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境目峠 [Oct 14, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

「えーと、6時だと一杯ですね。」

前日の夜、スーパーホテルの直通電話でタクシー会社に予約をすると、予想しなかった答えが返って来た。

「どこまで行きますか?・・・椿堂?・・・でしたら、5時10分過ぎか7時前でしたら予約できますが、どうしましょう?」

どうやら、朝早くに出勤している運転手さんは一人しかいないらしい。前日に電話してよかったと胸をなでおろす一方で、5時にするか7時にするか。いずれにしても計画を立て直す必要がある。

「5時10分でお願いします」
「分かりました。それではホテルの前に付けますから」

考えてみれば、山歩きに行く時でも5時の始発電車に乗る訳だから、そんなに驚くことではない。逆算すると3時過ぎには起きなければならないが、スーパーホテルの健康朝食をとる時間がないのは最初から折込済で、すでにイオンで朝のサンドイッチとサラダ、野菜ジュース、ヨーグルトは買ってある。あとは早く寝るだけだ。

部屋に戻って片付けをして、午後9時には灯りを消す。さすが安眠を売りにしているスーパーホテル、そのままあっという間に眠って、午前2時まで目が覚めなかった。そのままうとうとして、3時を過ぎたので起きる。

この日が今回の区切り打ちで最もハードであることは、当初から想定していた。青空屋も民宿おおひらも取れず、この日の宿は観音寺駅前のサニーインである。ただでさえ終盤最大の遍路ころがしとされる雲辺寺を打ち終わって、さらに小松尾山を経て観音寺市街まで歩かなければならないのであった。

朝食をとり、支度をして午前5時にロビーに下りる。スーパーホテルなのでフロントにはシャッターが下りている。しかし、すでにホテル前にはタクシーが1台、待機していた。運転手さんに声を掛けると、私が予約していた車であった。

焼山寺遍路転がしの時も、今治40kmウォークの時も、こうやってまだ暗いうちから歩き始めたのであった。眠いとか疲れたとか、弱音を吐いてはいられない。タクシーは前日に歩いてきた道を逆コースでたどり、15分ほどで椿堂下に着いた。料金は2000円ちょっと。早い時間から、お世話様でした。

時刻は午前5時20分。あたりはまだ真っ暗である。とはいえ、街灯が等間隔で明るく点いているのはさすがに国道で、星を見ることはできない。登り坂をゆっくりと登り始める。警察の派出所を過ぎ、街道沿いに続いている民家の脇を抜けて行く。

目安になるのは、ここでも㌔ポスト。最初の1kmを14分30秒、登り坂にしてはまずまずの入りである。意外にも、集落はずっと続いている。遍路地図をみると椿堂から先は山道のような印象だが、そんなことはない。「しんきん庵・法皇」の周囲にも人家がある。バスの終点はまだ先だ(1日1本だけだが)。

次の2kmを14分・14分でクリアして、「しんきん庵・法皇」のあたりまで来ると明るくなってきた。休憩所の中から誰かが手を振っている。この時間からすると、休んでいるだけではなく野宿したのかもしれない。調子が出てきたところなので、休まずに歩き続ける。

いよいよ坂がきつくなってきて、次の1kmは15分かかった。このあたりがバスの終点だが、川を挟んで民家は結構ある。1時間ちょっと歩いたので、水分補給の小休止。

よく見ると、道路の向こうに止めてある廃車のバスの行先表示が「素泊バス」となっている。そして、中に灯りのようなものも光っている。誰か泊まっているのだろうか。あたりには水もトイレもないようなのだけれど、大変だなあと思った。



前日歩いた椿堂下の国道までタクシーを使う。まだ夜明け前なので真っ暗。



1時間ほど歩く間に夜が明けた。法皇休憩所を過ぎ、最後の民家付近から峠の方向を見上げる。




境目トンネルは愛媛と徳島の県境にあたる。

このあたりは愛媛・香川・徳島3県の県境にあたり、国道192号を直進する境目トンネルは愛媛県から徳島県に入る。直接香川県に入る曼陀峠は通り過ぎた「しんきん庵」のあたりから左折して山道になるが、今回はオーソドックスに国道を通って佐野集落から登る計画としていた。

このあたりのルート選択は、前日に戸川公園のボランティアさんとも話になったが、慣れないうちはこの道が一番いいでしょうということであった。

「佐野から林道に出るまでの登りはきついですが、その後はさほどのことはありません。先日の台風でも特に被害があったとは聞きませんので、大丈夫だと思います。でも、その後観音寺までは結構長いですね」

境目トンネルに入ったのは午前6時25分、歩き始めて1時間を過ぎたあたりだった。17分歩いてトンネルを越える。すると、あたりは霧の中だった。

気温表示があって、通過時点の気温は9℃。椿堂から登ってくる途中でも、山の上に雲がかかっていたのは気づいていたが、こんな霧がかかっているということは、下から見ると雲の中ということである。昨日までよく晴れていたのに、山の天気は油断ならない。

トンネルを出て間もなく「水車」というドライブイン・食堂があると遍路地図には書いてあるが、残念ながら廃業していた。結構大きな建物なのだが、この場所ではそんなに客は来ないだろう。同じ名前の真念庵「水車」は大丈夫だろうか。

「水車」のあたりで、後から来た外人さんに抜かれる。この時間ここにいるには、私同様に川之江からタクシーを使ったか(別のタクシー会社でないと空いてなかった)、でなければ野宿である。「しんきん庵・法皇」で見た顔とは違ったような気がするし、廃バスに泊まったのだろうか。聞いてみればよかった。

さて、真念「道指南」では、三角寺の後で奥ノ院(現在の別格十三番札所仙龍寺)に寄る場合も寄らない場合も、現在の椿堂ルートで阿州国境の坂を越えるとある。第一目的地は佐野村。ここに番所があった。

現在ここに、雲辺寺のこちら側でほとんど唯一の宿である民宿岡田がある。トンネルを出て1kmほど歩いて側道に入り、二宮金次郎の立つ学校脇を抜けると、民宿岡田があった。午前7時半通過。

TVでよく見る顔のおじいさんが、放送と同じように物干場に浴衣を干していた。挨拶をして通り過ぎる。椿堂下から2時間余りだから、昨日峠越えをすれば午後6時過ぎに到着した計算になる。無理すればなんとかなるかもしれないし、夕方の登り坂ではこんなに早く歩けなかったかもしれない。

いずれにしても、ホテルに6時に着くのと、民宿に6時に着くのは大違いである。民宿であれば午後4時には着きたいものだし、椿堂の時点で午後4時だったのでかなりあせっただろう。つまり、伊予土居スタートで民宿岡田というのは、かなり飛ばさないと無理ということである。

民宿岡田に泊まるのであれば、前日は伊予三島泊まりが安全である。伊予三島ならビジネスホテルが多いし、隣の川之江という手もある。そうすれば、翌日の観音寺までの時間も2時間早くなる訳だから、雲辺寺の登り下りもそれほどあせらずに済んだと思う思われる。地図だけで計画を立てるのは難しい。



境目トンネルを越えると、あたりは深い霧に覆われていた。




国道から左へ、佐野集落への側道に入る。



佐野は、江戸時代に阿波の番所があったところである。傍らを流れるのは馬路川の支流で、やがて吉野川となり徳島へと流れる。

佐野の集落に入る。徳島県内としては辺地もいいところで、ほとんど民家はないのではないかと思っていたら、そんなことはなかった。国道沿いはもちろん、遍路道である側道沿いにも民家が並んでいる。郵便局の前を通ったら、結構新しく建て替えてあった。まだお客さんが多くいるということである。

半面、自販機はあるけれどもコンビニはなく、民宿岡田が唯一の宿泊手段である。なぜなんだろうと考えて、気がついた。歩いて4時間もかかっているから田舎だと思ってしまうが、川之江から15kmであれば普通に通勤通学圏内である。車で20分のところにイオンもファミレスもあるので、買い物に行くのに何の不便もない。

トンネルを越えて徳島県だけれど、実際には愛媛経済圏である。だからコンビニがなくても大丈夫だし、「水車」にお客さんが来なかったのもみんなイオンに行ってしまうからである。遍路歩きをするからこのあたりに宿がほしいのであって、そうでなければ四国中央市にはたくさんホテルがあるのであった。

TVでは、雲辺寺への遍路道は分かりづらいと民宿岡田のおじいさんが言っていたように、標識がないところもあるので迷う。登山道への入口は材木置場の前で、ここには道案内がたくさん貼ってあるが、ここから先はなかなか難しい。しばらく舗装道路を進み、そこから細い道を通って高速道路の下を抜ける。

高速道路の前後はかなり傾斜がきつい。思わず、簡易舗装の交差点でリュックを下ろす。狭い道なのに、軽トラックが登ってきたのをよけながら、ペットボトルのミネラルウォーターで一息つく。そういえば、タクシーを下りてから一度も座って休んでいない。唯一の休憩所であった法皇の休憩所には、野宿と思われる先客がいたからである。

高速道路のすぐ横を登るのは、あまり見ない景色である。車が全く通らないのは、時刻が早いからか、あるいは交通量そのものが少ないからだろうか。高速道路の向こうはすぐ山であり、こちら側も急斜面の登りである。

このあたり、崩落防止工事の掲示版によると、木地屋谷という地名らしい。ということは昔、ここを登った山中に木地屋の集落があったということである。木地屋とは、ろくろを使って木を削り皿や器を作る職能集団で、多くの材木を必要とすることから人里離れた山中に集落を作ったとされる。

急斜面を登り始めて、その後に緩斜面になり、再び急斜面になる。路面は岩交じりで、ほとんど登山道である。こういう場所を歩くときは登山靴が欲しいし、荷物ももう少しコンパクトにしたいのだが、お遍路歩きではそうも言っていられない。

登山道に入って45分、丁石のある少しだけ広くなった場所で一休み。谷から登ってくる急登はなんとかクリアしたようだが、まだ峠は見えない。佐野集落の標高は240m、林道との合流点が665mなのでまるまる400mの標高差である。私の登りペースからすると1時間半くらい、ということはおそらく半分位しか登っていないだろう。

休憩地から先に再び急登があり、トラバース道があり、なかなか終わりが見えてこない。道幅は狭くベンチもなければ休めそうな場所もない。分岐点もない一本道なので、道間違いの可能性がないところが救いだ。なんとかがんばっているうちに、ようやく行く手に峠地形が見えてきた。午前9時ちょうど、登山道に入って1時間半で林道との合流点に出た。

ベンチも何もなかったが、乾いた舗装道路の上にリュックを下ろし、エネルギーゼリーで栄養補給。考えてみれば、4時前に朝食をとって以来、水分補給だけでここまで来た。この先も、山を下りるまで食べられる場所はないかもしれない。ゼリー飲料でもカロリーメイトでも、食べられる時に食べて体をもたせるしかない。

[行 程](スーパーホテル四国中央・タクシー →)椿堂 5:20 →(4.7km)6:25 境目トンネル 6:40 →(2.9km)7:30 遍路道入口 7:35 →(1.9km)9:00 林道分岐 9:10 →

[Sep 14, 2019]



民宿岡田を過ぎ、郵便局の前を通って、材木置場の前が雲辺寺への登山道入口である。案内がたくさんある。



雲辺寺への登山道に入る。急傾斜の坂道を登ると、高速道のすぐ脇になる。



ここの登りがきついことは、三角寺前の戸川公園のボランティアさんから聞いていた。急傾斜と緩斜面がかわるがわる現れる。

六十六番雲辺寺 [Oct 14, 2018]

10分休んで再びリュックを背負う。ここから先は例の四国のみちで、雲辺寺まで2kmと標識がある。四国のみちは県境の境目トンネルに入る前、法皇休憩所のあたりから曼陀峠に入り、尾根道をここまで歩く。距離的にはやや長くなるが、四国のみちのページをみると佐野集落経由と所要時間はほとんど変わらない。

戸川公園のボランティアさんの言っていたとおり、ここから先は比較的楽だった。傾斜は急ながら舗装されていて、時々車も通る。右足と左足を交互に出していれば、いつかは目的地に着くというコースである。

しかも、道標に残り距離まで出ている。いくら山道は距離じゃなく標高差だといっても、一応の目安になることは間違いない。天気もよく風もなく、歩くには申し分のない気候である。

唯一心配なのは水が残り少ないことであったが、残り1.3kmほどに水場があった。木々が短く伐採され、下は石垣になっていて、上の方から黒い水道用パイプで水を引いてある。付近の看板をみると「四国電力管理地」とあったので、大丈夫だろうと飲んでみた。500mlのペットボトルが空だったので、ここで補充した。

林道合流地点から雲辺寺まで、2kmを1時間15分ほどかけて歩いた。その間、車で通る人は何人もいたのだけれど、遍路歩きの人に追い抜かれることもなければ、すれ違うこともなかった。それは、下りの小松尾山までの間も同様である。

考えてみれば、今回の区切り打ちでは、追い抜かれたのは横峰と佐野の2人の外人さんくらいで、すれ違った人はいなかった。お寺の近くにお遍路姿の人はいたけれども歩きかどうか分からないし、騒がしいのでパスした延命寺前のグループも納札に来なかった。

こんなことは、去年・おととしの遍路歩きではなかった。横峰の平野林道で作業していたおじさんが言っていたように、1日に何人かはいるのだろうが、逆に言えば何十人という単位でないということである。10月といえば秋のお遍路シーズンである。お遍路歩きをしている人の絶対数は、明らかに減っているのではないかと思う。

水場で飲料水を補充し、坂道をさらに500mほど登ると、道はカーブとなり向こうから来た道と雲辺寺に至る道の三叉路となる。ここが残り1km地点で、「四国のみち」の半分消えかかった大きな看板がある。いい加減塗り直せばいいのにと思ってよく見ると「環境庁」と書いてある。ずいぶん古くからこのままのようだ。せっかく小泉大臣になったのだから、予算が付けばいいのだけれど。

そして、このあたりは東西南北いろいろな土地に下りることができるようで、このまままっすぐ下ると、徳島県の阿波池田市に出ることになるらしい。途中で折れると香川県の三豊市、雲辺寺を経て進めばこれから目指す観音寺市である。

この地図看板の先で車道とへんろ道は分かれるが、結局合流するのでどちらを通っても同じことだろう。だんだん道が立派になってくると、雲辺寺である。

順打ちの遍路道を通って来ても山門は通らず、境内の途中、本堂の横あたりから入ることになる。何だかロープウェーで参拝する人を念頭に置いているような気がして寂しいが、それが実際のところだから仕方ないのかもしれない。

10時15分到着。佐野集落から3時間、椿堂から5時間かかって、八十八札所最高標高を誇る雲辺寺に着くことができた。



登山道から車道に合流してからは、登り坂ではあるが舗装道路で歩きやすい。途中に水場があり、飲み水を補給した。



雲辺寺まで残り1kmのあたりに四国のみちの古い看板がある。これによると、四国のみちは県境の前で峠に上がるようだ。



雲辺寺に到着。遍路道からだと、山門からではなく本堂の横に直接出る形になる。

雲辺寺には着いたが、遍路道から歩いて入ると参道の途中から入った形になるので場所がよく分からない。このお寺は、ロープウェイで登って来た参拝者が山門から順路に従って進むのである。

まず手水場を探すけれども見当たらない。弘法大師が杖を突いて作った水堂という建物が目の前にあるのだが、「ここは水を飲むところです。手を洗わないでください」と書いてある。でも、他に手水場が見つからないので、仕方なくお賽銭を置いて水を飲むついでに素早く両手をすすぐ。

巨鼇山雲辺寺(きょごうさん・うんぺんじ)。「鼇」は大きな亀。雲辺寺山を巨大な亀になぞらえての山号と寺では伝えるが、五来重氏は海洋宗教につきものの亀石からの発想ではないかとしている。いずれにしても、弘法大師以前からあった霊場であることは間違いない。

水屋の前の階段を上がると本堂である。山の上なのに立派な建物だが、考えてみれば歩いてこなくてもロープウェイもあるし車道も通っている。この山にはアンテナ塔もあるくらいなので、大きな工事も問題ないと思われる。

本堂はコンクリート造で、それほど古い建物には見えない。中に入ると、仏様に直接お参りできる。比較的新しく見える石造の千手観音像である。札所のご本尊の多くは厨子の中か御簾の後ろで見ることはできない。こちらの仏様は大々的に前に出ている。

霊場会HPによると、本当のご本尊は経尋作の千手観音菩薩坐像で12世紀というから平安末期の作、国の重要文化財である。重文なのでネットを探すと画像が出てくるが、この石造りの仏様とは違うようだ。あるいは、ご本尊は秘仏にしているのかもしれない。

疑問なのは、私の持っている真念「道指南」には(講談社学術文庫「四国遍路道指南全訳注」)、雲辺寺のご本尊は十一面観音と書いてあることである。それもさし絵付である。ところが、霊場会HPも他の資料も千手観音なのである。

雲辺寺が江戸時代から当寺が千手院と称していたこともあり、大師御製かどうかはともかく古くから千手観音がご本尊とされていたことは間違いなさそうなのだが、単なる「道指南」のケアレスミスなのか、よく分からない。

五来重氏によれば、千手観音は海洋信仰、十一面観音は山岳信仰と関わりが深く、そのため山の上にある雲辺寺も、千手観音がご本尊で海にちなんだ亀を山号としているというのだが、山岳信仰の霊場であれば十一面観音であってもおかしくない。このあたり今後の研究課題として考えてみたい。

大師堂は本堂から灯籠の並ぶ坂道を登って行く。嵯峨天皇・清和天皇勅願の石碑があり、建物自体は比較的新しい。帰ってから調べたところ、背後にある奥殿が古くからある建物らしい。霊場会HPにも載っていないのだが、せっかくだから見ておきたかった。下調べが足りなかった。

大師堂で読経した後は、再び本堂近くに戻ってご朱印をいただく。このお寺も納経してくれたのは美人であった。札所の納経所には、なぜか美人が多い。



本堂はコンクリ造で近年の建物である。ご本尊である石造りの千手観音像が印象的である。



本堂から大師堂へは、灯籠の並ぶ坂道を登って行く。



大師堂。嵯峨天皇・清和天皇勅願の石柱が置かれている。背後の山沿いに奥殿があるのだが見逃した。

さて、この雲辺寺は他の札所と比べてたいへんひと気が多く、どこを歩いてもざわついている。ほとんどの参拝者は遍路ではなく、雲辺寺だけをお参りしに来た人達か、観光客かどちらかである。さすがにロープウェイの存在は大きいということであるが、同様にロープウェイのある太龍寺よりも、さらに人出が多いようだ。

もちろん、香川と徳島の経済力の差ということもあるのだろうけれど、お寺の経営努力という側面もあるような気がする。本堂や大師堂を新しくしたり、古くからのご本尊を秘仏にして新しい石造りの前立仏にしたり、山門をロープウェイの方に作っていることもそうかもしれない。全体に、昔からのお遍路よりも現在の参拝客重視という雰囲気を感じる。

それが本当にいいことなのかどうかは分からないけれども、集客という点では効果をあげている。私の地元にある成田山新勝寺だって、江戸時代以来の伝統にプラスして、新規設備投資に余念がない。

それに、これほどの山の上では、どんどん新しくしていかないと、風雪にさらされてどんどん建物が傷む。歴史ある本堂や大師堂も渋くていいけれど、限られた収入で次の世代にどうやって残すか考えた場合、計画的な設備改修はどうしても必要である。先週も書いたけれど、減る一方のお遍路に頼っていては存続はままならない。

この先の遍路道は、標識が少ないのでちょっと分かりにくい。登って来た時とは反対側に、水堂の横から「ロープウェイ駅→」の案内にしたがって進む。

しばらく進んで石段を下りると、立派な山門があり、傍らに手水場もあった。やはり、多くの参拝客がこちらから来ることを想定しているのだろう。参道脇には新しく大きな建物があるが、用途はよく分からない。

このお寺でちょっと困ったところは休むところが少ないということで、気がついたのは納経所前のベンチだけだった。特に歩き遍路の場合、登ってくる途中で天候が急変するということもあるし、そもそも天気のよしあしを選ぶことができないケースが多い訳だから、参拝者休憩所くらいは欲しいと思う。

この時も、山門近くには自販機しかないし、納経所のベンチまで戻るのも面倒だから、仕方なく立ったままでコーラを飲んでお昼休みにした。四国遍路仕様のコーラで、瓶型の缶に遍路姿の女の子のデザインである。容量は缶より少ない300mlで、いっぺんに飲むにはちょうどいい量である。

山門からさらに下ると、両側に五百羅漢の石像が並ぶ独特な雰囲気の参道を通る。最近製作されたもので、苔がほとんど付いていない。例の腹を開いている羅漢を探したのだけれど、五百体もいるので探せなかった。

ロープウェイ駅への道を分けると、巨大なアンテナの基地局が建っている。このあたりは香川・愛媛・徳島三県の県境の高い山だから、アンテナを立てるにはもってこいだけれど、ここまで道路を伸ばすのは大変だったろう。

アンテナ基地の先になると道は少し細くなり、さらに道が分かれて「四国のみち」はいよいよ登山道となる。もちろん、遍路道もこちらの細い道である。雲辺寺で少しゆっくりしたので、時刻は午前11時。次の大興寺までは9kmという表示がある。山道とはいえ下りなので、3時間あれば着くだろうと考えていたのだが、もちろんそんなに甘くなかった。

考えてみれば当り前で、雲辺寺は標高900m以上あり、大興寺は100m以下である。標高差が800mあるのだから、そんなに楽な道である訳がないのである。

[行 程]林道分岐 9:10 →(2.4km)10:15 雲辺寺 10:55 →

[Oct 5, 2019]



「巨鼇山」の扁額が掲げられた山門。「鼇」は大亀。こちらも比較的新しいもの。



山門からロープウェイ駅に向かう参道には、比較的最近作られたと思われる五百羅漢がいらっしゃる。



雲辺寺山はお寺があるだけでなく、県境の稜線であることから大きなアンテナ塔が建てられている。その先で、車道と遍路道が分かれるが、ここからの遍路道がまたハード。

六十七番大興寺 [Oct 14, 2018]

雲辺寺を出たのが午前11時。昼前に出られれば後はなんとかなると思っていたので、ここまでは順調といってよかった。次は「大興寺9km」である。歩き始めは、3時間かかっても午後2時到着とたいへん甘く考えていた。

実際に、遍路地図別冊の歩行距離表には、雲辺寺・大興寺間の平均所要時間は3時間と書いてある。だから、その時間で歩ける人もいるのだろうけれど、正直、ここはハードだった。そう簡単には着かない。

ちなみに「四国のみち」香川県版のホームページでは、雲辺寺から逆瀬池までの所要時間を4時間半としている。逆瀬池は、大興寺よりもずっと手前である。

しかし、歩いている時はそんなことは知らない。遍路地図の所要時間だけ見て、3時間で着くものだと思って歩いていた。なるほど、下り始めは快適だ。個人的に、東海自然歩道を「高速登山道」と呼んでいるのだが、「四国のみち」のこのあたりはそれに匹敵する快適さであった。

ところが、萩原寺方面への道を分けるあたりから、容赦ない下り傾斜のスイッチバックとなる。足下も登山靴ではなくウォーキングシューズだから、なかなかグリップが利かない。滑りそうになるので、一生懸命ブレーキをかけながら下って行く。

佐野からの登山道と違って、頻繁に標識が出てくるのはさすが「四国のみち」だが、その数字がなかなか減らないので力が入らない。そして、休もうと思っても、日陰になっているものだからベンチがみんな苔で緑色に染まっている。とても座る気になれない。

30分下って1kmしか数字が減らず、1時間下っても2kmしか減らない。下りだというのに、登り以上に時間がかかっている。もしかして雲辺寺で飲んだコーラだけでは補給が足りないのかと思って、歩きながらカロリーメイトを食べる。

そうしていると、ようやく日が差している場所にベンチがあり、見た目も乾いて座れそうである。リュックを置いて一休みする。カロリーメイトの残りとパックのミックスフルーツを食べて、ようやく人心地がついた。

「四国のみち」の標識があり、ここは一升水という場所であった。峠越えの人が水を飲んだ場所のような地名だが、ここから谷を下ったところに鰻渕という水の湧く場所があり、昔、日照りの際に人々がウナギに祈って水を得たという伝説があるらしい。

この一升水から大興寺までが6.1km、標高差はまだ400mもある。ここまで下ったのと同じ標高差を下らなければならない訳で、とてもあと2時間で着くとは思えなかった。

気を取り直して出発するが、やっぱりというか、そこから先も延々と登山道は続き、ようやく林道まで下りてきたのは午後1時過ぎ、雲辺寺から2時間以上が経過していた。この時点で大興寺まで残り4.5km、この間1.6kmに1時間近くかかった計算になる。

登山道から出てからは快適な舗装道路で、傾斜も格段に緩やかになった。間もなく、民宿青空屋の前を通る。ここに宿が取れれば、あと2時間、いや3時間遅く出発しても大丈夫で、余裕をもって歩けただろう。でも、誰とも会わないのにそんなに予約があったのは妙だなと思った(おそらく、この日に集中していた秋祭りの影響である)。

青空屋を過ぎてからも、大興寺まではまだまだ長い。ただ、このあたりになってくると景色が開けて、山道とは違って歩いていて楽しい。はるか向こうの海側に見える小さな丘が琴弾山で、その右に見える大きな山塊が、本山寺の後背になる七宝山であろう。そこからずっと山並みが続き、その中には弥谷山や我拝師山もあるはずである。



一升水の休憩ベンチ。ここまでのベンチは湿っていて座れなかった。カロリーメイトとフルーツパックでお昼にする。



歩き始めて2時間、ようやく登山道が終わり、舗装道路に出た。この少し先が民宿青空屋で、ここまでだったらスケジュール的に楽だった。



県境を抜けて香川県に出ると、観音寺方面への伸びやかな眺めが広がる。大きな山塊が観音寺や本山寺の山号でもある七宝山。右に連なるのがこれから歩く弥谷山・我拝師山。

大興寺が近づくと、いくつかあるため池を迂回しつつ進む。まっすぐ進めるとは限らないので、見た目よりも距離がある。真念「道指南」にも「この間池二つ有 ふたつめにしるし石有」と書かれているが、小さい池を合わせると現在ではもっと多い。

とはいえ、地図でみる限り最も大きいはずの岩鍋池にはほとんど水はなく、土色をした底土が見え、その中を細い川が流れているだけだった。1週間ほど前に台風が来て大雨になり、横峰寺のあたりでは土砂崩れも起こったほどだというのに、県境を越えると水不足なのだろうか。ちょっと意外な気がした。

そして、大興寺、かつての小松尾山である。小さな、とはいっても標高差で20~30mはある坂を2つ3つと登り下りしなければならない。順打ちルートだと民宿おおひらの前に出るのだが、山門へは再び下って山を半周しなくてはならないのだった。途中で気づいて、本堂までショートカットする。

結局、大興寺に着いたのは午後2時55分、雲辺寺からは4時間かかった。遍路地図別冊に載っている所要時間よりも、「四国のみち」ホームページに載っている所要時間の方が、ずっと実態に近いということである。

小松尾山大興寺(こまつおさん・だいこうじ)。「道指南」では小松尾山、ご詠歌では「小松尾寺」としているが、霊場記には「小松尾山大興寺」と現在と同じ山号・寺号で載っている。

その霊場記の挿絵が、現在の姿とほぼ同じである。遍路道から本堂・大師堂のエリアに入り、石段を下って大興寺の庫裏という絵が描かれている。ということは、現在の山門のあたりを昔は大興寺といい、いまの本堂のあたりを小松尾寺と言ったものだろうか。

歩いてくる時は気づかなかったが、寺全体が一つの山になっていて、古墳のように見える。本堂一帯や民宿おおひらのあたりは20~30m高い丘の上で、そこから下って山門があり、その前は広い水田になっている。

ご本尊の薬師如来は香川県の指定有形文化財。寺に伝わる天台大師(中国天台宗第三祖智顗)坐像、弘法大師坐像も、同じく有形文化財の指定を受けている。天台宗と真言宗が併存する札所も珍しいが、このことは「霊場記」でも触れられており、最盛期は七堂伽藍を有する大寺だったという。

その面影はいまでも残っており、本堂エリアは広々として落ち着いていて、かつて両宗研究の場として多くの学僧が勉強していた雰囲気が感じられる。それと、山の上と麓ではお寺の雰囲気もかなり違っていて、山の上は隔絶しているし、麓は開放感がある。

遍路バスツアーの一団が来て、いっぺんににぎやかになる。駐車場は、山門ではなく本堂レベル、つまり丘の上にあるようだ。とはいえ、境内は広いので、それほど気にはならない。

さて、雲辺寺からの歩きに4時間を要してしまったため、大興寺のお参りが済むと午後3時を20分ほど回ってしまった。こういうことがあるから、計画には余裕をもたなければならないのである。

この日はタクシーの都合で予定より1時間早く5時にスタートしている。だから、もし予定どおり6時に出発していれば現時点で4時半、納経時間ぎりぎりになったということで、まさにケガの功名であった。

この日の札所はこれで終わり、あとはホテルまで歩くだけであるが、距離はあと約7kmある。



大興寺本堂。道指南では小松尾寺とあり、ご詠歌にもそう謳われている。



大師堂から納経所。麓に下りて来ると、お寺の雰囲気も変わる気がする。



「小松尾山」の扁額が掲げられた山門。順打ちだと、民宿おおひらから本堂・大師堂を経て石段を下って山門に達する。

大興寺の周辺は農家と水田であるが、すぐに太い通りに出る。ここが国道377号線で、11号線と並行して山寄りを通る。ここを通れれば分かりやすいのだが、残念ながら観音寺市街へは、この通りを横切り、高速道を横切り、さらに国道11号線を横切らなくてはならない。

そして、遍路地図によると、その間まっすぐな道はなく、結構曲がりくねりあっちこっちで折れなければならない。分かりづらい道なのであった。

すでに午後4時を回った。市街地に近づいて、車の量も多い。3時起きして5時から歩いて、昼ご飯はカロリーメイトである。夕方近くなって、なかなか足が上がらなくなってきた。

心強いのは、まだ日が高いので暗くなる心配がないことであった。遅い方のタクシーで7時に出発していたら、今頃は間違いなく薄暗くなっているはずである。早く出発してよかった。

計画段階で、このあたりで日が暮れる事態も想定していたのだが、コミュニティバス自体あまり本数がないのと、ちょうどこの日(10月14日・日曜日)が運休という情報があった。

来てみて分かったが、愛媛県西部の伊予三島・川之江近辺と同様、観音寺周辺は秋祭りの最中で、おそらくそのための通行規制である。この日も方々から太鼓の音が聞こえ、通りの奥からは祭り装束の若い衆を見ることができたので、まさに秋祭りたけなわというところだったようだ。

大興寺のあるのは観音寺市ではなく三豊市になるが、市街地がほとんどつながっている。その中を、観音寺市内に向かってひたすら歩く。大興寺を出発して1時間ほどで、高速道の下を通過した。あと半分である。

高速道路から50mほどのところに、屋根のある小屋とベンチが見えた。「お遍路さんの休憩所」と書いてある。ありがたく、休ませていただく。5分ほど休んで出発。まだ4時半だから、5時半くらいには着く。ここからのタイムロスは、坂道ではなく信号待ちだ。

市街地に入り、案の定信号待ちで何度か足止めを食う。いくつめかの信号に、セブンイレブンがあった。夕飯はどこか駅前でと思っていたのだが、セブンでお寿司でも買って済ませてしまおうと思う。入ってみると、お寿司は置いてなかった。適当に買って、次の次の信号くらいで線路を渡ると、なんと小僧寿しがあった。間が悪いことである。

予約してあったのは、観音寺駅前にあるサニーイン。出張で何度か泊まったことがある。素泊まり1泊で5900円はそれほど安くはないけれども、とにかく交通の便のいい宿である。17時40分到着。大興寺から2時間20分、椿堂下から歩き始めて12時間20分という長丁場であった。

自販機でビールを調達し、セブンで買ったしらすごはん、豚しゃぶもやし、チョレギサラダで夕飯にする。このホテルにはレストランも併設されているが、日曜日はやっていないのであった。

この日の歩数は61,945歩、GPSで測定した移動距離は30.6km。雲辺寺の登り下りがあって30kmだから、平地だったら35kmくらい歩いたことになりそうだ。

[行 程]雲辺寺 10:55 →(3.2km)12:10 一升水休憩所 12:20 →(1.6km)13:10 登山道分岐 13:15 →(4.5km)14:55 大興寺 15:20 →(4.3km)16:30 お遍路休憩所 16:35 →(3.9km)17:40 観音寺サニーイン(泊)

[Oct 26, 2019]



山の中と違っていくつも道が交差するので、道が分かりづらい。特に小松尾山から観音寺は、平坦なので見通しが利かない。



交通量の多い国道377号を渡ると、しばらくは車が少ない静かな道となる。1時間歩いて高速道路の下を通過。



17時40分、観音寺駅前のサニーインに到着。この日は12時間以上歩いたことになる。朝・晩がコンビニ飯、昼はカロリーメイトというハードな1日だった。

六十八番琴弾八幡宮 [Oct 15, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

観音寺をスタートする前に、スケジュールについて注意点を少し書いておきたい。遍路歩きにあたって、スケジュール策定の参考とさせていただいているサイトがいくつかあるが、それらの中でどうかと思うのが観音寺からの日程である。

あるサイトでは、68番から75番まで、70番奥ノ院を含めて9寺をお参りして午後5時半に善通寺に入る計画としている。参考とさせていただいて申し訳ないのだが、正直なところ、これは無理である。

私の場合、1時間遅く午前8時に出発したものの、弥谷寺を打ち終えたのは午後3時だった。仮に6時半に出発したとしても午後5時の納経終了までに善通寺に入るのはきわめて困難だし、2つ前の出釈迦寺あたりで途方にくれることになった可能性が大きい。そんな心配をしながら歩いても精神健康上よろしくない。

タクシーを呼んだとしても費用はそれほどかからないが、歩き遍路をしている以上タクシーはいざという時以外使いたくない。いざという時とは、ケガや体調不良、道路の不通や宿が満室といった突発事由であり、予定した速さで歩けないというのは計画に含めるべき事由である。

私の考えでは、この区間の日程は2日に分け、初日は琴弾八幡宮から弥谷寺がちょうどいい。そして余裕があれば、翌日は出釈迦寺から奥ノ院の捨身ヶ嶽禅定をお参りすることにしたらどうかと思う。
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2018年10月15日、前日は洗濯をして午後9時にはベッドに入ったが、体が痛くてよく眠れなかった。さすがに朝3時起きの5時スタートで雲辺寺の登り下り、さらに観音寺まで歩くというのはハード過ぎた。太腿をはじめ足全体が痛むし、リュックの重さで肩も痛い。風呂上りのバンテリンだけでは効かず、持ってきたロキソニンテープを手足4ヵ所に貼る。

それでも、午前4時を過ぎると寝ていられなくなった。ちょうどこの日はGamedayである。このホテルは古いけれども、wifiが使えるのでDAZNが映る。NFLのレッドゾーンを見て時間調整する。

6時25分からテレビ体操をして7時から1階のレストランで朝食。料金はホテル代に込みで5,900円、この日選んだのは和定食で、さば、焼き海苔、納豆、切干大根、卵焼きにご飯とお味噌汁。久しぶりに、ちゃんとしたご飯を食べた。

部屋に帰って、この日の支度をする。前日ここまで歩くのはしんどかったが、連泊になったのでこの日はデイパックのみである。荷物が軽いのもうれしいし、出発時間に気を使うこともなくのんびり出られるのも、今回の遠征では初めてであった。

午前8時にホテルを出発。琴弾山は駅とは反対側に市街を歩く。住宅や商店街、学校や郵便局、いくつか旅館もある。どの道を通っても、方向さえ間違えなければ大丈夫である。

住宅街の傍らに、大太鼓を乗せた山車が見えた。前日、小松尾山から観音寺市街に向かう途中でも太鼓の音があちこちから聞こえてきたが、この週末は秋祭りの最中である。伊予三島・川之江近辺では曜日にかかわらず10月13~15日固定ということだが、県境を越えてもそうなのだろうか。

10分もすると財田川にかかる橋を渡り、その向こう岸に大きな鳥居が見えてくる。琴弾八幡宮である。

観音寺といえば、銭型砂絵がたいへん有名である。土地の人々が、殿様を楽しませるため砂浜に大きく寛永通宝の砂絵を作ったという江戸時代の逸話に基づき、現在までずっと続けられている。

東西120m、南北90mの巨大な砂絵で、年に2回砂ざらえといって、掘り直して形を整えるらしい。琴弾八幡宮・観音寺・神恵院からは山の反対側にあたる。



この日の朝は和定食。前日まで厳しいスケジュールだったが、この日は7時から朝食をとることができた。



香川県に入ってもこの週は秋祭りが各地で行われていて、山を歩いていても麓から太鼓の音が響いていた。



観音寺駅前から10分ほど歩くと琴弾山が見えてくる。山の上が八幡宮。下には道の駅がある。銭型砂絵は山の向こう側。

六十八番札所は、もともと琴弾八幡宮である。「道指南」でも「霊場記」でも、「四国辺路日記」でもそれは変わらない。 経緯は、「霊場記」が最も詳しい。ある日、琴の調べとともに八幡神が宇佐から移ってきた。当時この山にいた法相宗の高僧・日証上人が応対し、八幡神ならば奇蹟を起こすよう願ったところ、一夜のうちに海が竹林に、浜が松林になったという。日証上人は村人に呼びかけて舟を山に上げ、「琴弾別宮」としてお祀りしたのが琴弾八幡宮である。

いつの時代からか神仏混淆し、阿弥陀如来をご本尊とする札所となった。明治の神仏分離により琴弾八幡宮と神恵院に分離され、神恵院は現在、観音寺と同じ境内にあることは周知のとおり。とはいえ、「霊場記」挿絵には現在と同じ琴弾八幡が描かれており、ご朱印をどこでいただくかはともかく、遍路としては訪れるべき場所であろう。

大鳥居のあるグランドレベルにも、立派な拝殿がある。あるいは、山の上まで登るのが大変な人は、こちらでお参りするのかもしれない。山上へは、大鳥居をくぐってすぐ右から石段が始まる。

石段は本殿まで381段で、なかなかハードである。この回の区切り打ちでは、弥谷寺や金刀比羅宮でさらに多い石段があるのだが、その第一弾ともいうべき長い登りであった。

一晩休んだとはいえ、前日に雲辺寺を登り下りしたばかりであり、さすがに一気には登れなかった。標高100mにも満たない低い山なのだが、なかなか終わりが見えてこない長い石段である。休み休み登る。

本殿は丸印に琴のマークが、透明なガラスに印刷してある。金刀比羅宮は丸印に金だから、ちょっと違う。本殿前にはお賽銭箱とともに、例の金属製納経札入れが置いてある。朝早くから、何人かの人がお参りしているけれども、お遍路姿は私以外にはない。

二礼・二柏手・一礼で拝礼し、納札する。本来納札とは、お経を奉納するか少なくとも読経してからするものとされるが、神前であれば神式の作法に従うのが無難だろう。

振り返ると、急な石段の下に観音寺市街が見える。真念が「観音まち数千の軒をならぶ」と書いている眺めである。観音寺市の現在の世帯数は約25,000、人口が約6万人だから、江戸時代からほとんど変わらない規模である。

というよりも、もともと観音寺というところは、琴弾八幡宮の門前町として発展してきたものだろう。物資の中継点・集積地としては丸亀と川之江に挟まれて大きくなりにくいし、近くにお城もない。山に囲まれているので、広い耕地がある訳でもない。

そして、観音寺市で最大の産業といえば、いまはJTに買収されてしまった加ト吉である(ブランド名「カトキチ」として残っている)。

加ト吉の社長は長く観音寺市長をしていて、観音寺グランドホテルも系列であった。加ト吉といえばもともと冷凍うどんで発展した会社で、それから多角化して冷凍食品に進出したけれども、私のイメージはいまだに「かときっちゃんの冷凍うどん」である。

その観音寺市街を垣間見ながら石段を下る。登る時と違って、下る時は楽ちんである。遍路地図をみると、麓にある観音寺へは本殿の裏から銭型砂絵展望台を抜けて行けそうなのだが、砂絵は見たことがあるし(何度も見るほどではない)、遠回りになりそうな気がしたからである。再び大鳥居まで下りて、道標にしたがって観音寺に向かう。

[行 程]観音寺サニーイン 8:00 →(1.0km)8:20 琴弾八幡宮 8:40 →(1.2km)8:55 神恵院・観音寺 9:20 →

[Nov 9, 2019]



琴弾八幡宮大鳥居。グランドレベルにも拝殿があるのは、本殿まで登るのが大変だからだろうか。



八幡宮は琴弾山の頂上近くにある。標高100mに満たない山だが、長く続く石段はきつい。



琴弾八幡宮本殿。振り返ると、観音寺市内の眺めが眼下に広がる。例の納札箱が置かれているのは、お遍路のお参りが多いためだろう。

六十九番観音寺 [Oct 15, 2018]

大鳥居から県道に戻り、道案内にしたがって観音寺に向かう。普通の商店が続く。ドラッグストアがあり車庫があり空地がある。遍路地図では琴弾山の麓で、琴弾山自体それほど大きな山ではないのですぐ着きそうなのだが、着かない。

お寺が見えてきたので、あれがそうだろうと思って山門を入ろうとすると、別の寺である。かなり大きなお寺で、こんなに近くに2つも3つも大きなお寺があるのだろうかと思った。

この、観音寺でない方のお寺に隣接している墓地に沿って進むと、観音寺に至る坂になる。すぐ横は普通の住宅で、手の届きそうな位置に洗濯機が置かれている。

コインランドリーが建物の外にあるだけで、虫が入らないだろうか埃は溜まらないだろうかと心配になる性分である。だから、長珍屋さんのように館内にあるとうれしいし、岩本寺宿坊のようにお風呂場に隣接して置いていただくと安心なのだが、外にコインランドリーがある宿も多い。

ベルリーフ大月がそうだったし、宇和パークホテルもそうだった。この回では、ビジネスホテルMISONOがそうであった。もちろん、屋根の付いたスペースにあることがほとんどなのだが、虫は出入り自由である。

でも一般住宅で室内に洗濯機を置くのが当り前になったのは、それほど昔のことではない。私が子供の頃にはまだ電気洗濯機は黎明期で、1槽式で外側に洗濯物を絞るローラーが付いているものだった。

洗濯物を絞るのだから、もちろん水が流れる。水が流れるものを室内には置けないので、洗濯機は風呂場とか土間とか、家の外、コンクリの打ちっぱなしの上に置かれるのが普通だった。

洗濯機にちゃんと排水機能が付いて、基本的に外に水が流れないようになったのは、2槽式になってからと記憶している。おりしも昭和40年代、公団住宅やマンションなど、集合住宅が大量に供給された時期である。洗濯機も、家の中に置かなければならなくなった。

そして、下水道が100%近く普及したのも昭和50年代前半である。下水管につなげる必要から、戸建て住宅に洗濯機用の排水溝があるのがデフォルトとなり、多くの戸建て住宅で、洗濯機の置き場所が軒下やベランダから脱衣所近辺に移った。

平成になって建てられた住宅で、室内に洗濯機置場のない物件を探すのは困難だろう。してみると、バキュームカーを見なくなったのと洗濯機が家の中に入ったのは、同じ時期ということになる。

だが、古いアパート等では、いまでも入口の外に洗濯機を置いている家を見ることがある。そして、観音寺近くで、外に洗濯機を置いている住宅を見たのである。しばし、洗濯機のたどってきた歴史に思いをはせたのであった。

坂道を登って、観音寺の仁王門に達する。お寺の名前が市の名前になっているくらいだから、大きな門構えだと思っていたのだが、大きさ自体はごく普通である。両脇に金剛力士像。葷酒山門に入らないように見張っているのであろうか。



琴弾八幡宮から琴弾山を回り込むと観音寺・神恵院に達する。最初に見えてくるのは別のお寺なので注意。



山門から石段を登ってすぐ見えてくるのは観音寺の本堂・大師堂。奥が本堂。



こちらが大師堂。本堂の斜め横に建っている。奥に見えている瓦屋根が神恵院の大師堂。

七宝山観音寺(しっぽうざん・かんおんじ)、山号の七宝山は、観音寺市・三豊市・善通寺市にまたがってそびえる山塊であるとともに、弘法大師が瑠璃・珊瑚・瑪瑙など七宝を埋めて地鎮したことによるとも伝えられる。

ちなみに、この山塊にはいくつかのピークがあり、電子国土によると複数のピークに七宝山の名が付けられている。それだけでなく、志保山という同一の語源としか思えないピークもある。だから、もともとこの山塊全体を七宝山と呼んでいて、その理由は7つの同じような高さのピークがあるからというのは、私の思いつきである。

観音寺の背後にあるのは琴弾山で、山頂近くに琴弾八幡様がいらっしゃる。そして、観音寺を開いたのは日証上人、つまり、琴を弾きながら浜に八幡様がいらっしゃった際、「凡人には八幡様と分かりませんので奇蹟をお見せ下さい」とお願いした僧である。

日証上人は琴弾八幡宮をお祀りするとともに、別当寺として観音寺を作ったということだが、この話からするとまず寺があって、後から来たのが八幡神である。このことがあったのは大宝年間といわれるから、飛鳥時代である。空海が活躍した平安時代初期より100年早い。だから、遍路の成立より古いということになる。

もっと驚くのは、琴弾八幡宮より観音寺の方が古いということである。八幡宮が全国に広がったのは源氏の隆盛が契機だし、本家である宇佐八幡が全国的に有名になったのは和気清麻呂神託事件だから奈良時代末。仏教伝来は聖徳太子の時代だから古くてもおかしくないのだが、神社とお寺が隣接していれば古いのは大抵神社の方なので、大変珍しいケースである。

山門の石段を登ると、境内である。それほど大きな境内ではないのに、一見して位置関係がよく分からない。普通、本堂があると思われる一段高い場所にある建物には「薬師堂」の矢印がある。本堂は山門からだと一番手前、横向きに建てられているのもあまり見ない。

だが、「霊場記」の挿絵でも、観音寺本堂は参道下から見て右側、横向きに建てられている。ということは、少なくとも江戸時代初期から位置としては変わっていないということだ。歴史のある伽藍配置ということになる。

まずは本堂前で読経、観音寺のご本尊は聖観音菩薩で、ホームページには秘仏と書いてある。はす向かいにある大師堂で2度目の読経。順番からいうと観音寺は神恵院の後になるが、そこは同じ境内なのでお参りしやすい順序になる。

観音寺大師堂と神恵院大師堂の間に、奥まって建っている鉄筋コンクリートの四角い建物が、神恵院本堂である。白いコンクリ打ちっぱなしの壁面に四角く穴が開けられ、そこを入ってお参りするのはなかなかシュールである。

四角い穴から入ると階段になっていて、2階に上がってお参りする。ご本尊は阿弥陀如来、明治になるまで琴弾八幡宮で祀られていた。3回目の読経、ちょっと疲れてきた。ベンチが置いてあるので一休みする。

神恵院大師堂は観音寺の庫裏といってもおかしくない位置にあり、隣に六十八番・六十九番共通の納経所もある。この朝4回目の読経をし、ご朱印をいただく。2回の読経は何ともないのに、4回いっぺんにやるとさすがにちょっとだるい。恐れ多いことである。

お参りが終わって山門を出る。次は本山寺だが、道案内は見当たらない。ひとまず、財田川沿いの県道に出れば間違いないだろうと、そちらの方向に歩き始める。ほどなく、石碑がみつかった。時刻はまだ午前9時を過ぎたばかりである。

[行 程]琴弾八幡宮 8:40 →(1.2km)8:55 神恵院・観音寺 9:20 →

[Nov 23, 2019]



鉄筋コンクリートの神恵院本堂。コンクリート打ちっぱなしにぽっかり開いた四角い穴は、なんともいえずシュールである。中に階段があり、登ってお参りする。



神恵院大師堂と観音寺・神恵院共通の納経所。左手は広く空地になっているので、あるいは新しく何か建てるのかもしれない。



山門を出たところ。すぐに道案内はない。左手奥に見えているのが、山号になっている七宝山。

七十番本山寺 [Oct 15, 2018]

県道に復帰し、財田川に沿って本山寺を目指す。歩道が広く、片側一車線の立派な県道である。

川の向こうには平野が広がり、前日歩いた小松尾山からの道がどこかにあるはずだが、見ただけではよく分からない。遍路地図を見ると、琴弾八幡・観音寺を頂点にV字の経路となるので、距離的には小松尾山から本山寺に直行した方がずっと近い。

このあたりを歩いていて、足がなかなか進まないのには困った。前日のハードスケジュールが祟ったのか、まだ午前9時を過ぎたばかりだというのに、ぐったりして調子が出ない。生身にエンジンブレーキがかかったようだ。

県道は川の流れる方向に沿って、やや右にスライスしている。基本的には橋のある地点にしか交差点がないので、次の交差点までが遠い。㌔ポストもなく、どのくらいのペースで歩いているのかもよく分からない。

そんなに歩いていないはずなのに、次の橋でさっそく「本山寺→」の標識が出てきた。早く右折しても遠回りになるので直進する。遍路地図を見るとしばらく先に細い道があるので、歩行者はそこを通ればいいのだろう。

一つ先の交差点の少し先で財田川が2つに枝分かれしており、中洲にあたる部分に渡る小さな橋がかかっている。あれが、遍路地図に載っている点線のルートだろう。脇道に入って住宅の裏を通り橋を渡る。車が通れないほど狭くはないが、すれ違うのは厳しそうだ。

橋を渡った先は、川に沿って進む歩道だった。流れよりかなり高くなっているので、堤防を兼ねているものと思われた。右側は川、左側には田畑と民家が続いている。

今回の区切り打ちの準備のひとつとして手賀沼湖畔を歩いたのだが、ちょうどこういう景色だった。堤防の上に歩道が続くのも同じである。実はその時、気温が急に高くなった中、堤防上を往復12km、さらに家まで10km歩いて、体調がおかしくなってしまったのであった。

だから今回の区切り打ちでは、最初の2、3日たいへんきつかったのだが、その後に山道が続き、スケジュールも押せ押せだったのでそんなことは言っていられなかった。雲辺寺を下ってようやく余裕が出て、疲れが表面に出てきたのかもしれない。

何日か前に歩いた千葉県と同じような景色を見ながら、淡々と歩く。何にせよ、右足と左足を交互に出していれば目的地に近づくのはありがたいことである。山道では油断していると滑るし足を踏み外す。

歩いているうちに、左の住宅地がだんだん密集してきて、5階建ての建物も出てくるようになった。その向こうから、五重塔が見えてきた。見えたかと思うと建物の陰にかくれ、また見えると少しだけ近づいている。あれが、本山寺に違いない。

10時30分到着。観音寺から1時間10分である。GPS測定で4.8kmで信号待ちもあったから、疲れていた割には早く歩けている。



観音寺から本山寺まで、財田川に沿って県道を歩く。前日の疲れなのか、朝のうちは調子が上がらない。



片側一車線の県道から、写っている橋を渡って中洲の細い道に入る。



お遍路前に予行演習した手賀沼湖畔の道とよく似た川沿いの道。おそらく堤防を兼ねているのだろう。もう少し行くと、遠くに五重塔が見えてくる。

七宝山本山寺(しっぽうさん・もとやまじ)。山号は観音寺・神恵院と同じく背後の七宝山から。本山庄にあることから本山寺と呼ばれるようになったが、もとは長福寺という寺号だったと「霊場記」にある。

その霊場記挿絵を見ると、立地が現在とほぼ変わりないので驚かされる。川沿いの道から、仁王門を入って奥に本堂があるのは江戸時代から変わらない。しかし、本堂の横に五重塔はない。明治時代になって再建されたからである。

鎌倉時代に造られた本堂は国宝、仁王門は重要文化財である。境内はかなり広いのだが、工事中の隔壁や作業用車両の通路で分断されてしまい狭く感じる。

ご本尊は馬頭観音菩薩。四国八十八札所で唯一の仏様である。たいへんめずらしいので見せていただきたいのだが、残念ながら本堂の中にいらっしゃって見えない。

ただ、いただいたお姿によると、頭部が馬なのではなくて、不動明王のようなお顔で、頭に馬の頭をかたどった冠を被っている。調べると、多くの馬頭観音像は馬の姿ではなく、憤怒相の人面という造形となっているようである。

もともと馬頭観音とは、馬が観音様になったのではなく、観音様が畜生界を救うためのお姿をとっているもので、観音様であれば人面というのは当り前である。なぜ馬の頭と思っていたかというと、子供の頃に成田街道沿いにあった馬頭観音の石像はたいてい頭が馬だったので、そういうものかと思っていたのだ。

それも間違いという訳ではない。というのは、もともと馬頭観音はヒンズー教のヴィシュヌ神である。ヴィシュヌはシヴァと並んでヒンズー教の神々の中で格の高い神のおひとりであるが、ある時ブラフマー(梵天)の呪いを受けて頭がなくなってしまい、代わりに馬の頭をかぶって活躍したという神話があるらしい。

ヒンズー教ではそうなのだが、仏教では観世音菩薩が六道を救うため六つの形をとるうちの一つなので、人面の憤怒相をとっている。憤怒相をとる仏様は不動明王がたいへんポピュラーなので、不動明王が馬の冠を頭に乗せているように見えるのであった。

さて、明治時代末に建てられた五重塔は築百年を超えるため、2018年10月現在「平成の大修復」の最中である(平成では終わらず、令和になって完工するだろう)。境内いたるところに、「平成の大修復」の看板が立てられているのは、かなり美観を損ねている。

とはいえ、解体修復ということだから、相当の資金と工事期間が必要である。国宝になるような古い建築物であれば国からおカネが出るだろうし、善通寺のような大寺院なら資金力があるけれども、札所であるというだけではそれほどの余裕があるとは思えない。修復工事をアピールして、広く浄財を呼びかけないと難しいのだろうと思う。

明治時代の住職が、目がみえるようになったことに感激してかつての五重塔を再現したということだが、作る以上に維持管理におカネがかかるのは古今東西の習いである。八十八の多くのお寺に言えることだが、これまで残されてきたものを将来も残して行くのは、なかなか大変なことなのである。

この寺のお参りの際たいへん困ったのは、私と同じ頃に現れたじいさんが、ダミ声の大声で読経するのである。それも、どこの流儀なのか、最初は祝詞(なぜ祝詞?)、三帰三竟十善戒と続いて般若心経、光明真言、十三仏真言などを早口のダミ声の大声でまくし立てるのである。

すでに69ヶ所プラスアルファをお参りしている訳だから、大勢の読経も大声の読経も、平気とは言わないが自分の読経に集中することができる。でもこのじいさんの早口のダミ声の大声はどうにもお手上げだった。本堂では重なってしまったが、大師堂ではタイミングをずらして心静かにお経を上げた。

お参りを終えて納経所に行くと、「飴をどうぞ」とご接待される。「それでは1つだけ」とフルーツ飴をいただくと、「弥谷寺まで歩きだと遠いし、階段が多いからお腹がすくと大変ですよ。持っていらっしゃい」と6つ7つ一掴みでいただいた。よほど疲れているように見えたのであろうか。

[行 程]神恵院・観音寺 9:20 →(4.8km)10:30 本山寺 10:50 →

[Dec 7, 2019]



本山寺仁王門。現在「平成の大修復」工事中で、作業道の柵が境内に続いている。



山門から参道をまっすぐ進むと、五色の幔幕に囲われた本堂。鎌倉時代の建築で、国宝である。写真はすでにダミ声じいさんが去った後。



境内は十文字に石畳の参道があり、本堂からみて左手に大師堂がある。大師堂の右が五重塔で、現在修復工事中で重機が何台か止まっていた。

七十一番弥谷寺 [Oct 15, 2018]

本山寺を出て、国道11号線を目指す。遍路地図を見るといろいろ行き方はあるが、何と言っても国道11号が間違いない。脇道を歩くのは、国道で周囲の様子をつかんでからでいい。

200mくらい向こうに車がたくさん通っている道が見え、ゆめタウンがある。あそこが国道に違いない。「you me town」と書いてゆめタウン、ショッピングセンターである。九州の地場スーパーだとばかり思っていたので、四国の高松近くにまで進出していたのは意外だった。

ロードサイド店が立ち並ぶ国道に出ると、さすがに車が多い。国道11号線は、県境を越えると観音寺の中心部は通らず坂出に向かう。だから観音寺から本山寺までは県道頼みとなるが、本山寺から弥谷寺までは国道に沿って進むことができる。

11時過ぎに国道に出た。そろそろお昼の時間だが、お腹がすいたというよりは甘くて冷たいものが食べたい。遍路地図によるとこのあたりにミニストップがあったはずである。それも2つ続けてある(三豊豊中町店と三豊高瀬店)。お遍路ではファミマにたいへんお世話になっているが、個人的に一番好きなコンビニはミニストップなのである。

なぜかというと、ソフトクリーム系が充実しているからである。ファミマのフラッペ系も捨てがたいが、ミニストップの季節ごとのソフトクリーム、ハロハロ、パフェは大好きである。そういえば子供の頃、パフェが食べたいといつも思っていた。でも、なかなか食べさせてもらえなかった。

国道に出て10分ほどで、1つ目の高瀬豊中町店に着く。コーヒーフロートをお願いして、イートインコーナーで食べる。本山寺のところで書いたように、この日の午前中はだるくて足が前に進まなかったが、コーヒーフロートを食べたら生き返ったような気がした。

このあたりは三豊市であるが、三豊(みとよ)は昔からあった地名ではなく、三野と豊中という旧町名から作った新地名である。そして、三豊市役所のあるのは旧・高瀬町。高瀬と三野はJRの駅名として、豊中は高速道のIC名として残っている。ミニストップは、豊中町と高瀬町に一つずつあった訳である。

国道沿いに「ようこそ三豊市へ」という大きな看板がいくつもあって、アップにされているのは当地出身の要潤(かなめ・じゅん)である。

要潤といえば「亀は意外と速く泳ぐ」、この映画にはギリヤーク尼ヶ崎師も出演している。主演は「のだめ」で、助演は山ちゃんと結婚した蒼井優、「井之頭五郎」もラーメン屋役で出て来る。みなさん一発屋で終わらなくて、何よりのことであった。

国道はまっすぐ続くので、側道に入ってみる。このあたりはため池の多いところで、大小のため池を縫うように脇道が続いている。向こうに山並みが見えて、いい眺めだ。背後の山は弥谷山、天霧山、我拝師山といった山々で、この日の午後と翌日に歩くことになる山であった。

再び国道に復帰する。三豊市役所の前を通り、午後1時にもう一軒のミニストップ、三豊高瀬店へ。1時間ちょっとしか経っていないが、今度はソフトクリームとコーラを買う。お腹の中ではコーラフロートになっているはずだ。イートインコーナーに、お遍路優先座席があるのはうれしい。結局、この日の昼はミニストップ2軒の冷たいもので済ませた。

ミニストップの脇から、弥谷寺に向かう県道に入る。この県道は大型車ではすれ違えないくらいの狭い道なのだが、まっすぐ山の方向に続いていて、建物があまりないものだから遠くまで見通しが利く。すると、目の前にある山が弥谷山で、中腹に見える建物が道の駅であろう。弥谷寺はその上にあるはずだが、遠くからではよく分からない。

山に向かって2~3km、ひたすらまっすぐ進む。時々細い道が交差するが、山の方に向かって行けば間違いない。太い道と交差し、その先で車道と遍路道が分かれていよいよ登り坂である。遍路道を登るけれども、数百m上で再び合流する。このあたり、結構登ったのにまだ民家がある。

息が切れるほど登って、ようやく道の駅である。その少し先が弥谷寺の山門になる。山門の左手から車道が登っており、マイクロバスが何台か止まっていた。私はもちろん歩きである。それにしても、道の駅からこんなに近いのに、下からは弥谷寺の位置がよく分からないのは謎である。山の影になるのだろうか。



本山寺から弥谷寺にかけて、たいへんため池が多い。後方右から我拝師山、火上山、天霧山。



再び国道11号に出た。三豊市役所近くに、ヘンロ小屋高瀬があった。



ミニストップ三豊高瀬店の横から田舎道に入り、まっすぐ先が弥谷山である。中腹に見えているのが、いやだに温泉のある道の駅。

登り始めて間もなく、柵でバリケードされて入れなくなっている古い建物があった。「俳句茶屋」と看板がある。「老朽化により危険ですので、立ち入らないでください」と書いてある。WEBには営業していたという記事も載っているのだが、確かに見た目も危なそうだった。

570段あるという石段を登り始める。なるほど、なかなかきびしい石段である。300段ほど登ったあたりに、自販機とベンチがある。ここで一休みする。ここで休んでいた老夫婦が、「自販機があるということは、裏から車道に抜けられるんだよ」と話していた。なるほどそう言われると、参道の柵の外に砂利道が続いていた。

剣五山弥谷寺(けんごさん・いやだにじ)、寺伝によれば、弘法大師が当山で護摩修法を行われた際、蔵王権現のお告げにより五柄の剣と唐より持ち帰った五鈷鈴を納められたことから、剣五山の山号とした。また弥谷は、仏の住む弥谷(みせん)の名をとったものという。

また、この弥谷寺は、恐山と並ぶ死者の山としても有名である。死者に再び会いたいと願う人は、関東ならば恐山に行くものとされるが、関西であれば弥谷寺に行けば会えるという。かの水木しげるの妖怪図鑑にも、「いやだにさま」として掲載されているくらいである。

そんな予備知識を持って仁王門まで来たのだけれど、実際は考えていたようなおどろおどろしい雰囲気ではなく、ひたすらしんどい登りが続く。大師堂・納経所のあたりまでは階段が続くと思うだけであるが、そこから本堂エリアまで、さらに百段以上登るにしたがって、なるほどそれらしき奇観となる。

本堂に登る最後の坂は、右側が山の岩肌で、いつの時代のものなのか多くの磨崖仏が刻まれている。その一角から水がしたたっており、たくさんの護摩木が供えられている。横に書いてある説明に、この水は山の上にあるのに涸れたことのない霊泉で、峰続きの天霧城の水の手として用いられた、と書いてある。

天霧城は戦国時代まで存続した山城で、室町幕府の管領・細川氏に仕えた香川氏の居城であった。香川県の香川なのでもっと有名であってもおかしくないのだが(律令時代からの地名である香川郡からそう名乗った)、長宗我部氏に敗れ、その長宗我部氏も秀吉に滅ぼされたので、いまや山の半分が採石場となってしまった。

この水場から始まる一画は昼なお暗く薄気味悪いが、恐山のようなおどろおどろしさはない。おそらくそれは、お参りする人達の念によるもので、人形だとか風車だとか三輪車がうず高く積まれている恐山とは違う。確かに、昔の人達は磨崖仏に気味悪さを感じたかもしれないが、私にはどちらかというと歴史の重みを感じさせる。

磨崖仏のある岩壁にそってさらに数十段を登ると、本堂である。山門から本堂まで合計570段ある。本堂前からは、これまで歩いてきた三豊市の景色が広がる。海も近いのだけれど、山の反対側になるため見ることはできない。

ご本尊は千手観音菩薩。本堂の奥にいらっしゃる秘仏である。本堂には自然木の銘板が掲げられており、「大然殿」と書いてあるのだろうか、おそらく大自然の造り出した本殿という意味と思われた。

この時間本堂まで登ってきているのは私だけで、静かに般若心経を唱える。本堂エリアにはお寺の人はいない。お勤めの時以外は大師堂の方にいらっしゃるようである。

登ってきた石段を下りて、大師堂へ。大師堂の中は広くなっていて、お参りをする仏壇の前が納経所である。これでは、お参りの前に納経という訳にはいかない。納経所の前を通る時、「お参りが終わりましたら、奥にお進みください」と声をかけられる。

大師堂の奥には獅子之岩屋という場所があり、建物の中から、ガラス越しに岩壁の磨崖仏を見ることができる。ここが弘法大師が修行した洞窟ということで、わざわざ磨崖仏を見られるように大師堂を建てた訳である。

お参りが終わって大師堂を振り返ると、どうやってあんな場所に貼ったんだろうと思われるような高いところに、千社札が貼ってある。建物自体それほど古いものではないようなので、修復工事の際にわざと古いお札を残したままにしたのかもしれない。



弥谷寺仁王門。道の駅から少し登ったところにあるが、ここから先が540段続く階段である。



これは370段上ったあとの、大師堂への石段。本堂へは、さらに170段ある。切幡寺に匹敵する、八十八札所最大の段数である。



弥谷寺本堂。銘板の材質・筆跡は仁王門と同じに見える。形もほぼ同じなので、同じ木から作ったのかもしれない。字は「大然殿」と読むのだろうか。背後はずっと岩壁で、無数の磨崖仏が彫られている。

真念「道指南」に、「白方へかけぬれば山越に行道有」と書かれているが、白方とは海岸寺のあるたりの地名である。海岸寺は別格二十霊場の十八番札所であるとともに善通寺の奥ノ院でもあり、弘法大師誕生所を善通寺と争ったこともあるという。

朝の予定では山越えして海岸寺をお参りしようと思っていたのだが、もう午後3時になるし、道もよく分からない。おそらく天霧城方面という山道を行くものと思われたが、納経所からまた登らなくてはならないし、山道は荒れていると遍路地図に書いてある。ここは自重して、来た道を戻るのが安全であろう。

数百段の階段を下り、道の駅へ。温泉前にあるバス停の時刻表を見たけれども、次のバスは1時間以上先だ。道はいま登ってきた方向と、奥にも続いている。近くで送迎待ちをしている運転手さんに聞いてみた。

「すみません。詫間に行くにはどう行ったらいいですか」

「詫間?歩くなら、みの駅の方が近いよ。特急に乗らないならその方がいい。ここから下りて(と、登ってきた方向を示して)右に曲がってまっすぐ行けば着く」

ありがとうございましたとお礼を言って、来た道を下りる。帰ってから調べてみると、奥に進むと津島ノ宮に向かってしまうようだ。子供の守り神として有名な津嶋神社の最寄駅であるが、残念ながら特定日(年に2回だけのお参りできる日)にしか電車は止まらない。

あとはどうやっても着くと思って適当に歩いていたら、登る時は山を目指せばよかったのだけれど下る時は目標となる物がなく、どこを歩いているのか分からなくなってしまった。住所表示は弥谷寺の下からずっと「三野町大見」、真念「道指南」も通った大見村である。でも、30分歩いても、線路が見えてこない。

たまたま通りかかった小さい子を連れたおかあさんに聞いてみると、来た方向からは90度左の方向を指さして、

「三野町の駅は、ここをずーっとまっすぐ行って、用水路に沿ってさらにまっすぐ行って、T字路に突き当たるのでそこを右に折れれば着きますよ」

ということだった。口ぶりから、ずいぶん遠いような気がしたのだが、実際に遠かった。用水路のあたりから電車が見えたので安心したのだけれど、結局、弥谷寺からみの駅まで1時間15分かかってしまった。

それでも午後4時なので、海岸寺への山中であせって行くよりずいぶん楽に歩けたのではないかと思う。駅の自販機で「お遍路仕様」コカコーラを飲んで電車を待つ。お遍路姿の若い女の子が3人笑っているデザインである。お遍路で見る若い女の子は大抵一人で、グループで大騒ぎしながら歩くのは例外なくおばさんなのだが。

ホテルに帰ったのは午後5時過ぎであった。コインランドリーで洗濯機を回すと、ちょうどレストランの開く午後5時半となった。四元豚のトンカツ定食とビールで夕飯にする。前日はコンビニご飯だったので、パワーが回復できるような気がした。

この日の歩数は45,065歩、GPSで測定した移動距離は24.2kmでした。

[行 程]本山寺 10:50 →(2.9km)11:35 ミニストップ三豊豊中町店 11:50 →(5.4km)13:00 ミニストップ三豊高瀬店13:15 →(4.4km)14:20 弥谷寺 15:00 →(4.5km)16:15 JRみの駅 →[電車]観音寺サニーイン(泊)

[Dec 29, 2019]



本堂の背後は、歩いてきた三豊市から観音寺にかけての眺めが広がる。



弥谷寺大師堂。中に納経所がある。お堂の中を奥に進むと、磨崖仏をお祀りしてある獅子の岩屋もある。



この日はJRみの駅に戻ってホテルへ。今回新調したモンベルの編み笠と、方々で自販機にあった四国遍路仕様コカコーラ。

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