している係の人がいた。私が最初かと思ったら、すでに到着した人がいて、2番目だった。

「お風呂はいま用意していますので、後ほど声をおかけします。お茶とコーヒーはこちらに用意していますので、ご自由にお飲みください。夕食は6時からです。明日朝のお勤めは、夕食の時にお寺から説明があります」

見たところ、お茶の用意はあるが自販機はなく、好きな飲み物を買って飲むという訳にはいかないようだ。もしや、酒・ビールもないかもしれないと心配になったが、後からコインランドリーに行くと横にビールのケースがあったのでちょっと安心する。結局、非常食等は補充できなかったが、出されたものを食べていれば特に不便はない。

宿泊室は2階。階段を上がってすぐ大広間で、サンドバックが置かれていた(翌朝のご住職の話からすると、空手教室で使っていたらしい)。広くとられた窓からは翌日に下りる今治市東部の眺めが広がり、もちろん瀬戸内海の島々も一望できる。

霊場記が「逸景いづれの処より飛び来る。ただ画図に対する如しとなり 」と述べている、まさにそのとおりの絶景であった。

案内された部屋は6畳くらいの板張りの部屋で、畳ベッドが置かれていた。奥にユニットのバス・トイレが付いており、こちらも使っていいとのことであった。部屋の窓からは、さきほどの大広間とは角度が異なり、木の枝の間から今日登ってきた犬塚池・八幡宮の方向が見えた。

コインランドリーの洗濯機はいま風ではなく旧式の輸入品で、最近では函館市内の富岡温泉近くで使ったのと同じ型であった。洗濯機に入れてすぐにお風呂の用意ができたとの連絡があり、私の前に来ていたと思われる佐渡からのお客さんと一緒だった。

翌日のご住職のお話によると、弘法大師ではなく私が掘った温泉だということであったが、県の調査した泉質表も貼られているちゃんとした温泉である(アルカリ性単純泉だったと思う)。湧出温度は10℃ほどなので鉱泉ではあるが、肌にすべすべして心地がいい。

お湯に漬かりながら、「ご住職のお話は長いらしいですよ」とか「ここの精進料理は本当に精進料理だ」とかお話しする。考えてみれば、お遍路さんと話をするのは前年の浄瑠璃寺、長珍屋以来のことであった。

部屋に戻り、洗濯物を乾燥機に移して少しうとうとする。乾燥機の方はいま風で、100円12分の時間制である。ホテルの乾燥機だと200円で60分使うとふわふわに仕上がるのだが、200円分だけ使ってあとは部屋干しする。幸い、速乾白衣はこの時間でも乾くし、CW-Xやウーロンのアンダーウェアは脱水だけで乾燥機にはかけない。

午後6時、夕食の時間となった。赤いお膳に、玄米ご飯、お吸い物、野菜天ぷら、野菜の煮物、高野豆腐、切干大根といったすべて野菜の精進料理である。ビールもお願いできたので、ひとまず安心。前日のカップラーメンに比べれば、ボリュームも十分だし何も言うことはない。

ただ、十年前に高野山に泊まった時の精進料理と比べると、少しだけボリュームが足りないような印象があった。とはいえ値段も違うので贅沢は言えないし、一日歩いてきたのでそう思うのかもしれない。こちら仙遊寺は1泊2食6,000円と信じられないくらいの格安なのである。

こちらの宿には食堂以外の場所にTVがなく、wifiが通じるのも食堂近辺に限られる。とはいえ、この山の上でネットが通じるだけでもありがたいことである。部屋にTVがあったとしても見ないし。

歯を磨いて翌日歩く場所を下調べして、午後8時には寝てしまった。この日の歩数は19,944歩、GPSによる移動距離は10.2kmとたいへんのんびりした一日でした。



宿坊・創心舎。本堂とは棟続きで雨に濡れずにお勤めすることができる。



宿坊展望室からの眺め。今治市街・瀬戸内海を一望することができる。



仙遊寺宿坊の精進料理。禁アルコールかとひやひやしましたが、ビールを飲むことができました。

翌朝6時からは、朝のお勤めである。WEB等の情報では、ご住職のありがたいお話が大変に長いと評判である。

前日の風呂で一緒になった佐渡の方とも、「長いといっても30分くらいでしょう」「いや、もっと長いという話ですよ」などと話題になっていたのだ。白衣に着替えて本堂に入ると、まだ10分前なのにすでにご住職は袈裟を着て待機されていた。

午前6時になって泊り客全員が揃うと、住職と副住職が朗々とお経をあげはじめ、一段落したところで端から焼香を勧められる。ご本尊の前に遺影と位牌が置かれていたので、檀家のお葬式か法事があったのかと思っていたら、数年前に亡くなった奥様のものだと後ほど話に出てきた。

鯖大師のように護摩を焚く訳ではないので、お勤めの時間はそれほど長くはない。だが、ご住職が話し始めてからがやっぱり長かった。長いと知っていたから私はそれほど驚かなかったが、予備知識がない人は面食らったに違いない。お寺でよく使う低い椅子に座っているので、足が痺れるということはない。

まず、集まった泊り客(この日は9名であった)に、順にどこから来たか、歩きか車かを訪ねてそれぞれご住職がコメントする。印象に残ったのは、息子(30代?)が通し打ちをしていて、様子を見に来た父親とこの寺で落ち合ったという親子がいたことであった。「親子というものは、大切なものだ」というコメントがついた。

その後、泊り客の話と関連するようなしないような話があり、その後はご住職の身の上話が延々と続いた。法話はどうしたんだと思わないでもなかったが、結構おもしろく聴かせていただいた。大筋、以下のようなお話である。

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○ 私がこの寺に来て40年になる。出身は名古屋、もともとは在家であった。家内は岡山で、家内の兄貴が大学の先輩である。(すると、ここのお寺の代々のご住職ではないのだろうか)

○ 子供は5人いて、副住職は婿養子である(男の子はお寺を継がなかったのだろうか)。副住職からは、「当山復興一世」と呼ばれている。50代の時に借金をして寺の施設を新築した(前日泊まった宿坊のこと)。お風呂は天然温泉で、これも私が掘った。あと何年か経つと弘法大師様が掘ったことになるかもしれない。

○ 現在68歳になる。肺ガンのステージ4で胸のあたりにはいつも違和感があるが、こんなものだとあきらめている。家内は、私より後に肺ガンが見つかったのに、先に死んでしまった。

○ 先日、7mの高さから落ちて背骨を何ヵ所か折ってしまった。落ちたすぐ横が大きな岩で、そこにぶつかっていたら死んでいただろう。リハビリして歩けるようになったが、教えていた空手道場はいまはやっていない。

○ 田畑が3町歩あり、夕食にお出しした玄米は自家製である。このあたりは動物が多く、動物除けのワナに鹿とか猪がよくかかっている。坊主が狩猟免許というのはおかしいかもしれないが、人間は命をいただかなければ生きていけない。鹿肉はおいしいけれども、みなさんには精進料理を出している。

○ 家内が亡くなって7年ほど経つ。いまは娘が身の回りのことをしてくれるけれど、食事にせよ何にせよ家内のようにはいかない。今思うと大変ありがたいことであった。みなさんも、生きている間に、もっと「ありがとう」を言った方がいい。

○ 四国遍路の世界遺産運動は私が始めた。私も若い頃歩き遍路をしたことがあるが、まだ途中で止まっている。野宿をしていたが、多くのお遍路はちゃんとした宿に泊まっているので、海外旅行以上に費用がかかる。

○ 寺のご本尊は千手観音菩薩。京都の清水寺にも立派なものがあるが、私はこのご本尊の方が素晴らしいと思う。せっかくなので、よく見て行っていただきたい。写真撮影してもいいですよ。

○ 今治市は最近知名度が全国区になったが(注.加計学園の獣医学部新設問題)、市長が全く経緯を知らなかったなどということはありえない。政治家なので知らないと言わなくてはならないのかもしれないけれど、こんなことをしていては常識を疑われるだろう。
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などなど、ご住職のお話は尽きることなく続いた。思ったのは、体調がすぐれなくてこれだけ話せるということは、体調がよかったらどれだけ続くんだろうということである。それとも、奥様を亡くされてこうして朝のお勤めで話す以外はあまり口を動かすこともないのかもしれない。

本堂から退出するとすでに時計は7時10分を示しており、1時間を優に超える長いお話であった。朝のメニューは玄米で炊いた朝粥。副食には梅干し・たくあんとひじき、それにゆで卵を切ったものが付けられていた。誰かが、「精進料理なのに卵がある」と言ったけれど、さすがに鹿も猪も付いていなかった。

[行 程]栄福寺 13:00 →(1.7km) 14:10 仙遊寺仁王門 14:20 →(0.8km)14:35 仙遊寺(泊) 8:10 →

[Mar 9, 2019]



宿坊から見た本堂。塀の向こうが廊下になっていて、ガラス戸を開けて入る。



ご本尊の前で朝のお勤め。ご住職いわく「清水寺の千手観音よりうちの方がいい」



噂通りの長いお話の後、朝食は玄米の朝粥。

五十九番国分寺 [Mar 15, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

午前8時には宿坊を出ることができた。本堂でもう一度「ごびんずる様」に挨拶して出発する。登りでは長く感じた谷沿いの参道も、下る時はあっという間に仁王門が見えてきた。気になっていた復興記念碑を改めてよく見る。

昭和30年の建立となっている。仙遊寺のパンフレットによれば、昭和22年の山火事で全山が焼失し、本堂が再建されたのが昭和28年という。そう言われると、大師堂の隣に建っていた古い建物もそのくらいのように思われる。おそらく本堂に続いて、大師堂と庫裏が建てられたのだろう。

いずれにしても、ご住職がこの山に入ったのが40年前というから1970年代、つまり昭和50年以降のことだから、全焼した伽藍を再建した時とは時代が違う。当時のご住職とはどういう関係なのか、気になるところである。

さて、復興記念碑の向かい側、車道から分かれて右側に国分寺への登山道入口があり、「四国のみち」と書いてある。南光坊や泰山寺、八幡宮では四国のみち標識に気がつかなかったな、と帰ってから調べてみると、四国のみちは今治市街は通らず、山の方から仙遊寺に出て国分寺に向かうのであった。

この国分寺への下り坂、逆打ちでは大変と思ってしまうくらいきつい山道だった。登りは犬塚池のあたりだけ山道であとは舗装道路だったのだが、下りは延々と山道が続く。四国のみちなので擬木などで整備してあるものの、荷物を持って登るのは大変そうである。

30分ほど山道を下って、突然という感じで人里に出た。ここまで森の中、家もなければ田畑もないという景色だったのが、右左に民家が続く集落である。しかし、商店もなければ自販機もない。ずいぶん大きなお寺と墓地の横を通る。吉祥禅寺と書いてある。大きな通りを渡って、郊外の住宅地になる。ようやく自販機が登場して一息つく。

結局、下りで初めて現れた商店は、1時間近く歩いた国道196号沿いのコンビニだった。逆打ちの場合は、ここが最後の補給基地になる。だが、今回は順打ちだしこの日が区切り打ち最終日なので、特に補充するものはない。

振り返ると佐礼山が見え、その頂上近くに仙遊寺の建物が見えた。前日に宿坊から見えた絶景は、このあたりを見下ろしたものであった。下りでは1時間で下りて来られたが、登りは倍近くかかるだろう。

コンビニから先は徐々に建て込んだ住宅街となり、遍路シールに沿って進む。JRの線路近くの道は狭く、斜めに伸びる分岐も多いのでどちらが正規ルートだか分からない。電柱の遍路シールと遍路地図を確認しながら行き先を確かめていると、自転車で通りかかったおばさんが「ご接待」と手袋をくれた。なぜ手袋なんだろうと思いつつ、お礼を言って受け取る。

線路を渡って国分寺まですぐと思っていたのだが、結構距離がある。道幅が狭くて車に気を遣うのと、下りから平坦になって推進力が弱まったためかもしれない。郵便局に寄って財布の中身を補充する。ここから先、午後は電車と飛行機に乗り継ぐ。歩くばかりでないのでおカネがかかるのだ。

ようやく国分寺が見えてきた。午前10時ちょうどに到着、下りの6.1kmに2時間かかった。



復興記念碑前から、車道と分かれて登山道に入る。



仙遊寺からの下り坂は、登り以上にハードだ。しばらく登山道が続き、突然村里に出る。



麓まで下りて仙遊寺を振り返る。右の山が佐礼山で、頂上近くに小さく仙遊寺が見えている。

金光山国分寺(こんこうさん・こくぶんじ)。聖武天皇によって各国に置かれた国分寺の一つである。伊予の国府と国分寺はここに置かれたので、古代は松山ではなく今治が政治経済の中心であったことが分かる。しかし、藤原純友の乱に始まり戦国時代までの度重なる戦乱により荒廃し、「今は茅葺きの小さな堂となっている。衰えぶりに心が痛む」と霊場記に書かれている。

今治の札所はお寺のある山をそのまま山号としているところが多いが、ここ国分寺は周囲が平地である。江戸時代にはすでに金光山という山号であったと霊場記にあるので、もちろん金光教より古い。ご本尊である薬師如来の瑠璃光浄土から名付けたものだろうか。

石段を数段登って本堂エリアに達する。それほど大きな境内ではないのは、かつて荒廃していたものを近年になって再興したからと思われる。本堂と大師堂が棟続きになっており、建物自体それほど古いものではない。天平時代の国分寺は現在より150mほど東にあり、高さ70mの七重塔があったとされる。現存していればもちろん国宝級である。

考えてみれば、札所は寺であるから塔があって不思議ではないのに(塔はもともとお釈迦様のお骨を納めたもので、本来の寺は金堂・塔・回廊がセットである)、これまで回った中では五台山とか石手寺くらいで、他は多宝塔か石積みの十三重塔があるくらいで、意外と少ない。真言密教ではあまり重視されないのかもしれない。

そして、国分寺の創立は弘法大師が生まれるよりずっと昔なのだが、境内入ってすぐの場所に弘法大師の石像がある。「握手弘法大師」と書いてある。握手してくださいという意味なのか、右手を差出し握手の形をしている。もちろん、現代に作られたものであろう。海外からの参拝客を意識しているのだろうか。

このあたりの地名は国分というので、かつて周辺一帯は国分寺の敷地だったのだろう。少なくとも、国分寺を中心に開かれた土地であったことは間違いない。そして、このあたりの律令時代の郡名は越智郡である。越智氏・河野氏の越智である。この周辺から越智氏が勢力を広げ、伊予が開かれたのはここからである可能性は高いのである。

奈良時代に国家仏教が隆盛し、全国統一したばかりの大和朝廷の後ろ盾のもと、全国に国分寺が開かれた。しかし、律令国家から藤原摂関政治に移る過程で国家財政は破綻し、国分寺の多くは衰退した。越智氏の勢力も同時に衰え、それが上向くのは源氏の世になってからである。

八十八ヶ所の原型が整ったのは鎌倉末から室町期と考えられるが、それからすぐに戦国時代となり、札所の多くは兵火に焼かれることとなった。それらが復興したのは江戸時代になってからであり、札所のいくつかは日本中にある本山・末寺よりもさらに新しく整備されたものである。

そう考えると、伊予国分寺がかつて広大な寺領を有し栄えた山であったことを示すのは、現代まで残っている地名だけといえなくもない。少なくとも握手大師は、その発想を非難するものではないが、霊場にふさわしいものとはいいにくい。

現在はたいへんコンパクトになった国分寺の境内で、リュックを下ろしベンチに腰かけて、ゆっくりしながら今後の方針を再検討する。帰りのエアの時間を考えると、14時30分壬生川(にゅうがわ)発の特急で松山に向かうことが望ましい。計画では、番外霊場の世田薬師、臼井御来迎、日切大師といった旧跡を経由して壬生川に向かうことを考えていたが、残り時間はあと4時間しかない。

遍路地図にはJR壬生川駅までの経路が載っていないのだが、壬生川には出張で何度か来ていて、土地勘はある。直行すれば大体12km、寄り道して2~3kmプラスといったあたりかと思われた。お昼を食べる時間も考えると、あまり余裕がない。

幸い、この日も風がなく穏やかな日で、前日までと違い雲が広がっているのでそれほど暑くはない。寄り道するかどうかは後から考えるとして、ひとまず壬生川近くまで行こうと腰を上げる。なぜか足が進まないのは下りから平地になったからだと思っていたが、後から考えると「朝粥」の影響でHPが不足していたのであった。

[行 程]仙遊寺 8:10 →(6.2km) 10:00 国分寺 10:30 →

[Mar 23, 2019]



国分寺の本堂(左)と大師堂(右)は棟続きになっている。



現在の国分寺は高台にあり、このあたりの地名・国分からすると周囲一帯はすべて国分寺の境内であったと思われる。後姿の握手大師。

壬生川 [Mar 15, 2018]

国分寺を出て、左に向かう。しばらくは街道沿いに点々と田畑と人家が続く風景で、やがて住宅街に入る。JRの駅でいうと伊予桜井が近いようで、そう案内看板に書いてある。

このあたりは国道196号から離れた道なので、道幅が狭く一車線しかないところが多い。桜井小学校の横を抜ける。「あいさつでみんなに元気パワーアップ」の標語が掲げられている横を、車がスピードを落とさずに通り抜けて行く。お遍路はともかく、学校の近くなので気を使っていただきたいところだ。

倉庫や事務所が多くなると、国道との合流が近い。片側一車線で歩道もある道路に出たので安心して歩くことができるが、まっすぐ伸びた道は距離が長く感じる。このあたりではパワーが足りないなあと感じていた。国分寺を出たのが10時半、もう11時を過ぎている。

朝粥は大きな汁椀に一杯いただいたので、その場では満腹しておかわりする必要は感じなかった。しかしこの状況をみると、いろいろなWEBで仙遊寺の次の日はガス欠に注意せよと書いてあるにもかかわらず、どうやら軽視しすぎたようである。遍路宿の朝食はたいていボリュームたっぷりなのは、伊達ではないのであった。

国道に合流して歩道を歩くのだが、車がすぐ横を通らなくなったのになかなか足が進まない。高速まで1kmか2kmの距離を歩くのに四苦八苦し、残り数百mの道の駅に全然着かない。ようやく高速道の分岐を過ぎ、道の駅・今治湯ノ浦が見えた時にはほっとした。

疲れていたせいか、ここで大きなミスをしてしまう。食券販売機を見て、「海の丼1000円」とあり、海鮮丼だと早合点してこれを選ぶ。厨房に食券を出し、トイレに行って帰ってくるまでの2、3分でもうできていた。早く食べられて何よりと思いつつ、一抹の不安が浮かぶ。トレイを持って席に着き、丼のフタを開けて愕然とした。

なんと、ご飯にアジの刺身が5切れほど乗った上に、生卵をかけているのである。早いはずである。前にも書いたことがあるが、私は生卵は食べられない。山小屋などで出ると、わざわざ返しに行くくらいである。どうしよう。ただでさえエネルギーが不足している時にこれでは。

子供用に小分けする小皿とスプーンがあったので、生卵をどけようとするが、こういう時に限ってうまくいかず、黄身がつぶれてしまう。白身はご飯にしみてしまって一体化している。泣きそうになった。アジの刺身にわさびと醤油をたっぷりかけて、生卵のない部分のご飯を食べる。おまけに貝の味噌汁はたいへん不味い。

半分というよりも3分の2以上残して返す。ソフトクリームは食堂でやっておらず売店まで行けと言われる。ミックスソフトを頼んで出て来るまでの間に、「大三島レモンソースのソフトクリーム」というたいへん魅力的なものがあるのを見つけ、こっちにするんだったと肩を落とす。どうやらこの道の駅は私とは相性がたいへん悪いようである。

とはいえ、半分以上残した海の丼とソフトクリームで補給した後は、相当に足が軽くなったのには自分でもびっくりした。どうやら、朝粥の影響は想像以上に大きかったようである。海の駅を出てからすぐ国道沿いに定食屋があり、そのすぐ先を折れるとうどん屋さんもあったようなので、あせって道の駅にする必要はなかったのであった。



国分寺を過ぎ伊予桜井へ。もうすぐ国道197号に合流する。近くに学校もあるので車はあんまり飛ばさないでほしい。



道の駅今治湯ノ浦。ここでのメニュー選択に大失敗。

道の駅を出ると、200mくらい前に親子連れのようなお遍路さんの姿が見えた。前日の仙遊寺でも親子連れがいたけれども、そちらは息子さんが社会人なので見た目では親子とは分からなかった。

この日に前を進んでいた親子連れは背丈が大分違う。信号待ちで距離が詰まってくるのだが、私と歩くペースが似ているらしくずっと等間隔で前を歩いている。気になって歩きづらい。

壬生川までの最短距離はこのまま国道196号を進むコースなのだが、このままあと1時間以上も前を歩かれるのは嫌である。遍路地図によるともうすぐ世田薬師との分岐がある。親子が国道をそのまま進んだら世田薬師へ、逆の場合はその逆にしようと決めた。分岐で、親子は国道をそのまま進んだので、世田薬師方向に右折した。

世田薬師への道は坂道を登り山の中に入って行くので、ここはもしや車道で遍路道は別にあるのかと思って一度引き返したが、よく見ると電柱に遍路シールが貼られておりここで合っているようである。再度行先変更して坂道を登って行く。

道の駅を出たのが正午前、壬生川発の特急が2時半。遍路地図には壬生川までの距離が載っていないが、おそらく8kmくらいと思われた。その8kmの中に坂道が含まれていると余計に時間がかかる。国道を進んだ方が正解だったかとちょっとあせる。

なんとか登りをクリアして、世田薬師から下り坂となった。12時30分に世田薬師通過。お城のような石垣と白壁の向こうにお堂が見え、色とりどりの幟が立てられている。時間的にお参りするのは難しくなったので、一礼して通り過ぎる。

ここから伊予三芳にかけての下り坂は景色がよかった。今治への途中にあった鎌大師からの下りによく似ていたが、鎌大師の方は急坂で足下に気を使わなければならなかったのに対し、こちらはなだらかな坂で景色を楽しみながら歩くことができた。

この先、三芳から壬生川、伊予小松にかけての一帯は標高が低いデルタ地帯で、かつては水害も多かった。「四国辺路日記」では、この地にあった一ノ宮(六十二番札所)について、「道より一町バカリ田ノ中ニ立玉ヘリ。地形余リヒキクシテ洪水ノ時悪鋪」と書いているが、現在ではもちろん治水が行き届いている。

田植え前の水田とビニールハウスの混在した田園地帯を進む。いよいよ壬生川に近づくまで、このあたりはまだ農地がほとんどである。今回の区切り打ちの最後に穏やかな場所を歩くことができたのは、親子連れが国道を行ってくれたおかげである。

2kmほど進んで住宅地に出た。まっすぐに区画整理された道の両側に、新しい住宅が並んでいる。その中で右手に、「臼井御来迎納経所 道安寺」と大きな札の掲げられたお寺が建っていた。弘法大師ゆかりの旧跡である。特急の時間が気になって、残念ながら臼井御来迎がどこにあるか分からなかった。

伊予三芳駅付近で遍路道は右に分かれ、次の札所である横峰寺に向かう。ここからJR壬生川駅までは遍路道ではないので、道案内なしである。少し不安だったが、すぐに距離表示が現れた。伊予三芳駅が1km、壬生川駅が5kmである。時刻は午後1時、ずいぶん急いで旧跡も素通りした甲斐あって、2時半の特急には間に合いそうである。

世田薬師からの坂道を下りて行く。景色はたいへんいい。



世田薬師からの坂道を下りて行く。景色はたいへんいい。



坂道を下り切って田園地帯を行く。国道を歩いたのでは、こういう雰囲気は味わえない。

平地の5kmで1時間半あれば、ほぼ安全圏である。あとは道間違いをしなければ大丈夫。伊予三芳駅のあたりは商店が立ち並びかつては賑わっていたと思われるが、いまではあまりひと通りがない。

駅を過ぎると再び田園地帯となる。しかし道路が新しく作られていて、遍路地図とは微妙に違う。方向を間違えないように進む。残り2km、拡張された太い道路沿いにファミリーマートを見つけたが、駅に着くまで何があるか分からないので寄らずに先に進む。

そして、実際に進んでみると、地名が壬生川になり線路を渡っても、そこに壬生川駅はない。踏切で線路を見ると近くに駅らしきものが見えないので覚悟はしていたものの、少しヒヤヒヤした。記憶では、線路に並行して進めば着くはずだ。

とはいっても、商店街が続くばかりでちっとも駅前にはならない。地名表示は「壬生川」から「三津屋」になってしまった。バス停をみると壬生川駅行になっているので行き過ぎていない。午後2時を過ぎた。向こうに見える信号がおそらく駅前通りだろうと自らを励ましながら歩くと、果たしてそうだった。

14時05分壬生川駅着。まだ20分ちょっとの余裕がある。駅のキオスクが閉店してなくなっていたが、隣のパン屋さんにイートインコーナーがある。不足していたお昼のエネルギーを補充するため、菓子パンを買って食べる。ようやく落ち着いた。

14時31分発特急しおかぜ11号は、平日の午後という時間帯にもかかわらず3~4割は席が埋まっていた。にぎやかな学生グループの声を聞きながら40分走り、松山には15時17分に着いた。

飛行機まで時間があるので、駅前の「キスケの湯」に向かう。ゲームセンターの中にあるのでどんなものかなと思ったが、650円払って入ってみるとたくさんの湯船がある本格的な日帰り入浴施設であった。この日も半日だけとはいえよく歩いたので、ゆっくりと足をもみほぐす。

この日の歩数は39,973歩、GPSによる移動距離は20.2km。距離だけからすると今治市内だけ歩いた前日より長い。この日までで終了した第8次区切り打ちの合計では、4日間で87.0km歩いた。

お風呂の後は生ビールを飲み、リムジンバスで空港に着いてさらに生ビールを飲む。空港レストランでいただいたステーキ重は、この回はじめてのお肉であった。カップヌードルですませたり宿坊で精進料理を食べたり、脂っ気が少ない4日間であった。

松山からのジェットスターは満席、スカイアクセスも第1ターミナルから乗ってきた中国人客ですでに満席だった。それでも、15分立っていると千葉ニュータウンである。帰りは成田空港に限る。

[行 程]国分寺 10:30 →(4.8km) 11:35 道の駅今治湯ノ浦(昼食) 11:55 →(9.2km) 14:05 JR壬生川

[Apr 13, 2019]



午後1時で壬生川駅まで5km。ほぼ大丈夫な距離になってきた。



午後2時過ぎにJR丹生川駅に到着。ここは特急停車駅なので、次回スタートしやすい。

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