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七十二番曼荼羅寺 [Oct 16, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2018年10月16日、サニーイン3日目の朝は、この遠征で初めて目覚ましが鳴るまで起きなかった。21時就寝の6時起床だから家にいる時と同じで、睡眠は十分である。前日と違ってだるさはないけれども、肩の痛いのは相変わらずだ。残り少ないロキソニンテープを貼る。

このホテルはチェーンホテルと違って設備は古いけれども、客室は広くて荷物を広げても狭さを感じないし、伸び伸びする。BSが映るのもいいところで、田中陽希の百名山を見て、テレビ体操をして、7時からの朝食時間を待つ。

7時になったので1階のレストランに下りると、テーブルはほぼ埋まっていた。出張客や作業服姿のグループがすでにごはんを食べていたので、7時前から大丈夫だったようだ。前日まで予定どおり進んでこの日はスケジュール的に余裕があるので、急ぐ必要はない。

朝食は、洋定食をお願いする。前日までと違って長距離を歩く訳ではないし、そろそろトーストが食べたかったのである。目玉焼きは、両面しっかり焼いてくれるようにお願いする。香港・マカオだとスクランブルエッグにできるのだが、日本のビジネスホテルでそこまでできない。

支度が終わってリュックを背負うと、意外と軽く感じた。体調のせいもあるのかと思ったが、帰りの飛行機では預けた荷物の重さが1kg以上軽かったから、実際に軽くなっていたようである。

何が減っているか考えてみると、思いつくのは非常食と納札用100円玉である。100円玉の重さは約5gだから、1本50枚で250g。非常食のカロリーメイトとかヴィダーインゼリーは合計500gくらいのものだろう。後は薬とか消耗品、電池だろうか。合計1kg超というのは結構大きい。次回からの検討事項にしなければならない。

予讃線の本数は日中は1時間2本で、通勤通学時間帯はもう少し本数がある。あまり気にしないで駅に向かう。みの駅まで260円の切符を買って、ホームに止まっていた高松行きに乗る。高校生でいっぱいだ。

観音寺からみのまでは、本山、比地大(ひじだい)、高瀬と3駅。前日歩いた県道・国道から線路まで離れているので、車窓の景色は歩いていた時とは違う。以前、出張で来た時は特急を使っていたので、しみじみ見たのは初めてだった。

車掌さんに切符を渡し、みの駅で下りる。午前8時半、まずは県道をまっすぐ進み、右折して国道11号を目指す。前日、弥谷寺への往き帰りで通った道と交差する。前日の帰り道は相当遠回りしたことが改めて分かる。

県道の両側は住宅地から休耕中の田圃となり、虫がやたらと寄ってくる。ビジネスホテルMISORAでは、川の近くにあるのに虫の少ないところだと思ったが、四国すべてそういう訳ではないようである。

国道11号に出たところに、「みの駅まで1.5km」の標識があった。1.5kmなら意外と近いし、完全に徒歩圏である。迷わないで弥谷寺から下りて来られれば、30~40分しかかからなかったかもしれない(実際は1時間20分かかった)。

ここから結構な登り坂で、左手に弥谷寺を見ながら進む。目の高さが道の駅と同じくらいまで登ったので、標高100mくらいあるのだろうか。峠にあたるのが鳥坂と書いて「とさか」、この名前は西予・大洲間にもあった。

こちらの鳥坂は登り坂の頂点にあるだけで、危ないトンネルはない。「名物鳥坂まんじゅう」と看板のあるお店の前を通るが、朝早いためやっていない。ここから下りになる。ため池に向かってゴルフ練習場があり、その脇を左右にカーブしながら国道は下って行く。



観音寺サニーインの朝の洋定食。前日は和定食だった。トーストは今回の遠征で初めて。



みの駅から国道11号に出て、前日歩いた弥谷寺の横を通る。左が弥谷山で山腹に白くみえるのが道の駅。



我拝師山の方向に右折、まず曼荼羅寺にお参りする。後方が我拝師山。

善通寺の市街地が見えてきたあたりで、道は左右に分かれる。左が国道11号線で、右が曼荼羅寺・出釈迦寺に向かう県道である。県道も片側一車線で、同じくらい幅がある。分岐してすぐの場所に、遍路休憩所があった。ベンチに屋根がついた簡単な造りだが、背面に七十一番から七十五番善通寺までの地図がある。

その地図に曼荼羅寺まで1.3kmとあったので、そのくらいなら休まないで歩いてしまおうと先に進む。気持ちのいい坂道をのんびり下っていくと、ラブホテルの先まで進んだところで曲がるべき道を曲がらなかったことに気づく。適当なところで右に折れたら、向こうから外国人が歩いてきた。どうやら、次の甲山寺に向かう道だったようである。

多少遠回りにはなったものの、ほとんどタイムロスはなかったようで、9時45分曼荼羅寺に到着した。

我拝師山曼荼羅寺(がはいしさん・まんだらじ)、曼荼羅寺と出釈迦寺は同じ我拝師山を山号とするが、弘法大師が修業したという背後の我拝師山からとったものである。この山について、五来重氏は修験道の若一王子からとった「わかいちさん」がもともとの名前で、弘法大師以降にお大師様を顕彰する「我拝師」となったものと考察している。

そもそも、この場所が弘法大師以前から行場であったことは間違いないので、その時点で「我が師を拝む山」という名前は考えにくい。それよりも、若一王子の祀られていたであろう曼荼羅寺の背後の山を「若一山」とする方がずっと自然である。

いずれにしても、もともと曼荼羅寺と出釈迦寺はひとつの寺で、出釈迦寺は捨身ヶ嶽に向かう奥ノ院であったようである。平安時代末の西行(1118-1190)が「曼荼羅寺の行道所へ登るは一大事にて、手を立たるやうなり」と書いている。現在の出釈迦寺も捨身ヶ嶽禅定も含めて曼荼羅寺なのである。

さて、曼荼羅寺は出釈迦寺に比べると平地に建っていて、境内も広々としている。周囲を見回すと、まず間近に迫っているのは我拝師山であり、そこから右に視線を移すと天霧山の削られた山肌が見える。

この天霧山、弥谷山とは峰続きで、山中を北に抜けると海岸寺に達する。天霧城は戦国時代まで香川氏の居城だったが、香川氏は長宗我部氏に敗れ、長宗我部氏も秀吉に敗れ、四国は蜂須賀、山内など元秀吉配下や、徳川譜代の松平氏、仙台伊達藩の分家筋の統治するところとなったのである。

天霧山の採石は本四架橋や高速道などの建設ラッシュ時に始まった。現在はそういう時代でないとはいうものの、一度始められた採石がそう簡単にやめられないことは、高速道路の建設がなんやかやと言い訳をつけていまだに続けられていることでも明らかである。

秩父の武甲山や房総半島の山など、かつて建設ラッシュ時から採掘された山でいまも採石が続けられている。自然保護のうるさい昨今、行政は新たな許可を出すよりすでにある許可を延長する方が面倒がない。そして近年は、塩によるコンクリートの劣化が早いため海砂は避けられる傾向にあり、こうした内陸部の山は引き続き崩されてしまう運命にあるのだ。

その天霧山の麓を抜けてくるのが曼荼羅寺道で、いまも古くからの丁石が残る古道である。曼荼羅寺にもパンフレットが置かれているが、平成26年に鶴林寺・太龍寺へ通じる阿波遍路道と同様に国指定の史跡となった。

曼荼羅寺の寺号は、弘法大師が帰朝後この寺を整備する際に、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を納めたという故事に基づく。創建はそれより古く推古天皇の時代に、佐伯氏(空海の実家)の氏寺として建てられたとされるが、仏教導入の是非が政争となる時代にそこまでしたかという疑問が残る。

それよりも、我拝師山はもともと修験道の行場として古くから霊場・若一山とされており、空海もまずここで修行したのだと考える方が自然である。後に平安仏教の一方の立役者となった弘法大師を顕彰する意味で、我拝師山となり曼荼羅寺となったのではないかと思われる。

そして、平安時代末には、西行がこの寺をたいへん気に入り、すぐ近くに庵を結んでたびたびここを訪れたという。出釈迦寺に向かう途中に「西行庵」の案内がある。

当時は天霧山も削られておらず、さぞ雄大な景色だったろう。広い境内には、本堂・大師堂の他、観音堂、護摩堂、地蔵堂など多くのお堂がある。また、大師お手植えの松を彫って作った笠松大師(平成になって松食い虫のため枯れてしまった)や、西行の歌碑があり、朝早くから大勢の参拝者が訪れていた。

[行 程](観音寺サニーイン[電車]→)JRみの駅 8:25 →(5.5km)9:45 曼荼羅寺 10:05 →

[Jan 11, 2020]



曼荼羅寺本堂。ここは平地なので境内は広々としている。



鐘楼・納経所方向。大師堂は鐘楼の向こう側にある。



本堂の背後の山は弥谷寺から峰続きの天霧山。かつて山城があり、弥谷寺の水場を使っていたという。山腹に曼荼羅寺への古い遍路道がある。

七十三番出釈迦寺 [Oct 16, 2018]

曼荼羅寺を出ると、出釈迦寺まで800mの標識がある。間には、大きな墓地があり、車道の途中から西行庵への道を分ける。まさに、本堂と奥ノ院といってもいい位置関係である。

10分ほど歩くと出釈迦寺の階段が見えてくる。その前にある大きな建物は「民宿坂口屋」と書いてあるが、遍路地図にも載っていないので、ずいぶん前から営業していないようだ。「坂口屋」というと太龍寺から下りてきた民宿を思い出す。相当な設備投資をしただろうに、もったいないことである。

階段を上がると境内である。曼荼羅寺ほどではないが、結構広い。本堂と、その右隣に大師堂、その前には何列かベンチがある。本堂の左に納経所があり、その近くに屋根の付いた休憩所がある。

こうして歩き遍路をしていると、ベンチがあるというだけでたいへんありがたい。お寺によってはお堂の前にベンチが1つか2つ、休憩所などないというところは珍しくない(名前を出して悪いが、雲辺寺とか)。こうして歩き遍路のために心遣いをしていただけるのは、さすがお大師様の生まれ育った場所である。

我拝師山出釈迦寺(がはいしさん・しゅっしゃかじ)。我拝師山は曼荼羅寺と同じく、空海が修行した背後の山であり、寺号はお大師様が捨身ヶ嶽で修行したとき、お釈迦様が現われたという伝説から名付けられた。

しかし、五来重氏が書いているとおり出釈迦寺はもともと曼荼羅寺の奥ノ院であり、西行が「曼荼羅寺の行場」と述べているから、少なくとも平安時代末までそうであったことは確かである。

本堂前には、比較的新しい仏足石が備えられている。その隣に「瑞氣」と大きく看板が掲げられているのは、どうやら捨身ヶ嶽で満月の日に祈念したお守りのようである。お守りというと私などはどうしても神社でいただくものだと思ってしまうのだが、お大師様は厄除けもなさるのだから、お守りもあって不思議はない。

大師堂もお参りして、まず出釈迦寺のご朱印をいただく。時刻は午前10時20分、捨身ヶ嶽に行って戻ってくると、ちょうどお昼頃になるだろう。階段を下りたところから左に車道が続いていて、奥には駐車場がある。駐車場の横に2軒、プレハブ小屋でうどん屋さんが営業している。下りてきたら、ここでお昼にしよう。

駐車場のすぐ先は、もう坂道である。なぜか、捨身ヶ嶽への道案内がないので迷うが、一番太い登り坂を登って行く。この先にはもう民家はなく、しばらく畑が続いた後は道の両側とも林になる。

捨身ヶ嶽に登るかどうかは、区切り打ちの出発時点では未定であった。何しろ、すでに横峰寺で遍路道不通の情報があったし、途中の宿も予定どおり取れなくて、どういう進行状況になるか、まるで読めなかったからである。

幸い、横峰寺への登り下りが車道を通って1日で終わり、その後は天候が回復して順調に連日30kmを歩くことができた。雲辺寺から観音寺市街への日程もハードだったが、タクシーが5時迎車というケガの功名にも恵まれて無事に観音寺まで歩くことができた。そして、前日に弥谷寺までお参りしたので、この日は捨身ヶ嶽まで歩くことができたのである。

出釈迦寺から捨身ヶ嶽禅定まで、遍路地図には1396mと書いてある。距離的には15分あれば楽に歩けるはずだが、標高差が255mある。この標高差だと1時間近くかかってもおかしくないが、出釈迦寺にある捨身ヶ嶽への説明看板には「ここから徒歩30分」と書いてある。

あるいは道がきちんとできているのだろうかと期待したのだが、もちろん、予想したほど簡単な道ではなかったし、30分では着かなかった。休憩なしで、10時30分にスタートして着いたのは11時15分だから45分、やっぱり私の目安である標高差300m=1時間に近い数字なのであった。



曼荼羅寺から我拝師山方向へ10分ほど登ると、出釈迦寺となる。五来重氏によると、かつては同じ寺だったという。



出釈迦寺本堂。本堂前に仏足石がある。



出釈迦寺大師堂。ベンチがあるのはありがたい。

舗装道路を進むと、カーブを切って道は下って行く。下るのはおかしいなと左を見ると、石灯籠がたくさん並んでいて「捨身ヶ嶽駐車場」と立て札がある。少し引き返して左に入る。ここより先、「柳の水」の水場に2~3台止められるし、捨身ヶ嶽奥ノ院の前も広くなっている(工事中のためかもしれない)。

道はコンクリの簡易舗装で、石灯籠が続いている。登山道というよりも参道だが、いかんせん傾斜が半端なくきつい。足を右左と上げていくだけで、かなりの負担になる。

今回の区切り打ちでは横峰寺への平野林道の傾斜がきつかったが、あそこはアスファルトの舗装、こちらはコンクリの簡易舗装で、傾斜自体もこちらの方がきつい。早々に息が切れるけれども、休む場所はどこにもない。

かの西行も、「世の大事にて、手を立てたるやうなり」と山家集に書き残している急坂である。もちろん当時は舗装などないから、ガレ場の急坂を、手も足も使って3点確保でよじ登ったのだろうか。西行も元は北面の武士だったとはいえここに来たのは五十を過ぎてからなので、ひとのことは言えないが年寄りの冷や水だったに違いない。

ずいぶん登ったところで、「遍路道 →」と登山道に誘導される。気分転換にはなったが、すぐにもとの簡易舗装に戻る。「柳の水」の水場を過ぎ、ひたすらスイッチバックを登って行くと、ようやく山の中腹に建物が見えた。捨身ヶ嶽禅定奥ノ院である。まだ、標高差20~30mほどある。

もう、時刻は11時を過ぎた。やっぱり30分じゃ着かないじゃないかと思う。登ってくる途中で2組くらいの参拝者とすれ違ったが、すずしい顔をしているのでそんなに大変じゃないのか思っていた。よく考えたら、あちらは空身で、こちらは10kg以上のリュックを背負っての登りである。

先が見えたので少し元気になった。さらにスイッチバックを右へ左へと登って、ようやく奥ノ院の前、広くなっているところまで来た。11時15分着。45分かかった。

比較的新しい「四国百名山」という石碑がある。やっぱりお寺というより山なんだと思う。他にも山門の前に、石灯籠があり薬師如来像があり、十三重の塔があり、他にもいくつかの石碑が立っている。

それより驚いたのは、山門前に普通車のトラックが止まっていて、奥ノ院の周囲に足場が組まれ、全体がシートで覆われていたことである。おそらく、屋根も壁も相当の規模で工事しているものと思われた。どうやら、台風で相当の被害を受けたらしい。

山門を入るとさらに坂があり、一番手前が鐘楼、正面が奥ノ院である。奥ノ院の横から我拝師山頂上への登山道が始まっていて、いきなり鎖場である(さすがに、ここから先は車は通れない)。立て札が立っていて「ここから先は行場です。危険ですのできちんと装備してください」というようなことが書いてある。

登山の用意をしてここまで来たのならともかく、足回りがウォーキングシューズでは岩場を登るのは危ない。その時ちょうど登ってきた老年二人組が「この先はそんなにないから」などと話していたので、それほどの距離はないのだろう。とはいえ、危険に距離も標高差も関係ないのである。油断は禁物である。

鎖場を登るのはやめにして、奥ノ院前のベンチでリュックを下ろす。また、人が来た。今度はリュックを背負った年配の女性だ。札所をお参りしていて誰とも会わないことすらあるのに、山の上の奥ノ院で、これほど人に会うというのは思いがけないことであった。

おばさんもベンチに腰かけて、どちらからですか、と話しかけてきた。例によって成田空港の近くです、などと受け答えする。そして、「この先は、行かれないんですか?」と聞いてきたので、「今日は登山装備がないですし、荷物も重いので下ります」と私。

すると、「これは、私が歩いていていただいたものなんですけど、いただきもので申し訳ないんですが差し上げます。お気をつけてお参りください」と封筒を下さった。

この女性は登山者なのに、お遍路と勘違いしてお接待されたのかと思ったのだが、そうではなくて、やっぱりお参りだったのだろう。地元の方とおっしゃっていたから、私が遠方から来たと聞いて、せっかくだからと私にパスしたのかもしれない。後で中を見ると、500円玉が入っていた。



出釈迦寺にある捨身ヶ嶽の説明。弘法大師が捨身行をすると、お釈迦様と天女が現れたと書いてある。ここから「出釈迦」という寺号となった。



出釈迦寺から先、舗装道路ながら傾斜はますます急になる。気がつくと出釈迦寺からかなり登ってきた。



捨身ヶ嶽奥ノ院への参道に入ると、簡易舗装の道路は傾斜が半端なくきつい。

下りは登りよりも時間はかからず、とはいっても急傾斜でそんなに早くは歩けなかったので、出釈迦寺まで30分で着いた。本堂の横から、納経所に出る通用口が見えたのでそちらに下る。

「捨身ヶ嶽のご朱印を」とお願いする。ご朱印は「捨身霊跡 禅定」と墨書。お姿は「捨身ヶ嶽 弘法大師七歳ノ行場」と書かれ、捨身ヶ嶽から飛び降りたお大師様の前にお釈迦様が現われ、天女が下で受け止めようとする絵が描かれている。

再び山門前の階段を下りて、プレハブのうどん屋さんに入る。お願いしたのはしょうゆうどん。冷したうどんに、好みの醤油で味をつける。醤油はいくつかの種類があり、ゆず風味のものを使った。

「お接待です」と、奥さんがちくわ天としょうゆ豆を下さった。しょうゆ豆は香川県の郷土料理で、食事の時にも出た。おいしかったので、帰りに空港で買ってお土産にした。

「歩き遍路の人は最近少なくなりました」とおっしゃる。「そうですね。私も歩いていて会うのは外国の人ばかりですよ」と答える。「そうですね。外国の方は多いですね」

そういえば、高知あたりでは何人か見かけた若い女性の歩き遍路も、この回の区切り打ちでは見なかった。横峰寺の平野林道でも、雲辺寺の登り下りでも抜かれたのは外人さんだけである。

WEBをみると、この年は西日本の多くが台風の被害を受けたのでその影響ではないかという考察もあるけれど、そうではないような気がしている。

私が考える理由は二つあって、まず一つは主たる歩き遍路候補であるシニア世代に、時間もなければカネもないということである。普通に宿をとれば八十八ヶ所回るのに少なくとも50~60万円かかる。2ヵ月の自由時間とそれだけの費用を工面できる人はそれほど多くはない。

もう一つは、いまの人達は老いも若きも男も女も、ほとんどがコミュニケーション依存ということである。一人で考える、一人で過ごすということができる人はほとんどいない。いつも誰かと「つながっていない」と耐えられないのである。

都会ではデフォルトの「歩きスマホ」も、お遍路歩きでは困難である。距離は長いし、電波が届かない場所も多い。どうしてもスマホが手放せない人は、バス遍路ということになるし、そもそも一人で何十日も歩こうとは思いつかないのではないだろうか。

他にも、野宿遍路をしようにも野宿禁止の公園や休憩所が増えていることもあるし、そもそも日本の人口が減っている。神仏におすがりするよりも、しかるべきところにカネを使いコネを使うことに価値があると考える人も少なくない(だから新興宗教が繁盛する)。

ただ、私が考えるに、シニアに経済的時間的余裕がないことと、コミュニケーション依存が、歩き遍路が減っている二大要因ではないかと思っている。

そして、本来、神仏には何かが起こることをお願いするのではなくて、何も起きなかったことを感謝するものである。「費用対効果」とか「改革に待ったなし」とか言っている人は、神仏とは遠い場所にいる。ただ、多くの人はそう思っているようだし、だとすると神仏からも、お遍路からも離れていくのは仕方のないことかもしれない。

[行 程]曼荼羅寺 10:05 →(0.6km)10:15 出釈迦寺 10:30 →(1.7km)11:15 奥ノ院捨身ヶ嶽禅定 11:45 →(1.7km)12:20 出釈迦寺 12:45 →

[Feb 1, 2020]



ようやく奥ノ院が見えてきた。我拝師山の頂上も近い。



出釈迦寺奥ノ院、捨身ヶ嶽禅定。いうまでもなく、修験道の行場であったものと思われる。「四国百名山」と書いてあるので、ここから先は登山装備が必要だろう。



奥ノ院は2019年春までの予定で修復工事中。奥ノ院の横を通ると鎖場で、頂上までかつての行場であった。

七十四番甲山寺 [Oct 16, 2018]

午後1時前に出釈迦寺を出て、朝登ってきた道を下って行く。曼荼羅寺までの道は、お墓の中を通った方がショートカットのように見えたし、次の甲山寺の方向だからそちらに進む。曼荼羅寺の駐車場に出て、そこから先は平坦な道になる。

右に曲がって我拝師山を回り込む形となる。この方向からだと、頂上近くにある捨身ヶ嶽禅定がよく見える。ずいぶん上まで登ったものだと思う。しかも登山道ではなく、ずっと簡易舗装が続いて作業用の車両が止まっているのだからすごい。

住宅街を抜けて県道に復帰する頃には、方角的に捨身ヶ嶽は見えなくなっており、あたりは水田が広がる。もう善通寺市街まですぐ近くに来ているはずなのだが、雰囲気は市街地というよりのどかな田園風景である。

あぜ道の向こうに、鈍角三角形の丘が見えるのが、甲山(こうやま)である。甲山寺はあの麓にあるはずだが、お寺のような建物は見えない。水田から集落に近づくと、立派な建物が見えた。あれが甲山寺かと思ったら、行先案内は全然違う方向に続く。あれは、立派な農家のお屋敷だったのだろうか。

30分歩いても、それらしき建物は見えてこない。前方に見えていた甲山も、すでに半分以上通り過ぎたはずである。右手は柵で囲われた斜面が続く。もう山が過ぎてしまう頃、平らに開けた前方から墓地とお寺の境内が見えてきた。

医王山甲山寺(いおうさん・こうやまじ)、医王山の山号を冠する他のいくつかの札所と同様、薬師如来を本尊とする。甲山は裏山が毘沙門天の鎧兜のようであることから、山の名前となり寺号とされたという。だから、本堂・大師堂と同じ規模の毘沙門天堂がある。

たびたび引き合いに出す五来重氏は、甲山寺は善通寺の山の奥ノ院と推測しているが、私は善通寺ができる以前から甲山寺があったのではないかと思う。というのは、善通寺と比べても曼荼羅寺・出釈迦寺と比べても規模の小さい甲山寺が八十八に入れられたということは、それなりの歴史があるのではないかと考えるからである。

そして、毘沙門天を祀っているということは修験道と深い関わりがあるということで、おそらく曼荼羅寺・出釈迦寺への入口となるような霊場だったのではないだろうか。空海の祖先が住んでいたのが善通寺周辺とすれば、そこから我拝師山の霊場に向かう間の中継基地として、甲山寺はちょうどいい位置にある。

何よりも、実際に歩いてみて、お寺に来るまでが田園地帯、お寺を出ると工業地帯と市街地という甲山寺の立地そのものが、此岸と彼岸を隔てる境というか、いかにも霊場としての雰囲気を感じたのである。

境内は比較的こじんまりしている。本堂・大師堂をお参りして、納経所でご朱印をいただく。意外と大きいのは休憩所で、ちゃんと建物になって雨の時などは中に入って休めるようになっている。ありがたいことだ。さすが、お大師様の地元である。

休憩所の前で、自販機でコーラを買って一息つく。まだ時刻は午後2時前で、善通寺には3時には着くだろう。もう少しゆっくりしてもよかったのだが、何があるか分からないので早めに出発する。

歩き遍路でもの足りないのはこのあたりで、後から考えると毘沙門天堂をゆっくり見ておけばよかった。これは他の札所でも同様で、以後のスケジュールが気になってあせってしまうのである。もちろん、急がなければ宿に着けないことも多々あるのだけれど、そのあたりの按配がたいへん難しい。

[行 程]出釈迦寺 12:45 →(2.8km)13:30 甲山寺 13:50 →

[Feb 8, 2020]



出釈迦寺・捨身ヶ嶽を下り、善通寺に向けてあぜ道を進む。前方の山が甲山と思われるが、お寺がなかなか見えてこない。



順打ちだとこちらの小さな山門から入る。駐車場側に大きな山門がある。正面が本堂。



本堂奥に大師堂、さらに奥に毘沙門天をお祀りする毘沙門天堂がある。山全体を毘沙門天の鎧兜になぞらえて、甲山と呼ばれた。

七十五番善通寺 [Oct 16, 2018]

甲山寺の駐車場から、弘田川に沿って歩く。立派な山門を出ると、目の前にベルトコンベアから採石が落ちる音と光景が現われる。甲山のこちら側は採石場になっているのである。もともと信仰の山であった武甲山も天祖山もこうなっているのだけれど、なんだか寂しい光景である。

このあたりは工業地帯で、川をはさんで工場や資材置場の区域が広がる。お寺までは水田がありお墓があり、抜けると工業地帯というのはちょっとシュールである。

もう市街地に入っているので、右左に道が走っていて、どれが遍路道なのかよく分からない。道路の上に掲げられている行先案内に従って車道を歩いたのだが、どうやら人間用ではなかったようで、ずいぶん遠回りしてしまった。野球場のある一角を抜けて、病院の立派な建物を見ながら善通寺の方向に向かう。

しばらく歩くと、住宅街の中を右折せよと指示がある。行先案内を見ると、4ヵ所の札所への方向と距離が書かれているのは、さすがお大師様の出身地である。ここまで甲山寺から1.1kmで、善通寺まで0.5kmなのだが、どこがお寺なのかそれらしき建物は見えない。

さらに進むと、前方に大きな駐車場が見えてきた。歩行者用の入口が見当たらないので、料金所の横を通り、車の脇を抜けて土産物店の前に出た。そこから太鼓橋を渡った向こうに、お寺の建物がいくつも固まっている。14時30分、善通寺に到着。

なにしろ初めてだし境内はたいへん広いので、きょろきょろしながら現在位置がどこか確認する。建物の間を抜けて広くなっている場所に出ると、横に大きく御影堂(みえどう)と書かれている。他の札所では大師堂であるが、ここ善通寺では御影堂と呼び、建物の大きさも金堂(本堂)より大きい。

現在位置が確認できたので、安心して周囲を見る。御影堂の正面に売店があり、参道を挟んで納経所がある。御影堂と売店の間を抜けて行くと、写真で見たとおりのいろは会館がある。いろは会館の場所は分かりづらいとどこかに書いてあったが、こうやって御影堂の方向から入ると迷うことはない。

お参りした後にいろは会館だから、まず本堂を先にお参りして、後から御影堂に戻ってくることにした。御影堂の正面から仁王門までは屋根付きの通路で結ばれていて、屋根の下には弘法大師の伝記をテーマとした絵の額が掲げられている。

仁王門をくぐり参道を本堂エリアに向かう。たいへん広い境内で、いましがたお参りしてきた甲山寺がいくつ入るだろうかと思ってしまう。100mほど離れた本堂エリア、東院伽藍に入る。五重塔がそびえ、その向かいに金堂(本堂)が建つ。間口はそれほどでもないが、高さがある。まるで覆いかぶさるような威圧感だ。

本堂前の手水場で手を洗って、中に進む。本堂内にいらっしゃるのは、ご本尊の薬師如来坐像。丈六の大仏である。真念「道指南」には善通寺のご本尊は四尺五寸の大師御製と書いてあるが、「霊場記」には、大師自ら丈六の薬師三尊を浮き彫りにしたというから、もとは磨崖仏だったようだ。現在のご本尊は江戸時代、元禄年間のものである。

大きなご本尊の前でお経を唱えるのは、なんとも荘厳な雰囲気である。奈良や京都のお寺ではよくあるケースだが、さすがに八十八札所でも丈六のご本尊は少なく、善通寺が初めてだと思う。そもそも、直接ご本尊が見られるところは多くない。



甲山寺を出ると、機械から砂利が仕分けられている。甲山のこちら側は、天霧山と同様、採石場になってしまっている。



善通寺市街に入った。普通の民家が続くが、行先標示をみると札所ばかりで、いよいよ総本山善通寺が近づいたことが分かる。



善通寺は甲山寺から順打ちだと、駐車場を抜けて境内に入る。御影堂のすぐ近くになる。

五岳山善通寺(ごかくさん・ぜんつうじ)。五岳山はお寺の背後にある五つの峰、香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山から採られた山号であり、それらの峰々で弘法大師が修業されたことを示している。善通の寺号は弘法大師の父、佐伯善通から名付けたもので、本堂エリア・東院伽藍は弘法大師が学んだ唐の青龍寺に倣ったものという。

現在の御影堂(みえどう)は、弘法大師が生まれ育った佐伯家の邸宅跡に建てられたものといわれ、江戸時代の「霊場記」にそう書かれている。

本堂の丈六薬師如来にお参りした後、御影堂エリアに戻る。御影堂にお参りした後、納経所でご朱印をいただく。売店の横のベンチで身支度をしていると、車椅子のおばあさま方に話しかけられた。このおばあさま達は、御影堂の入口にあるおびんずる様にお参りしていて、車椅子で時間がかかるので私は後ろで待機していたのであった。

「どこから来たんだい?」
「千葉です。成田空港の近くです。」
「千葉かい。ずいぶん遠くから来たんだね。歩きかい?そりゃまた大変だ」

おばあさま同士で盛り上がっている。車椅子を押すのは家族ではなくてボランティアか何かのようで、その人達にも説明している。車椅子だから、先ほどのおびんずる様にも念入りにお参りしていた。通路が狭いので、方向転換にも苦労していたのであった。

納経帳や数珠・経本などをリュックにしまって、奥に見えるいろは会館に向かう。たいへん立派な建物である。御影堂からは棟続きでいくつかの建物があり、そのままいろは会館までつながっている。翌朝はここを通って、御影堂でのお勤めに向かうのである。

もう午後3時を回ったので大丈夫だろうと、受付に向かう。下足箱のところに杖を置くスペースがあり、個人名が5組ほどしかなかったので、これだけ大きい施設に宿泊客がこれだけなのかと思ったら、後から遍路ツアーの団体客が数十人入ってきた。WEBなどで満室の場合もあると書いてあるのは、嘘ではなさそうだ。

それは後の話で、この時間にチェックインしたのは私ともう一人だけだった。受付で説明を受け、階段を上がって部屋に向かう。このあたりの部屋は個人客向けのようで、私の泊まった2階には10室ほどあったが、団体客は他の棟に泊まっていたようだ。

洗面所は昔の仕様で共同だが、トイレはとてもきれいで、設備も新しい。もちろんウォシュレットも付いている。部屋は8畳で、小さいながらTVもあり、ちゃぶ台にポットとお茶の用意もある。ハンガーとか物を干すスペースがあまりないだけで、お遍路には十分な部屋である。

荷物を置いた後は、まず洗濯である。受付のある階の地下が洗濯室になっていて、洗濯機・乾燥機が5台ずつあるのだが、びっくりしたのはすべて無料で使えることであった。お接待で洗濯していただけるところはいくつもあったが、乾燥機まで含めてタダというのは善通寺だけである。さすが御大師様ご誕生の寺である。

午後4時から入浴可能なので、洗濯機に洗濯物を入れて浴室に向かう。「大師の里湯」というたいへん立派な温泉がある。ここを数人の宿泊客で使うのかと思っていたが、後から団体客が来たので納得である。

夕飯は、午後5時半に来てくださいと言われていた。お刺身、がんもどき、こんにゃくの味噌焼き、ゴマ豆腐、野菜鍋にご飯・お吸い物といったメニューで、ビールは食券を買って瓶ビールをお願いする。ボリューム不足というWEBもあったが、私には十分であった。これで1泊2食6,100円、翌朝のお勤めもできるのだから、スケジュールが合って部屋が取れればマストの宿坊である。

この日の歩数は31,725歩、GPSで測定した移動距離は14.3kmでした。



御影堂から本堂までは、結構長い。善通寺だけで町になるような印象である。甲山寺がいくつ入るだろう。



上の写真の地点から逆方向の御影堂方向。背後は香石山、右後ろに筆山である。五岳山とは、善通寺の背後にある5つの峰々から名付けられた。



善通寺本堂。善通寺は、弘法大師の父、佐伯善通を寺号とした。ご本尊は薬師如来。

夕飯を食べたら眠くなってしまい、歯を磨いて午後7時過ぎには寝てしまった。こんなに早く眠れるかなと思っていたら、心配することもなく寝入ってしまった。御影堂近くの静かな環境で、ここ数日の標高差のある登り下りで疲れもたまっていたのかもしれない。

午前5時近くなると、他の部屋を出入りする物音がし始めたので、私も起きることにした。洗面をすませ、白衣に着替え、6時15分前に部屋を出る。受付のあたりは団体客でいっぱいで、お勤めのある御影堂にはすでに何人かが座椅子に腰かけてお勤めを待っていた。

お勤めはどのくらい時間がかかるか分からなかったが、仙遊寺のように1時間以上ということはないだろうし、団体客はお年寄りが多かったので座椅子は遠慮し正座して待つ。すでに何人かのお坊さんが準備しており、時間になると太鼓が鳴って袈裟を着たお坊さんが10名、御影堂の内陣に進んだ。さすが善通寺、お勤めも大勢である。

真ん中のお坊さんの椅子が宿泊客側を向いていたので、お勤めなのに妙だなと思っていたら、こちらではまず法話があって、それからお勤めで読経するのであった。法話を担当したのは小豆島に寺のあるお坊さんで、善通寺の偉いお坊さんが出張中なので代わりに、ということであった。

「小豆島にも八十八ヶ所があって、何回何十回も回ろうという方もいらっしゃる。私の知っている人で百回を目標に回られている方がいたが、年がいってから始めたのであと数回というところで体が続かなくなった」

「それからずいぶん経って、参拝された方と何気なく話していると、何か聞いたことがある話をなさる。よく聞いてみたら、その方が亡くなって、息子さんが回られているということであった」

「お遍路は病気のようなもので、一度回ったらそれでいいということではなくて、二度・三度と回りたくなるものだ。でも、この病気はお医者もいらなければ薬もいらない」

というような話であった。法話の後は読経があり、最後に宿泊客も含めて全員で般若心経を唱和する。お勤めの後は、お坊さんが9人退席し、一人残った方から善光寺の説明やお守り購入のお願いがあって、最後に戒壇めぐりをする。

この戒壇めぐりは、御影堂の地下に下りて、真っ暗な中を手探りで前に進むというもので、日中の参拝時にも500円でお願いできるが、朝のお勤めの際には無料である。

長いお勤めの後だったが幸いに足がしびれることもなく、普通に歩くことができた。でも、片方の手をずっと壁に付けていないと、全く視界がないので危ない。幸い、最初の階段を除けば床は平坦である。

何度か曲がり角を過ぎると、神々しい声が聞こえてくる。ここが御影堂中央の真下にあたり、少し明るくなった場所でお大師様の声(再現)が聞こえる。「みなさんが幸せな毎日を送ることが、私の願いです」とおっしゃっている。

戒壇めぐりが終わると、宿坊への通路に出る。宿泊客が登って来るたびに「朝食の用意ができています」と案内のお坊さんが繰り返している。時間をみるとすでに7時10分になっていた。

[行 程]甲山寺 13:50 →(2.0km)14:30 善通寺(泊)

[Feb 29, 2020]



善通寺いろは会館。いろは、とは弘法大師がいろは歌を作ったとされることによる。宿坊・食堂・浴室・善通寺の事務室などがある。



いろは会館食堂。団体客が入るため、内部は百以上の席があり、さらに奥に、僧侶の食堂がある。



善通寺の夕食。これで1泊2食6,100円だから、お大師様誕生のお寺だけのことはある。ホイルはこんにゃくのみそ焼。お刺身は宿泊客だけにしかつかない(多分)。

番外霊場金刀比羅宮 [Oct 17, 2018]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

朝のお勤めは1時間続いたので、朝食は7時過ぎになった。奥の方では、お坊さんたちが朝食をとっている。海苔とお漬物、じゃこ天、高野豆腐という和食である。宿坊らしい、贅沢ではないけれども歩くパワーが湧いてくるような朝ごはんだった。

支度が終わって8時前に出発。部屋に置いてあった善通寺発行の情報誌「へんじょう」に載っていた閻魔堂を見て行く。御影堂のあるエリアの一画、親鸞堂と並んで閻魔堂がある。真言宗の善通寺に親鸞堂というのは妙だが、高僧の夢枕に親鸞が立ったという謂れがあるらしい。

閻魔堂に祀られているのは、十王信仰に基づく閻魔王をはじめとする諸王である。十王信仰は道教の影響を受けて発達したもので、弘法大師よりずっと後の時代に盛んになった。この仏像も江戸時代のものである。

札所の十王堂はそれほど多くはない。毘沙門天や観音堂、五百羅漢、石槌近辺のように聖天堂(善通寺にもある)というケースはあるが、目立つ場所に十王があるというのは、善通寺が初めてである。

閻魔王を中心に、秦広王から五道転輪王までの十王、俱生神二柱・脱衣婆までの十三体の彩色木像が格子戸を隔てて参拝者と直接面している。死者の「業」を計る業秤(ごうばかり)も、人間が生まれてから死ぬまで両肩で見張っているという俱生神の傍らに置かれている。前面の扉は早朝だが開かれていた。

これらの仏像を見て物思いにふける。弘法大師の時代は、水不足を解消したり疫病をなくしたり、いわば先進技術を取り入れていけば幸せになれると信じていた。大師伝説のほとんどは杖を突いて水を出す話であり、疫病や不自由な体に苦しむ人々を救う話である。現代であれば、土木工事や抗生物質で解決する話である。

ところが、技術が進んでも争いごとは減らず、貧富の差はなくならないし多くの人は幸せにならない。だから鎌倉仏教の法然や親鸞は阿弥陀如来の浄土信仰を重視し、信賞必罰を徹底するため十王信仰も盛んになった。「地獄」と「極楽」は今日に至るまで人間の行動を律する基準であり続け、いくら技術が進んでもそれは変わらない。

本堂の方に歩いてゆくと、自転車を引いたおじさんに話しかけられた。

「順打ちかい。ここまで来れば、あと坂があるのは白峯くらいだよ」
「ありがとうございます。ここ何日か山ばっかりで。」
「せっかく来たんだから、右手から出て、塀伝いに2つの門を見ていくといい。次の金蔵寺は、そのまままっすぐ行って線路を超えたら左。案内が出てるから分かるよ」

区切り打ちなので今日で終わりだけれど、あえて言うこともない。教えていただいたとおり、2つの門を見て行く。南大門を出て、塀伝いに90度左折すると赤門である。南大門には、山号の「五岳山」の扁額が掲げられている。赤門は名前のとおり朱塗りで、南大門よりやや小ぶりである。JR善通寺駅は、ここをまっすぐ行けば着くはずである。



いろは会館朝食。朝のお勤めが終わると、食事の準備ができている。



朝の御影堂。ここで朝のお勤めがあり、終わると地下の「戒壇めぐり」を体験できる。



「五岳山」の扁額が掲げられた南大門。本堂の正面になるので、順打ちでは見るのが最後になる。

今回の区切り打ちコースを考慮するにあたり、金刀比羅宮をお参りして終りにしようと思ったのはいくつかの理由がある。

その一つが、区切り打ちの経験談をWEBで探すと、金刀比羅宮はスルーして金蔵寺に回ってしまうか、お参りするとしてもJRにひと駅乗ってしまうかで、歩くとどのくらい時間がかかるか分かる記事が見つからなかったのである。

「霊場記」ではわざわざ金毘羅宮の節を作って挿絵も描いているくらいだし、真念「道指南」でも、「こんぴらにかくるときは」と特筆されているから、金刀比羅宮まで歩いた遍路記事があっていいはずである。それが、あまり見ない。だったら自分で確かめる他はない。

もう一つは、出張で何度も高松空港に来たことがあり、そのたびに市内の交通混雑で大層うんざりしたからである。高知や松山のようにバイパスがある訳ではなく、徳島と比べて交通量が格段に多い高松は、空港からJR乗り継ぎのアクセスがよくないのである。まして、高松発の電車がたくさんある訳でもない。

次回のスケジュールを考える上で、高松空港からJR高松駅に出て善通寺というルートは、どうにも気が進まない。探すと、高松空港から琴平というバスがある。距離的には似たようなものだが、渋滞になることはないだろうと思われた。

善通寺からJRの駅までは土産物店が並んでいるのかと思ったら、普通の民家や商店がほとんどであった。なるほど善通寺は寺の名前でもあるが、善通寺市のすべての人がお寺の関係者という訳ではない。普通の生活も、もちろんあるのである。

20分ほど歩いて線路まで来て、地下道をくぐって向こう側に出る。すぐ交差した太い道は県道であるが、「金毘羅様5㎞」と表示がある。5㎞の平坦ならば1時間ちょっとで着くだろうと気楽に構えていたら、ここから20分歩いてもまだ5㎞なのである。国道の㌔ポスト以外は信用できない。

しばらく歩いて、ようやく国道と合流する。㌔ポストの数値が4㌔なのは、琴平が始点なのだろう。大麻神社前を過ぎ、琴平市街に入ったのは結局10時前で、善通寺から1時間40分かかった。

琴平市街はホテル・旅館と土産物店が続き、にぎやかな街並みが金刀比羅宮参道まで続く。行先表示にしたがって右折すると、すぐに石段が始まる。石段の両側もずっと土産物店で、こんなにいっぱいあって共存できるのだろうか。

土産物店でやたらと日本刀があるのでなぜだろうと思ったら、清水次郎長が敵討ち成就の御礼に金刀比羅宮に日本刀を奉納したという。ちなみに、次郎長の代理としてお参りしたのが森の石松で、四国に渡る舟の中で言ったのが「江戸っ子だってね。寿司食いねえ」という有名なセリフである。令和の現代に、森の石松がどの程度知られているかという話はあるが。

それにしても、金刀比羅宮が八十八ヶ所に含まれていないのはなぜだろうと思う。現代の感覚としては、一ノ宮はともかくとして、八幡宮や三嶋神社、新井田五社より金刀比羅宮だろうと思う。「道指南」に名前が出ているくらいだから、真念の時代(元禄期)にはすでに有名であった。

ところが実際には、延喜式に名前が載っている訳ではなく(他の名前だったという説もある)、戦国時代には多くの札所と同様に荒廃していた。江戸時代初め、山麓にある松尾寺の住職が丸印に金の印を入れたうちわを作り、庶民の人気を集めたのが今日の知名度に結びついたという。

参道の長い階段の両脇にも、「松山 △△屋善兵衛」「高松 XX屋辰吉」など名前入りの石柱が続くけれども、逆に考えれば江戸時代まではあまり整備されていなかったということでもある。「金毘羅舟々」の唄や、森の石松のエピソードで有名になったけれどもそれらは明治以降の比較的新しいものであり、弘法大師や一遍上人とは時代が違う。



善通寺から1時間半歩いて琴平市街。直角に右折して表参道に入る。もう少し先から石段が始まる。



大門のすぐ下。ここまでが土産物店で、大門を過ぎると五人百姓と資生堂パーラー(w)だけが営業できる。



石段はまだまだ続く。ばあさんを背負ったじいさんの銅像があるかと思ってひやひやしたが、さすがにそれはなかった。

ほっとしたのは、金毘羅様の石段は1400段と記憶していたのだけれど、御本宮までの段数は785で、あとの700は奥宮までの段数だったことである。空港バスの時間があるので1400段登って下りられるかどうか心配であったが、予想の半分で済んだ。途中に平らな部分が何ヵ所かあるので、自然と休み休み登れるのもうれしい。

もしかすると、ばあさんを背負って登る笹川じいさんの銅像があるのではないかと心配したが、さすがにそういうものがあるのは田町近辺だけのようで安心した。「戸締り用心火の用心」のおじさんは、今の私より年とってから母親を背負って金刀比羅宮の石段を踏破した。かつては全国の競艇場にそうした像があったものだが、いまはどうなんだろう。

いよいよ御本宮まで最後の石段となった。参拝者はここにもたくさんいて、しかも中国系の団体客が多い。9月の北海道ではほとんど見かけなかったのだが、西日本なら大丈夫という読みだろうか。金毘羅様を信仰しているとも思えないが。

(注.2018年夏に北海道で大きな地震があり、交通機関や宿泊施設に影響が出て中国人観光客がほとんどいなかった。)

金刀比羅宮は明治の神仏分離以降この名前で呼ばれるようになったが、それ以前は神仏混淆の金毘羅様として知られていた。祭神は大物主神、もともと奈良の大神(おおみわ)神社に祀られている大和朝廷以前の神様である。ヒンズー教のクビラ神と習合して金毘羅大権現となり、農業・殖産・医薬・海上守護の神として、全国から広く信仰を集めた。

御本宮前からは、眼下に琴平市街の眺めが広がる。左手に善通寺市、右手は弘法大師建造の満濃池のある方向である。神前で、二礼二拍手一礼して区切り打ちが無事に完結した御礼を申し上げる。御本宮は渡り廊下で大物主神の后にあたる三穂津姫社につながっており、その向かいに神札授与所がある。ご朱印をいただく。札所と同じく300円である。

お参りを終えて表参道のグランドレベルまで下りると11時だった。ちょうどお昼の時間なので、呼び込みをしていたうどん店に入る。ぶっかけうどんにちくわ天を付けて610円。前日の出釈迦寺前のうどんよりかなり高いが、場所代込みだからこうなるのは仕方がない。

空港バスが1時過ぎだったので、日帰り入浴をすればちょうどいい時間になると思ったのだが、「湯」の大きな看板のあるホテルまで行くと、扉に「2017年12月をもちまして日帰り入浴を終了しました」と書いてある。これだけ大きく看板を掲げていれば温泉に入れると思うのは人情だと思うのだが(ホームページだって2018年10月には、「日帰り温泉でほっこりと」と書いてあった)。

あきらめ切れずに、日帰り入浴ありと看板のあったすぐ先のホテルに行くと、あっさり「日帰り入浴はやってません」と言われた。ここは鉱泉の沸かし湯なので、文句をいったところで熱いお湯が出てくる訳ではない。とはいえ、私の中で琴平町の好感度が大幅にダウンした一瞬であった。

仕方なく琴電琴平駅まで歩いて、自販機の飲み物とアイスクリームでゆっくりする。wifiが通じていたので、1時間ほどの待ち時間をつぶすのは苦にならなかった。空港バスの停留所に琴電琴平はないけれども、「大宮橋」バス停が琴電駅前である。

12時17分のリムジンバスで高松空港に向かう。予想通り渋滞はなく、ぽかぽかと日当たりがいいものだからバスの中で寝てしまった。高松空港にお遍路更衣室がないのは想定外だったが(四国の空港でここだけない)、トイレでなんとか着替え、14時のエアで羽田へ。この時間であれば、帰りの電車はラッシュ前に間に合う。

この日の歩数は23,257歩、GPSで測定した移動距離は10.9km、第9次区切り打ちの総移動距離は、壬生川から琴平まで182.2kmでした。

[行 程]善通寺 8:10 →(7.2km)9:50 琴平市街 9:50 →(1.8km)10:30 金刀比羅宮 10:40 →(1.2km)11:00 門前うどん店 11:15 →(0.7km)11:25 琴電琴平駅(→[空港バス]高松空港)

[Mar 21, 2020]



参道の土産物店街から785段ある石段もいよいよ最後。ここを登ると金刀比羅宮本宮。奥宮までさらに数百段ある。人が見えなくなることはない。



金刀比羅宮御本宮。明治以前は神仏習合で、海上交通の守護としてひろく信仰を集めた。



これだけ大々的に表示してあれば温泉に入れると思うのは人情だが、「湯」看板の下まで行くと「日帰り入浴の営業は行っておりません」と貼り紙がある。

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