七十七番道隆寺 七十八番郷照寺 七十九番高照院 八十番国分寺
八十一番白峯寺 八十二番根香寺 八十三番一宮寺 八十四番~
別格十七番神野寺 [Sep 30, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
善通寺、金刀比羅宮を歩いてから1年。10回目となる四国遍路区切り打ちの時期となった。
「涅槃の道場」と呼ばれる讃岐・香川県に入ると、距離的にはこれまでのような長い歩きはない。だから八十八番まで歩くだけならあと5~6日あれば済むのだけれど、せっかくだから一番まで戻って四国一周を完結するとともに、高野山奥ノ院をお参りして結願とする計画を立てた。
いろいろ調べると、一周して一番に戻るという慣習はもともとなかったようである。とはいえ、八十八番と一番の間、三本松には四国総奥ノ院と呼ばれ、本州から四国入りする際の拠点となった與田寺がある。
また、行き倒れそうになったお遍路が助けてもらったお礼に贈ったサトウキビによって名高い和三盆が製造されるようになり、これを記念して祀られた向良神社もある。こちらも行かずに済ますのは惜しい。
その結果、今回の日程は9泊10日の長丁場となった。現地へのエアは残っていたマイルを使う。これで、マイル残高は0になる。すでにグローバルクラブは解約したけれど、これでJALとのお付き合いも一区切りである。そういえば、前回のお遍路から1年飛行機に乗っていない。乗らなければ乗らないで済むものである。
天気が悪いかもしれないし朝早いのもしんどいので前日入りする計画としたのだが、実際に台風18号の接近で微妙な空模様となった。
2019年の秋は週末になると台風が来て、台風15号では房総半島が大停電した。幸いエアをとった9月30日は問題なさそうで、荒天予想は10月1日から3日である。かつては10月に台風は来なかったものだが、前々回の区切り打ちでも10月半ばに台風が来て計画変更を余儀なくされたことを思い出す。
2019年9月30日、羽田空港は大混雑だった。早く家を出たからよかったようなものの、すでにグローバルクラブの会員ではないため荷物預けに40分並ばされた上に、結局時間ぎりぎりで別窓口に誘導される。すぐ後ろにオールブラックスの何人かが並んでいた。私より30cm背が高かったので、フォワードの控え選手だろうか。
高松空港到着は20分ほど遅れた。でも琴平行きのバスは到着を待っていてくれていて、急いで乗る。バスはレオマワールドを経由する。この施設はその昔、私が銀行で業界調査をしていたバブル最盛期、鳴り物入りでオープンした四国唯一の総合レジャー施設だった。
その後、バブル投資の他の例と同様、破綻して休園、再開園を繰り返して今日に至る。この名前を聞くたびに「レジャーは・大西に・任せろ」を思い出して(大西氏は当時の社長。レオマはこの頭文字をとったもの)、今でも苦々しい気分になる。なんでいつまでもこの名前を使うんだろう。
前回到達した琴電琴平駅前にある大宮前バス停で下車、JR線路の反対側にある琴平パークホテルまで歩く。風情のある古い商店が続く通りを、少し歩いて国道319号に出る。線路の金毘羅様側は観光客ご用達の街だが、こちら側は住民向けの街である。
飛行機が遅れたのでちょうど午後3時になり、チェックインし荷物を軽くして神野寺へ。ネット予約特典ということでスーパードライをいただき、冷蔵庫に入れておく。別格十七番の神野寺(かんのじ)は満濃池の畔にある。
空海が満濃池を工事したことは史書等に残されており、弘法大師が杖を突いたら水が出たという数ある伝説とは確実性が違う。善通寺からは琴平の先になり、七十六番金蔵寺とは反対側になるけれども、訪れるべき旧跡である。
当初の計画では、この日はゆっくり休んで翌朝からスタートしようと考えていたのだが、台風が近づいており翌日以降どうなるか不安である。雨も降っていなかったので、午後5時ぎりぎりの到着になるが神野寺に行っておくことにした。
ホテルに荷物を置き、満濃池にある神野寺へ向かう。
約1時間半で満濃池の下まで着いた。アースダムの堰堤が見える。
アースダムのすぐ脇に神野寺の山門がある。
この日は9月30日だが、まるで夏のように蒸し暑く、歩くそばから汗が噴き出してくる。満濃池はアースダムなので、平地ではなく山沿いにあるはずだ。先に見えている稜線のあたりだろうか。別格霊場のため道案内がないので、遍路地図と方角が頼りである。
1年ぶりとなるお遍路歩きだが、それほど間隔が開いたような気がしない。雲辺寺をめざして県境の峠道をまだ暗いうちから歩き始めたことも、死後の世界と呼ばれる弥谷寺からJRの駅まで歩いたことも、ついこの前のことのように思える。
もっと言えば、それ以前の区切り打ちである松山から今治までのロードも、足摺岬に向けて大雨の中歩いたことも、何年も前のこととは思えない。それほど早く月日が流れるということは、毎日の生活が充実しているということなので、ありがたいことである。
琴平の市街地から消防署の前を歩いていくと、あっという間に田園風景となった。川沿いに点々と農家らしき建物があり、背後には山並みが見える。あのあたりが満濃池だろうか。ずいぶん距離があるような気がする。
日は陰っているが蒸し暑い。太い道に出て、山に向かって行く。農協や消防団の表示をみると、このあたりの地名を「神野」というようだ。水田や畑の間を道が続いている。ずいぶん山が近づいてきて、アースダムの堰堤が見えた。
日が暮れてきたこの時間でも車は行き来するのだが、歩いているのは私ひとりである。蜘蛛の巣の多い坂を登って行くと、堰堤の脇に出た。遍路地図では神野寺は山道を入っていくように見えるが、堰堤のすぐそばがお寺であった。
五穀山神野寺(ごこくさん・かんのじ)、空海が建設した満濃池の畔に建つ。五穀山の山号は、この池が灌漑用に作られ、農業生産に貢献したことにより名付けられたものと思われる。
天正の兵火により焼失し長らく廃寺となっていたが、昭和九年、弘法大師千百年遠忌の年に再建された。別格二十霊場の一つである。参道の奥に本堂があり、本堂の前に石段がある。それを登って行くと弘法大師の銅像があり、満濃池を見守っていた。
本堂に戻り、今回はじめての読経。般若心経を唱えていると奥からご住職が納経所に出てこられた。また若いご住職で、遅い時間にもかかわらずおだやかに応対していただき、たいへん感じがよかった。
もう4時半を回っているので早々に失礼する。蜘蛛の巣の坂を下りると、来た時に農作業をしていたおばあさんがちょうど道まで上がってきたところだったので、ご挨拶する。神野寺にお参りしてきたんですね、と話になる。
「どちらから来られたんですか」
「千葉からです。成田空港の近くです」
「それはまた遠くからご苦労様です。今日はどちらにお泊り?」
「琴平パークホテルです」
「ああ、マルナカの前ね。気をつけていらっしゃい」
1時間以上歩いたからずいぶん遠いような気がするが、考えてみれば6kmだからお買い物圏である。そして、歩いてくる間に商店街などなかったから、おばあさんも琴平まで買い物に出るのだろう。マルナカとは四国に多くあるスーパーである。
暗くなったので、街灯のある太い道を通ってホテルに帰った。夕飯はホテル前の「うどんむさし」でカレーうどんとライス。カレールーをごはんにかけてカレーうどん&ライスカレーにするという名物メニューである。
ホテルでは、大浴場に一人だけでのんびり入った。コインランドリーがドラム式で、1回500円と高かったが乾燥まで一気にやってくれるので部屋との往復が少なくて済む。特典でいただいたスーパードライを飲んで、遠征初日を終えたのでした。
この日の歩数は22,668歩、GPS測定の移動距離は12.5kmでした。
[行 程]高松空港→リムジンバス)琴電琴平 14:45 →(1.3km)15:05 琴平パークホテル 15:15→(5.2km)16:20 神野寺 16:35 →(6.0km)18:00 琴平パークホテル(泊)
[Apr 4, 2020]
神野寺は近年になって再興されたお寺で、境内はこじんまりしている。
お寺のすぐ前が満濃池。空海も携わったことが史書に記されている古い灌漑用ダムである。
琴平パークホテルに戻る。これは翌朝の撮影。
七十六番金倉寺 [Oct 1, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
2019年10月1日の朝になった。この日から消費税が10%に上げられるが、正直言ってあまり気にならない。それよりずっと気になるのは台風情報である。予定変更して前日に神野寺をお参りしたとはいえ、これから後どうなるか分からない。
気候の安定した10月を選んでいるつもりなのだけれど、なかなかうまくいかない。9月は台風シーズンたけなわだし、11月だと標高の高い所で雪が降る。夏は暑いし冬は寒い。
朝の天気予報では、台風はまだ南シナ海、台湾付近にいる。10月なので普通はここから左にフックしていくはずなのだが、進路予想ではこれから朝鮮半島を経て日本海から日本列島に近づくという。それでも、今日のところはまだ影響はなさそうだ。
午前7時から朝食。バイキングのメニューは、和食と洋食両方用意してある。洋食を選択、食パン・フランスパン・クロワッサンのパン3種と、オムレツ、ウィンナ、肉団子とポテトサラダ、オレンジジュースと牛乳、ヨーグルトにフルーツを乗せた。とてもおいしく体調もいい。
午前8時出発。琴平から善通寺に戻る道は、昨年の金毘羅参りで歩いたコースの逆ルートである。JR善通寺駅まで約1時間、次の駅が金倉寺で、駅から少し歩くと七十六番札所である。さすが弘法大師のおひざ元で、七十一番弥谷寺から七十八番郷照寺まで善通寺から半径数km以内に固まっている。
国道なので㌔ポストがある。最初の4kmを15分・13分・13分・13分で通過。歩道橋の下で休んで16分・14分・14分。善通寺までの6kmはすでに過ぎ、片側2車線の太い道路の向こうから高速の高架道路が見えてきた。
この日のルートであるが、金倉寺から道隆寺に直行するなら、金倉寺をお参りしてからチサンインに荷物を置いていくのが近回りである。ただしこの日は別格霊場の海岸寺に回る予定にしていたので、先にチサンインに行ってから金倉寺にお参りする方が近い。そこで、国道319号線を直進してまずチサンインに向かったのである。
琴平からの約7kmは、暑くてちょっとつらかった。朝の体調はよかったし、ペースも早すぎず遅すぎずだったのに、汗の出方が激しい。よく考えると、10kgのリュックを背負っていたのだった。まだ午前10時なのに、チサンインに着いてさっそく自販機でスポーツドリンクを一気飲みしたくらいである。
荷物を預けて身軽になり、すぐ近くの金倉寺に向かう。ところが、国道を右折してしばらく進むと見えてくるはずの金倉寺が見当たらない。仕方がないのですぐそこの薬局に入って道を尋ねると、「あそこに見える鳥居のところを入るんですよ」と教えてくれた。
その鳥居は金倉寺とは別の新興宗教の神社のようだったが、その奥が金倉寺の駐車場だった。いったんぐるっと回り込んで、仁王門から入る。「鶏足山」の扁額がよく目立ち、その先に参道が伸びている。
鶏足山金倉寺(けいそくざん・こんぞうじ)、弘法大師の甥にあたる天台宗の智証大師円珍の創建とされる。円珍は比叡山の密教部門強化のため唐に渡り、当時最新の密教を修めて後に園城寺(三井寺)を開いた。のちに三井寺は延暦寺とともに天台宗の大きな拠点となる。
円珍は空海の姉の子であるといわれ、空海が佐伯氏であるのに対し和気氏である。いずれもこの地域では有力な豪族であり、経済力があった。佐伯氏が空海の父・善通の名前をとって善通寺を作ったのに対し、和気氏は一族の長者・道隆の名前をとって七十七番道隆寺を創建した。ここ金蔵寺は、円珍の父母の荘園があったと「霊場記」に書かれている。
唐から帰国して比叡山に戻るまでの間、円珍は金倉寺を拠点とした。やはり、一族のいるこの地が安心だったからと思われる。また、円珍の守り神が鬼子母神であったことから、札所というだけでなく安産祈願、子育ての寺として多くの参拝客を集めている。
鶏足山の山号の由来は不明だが、茨城県に鶏足山という山がある。弘法大師が深山で修行していたところ鶏の鳴き声が聞こえたので、こんな山奥で不思議なことと思ったところ、生きた鶏ではなく山中にトサカの形をした巨岩があったという。金倉寺のある場所は古くから開けたところだが、あるいはこの伝説と関係があるのかもしれない。
区切り打ち2日目の朝、台風接近にもかかわらず天気はいい。まずは善通寺まで国道を6km戻る。
チサンイン丸亀善通寺。荷物を預け、すぐ近くの金蔵寺へ。
ところが、金倉寺までちょっと手間取ってしまう。ぐるっと回り込んで仁王門から入る。
当地の豪族が造っただけあって、金倉寺の境内は広く、本堂は立派である。寺のホームページによると、昭和58年の落慶ということで、まだ新しい。ご本尊薬師如来は正月三ヶ日だけのご開帳だそうで、脇侍仏が阿弥陀如来と不動明王という変わったコンビの三尊像となっている(普通、薬師三尊の脇侍は日光菩薩・月光菩薩)。
まず本堂にお参りする。八十八札所としては1年ぶりのお参りである。ちらほらと参拝客の姿はあるけれども、遍路姿は私だけである。歩き遍路もツアー遍路も前日は善通寺泊が多いだろうから、昼前のこの時間にお遍路が来ることは少ないのかもしれない。
続いて大師堂にお参りする。参道から左手に大師堂への石畳が伸びている。大師堂は本堂に比べるとこじんまりしているが、それでも他の札所の本堂と同じくらいの大きさである。納経所は本堂の並びで、こちらも先客はいなかった。
来た時は仁王門から入ったのだが、海岸寺に向かうには駐車場の側から出る方が近回りである。大通りに出る途中に、大きなうどん屋さんがある。11時を過ぎてお昼の時刻なので、入ってみる。
店の中はほぼ満席で、食券を買って窓際のカウンター席に座る。冷やしうどんの大盛り350円、本場だけあって安い。冷房が入っていないので、汗を拭きながら待つ。
うどんは茹で上げたものが丼に入ってきて、店内にいくつかある冷水機のような機械からセルフでつゆを入れる。席に戻って食べたのだけれど、うどんもつゆもそれほど冷えてないし、味も薄くてあまりおいしくない。
そういえば、区切り打ちの初めの頃、室戸岬から安芸に向けて歩いている時に入ったうどん屋でも、同じように味がないと感じたことを思い出した。あの時は体調が悪くて味覚障害を起こしたと思っていたのだが、こうして歩き始めでも同じように感じるということは、やはり、味がなかったのである。
そもそも味が薄いのか、歩いて汗をかいたのでそう思うのかは分からない。関西風のめんつゆは薄口しょうゆで作られるが、薄口しょうゆは色こそ薄いけれども塩味はかえってきつい。ともかくそういう具合なので、これ以降うどんを食べることはなかった。
店を出ると、目の前に自販機があったので、コーラの小さなペットボトルを買ってベンチに腰掛け飲む。こちらの方がかなりおいしく感じた。
さて、今回は海岸寺を経由して道隆寺に向かう予定である。道隆寺まで直行すれば3km、1時間もかからない距離だが、海岸寺に寄るのでもう少し時間がかかるだろう。
遍路地図によれば、海岸寺から道隆寺まで2.9km。ということは、3つの寺は道隆寺を頂点とした直角二等辺三角形になるはずである。すると、金倉寺から海岸寺までの距離は1.4倍の4.2kmくらい。もちろん道は直線ではないからもう少しあるとしても5kmくらいだろうと見当をつけた。
歩くのに2時間お参りに30分かかるとして、道隆寺には午後2時過ぎに着けるだろう。ちょっと忙しくなるけれども、次の郷照寺まで歩けそうだと思っていた。これがとんでもない間違いであることは、金倉寺を出る時点では思いもしなかったのである。
[行 程]琴平パークホテル 7:50 →(9.3km)10:00 チサンイン丸亀善通寺 10:15 →(1.5km)10:40 金倉寺(昼食休憩) 11:25 →
[Apr 18, 2020]
地方豪族の和気氏が造ったといわれるだけあって、境内は広い。
荘厳な本堂。間口六間の本式の建築である。
金倉寺大師堂。本堂よりこじんまりしているが、それでも他のお寺の本堂くらいの大きさがある。
別格十八番海岸寺 [Oct 1, 2019]
この回の区切り打ちで最も予定通りいかなかったのは、別格霊場海岸寺だった。別のところにも書いたけれど、「郷照寺から2.9km」と遍路地図に書いてあるので、寄り道しても2時間程度だろうと軽く考えていたのである。
台風が沖縄あたりにいて、雨具のいらないうちにできるだけ前に進んでおきたい。この日は少なくとも郷照寺、できれば坂出まで進出したいと思っていた。翌日に白峯まで登ってしまえば、後のスケジュールが大層楽になる。
金倉寺から海岸寺まで一覧できる地図は、遍路地図には載っていない。だから地図を見て判断することが難しいのだが、海岸寺のところには「道隆寺2.9km」と書いてある。弥谷寺から4.1kmとも書いてあるから、道隆寺からの方が弥谷寺よりも近いということになる。ところがこれは大ウソなのである。
まず高速道と並行して国道11号を進む。遠くに見えている山は弥谷山・天霧山である。前回の区切り打ちで登ったところだ。ずいぶん遠くに見えるから、その前に右折するんだろうと思って気楽に歩いていた。
交通量の多い道路なので、車の音がうるさい。そして、信号待ちがたびたびあって、赤信号も長い。1時間ほど歩くとセブンイレブンがあった。イートインコーナーがあれば休みたかったが、なかったので1㍑のミネラルウォーターとクーリッシュを買って歩きながら補給する。
弥谷山がずいぶん近くなって、採石場の削れた岩壁もはっきり見える。それでもまだ海岸寺に着かないのだから、金倉寺から5kmくらいという見通しが全然甘かったのではないかという不安が頭をもたげてきた。
セブンイレブンの先を右折して、今度は弥谷山の山裾を歩く。交通量は減ったけれども道幅も狭くなって、車が来ると避けなくてはならない。それにしても、全然海は見えてこない。もう1時間以上歩いているから、4km以上の距離であることは確かである。
真上から太陽がじりじりと照り付け、いつまで歩けば海岸寺が見えてくるのか見当がつかない。こうなると、別格霊場の不便さが身にしみる。せめて道案内でもあれば間違いでないことを確かめられるのだが、それさえもできない。
歩き始めて1時間半。さすがに疲れてきた。金倉寺からここまで、休憩所もなければベンチの一つすらなく、コンビニにイートインコーナーもなかった。ちょっと座って休めたらいいのにと思っていたら、目の前の高台に東屋のようなものが建っていて、中にはベンチが見える。近くまで行くと幟が立てられていて、中にはポスターが貼ってある。
ここが、多度津・おかのやま遍路小屋であった。八十八ヶ所だけ回るルートからは外れているが、海岸寺にお参りする歩き遍路にとってはありがたいという他はない休憩場所である。荷物を下ろしてやっと一息つく。トイレも水道もない小屋だが、腰を下ろして休めるだけでかなり助かる。
改めて遍路地図を確認する。ここから海岸寺までまだ2km以上ある。ここまで1時間半、6kmは歩いている。本当に道隆寺から海岸寺まで2.9kmだとしたら、金倉寺から道隆寺まで3kmだから道隆寺を経由したとしても着いている計算である。道を間違えたか、遍路地図が間違っているかどちらかである。
しかし、金倉寺からここまでずっと右折だったので、方角的には西と北にしか歩いていない。最短距離でないにしても、全く見当違いの方向に進んだ訳ではないことは確かなのである。
でも、ここまで来たら海岸寺に行かないで戻っても仕方がない。もう時刻は午後1時。2時に道隆寺という当初の予定は、ほとんど無理である。
金倉寺から別格霊場の海岸寺へ。前方に見えるのは弥谷山・天霧山。削られた山体がどんどん近づいている。
ずいぶん歩いたけれど、海岸寺までまだ遠い。休む場所がほとんどないので、多度津おかのやま遍路小屋はたいへんありがたかった。
遍路地図の道順で行くとたいへん遠回りで、しかも分かりにくい。近くのお店で道を聞いて、ようやく海岸寺にたどり着いた。
海岸寺に着いたのは、午後1時半だった。多度津の遍路小屋からも遍路地図のとおりに行くと遠回りで、しかも県道の周辺で道路工事が行われていて道が変わっている。海も見えないし道案内もないので、道路沿いの不動産屋さんで道を聞かなくてはならなかった。
経納山海岸寺(きょうのうさん・かいがんじ)。たびたび引き合いに出す五来重氏によると、このお寺は善通寺の海の奥ノ院だったという。実際に海岸寺という寺号だからもとから海沿いにあったことは間違いなさそうだ。
かつては弘法大師出生地を善通寺と争ったという。当寺のHPによると、経納山とは弘法大師が法華経を納めた山で、本堂から100mほど離れた奥ノ院のある場所という。そのためか、寺では本堂エリアを山号を使わず屏風浦海岸寺としている。
位置的には善通寺よりも弥谷寺に近く、観音寺方面から弥谷寺に登りそのまま海側に山を下りると海岸寺に達する。実は、弥谷寺にお参りした時にその経路を予定したのだが、暗くなりそうだったのでJRみの駅へ引き返した経緯にある。
道路沿いにまず見えてくるのは、山門と庫裏である。それから、4階建てくらいの鉄筋コンクリートが登場する。これがユースホステルであろう。いまやっているのかどうか分からない。
別のところに書いたことがあるが、私が大学生の頃がユースホステル全盛期だった。民宿でも4千円ほどかかった頃に、1泊2食2千円ほどで泊まることができ、全国津々浦々にあった。ちょうど、団塊の世代が日本中飛び回っていた時期である。
その後、オイルショックとインフレが来て、その値段ではとても1泊2食を提供できなくなった。さらに、バブルで若い世代の関心が国内よりも海外に向かったことによって、ユースホステルのブームは急速にしぼんでいくのであった。
そうした外部要因はともかくとして、ユースに泊まればみんなで歌を歌ったりフォークダンスをしたり、よく分からない連中が偉そうに指図したりする雰囲気が、ユースホステルから宿泊者を遠ざけたのではないかと私は思っている。
でも、いずれにしても40年前のことである。いまや、ドミトリーの日本版としてユースホステルが見直されてきているらしいし、ともかくこうしてユースの看板を掲げているところはあるのである。
海岸寺に話を戻すと、山門と並んだ県道沿いに仁王門がある。普通、仁王門と言えば金剛力士なのだが、こちらの仁王門は力士は力士でも相撲の力士である。立派な銅像で、琴ヶ濱と大豪と四股名が書かれている。昭和30~40年代の力士で、琴ヶ濱は観音寺、大豪は丸亀の出身である。
仁王門の奥に本堂がある。お寺の敷地そのものは大きいのだが、なにしろユースホステルの建物が多くを占めているのでちょっと手狭である。輪袈裟を掛け、教本を出して読経。すぐ横が納経所である。大師堂が離れた場所にあるので、気になったけれど先にご朱印をいただく。
いったん仁王門を出て、県道を100mほど進む。左手に、立派な多宝塔が見えてきた。何だか、本堂があるエリアよりもお寺らしい雰囲気だ。しかし、車通りがない分ひと気がなくて寂しい。
山門の扁額には「経納山」の扁額が掲げられている。経納山は海岸寺の山号であるが、寺では奥ノ院を指しているようで、本堂エリアを指す場合は屏風浦海岸寺といっている。境内には、一番奥に大師堂、その前に弘法大師が産湯を使ったという井戸もある。
大師堂は、周囲が開けているせいか、本堂よりも大きく見える。読経して脇の建物をみると、こちらにも納経するためにご住職が待機されている。別に納経所があるので、気にすることはなかったのだ。1ヶ寺で2つになるが、せっかくなのでご朱印をいただく。
あとでご朱印帳を見ると、本堂でいただいたものには「四国別格第十八番 弘法大師出化初因縁之霊蹟 屏風浦海岸寺」とあり、大師堂(奥ノ院)でいただいたものには、「弘法大師誕生所 讃岐白潟 屏風浦海岸寺奥之院」とある。海岸寺自体が善通寺の奥ノ院だったとすれば、奥ノ院の奥ノ院ということになる。
金倉寺を出たのは11時だったのに、もうすでに午後2時である。どう考えても4kmや5kmじゃなかったと思いつつ、歩きながらスケジュールを再検討する。遍路地図によると道隆寺まで2.9kmだというが、かなり疑わしい。今回のお遍路は、始まって早々に厳しいことになった。
[行 程]金倉寺 11:00 →(5.5km)12:45 多度津へんろ小屋 12:55 →(2.2km)13:30 海岸寺 14:05 →
[May 2, 2020]
山門と並列に、県道に沿って仁王門がある。置かれている銅像は琴ヶ浜と大豪。ともに地元出身の力士のようだ。
海岸寺の本堂エリアには庫裏やユースホステルがあるが、本堂自体はこじんまりしている。むしろ、200mほど離れた奥ノ院の方が大きい。
奥ノ院まで歩く。ここには、弘法大師が産湯を使ったとされる井戸がある。
七十七番道隆寺 [Oct 1, 2019]
海岸寺奥ノ院にお参りしている間に、午後2時を過ぎた。帰りは海岸寺まで戻らなくても、弥谷寺方面から県道に抜ける道も遍路地図に載っているが、かえって遠回りのようなのでいったん海岸寺の前まで戻り、右に入ってJR海岸寺駅方面に向かう。
しばらく進むとJR海岸寺の駅前に出た。新日本風土記で見たうどん屋さん「多奈加」の看板が見えるが、シャッターは閉められていた。そのまま川沿いを進むと、それほど歩かずに多度津へんろ小屋の近くまで来た。往きに歩いた道はかなり遠回りだが、なぜあちらが推奨ルートなのだろう。
このあたり道は東西南北に走っていて、JRの線路は斜めである。道隆寺はJR多度津駅の近くなので線路沿いに歩ければ最短距離なのだが、そういう道路はない。なるべく線路から離れないように歩くだけである。
まっすぐ続く住宅街の道を抜け、バスの通る太い道を北に歩いて多度津駅の近くまで来たのだが、駅前にある標識を見ると「道隆寺1km」である。すでに時刻は午後4時近い。迷ってもいないのに、2時間近く歩いている。絶対に2.9kmである訳がない。
駅前の通りを直進して陸橋を渡ると、ようやくそれらしきお寺が見えてきた。桑多山道隆寺(そうたさん・どうりゅうじ)、寺号は創建した和気道隆の名前からとったとされる。
和気氏は空海の佐伯氏と同様、この地域の豪族であった。道隆は弘法大師空海の父である佐伯善通の兄弟という伝承もあるけれども、「霊場記」に元明天皇(奈良時代初め)時代の人と書いてあるから、半世紀以上違うようだ。
桑多山というのは、かつてこの付近は桑畑であったところからきている。領主の道隆が毎晩怪しく光る桑の巨木を射たところ誤って乳母を射てしまい、これを悲しんで桑の木を彫って薬師如来像をお祀りしたのが始まりとされる。
やはり「霊場記」に、仏教徒でなくても受けられる灌頂を開き多くの人が集まったとあるから、民間信仰の振興拠点としての要素があったものとみられる。五来重氏は、鎌倉時代に山伏が再興した寺であると推測している。
境内に入ると、参道にずらっと並んだ石造りの仏様と、「眼なおし薬師如来」の幟が目に入る。仏様には髪があるので、薬師如来ではない。菩薩、おそらく観世音菩薩(観音様)かと思われた。
境内は、善通寺ほど広くはなく金倉寺よりもやや小さいように思えたが、本堂・大師堂の他にもいくつかのお堂が並んでいる。納経所のおばさまと、海岸寺をお参りしてきたらずいぶん時間がかかってしまいました、と話になる。
「そうなんですよ。海岸寺からはかなり距離があります。本とか見ると短いように書いてあるようですけど、実際はずいぶん長いんですよ」
とおっしゃっていた。やっぱり、遍路地図の2.9kmというのは嘘だったんだ。
海岸寺から道隆寺に向かう。遍路地図の赤線ルートではないが、JR海岸寺駅を経由する道が近くて分かりやすく、車も少ない。
遍路地図には2.9kmと書いてあるが、実際に私が歩いたのは7km。どんなに近道しても6km以上はあるだろう。着いたのはすでに4時過ぎ。
境内には多くの石の仏像(観音様?)がお並びになっている。正面は大師堂。
もう午後5時まで時間がないので、郷照寺まで歩いても納経所は閉まっている。丸亀まで歩いて終わりにしようと思っていたら、門前の土産店のソフトクリームの看板が目に入った。
そこにいたお姉さんに「ソフトクリームはありますか」と聞くと、「ありますよ。食べていきますか」とうれしいお返事。看板だけでやっていない所が結構多いのである。
それも、バニラだけではなくいくつも種類があるという。せっかくなので、マンゴーをお願いした。お接待のお茶をいただきながら、天気の話になる。
「讃岐はお大師様のおかげで、そんなに台風は来ないんですよ。高知や愛媛が大雨になっても、このあたりはちょっと降るくらいで。」
そうなのだ。だから香川県にはため池が多く、水を貯めておかないと稲作ができないのである。最近はそうでもなくなったが、高松に宿をとると、以前は節水に気をつけるよううるさく言われたものである。
「あさって白峯に登るんですけど、大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。きっと今日みたいな天気で、降ってもぱらぱらくらいですから」
いずれにしても、もうホテルも予約しているので、心配したところで手遅れである。大雨になろうが風が吹こうが、歩くしかない。
道隆寺からJR丸亀駅まではほぼ一本道で、海岸寺から道隆寺までのように迷うことはなかった。ただ、交通量が多いので、途中から線路沿いの側道に避難した。こちらは静かで歩きやすかったけれども、海岸寺往復の疲れが出て足がたいへん重かった。そんなに距離を歩いていないんだけど久しぶりだからかな、と思いながら歩いた。
丸亀駅に着く頃にはあたりは暗くなっていた。駅前のスーパーで、お弁当と水、ウィルキンソンの炭酸水、体を洗うタオルを買う。全部で857円だったのだが、タオルだけが消費税10%で、あとは8%なのがおかしかった(この日から、消費税が増税となったのである)。
コミュニティバスを待ったが、渋滞しているのかなかなか来ない。同じコースの逆回りが先に来たので乗る。ずいぶん遠くまで行ってしまってひやひやしたが、丸亀善通寺インターからチサンインの前に着いたのでかえって近かった。スタジアムのバス停から歩こうと思っていたのである。
コミュニティバスなので、料金は200円均一。時間は30分かかったが、市内を見せてもらったと思えば悪くない。すっかり日が暮れて、暗い中の観光となったが。
買ってきたお弁当で夕食にし、洗濯が終わってベッドに横になったのは10時近かった。全身が痛くてバンテリンを塗って寝たものの、さらに夜中に起きてヒザにロキソニンテープを貼らなくてはならなかった。
結局、この日の歩数は54,670歩。GPS測定の移動距離は30.2kmで、やっぱり疲れただけの距離は歩いていた。海岸寺を経由したため、予想外でいきなりの30km超えとなったのでした。
[行 程]海岸寺 14:05 →(7.0km)16:05 道隆寺 16:35 →(3.8km)17:50 JR丸亀駅(→[バス]チサンイン丸亀善通寺(泊))
[May 16, 2020]
道隆寺本堂。ご本尊の薬師如来は、眼病に霊験あらたかだそうである。
こちらは大師堂。境内に多くのベンチが置かれているのはありがたい。
門前には土産物店がある。時間的に次の郷照寺は難しくなったので、ソフトクリームで休憩。
七十八番郷照寺 [Oct 2, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
区切り遍路3日目の朝になった。前日、海岸寺まで「看板に偽りあり」の長距離を歩いたせいか、全身が痛む。夜中、ヒザに湿布薬を貼ったのだけれど、あまり効果はない。荷物を置いて身軽になって歩いたのに、それ以上にハードな道のりだった訳である。
幸いなことに、台風はまだ朝鮮半島にいる。2~3日中に日本海を北上してくる予想進路となっているが、四国にどの程度影響があるかはよく分からない。降水確率が90%とか100%ではないからそれほど深刻な影響がない可能性もあるが、期待するより来るものと思っていた方がショックは少ない。
いずれにしても、この日は丸亀からのスタートである。前日に郷照寺までお参りできていれば白峯寺まで登るという選択肢もあったが、丸亀からではとても無理である。国分寺までだから、あまり早出しても仕方がない。前日の夕方に乗ったコミュニティバスが8時23分にホテル前に来る。それに乗ることにした。タクシー代とバス代の1000円差は大きい。
朝食は6時半からバイキング。前の日はパンにしたので、この日はご飯にした。納豆と味付け海苔、焼いたサバ、サラダとオレンジジュース、牛乳。前日の夕食がスーパーの弁当で味気なかったので、温かくておいしい。
この日はフル装備でちょっと重い。バスを待っている間に小雨がぱらついたが、リュックカバーをするほどでもない。時刻通りにバスが来て、約30分。午前9時前にJR丸亀駅に着いた。
駅前から丸亀坂出間を結ぶメインルートである県道33号線まで、商店街を歩く。ところどころ廃業してシャッターを閉めたままの店があり、そのシャッターに絵が描いてある。県道に出ると、向こうから丸亀城の天守閣が見えてきた。
その丸亀城よりも目を引いたのは、左折してしばらく歩くと見えてきた讃岐富士の堂々たる姿である。予讃線に乗っているとたいへん目立つ山であるし、リムジンバスやお遍路歩きの途中で何回も見た。だが、これほど近くで見たのは初めてである。
市街地を1時間ほど歩いて郷照寺に達する。このあたりは丸亀の隣の宇多津の街で「霊場記」にもそう記されている。さきほど讃岐富士が見えた河川敷が土器川であり、そこまで丸亀藩、それからが高松藩となる。
仏光山郷照寺(ぶっこうさん・ごうしょうじ)、真念「道指南」の頃は道場寺と称した。八十八札所中唯一の時宗寺院で、もともと念仏道場であったことから道場寺と呼ばれた。宇多津港を望む高台にあり、瀬戸内を往来する舟の灯台の役割を果たしたことから、仏光山の山号が名付けられたと五来重氏は推測している。
真念「道指南」に「少山上」と書かれているとおり、宇多津の街から坂道を少し登った高台にある。もと念仏道場であったことは、ご詠歌「をどりはね念仏申す道場寺」に名残りがある。
寺のHPによると、天正の兵火で焼失した後、高松藩主松平頼重により再興された。その際に寺号を郷照寺と改め、もともと真言宗だったものを時宗と併存させたように書かれているが、ちょっと首をひねるところである。
まず、松平頼重は水戸黄門徳川光圀の兄で江戸初期の大名である。真念「道指南」より時代が古い。にもかかわらず「道指南」も「霊場記」も道場寺で、江戸後期の札所案内「象頭山四国八十八札所案内」でも「だうじゃうじ」である。
何よりもご詠歌の「をどりはね念仏申す」は時宗の踊念仏を表現していることは明らかである。だから道場寺はもともと念仏道場であって、江戸時代を通じて道場寺と呼ばれていたのだと思う。(別名で郷照寺を使っていたとすれば、「道指南」「霊場記」はそう書いたはずである)
道場寺が郷照寺となるのはそれよりもっと後、八十八札所がパッケージとしてみられるようになった明治時代からだと思う。「円明寺」「延命寺」が同じ「えんめいじ」が続いてまぎらわしいので、明治になって違う寺号・読み方にしたのと同じ事情である。
信仰についても、真言宗と時宗では宗旨が違いすぎる。現在では厄除け大師として大師信仰を前面に押し出しているけれども、これは近年のことで、少なくとも江戸時代には時宗寺院として存続していたのではなかろうか。
JR丸亀駅から郷照寺へ向かう。右手には讃岐富士が間近に見える。
郷照寺は国道から少し坂道を上がった高台にある。江戸時代には、丸亀まで船便で来ると、最初の札所がここ(当時は道場寺)だった。
郷照寺本堂。たいへん景色のいいお寺である。
さて、高台にあって景色はたいへんによい。宇多津の街を見下ろし、そして瀬戸内海、向こうに見えるのは塩飽(しあく)諸島だろうか。
塩飽諸島はかつて海賊が拠点とした島であり、江戸時代も基本的に陸軍であるかつての戦国大名が治めるのは難しく、人名(にんみょう)と呼ばれる島民による自治が幕末まで続いたという。昔、丸亀からフェリーで行ったことがある。
そんなたいへん景色のいいお寺なのでしばらくゆっくりしたいのだが、広い境内のどこにもベンチが見当たらない。納経所のところに折り畳み椅子が置かれているが、あれは掛け軸だの納経帳を何冊も持ってくる人のための荷物置きだろう。
本堂も納経所もとても立派で新しい建物だが、ベンチの一つもないことはみんなが集まりくつろぐことを喜ばないという寺の姿勢のように思えて、釈然としない気持ちであった。かつて念仏道場として、阿弥陀如来におすがりする人々を多く集めたことを思うと尚更である。
そうした寺の姿勢の移り変わりを示しているのか、本堂エリアから石段を登って一番高い場所にあるのが大師堂である。その大師堂も、お遍路が読経しに来るというよりも、現在の売りである厄除けのためにそうしているようで、にぎやかな幟が林立していた。
お参りが終わって、こんなに寂しく思った札所は初めてである。納経のご朱印くらいしか参拝客と接触したくないというお寺もない訳ではなかったが、それよりも、施設も整備し立地も伽藍もすばらしいのにお遍路を拒絶するようなお寺を造るのはなぜだろう。
(当時はコロナのコの字もなかったので、ソーシャルディスタンスや3密を気遣った訳ではない。それとも、常人離れした先見性を持っていたのだろうか。)
もちろん、営業努力も大切だし収支償わなければ寺を存続していくことは難しいけれども、お寺のそもそもの存在意義は仏教普及であり信仰を集めることである。おカネを落とす人は歓迎するが、仏様をすがる人々には来てほしくないという仏教だとすれば寂しい。
そんなことを考えながら山門を出て歩いていると、「ご接待しています。どうぞ休んで行ってください」と声をかけられた。丸亀駅から1時間歩いてきて郷照寺で腰を下ろすこともできなかったので、たいへんありがたい。案内されて、道沿いの休憩スペースに入った。
驚いたのは、よくあるへんろ小屋ではなく、普通の飲食店ができそうな立派な建物であったことである。テーブルとカウンターがあるのも、気が利いている。リュックを下ろしてカウンター席に座り、羊羹と冷たいお茶をいただいた。
お話をうかがっていると、毎日ではなく週何回かこうして遍路にご接待されているという。よく聞くことだが、最近は歩き遍路が減っているのに外国人の歩き遍路は逆に増えているという。
私も歩いていてよく会うので、「そうですね。野宿なども平気みたいですよ」と話すと、
「どうやら、向こうのネットにそうした情報が流れているようですよ。だから、私どもでもよく知らないような善根宿とか通夜堂、野宿場所を使ってお遍路歩きしているみたいです」ということだった。
15分くらいお邪魔してそういう話をしていたら、お寺を出たときの寂しい気分は大分治まった。出る時に表札を見ると「うたんぐら」という休憩所である。遍路地図に場所だけは書いてあるが、休めるとは書いていない。毎日やっていないからかもしれない。
[行 程] (チサンイン丸亀善通寺・バス→)JR丸亀駅 9:00→(4.3km)10:05 郷照寺 10:45 →
[May 30, 2020]
こちらは大師堂。本堂エリアから石段を登る。
丸亀市街を望む高台でたいへん景色がよく境内も広いのに、ベンチが見当たらない。納経所に荷物置きの折り畳み椅子が置かれているくらい。
ちょっとがっかりしてお寺を出ると、山門すぐそばの休憩所「うたんぐら」でご接待。腰を下ろして羊羹をごちそうになり、うれしかった。
七十九番高照院 [Oct 2, 2019]
郷照寺は高台にあるので、県道までゆるやかな下り坂である。「うたんぐら」でお接待していただいたので、足取りも軽やかである。
時刻はもう11時、そろそろお昼である。高照院まで約6km、1時間半の道のりがあり、その前に休憩をとった方がよさそうだ。ちょうど県道に出たところにローソンがあったので、サンドイッチと飲み物を買う。
ところが、ローソンを出たところで進行方向を間違えて、来た方向に戻ってしまう。しばらく進んで「郷照寺↑」の案内があったので気がついた。このあたり、海沿いを歩いているのだが海は見えないし、台風接近で太陽が見えないことも原因になっただろうが、情けないことである。回れ右して引き返す。
休憩適地は郷照寺から1.5kmほどの宇多津・蛭田池公園へんろ小屋だが、道間違いで倍歩いてしまった。公園の一角に屋根付きの休憩スペースがあり、すぐ横の集会所裏にへんろ用トイレがある。リュックを下ろし、先ほど買ったサンドイッチでお昼にする。
ここで20~30分休んだのだが、私の他に誰も歩き遍路は通らなかった。3~4年前、室戸岬に向かう国道沿いで、休もうと思うとそのたびに先客がいたことを思い出した。歩き遍路する人は確実に減っているようである。
もっとも、経費面だけ考えれば無理のないことかもしれない。江戸時代には善根宿や通夜堂がありお接待も盛んだったので、宿泊費・食費はほとんどかからなかったという。ところが現在では、ほとんどの遍路小屋は宿泊禁止である。
もっとも私の場合、仮に遍路小屋が利用可能としても、洗濯はしたいしシャワーを浴びたい、虫が来るのは嫌だなどと言っているから無理である。お接待があるとはいっても3食ご接待という訳にもいかない。
洗濯機と風呂のある宿となると、6000~7000円はかかる。その他食費等の経費を含めて大体1日1万円、50日かかるとして50万円が必要である。いまどき50万円あれば、世界中どこへでも行けるだろう。(コロナがなければ)
加えて問題なのは、50日間の休みをどうやってとるかということである。私だって現役時には、1週間以上の休暇はとれなかった。首都圏からだと、歩けるのは一遠征で4~5日。そんな休みは年に1回取れるかどうかだろう。
そんなこんなで、お遍路歩きをしようという人はどんどん減っている。バス遍路で八十八回るよりインドで聖地巡礼した方が日数も経費も安く済むのであれば、インドに行った方が功徳と思う人が多くなるのも無理はない。
12時のチャイムがなり、再びリュックを背負って出発する。ほどなく、高速道が直角に県道を横切る。高速道の下にも立派な公園があり、こちらで休むこともできたようである。
この高速道は本四連絡橋を越えて岡山に向かう。建設前は、児島・坂出ルートといった。つい先日、もと本四連絡船であった宇野・高松のフェリーが廃止されたが、橋が架かる前は四国まで船で渡らなければならなかった。
その頃私は銀行にいて、東京湾横断道ができたらどうなるとか、本四連絡橋ができたらどうなるとか調べるのが仕事だった。できて数十年経ってみると、便利にはなったものの根本的に何かが変わったということはない。結局は経済力のある方にメリットは吸い取られて、四国も房総半島も地盤沈下し続けている。
坂出も、連絡橋ができるまでは四国有数の工業地帯であったはずだが、連絡橋ができてにぎやかになったという話は聞かない。連絡橋の下にある島々にしたところで、観光需要があったのは一時のことでその後は閑散としている。
高速下を抜けてどの道だろうと案内を探していると、通りすがりの人が「この道をまっすぐですよ」と教えてくれた。遍路白衣を着ていると、行先が明らかなのでこうやって道を教えていただくことがある。お礼を言って、車がすれ違えるくらいの幅のまっすぐな道を進んでいく。
宇多津・坂出間にへんろ小屋宇多津・蛭田池公園がある。すぐ横の集会所にへんろ用トイレも併設されていてありがたい。ここから坂出市内には、あまり休める場所はない。
本四連絡橋に向かう高速道を越えて坂出市街に至る道に入る。「この道をまっすぐですよ」と言われた細い道路だが、住宅街を抜けるとシャッター商店街が延々と続く。
住宅街をしばらく歩いた後、商店街となるけれども、ほとんどシャッターを下ろしている。この商店街は2~3km続いたのでかなりの規模だと思うのだが、いまとなっては寂しい風景である。
幹線道路ではないので車はほとんど通らないのだが、まっすぐな上にアーケードになっていることもあって、すごい閉塞感がある。しばらく歩いていたらひどく疲れてしまった。ちょうど石のベンチが置かれていたので休む。
5分ほど休んで出発。シャッター商店街はまだまだ続いたが、ようやく途切れ途切れとなり向こう側に景色が見えてきた。どうやら坂出の中心部は突破したようだ。太い道を2度ほど横断して山に向かう道に入る。
予讃線の線路沿いに続くこの道は結構分かりにくく、案内標識があまりない上に右に折れる分岐がいくつもある。メインルート自体が白線も引いてない細い道なので、どちらが高照院に続く道なのかはっきりしない。
がまんしながら登り坂を進んでいくと、池の脇に縁台を並べた売店の前に出た。名高い八十場(やそば)の水である。せっかくだから、と腰を下ろす。
この日は、うたんぐらで休み、蛭田池へんろ小屋で休み、坂出商店街で休み八十場の水で休みと、郷照寺から高照院までの7kmほどの間に4回も休んだ。やはり、この頃から調子がよくなかったらしい。
名物のところてん250円を縁台に座って食べる。すぐ横に八十場の水があるので、それだけで涼し気だ。ところてんはいくつかの種類があったけれど、オーソドックスに酢醤油をお願いする。それほど冷たくはなかったが、汗をかいた後だったのでおいしかった。
八十場の水は古くから霊水として知られており、崇徳上皇が崩御された際、京都から使者が到着するまでご遺体を霊水に浸して保存したと伝えられる。上皇は保元の乱で敗れて謀反の罪で流罪となっていたから、検死が必要だったのである。
八十場の水から高照院まで500mほど。手書きの地図が掲示されていたのでそのとおりに行ったが、かえって遠回りだったようだ。普通に登り方向に進んでいけば着く。
金華山天皇寺高照院(きんかざん・てんのうじ・こうしょういん)。明治の神仏分離までは崇徳天皇社が札所であり、別当寺の摩尼珠院が納経印を書いていた。
神仏分離で崇徳天皇のご神霊は京都の白峯神宮に移られ、摩尼珠院は廃寺となった。納経を引き継いでいた筆頭末寺の高照院が明治20年に摩尼珠院跡地に戻り、現在の姿となった。
「霊場記」では金花山妙成就寺、別名崇徳天皇と書かれている。妙が成就するという寺号は、真言宗というよりも法華経の色彩が強い。宇多津の道場寺(郷照寺)も坂出の崇徳天皇社も、讃岐の振興拠点として外すことのできない霊場だったようだ。
門前まで達すると、天皇寺と大きく書かれた石碑がたいへんよく目立つ。その隣に立っている、鳥居の左右に小さな鳥居を付けたような印象的な三輪鳥居がここのシンボルである。
もちろん、鳥居は神社のものでありお寺のものではない。鳥居の正面奥に位置するのはかつての崇徳天皇社、現在の白峯宮である。高照院は別当寺として、参道を左に入ったところにある。
坂出のシャッター商店街を延々と歩き、ようやく高照院への登り坂となる。この少し先に八十場の水の売店がある。
八十場の水の売店前。奥に見えるような縁台がいくつか置かれており、名物のところてんを250円で食べることができる。
「天皇寺」の石碑と、特徴ある三輪鳥居。お寺とお宮の間に境はあるが、山門のようなものはなく、この鳥居が高照院の入り口である。
崇徳天皇社がこの地に定められたのは、ここに八十場の水が湧出していたからである。このことは「道指南」にも「霊場記」にも書いてあるのだが、なぜ霊水が必要だったのかは書いてない。崇徳天皇は保元の乱の首謀者として流罪とされた身であり、中央の検死を受けるまでそのまま保存しておく必要があったからであった。
まず、三輪鳥居からまっすぐ奥にある白峯宮に二礼二拍手一礼でお参りする。参道がまっすぐ伸び、境内には例によって神馬がいるのだが、想像していたよりも大きくはない。(今治の八幡神社よりかなり小さい)
高照院には、参道の左に寺への入り口がある。仁王門のような大掛かりなものがないのは、三輪鳥居が山門の代わりなのだろう。白峯宮の参道くらいのスペースに、本堂・大師堂・庫裏や他の建物もあるので、すごくコンパクトだ。でも、もともと別当寺だからお宮より大きくする訳にはいかないかもしれない。
ご本尊は十一面観音。扉の奥にいらっしゃって見ることはできない。ここから八十七番長尾寺まで、十一面、千手、聖観音と形はそれぞれだが、ずっと観世音菩薩がご本尊のお寺が続く。
道指南などに書かれている「崇徳天皇」という呼び方は、現代の感覚からするとやや違和感がある。陵を指すのであれば崇徳天皇陵、お宮を指すのであれば崇徳天皇社と呼ぶべきと思うのだが、単に「崇徳天皇」である。これだけでは、人名(天皇名)を言っているのか場所を言っているのか分からない。
そして、崇徳天皇は譲位して上皇となっているので、平安以来数百年間にわたり「崇徳院」と呼ばれている。そもそも、天皇を「XX天皇」と呼ぶこと(漢風諡号)自体、一部の例外を除き平安時代以降江戸末期の光格天皇までなかった(例外は安徳天皇など)。
平安時代以降ほとんどの天皇は亡くなった後「院号」で呼ばれており、「XX天皇」で統一されるようになったのは明治以降である。一条院、鳥羽院はじめ、お住まいになった土地から院号が選ばれる例が多かった。
それこれ考えあわせると、「崇徳天皇」という固有名詞は中世の人々にとって特別の意味があり、それは説明するまでもない自明のことだったのであろう。ちなみに、明治維新の際、明治天皇は崇徳天皇のいらっしゃるこちら讃岐まで勅使を送り、「長年のお怒りを鎮めて京都に戻っていただく」ようお願いしている。
崇徳上皇(天皇)は、日本中世史の最重要人物の一人である。私はどちらかというと古代史の方に興味があるのだが、貴族政治から武家政治に変わる大きな要因として、崇徳上皇の呪いが当時の人々にとって大きな意味をもったことは間違いない。
崇徳上皇は「民をとって皇となし、皇をとって民となす」と天皇家を呪ったとされるが、そこまで恨むのはどうかという気もする。実は白河院の隠し子という噂の真偽はおくとして、上皇は保元の乱を起こして後白河上皇と対立し、軍事衝突しているのである。
上皇方の悪左府・藤原頼長は矢に当たって死に、源為義は斬首された。崇徳上皇が讃岐への流罪で済んだのは先々代の天皇だったからで、上皇の息子である重仁親王も出家させられた。本来なら首謀者はもっと重い刑になっておかしくない。
それを、写経したから都の寺に納めてほしいというのを断られて恨むというのは逆恨みに近い。そして、実際の崇徳上皇はそれほど執念深くなかったという説もある。
保元の乱の後、天災や火災、遷都騒ぎなどで世の中が乱れたので、数百年ぶりに死罪になった保元の乱の敗者達の怨霊によるものと噂され、一番の大物である崇徳上皇が怨霊の親玉にされてしまったのかもしれない。
もっとも、上皇のせいで貴族政治が武家政治となったというのも貴族社会の被害妄想である。鎌倉以降明治までずっと幕府が治めていればともかく、鎌倉幕府を滅ぼしたのは後醍醐天皇である。
その後醍醐政治(建武の新政)がひどかったからその後500年間天皇の出番がなかった訳で、武家政治が続いた理由は天皇と藤原一族に政治能力がなかったからである。
[行 程]郷照寺 10:45 → (2.7km)11:30 蛭田池公園へんろ小屋 12:00 → (4.7km)13:20 八十場の水 13:30 → (0.5km)13:45 高照院 14:10 →
[Jun 20, 2020]
三輪鳥居からまっすぐ奥が白峯宮、崇徳天皇社である。
高照院へは白峯宮の左手に入る。ご本尊は十一面観音。
高照院大師堂。もともと別当寺なので、白峯宮よりずいぶんコンパクトにまとまっている。
八十番国分寺 [Oct 2, 2019]
高照院から、来た道と反対側の坂を下ってゆく。坂出市街から来た道は細くて見通しが利かなかったが、下りは前方が開けて景色がいい。向こうに見える山は五色台だろう。山頂近くに見える建物がニューサンピアで白峯寺のすぐ近く。あの近くまで歩かなければならない。結構距離があるように感じた。
その前に国分寺にお参りしなければならない。国分寺へは、この山のへりをずっと進むことになるが、7㎞だから結構距離がある。いま午後2時だから、4時くらいにはなりそうだ。ホテルに着く頃には日が暮れる。もう少し朝早く出てもよかったかなと思う。
ずいぶん蒸すので、坂を下りたところにあった自販機でコーラを買って一息つく。高照院の周りには、八十場の水を除いて売店や食堂は見当たらなかった。
しばらく歩いた高架下で予讃線の線路とぶつかり、そこにあった案内図にしたがって細い道を進む。線路沿いに進む道で、もうすぐ駅というところで踏切があった。八十場の次のJR加茂川駅である。右折して、線路と並行して走っている太い道路を進む。
このあたり、何の疑問も持たずに県道を進んでいたのだが、最短距離の国道11号は五色台の方向に左折しなければならなかった。平坦で歩きやすいものだから2㎞3㎞と歩いて行って、そういえば国分寺の案内標識がないなと思って地図を確認して気がついた。
ただ、ここまで来てしまったら戻るよりそのまま進んで合流した方が距離ロスは少ない。最短距離ではないといっても予讃線に沿って歩いている訳だから違って1㎞か2㎞だろうし、アップダウンがあればそれだけ時間がかかることもありうる。そのまま進むことにした。
加茂川の次の讃岐府中駅あたりで、ぽつぽつと雨が落ち始めた。傘を差すほどではなく遍路笠風のフィールドアンブレラを被って雨を避けるが、この雨は止まない雨である。いよいよ台風が朝鮮半島から日本海に入ってきたのである。
遍路道ではないので、ベンチも休憩所もなく、黙々と歩く。なんとなくアップダウンが多くなってきたのは、いよいよ五色台のすそ野に近づいているからかもしれない。讃岐府中を越えたあたりで山に沿ってなだらかな左カーブとなる。次の駅が国分寺のある国分である。
国分寺は奈良時代に、聖武天皇の詔により全国に造営された。各国の中心地に作られたから当時の国府に近く、国分寺の近くに府中という地名があることが多い。
ここ讃岐もそうだし阿波もそう。土佐国分寺は高知ではなく南国市にあるが、土佐国府は南国市周辺にあった。伊予国分寺も松山ではなく今治市にあり、国府も今治周辺にあったと考えられている。
高照院から1時間と少し歩いて、ようやく最短距離である国道11号に合流した。ようやく国分寺の案内看板が現われて、あと2㎞である。雨はだんだん強くなって、傘を差さなくてはならなくなった。JR国分駅を過ぎ、さらに700~800m歩いてようやく国分寺に着いた。もう午後4時近かった。
高照院から県道に下り、そのままJRに沿って歩く。ただこの道はやや遠回りで、国道でショートカットする方法があった。
いったんJR国分駅を通り過ぎて、国分寺まで500mほど歩く。
境内は広く、山門から本堂まで石畳が続いている。
白牛山国分寺(はくぎゅうさんこくぶんじ)、いうまでもなく、聖武天皇が全国に建てた国分寺の一つである。ご本尊は十一面千手観音。院号を千手院というから、塔頭寺院のうち再建されたのが千手院だけだった可能性が大きい。
阿波・讃岐の他の寺院と同様、戦国時代の天正年間に焼失して荒廃、江戸時代に再建された。札所の4つの国分寺を比べると、土佐の国分寺がもっとも古い形で残っていて、他の3つは江戸時代以降に再建された。
天正年間の焼失は、土佐を拠点とした長曾我部氏が四国の他の戦国大名や織田方の軍と戦ったので戦場となってしまったためで、それほど激戦のなかった土佐では古い建築物が残ったのであろう。
讃岐国分寺は阿波や伊予に比べると寺観は整っているけれども、それでも創建当時と比べるとかなり縮小されている。境内のほぼ真ん中には金堂と七重塔の礎石がほぼ当時のままで残されていて、相当の規模であったことがうかがわれる。
雨がだんだん強くなってきて、荷物もあるのでゆっくりしていられないのが残念である。本堂は参道正面にあるが、大師堂は右奥にあって納経所と同じ建物である。内部は残念ながら撮影禁止であった。山門の横に白峯寺への経路が書かれていたのを確認してから、JR国分駅へ。高松まで260円。
サラリーマン時代はたびたび来ていたのだが、しばらく来なかったせいか高松市内の土地勘がなくなってしまっていて、歩いている人に三越の場所を聞き、三越の受付でホテルの場所を聞いてようやんホテルWAKABAにたどり着いた。
コインランドリーは階段の最上部に1台だけしかなかった。何度も部屋と階段室を往復して疲れてしまった。夕飯は三越のデパ地下で半額になったお弁当を買い、三越では用が足らずセブンイレブンまで歩いて翌日の朝食と行動食を用意した。
古いビジネスホテルなのでちょっと狭く、特にユニットバスは手足を伸ばすことができなかった。そのせいか何だか疲れて、雨も降っているので温かいものを食べに外に出ようという気になれなかった。後から考えると、このあたりから体調がおかしかったようだ。
この日の歩数は44,256歩、GPS測定による移動距離は20.7kmでした。
[行 程]高照院 14:10 → (7.5km)15:55 国分寺 16:20 → (0.8km)16:30 JR国分駅 (→高松(泊))
[Jul 4, 2020]
讃岐国分寺本堂。明治時代には国宝であったが、現在は重要文化財であると説明書きがある。
国分寺大師堂は納経所の建物内にあり撮影禁止。そういえば、弥谷寺も大師堂内に納経所があった。
お参りを終えてJR国分駅に戻り、電車で高松へ。日が暮れてきただけでなく、雨が降り出したせいで暗い。
八十一番白峯寺
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
2019年10月3日の朝になった。この日は4時起きの予定だったが3時半に目が覚めた。天気予報では、日本海を北上中の台風の影響で午前中雨が残るけれども、午後は晴れると言っている。できるだけ早く止むことを祈るだけである。
前の晩にセブンで買ったコロッケパン、飲むヨーグルトいちごと、インスタントコーヒーで朝食にする。台風が近づいているので自分なりに急いで来たものの、結果的には当初予定どおり国分寺まで打って高松市内まで移動することとなった。
できれば前日のうちに白峯まで登って坂出に下りることができれば(バスの時刻表も確認していた)、時間的にも体力的にも余裕があったのだが、今更どうしようもない。何とかやりくりするしかない。
そうなると、この日の歩き始めはできるだけ早くということになり、午前7時からのホテルの朝食を食べている時間はなかった。また、根香寺から別格札所の香西寺に下りて、そこから一宮寺という予定にしていたけれども、香西寺に寄るのも難しいかもしれない。
そういえば1年前に善通寺の近くで、「この先はしばらく平坦で楽だよ。次の登りは白峯寺だな」と教えられたことがあった。実際、この後の厳しい登り下りと悪天候にスケジュールの厳しさが加わって、体調を崩す原因となってしまった。
午前5時過ぎにホテルを出て、JR高松駅まで歩く。雨は降っていない。もう雨雲が過ぎてしまったことを期待する。5時半に駅に着いて、42分発の普通電車に乗る。駅には誰もいなかったが、電車の中には結構人がいる。さすが四国第一の都市である。
香西、鬼無と過ぎて国分駅で下りる。いま電車で通ってきたあたりは、この日の午後根来寺から一宮寺へ行く途中で歩くことになっているが、まだ暗くて何も見えない。6時前に国分駅に到着。
この日は同じホテルに連泊なので、リュックは置いてデイパックである。しかし、水と行動食、上下のレインウェアと納経帳を持っているのでデイパックは一杯である。前日歩いた道を国分寺まで引き返す。
国分寺の山門脇に注意書きがあり、白峯寺へは山門をそのまままっすぐ進み、ホテルがあるからそこを左へということである。門前町というより普通の住宅街を進み、ラブホの前を左に折れる。五色台の方向へはなだらかな舗装道路で、切れ込んだ谷のあたりまで民家が見える。
登り坂をゆっくり登る。まだ雨は降っていない。上の方から軽トラや普通車が下りてきて、道が狭いのでそのたびに道端によけなければならない。このあたりは高松市内までいくらも距離がないので、通勤している人もいるのかもしれない。
30~40分かけて、最上部の民家まで到達する。振り返ると、低層の民家が山すそからずっと向こうまで広がっていた。
午前5時にホテルを出て、42分発の琴平行で国分に向かう。高松駅にもまだ人通りはほとんどない。
国分寺を過ぎ、いちばん山側の集落まで坂道を登る。これから、2つの山の間にある谷を詰めて行く。
白峯登山道はこういう感じで歩きにくくはないが、心配していた雨がいよいよ本降りになってきた。
最奥の民家から少し先で舗装道路がなくなり、登山道が始まっていた。道幅はかなり広く、傾斜はそれほどでもない。雨は降ったりやんだり。それほどの勢いではないので、レインウェアの上だけ着て傘は差さずにフィールドアンブレラをかぶって登る。
30分ほど登ったところに、こんなに立派なと思うほどのトイレと休憩ベンチがあるが、まだ休むほど登っていないので通り過ぎる。その少し先に石鎚神社と書かれた柱が立つ分岐。奥に石鎚神社の分社があるのだろう。
石鎚神社分岐を過ぎると、急に雨が勢いを増した。フィールドアンブレラでは間に合わないので、傘を差して進む。下もレインウェアに着替えたいけれども、こういう時に限ってベンチも東屋もない。スイッチバックの坂をがまんしながら登る。
この登りでありがたかったのは、道標が頻繁に出てきて残り距離が分かりやすかったことである。距離が3km、標高差が350mほどだから1時間半くらいと見当はついていても、残り1kmとか500mと示されると元気が出てくる。雨でつらい登りになれば尚更である。
登山道に入って1時間、一本松で林道に合流した。ここからは五色台の上を走る舗装道路になるので、足元はかなり楽になる。しかし、休んで身支度を整える場所がない。仕方なく、そのまま傘を差して歩き始める。
しばらくすると、左手にフェンスが続く道となった。「立入禁止 自衛隊演習地につき立入を禁止する」とものものしく書いてある。あるいは、休憩所がないのも自衛隊と関係しているのだろうか。家にほど近い習志野にも自衛隊の駐屯地があるが、こんなにしつこく立入禁止と書いていない。フェンスはもっと高くて立派だが。
雨はますます強い。舗装道路の途中で、白峯寺への近道らしき分岐があったが、この大雨で登山道を歩くより舗装道路の方が遠回りでも安全だろうと考えてそのまま進んだ。道はゆるやかなアップダウンとカーブを繰り返しながら進む。ようやく「白峯寺2km」の標識が現われて、ホテルニューサンピアの前を通り過ぎる。
ニューサンピアの少し先を右折すると、白峯寺はすぐである。駐車場のようなスペースが続き、神社の末社のような祠がある。立派なトイレの建つ白峯寺の山門前まで来ると、空が明るくなって雨が止んだ。午前9時少し前に、白峯寺に到着。JR国分駅から3時間弱。ほとんど休まないで歩いたためだろうか、思ったより早く着いた。
さて、白峯寺に着いた時に雨が止んで、お参りはほとんど傘なしでできたのだが、これで雨も上がるだろうと思ったのが大間違いだった。何しろこの日は四国各地で大雨になり、高知県のどこかで鉄砲水が出て全国ニュースになったほどである。
わが身についていうと、白峯寺にいる間にレインウェアの下だけでも穿いておけば、この後の難儀は多少でも和らいだはずなのだが、まあ、そんなことはこの時には分からない。
白峯寺の山門は間口2~3間のこじんまりしたもので、四天王や仁王様がいらっしゃる訳でもない。簡素な山寺といった趣なのだが、山門をくぐると寺域は広大である。
山門を入ってすぐに納経所の建物があるのだが、参道はそこから左折してしばらく進み、右折して長い石段を登り、ようやく本堂・大師堂に達する。途中には鐘楼や護摩堂、阿弥陀堂などなど多くの伽藍がある。
石段の登り口で右折せずに直進すると白峯寺の山門より立派な門があり、札所によく見られる大きなわらじが納められている。頓証寺殿と書いてある。こちらは、崇徳上皇の廟所であり、上皇が祀られている。
一本松で県道と合流してからは舗装道路で歩きやすいが、傘を差さなければならない。身支度しようにも座る場所が全くない。
へんろ小屋や休憩ベンチが全くないのは、あるいは自衛隊の敷地に隣接していることが理由か。左手にはずっと立入禁止のフェンスが続く。
国分駅から約3時間、なんとか白峯寺に到着。屋根があるベンチは、矢印の先にある県が設置したトイレのところだけ。
綾松山白峯寺(りょうしょうざん・しろみねじ)、山号からは五色台の青峰を連想するが、青峰は根香寺の近くでちょっと離れている。あるいは、白峯寺周辺のピークの一つがこの名前なのかもしれない。山麓に、崇徳上皇を荼毘に付した煙が漂ったとされる青海神社がある。
真念「道指南」には、白峯寺の縁起として稚児ヶ嶽について書いている。18歳の雲識が弘法大師の捨身ヶ嶽の故事を見習って捨身行をしたところ、黄色い衣を着た僧が現れて受け止めたとある。崇徳上皇のことには触れられていない。
ただ、WEBでは、崇徳上皇をしのんで村人たちが稚児行列を行っていたところ一人の稚児が落ちたけれども、松の木の上に落ちたので助かったという話になっている。弘法大師を中心に書くか、崇徳上皇を中心に書くかで内容が変わってくるようで興味深い。
いずれにしても、弘法大師は崇徳上皇より300年前の人だから、白峯寺が崇徳上皇以前からあった霊場であることは確かである。だが、崇徳天皇陵が白峯に置かれたこともあって、現在では白峯全山が崇徳上皇の本拠となっているように見える。
本堂まで登って読経。本堂の隣に大師堂がある。お参りしているのは私しかいない。ツアー遍路では善通寺に必ず泊まるだろうから、白峯寺・根香寺は翌日の午後にお参りして高松市内に宿泊するケースが多いだろう。だとすれば、この時間に白峯寺というのはあまりいないかもしれない。雨だからという訳ではないかもしれない。
山門こそこじんまりしていたが、参道の奥には頓証寺殿の立派な仁王門があり(後で調べたところ、扉の奥に源為義と為朝が控えていたようだ)、本堂・大師堂までは多くの伽藍が並ぶ。崇徳天皇社と白峯寺は明治神宮と明治天皇陵とはかなり違うんだなあと思った。
納経所でご朱印をいただく際に、天皇陵への行き方を尋ねる。参道を途中から左に入るようだ。聞かないと分からない道で、寺の境内と離れて森の中をしばらく進む。雨降りでなくても深くて暗そうな道を抜けると、宮内庁様式の天皇陵があった。
例の宮内庁名の看板は参道のずっと下にあるのか見えなかった。寺の施設とは独立した宮内庁の管理下にあり、もちろん賽銭箱も納経箱も置いていない。二礼二拍手一礼で参拝。
現在では、こうして別管理で白峯寺と天皇陵があるが、明治以前にはこうではなくて、白峯寺の一角に頓証寺殿と天皇陵が一体化してあったに違いない。だから高松藩の殿様は白峯寺と頓証寺殿の復興に巨額の支出をしたのだろう。
ちなみに、頓証寺の扁額は後小松天皇の揮毫という。後小松天皇は南北朝合一の際の北朝の天皇で、現在の皇室のご先祖にあたる。太平記が書かれたすぐ後の時期にあたるので、あるいは太平記も読んでいたかもしれない。
[行 程]JR国分駅 6:05 →(3.5km)7:30 一本松県道出合 7:35 →(4.1km)8:50 白峯寺 9:50 →
[Jul 25, 2020]
白峯寺本堂。白峯寺の境内は広く、本堂・大師堂は納経所エリアから参道を進み、石段を登った先にある。
本堂の隣に大師堂。まだ9時過ぎのこの時刻では、私の他にお参りしている人はいなかった。
納経所まで戻る途中に崇徳天皇陵への参道があり、5分ほど歩くと天皇陵。畿内と東京以外にある天皇陵は珍しく、崇徳天皇を含めてすべて政争の敗者である。
八十二番根香寺 [Oct 3, 2019]
白峯寺と崇徳上皇陵で1時間ほどお参りして山門を出ると、再び雨が降ってきた。雨の当たらないベンチは、すぐ横のトイレのところにしかない。このトイレは香川県が整備したと書いてある。本当は東屋がほしいのだが、贅沢は言っていられない。身支度して10時前に出発する。
この時軽率だったのは、いったん雨が上がって空が明るくなったものだから、これから天気は良くなるものと決めてかかったことである。レインウェアは上下持ってきたのに、これまでどおり上だけ着て出発したのであった。
国分寺から登ってきた一本松から、白峯寺へは舗装道路、根香寺には山道の方がいい、と謎のようなことがWEBに書いてある。確かに、地図を見るとかなりの遠回りになるようだ。せっかくだから山道を行こうと思ってしまった。
しばらくは緩やかな坂道が続いて何ということもなかったが、10分も進まないうちに空が再び暗くなり、バケツをひっくり返したような土砂降りとなった。レインウェアを着るんだったと思ったところで後の祭りである。もちろん、東屋もベンチもない。
道は国分寺から登る登山道より狭く、急な坂道である。白峯寺から根香寺までは五色台の台地の上で登り下りはそれほどないと予想していたのだが、舗装道路と違って登山道は容赦なくアップダウンがある。
10分ほどすると土砂降りがおさまって空が明るくなってきた。今度こそ雨は上がったろうとほっとしていると、小降りになったのは5分ほどで、再びあたりは真っ暗、土砂降りである。そして、雷さえ聞こえてきた。
自衛隊の近くだから雷ではなくて砲撃の音だったというのは丹沢だけで、これは本物の雷である。山の中で雷に襲われてはひとたまりもない。もちろん、ベンチも東屋もなく避難できる場所はない。
こうなってみると、せめて舗装道路にしておくのだったと思う。乗せてもらうことはないにしても車が通っているだけで少しは安心だし、何かあった時に救助を要請できる。登山道には誰もいないし、落雷でもあれば一巻の終わりである。
案内標識だけは頻繁にあって、十九丁という場所が目標地になっている。国分寺から登山道を直進してくると、ここに出る。そういう場所なら東屋くらいないかと淡い期待を持ちながら進む。
1時間20分歩いて、何とか十九丁に達する。しかし、ここには祠とベンチがあるだけで、東屋もなければトイレもなかった。ベンチはもちろんずぶ濡れで、そのまま座ることはできない。
リュックの中からゴミ袋用に用意していたコンビニのレジ袋を出してベンチの上に敷き、その上に腰掛ける。もちろん傘は差したまま、息を整える。これまで区切り打ちをしてきた中で、最高に心細い休憩であった。
もはや白衣の下はずぶ濡れで、いまさらレインウェアの下を着けても蒸れるだけだ。下にCW-Xを穿いているので、雨さえ止めば乾くだろう。それにしても、この雨はいつまで降り続くのか。
十九丁から少し歩くと、やっと舗装道路に出た。ちょうど向こうから登山道に入る外国人親子とすれ違った。この日、初めて自分以外の人が歩いているのと会った。レインウェアを着ていたので、遍路歩きか登山客かはよく分からない。
舗装道路に出てまもなく、左手に東屋が見えた。ようやく、ちゃんと休める休憩所だ。屋根の下まで行き、傘を置き、リュックを下ろす。
30分前に十九丁で休憩したばかりだが、あれでは休憩にならない。リュックの中のテルモスにはお湯を入れてきた。インスタントコーヒーを作って、ロールパンでお昼にする。やっと人間になったような気がした。
白峯寺から根香寺まで遍路地図の推奨コースである山道を進む。だが、悪天候でこの選択はどうだったか。
中間地点の十九丁では土砂降り。ベンチはあるものの雨宿りできる場所はなく往生した。
県道に出て、ようやく東屋を見つけて腰を下ろすことができた。
東屋で腰を下ろして何時間ぶりかにほっとした時間を過ごす。もうすぐ正午。午後には雨が上がるという予報なのだが、止む気配はない。先ほどまで山道の中で「いい加減にしてくれよ」とつぶやいていた時ほど沈んだ気分ではないものの、弾んだ気分ではない。
公園を出て根香寺に向かう。「みち草」と看板の出ている売店の横を抜けてしばらく歩くと、「根香寺まで1km」の案内標識がある。分岐の先は舗装されていない土の道だが、ハードな登山道ではなさそうだ。予定より遅れていたこともあって、この遍路道を選んだ。
しかし、ゆるやかだったのは最初だけで、ほどなく岩がごつごつした坂道となった。やっぱり、舗装道路を行くんだったと思ったけれど、後の祭りである。十九丁あたりを歩いていた時より雨が弱くなってきたのが救いであった。
この遍路道は「讃岐遍路道」として国の史跡に指定されている。白峯寺から十九丁を経由してこの遍路道は、真念「道指南」も通った経路ということである。
途中に五色台のへんろ小屋がある。屋根付きで壁もきちんと付いた建物である。小屋の前に東屋もあり、休憩できるベンチもある。もう少し前にあれば当然休んで行ったのだが、10分ほど前に公園の東屋で休んだばかりである。時間もないのでそのまま通り過ぎる。
泊まることもできるとどこかに書いてあったと思うが、寝る場所はともかく水や食糧を手当てできる場所まで遠いので、大変だろうと思った。根香寺には売店も自販機も見当たらなかったし、へんろ小屋にもない。県道に戻るしか手段がないようで、とても私には無理である。
そもそも、野宿どころか小屋泊も通夜堂泊も、風呂やシャワーがなく洗濯機もないので、翌日ちゃんと歩けるかどうか私にはよく分からない。虫もいるだろうし冷暖房も当然ない。登山と同じと割り切ればいいのだろうが、実際に歩くのは山中ではなく車の通る普通の道なのである。
へんろ小屋を過ぎると、遍路道は下りの坂道になった。岩で足元が安定しない上、雨で滑ってたいへん歩きにくい。帰りもこの道を通るのは嫌だなと思った。そして、また雨が激しくなってきた。
午後から天気は回復するという予報で、もうお昼を過ぎているのにこの天気である。残り1kmと書いてあったのに、なかなか根香寺に着かない。気分は落ち込む一方である。
遍路道に入ってから30分ほど歩いて、ようやく根香寺に到着した。時刻は12時25分。12時までには着きたかったけれど、この天気では仕方がない。山門は白峯寺よりかなり大きく、両側に大わらじが納められていた。
県道から案内標識にしたがい再び遍路道に入る。始めはこのような歩きやすい道だが、次第にごつごつした岩がある坂道となる。
根香寺への遍路道の途中にへんろ小屋五色台がある。もっと前にあったらありがたかったのだが。
県道に出て、もう一度山道に入ってようやく根香寺。雨は時折り激しく降る。
青峰山根香寺(あおみねさん・ねごろじ)、弘法大師の創建、智証大師円珍の再興と伝えられるが、現在の宗派が天台宗であるところからみると弘法大師は名前を借りただけで円珍の寄与が大きいのだろう。円珍は金倉寺、道隆寺などを整備した僧でもある。
山号の青峰は五色台の一つの峰で、白峯寺の白峰も同様である。他に紅峰、黄峰、黒峰がある。根香寺は青峰の中腹にある。五色台の最高峰は猪尻山(いのしりやま)で標高は483m、白峯寺・根香寺より海側にある。
山門から参道が続いていて、いったん下って石段をまた登る。間は深い自然林の森になっていて、その奥にある本堂は山門からは見えない。白峯寺と同様、私の他に参拝者の姿は見当たらない。
石段を登りきると納経所があり、その奥に本堂・大師堂はじめいくつかのお堂がある。境内は広く伽藍も多く、かつて多くの修行僧がこの寺で暮らしていた昔の姿をしのばせている。
いちばん奥にある本堂でお参りし、引き返して大師堂にお参りする。さて、名高い牛鬼像はどこだろう。周囲を探してみるけれども見つからない。
納経所でご朱印をいただく際に、牛鬼の場所を聞いてみた。
「牛鬼は、山門の外、駐車場の前ですよ」と教えていただく。よく考えると牛鬼は山門の中に入って来れないのだから(そのために仁王や大わらじがある)、外にあるのが当たり前なのであった。
再び石段を下って登って、山門のすぐ外に牛鬼はいた。来る時に通った遍路道からは見えにくい場所にあったので、気づかなかったのだ。
根香寺の牛鬼は江戸時代に出現し、村々に災いをもたらすので弓の名手が退治し、角を根香寺に奉納したのだという。その絵姿(掛け軸)と切り取った角が根来寺に保管されているが、管理上の理由から一般には公開されていない。
銅像は、この掛け軸の絵姿をもとに造られていて、両足を踏ん張って左手を高く上げて威嚇している。大雨の中で見たからというだけでなく、腕と腹の間に水掻きのようなものがあり、体もうろこで覆われているので、牛というよりも水生動物のように見えた。
牛鬼は四国各地に伝承されていて、祭で魔除けの役目を果たすこともある。水木しげるの故郷・境港の水木しげるロードにも牛鬼はいるが、体がクモのようで根香寺の牛鬼とは印象が違う。
さて、お参りして牛鬼を見ている間に、時刻は午後1時に近くなった。この日は一宮寺まで行く予定で、納経時間終了まであと4時間しかない。もともとの予定では香西寺に下りるつもりだったが、それだと2kmほど遠回りになるので、香西寺は通らず鬼無(きなし)に下りるしかなさそうだ。
来る時に通った遍路道は岩が多く歩きにくかったので、車道経由で歩き始める。車道の案内表示に「一宮寺18km」とある。18kmを歩くと4時間半かかる。矢印の方向は香西寺を示しているので、これから通る鬼無経由より長いだろうが、それより2km短いとしても16kmある。4時間で着くだろうか。かなり不安になった。
[行 程]白峯寺 9:50 →(3.3km)11:10 十九丁 11:15 →(0.7km)11:40 県道横休憩所 11:55 →(1.4km)12:25 根香寺 12:55 →
[Aug 15,2020]
根香寺の境内は広い。かつて人里離れたこの地で多くの僧侶が修行したであろう。山門から長い参道を歩いて本堂。
本堂と山門の中間あたりに大師堂がある。
有名な牛鬼は山門のすぐ脇にいる。さすがに鬼だけあって、境内には入れなかったか。
八十三番一宮寺 [Oct 3, 2019]
根香寺を出て車道を白峯寺の方向に引き返して行く。結構急な登り坂で息が切れるが、平らに足を置けるのは楽だ。そして、この頃になってようやく、雨が完全に上がって天気が回復してきた。
根香寺を出て車道を白峯寺の方向に引き返して行く。結構急な登り坂で息が切れるが、平らに足を置けるのは楽だ。そして、この頃になってようやく、雨が完全に上がって天気が回復してきた。
遍路道との分岐を通過し、鬼無(きなし)への下り口に着く頃には、朝から鬱陶しく広がっていた雨雲が抜け、青空が見え始めた。そして、すぐ足元には瀬戸内海。高松は宇高連絡船が通っていたように海沿いの街だから、五色台のすぐ先は瀬戸内海なのである。
さて、根香寺から鬼無までの下りだが、WEB等をみると1時間半程度で下りれるという情報がある。距離的には5.5km(遍路地図)だからそうなのだけれど、標高差が300m以上ある。そんなに簡単にはいかないだろうと思っていた。
実際、ここからの下りは車道と遍路道が混在しており、遍路道の傾斜はきつく、たいへん歩きにくい道だった。それと、右折を指示する遍路シールと左折を指示する案内表示が混在し、どちらを通ったらいいのか迷うケースもあった。
そして、シールも案内表示もそうなのだが、一宮寺までの残り距離が書いていないのである。これはあとどのくらい歩けばいいのか分からないのでつらかった。納経時間の5時に間に合うかどうか不安をかかえての歩きだったので、尚更である。
麓の街並みまでの標高差は、なかなか減らない。雨が止んだのは大いに助かったが、今度は直射日光が照りつけてきて急に暑くなった。台風一過の南風が吹いてきたのである。
標高を下げる時は右に左にスイッチバックしていた道が、鬼無が近づくと線路に向けて直線で下るようになる。距離は短くて済むが、傾斜がきつくて膝に響く。犬の吠える民家を過ぎ、県道を突っ切って踏切を渡る頃には午後3時を過ぎた。やっぱり1時間半じゃ無理だ。休みなしで歩いて2時間以上かかっている。
残り距離も分からないし、納経時間に間に合わないと思い始めた時、「一宮寺6km」の標石が現れた。そして、「飯田お遍路休憩所」と書かれた立派な一戸建ての休憩所がある。根香寺から休みなしで歩いてきたし、お昼を食べてから腰を下ろしていない。ありがたく休ませていただくことにした。
引き戸を開けて中に入ると、作り付けの椅子に座布団が敷かれ、テーブルが置かれている。トイレと飲み物の用意もある。これだけ立派なへんろ小屋はあまり見たことがない。にもかかわらず、約2時間強い日差しの中を歩いて来たので、冷房がないと暑いと罰当たりなことを思ってしまった。
改めて時計を見ると3時5分。残り6kmを1時間半で歩くとして、休めるのは最大15分で3時20分には出なければならない。朝から雨降りの中ハードな山歩きをしてきただけに、なかなか腰が上がらなかった。
飯田お遍路休憩所から一宮寺までのルートは、たいへん分かりにくい。河川敷に下りる道が最短距離と聞いていたが、どこが河川敷なのかよく分からないのである。太い通りを渡り、遍路シールを追ってどうにかこうにか河川敷に下りた。しかし、そこから先に遍路シールがないのである。
遍路地図を見ると、川を渡るルートと渡らずにそのまま河川敷を進むコースがあるようだが、こんなところで迷っていたら納経時間に間に合わない。通りかかったおじさんに道を尋ねた。
「どっちでも行けるけれども、分かりやすいのはこのまま進む道だよ。右に十何階建てのマンションが見えてくるから、そこで青く塗られた橋を渡ってまっすぐ。しばらく行くと歩道橋に案内があるから、そこを右に入ると一宮寺だよ」と親切に教えていただいた。
お礼を言って、河川敷を歩き始めた。
根香寺を出ると、ようやく雨が上がって見通しが利くようになった。
根香寺からの下りでは、遍路道の矢印が別方向を示しているケースがある。残り距離を書いていないのも心細い。
飯田お遍路休憩所。屋根のある休憩所のなんとありがたいことか。
河川敷の道を歩き始める。この道はサイクリングロードで時折自転車が走ってくるが、歩くのに支障はない。
そして、自動車も通らず信号待ちもないため、止まらずに歩き続けられるのが大変いい。この日は朝早くから山道を、それも大雨の中を登り下りして来たので、初めてリラックスして歩くことができた。
ただ、昼下がりの強い日差し、それも台風一過の南風で暑くなったのも少々つらい。お遍路休憩所でもエアコンがなくて暑いと思ってしまったように、雨が止んで気温が上がってきたらしい。10月に入っているのに、真夏のような暑さだ。
河川敷の道は何回か橋の下を通り過ぎる。微妙にカーブしているのと堤防にさえぎられて見通しがきかないので、おじさんに教えてもらった高層マンションはなかなか見えてこない。20分、30分と歩き続ける。
ようやく、右手にマンションが見えてきた。青く塗装された橋があったので、階段を上がって橋を渡る。だが、よく見ると向こうにも青い橋があって、おじさんが教えてくれたのがどちらの橋なのかよく分からない。遍路地図を確認したら、どうやら向こうの橋のようだ。
まあ、まっすぐ進めば同じことだ。信号待ちはあるが。
信号を左折し、交通量の多い大通りを進む。倉庫やガソリンスタンド、警察もある。いくつめかの信号のところに歩道橋があり、一宮寺へはここを右折せよと書いてある。時刻はもう4時半を過ぎたが、あと500mくらいのはずで、何とか間に合いそうだ。
右折してから先に案内もシールもなく困ったが、右側に学校があるので道は間違いない。そろそろ左に見えてくるはずと思って進むと、それらしき建物が見えてきた。午後4時50分、納経終了時間ぎりぎりに一宮寺到着。
すぐに納経所を探し、お参り前にご朱印をいただく。「5時を過ぎてもお参りは大丈夫ですか」とお伺いすると、「本堂の扉は戸締りしますが、お参りはできますよ」とのこと。安心して、本堂に向かう。
根香寺のような広い敷地だったらあせるところだが、一宮寺は比較的コンパクトで、あわてることなく読経することができた。大師堂のお参りを終えて、細い道路を越えたところにあるトイレをお借りし、ベンチに座ってようやく一息つく。
神毫山一宮寺(しんごうさん・いちのみやじ)。八十番札所はもともと阿波・土佐・伊予と同様に一ノ宮であるが、明治の神仏分離により別当寺の一宮寺が札所となった。
この間読んだ本に、日本も神仏分離の際に仏像や仏画など貴重な文化財を破壊したのだから、バーミヤンで石窟を爆破したタリバンのことをどうこう言えないと書いてあった。そのとおりだと思う。逆に言うと、それほどの激情(パッション)がなければ革命などできないということである。良きにつけ悪しきにつけ。
神毫山の山号も、一ノ宮(神)の寺ということで付けられたものである(毫は揮毫の毫で、筆先という意味)。ただし、讃岐の多くの札所と同様に戦国時代に焼失し、再建されたのは江戸時代に入ってからである。
河川敷に出ておじさんに道を聞き、サイクリング道路をまっすぐ一宮寺方面へ。日が照ってきてからは暑いくらいである。
納経時間10分前になんとか一宮寺に到着。先に納経印をいただく。
一宮寺本堂。
この日は4時前に起きて電車で移動し、午前6時には歩き始めたのですでに11時間経過している。さすがに疲れた。
最初の予定では、白峯寺・根香寺・香西寺と回って一宮寺まで歩き、できれば法然上人ゆかりの仏生山までお参りしたいと思っていたのだが、とても無理だった。山道はどのくらい時間がかかるか分からないのに、迂闊なことであった。
香西寺に回らず鬼無に下りたのは、一宮寺からホテルまで少しでも前に進んで翌日を楽にしたかったからだけれど、とてもこれ以上は進めない。残念だけれど、一ノ宮にお参りして引き上げよう。
讃岐一ノ宮の田村神社は一宮寺から通りを隔てた東側にある。だが、参道に回るには細い路地をぐっと回り込まなければならず、すぐには着かない。ようやく参道に出て、大鳥居の奥が田村神社本殿である。二礼二拍手一礼でお参りする。
古くから崇敬を集める神社で境内はたいへん広く、本殿の他にも幾柱かの神様をお祀りしている。おそらく、初詣でには多くの参拝客でにぎわうのだろう。コンパクトな一宮寺のたたずまいと位置関係と比較すると、まさしく一ノ宮と別当寺である。
一宮寺から田村神社で路地を行ったり来たりして方向感覚がおかしくなってしまい、琴電一宮駅まで行くのにちょっと迷った。駅に着いたのは午後6時前。この日はまるまる12時間歩いたことになる。
一宮から片原町まで琴電に乗り、歩いてホテルまですぐである。この日の歩数は60,357歩、GPS測定による移動距離は27.9kmでした。
最後に、この日のホテルと翌日以降の体調悪化について少し書いておきたい。
前日は国分から移動し、当日は一宮から移動して高松に連泊した。泊まったホテルはホテルWAKABAといって、高松三越の隣にあるたいへん便のいいホテルである。素泊まり5,450円もリーズナブルで、JR高松にはちょっと遠いものの、琴電片原町からすぐ近くである。
後から考えると、ホテルの写真をひとつも撮っていないということ自体、体調がどうかしていたのだが、とにかく朝は早くて暗くなるまで歩いて、ちゃんとした食事を食べに行こうという気がおきなかった。
結局、朝はコンビニで調達して昼は行動食、夜はデパ地下で半額弁当ということを2日間やったのであるが、ただでさえ体力がなくなっているところにこの食事はよくなかった。
加えて、狭いユニットバスや、1台しかないコインランドリーの順番待ちや洗濯機・乾燥機の入れ替えで何度も部屋とランドリーを往復して睡眠時間が削られたことなど、マイナス要因が多かった。
高松周辺で1日余裕をみてスケジュールを立てていればここまでハードにはならなかったはずで、事前準備の至らなさに後悔するばかりである。
[行 程]根香寺 12:55 →(7.3km)15:05 飯田お遍路休憩所 15:20 →(6.0km)16:50 一宮寺 17:20 →(0.4km)17:25 田村神社 17:35 →(1.2km)17:55 琴電一宮 (→高松(泊))
[Sep 5, 2020]
一宮寺大師堂。
讃岐一宮・田村神社は一宮寺のすぐ隣にあるが、本殿にお参りするにはぐるっと回り込まなければならない。
この日の夕食も三越のデパ地下で半額のちらし寿司。ハードスケジュールの上にこういう食事は、後から考えると体調を崩す大きな要因となったかもしれない。