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六十一番香園寺 [Oct 10, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。


注.2018年の台風被害により、横峰寺への遍路道が通行止となりました。そのため、六十一番から六十三番をお参りした後、平野林道経由で六十番横峰寺をお参りしています。

第9回目のお遍路区切り打ちは、出発直前になって急きょ予定変更となった。1週間前に来襲した台風24号により、横峰寺への遍路道が通行止になったのである。霊場会HPに次の告知が掲載されたので気がついた。

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59番国分寺より60番横峰寺への歩き遍路道が台風24号の被害で通行不能になっております。徒歩巡拝の方は無理をなさらず、車道への迂回をお願い申し上げます。
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わざわざ問い合わせるのもどうかと思ったけれど、横峰寺に電話して聞いてみた。お寺の方が言うことには、山道は土砂崩れで通行できない、車道でしか登って来れないとのことであった。

「車道ということは、六十三番まで回って、平野林道を歩いて上がるということでしょうか。」
「そうですね。その他の道は、通れなくなっています。」

横峰寺までの登山道はいくつかあり、どれか使えるだろうと思ったのだが、登山道はすべて無理のようである。実際に登ってみて、歩けるようであれば下りで別のルートをとるとしても、少なくとも登りについては、車道で行くことになる。

直前までの計画では、前回の終着点である壬生川駅まで特急に乗った後、別格霊場の西山興隆寺・生木地蔵と歩いて、翌日横峰寺に登り香園寺に下りてくる予定であった。そのため、宿泊も生木地蔵と横峰登山口の途中にある「小町温泉しこくや」を予約したのである。

ところが、この道が通れないとなると、抜本的な計画変更を余儀なくされる。直前なのでホテルの変更は難しいが、ルートは変えなければならない。残念ながら別格霊場二つをまたの機会として、壬生川から六十三番まで先にお参りし、林道経由で翌日横峰寺というのが唯一可能な方法のように思われた。

2018年10月10日、朝一番の羽田発で松山空港に着いた。松山は四国4県の中で唯一、市街地からすぐに空港である。リムジンバスもJR松山駅に着いてから伊予鉄松山市駅に向かうので、20分そこそこでJR松山駅まで到着する。この日もスムーズに動いて、予定したよりも1本早い各駅停車に乗ることができた。

特急と到着時間はほとんど変わらないが、料金が安く済むのと、前回歩いた経路をゆっくり確認しながら進むのがいい。伊予和気は今治への長距離をスタートした駅だし、伊予北条にかけて瀬戸内海を望む景色は、ちょうど前回歩いたところである。お昼を食べた海賊うどんも見えた。

菊間あたりの石油コンビナートもなつかしい景色だし、瓦屋さんが続く一画はあっという間に通り過ぎてしまった。大西を過ぎると遍路道と分かれ海沿いを進み、ほどなく今治、今治を過ぎるとすぐに壬生川である。

壬生川に着いたのは11時過ぎ。ここで特急との接続となり、各駅停車は特急の出発待ちとなる。お昼にしようと、前回もお世話になった駅前のパン屋さんでカツサンドとあんドーナツを買う。歩きながら食べるつもりである。



今回のスタート地点、JR壬生川駅。平屋の緑屋根が駅舎で、右の白いビルが行政施設。乗ってきた各駅停車は特急が発車してもまだ止まっている。



跨線橋の上から、これから向かう横峰方面を望む。この時点で雨は降っていなかったが、雲でほとんど山並みを見ることはできない。



小松の街が近づき、うっすらと横峰前衛の山々が見えてきた。この後雨になり、翌日の横峰寺はきびしい登りとなった。

さて、この日出発するにあたり、たいへん気がかりだったのは、体調がすぐれないということであった。

お遍路歩きの準備として、8日前に伊豆ヶ岳で山歩きをし、4日前には近所を15kmほど歩いたのだが、この時たいへんに暑くて、家に帰る頃にはへとへとになってしまったのである。

まあ、遠い四国でへとへとになるくらいなら近所でなった方がましなのだけれど、疲れは足腰よりも体調に来てしまい、どうにも調子がよくなかった。とはいえ、宿やエアを予約してあるから日程を動かす訳にはいかず、この日も、松山までの道中ずっと目をつぶって体力回復を図っていた。

壬生川のパン屋さんで入手したカツサンドとあんドーナツを食べても、なかなか頭がすっきりしてこない。ホームセンターの前で県道を左折し、小松市街方向に向きを変える。すっきりしない頭と同様、行く手の山々は雲に覆われてよく見えない。

それでもがまんして1km2kmと歩いている間に、頭より先に足がペースを思い出してくれた。大きな川を一つ渡ってミニストップでソフトクリームを買う。ようやく頭の方もピントが合ってきた。

小松の街が近づくと、横峰方向がぼんやり浮かび上がってくる。山の中腹に建物が見えるあたりが香園寺だろうか(建物は小松高校で香園寺はその前あたりになる)。左にショートカットできそうな道が見えるけれども、様子が分からないので安全策で県道を直進する。体調が今一つの時は、リスクを最小限にした方がいい。

国道11号にぶつかって左折すると、そこからは案内板があるので安心である。スーパーのある角を案内にしたがって右に入り、ほどなく六十二番納経所が見えてきた。その横に六十一番の山門があり、心配していた登り坂がなかったのはありがたかった。

栴檀山香園寺(せんだんさん・こうおんじ)、古くは「香苑寺」と書いたようで、霊場記にはその名前が使われている。弘法大師がこのあたりを通りかかると栴檀の芳香がしたので寺を建てたという伝説がある。

たびたび引き合いに出す五来重氏によると、香園寺は「とめてとまらぬ白瀧の水」とご詠歌に謳われている白滝の霊場があって、もともとそこにお参りする施設として開かれたという。白滝の霊場は香園寺の奥ノ院であり、横峰寺から下りてくる経路にあるので今回はお参りすることができなかった。

山門の向こうから本堂が見えてきた。昭和50年代に本堂を大改装し、八十八ヶ所では大変珍しい鉄筋コンクリートの巨大な本堂である。本堂には右側の階段から2階に入り、スリッパに履き替えてご本尊のいらっしゃるステージ前に進む。後ろには備え付けの客席があり、コンサートでもできそうである。

ご本尊は大日如来。今回はじめてのお経を上げさせていただく。このホールは大師堂を兼ねていて、向かって右奥にお大師様がいらっしゃる。そちらにもお伺いして読経。私のいた時には4、5人の参拝者がいるだけで静かだったが、バス遍路でも来て大声で唱和されたら、ずいぶんにぎやかなことになりそうだ。納経所へはいったんホールを出て、山門の方に戻る。

霊場記挿絵をみると境内にはほとんど建物がなく、説明には周囲は田畑であると書かれている。そういう状況から今日の大きな施設に成長させたのだから、香園寺代々のご住職には経営手腕があったということであろう。

この香園寺はあの種田山頭火が頼りにしていたお寺さんでもあり、当時から経済的には余裕があったことを窺わせる。札所であるだけでなく「子安大師」が有名で、ご本尊お姿のほかに子安大師のお姿もいただける。各地から、子育て祈願のお参りが多いようである。

[行 程]JR壬生川駅 11:15 →(6.2km)12:50 香園寺 13:25

[Apr 27, 2019]



国道11号から案内表示にしたがって右に折れると、ほどなく香園寺の山門が見えてくる。すぐ横には六十二番礼拝所がある。



木立ちの向こうから迫る巨大なホール(大聖堂)。納経所はこのホールの前、この写真では左側になる。



香園寺大聖堂。本堂と大師堂を兼ねる。ホール右側の階段を上がって2階から、スリッパに履き替えてお参りする。ホールの中には備え付けの客席があり、まるでステージのようだ。

六十二番一ノ宮 [Oct 10, 2018]

六十二番を書くにあたって最初にお断りしておきたいことがある。それは、以下の文章は伝聞情報のみではなく、実際に嫌な思いをした上で書いたということである。

その上で確信を持って書くのだが、他に手段がないのならともかく、関係する方々が手を尽くして代替手段を用意してくださったのだから、ありがたくそれを使わせていただくのがベターであり、現時点において最善の手段であると思う。

その場限りの一見である私ですらたいへん不愉快な思いをするのだから、関係する近隣社寺の方々、霊場会の方々が、長年にわたり私の数百倍数千倍も嫌な思いをされていたことに疑問の余地はない。もちろん、お大師様への信仰が篤ければそんなことをするはずもない。

実際にどういうことがあったかを書くことは、たいへん不愉快であるだけでなく、読む人にとっても何の利益にもならないだろう。また、「悪名は無名に勝る」と考える人もいる訳だから、静かにスルーすべきだろうと思う。

ひとつだけ言えば、本堂への視界をふさぐバリケードのような柵も、信仰の場にそぐわないプレハブの料金収納所も実際に見た。それでも、一枚の写真もないのは、そういうことと推測いただければと思う。

追記(2019/12/20) 霊場会HPによると、宝寿寺は2019年12月から霊場会に加盟し、香園寺前にあった礼拝所は撤去された模様。詳しいことは分からないが、最近の写真によるとバリケードも見張りプレハブもなくなっている。

裁判を起こしたりする厄介な連中だし、私も実際に不愉快な思いをしたのでいなくなったとしたらめでたいが、現段階では何とも言えない。いずれ、詳しい事情が漏れてくるまでノーコメントとしておく。


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もともと六十二番札所は一ノ宮であった。ところが古くから伊予一ノ宮は三嶋宮大山祇神社とされており、すでに南光坊が五十五番札所となっているのに、なぜここに再び登場するのか、「四国遍礼霊場記」でも疑問を呈している。

意外と詳しいのは澄禅の「四国辺路日記」の記事である。そこには、「一ノ宮は一町ほど田の中に入った場所にある。低い土地にあってたびたび洪水があるので南の山にお移ししようとしたのだが、いまの土地がいいというお告げがあってそのままにしている」と書かれている。

「辺路日記」の1653年と「道指南」の1692年の間に、一ノ宮は現在の位置に移された。いま、三嶋神社のあるあたりの地名を「新宮」というのはその名残りであろう。末社かもしれないが伊予一ノ宮の三嶋神社であり、他に候補となる神社も見当たらないことから、かつて札所であったのは現在の三嶋神社で間違いなかろうと思う。

遍路日記に「南の山」という表現があるが、壬生川方向から歩いて小松に向かうと、香園寺のあるあたりはこんもりと緑が茂って山のように見える。山の中腹にある大きな建物は小松高校で、その手前に三嶋神社がある。香園寺から下りてくると、三嶋神社のある山の裏手に出る。

この山はもともと古墳だったようで、香園寺側には石碑が建っている。「お移ししようとしたのだが、いまの土地がいいというお告げがあった」のは、あるいはそういう配慮があったのかもしれない。四国のこのあたりの古墳ということになると、河野氏と無縁ではないからである。

神社の登り口は香園寺からは山の反対側になり、森に沿って山を半周する。国道11号沿いに、コンクリート製の大きな鳥居が屹立している。大三島に本社があり、今治に別宮があるにもかかわらず一ノ宮とされているのだから霊験あらたかだったものと思われるが、今日でも多くの崇敬を集めていることがうかがえる。



中山川を渡ったあたりから見た小松方向。左の高台に見える建物が小松高校で、その前あたりに三嶋神社がある。



三嶋神社はこの周辺でたいへん大きな神社である。神社全体が丘の上にあるのは、もともと古墳であるからだ。



本殿へは、大鳥居を抜けて石段を登って行く。鳥居や石柱は比較的新しいが、ところどころに古い時代の石碑や灯籠がみられる。

大鳥居をくぐり、石段を登って行く。灯籠や石柱、足下の石はそれほど古いものではなさそうだが、削れて読めなくなっている碑文や黒ずんでいる狛犬を見ると、200年より新しいということはあるまいと思う。

境内は山(古墳)の上にあるにもかかわらず、見た目よりも奥行きがあって広い。阿波一ノ宮や土佐一ノ宮と比べても見劣りしない広さである。本殿の間口はそれほど広くないが、巨大な注連縄が周囲の空気を圧している。

「霊場記」で、「推して一乃宮と号す。いつれの神といふ事を知らず」(一ノ宮と称してはいるが、どなたを祀っているのか分からない)とひどくそっけない表現となっているのが不思議なくらい、立派なお社である。二礼二柏手一礼でお参りする。

霊場記で疑問を呈するとおり、各国一つずつ札所となっている一ノ宮がなぜこの場所なのかはよく分からない。けれども、阿波一ノ宮も本来であれば式内大社である大麻比古神社であるのに、焼山寺の次に一ノ宮がある。三嶋神社を勧請したこの神社が石槌山麓にあることもあって古くから崇敬を集め、八十八に含まれることとなったのであろう。

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さて、六十二番札所については、現在、霊場会が香園寺山門近くに礼拝所を置き、ここで納経を受け付けている。併せて、前後いくつかの札所には、礼拝所で納経を受け付けるので、六十一番香園寺→六十二番礼拝所→六十三番吉祥寺とお参りするよう案内板で注意喚起を行っている。

正直なところ、そこまでする必要があるのだろうかとこの時点までは思っていた。あえてそこまでやらなくても、お遍路それぞれが自ら判断して妥当と思われる方をお参りすればいいと考えたのである。

これは私自身の認識の甘かったところで、現在は、「尋常ではない手段であるが、そうされるだけのことをしているのだからやむを得ない」と思っている。実際、六十二番礼拝所ではご詠歌さえ新しいものを用意しているが、おそらくこれは訴訟対策である。

そもそも、六十二番札所は一ノ宮であって、神仏分離で寺に移ったといってもたかだか150年のこと、四国遍路の長い歴史に比べればまだまだ短いのである。

そして、札所はもともと修験道以来の霊場であり、少なくとも弘法大師の霊蹟である以上お大師様の教えを尊重するものでなければならない。そうでない場所でご朱印をいただいたところで、スタンプカードと同じことである。

おそらくこの問題は、私が生きている間に解決するかどうか微妙なところだと思う。土佐一ノ宮の善楽寺・安楽寺だって、解決までには四十年の月日が必要だった。問題は根深いようだし、関係者は私より若いようなので、一朝一夕で和解・解決とはいきそうにない。

2019年現在の状況でいえば、もともと札所であったと考えられる三嶋神社をお参りし、歩いてすぐの場所にある六十二番礼拝所で納経するのがベストだと思う。

[行 程]香園寺 13:25 →(0.4km)13:35 三嶋神社 13:45 →

[May 11, 2019]



石段を登って本殿を望む。ここなら少々の水が出ても安心である。境内の石柱等をみると江戸時代の年代があり、よく調べれば遷宮の経緯を示すものもあるかもしれない。



三嶋神社本殿。太い注連縄のある立派な建物だが、お正月とか七五三ではないので無人のようであった。



霊場会六十二番札所は、一ノ宮の裏手、香園寺山門近くにあり、ここから六十三番吉祥寺に向かうことが推奨されている。尋常ではないと思ったが、そうされるだけのことはあると痛感した。

六十三番吉祥寺 [Oct 10, 2018]

この日三つ目の札所となる吉祥寺(きちじょうじ)に向かう。「遍路地図」には「きっしょうじ」と表記されているが、霊場会HPの表記も山門前の振り仮名も「きちじょうじ」である。われわれ首都圏の人間からすると、三鷹の先の吉祥寺と同音の方がなじみ深いが、タクシーの運転手さんも「きっしょうじ」と言っていたから、何か由来があるのかもしれない。

香園寺、一ノ宮と同じく小松の市街地にある。次の六十四番前神寺も3kmほどしか離れていない。半径3km以内に札所が4つも集中するというのは、県庁所在地を除くと観音寺とここ小松くらい。小松の場合は、聖地石鎚山と関係が深いからであろう。

一ノ宮から吉祥寺まで国道11号線を歩く。片側一車線の両側に狭い歩道があり、古い商店街が続いている。いくつかの店は閉店しているようだ。壬生川駅近くは県道なのに片側2車線で歩道も広く、大きなロードサイド店が続いていたのとは対照的である。

小松は江戸時代に小松藩が置かれていたが、1万石の小藩だったため城はなく、陣屋で政務が行われていた。一方で川を隔てた壬生川は十五万石・松山藩で、港湾が発達し物資の集積・中継点として栄えた。そうした背景から、経済力の違いが今日まで影響しているのかもしれない。

暗かった空から、とうとう雨が降り出した。ぽつぽつという小雨だったので、折り畳み傘は温存しモンベルのフィールドアンブレロにビニルカバーを付けて傘の代わりにする。

このモンベル社の新兵器は今回新調した笠タイプの帽子で、折りたためてかさばらない上に天然素材で見た目は遍路笠のようでである。例によって「いっぽ一歩堂」で購入したのだが、少々の雨ならこれだけで足りるし、強い日差しを遮ることができる。なかなかの優れものである。

五来重氏の考察によると、横峰から前神に至る札所はいずれも石鎚山への経路にあたり、石鎚山をご神体と崇める修験者達の修業の場だったという。なるほど、いまであればロープウェイで成就社に登るか石鎚スカイラインで土小屋に行くのがスタンダードだが、足だけが頼りならこのあたりから登る以外に方法はない。

吉祥寺も、「昔は今の地より東南にあたり十五町許をさりて山中にあり」と霊場記に書かれているように、石鎚ロープウェイに至る途中にあった。多くの堂宇を有する大寺院だったとされるが、毛利と長宗我部の戦いで火を掛けられ全山焼亡した。江戸時代初めの霊場記挿絵では、本堂と大師堂しか描かれていない。今日でもほぼ同じである。

密教山吉祥寺(みっきょうさん・きちじょうじ)。吉祥寺という寺号ではあるが、吉祥天は脇侍であり、本尊は毘沙門天。弘法大師御製と伝えられるが、天部のご本尊というのはたいへん珍しく、八十八ヶ所ではここしかない。 毘沙門天を重視するのは修験道である。だから境内に毘沙門天をお祀りしているお寺は少なくないが、ご本尊となるとまた別格である。石鎚修験の色合いが色濃く残った霊場といえるだろう。

国道沿いの入口は通用口でトラロープが張ってあり、「正門からお入りください」と書いてある。細い路地を用水路沿いに20mほど入ると山門である。新しい表札には寺号とともに、「本尊 四国唯一体毘沙門天王」と書かれている。

変わっていたのは、石灯籠は分かるのだが、灯籠とともにそれほど古いものではないが左右一対の象が置かれていたことである。狛犬ならぬ狛象である。徳島の鶴林寺に狛鶴がいたけれども、狛象は初めて見た。寺に置かれているのはたいへん珍しい。

象といえば聖天である。調べたところ、聖天の守護神が毘沙門天ということである。この後、石鎚山前衛の山々を回る途中で、象とか歓喜天(聖天)の絵をいくつか見た。あるいは石鎚信仰と聖天には関係があるのかもしれない。

本堂は間口が広く、たいへん立派である。戸が閉ざされていて、ご本尊の毘沙門天像を見ることはできなかった。大師堂は本堂のはす向かい、やや小ぶりで、国道沿いの通用門近くにある。



吉祥寺は八十八ヶ所で唯一毘沙門天をご本尊とする。門前には象がお出迎え。



吉祥寺本堂。境内はそれほど広くないが、間口が広くたいへん立派な本堂である。



本堂よりやや小ぶりな大師堂。右に見える屋根は本堂で、回廊でつながっている。この左に通用門があり、背後は国道11号線。

お参りを終えて納経印をいただくと午後3時過ぎであった。この日の宿である小町温泉しこくやへ行くには2km先の小松総合支所からバスだが、この時間だと間に合わずその次は2時間先である。

仕方なく、遍路地図に書いてあったタクシー会社に電話すると、5分も経たないで通用門のところに車が来た。トラロープをまたいで境内から出て、乗せていただく。

「ちょうどお遍路さんを石鎚山の駅まで乗せたところだったんで、すぐに来れました」

石鎚山駅は吉祥寺のある伊予氷見のひとつ先の駅で、国道11号を3kmほどである。すごいタイミングだ。

話を聞くと、前のお客さんは高知県の女性で、私と同様に区切り打ちで歩き遍路をしていて、前神寺までお参りしたらしい。四国だから首都圏の私より近いとはいえ、高知まで帰るとなるとけっこう時間がかかりますね、などと話をした。

国道11号線を小松に戻って、宿まではさらに先。料金は2,000円ちょっとかかった。小松周辺は宿泊施設の少ない地域である。かつて私が出張で来た時は壬生川のホテルを利用したが、それでも駅から7~8分歩かなければならなかった。

それも、全国規模ではなく地元資本の小さなビジネスホテルである。何かイベントがあるとすぐ満室になるし、他の選択肢も少ない。食事をとれる場所も遠いし、コンビニも近くにない。何かと不便だったのである。

そういえば、田川さんと蛭子の路線バスの旅でも、この周辺で泊まった時に、使っていない空き家のような所に案内されて、ビジネスホテル好きの蛭子が目を白黒させていた。

そんな具合で、ホテルをみつけるのはなかなか厳しい地域なのだが、今回は横峰寺登山道に近い「小町温泉しこくや」を選んだ。予約した時点では、翌日ここから横峰を目指すはずだったのである。

敷地内には食堂・土産物店と温泉施設、宿泊施設がコングロマリットになっていて、部屋は昔のビジネスホテルのようだ。フロントの奥が浴室で、銭湯風である。泉質は食塩泉・重曹泉で、低温で湧出した鉱泉を沸かしている。湯船は広く、内湯・露天・サウナ・水風呂とひととおり揃っている。

まだ初日だが、翌日以降のこともあるので洗濯はきちんとしなければならない。洗濯機が300円と高かったが、乾燥機は業務用なので100円で十分乾いた。この日家から着てきた登山用のシャツとスラックスを洗ってリュックにしまう。翌日からは速乾白衣の登場である。

食事は棟続きの売店・レストランでとる。夕飯にはお刺身と松茸のホイル焼き、朝食には鯛のお刺身をごはんに乗せて熱い出汁を注ぐ鯛茶漬が出た。これで1泊2食6,800円は、かなりのお値打ちである。

売店には多くのお土産品があったが、極早生のみかんが袋一杯入って300円、無地の今治タオルがやはり1枚300円だったのが目についたので、それぞれ1つずつ600円。この日は朝早かったので、みかんをいくつかつまんで午後7時半には明かりを消した。

この日の歩数は20,769歩、GPSで測定した移動距離は9.9kmでした。

[行 程]三嶋神社 13:45 →(3.3km)14:45 吉祥寺 15:05 → [タクシー]小町温泉しこくや(泊)

[May 25, 2019]



小町温泉しこくや。計画では、ここから横峰寺登山道を歩くつもりだったが、登山道が土砂崩れにより予定変更を余儀なくされた。



この日の夕飯には、松茸のホイル焼きやさざえのお刺身が付いた。これで1泊2食6800円はお値打ち。

六十番横峰寺 [Oct 11, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。


2018年10月11日、夜中から雨粒が屋根に当たる音がしていたので、雨の歩きになることは覚悟していた。午前6時半からの朝食は鯛茶漬、鯛のお刺身をご飯に乗せて熱い出汁をかける。この食事に温泉がついて、1泊2食6,800円はたいへんコストパフォーマンスのいい宿であった。

7時38分小松支所行のバスに合わせて宿を出発する。上下レインウェア、リュックカバー装備の完全雨仕様である。バス停は宿のすぐ前にあり、雨宿りできる場所がなかったので向かいの自販機コーナーでバスを待つ。自販機をみると、リポビタンDがある。前回のお遍路から、見つけたら飲むようにしているリポビタンDだ。ひと息で飲んで英気を養う。

バスは少し遅れて来た。「いつものバスが故障で整理券が出せません」ということだが、乗客は2人だけなので特に問題はない。前日は吉祥寺まで進出したが、バスは途中の小松総合支所までしかなく、2kmほどダブることになるが仕方がない。10分ほど走って終点となった。290円払って下りる。

バスターミナルは前日歩いていて分からなかったが、総合支所の向かい、コンビニの駐車場と見えたあたりにあった。雨は本降りで、午後から降水確率が低くなる予報だけれど、空を見るとやみそうにない。モンベル笠にプラスして、折り畳み傘を差して午前8時ちょうどに出発する。

国道沿いは車がしぶきを上げて嫌なので、1本入って側道を進む。細い道が左から右から合流してきて方向がよく分からないが、「小松ハイウェイオアシス」に向かう車道が交差しているようだ。前日「しこくや」さんで聞いたところによると、ハイウェイオアシスの脇を通る道もあるのだが、土砂くずれしている上にこの雨ではさらに危険である。

側道を進んでいたらT字路に突き当たってしまったので、安全策をとって国道方向に戻る。方角としては反対方向なのだが、道が細いので抜けられるかどうか分からない。油断していると方向違いになってしまう。

直角に交差する太い道路に出た。この道を右に進めば、横峰寺に向かうはずだ。しばらくすると、郵便局の前に出た。道は合っている。大分濡れたので、郵便局の前で身支度を整える。中から郵便局の人が「9時からなんですけど」と出てきたので、「軒先をお借りしています」とご挨拶する。

道はだんだんと傾斜を増していくが、人家はぽつぽつ続いている。ずいぶん歩いた後でようやく高速道路だったので、まだこれだけしか来ていないのかと弱気になる。平野林道への入口は、高速道路とダム湖を越えてずいぶん先だ。

石灯籠やいろんなものが置いてある石材店を過ぎてスイッチバックを登ると、ようやくダム湖のあたりに来た。太い道を左に行くと前神寺への近道とあるが、横峰寺の分岐はまだまだ先である。

さらに登り坂をいくつかこなして、ようやく黒瀬ダムの見える高さに達した。雲の向こうから、ひときわ高い稜線が見える。方角的にいって、瓶ヶ森から伊予富士、石槌山から続く稜線である。この道は現在、石鎚ロープウェイへの経路として利用されているが、かつて田舎道だった頃には、かの宮本常一が土佐へ抜けた道であった。

宮本氏はここから、山中の道なき道をたどって土佐に抜けたのだが、途中ハンセン病の老婆と出会って「業病なので人の通らないこういう道を歩いて阿波から伊予に向かっている」と言われたと、「忘れられた日本人」の中で回想している。

さらに登って行くと、これまで山道が続いていたのに突然民家が現われ、巨大な鳥居が出現した。鳥居の上には、「石槌神社」と書かれている。

民家は電線こそ通じているものの、人の住んでいる気配はない。かつて住んでいたとしても、10年前20年前という世界だろう。鳥居の先が木のトンネルのようになって、そこを抜けるとT字路となった。左が高松方面、右が石鎚登山口と標識が出ている。



小町温泉しこくやの朝食は鯛茶漬、鯛のお刺身をご飯に乗せて熱い出汁をかける。



ダム湖である黒瀬湖のあたりで横峰寺分岐となるが、そこまでの道のりは結構遠い。点在する民家を抜け、高速道路を過ぎてもなかなかダム湖は見えてこない。



ようやく黒瀬湖が見えてきた。向こうの稜線は、瓶ヶ森から伊予富士に至る山々だろうか。かつてこの道を民俗学の大家・宮本常一も通ったことがある。

ダム湖に沿った道路には土産物屋らしき建物が見えるが、開いていないようだ。吉祥寺にも象がいたが、この店のシャッターにも歓喜天の絵がペイントされている。石槌信仰と何か関係があるのだろうか。

そのすぐ先で、右へ道が分かれている。どうやら、ここが平野林道への分岐のようだ。こちらの道も舗装道路だが、傾斜が急で道幅も狭い。急坂を登ったところが横峰寺への送迎バスの待合所になっていて、奥には旅館兼売店がある。自販機コーナーとトイレもあるので、この日はじめて腰を下ろすことができた。

時刻は午前9時半。かなり歩いたように思ったのだが、郵便局から1時間も歩いていないのは意外だった。雨は依然として激しく、車で上がってくる人もいない。それでも、ここから先で何度もバスが通り過ぎたので、車でここまで来てバスに乗る人は少なくないようである。

横峰寺に登る道はさらに狭い。「横峰寺まで8km、2km先からは有料道路になります」「右にあるのは一ノ王子です」といった案内がある。一ノ王子があるということは、ここから横峰寺や石鎚山まで、いくつもある王子社をお参りしながら修験道の行者が修行した場所ということである。

驚いたのは、このバス待合所の少し先に民家があり、こちらの方はサイディングも新しく車も何台か止まっていて、現在人が住んでいる家だったということである。でも、よく考えると麓から1時間歩けば来れるわけだから、4~5kmしか離れていないのであった。

とはいえ、バス待合所前の鳥居のあったあたりと同様、その一軒を除いては人が住んでいないように見えた。足場材が組んである建設中の家のような場所があり、ラジオが鳴っているのだが、付近には苔だらけのキャンピングカーしか止まっていないという謎の場所もあった。

平野林道入口までの2kmはいったん登ってから下る道で、往きよりも帰りの方がきつかった。奥にカフェがあるという案内板があり、納屋らしき最後の建物を過ぎると、黒い水道管パイプと簡易水道のような構造物だけが人の手によるものである。やがて谷川に沿ったT字路にぶつかると、そこから先が平野林道となる。

川に沿って急坂を登って行く。ひとしきり登るとログハウスの屋根が見えたので、休憩所かと思って期待したら料金所だった。ご挨拶すると、「歩きは料金いらないよ。あと1時間半。気をつけてね。」と言われる。距離はともかく標高差があるので1時間半は難しいだろう。

その少し先に作業中のおじさんがいて、挨拶してしばらく登ってから、路肩にリュックを下ろして休憩する。歩き遍路はあまり通らない経路だけあって、バス待合所からこちら東屋もなければベンチもない。とはいえ傘を差しながら急坂を登り続けるのは体力的に厳しい。用意してあったヴィダーインゼリーで栄養補給する。

この林道は車で通ることを想定しているせいか、あと何kmの表示がほとんどない。ただ、料金所の標高がおよそ260m、横峰寺が800mくらいだから、標高差は500m以上ある。距離よりも標高差が問題で、この後の登り途中、路肩でもう一回休憩をとらなくてはならなかった。その間、中年の外人さんに追い抜かれた。

ここからのスイッチバックは標高差が示す通りきつかった。雨も相変わらず強く、ため息をつきながら登った。料金所から1時間半歩いて、「南無大師遍照金剛」の幟りが数本立っていたのは香園寺に直接下りる遍路道であった。ここまで来ればもうすぐである。やがて、駐車場への車道との分岐となった。ここから0.8km、砂利道を登ってようやく横峰寺に着いた。



平野林道をしばらく登ると、ログハウス風の建物が見えてくる。休憩所かと思って期待したのだが、料金所であった。



雨の降る中、標高差500mを登って行く。休む場所がないので路肩で休みながら、ようやく車道と遍路道の分岐まで来た。



残り0.8kmを歩いて、やっと横峰寺。平野林道からだと、境内の奥から着くことになる。

石槌山横峰寺(いしづちさん・よこみねじ)、「つち」は金偏に夫と書くのが古い字体だが、それだと「おの」としか読まないというのが「霊場記」の指摘である。横峰寺でも山門には「石槌山」と書かれているし、IMEで出てこないということもあるので、ここではそちらで勘弁していただきたい。

お寺に着いたのは午後0時半。小松総合支所から4時間半、バス待合所から3時間、平野林道料金所から2時間かかった。おかげさまで道路状況には問題なかったものの、標高差500mの登りは半端ではなく、ずっと傘を差しながらの歩きはたいへんつらかった。

境内を裏から入った形になるので、まず位置関係を確認する。目の前に見えている新しい屋根は庫裏のようで、庫裏を回り込んで向こう側に見えるのが本堂、こちら側が大師堂だろうか。まず本堂、次いで大師堂にお参りする。あいにくの天気で、この時間お参りしていたのは私ひとりだった。

本堂から石段を下りて、納経所へ向かう。こちらは、遍路道を登ってくると着くルートだ。山門と石柱があり、山門の墨書では「石槌山」と書かれているのに対し、石柱には古い字体が彫られている。

「歩きですか。どちらから登られました?」納経所に行くと、さっそく尋ねられた。

「電話で遍路道が崩れていると伺いましたので、車道を登ってきました」とお答えする。

「そうですね。遍路道の写真を撮ってきたのですが、こういう感じです。しばらく車道でないと危ないと思います。」

わざわざ遍路道を下りて確認してきたのだろう。A4に拡大したプリントアウトを見せていただく。主だった宿など関係先にも送ってあるそうだ。ハードな登りだったけれども、平野林道を歩いたのは正解だったようである。

さて、吉祥寺から疑問であった石槌山と歓喜天の関係であるが、帰ってから調べたところ、大師堂の左に見えるお堂が聖天堂らしい。大師堂のすぐそばにお祀りされているということは、それだけ重要な位置付けということだが、どういう経緯かはよく分からない。

すでにお昼の時間だけれども、納経所横と大師堂近くに自販機があった他は、売店など食べるものを調達できるところはない。ミネラルウォーターを補充し、カルピスソーダでのどを潤す。伊藤園の自販機で、収益の一部を四国遍路の保全活動に使うと書いてある。

午前中にヴィダーインゼリーしかとっていないが、そんなにお腹はすかない。雨のせいだろうか。それにしても、おそらく前後5~6時間食堂や売店がないものと思われ、四国遍路でも指折りの食糧調達不能区域ということになるだろう。

残念だったのは、星ヶ森に行けなかったことである。横峰寺を開いたとされる役行者が谷越しに石槌山を仰ぎ見たとされる場所で、本堂から標高差100mほど登ったところにあるが、雨も降っているし時間も押しているので本堂より上まで行くのはあきらめた。

時刻は午後1時を過ぎた。登りと同じ時間かかったとしても午後5時には麓に着けるはずだし、そこから歩いて石槌神社会館まで1時間かからないだろう。とはいえ、ずっと雨なので暗くなるのも早そうだから、急ぐに越したことはない。リスクの高いことはやめて、登ってきた道を再び下って行く。



しこくやから横浪への遍路道を辿ると、こちらから着く形になる。左が納経所。石柱には古い字体で彫られているが、この先の山門には「石槌山」と書いてある。



納経所から石段を登ると、横峰寺本堂。ご本尊は大日如来。



本堂に正対して大師堂。左に続く道が平野林道につながる。左に見えるお堂が、あるいは聖天堂か。

帰り道は下りなので、休み休みでない分だけ時間は短縮できる。とはいえ、雨は止まないし傾斜はたいへん急なので、滑りそうでなかなかスピードは出せない。

登りでは気づかなかったが、木々の間から麓を望むことができる。雲が厚くて霞んでいるけれど、見えているのは小松の街のはずである。晴れていれば、瀬戸内海まで見えたに違いない。

カーブごとに番号が振ってあって、確認したところ18くらいまであったので、数字が減るのを楽しみに下って行く。10くらいのところに「水場」と看板が掲げられている場所があって、パイプから水が出ていた。

この日は雨降りで汗もあまりかかなかったし、水も十分持っていたので素通りしたけれども、歩きで使う時にはたいへんありがたい。ここまでかなり登らないと着かないので、顔を洗うだけでもさっぱりすることだろう。下りではここで5分ほど小休止した。

水場を過ぎるとカーブ番号が一桁になり、ようやく終わりが近づいたと思うと元気が出てきた。谷川に沿って最後の下りというところで、登りの時も作業していた森林組合のおじさんとまた会った。

「外人さんに抜かれたろう」
「早かったですよ。登りの途中であっさり抜かれました」

足を止めると、この頃1日に何人かはこの道で横峰寺まで歩く人がいるという話になった。直接登る遍路道が土砂崩れしている影響に違いない。そして、

「昨日のことだけど、この先でキノコ採りに来ていた人が足を滑らしたらしく亡くなったんだよ」
「えっ、そんなことがあったんですか」
「見つけたのはお遍路歩きの人だよ。もしかすると、この先で会うかもしれないよ。」

ということだった。遍路道を歩いていたら、そういうリスクと隣り合わせだったということである。改めて、道路を維持管理していただいた作業中のおじさんと料金所の方にお礼を申し上げた。

帰ってから国会図書館で調べたところ、以下の新聞記事を見つけた。

◆西条市の山中で男性遺体
10日午前7時20分ごろ、西条市大保木の林道から4㍍下の沢で、住所・職業不詳△△△△さん(70)が倒れているのを通行人の男性(54)が見つけた。西条署によると、現場は四国霊場60番札所横峰寺へ続く林道沿いの沢で、付近にガードレールは設置されていない。署が死因などを調べている。
(2018/10/11 愛媛新聞朝刊)


お遍路歩きでも通行人には違いない。発見した時刻(午前7時20分)からすると、野宿でなければバス待合所のところにあった旅館から出発したものだろうか。せっかく早出しても警察を呼んで足止めされただろうから、この日はそれほど進めなかっただろう。

まさに私が歩いた前日のことである。1日違えば、私が発見者になっていたかもしれない。そして、林道沿いでさえこういう事故が起こるのだから、遍路道を強行突破しようとすれば、たいへんリスクが高かったということである。

バス待合所に着いたのは午後3時半。横峰寺からは2時間半だから、登りより30分短縮したことになる。デカビタCを飲もうと思って1000円札を出すと、財布の中が水浸しで濡れたお札は自販機を通らない。やむなくリュックの中から予備の1000円札を出してことなきを得たが、こういう事態は高知のネストウェストガーデン以来であった。

ここから先も結構長かった。そろそろ人里なのに、なかなか民家が見えてこない。30分かかってダム湖を望む高台、1時間近くかかってようやく石材店の前を過ぎた。午後の降水確率は低かったのに、結局降ったり止んだりで傘をしまうことはできなかった。

午後4時20分、ようやく郵便局の前に出た。郵便局には大きな看板があるのだが、山の方からは見えにくかったのである。もっとも、山の方から郵便局に来る人も多くはないだろうから、当り前といえば当り前である。あとは国道に出て石槌神社会館まで、右足と左足を交互に出していれば着くはずである。

[行 程](小町温泉しこくや・バス →)小松総合支所 8:00 →(2.6km)8:35 氷見郵便局前 8:40 →(3.4km)9:35 バス待合所 9:45 →(3.2km)10:30 林道料金所 10:30 →(4.7km)12:30 横峰寺 13:05 →(7.9km)15:30 バス待合所 15:35 →(3.2km)16:20 氷見郵便局前 16:20 →

[Jun 22, 2019]



厚い雲の間から、小松方向を望むことができた。晴れていれば瀬戸内海まで見えたに違いない。



平野林道の中間あたりにある水場。この日は雨だったが、汗をかいていたらありがたい休憩地であっただろう。



午後1時から下り始めて、4時前にようやくダム湖まで下りてきた。こういう景色だったのかと改めて見る。

番外霊場石槌神社 [Oct 11-12, 2018]

氷見郵便局前を午後4時半前に通過できたので、夕食前には石槌神社会館に入れる見通しが立った。ただ、雨は全然止まないし、早く屋根のある場所に入りたいのだけれど、あとどのくらい歩けばいいのか正確なところがよく分からない。

これは、遍路地図(私の使っているのは「四国遍路ひとり歩き同行二人」第10版)に石槌神社会館の情報が全く掲載されていないからである。石鎚神社頂上山荘の位置や連絡先は何ページかに書かれているのに、もともと宿の少ない小松近辺での候補先である石槌神社会館を載せないというのはよく分からない。

距離が分からない時に頼りになるのは、国道のキロポストである。若干遠回りなのかもしれないが、国道11号に出てしまう。これまでの山道とは違って、両方向とも多くの車が行き交っている。前神寺まで3kmほどだからそれより少なく、2kmくらいで右に入る道が指示されるはずだ。

1km歩く。石槌神社の案内は出てこない。車で来る人のために「あと信号5つ先」とか書いてあるかと思ったけれど、特にそういうものはない。道は合っているし近くになれば何かあるだろうと思ってあと1km歩くと、ようやく大きな鳥居が見えてきた。「次の角を右」の案内も出た。

大鳥居をくぐると、神社に向けて緩やかな坂を登る。一日歩いてきて最後にまた登りはつらいが、先が見えてきたのでがんばる。二の鳥居を通ると、すぐ先が神門、お寺でいうところの山門である。両側に大きな狛犬が構えている。右に車道が続いているが、これは神社会館まで続いている(後から分かった)。

神門をくぐっても、まだ結構歩く。石畳の道と石段で、ずいぶん高くまで登る。いくつめかの石段を登ると駐車場といくつかの施設が建っていて、そのうちの一つが石槌神社会館であった。楽天トラベルの写真で見ていたとおり、鉄筋3階建の立派な建物である。

「今日はおひとりなんですよ。」
到着すると、会館の方に言われた。

「お風呂は、湯之谷温泉に送迎します。タオルなどは向こうにありますので、着替えだけ持って行けば大丈夫ですよ」
「帰りは歩きます。私ひとりのために行き帰りは申し訳ないです」
「いやいや、歩くと20分ほどかかりますし、街灯があまりないですし、お墓があって寂しいところですから」

1日雨の中を歩いたので温泉はたいへんありがたいが、湯上りに20分歩いたら湯冷めしてしまいそうだ。

「それでしたら、お言葉に甘えて。私一人のためにすみません」

湯之谷温泉は私でなくても宿泊者は無料となるようだが、これは車で来た人を想定していると思うので、私のように遍路歩きで来た客の送迎まで通常やっていないはずである。ありがたいことである。

それにしても、この大きな宿泊施設に一人だけである。楽天トラベルには「相部屋プラン」というのもあり、参拝客で一杯になることもあるのかと思って「個室プラン」(1泊2食9,300円)にしたのだが、正直、すいている方が私としてはありがたい。

施設は新しく、トイレもきれいで、湯沸室の冷蔵庫を共用で使えると書いてある。コインロッカーがあるのは、「相部屋プラン」の人のためのものだろうか。

部屋は8畳の和室で、トイレと洗面所は共同だが、一人なので誰に気を使うこともない。ずぶ濡れの荷物を廊下に置いて整理する。着替えなどは大きなビニール袋(印西市指定のゴミ袋だ)に入れてあるので問題なく、ネストウェストガーデンの時よりも被害は小さくて済んだ。ぐっしょり濡れた千円札をテーブルの上に広げて乾かす。

荷物を整理したらさっそく洗濯である。コインランドリーは地下にあり、コイン式ではなく使った分を置いてある貯金箱に入れる。夕飯の間に洗濯機が終われば、温泉に行っている間に乾燥機にかけることができる。普段だと、機械が止まったら速やかに取りにいかなければならないが、他に誰もいないので問題なかろう。

夕飯は、刺身も天ぷらもついた豪華な仕出しのおかずに、ご飯とお味噌汁である。もちろん、瓶ビールで一日の苦労を自らねぎらう。

そういえば、西予のホテルで、レストランが休みなのでバイキングでなく仕出しということがあったが、歳をとると席を立ったり座ったりがおっくうになるので、かえってその方がありがたかった。その時のおかずと今回とよく似ていたので、その時のことを思い出した。

お風呂については、いつか書いたのでそちらをご覧ください。宿に帰って乾燥機から洗濯物を回収し、整理したら眠くなってしまった。ハードな1日だったので、バンテリンを丹念に塗り、9時には寝た。この日の歩数は55,495歩、GPSで測定した移動距離は28.6kmでした。



国道11号から大鳥居が見えてきたら右折。石槌神社へは緩やかな坂道を登って行く。写っているのは二の鳥居。



神門で車道から分かれ参道に入る。まだずいぶん歩くのと、階段があるのでなかなか着かない。



石段をいくつか登ると、石槌神社会館前に出る。車道を通るとここまでは上がってくることができる。

翌朝は、石槌神社の朝拝に出るため午前5時前に起きる。前の日に会館の方にお伺いしたところ、

「朝の神事で、外の方にお見せするものではないのですが、宿泊者はお祓いを受けることができます。6時ちょうどに始まりますので、遅れずに本殿までいらしてください」

とのことであった。神前に「南無大師遍照金剛」ではどうかと思ったので、無地の白衣を着て15分前に会館を出る。あたりはまだうす暗い。石段を登っていちばん奥まで行くと、灯りは点いているのだが建物が小ぶりである。「祖霊殿」と扁額がかかっているので、ここは違う。石段を下りて引き返す。早く出て来てよかった。

途中で直角に折れる階段と鳥居があった。こちらだろう。登り切ると広い空間になっていて、社務所と奥に大きな建物がある。石槌神社本社である。

本社を口之宮とも呼び、石槌神社四社の一つである。他の三つは、頂上社、成就社と土小屋遥拝殿である。おごそかな雰囲気で、すでに中には明かりが灯っている。宿泊が1人だけということなので、置かれている椅子の最前列に座る。

6時になった。神職が1名現れ、祝詞を唱え始める。「かけまくも畏き・・・」ご神体が違っても、祝詞の文言はほとんど変わらない。天下の安寧と五穀豊穣を祈願する。一段落すると、大幣(おおぬさ)を手に神前からこちらにみえられた。頭を下げてお祓いを受けた。

「道中の安全を祈念して、お祓いいたしました。お戻りいただいて結構です」

その後も神事は続けられ、神職は再び祝詞を上げはじめたのだが、ここまでで会館に戻る。本社を出ると、明るくなってきた。前庭からは瀬戸内海を望むことができる。こうしてみると、ずいぶん高いところまで登ってきたことが分かる。遠征3日目で、ようやくいい天気になりそうだ。

石段の横に置かれている神馬の像やら、神社の説明書きを見ながらゆっくり会館に戻る。阿波一ノ宮で神前に馬の銅像が置かれているのにかなり違和感を感じたが、こうしてみると神社と神馬はセットだということがよく分かる。もっとも、馬の腹の下をくぐって参拝するというのはいまだによく分からないが。

会館に戻って白衣から普段着に着替えると、ちょうど6時25分。テレビ体操が始まる時間であった。こちらの会館では部屋にTVは置いておらず、2階のロビーで見ることになる。体操はできれば毎日したいのでありがたかった。この日一人だけの宿泊客なので誰に気を使うこともない。

体操の途中で館内放送が入り、朝食の時間となった。朝食のメニューはご飯とお味噌汁、焼き海苔、たらこ、梅干し、切干大根といったスタンダード和食メニューに、グリーンサラダとヨーグルトが付いているのがうれしい。この日は長丁場になるので、ご飯はおかわりした。

再び身支度を整え、会館の方にご挨拶して出発。お遍路宿では宿泊客が一人だけという事態は少なくないのだが、私一人だけのためにお手数をかけて申し訳ないと思う一方で、他のお客さんに気を使う必要がないのでリラックスして過ごせるので個人的にはうれしい。寂しいとか心細いと思うことは、この歳になると全くないのであった。

[行 程]氷見郵便局前 16:20 →(3.4km)17:10 石槌神社会館(泊) 7:40 →

[Jul 6, 2019]



石槌神社本社。口之宮とも。石槌山をご神体として祀っており、頂上社と登山口の成就社、土小屋遥拝殿、こちらの本社を石槌神社四社と呼ぶ。



お祓いを受けて本殿を出ると、明るくなってきた。瀬戸内海方面への展望が広がる。ようやくいい天気になりそうだ。



歩いて5分ほどの会館に戻ると、ちょうどテレビ体操の時間。体操をしていると館内放送が入って朝食になった。サラダとヨーグルトがうれしい。

六十四番前神寺 [Oct 12, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。


7時40分石槌神社会館発。帰りは神門までは下り坂なのであっという間である。国道まで戻らず、神門のところを右に折れる。前の晩に、湯之谷温泉まで送っていただいたのが前神寺までの道だ。車一台が通れるくらいの幅で、くねくねと緩いカーブで右へ左へと揺れる。

確かに、お風呂に入って歩いて帰るにはちょっと寂しい道かもしれない。右手奥に広い墓地もある。その向こうが前神寺であった。神仏分離以前は混淆で石槌神社と一体だったが、お墓があるということは檀家もあるのだろうか。あるいは石槌修験の関係者なのか。

お墓の前が駐車場で、その一角に山門がある。「石鉄(金偏に夫)山」と古い字で山号が掲げられており、車で入れないようにバリカーで通せんぼしている。人はもちろん、その下を通って境内へと進む。境内はかなり広い。

石鉄山前神寺(いしづちさん・まえがみじ)、石槌を山号とする札所は、横峰寺と前神寺の二寺である。何となく、横峰は石槌山の「横」、前神は「前」という意味かと思ってしまうが、厳密には違うようで、いまの前神寺は江戸時代には「里前神寺」といった。

「里」があるということはそうでない前神寺もあるということで、「奥前神寺」という。石槌神社成就社の近くにあり、神仏分離以前は成就社と一体であった。成就社とは、石槌で修業した役行者(えんのぎょうじゃ)が「わが願い成就せり」と言った場所であるとされるが、五来重氏は「常住」、つまり年間通して神職が滞在したことが命名の理由ではないかと推測している。

いずれにしても、八十八札所のひとつは、霊場石槌山であった。だから本来、お遍路は石槌山にお参りするべきなのであるが、前神寺が札所となったのは、遠いとか雪が降るということではなくて、石槌山は特別の時以外は入山できなかったからである。

「道指南」には六十四番里前神寺について、「石槌山の前札所なり。本札所は石槌山前神寺。この札所は六月朔日おなじく三日ならで参詣する事なし。このゆへに里前神寺に札をおさむるなり」。つまり、石槌山が山開きとなるのは六月はじめの三日間だけであるため、里前神寺が札所となったと記されている。

本堂は境内の一番奥、森の中に鎮座している。正面にご本尊がいらっしゃり、本堂の両脇から袖のように回廊が伸びている。この回廊は霊場会HPなど昔の写真にはないので、ごく最近に建て増されたらしい。札所ではあまり見たことのない伽藍配置である。参道は石畳の周囲を芝生で囲ってあり、参道中央に護摩を焚く空間が開いている。

朝一番で般若心経を読経する。前日までと違って、雨具の心配なしに経本だけ持てばいいのはたいへんありがたい。予報では善通寺に近づくあたりで空模様が怪しいけれど、ここ3~4日は好天が見込まれている。

大師堂は本堂から山門寄りに下って、納経所近くにある。ご朱印をいただいて、横にあるベンチでゆっくりする。朝早いので参拝客はまばらである。そして、これから先しばらく札所はない。

この日はこれ以降長距離の歩きである。夕方までに別格札所の延命寺まで着ければいいが、そのあたりのスケジュールはフレキシブルに考えていた。まだ区切り打ち3日目。とりあえず、お遍路歩きのペースを取り戻すことが大切だ。8時40分に出発、まず国道11号線を目指す。

[行 程]石槌神社会館 7:40 →(0.9km)7:55 前神寺 8:40 →

[Jul 13, 2019]



広い墓地の前に山門があり、バリカーで車が通らないようにしてある。この先本堂エリアまでは結構歩く。



本堂の脇から袖のように回廊が伸びている。札所ではあまり見ない伽藍配置だ。



本堂エリアから下り、納経所近くに大師堂がある。

番外霊場延命寺 [Oct 12, 2018]

前神寺から湯之谷温泉の横を通って、午前9時国道11号線に出る。遍路地図には山寄りの道が書かれているのだが、調子が出るまでは国道で㌔ポストを頼りに歩く方がいい。

最初の1kmを15分、次の1kmを13分でクリア。加茂川を渡って伊予西条市街に入る。石槌山を過ぎると山並みは遠ざかると思っていたらそんなことはなくて、次々と峰が連なっている。これから国道を歩く途中でも、登山口への案内表示を何ヵ所も見た。

続く2kmを14分・14分、直線4kmを56分で歩いたところに、セブンイレブンがあった。セブン銀行は、個人的な指定金融機関である。見つけたら、早めに資金を補充することにしている。イートインコーナーがあったので、あわせてチョコデニッシュとコーラで小休止。今後の行程を再確認する。

次の三角寺まで前神寺から45kmあるので、1日ではとても着かない。一方、この日確保した宿は新居浜市のビジネスホテルMISORAで、前神寺から17kmである。お昼頃には着けそうだ。そこからどこまで歩けるか。

セブンイレブンを出て、再び国道11号を歩き始める。国道だから交通量が多いが、奥を通っている道が国道と並行しているように見える。できれば静かに歩きたいので、そちらに移動する。㌔ポストはないけれどもペースはつかめてきたしいいかと思ったのだが、これが躓きの元であった。

はじめは国道が見えていたのだけれど、気が付くと国道はどこにも見えない。「四国のみち」の標識どおりに歩いていたのだけれど、この道は最短距離でもなければ歩きやすくもないということを忘れていた。変電所が見えてきたので現在位置を確認、国道に戻ることにした。

ところが、一番太い片側二車線の道を5分ほど進んだところ、道がどんどん登り坂になる。国道からは遠ざかる一方である。あきらめて変電所まで戻る。方角的に合っているのは住宅街に伸びる細い道だ。しかしまっすぐ続かずに鍵形にクランクしながら続いている。

交差点を何度も曲がって、ようやく郵便局が見えた時にはほっとした。遍路地図にもこの郵便局は載っていて、まっすぐ進めば国道に復帰できるはずである。後から調べたところ、国道を進めば1kmちょっとの距離を40分かかっているので、かなり余計な距離を歩いたということになる。

国道に復帰してからは、時間をロスしてしまったことがくやまれて黙々と歩く。新居浜市街までの8kmをノンストップ、1㌔14分のペースで歩いた。休憩をとりたいとは思ったけれども、ファミレスやコンビニだけで休憩所もベンチも全くなかった。

12時45分、国領川沿いにこの日の宿であるビジネスホテルMISORAが見えた。国道から100mほど入る。45㍑のリュックを預け、デイパックだけにして荷物を軽くする。橋を越えたところにドラッグストアを見つけて、なくなりかけていたワセリンとビタミンC剤、エネルギーゼリーを買う。

その先に、はなまるうどんが見えた。3時間以上全く座っていなかったので、どうにも体力が続かなくなり転がり込むように店内に入る。ぶっかけうどんでお昼にする。脇道でタイムロスしたり体力が続かなかったり、今回のお遍路歩きはなかなかペースに乗れないようであった。



加茂川を渡って伊予西条市街に入る。雲に隠れているのは、笹ヶ峰から二百名山の赤石山に至る山稜。



国道歩きではつまらないと思ったら間違えた。変電所があるのは方向が違う。



反省して国道に復帰。お昼を大分回ってからこの日の宿、ビジネスホテルMISORAに荷物を置くことができた。

香園寺のところで書いたように、この回のお遍路は横峰寺への登山道が通行止というアクシデントがあり、予定変更を余儀なくされたのだけれど、他にもいくつかうまくいかないことがあった。

その一つが雲辺寺からの下りで、スケジュール的には青空屋か民宿おおひらに泊まるのが楽だったのに、その両方とも満室で取れなかったのである。後から考えると、これはお遍路歩きというよりも10月13日から15日このあたりで集中していた秋祭りの影響と思われるのだけれど、とにかく宿が確保できなかった。

そのため、四国中央市の次の宿が観音寺市となり、かなりつらいことになってしまった。歩いて歩けないことはないだろうが、次の小松尾山に午後5時までに入るのが難しいし、翌日戻るにもバス便がない。

だから、この日と次の日は、宿があるところまで歩いて終わりではなく、先に進んでから戻って来るという方法をとった。もともとこの日は予備日的な位置づけで、早く着くようであれば別子銅山記念館でも行こうと思っていたのだけれど、そんな余裕はなくなってしまったのである。

別子銅山記念館はビジネスホテルMISORAから高速道方面に1kmほどだが、その方向には向かわず国道11号を川之江方面に進む。やがて市街地は倉庫や工場が並ぶ郊外となり、登り坂になる頃にはぽつぽつ民家が点在するくらいになってしまった。国道なのでそれほどの傾斜ではないけれども、それでも登り坂である。大きな荷物をホテルに置いてきてよかった。

新居浜・川之江間の国道11号には1時間に1本路線バスが走っており、これに乗って戻ることになるため時々バス停の時間を確認する。暗くなる前、午後4時台か5時台に乗れればありがたい。別格札所の延命寺まで何とかクリアできるかどうか。

再び㌔14分ペースでの国道歩き。午後3時前、峠に達しここからは下り坂となる。このあたりからまた「四国のみち」が始まっていて、行先表示は延命寺である。下り坂で気持ちがよく、荷物も軽いので足が自然とそちらに向いてしまった。

ところが、歩いていると横の道から女性のグループが現れた。何十mか先なので風体はよく分からないが、かなり離れているのに後に話し声が響くほど大声でしゃべりながらの歩きである。しかも、歩くのが遅くてだんだん近づいている。

こういう連中は、追い越した後もっとうるさい。口は前に付いているからである。参ったなと遍路地図を見る。このあたり国道と遍路道は並行していて、左に曲がって少し歩けば国道に戻れる。次の角でおばさん軍団が直進したのを確認して、左折する。人の声より車の音の方がましである。

(ちなみに、このグループは私よりかなり遅れて延命寺に着いたが、納経所には来なかった。南無大師遍照金剛の白衣を着て、菅笠を被っていたのだが、八十八ヶ所だけ回るのだろうか。)

国道に戻ってすぐに「旅館・五葉松荘」の横を通る。オールドファッションな宿だが、遍路地図にも載っているので現役のようである。このあたりから、進行方向に、海と海沿いに建つ工業地帯の煙突が見えるようになった。

「延命寺あと2km左へ」の大きな看板が現れたのは、午後4時近くなってからである。あと2kmプラスお参りの時間を勘案すると、4時台のバスはもう無理で、必然的に5時台ということになる。土居の市街地に入り、大きなショッピングセンターの横を通って、延命寺まではまだ先である。

工事中の歩道を抜けて左折し、用水路の脇の細い道を進むと、すぐ先は踏切という位置に延命寺はあった。通りをはさんで向かいに駐車場と公園、トイレもある。学校帰りだろうか、大勢の子供達が通りを行き来していた。



新居浜から四国中央市へは峠越えになる。くねくねと続く長い坂を登って行く。



四国中央市に入ると、今度は下り坂。国道から「四国のみち」に入るが、前方に騒がしいグループが現れ、再び国道に戻る。



午後4時を回って別格霊場の延命寺に到着。ここまで来れば翌日の行程に目処が立つ。

摩尼山延命寺(まにさん・えんめいじ)、千枚通本坊とも称する。千枚通しとは穴を開ける尖った金属器ではなく、弘法大師が足の不自由な人に与えたという霊符のことである。この霊符を水に浮かべて南無大師遍照金剛と飲み干すと、歩けなかった人の足がにわかに直り、以来この寺では千枚通護符を継承して今日に至るという。

また、弘法大師お手植えと伝えられる松は昭和半ばに枯れてしまったが、いまも公園の一画に幹が残っており、南無大師遍照金剛と唱えながらさすって自分の痛む場所に当てると痛みがなくなるということである。

「四国というところは、そういうことがあるんだよね」
納経の時、お坊さんとそういう話になった。

「慈眼寺に行かれたことは?・・・ない?・・・あそこには行場の洞窟があって、中は狭くて曲がりくねっている。あんたならなんとか大丈夫だが、私だとあちこちつかえて大変だ」

慈眼寺の穴禅定のことは知っている。鶴林寺に登る前、ふれあいの里さかもとから1時間ほど行ったところにある別格札所で、狭い鍾乳洞の中を奥まで入って修行する。確か、案内の先達がいるだけで灯りもなく、真っ暗な中を手探りで進まなければならないということである。

「うちに来る観光バスの運転手さんに聞いた話だが、生まれてから一度も声を出したことのない女性が慈眼寺の洞窟に入って、暗い中身動きも取れなくなって『あっ』と声を出したらしい。誰の声?ということになって、しゃべれないはずの人が声を出したので、みんなびっくりした」

「そうしたら、その声が出せなかった人が、それから後は普通に話せるようになったんだと。生まれてから今まで話せなかったはずの人が、すっと話すもんだから、これまたみんなびっくりしたということだ」

そういうこともあるんだろう。脳のどこかで鍵がかかっていたものが、いよいよ進退きわまって助けを求めた。人の声は聞こえるし考えるのも日本語で考えていたのだから、すらすら話せても不思議はない。

「ここのいざり松もそういうものだ。最近そういう言葉はおおっぴらに使えなくなってしまったが、足の利かない人がいて、お大師様が念じるとすたすた歩けるようになったという。松は枯れてしまったが、信仰上のものだからいまも残している。南無大師遍照金剛とさすると、痛みが取れるというからやってみるといい」

通りを隔てた公園の一角に、屋根をかけられた「いざり松」がある。お坊さんに教わったとおり、幹を撫で、その手で足をさする。枯れ木というとささくれ立って棘があったりするが、この松はみんながさするせいか、おびんずる様のようにすべすべしている。

ちょうど午後5時のチャイムが鳴る頃、延命寺を出てバス通りに戻る。バスの時刻まで10分ほどあったので、ひとつ先のバス停まで歩く。すぐ近くにセブンイレブンがあり、翌朝ここからスタートするのがよさそうだ。

バス停からは「松屋旅館」の大きな看板が見えた。すぐ先の交差点の近くのようだ。WEB等を読むと、ビジネス旅館小松から松屋旅館に泊まるというスケジュールが多いので、泊まる場所こそ違うもののほぼ人並みに歩けたようである。

バスで国領大橋まで戻り、すぐそばにあるすき屋でゆずぽんおろし定食とビールで夕飯にした。1200円だった。ホテルのコインランドリーで乾燥機まで終わったのが午後8時、翌日の支度をして床に就いたのは午後10時になってしまった。

この日の歩数は56,903歩、GPSで測定した移動距離は31.6kmでした。

[行 程]前神寺 8:40 →(18.1km)12:45 新居浜市内(荷物預け・買い物・昼食)13:45 →(11.5km)16:20 延命寺 16:55 →(1.1km)17:10 コープ前バス停 →[バス]ビジネスホテルMISORA(泊)

[Aug 3, 2019]



延命寺大師堂。納経所もこの中にある。



延命寺いざり松。お大師様の功徳により、足が不自由な人が歩けるようになった故事に基づく。枯れてしまった今日でも、「南無大師遍照金剛」と幹をさすると、痛みが鎮まるという。



バスの時間まで歩いて、伊予土居駅付近のコープ前バス停に到着。向こうに「松屋旅館」の看板が見える。

六十五番三角寺 [Oct 13, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。


ビジネスホテルMISORAの夜、午後10時から朝の3時まで一度も起きずに熟睡した。3時からは寝たり起きたりで、リュックが重いためか背中がとても痛い。5時を過ぎたので国道沿いのすき屋まで歩く。5時からやっている朝定食を食べるためである。まだ星がくっきり見えて、これから進む東の中空にオリオン座が鮮やかだった。

納豆定食320円は格安である。帰りに自販機で、地元プライベートブランドの栄養ドリンク110円を購入。タウリンが1000mg入っているので、リポビタン並みの効果は期待できる。再び部屋に戻って支度すると、ほどなくバスの時間になる。ホテルの滞在時間は12時間、洗濯して眠って支度したらもう出発の時間である。

背中は痛むけれども、足はほとんど痛まない。おととい横峰寺の登り下りがあって、前日は約30km歩いて疲れは出ているはずだが、太腿もふくらはぎも大丈夫だし、マメもできていない。前日、延命寺で松の木をさすったご利益だろうか。背中もさすっておけばよかった。

とはいえ、この日はまたもや長丁場である。まず伊予土居から伊予三島まで10km歩いて、それから三角寺への登り。三角寺から椿堂に出る予定であるがどういう道なのか分からないし、時間によっては三角寺から川之江市街に直接戻るかどうか決断しなくてはならない。

6時40分のバスで伊予土居に向かう。昨日歩いた道をほとんど止まらずに飛ばして行く。7時10分過ぎにコープ前バス停着。乗車時の㌔ポストが176.4、下車時が164.9だから11.5km、約3時間分進んだことになる。この数字は徳島までの距離を示しているが、高松までの距離はすでに100kmを切って2桁になっている。

バス停近くのセブンイレブンへ寄って買い物をし、いよいよ伊予三島に向けて歩き始める。前日から、歩いていると方々で太鼓の音がした。どうやら秋祭りのようで、このあたりは山車を引いて収穫を祝うようだ。まだ時間が早いので太鼓は鳴らないが、山車を格納してある場所やスポンサーの名前を貼り出した掲示板がある。この日は土曜日、お祭りもたけなわだろう。

(どこかで聞いたのだが、土曜日だからお祭りという訳ではなく、このあたりのお祭りは曜日にかかわらず10月13-15日に行われるようだ。ということは、13日土曜日の宿がどこも満杯だったのも無理はない)

前日に引き続き天気はいい。ほとんど平坦でまっすぐな道なので、快調に足が前に出る。最初の4kmを13分ずつのペースで歩いて、土居ICの入口で一休み。ベンチ・休憩所はなくて、立ったままなのであまり休んだ気がしないが、それでも小刻みに立ち止まって水分を補給するので疲れが少ない。

いざり松のご利益か、区切り打ち4日目にしてようやくペースがつかめてきたようだ。次の4kmも13分・14分・14分・13分で通過して、伊予三島市街の入口に到着した。朝早く出た甲斐があって、まだ9時半前である。下り坂の正面に瀬戸内海、その前の埋め立て地に工場の煙突が見える。

伊予三島市と川之江市が合併して四国中央市となったが、もともとJRの隣駅だし市街地はほぼ続いている。旧・伊予三島市はエリエール大王製紙の企業城下町といわれるが、名前からしてもともと三嶋神社の門前町のはずで、三嶋神社の本社はおなじみ大三島の大山祇神社である。伊予三島としてはそちらが伊豆三島と名乗れといいたいところかもしれない。

いよいよ市街地に入ってくると、ロードサイド店やいろいろなビルが国道の両側に並ぶようになり、やがて海側と山側の二つの道に分かれる。海側の道は市街に入るもともとの国道11号で、山側は市街を迂回するバイパスのようだ。そして、山側を進む方が、三角寺には近い。

バイパスに入り坂道を登るとファミマがあった。イートインコーナーはなかったが、バナナミックスフラッペで一息つく。前年のお遍路歩きからファミマのフラッペは指定飲料となっており、水分と栄養補給を一度にできるのでうれしい。時刻は9時50分、三角寺まであと5km、お昼前には着けるかもしれない。

(実際にはここから先は山道があるし、遍路地図の距離表示がいい加減なので5kmよりずっと長かった)



6時40分のバスで昨日の伊予土居駅付近に戻る。四国中央市に入り、高松まであと100kmを切った。



右手の稜線は、新長谷寺から三角寺に向かう。伊予三島まで、ゆるやかに坂を下って行く。



伊予三島市街に入り、バイパスに沿って右折する。

ファミマの後、もしかしたら三角寺に自販機がないかもしれないと思い、ショッピングセンターでいろはす500mlを補充する。すると、おじいさんが話しかけてきた。

「どこから来たんだい?・・・千葉?・・・私も東金にいたことがある。東京はみんな早く歩くから疲れちゃう。こっちはみんなのんびりしてるからね。

三角寺はあの鉄塔の見える方角だよ。山の上までは行かないからそんな距離じゃない。道案内がたくさんあるから迷うことはないよ」

と教えていただいた。確かに、これから先の住宅街では古い丁石や案内の石柱が行き先を指示してくれる。遍路地図では、伊予三島市街から三角寺までいくつかの経路を示してあるけれど、古い標識に沿って歩くと高速道路の下を通って戸川公園の脇を通る道に誘導される。

案内標識にしたがって戸川公園まで行くと午前11時。ここから三角寺までトイレはないようなので、公園のトイレに寄って行く。奥の東屋の方を見ると誰かいる。歩き遍路の先客かなと思ったら違った。

「お接待しているので、寄って行きませんか。」

なんと、東屋のテーブルにはペットボトルや栄養ドリンク、ポットとお茶・コーヒーが用意されている。お茶菓子もふんだんにあって、これだけ準備されていて寄らないのはかえって失礼にあたる。リュックを下ろして、せっかくのご接待に与かる。

1時間前にファミマで冷たいものを食べたので、こちらでは温かいお湯と、みかん、バームクーヘンなどをいただく。食べながらお話をお伺いする。休日にはこうしてボランティアをしているが、歩き遍路の人はそれほど多くないし、公園の奥まで来ないで通り過ぎてしまう人も結構いるということである。

道の状況をお伺いしたところ、横峰寺のように通行止ということはなく、上まで特に問題なく登れるようである。こちらで15分ほどゆっくりさせていただいた。たいへんお世話になりました。

戸川公園から上も、遍路地図を見るとすぐ山道になるように思えるが、かなり上まで民家が続く。路面もしばらくは舗装道路が続くので、そんなに心配するほどのことはなかった。これまでと同様、辻辻に標石や丁石があるので古くから使われた遍路道であることは間違いない。

舗装道路を15分ほど登ると、海に向けて景色が開けた場所に出る。季節柄コスモスなども咲いて、たいへん雰囲気がいい。するとにベンチが出てきた。戸川公園で休んだばかりだったが、せっかくの景色なので腰を下ろす。近くに「ひびき休息所」と書いた柱が立っていた。

眼下に広がるのはみかん畑、その向こうには水田があり、住宅街、町と続いて海沿いには工場の煙突が並んでいる。胸がすくようないい景色である。言葉もなく見とれていると、下の畑から誰かの声が聞こえる。「ちょっと待ってな」と聞こえたような気がした。時間にも余裕があるので、ベンチに座っていい景色を眺めさせていただく。

しばらくすると、かなりの傾斜がある畑の中をおばさんが登ってきた。みかんを6つ持ってきて、「これ食べなさい」とご接待していただいた。「ありがとうございます」とお礼を言うと、すぐまた畑仕事に戻って行ったのだけれど、このすごい坂道を、みかんを下さるためだけに登って来られたのは申し訳なかった。

みかんと言えば、高知で食べた「山北みかん」がおいしかったのだが、今回何ヵ所かで買ったりご接待していただいたりして食べた愛媛みかんもたいへんおいしかった。特にこの時期のみかんは「極早生」(ごくわせ)で、粒が小さい割に甘くておいしいのである。帰ってから、通販で冬の間何箱かお願いした。



戸川公園でご接待してくださったボランティアさん。休日はこちらでご接待することが多いそうだ。



三角寺へは坂道を登って行く。遍路地図のイメージとは違い、高速道路を過ぎても人家がずっと続く。



ひびき休憩所付近。瀬戸内海を望む高台で、とても景色がいい。

ひびき休息所から三角寺まで30分と案内表示に書いてあったのだけれど、ここから先は登山道になるので話はそれほど簡単ではなかった。並行して沢が流れ落ちている急傾斜の道で、ここまで比較的楽だった分、余計にきつく感じた。

古くからの丁石があるのでそれを励みにして登るのだけれど、丁石の残り二町から車道と合流して、そこからさらに500m歩くのであった。正午のチャイムを聞いて休憩所を出たのに、三角寺に着いたのは12時45分。伊予三島市街に入ってから3時間近くかかってしまったが、何ヵ所かで休憩したりお接待されたりしたので、正味歩いたのは2時間くらいだったかもしれない。

登山道を登り、合流した車道を歩き、さらにはるか上まで続く石段を登り切ってようやく三角寺の山門であった。山門の下には鐘がつるされていて鐘楼を兼ねている。山門には横書きで「三角寺」と墨書されている。

由霊山三角寺(ゆれいざん・さんかくじ)、五来重氏によると三角とは護摩壇のことで、弘法大師が護摩壇を築き、背後の龍王山の龍を鎮めて水が出るようにしたという伝説に基づいている。由霊山は「霊場記」に「もろこしの梅の名所なり」とある。

山門の奥に庫裏があり、本堂・大師堂は左手の奥まった場所にある。かなり高くまで登ってきた割には、広い空間が開けている。山門の左が南になるので、本堂・大師堂の方に太陽があってたいへんまぶしい。本堂と大師堂の間には、地蔵菩薩立像が置かれていた。

伊予の多くの寺と同様、戦国時代に一度焼亡し、再建されたのは江戸時代である。本堂の基礎部分はコンクリで補強されているが、これは昭和46年に行われたという修復によるものであろう。目立つのは内陣を仕切っている木の引き戸で、ここだけが真新しい黄色である。何か謂れがあるのかもしれない。ご本尊は大師御製と伝えられる十一面観音菩薩。

「霊場記」には、背後の山を隔ててさらに山奥にある別格札所の仙龍寺は三角寺の奥ノ院と書かれている。五来重氏によると、その仙龍寺よりさらに山奥にもともとの奥ノ院跡があって、この旧・奥ノ院と三角寺・仙龍寺が一体となった霊場があったと推察している。

ともあれ、三角寺だって歩いてくるには大変な山奥にあるし、仙龍寺だってもっと奥にある。そのさらに奥というから、たいへんな山奥であっただろう。四国はまだまだ奥が深いのであった。

さて、納経が終わってまだ時刻は午後1時半である。遍路道の登りで予想以上に時間がかかったけれど、考えていたよりもかなり早い。遍路地図によるとここから椿堂まで6kmだから、午後3時には着きそうだ。お参りした後、川之江にあるスーパーホテル四国中央に午後5時くらいには着くかもしれない、と思った。(もちろんそんな甘いものではなかった)

石段を駐車場エリアまで下りる。遍路地図には長野商店と書いてあるがそういう店はなくて、軒先でみかんを売っているだけである(駐車場の脇に自販機がある)。戸川公園とひびき休息所でご接待していただいたおかげで、伊予三島のスーパーで補充したペットボトルがまるまる残っていたのでここは素通りする。

しかしこの後、椿堂の先、国道近くのJAまで自販機は見当たらなかったから、ここが最後の給水所であった。そして椿堂までは、普通に歩くと6km1時間半では到底着かないのであった。

[行 程](ビジネスホテルMISORA・バス →)コープ前バス停 7:25 →(10.8km)9:45 伊予三島市街(ファミマ) 10:00 →(3.6km)11:05 戸川親水公園ご接待 11:25 →(1.6km)11:50 ひびき休息所ご接待 12:00 →(1.6km)12:45 三角寺 13:25 →

[Aug 12, 2019]



予想以上にハードだった遍路道を登り、もう一度舗装道路を歩き、さらに石段を上がってようやく山門に達する。




三角寺本堂。内陣への引き戸が妙に真新しい。




本堂からお地蔵様を挟んで大師堂。

別格十四番椿堂 [Oct 13, 2018]

三角寺のところでも書いたが、遍路地図によると三角寺から椿堂間の距離は歩道で6.0km、車道を通っても6.4kmと書いてある。本当にそうなら、1時間半あれば着くはずである。路面は登山道ではなく、舗装道路である。しかし着かない。道案内通りに歩いて、私の場合はGPS測定値で7.4kmあった。休憩時間を除いても1時間55分かかっている。

この日は川之江のスーパーホテル四国中央に戻ることにしていたので、多少のタイムオーバーは問題なかったけれど、もしここから峠越えで民宿岡田という計画にしていたら、大変なことになるところだった。もし民宿岡田に泊まるのであれば、その前日は伊予三島に宿をとって、お昼には三角寺を出るくらいでないと明るいうちには着けないと思う。

三角寺の駐車場には、椿堂へは登ってきた方向に戻れと指示がある。そして、この先工事で通行止があるとも書いてある。土地勘がないので、どこで工事なのかよく分からない。とはいえ、歩きでも通れないのならもう少し厳重に書いてあるはずだと思って奥に進む。

意外だったのは、三角寺の奥にも民家が続いていることだった。そして、道はだらだらと登り坂である。椿堂まで下りだとばかり思っていたので、かなり当てが外れた気分だ。重いリュックを背に、肩で息をしながら先に進む。最後の一軒屋は前の家からかなり離れていたが、おばあさんが家の前の道を箒で掃いていた。どこまで掃くのだろうかと思った。

このあたり、昔の地図をみると「三星CC」と書いてあって、WEBをみると2000年代初めまでクラブハウスの残骸が残っていたようである。いまはどこにあるのだろう。すでに壊されてしまったのか、あるいは深く茂った森の中に残っているのか。

(2000年代初めというと、例のレオマの親会社・日本ゴルフ振興が破綻した頃である。場所からいって、何か関係あっておかしくない。)

私の若い頃、バブルという時代があった。いまだに覚えているのは、銀行で審査の書類を作っていて、とある会社の今後の売上・利益の見込みを前年度並みと見積もったところ、当時の上席者から、「△△君!、売上も利益ももっと上がるだろう。それだけ利益が多くなれば、もっと貸したって大丈夫なはずだ」と書類の書き直しを指示されたことを思い出す。

そんなのは審査じゃないと思ったが(30年以上経った今でもそう思う)、立場が下だったし争うほどのことでもなかったから言われたとおりにしたけれども、そんな会社なのでやがて一回目の転職をすることになった(会社自体も合併でなくなった)。

転職と同時に生活を切り詰める必要が生じて、今でも奥さんは「みんなが贅沢をしている時、私は魚一匹買うのも考えるほどの生活だった」と言うのである。もしかしたら私がもっとバカになればバブルの大波に乗れる生活ができたのかもしれないが、そういうことをしていたらいまこうして平和に暮らせていないだろう。

ともあれ、バブルの残骸は見つからなかったが、道が二つに分かれるあたりでようやく下りになった。右に行く道も左に行く道も、車がやっとすれ違えるかどうかの細い道である。右の道は「仙龍寺方面」とあるから、さらに山奥に向かうのだろう。左の道が「椿堂方面」でこれから向かう道であるが、民家は全く見えない。

椿堂方面からは、忘れた頃に車が上がってくる。広島とか岡山とか、地元以外のナンバーだ。三角寺方面からは来ない。おそらく三角寺前に工事中の表示があったためであろう。左手側、海の方向から太鼓の音が聞こえてくる。お昼を回って、お祭りが始まったものと思われた。

1時間ほど歩くと、ようやく人里に出た。遍路地図には三角寺から半田休憩所まで3.5kmとあるが、私のGPSによるとたっぷり4kmあったし、方向表示にも三角寺まで4kmと書いてある。

このあたり、参勤交代で使う街道と遍路道が交差する場所であり、江戸時代には旅籠も置かれたそうだ。土佐の殿様が休憩される小屋を格納してあった倉があったそうで、そういう説明書きがある。

大きなカーブで道は下って行き、やがて平田の集落になる。半田休憩所はこの集落にあるが、行政とか観光協会が建てたものではなく、地元の方が駐車場の一画に建てたもののようだ。遍路地図をみると三角寺から椿堂まで山道を歩くような気がするが、実際にはずっと舗装道路であり、平田集落からは民家と田畑が続いている。



三角寺から奥に道は続いているが、予想に反して登り坂である。そして、この先にも民家があるのには驚いた。



三角寺から1時間歩いて、ようやく人里に出た。このあたり、土佐の殿様が参勤交代で通った街道と遍路道が交差するところで、江戸時代には旅籠も置かれていたと書かれている。



半田休憩所のある平田という集落。ここから椿堂のあたりまで、田畑と民家が続き安心して歩ける道だが、遍路地図に書いてあるほど近くない。

しつこいようだが、遍路地図には三角寺から椿堂まで歩道で6.0km、車道を通っても6.4kmと書いてある。ところが半田休憩所まですでに4km歩いて、案内表示によると椿堂まであと3km。足し算すれば7kmである。

半田休憩所からはどんどん標高を下げて行く。これまでは道の半ばまで落ち葉が覆っていて道幅も狭く見えたのだが、このあたりはきちんと整備されていて車幅線も見えるので道幅が広く感じる。畑仕事をしていた2人組のおじさんに話しかけられた。

「どこまで行くの。椿堂?」
「はい。椿堂までお参りして、スーパーホテルまで歩きます。」
「それは大変だ。かなり距離あるよ」

と言われたのだけれど、椿堂から川之江に戻っても約10kmで、しかも下りだからそんなに大変だとは思っていなかった。むしろ、椿堂から雲辺寺方面に向かう方がもっと大変だろう。距離は10kmくらいで変わらないかもしれないが、峠越えの登り坂になる。

それから民家が続き、高速道路の下を抜けて30分以上歩き、ようやく眼下に幹線道路が見える高台に着いた。あれがこれから歩く国道192号線である。ここから国道に下りて行く途中に椿堂がある。

邦治山常福寺(ほうちさん・じょうふくじ)、弘法大師が立てた杖から椿の木が生えたという伝説から、椿堂と呼ばれるようになった。山号は、寺を開いたとされる邦治居士の名前から採っている。別格二十霊場の十四番札所である。

お寺の前の墓石のように見える石柱にも、霊の小坊主の案内板にも、椿堂とは書かれているが常福寺とは書かれていない。そういえば、途中の道案内もすべて椿堂だった。

山門が赤く塗られ、梵鐘が山門の中に吊るされているのは三角寺と同じである。三角寺は山の上だけど、ここは集落の中だからやたらに突くとうるさいだろう。ちなみに私は、鐘楼の鐘を突くことはほとんどない。

境内の不動明王も山門同様に赤い。集落全体が川沿いの斜面に建てられているので、境内はそれほど広くなく、奥行きもない。歩いてきたのは私だけだったが、車でお参りしてきた人達が何人かいて、お参りするのもご朱印をいただくのもちょっと待たなければならなかった。

お参りを終えるともう4時近かった。とはいえ、日が暮れるにはまだ間がある。時間によっては椿堂からタクシーを使わなければならないかと思ったが、予定どおりスーパーホテルまで歩くことができる。

椿堂から国道に出るのに、最初「四国のみち」の標識のとおりに行ったら逆方向に向かっていたので、引き返して細い道をそれらしき方向に進むとすぐ国道だった。何時間振りに自販機を見つけ、コーラで喉を潤す。この日も、横峰寺の日に続いて、エネルギーゼリーでお昼をすませてしまった。

国道192号はマイナー国道だが、それでも国道なのでちゃんと㌔ポストがある。そして、途中に2度、高速道との交差があるので目安になる。下り坂でもあり、1日の終わりで疲れていたにもかかわらず、㌔13分のペースで4km歩き、川之江市街に入った。

ここからちょっと迷ってしまい、地元の人に道を聞いてスーパーホテルのあるイオンショッピングセンターに着いたのは午後5時45分。かなり遠回りしたように思ったが、GPSで見るとほとんどロスはなかったようだ。

イオンの前では、お祭り期間中ということで太鼓の山車が何台も出てデモンストレーションをしている。その音を聞きながら、ショッピングセンターのインド料理店でチーズナン定食を食べた。太鼓の音はホテルのユニットバスまで聞こえたが、防音がちゃんとしてあって客室ではほとんど聞こえなかった。

この日の歩数は58,799歩、GPSで測定した移動距離は32.1kmでした。

[行 程]三角寺 13:25 →(4.0km)14:35 半田休憩所 14:45 →(3.4km)15:30 椿堂 15:50 →(7.1km)17:45 スーパーホテル四国中央(泊)

[Aug 24, 2019]



半田休憩所からさらに45分歩いて、ようやく眼下に片側一車線の幹線道路が見えてきた。愛媛・香川・徳島三県の県境へと続く国道192号線である。



国道と合流する少し前に、椿堂常福寺がある。



常福寺本堂。赤く塗られた不動明王が印象的だ。集落全体が斜面にあるため、敷地はそれほど広くはない。

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