八十七番長尾寺 八十八番大窪寺 総奥ノ院與田寺 卯辰越
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八十四番屋島寺 [Oct 4, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
10月4日の朝は、5時前に起きた。夜中に腹が痛くて、太田漢方胃腸薬を飲んだ。朝から晩まで冷たいものばかり食べていたせいかもしれない。温かいものを食べたかったのだけれど、ホテルを出て店を探すのが大儀で、前日に続いて高松三越のデパ地下で済ませてしまった。
それも、半額のちらし寿司を選んだのがよくなかったのか、ビールと一緒に食べるはずだった煮物にほとんど手が付けられなかった。昼食はロールパンだけだったのに、口から入って行かないのである。
体力を消耗した時には、なま物より火の通ったものの方がいいに決まっているし、まして半額の寿司である。デパートで売っているから悪くなっているはずはないが、体が受け付けるかどうかは別問題である。
朝食は前夜の残りの煮物とコーヒー、リポビタンDで済ませた。この日の歩きは高松市内の中心地だから、お腹がすいたら早くからやっているうどん屋さんでも見つけて入ろうと思っていた。
ただし、この日の泊まりは別の宿なので、フル装備のリュック10kg超である。午前6時を過ぎたのでホテルを出る。琴電片原町まで歩いて琴平行の電車を待つ。6時30分に電車が来て、55分に一宮に着いた。
実を言うと、高松市内のスケジュールをちょっと甘くみていた。前日の五色台が標高400mあるのに対し、屋島寺、八栗寺は200m、他はほとんど街中の平坦地なので、日が高いうちに志度に着くことができるだろうと思ったのである。
ところが、前日に疲労困憊して一宮寺から一歩も前に進めず、屋島寺までの約14kmをまるまる歩かなければならなくなった。ホテルまで約7kmを歩くのは無理だったとしても、栗林公園あたりまで歩ければかなり違ったと思う。
その結果、この日も朝早く、冷たい食事しかとれないで出発することになった。腹も痛いし、体もだるい。それでも、宿を押さえてあるから歩くしかないのである。
一宮駅から大通りに出て、そのまま直進して栗林公園を目指す。栗林公園は平地の庭園だから見えないが、背後にある紫雲山は遠くからでもよく目立つ。片側一車線の車道は、栗林公園近くまでまっすぐ続いているはずである。
栗林公園が近づくにつれて、高校生の自転車が増えてきた。そろそろ8時、通学の時間帯である。郵便局の前を通り、交差点を渡って公園正門まで来た。早くも疲れた。ファミレスの看板が見えるが、ご飯ものは大げさかもしれない。マクドナルドも見えるのであちらにしよう。
そういえば、今回の区切り打ちですでに4泊したが、肉類を全く食べていない。ハンバーガーが食べたいなと思ってオーダーすると、なんと朝なのでハンバーガーはやっていない。「ハンバーガーに近いものですと・・・ソーセージマフィンはいかがでしょう」ということなので、セットでお願いする。
ここのマックは1階でオーダーして受取り、2階に飲食スペースがある。まだハンバーガーをやっていない時間帯だからなのか、3、4人しか人がいなかった。
マックだとコンビニ朝食とたいして違わないようにも思えるが、あたたかいソーセージマフィンと生野菜はありがたかった。丸亀を出てから、朝から晩まで出来合いのパンかお弁当だったので、久しぶりにちゃんとした食事をとったような気がした。
高松市内には何度も来たことがあって、大体の土地勘はある。栗林公園からこのまま直進すると高松市の中心部に至るので、交通量も多い。それよりも屋島を目指して斜めにショートカットした方が、静かである。右折して琴電の栗林公園駅を抜け、用水路沿いに北東に進む。
これまで栗林公園背後にある紫雲山が見えていたが、今度は遠くに平らな屋島が見える。まだ5km以上はあるだろう。志度線の線路を渡ると国道11号、ここを右に行けば屋島である。国道では㌔ポストがあるので、歩くペースが分かる。大体㌔14分、荷物が重い割にはペースはそれほど落ちていない。
前日歩いた琴電一宮駅からスタート、まず市内中心部にある栗林公園を目指す。公園の背後にある紫雲山が目印となる。
栗林公園前のマクドナルドで、ソーセージマフィンセット。前日は朝から晩まで出来合いのものだったので、久々にちゃんとした食事をしたような気がした。
栗林公園から屋島へ、斜めにショートカットして国道11号に出る。ここからは㌔ポストがあるのでペースを計ることができる。
さて、この頃から体調がよくなかったのは間違いない。2泊したホテルの写真を全く撮影していなかったり、メモを残していないことは歩いている途中には気づかなかったのだが、帰ってみるとこの間の記録がほとんどない。
休憩した時にはなるべくメモをとるようにしているのだが、この日はマクドナルドで「ソーセージマフィンセット おいしい」と書いてから宿に着くまで約10時間、全くメモがないのである。メモを取っていないということさえ認識していなかった。
前日の夜に襲ってきた腹痛はおさまったものの、全身がだるい。お遍路歩きで午前中に15kmというのは別段ハードでもないにもかかわらず、一宮駅から約2時間、8kmくらいしか歩いていないのにすでに夕方のようにしんどい。
前日の五色台で大雨に降られてしまったのがよくなかったのか、あるいは連日出来合いのものばかり食べているのがよくなかったのか。前日はデイパックだったのでこの日の方がつらいのは当り前なのだが、それにしても尋常でない。まだ区切り打ちは半分以上残っている。
国道11号を進むにつれ、屋島が目の前に大きく見えるようになった。そろそろ左折だと思うのだけれど、目標となる屋島ロイヤルホテルまでなかなかたどり着けない。ようやくホテルまで着いて左折すると、大きなスタンドが目前に迫る。「屋島レグザムフィールド」と書いてある。
競技場の横を抜けて住宅街に入る。登山口はまだのようだ。ため池沿いに眺めのよい公園とベンチがあったので、休憩とする。マクドナルドから2時間弱。普段なら水分補給してすぐ歩き出すところなのだが、なかなか腰が立たない。
ようやく腰を上げて、小学校脇の坂を案内表示に従って登る。屋島寺への登山道は公園の遊歩道のように始まっていた。最初は車両も通行できる道だが、やがて歩行者専用の細い道になる。
「御加持水」「食わずの梨」など弘法大師ゆかりの旧跡があり、それらを通りながらスイッチバックで登っていくのだが、このあたりになるとベンチがあるたびに座り込む状態である。
このルートは近隣の方々のお散歩コースになっているのだが、そうした人達が軽装で登り下りしている中を遍路姿で休み休み登るのは、情けないことであった。
たかだか200mほどの標高差を登るのに、小一時間かかった。スイッチバックの坂を登る時には、奥多摩の山道を歩いているのではないかと錯覚するほどだった。
登山道が終わりに近づくと、いきなり山門が現われた。屋島寺に来るのは3度目になるが、過去2回はケーブルカーと車だったので、歩いて来るのは初めてである。頂上台地をしばらく歩いたように覚えていたので、正直なところほっとした。
山門のところでは、小学校低学年のグループが先生に指示されて並んでいた。歩いてきたのだろうか、それともバスだろうか。時刻はそろそろ正午になる。朝7時から歩き始めてお昼までかかるというのは、予想していた中で最も遅い到着時刻であった。
国道を左折して屋島登山道に向かう。屋島をバックにしたレグザムフィールドは、最近になって全面改装された高松市営陸上競技場である。
遠くから見えていた屋島の特徴ある山塊が、目前に迫ってきた。屋島寺は頂上台地の一角にある。
屋島寺への登山口は公園になっている。次第に参道らしくなり、弘法大師ゆかりの旧跡が現われる。
南面山屋島寺(なんめんさん・やしまじ)、源平合戦で有名な屋島にある。創建は源平合戦よりはるかに古く、唐から来朝した鑑真和上によると伝えられる。その後弘法大師が、伽藍を整備したとされる。
鑑真と弘法大師では宗旨が全く違うように感じられるが、鎌倉時代に大きな勢力を誇った真言律宗という宗派があり、鑑真が開基した律寺が後に真言宗となることは考えられないことではない。日蓮・四箇格言の「律国賊」というのは、当時鎌倉幕府がバックアップした真言律宗のことを指している。
南面山は真念「道指南」にも屋島寺のある山の名前として出てくるから、もともとの地名であったかもしれない。いずれにしても市街地の北に位置するので、中国故事の「君子(聖人)南面」にちなんで付けられたと思われる。
屋島は周知のとおり源平合戦の激戦地で、那須与一が扇を射たことでたいへん有名である。その時、義経家来の佐藤継信(次信とも)が主君をかばって平家方の矢に射られた場所でもある。佐藤継信の墓が、屋島寺から下る途中にある。
ちなみに、平家が滅亡した関門海峡海戦が壇ノ浦の戦いだが、屋島と五剣山の間の入江も壇ノ浦という。「道指南」には、領主(松平頼重)が佐藤継信の業績を記した碑を一丈四方の壇の上に立てたことから壇ノ浦と名付けられたと書いてある。
この屋島寺で印象深いことがあった。納経を終えてリュックに納経帳などをしまっている時に、外国人旅行客2人を連れたガイドの人に話しかけられた。外国人2人は年配のご夫婦であり、ガイドはボランティアでご案内しますとどこかに書いてあったので、地元の方だと思われた。
どこから来たのかとか今日はどういうコースで歩くのかとか、お遍路に関してよくある質問が続き、私も英語・日本語交じりで答えていたのだが、最後に「八十八番まで回った後に、もう一度来たいですか?」と聞かれたのである。
「これから八十八番までまだいくつかお参りしなければならず、その後一番までさらに歩く予定なので、まず無事に予定通り歩くことが大切です。その後のことは、まだ考えられません」と答えた。
屋島寺に着くまでそんな質問をされるとは思ってもみなかったし、この答もとっさに出たのだけれど、いま考えてもこう答えるのが適当だったと思えるし、とっさにしてはよく答えられたと思う。
自分自身を振り返ると、仕事でもプライベートでも、計画を立ててそれを予定どおりこなすことに神経を使うことが多かった。家族旅行にせよ出張計画にせよ、予定を立てて宿や切符を予約するのだけれど、当日になると子供は病気になり電車は不通になる。
万一そうなっても旅行中止とか出張先の約束が台無しになるということがないように二重三重にリスクヘッジするのが昔からの習い性であった。そのおかげと多分に幸運にも助けられて、どうしていいか分からないというような窮地には陥らずにここまできた。
だから、「八十八終わってその次は」というようなガイド氏の質問も理解はできるのだけれど、それを考えるのは無事に帰ってからのことだと思うし、そういう趣旨で答えられたのはよかったと思う。
それに、この時点ですでに体調が悪く、無事に宿まで歩けるかどうかという不安がない訳ではなかった。標高差200mを登るのに何度も休憩しなければならない状態だし、強い日差しで顔が腫れ、午前中から汗を拭くとひりひりする。
麓から屋島までは整備された遊歩道。散歩コースになっているらしく、軽装で登り下りする人達がたくさんいた。
屋島登山道を登り切ったところが屋島寺山門。小学生は登山道で登って来たのだろうか。
屋島寺の境内は、屋島の頂上台地にあってかなりの広さがある。
屋島寺のトイレは納経所の付近にはなくて、少し歩いた公園のあたりにある。ベンチもあるので座ってひと休みしていると、ツアーで来たらしい観光客の団体が大勢でやってきた。
屋島寺はお遍路と参拝客だけが来るのではなく、観光客も大勢来る札所である。私自身、過去に屋島に来たのは2度とも観光であった。かつて、琴電屋島から屋島寺までケーブルカーが通っていたが、利用客が減少し2004年に廃止された。
その観光客が「お昼はどこで食べるの?」「この奥に…」などと話しているのを聞いて、ここでお昼を食べるのは止めにしようと思った。食堂がどこにあってどれくらいの大きさかは分からないが、これだけ大勢が一度に入ったらかなり待つことになる。すでに、屋島まで登るのに予定時間をオーバーしている。
この日の泊まりは志度である。5時までに志度寺が無理なら翌日に回せばいいにしても、この日も午前6時から活動しているので日が暮れる前には宿に着きたい。時間はすでに12時半である。
案内図にしたがい、八栗寺への遍路道を目指す。来た道とは反対側、屋島の東側を下りることになる。ひと気のない庭園のような場所を抜けていくと、廃墟となったホテル前の展望台に出た。
ホテルは廃業して数十年経っているだろう。室内は荒れ放題の状態で、もはや雨宿りすらできそうにない。なぜ取り壊してきちんと更地にしないのだろうと思う。その廃ホテルの荒れ様に比べ、目の前に広がっている景色はすばらしいものだった。
屋島寺は初めてだが、屋島に来たのはこれで3度目である。1度目はまだケーブルカーが走っている時で、頂上駅から広い公園を歩いた。出張のついでだったので、それほど長居はしなかった。
2度目は家族を連れて車で来た。源平合戦の舞台なので、この展望台には立ち寄っているはずである。見覚えのある景色のようでもあり、そうでもない。あまり注意深く見ていなかったに違いない。
五剣山はほぼ目の高さにある。ということは、これから海沿いの海抜0mまで下りて、再び標高200~300mを登り返すということである。すでに一宮寺からの十数kmの市街歩きと、屋島寺への登りでかなりへとへとである。しかし、今日の宿は八栗寺のまだ先である。
これから歩く東側斜面の下には、入江をはさんで市街地が広がっており、家々がすきまなく建て込んでいる。その向こうが五剣山で、特徴ある5つの頂上を現わしている。五剣山の北寄りの山麓が茶色に削られているのは、採石場になってしまったのだろうか。
下りて登って2時間では、とても無理なような気がした。加えて、海岸近くには真念和上のお墓がある洲崎寺がある。こちらもお参りしておきたい。この体調で大丈夫だろうか。ともあれ、歩いて下りるしかない。展望台の先から、登山道が始まっていた。
[行 程](高松→)琴電一宮 6:55 →(5.9km)8:20 栗林公園前マクドナルド 8:45 →(6.9km)10:35 屋島登山口下休憩所 10:45 →(1.7km)11:55 屋島寺 12:30 →
[Oct 3, 2020]
屋島寺本堂。
屋島寺大師堂。
本堂エリアから少し歩くと、ホテル廃墟前にこれから歩く八栗寺への道が見渡せる展望台がある。
八十五番八栗寺 [Oct 4, 2019]
12時半に屋島展望台から登山道を下り始めた。
こちら側の登山道は来た時の参道とは違って遊歩道として整備されておらず、まさに登山道である。ウォーキングシューズより登山靴が欲しいような、足場の悪い急傾斜である。
スイッチバックを繰り返して下りていくと、ほどなく舗装道路に出た。屋島ドライブウェイである。車はほとんど通っていない。私の持っている遍路地図には「歩行禁止」と書かれているのだが、左右を見ても歩いていけないとは書いてない。
とはいえ、ここを下りてしまうと登り始めた琴電屋島のあたりに戻ってしまうので、大きな距離ロスとなる。仕方なく、足場の悪い急傾斜の登山道を引き続き下る。
前日の大雨と違いいい天気なのだが、その分汗をかいてきつい。汗を拭くと顔がひりひりする。腫れているのは間違いなさそうだ。ただでさえ下りはヒザが痛むのに体調もよくないので、転んだら目も当てられない。慎重に足の置き場を確保しながら下る。
30分ほど下ると害獣除けの柵があり、そこを越えると道がよくなった。佐藤継信の墓が案内されていたが、予定より遅れているのが気になって寄らなかった。住宅街を抜け。ようやく平らな道に出る。
ここから橋を渡って五剣山の登山口まで平坦な道なのだが、ここがまた長かった。いつまで歩いても交差点に着かない。下り坂を下ってから平坦な道になると登っているような感覚になることがあるが、まさにそれである。
源平合戦の旧跡があると案内があるがここも素通り。ともかく八栗寺まで早く行ってしまいたい。このあたりでミネラルウォーターがなくなった。市街地なのであまり心配していなかったのだけれど、日差しが強いので消費が早い。
なのに、なぜか自販機がない。ようやく見つけて小銭を用意すると、なんとミネラルウォーターだけが売り切れである。間の悪い時はこういうことが続く。
登山道の下りと同じくらい歩いて、ようやく橋を渡った。目の前にマルナカがある。まだお昼を食べていないし水もない。リュックを置かせてもらって店内に入る。
固形物を食べる体調ではなかったので、元気一発ゼリーとクーリッシュバニラ。それと、汗拭きタオルとミネラルウォーターを買う。ミネラルウォーターはプライベートブランドなので、自販機で1本買う値段で2本買えた。店の外のベンチに座らせてもらい、ゼリーとクーリッシュでお昼にする。少し回復できた。
マルナカのすぐ先が洲崎寺である。ここには「四国遍路道指南」の著者である真念和尚の墓がある。近年まで共同墓地に葬られていた。立派な囲いがある現代的な墓だが、昔からあったのは中心部の自然石の墓石だけで、それ以外は近年になって整備されたものである。
洲崎寺自体は古くからあって、寺としては屋島の戦いの舞台ということを前面に出しているように見えた。例の佐藤継信とも関係あるようで、本堂や庭園にはそれらの資料もあるようだ。
屋島の戦いは12世紀、真念は17世紀だから500年違う。「道指南」「霊場記」には「すさきの堂」として記載されていて、大師御作の聖観音菩薩が本尊とあるが、あるいはこの近辺の札所と同様、八十八ヶ所とは別に観音霊場として古くから信仰を集めていたのかもしれない。
真念和尚にご挨拶して、洲崎寺の先から五剣山に向かって登り坂を進む。遍路シールはあるけれども行先が路地のようなところばかりでたいへん分かりにくい。それよりも、ケーブルカーの駅を目標にした方が分かりやすい。ケーブル駅のすぐ横から登山道が始まっている。
屋島からの下りはまさに登山道で、登りのように整備されてはいない。
ようやく海岸線に近づく。簡易舗装されているが、かなりの急傾斜が麓まで続く。
市街に入って、マルナカのすぐ近く、洲崎寺に真念の墓がある。近年まで共同墓地に墓石だけあったのを移設したので、一般人の墓とあまり変わらない。
五剣山はもともと5つの鋭い峰から名付けられたと言われ、現在でも左の4つはたいへんよく目立つが、一番右の峰は頂上が平らになっている。これは、もともと鋭い峰だったものが地震で崩れたといわれている。その五剣山が、だんだん間近に迫ってくる。
ケーブルカー駅を過ぎると、傾斜が一段ときびしくなる。なかなか足が上がらないのは、屋島を登り下りしたからだけでなく、早起きしてすでに20km近く歩いているからだろう。体がだるい。鳥居のところまで歩いて、たまらず座り込んでしまう。
寺の参道なのに鳥居というのはよく考えると妙だが、神仏習合の時代であれば誰も違和感を持たなかっただろう。この鳥居は聖天様のためと書いてあったと思うが、このあたり体調が悪くてメモも写真もないから記憶違いかもしれない。
屋島の登り坂と違ってきちんと遊歩道にはなっていないが、歩きやすい道だった。急な傾斜で暗い道を登って行くと、いよいよ五剣山が間近に現れる。昔は売店だったような家並みがあって、再び鳥居がある。背後に五剣山があるので、まさしく山そのものがご神体のように見える。
休業中の売店だと思われた家並みの一角に「営業中」の札が下がっていた。ここが岡田屋旅館で、歩き遍路がよく利用する宿として有名である。かつては、参拝客や遍路客でにぎわったであろう門前も、いま営業しているのはこの岡田屋旅館だけのようだ。
鳥居をくぐって境内に入る。境内は広く、入ってすぐの一角に本堂と聖天堂がある。本堂の真後ろに五剣山が聳え立っているのは壮観である。午後3時10分着。麓から1時間かかった。
五剣山八栗寺(ごけんさん・やぐりじ)。山号は寺の背後にそびえる五剣山からとられている。寺号より山号の方がしっくりくる札所はいくつかあるが、この五剣山もその一つである。見るからに山岳信仰の霊場で、弘法大師以前から修験道の行場であったと思われる。
本堂の斜め前に聖天堂がある。本堂より一段下に建てられているが、大きさは同じくらいである。石鎚山も聖天が祀られていたが、同様に山岳信仰と関わりの深い神様として、古くから重視されてきたのであろう。真言宗だけの信仰であれば、聖天堂の位置には大師堂がある。
では大師堂はどこにあるかというと、多宝塔や五剣山を模したオブジェとともに、本堂エリアから少し奥に進んだ一角にある。この一角がまさにすがすがしい雰囲気である。幸いベンチがいくつか置いてあり、静かな時間を過ごすことができる。
すぐ下りてしまうのがもったいない気持ちがして、ここで30~40分座っていた。ケーブルカーから本堂に来る参拝客はなぜかこのエリアにはあまり来ず、奥の方から何人か歩いてきた(後から気づいたが、奥に駐車スペースがある)。外人さんらしき姿も見たが、軽装だったのでお遍路歩きかどうか分からない。
ここまで来てしまえば、あと宿までは6kmだから1時間半、午後4時に出発すれば暗くなる前に着くことができるだろう。それにしても疲れた。せっかく八十八ヶ所お参りするのに、こんなに急いではいけないと改めて思った。スケジュールはもっとゆったり計画しなくては。
五剣山が近くなった。一番右側の頂は、江戸時代に地震で崩れたという。
八栗寺はまさに五剣山の直下にある。鳥居は聖天様のためということだが、五剣山そのものを祀っているようにみえる。右の建物が岡田屋旅館。「営業中」の札が下がっていた。
八栗寺本堂。左手のお堂は聖天を祀っている。
午後4時になったので、重い腰を上げる。境内の地図を見ると、志度寺へは奥にこのまま進めばいいらしい。林を抜けると、こちらにもかつて旅館や売店であったと思われる建物があった。もう数十年も営業していないらしく崩れかけているが、自販機が置いてあったので持ち主はちゃんといるらしい。
こちらの山門を抜けたところに、自動車が何台か止まっていた。どうやら、車でお参りする人はこちらの道で上がって来て路肩に駐車するようだ。そこから、きれいな舗装道路が下に伸びていた。登る時に通った道より、傾斜もかなり緩やかである。
しばらくして農家の倉庫らしき建物があったが、それ以外は何もないところだった。きちんと舗装された緩やかな坂道が続く。何度か振り返るたびに、五剣山が遠のく。しばらく坂道が続いて、少し切り立った場所を通ると、なんと、麓までかなり高低差がある。
傾斜が緩やかだとその分距離が長くなるというのは当り前だが、かなり歩いたのにまだ先が見えないのはつらいものである。体調がよくないからなおさらである。下り坂なのに、なかなか足が前に出ない。
1時間近くかかって、対岸に学校のグランドらしきものが見え、次いで大きなため池が現われた。ここが二ツ池親水公園だろう。遍路地図によると2.5kmほどのはずだが、4km近く歩いたような気がした。
親水公園のあたりで道が右から左から合流し、気が付くと遍路シールも矢印も見当たらなくなっていた。一つ前の分岐まで少し引き返すと、そちらの方向に「志度寺」の行先表示があり矢印が続いていた。片側一車線の道から細い道に分かれるので油断したのだが、ここを進むらしい。
帰ってからGPSで経路を確認すると、私の通った遍路シールのある道は遍路地図には示されていない道で、逆に遍路地図が推奨するルートには何の案内もなく、私が行きかけた道であることが分かった。いつもながら、遍路地図はたいへん迷いやすくなっている。
遍路シールで示される道は、親水公園から住宅街を抜け、県道36号を通って琴電志度線の塩屋付近で踏切を渡る。丁石や古いお地蔵様も点在していて、こちらが古くからの遍路道であったことは間違いない。なぜ遍路地図で、この古い遍路道を推奨していないのか、よく分からない。
踏切を渡るとほどなく国道11号に合流する。屋島寺に登るために別れて以来、数時間ぶりの再会である。ずいぶん長い距離を歩かされているような気がした。
左手に道の駅を見ながら、歩道を歩く。もう午後5時を過ぎて、あたりは薄暗くなってきた。八栗寺からの下りが距離以上に長く感じられて、ひと休みしたいのだが時間も遅いし、道の駅に寄る余裕がない。
そのまま国道をまっすぐ歩く。なかなか志度駅の表示は出てこない。国道付近はそれほど建て混んでおらず反対側のJR線路まで見える。左は琴電の線路で、その風景がずっと続く。
八栗寺から志度寺まで遍路地図では6.5kmなのだが、もう1時間半歩いているのに志度駅にも着かない。だんだん足が上がらなくなってきた。ここまで㌔ポストのある国道を歩いてきたが、並行して通っているへんろ道に戻ろう。
そろそろ志度だと思って左折して側道に入ると、そこはまだ一つ前の原駅だった。まだ歩くのかと思った。原から志度まで古い商店街のような通りである。平賀源内関連の旧跡がいくつかある。あたりはどんどん暗くなる。それでもまだ宿には着かない。
もうすっかり日が暮れて足元が見えづらくなった頃、地蔵寺の前に出た。志度寺の奥ノ院にあたる大きな寺である。お参りしたいがもう納経時間はとうに過ぎている。遍路地図によるともうすぐ琴電志度駅に着いてしまうのではと思った頃、ようやく「たいや旅館」に着いた。もう午後5時55分、八栗寺から2時間かかった。
八栗寺大師堂は、本堂から少し離れて建っている。志度寺へは、この奥へ進む。
大師堂の傍らに建てられた五剣山のオブジェ。やはりこの霊場は、五剣山そのものであるように思う。
八栗寺から志度寺への下りは、緩やかな舗装道路が1時間ほど続く。
「お風呂の用意できてますよ」と宿のご主人に言われたのだが、「まだご飯食べてないんで、ちょっと食べてきます」と答える。この宿は夕食がないので、外に食べに行かなければならないのだ。部屋に荷物を置きに行く。2階まで階段を上がるだけでしんどい。白衣から普段着に着替え、鏡を見る。顔が腫れて発疹ができている。
やっぱりか、と思う。こうなると最低1週間は不調が続くのだ。皮膚科に行ければいいのだが、旅先なので簡単には見つからない。昔、北海道旅行中に娘が同様の状態になり、1日つぶして小児科に行ったが埒が明かず、結局帰るまで診察は受けられなかった。
この日を入れてあと5泊、日程は半分残っているというのにこの状態である。救いがあるとすれば、翌日から1泊2食の宿が続くので、これまでのように冷たい食事を食べなくて済むということだけである。
出発前にGoogleで調べて、志度駅周辺に食べるところはガストしかないことは分かっていた。名物の魚とか牡蠣の店はあるのだが、体が求める温かくて消化のよいものを食べられるのはガストだけである。
宿から少し歩くとメイン通りに出るが、下調べどおり適当な店はなかった。琴電志度駅にあるのも自販機だけで、結局JR志度駅を抜けてさらに先にあるガストまで、数百m歩かなければならなかった。
混んでいたけれど幸いすぐに座ることができた。すき焼きご膳と生ビールをお願いする。普段の体調であれば、もう一品フライとか唐揚げを頼んだと思うのだけれど、揚げ物は心配で、すき焼きとご飯だけにする。
温かい割り下と牛肉をご飯に乗せて食べると、何日かぶりでまともなものを食べたという気がした。遠征初日にカレーうどん+ライスを食べた後、3日間はコンビニ弁当とパンしか食べていない。これで朝から晩まで歩いては、体調を崩すのも当り前である。
生ビールも一杯だけで引き上げる。JR駅前にコンビニはあったのだが、寄って甘いものでも買おうという元気もなかった。
宿に帰ってお風呂に入る。それほど大きな旅館ではないのに、お風呂は4、5人入れるくらい広いお風呂である。3日ユニットバスで、特に高松の2日間はシャワーかと思うくらいの狭さだったので、思う存分手足を伸ばし、足ツボマッサージをして長湯する。
あとは洗濯である。ご主人に「コインランドリーはありますか」とお聞きすると「やっておきますからお風呂場の籠に入れておいてください。アイロンまではかけませんけどね。」
なんとご接待である。うれしくて、体が楽になった。もうすでに午後8時近く、これから洗濯していたら寝るのは10時になることを覚悟していた。ご接待のおかげで、この日は午後9時には床に就くことができた。
この日の歩数は52,961歩、GPS測定による移動距離は27.8kmでした。
[行 程]屋島寺 12:30 →(3.4km)13:50 マルナカ・洲崎寺 14:10 →(2.6km)15:10 八栗寺 16:00 →(7.3km)17:55 たいや旅館(泊)
[Oct 31, 2020]
志度寺までのコースは、遍路地図と古いへんろ道とが違っている。遍路道は、古い道標にしたがって琴電塩屋付近で国道11号に合流する。
琴電志度駅付近まで達する頃には、またもや日が暮れてしまった。これは翌朝のたいや旅館。
夕食はつかないので、近くのガストまで行ってすき焼きご膳。温かい肉料理は今回の区切り打ちで初めてでした。
四国札所歩き遍路
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
繰り返しになるが、今回の区切り打ち後半は体調が悪かった。それで、撮ったはずの写真がなかったり、画面が10度くらい傾いて撮影されて使い物にならなかったりする。ピント調整や露出その他うまくいかないことがあるのでデジカメと携帯両方撮っているはずが、片方しかなかったりする。
本来であれば、1日ゆっくり休んで体調を整えなければならないところ、来る日も来る日もハードスケジュールで、歩き始めるとその日の日程がこなせるかどうかばかり心配していた。
前日の夕食はガストで温かいすき焼き御膳を食べ、メモには「今回遠征で初めてゆっくり眠れた」とあるのだけれど、その次に「コンビニで買うものリポビタンD」と書いている。やはり、1日寝ただけで回復は難しいのである。
前日までホテルだったので、今回遠征ではじめての和室だった。洗濯をご接待していただいてゆっくり眠れて、朝食も心づくしの和食。しかし、一度崩れた体調は相変わらずよくない。顔は発疹があり腫れているし、肩も腰も足も痛む。
しかし、弱音を吐いていてもこの日は八十八番まで登らなければ宿がない。計画段階では、志度に泊まればそんなに苦労しないだろうと思ったのだが、前日までの道のりを考えるとそんなに簡単なものではなさそうだ。
最悪の場合は、この日のうちに八十窪に着きさえすれば翌朝に大窪寺という逃げ道はあるけれども、せっかくだから結願してゆっくり泊まりたい。午後4時に大窪寺に入るためには、11時には長尾寺を出発しておきたい。
朝食は7時からと言われていたけれど、少し早く6時半過ぎに準備ができましたと声をかけられる。塩じゃけ、卵焼きに海苔・梅干しがおかずの和食である。温かいご飯を食べていけるのは何日ぶりだろう。本当にほっとした。
支度して8時前に出発。志度寺までは昨日のガストへの道を、駅の方に曲がらずにまっすぐ進む。すぐに着くかと思ったのに、なかなか着かない。歩き始めたばかりなのに、すぐに息が切れる。平賀源内記念館の前にベンチがあったので、思わず腰を下ろす。こんな調子で、大窪寺まで登れるのだろうか。
記念館から少し歩くと五重塔が見えてきた。志度寺の山門である。時刻はすでに8時を回っている。宿から1km近くあっただろう。遍路地図では、どう見ても500mほどしかないのだが。
志度寺は高松市内からは東にあたるので、この時刻には背後から日が昇って来てほとんど逆光である。写真はあきらめて、まず境内に向かう。なぜか手水場が見当たらない。足腰だけでなく、頭もまともに働いていないようだ。
この後も注意力がまったく散漫で、山門から見えている五重塔を近くで見ることもせず、「十一面閻魔大王」の幟も、帰って写真を見て気づいたほどである。納経所で「閻魔大王納経印あります」と書いてあったのに、何のことだろうと思ったくらいだから、完全にぼんやりしていたのである。
話のタネに、閻魔大王のご朱印をいただいておけばと思っても、後の祭りなのであった。
たいや旅館の朝食。まともな朝食も今回遠征で初めて。ホテルばかり続くのもよしあしだと感じた。
15分歩いて志度寺。途中に、平賀源内記念館がある。五重塔のある札所は珍しく、善通寺以来。
志度寺本堂。
補陀落山志度寺(ふだらくさん・しどじ)、山号は観音菩薩の補陀落浄土からとられている。海沿いであることから補陀落渡海との関連も考えられるが、補陀落浄土は南海にあるとされるし、北はすぐに本州である。補陀落渡海の本場とされるのは、紀伊半島とか土佐など南に海しか見えない場所である。
創建は藤原不比等とされる。律令国家創設の立役者であり四国に地縁があるとは意外であるが、すぐ近くに房前(ふささき)という地名もある。房前は不比等の息子で藤原北家の祖であるので、この地域に何かの地縁があったのかもしれない。
たびたび引き合いに出す五来重氏の「四国遍路の寺」によると、もともと志度寺と長尾寺は一つの寺で、だから山号も補陀落山で一緒なのだという。
そうなると、五重塔はじめ伽藍も多い志度寺が本山で、規模の小さい長尾寺が奥ノ院という位置づけになるのかもしれないが、二つの寺をお参りしてみると整然として建物も立派な長尾寺が本山で、志度寺は海の奥ノ院に見える。
本堂まで歩いて読経。草むらばかりで虫の多いお寺だと思ったけれど、ぼんやりして五重塔を見ていなかった。本堂のすぐ横に大師堂。やはり草木が繁茂していて虫が寄ってくる。たいていのお寺は砂利や砂が敷かれているものだが、ご住職のお考えなのだろうか。
納経所は本堂・大師堂から山門の近くまで少し戻る。やはり虫が多くて、納経所の扉を閉めないと私に続いて虫が入ってくる。納経所の中は売店を兼ねていて、奥に庫裏が続いているようだ。
普段の体調だったら見逃すはずがなかった十一面閻魔大王も、見ていない。幟にそう書いてあったこと自体に気づかないのだからどうしようもない。
そういえば、納経印をもらう時に「閻魔大王納経印もあります」と書いてあったような気がする。惜しいことであった。何しろこの時、早く長尾寺に行かなければとばかり考えていたのである。
お寺を出てから志度のセブンイレブンで、リポビタンDとクーリッシュバニラ、行動食用のチョコクロワッサンと元気一発ゼリー、いろはすの2㍑を買う。リポビタンDだけが税率10%、あとは8%で合計751円。
いろはすは冷えているうちに、リュックのテルモスに400ml入れる。前の日まではホテルだったのでお湯を沸かして入れていたのだけれど、この日は旅館だったので湯沸かし器がなく、天気も良かったので冷たい水を入れようと思ったのである。
これが結構重宝した。ペットボトルの水がぬるくなってしまってもテルモスなので冷たいままで、暑い中を助けられた。雨に悩まされた後は連日真夏日並みのすごい日差しが続いて、体調も悪くてつらかったのである。
[行 程]たいや旅館 7:45 →(0.8km)8:00 志度寺 8:25 →
[Nov 4, 2020]
堂から大師堂へ向かう。草木が繁茂していて、たいへん虫の多いお寺だった。
志度寺大師堂。
納経所へ向かう。ここも虫が多い。十一面閻魔大王の納経印もあるのだそうだ。
八十七番長尾寺 [Oct 5, 2019]
志度寺から長尾寺まで、遍路地図によると7kmちょうど。8時半前に出たので10時半には着いて、11時には大窪寺に向けて出発できるだろうと考えていた。ところが、なかなかうまくは行かなかった。
まず第一に、このエリアは志度の街中を通過するので、信号待ちが頻繁にある。志度寺から国道までずっと市街地が続くし、国道から高速高架下までは住宅街である。登り坂はそれほど気にならないけれど、信号待ちでペースに乗れない。
高速高架下を過ぎると家並みは途切れ、谷に沿った登り坂となる。両側が高く丘になっていて、道はまっすぐなのだがアップダウンが続く。1時間ほど歩いて、早くも疲れた。道端にお社と東屋がある。この後どこで休めるか分からないので、リュックを下ろしてひと休みする。
このお社は暮当・当願大明神という。暮当と当願は猟師であったが、当願が志度寺の法要に出ながら殺生心を起こしたため蛇に変身し、迎えに来た暮当に背負われるうちに竜となり、以来この社に雨乞いする風習となったと案内板に書いてあった。猟師に殺生心を起こすなとは無理があるが、まあお話なんだろう。
道路を隔てた斜面には「オレンジタウン」の看板が掲げられている。見るからに丘陵地で大規模な住宅地があるように見えないが、あるいは丘の向こうが開けているのかもしれない。JR志度の次がオレンジタウンの駅である。
そして休憩所のすぐ横、県道の上に、「長尾寺4km」「大窪寺20km」の案内板が見える。まだ4kmもあるのかと思う半面、20kmなら夕方まで何とかなるかな、と期待してしまう。もちろん登り坂なので㌔15分では厳しいかもしれないが、㌔18分かかったとしても5時間ほどで着く。まだ9時半だ。
少し元気が出て出発する。30分ほど歩いて、案内にしたがって右折する。水面は見えず草が生い茂っている川を左に見ながら細くなった道を進む。ここが昔の遍路道らしく、時々昔の遍路石が出てくる。
再び東屋が現われたので、1時間も歩いていないけれどまた休憩する。案内板があって、この遍路道はさぬき市が整備している「新四国のみち」らしい。「四国のみち」にはお遍路歩きを通じて大変痛い目に遭っているのだが、「新」というからには最近できたものだろう。先ほどの当願大明神休憩所もこの整備の一環のようだ。
小休止の後、左折して橋を渡る。いよいよ背後に大窪寺方面の山並みが見えてきた。まだはるか遠くにあるが、ともかくあの山を越えなければ大窪寺には行けないし宿にも着かないのである。
長尾寺に近づくと、再び住宅地となった。古くからの家並みらしく、道は狭く区画は正方形ではない。交差点は十字路ではなく微妙にずれているのもいま風でない。
案内にしたがって右に左に折れて進むと、やがて旅館のある一角に出て、長尾寺の仁王門となる。到着は11時少し前。休み休み歩いたせいだろうか、志度寺から2時間半かかってしまった。
志度から県道をまっすぐ南下する。オレンジタウンを対面に望むあたりに休憩所がある。長尾寺で4km、大窪寺まで20km。
県道から案内標識にしたがってへんろ道に入る。背後に見えているのが大窪寺の方向。
2時間半かかって、ようやく長尾寺仁王門。巨大わらじもお出迎え。
補陀落山長尾寺(ふだらくさん・ながおじ)、八十六番志度寺と同じ山号である。五来重氏はもともと同じ寺だったのではないかと推察している。
このお寺の謎はご詠歌である。現在、霊場会HPや納経帳に書かれているご詠歌は、「あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名をとなえよ」だが、真念「道指南」に残されているご詠歌は「弥陀をとなえよ」なのである。
山号(補陀落は観音様の浄土)からもご本尊(聖観音菩薩)からも、阿弥陀如来の名を唱えなさいというのは妙である。妙なのだが、山号やご本尊は現代の考え方であり、本来のご詠歌はおそらく「道指南」のとおりであったろうと推測される。ではなぜ、阿弥陀如来なのか。
ご本尊が古くから観音菩薩であったことは間違いない。道指南に先立つ17世紀半ばの成立とされる「四国辺路日記」に、国分寺・白峯寺・根香寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺を讃岐七観音といい、崇敬を集めているという記述がある。「道指南」でも、「弥陀をとなえよ」にもかかわらずご本尊は正観音菩薩とある。
宗旨が天台宗なので浄土宗の要素も含まれているが(法然・親鸞など浄土宗系の宗祖はすべて比叡山出身)、ご本尊をさしおいてご詠歌に他の仏様というのは妙である。五台重氏は、もともと志度寺・長尾寺は死者供養の寺であり、札所となる以前から民間霊場であったと考察している。
死者供養では、七十一番弥谷寺が古くからたいへん有名であるが、すべての人が弥谷寺までお参りできた訳ではない。また、弥谷寺が山の霊場なら海の霊場があっておかしくなく、おそらく八栗寺から長尾寺にかけては海の霊場として古くから民間の信仰を集めていて、それで阿弥陀如来の極楽信仰となったものと思われる。
長尾寺の境内は広く、志度寺が伸び放題の雑草で狭く感じられたのとは対照的である。仁王門を入ってすぐに手水場がある。石畳の参道が伸びて、奥に本堂・大師堂がある。仁王門までぐるっと回り込んできたので、本堂の裏から入れれば近かったのにと思った。
本堂・大師堂・納経所は本堂を中央にして横一列に並んである。手水場から参道左側は駐車場になっていて、何台かの車が止まっている。
本堂・大師堂の前には、古い石碑や近年建てられたと思われる石柱が立てられている。この石柱が、五輪塔のような回向柱のような面白い形をしているのが印象的であった。
あと2つということで、感慨深く読経。読経を終えて納経所に行くと、最近には珍しく順番待ちになった。特に今回の区切り打ちでは自分以外に納経する人がいないお寺が続いたので、いよいよ結願に近づいたと思う。
前の順番の人達は納経帳も何冊かあり、掛け軸や白衣にも印をもらって車に戻って行ったので、長尾寺だけでなく八十八回っていると思われるが、あと1つの長尾寺でたまたま一緒になるというのは妙なめぐり合わせであった。
[行 程]志度寺 8:25 →(3.6km)9:30 オレンジタウン前休憩所 9:40 →(4.2km)10:55 長尾寺 11:30 →
[Nov 28, 2020]
長尾寺の境内は広く、写真の左手に駐車場もある。正面が本堂、手水場の影になるのが大師堂。大窪寺まで16.5kmがどのコースであるのか気になる。
長尾寺本堂。古い石碑がいくつか置かれている。
長尾寺大師堂。五輪塔とも回向柱ともつかない、変わった意匠の石柱。最近立てられたもので新しかった。
八十八番大窪寺 [Oct 5, 2019]
長尾寺出発は11時半になった。前日に考えていた時刻より30分遅い。お寺から県道に出たところにあるドラッグストアで、パブロンゴールド1,628円を買った。パブロンで治るとは思わないけれど何もないよりましだし、少なくとも睡眠薬代わりにはなる。用意してきたのは2、3回分だけだったので、すでになくなってしまった。
お遍路歩きのはじめの頃には、何かあってはいけないと常備薬やら傷の手当て用品やらたくさん用意していた。ところが多く用意すればそれだけ重くなるし、予期せぬケガなどもあって用意しきれない。結局は糖尿病の薬とカゼ薬、胃腸薬、痛み止めと、湿布薬、バンドエイドくらいになってしまった。
今回も、あと5泊もあるというのに体調が悪くなり、用意した薬では足りなくなってしまった。医者にかかるのが一番いいのだけれど少なくとも半日はつぶれてしまうし、地方の場合満足いく治療がしてもらえるかどうか分からない。
昔、北海道を旅行していて子供が病気になり、半日かけて医者に行ったのに「放っておけば治りますよ」と信じられないような対応をされたことがある。あれ以来、旅先で医者にかかったことはない。命にかかわることでなければ、早く帰るのが一番である。
これから先は山なので、長尾を過ぎるとドラッグストアがありそうなのは三本松になる。歩く経路にあるかどうかも不明である。ならば、最低限の薬くらいは用意しておこうと考えたのである。
ドラッグストアを出て、山に向かってまっすぐ進んで行く。車道の案内は右折を指示しているが、歩き遍路であればまっすぐでいいはずだ。すぐに商店街はなくなり、住宅街に入る。
30分ほど歩くと太い道と合流し、山に向かって南下する。並んでいた住宅がまばらになり、だんだん山が近づいて来る。長尾寺の前で見た時よりも、かなり大きくなった。
先ほど見た「新四国のみち」の案内看板によると、長尾寺から40分ほどで一心庵という休憩所があるようだ。そろそろかと思って左右を見ると、並行して通っている小道にそれらしきものがある。あぜ道を横切って行ってみると、まさしく「お遍路休憩所」と書いてあった。
この一心庵休憩所が道の駅との中間地点にあたる。リュックを下ろして一息つく。あと距離的には半分だが、傾斜がだんだんきつくなる。道の駅ながおは前山ダムの堰堤にあって、ダムということはかなり山の上に登らなければならないのである。
真念「道指南」に、「是(長尾寺)より大窪寺まで四里。まへやま坂有」と書かれているとおりである。きつい傾斜を歩くとリュックの重みが肩にかかって痛い。両手でハーネス(肩ベルト)を持ち、ウェイトがかかりすぎないようにして歩く。
もう標高差200mくらいは登っているだろう。まだ道の駅は見えないが、女体山登山道との分岐がある。道の駅から大窪寺までは、昔の遍路道を行くルート、女体山を越えるルートとバス通りの3ルートがあるが、女体山越えにはここからダムを渡らなければならない。
安全策をとってバスルートにする。バスルートの距離が車道に案内されている残り距離のはずなので、多少遠回りでもこれが一番安心である。
ようやく左手に水面が見えてきた。向こうに見える建物群が道の駅ながおに違いない。時刻は、もう午後1時である。
長尾寺からさらに南下する。遠くに見えていた山がだんだん近づいてきた。
急傾斜の坂を登って前山ダムへ。残り距離と時間が気になる。
道の駅ながおの少し前に、女体山登山道との分岐がある。
11時半に長尾寺を出て6kmの登り坂を1時間半ちょっとで歩き、自分なりにがんばっているのだが、あと4時間で着くだろうかとたいへん不安になる。結局、道の駅ながおでは食事もとらず、お遍路サロンにも寄らずに先を急ぐ。午後1時20分、道の駅長尾を出発。
道の駅を過ぎてすぐ「大窪寺11km」の案内板があった。郵便局や農協の建物があるけれども、平日の昼間なのに営業していないように見えた。
ここからしばらく登り坂が続き、農家が点々と続いている。ダム池はすでに過ぎ、川沿いに畑があるのが見える。左の谷側に道が分かれ標識に名前が書いてあるから、この奥にもまだ集落があるらしい。
舗装道路とはいえ、かなりの急傾斜を登って行く。途中でコミュニティバスに抜かれたので、なるほどここはバス通りなのだ。日差しがきつくて汗がしたたる。㌔ポストでもあれば目安になるのだが、何もないのはつらいところである。
なんとか「大窪寺10km」の案内看板まで到達した。ここは分岐点となっており、左折すると「←昼寝城」の立て札がある。名前からして、昔話か何かだろうと思っていたが、帰って調べると正真正銘の山城であった。
阿波の三好三兄弟と対抗した豪族・寒川氏の拠点で、16世紀に攻防戦があったということである。阿讃山脈は屋島の合戦で義経が平家の軍勢を急襲したルートだから、戦国時代にも重要な戦略拠点であったということである。
さらに登る。道の駅から1時間くらい歩くと、遍路地図には記載がないけれどもところどころに東屋とベンチを見つけた。水分補給と行動食でHP回復。
朝、志度のコンビニで買った2㍑のいろはすはすでにすべて消費して、ペットボトルは道の駅に捨てさせてもらった。道の駅で補充した500mlのミネラルウォーターも、この1時間であらかた飲んでしまった。どこかで補充したいと思っていたら、休憩所のすぐ先の道端に水場があって勢いよく水が出ている。
ひしゃくや漏斗がたくさん置いてあるので、地元の人も利用する水場のようだ。「弘法の清水」と説明書きがある。さわってみると、とても冷たい。大汗をかいているので、顔を洗って天然の水をごちそうになり、ペットボトルに補充した。
「弘法の清水」から少し登ると額峠のバス停であった。峠というだけあってここからバス通りは下り坂になっている。大窪寺へまだ登らなくてはならないだろうが、ずっと登りだと思っていたので一時でも下り坂になるのはありがたい。残り7kmの標識も出て、足が軽くなった。
1時40分くらいに残り10kmまで登ったから、あと1km20分のペースでも5時前に大窪寺に着く。山登りと同じで、ペースは遅くても歩き続けることが大切だ。大きなカーブをきりながら舗装道路を辛抱強く歩く。
遍路地図によると、道の駅から登ってくる旧へんろ道とはこのあたりで合流する。ここまで1時間ちょっとで登って来れたので、おそらくへんろ道を通るよりも早かったのではないかと思う。
真念「道指南」にある「がく村」とは、このあたりの集落を指していると思われる。額峠から坂を下ったあたりは家も多く学校や農協もあって開けており、集落というよりも街である。
このあたり、遍路休憩所や河川敷の公園があって、一休みする場所には困らない。廃校になった学校の校庭に作られた休憩所で小休止して出発。どうなるかと思ったが、残りはあと5km、時間は2時間以上あるのでようやく目途がついてきた。
背後の山が道指南にある護摩山で、ここで阿讃山脈を越えてきた国道377号線と合流する。国道といっても、道幅はこれまで歩いてきた県道とたいして変わらない。工事中の地点を通り過ぎて、これまでの下り坂から再び登り坂となった。
ただ、思ったよりゆるやかで、㌔15分くらいで歩けている感触である。山の中の道になるが、アップダウンはそれほど苦にならない。再び景色が開けて、竹屋敷の集落に着いた。
道の駅ながおに着いた時には午後1時を回っていた。昼食もとらず、おへんろサロンにも寄らずに先を急ぐ。残り11km。
バス通りは急傾斜が続くが、遍路地図に載っていない休憩所があるので助かった。
冷たい水を消費した頃に現れた大師の清水。八十窪のおばあさまによると、「あれは工事してた時に出てきた水で、弘法大師は関係ない」とのこと。
竹屋敷には旅館野田屋竹屋敷があり、計画段階ではここに1泊して翌朝大窪寺ということも考えた。ただ、長尾寺から16kmなら歩ききれるだろうと思って、八十窪泊まりとしたのである。実際には、体調悪化もあって、長尾寺からの登りは楽ではなかった。
ここに着いたのは午後3時半だから、この日のスケジュールはここまでにするのが本来である。旅館野田屋竹屋敷は静かないい場所にあって、道沿いには休憩ベンチや自販機もある。ここは国道なのだが、県道よりもさらにローカルな風情であった。
すぐ先が、遍路道との分岐だった。あと2km半。まだ時刻は午後3時半を回ったばかりだから、どうやっても間に合う。道の駅から8kmほどを2時間で歩いた計算になるから、登り坂ではないようなペースである。かなりほっとしたのは確かである。
遍路地図によると大窪寺への遍路道は谷沿いの登山道のような印象だが、実際には舗装された生活道路である。何百m置きに農家もあって、歩いていたら農家のおばさんから、「もうすぐですよ」と声をかけられた。三相三線の電線もずっと続いている。
しばらく歩くと、左手に山が見えてきた。あれが女体山に違いない。女体山遍路道はあの山を越えてくる訳だから、かなりハードな道のりである。時間が限られた今回のスケジュールでは、とても無理なコースであった。
それにしても、なかなか山門が見えてこない。そして、1日の、というよりは連日の疲れが出てしまったのか、ヒザが上がらずリュックがひどく重い。右に谷を挟んで国道が見える。あちらを回ったらちょっと遠回りだっただろう。
「大窪寺700m」の案内板を見て、どうにも足が進まなくなった。ベンチも何もない道の真ん中にリュックを下ろし、その上に腰掛けて休む。よく見ると道はずっと登り坂であった。疲れるのも当り前である。
ひと休みして最後の700mに挑む。坂道を登ると農家が見えてきた。その向こうに一段高くなっているのは、間違いなく大窪寺の仁王門である。やっと着いた。午後4時20分到着。道の駅からちょうど3時間であった。
仁王門は最近できたもののようで、まだ新しい。「医王山」の扁額が掲げられ、金剛力士像も新しい。仁王門をくぐると手水場だ。八十八番目のお参りを前に、両手をすすいで身を清める。
この時、八十八ヶ所回ったという感慨は全くなくて、40分前に着いたのでちゃんと読経してから納経印がいただけるな、とほっとしたことを覚えている。
午後3時半過ぎに竹屋敷到着。旅館野田屋竹屋敷は静かないい場所にある。国道沿いにお遍路が休憩できるようベンチが置いてある。
旅館野田屋竹屋敷がある他はいたってのどかな農村である。この道は国道377号。
いよいよ大窪寺への最後のへんろ道に入った。左が女体山。ここを越えてくるのは大変だ。
医王山大窪寺(いおうさん・おおくぼじ)、医王は薬師如来のことで、この山号を持つお寺はいくつかある。八十八ヶ所目の札所であり、「結願寺」とも呼ばれる。
手水場の先は左手が高くなっていて、登った先が大師堂である。そこからもう一度下がって本堂エリアに達する。まだ時間があるので、まず本堂にお参りする。本堂前は広くなっていて、回向柱と六地蔵、不動明王もいらっしゃる。本堂の背後に多宝塔があり、その後ろは深い森が広がっている。
本堂の扉は二重になっており、内扉の上に「結願所」と墨で書かれた額が掲げられている。具合が悪くてぼんやりしていて、歩き遍路が金剛杖を奉納するという場所もどこにあるのか分からなかった。
霊場会HPによると、本堂の奥にいらっしゃる秘仏のご本尊薬師如来は、薬壺を持つ通常の形とは異なり、ほら貝を持たれているという。病を吹き飛ばすということであろうか。いただいたお姿では絵が小さすぎて、蓮の花を持っているように見える。
長尾寺から約5時間歩いた先にあり、実際標高も445mと白峯寺や根香寺よりずっと高いのだが、何だか山の上という気がしない。おそらく竹屋敷から歩いてきた道が、山の上というよりも普通の農村を歩いてきたような感じだったからではないかと思う。
仁王門の方に戻って大師堂で読経。これで88ヶ所すべてで納経が終わった。本堂横に引き返して納経所でご朱印をいただく。「薬師如来 大窪寺」と墨書された上に、他のお寺なら寺号印が多いところ、「結願所」となっているのが特徴である。八十八回った記念のどうこうとかセールスされるかと思ったら、何もなかった。
お参りが終わって、ちょうど午後5時前であった。八十窪へ行くには仁王門に戻らず、本堂側の山門から出ればよい。本堂前から石段を下りていくと、目の前に巨大なイチョウの木が現われた。四方に広がった枝々が夕日に輝いている。背後に見える山並みは阿讃山脈である。
この景色を見たとき、とうとう八十八ヶ所を歩き通したのだなあと初めて思った。これから一番まで戻らなければならないものの、八十八ヶ所をこれですべてお参りしたのである。
山門を出て下って行くと、お土産屋のおばさんに「八十窪さんですか?こちらに行ってすぐそこですよ」と案内される。このおばさんには、翌朝出発する時また会った。お土産屋さんにも寄りたかったが、さすがに疲れていて早くリュックを下ろしたかった。
大きな駐車場の先が、民宿八十窪だった。HPの写真を見るとずいぶん山の中にある一軒宿のように見えるのだが、実際には普通の二階建てである。すぐ近くにお土産屋さんがあり、大窪寺の門前でもあるので寂しい場所では全くない。
ただ、前にある駐車場がたいへん広くて、こんなに埋まることがあるのだろうかと思わないこともなかった。とはいえ、大窪寺に車で来るとここしか駐車できる場所がないから、見込まれる最大駐車数で作らざるを得ないのだろう。家の近くの成田山も、正月三が日でもない限り駐車場がいっぱいになることはない。
玄関を入ると、きびきびしたおかみさんに案内された。部屋は前日に続き2階、リュックを持って階段を登るのがつらい。部屋に金剛杖の置き場所があるのはユニークだった。
納経時間に40分ほど余して大窪寺到着。仁王門だが、風神雷神のように見える。
大窪寺本堂。山門からすぐの位置に本堂があり、仁王門から入ると行ったり来たりしなくてはならない。
大窪寺大師堂。本堂エリアより少し高い位置にある。こちらに金剛杖の奉納所があるらしいが、残念ながら見逃した。
リュックを下ろし、汗まみれの白衣とインナーを脱ぎ、部屋着にしているVENEXのリカバリーウェアに着替えてようやく人心地ついた。ついさっき門前の自販機で買ったコーラを開けて、窓の外を眺める。もう10月に入って5日目だが、山の上なのにまだ暑い。
窓の外は先ほど見た大きな駐車場で、その向こうにトンネルの出口が見える。そこを国道が通っているのだろう。後方は阿讃山脈で、すでに日が落ちて薄暗くなっている。ここを越えるのは翌々日のことになる。
お風呂をいただいて洗濯機をかけると、夕食の用意ができていた。この日の宿泊は3人で、私以外も中高年の単独行である。一人はまだ着いていないらしい。
すでに食べ始めている先客の向かいに座っているのは、WEBで有名な八十窪のおばあ様である。やや耳が遠いということだが、話す内容はしっかりしている。夕食中のお客さんと、お茶を飲みながらお話するのが通例のようだ。
夕食はお刺身、天ぷら、煮物に小鉢が付き、結願祝いの栗入りお赤飯とそうめんが名物である。1泊2食6,500円でここまでしていただけて大変ありがたい。あるいはこの日に大窪寺まで歩けないかと思ったが、なんとかクリアしたご褒美にビールとお酒をお願いする。
心づくしのご馳走とお酒をいただきながら、先客とおばあ様の話を聞く。先客は自転車でお遍路をしていて、ここから自転車を宅配便で家に送って、歩いて大滝寺をお参りするという。自転車は歩きより楽なようだが、山の上ともなると話が違う。大窪寺まではかなりきつかったはずだ。
八十八ヶ所に加えて別格二十の合計百八を回るということで、大滝寺まで歩いて行くということである。大滝寺へは尾根道を歩いた方が早いということで自転車でなく歩きにして、大滝寺からどこまで下れるかという話をしていた。
先客の話が終わって部屋に引き上げた頃、ちょうど私も食事が終わって、おばあ様と話をすることができた。どこから来たかとか、今日はどの道を登ってきたとかデフォルトの話題があって、バス通りを登って来て弘法の清水で助かったという話をすると、
「あれは向こうの山を工事した時に出てきた水で、お大師様は関係ないんだ」ということであった。そして、
「山を越えてくる道も今は遍路道ということになっているけれども、女体山はもともと女人禁制の山で、私が小さい頃には入れなかった。道路ができて、今更そんな時代でもなかろうということで遍路道もできたけれども、昔はあのあたり女は歩けなかった」とのことである。
「昔の遍路道は道の駅まで下りていく道で、私らも学校の行事とかあると麓までよく歩いて下ったものだ。小学校にもたくさん生徒がいたから、大勢でぞろぞろ下りたもんだよ。」
「このあたりも、麓に下りた人達が多くいてずいぶん家が減った。どこに下りるかって?やっぱり長尾が多いねえ。三本松でも距離はあまり変わらないけれども、昔から行き来していたのは長尾だから。」
「明日はどこに下りますの?ほう、與田寺?あそこはいいお寺だよ。集まりで何度かお参りしたけれども。」
他にもいろいろ話をしたのだけれど、ちゃんとメモをとらなかったので思い出せない。乾燥機が終わったのを機に部屋に帰って鏡を見ると、顔の発疹と腫れがひどいことになっていた。気休めにパブロンを飲んで午後9時には布団に入った。
この日の歩数は45,226歩、GPS測定による移動距離は25.7kmでした。
[行 程]長尾寺 11:30 →(3.3km)12:15 一心庵休憩所 12:25 →(2.5km)13:05 道の駅ながお 13:20 →(3.8km)14:20 県道脇休憩所・弘法の清水 14:30 →(7.5km)16:20 大窪寺 → 八十窪(泊)
[Jan 2, 2021]
民宿八十窪は、本堂からイチョウの木を越えて東側にある。当日の写真は西日で光ってしまったので、これは翌朝の撮影。
民宿八十窪から、山門前を振り返る。これも翌朝の撮影。與田寺に下りる場合、この自販機を逃すと長野いこいの家のバス停までない。
結願祝いの栗入りお赤飯がつく夕食。この他に温かいそうめんがつく。
総奥ノ院與田寺 [Oct 6, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
2019年10月6日の朝になった。八十八番までお参りしてほっとしたのか、前日の日本酒とビールが効いたのか、午後9時から午前6時までぐっすり眠った。起きて顔を見ると腫れがひどいが、本人は見た目ほどつらくないのが救いである。
寝ている間に雨が降ったようで、窓の外は濡れている。区切り打ちの遠征では毎度台風に悩まされたが、ここ数日はいい天気が続いている。いい天気過ぎて、気温が25度を超えて暑いのが逆につらい。
1階の食堂に下りて朝食である。民宿とはいえ部屋にトイレが付いていたので、部屋から出るのは数時間ぶりである。昨日夕飯をご一緒した自転車遍路の方は朝食を済ませて出かけたとのことであった。おかみさんが送って行って、朝食の支度はおばあ様である。
「自転車を送るっていうから大荷物かと思ったら、ちっちゃいの。よくあれで坂が登れたもんだ。」とおばあ様が言っていたので、おそらく組み立て式の車輪の小さいものだろう。私だと、体重が重すぎて乗れないやつだ。
朝食はご飯にお味噌汁、干物と梅干、海苔、ひじきにおひたし、お新香と盛り沢山だった。お昼のおにぎりも、お接待していただいた。
「與田寺に行くんだったら、食べるところはないから。」とのことであった(本当になかった)。
「トンネルを出たら右に折れて、イチョウの木を左。そんなに急がなくても着くはずだから、気を付けて行きなさい。」
7時40分に出発。まず門前に戻って自販機でミネラルウォーターを補充した後、再び八十窪の前を通って先に進む。八十窪の先にも家があったから、おばあ様が言っていたように昔は大きな集落だったのだろう。
すぐ国道に合流する。国道は片側1車線のきれいな道で、大窪寺への遍路道分岐に入るまでの道の続きとは思えない。その先には人家も倉庫も全くなく、森の中をなだらかな坂が下って行くだけである。
10分ほど歩くと新しいトンネルがあった。はらいがわトンネル、2012年1月竣工と銘版に書いてあるから、つい最近できたトンネルである。以前はどんな道だったのだろう。左右を見ると深い谷で、どんな道だったのか想像もつかない。
おばあ様のいうトンネルを出たら右というのは、1時間後に通る五明トンネルのことであろう。しかし、はらいがわトンネルを出たところにも「三番金泉寺→」と右折の案内板がある。西教寺道という遍路道で與田寺の近くを通るが、予定している白鳥温泉経由より遠回りである。
この分岐の近くに、一つだけ木のベンチが置いてあり、上を藁で葺いてあった。一人か二人しか休めない小さな休憩所である。まだ出発して30分足らずなので素通りしたが、この後、1時間以上座れる場所はなかった。八十八番を過ぎているので通る人も少ないだろうに、こうして気を使っていただくのはありがたいことである。
1時間歩いて、ようやく民家がある開けた場所に出た。「長野いこいの家」のバス停がある。水田も畑もあって、1日数本とはいえバスも通っている。八十窪を出てから山の中を歩いてきたけれど、ここまで来れば大丈夫そうだ。
その少し先が、五明トンネルだった。五明トンネルは468mあると書いてあるから、結構長い。そして、トンネルを出たところがT字路になって左右に分かれていて、「白鳥温泉」と「うどん八幡」の大きな看板が立っている。
白鳥温泉はこれから通るところであと3~4kmだからあっておかしくないが、八幡は切幡寺の近くにある民宿兼うどん屋さんで、県境の向こうである。案内看板を置くほど近いのだろうかと思った。
はらいがわトンネルを越えたあたりに、かわいい休憩所がある。ここから1時間以上、休憩所はない。
民宿八十窪で教えられたとおり、五明トンネルを越えて右折し、大イチョウの先で左折する。そのまままっすぐ進むと十番切幡寺方面。
白鳥温泉。駐車場の右手に見える橋を渡ったところに広い公園がある。
五明トンネル出口のT字路を右折する。ところどころに民家が見えるまっすぐな道を10分ほど進むと、八十窪のおばあさまに言われたイチョウの大木があった。
大窪寺にあったイチョウの木に似ているなあと思ったら、説明書きにこの木も大窪寺の木もいずれも「いちょうさん」と呼ぶとあるから、昔の人も似ていると思ったに違いない。大坂夏の陣の残党がこの木の下で切腹したとあるから、400年前にも大木だったということである。
左に折れると與田寺への道で、まっすぐ進むと切幡寺に出る。すぐ先が県境で、切幡寺まで約15km。ここから歩けば午後には着くので、なるほど看板が出ていておかしくない。とはいえ、今回は與田寺なので左折する。
ここからの道は少し細くなるけれども、舗装道路なので心細くはない。2時間近く歩いたのでそろそろ休みたいと思っていたところ、道端にお遍路さん休憩所と書いてあるベンチがあったので腰を下ろす。時刻は9時半だった。
木を切って周囲を囲い、屋根を掛けただけの簡単な造りだったが、休むだけならこれで十分である。考えてみたら、はらいがわトンネルの近くで見た一人用休憩所以来、はじめての休憩所だった。
10分ほど休んで出発する。休憩所の先が長尾峠で四国のみちも通っているが、ちょっと覗いたところ左右から雑草が生い茂っていたので、遠回りだけれど舗装道路を進む。ちょっと暗くてカーブの多い道だったが、ほどなく平らでまっすぐな道となった。
10時半過ぎに白鳥温泉着。温泉施設の前が大きな駐車場になっていて、その隅にベンチがあった。少し早いけれど、接待していただいたおにぎりをいただく。なるほど、何もない道である。温泉施設の中に入れば食堂はあるだろうが、歩いているだけでは食べ物を調達できる場所がない。あるのは自販機だけである。
午前11時に白鳥温泉発。朝に比べるとかなりゆるやかになった坂を下って行く。20分ほど下って、遍路地図にある三宝寺への道に入ろうとすると、なんと通行止の大きな看板が立てかけられている。令和元年9月17日からというから、始まったばかりである。間の悪いことである。
指示されている迂回路は2kmほど遠回りすることになるが、仕方がない。時間には余裕があるし、お昼は食べたばかりである。下山(しもやま)というところまで坂を下り、三宝寺まで登り坂を歩いて、遍路地図のルートに復帰する。
この先が星越峠で、峠道となる。標高110mというからたいしたことはないと思っていたら、予想外に長くてきつい登り坂であった。峠の先にはダム湖があったから、標高も高く水量もある場所ということであろう。
ダム湖の脇を下りていくと、ようやく「與田寺4km」の表示があるT字路に突き当たった。すでに時刻は午後1時近い。白鳥温泉から遍路地図では4kmほどのはずだが、2時間近くかかった。通行止の迂回があったにせよ、予想外に時間がかかった。
そして、ここまでお昼を調達できる場所はなかった。お接待していただいたおにぎりで、かなり助かったのである。
ここからは、高速の高架下を抜けて1時間ほど。自動車用の案内標識のとおり歩いたら、お寺の周りをぐるぐる回るような経路に誘導されてしまったようだ。午後2時前に與田寺に到着した。
遍路地図に記載された三宝寺への道は通行止め。大きく迂回しなければならなかった。
星越峠を越え、與田寺まであと4km。
與田寺までの順路はたいへん分かりにくく、午後2時前にようやく着いた。
真念「道指南」には、大窪寺を打った後は十番切幡寺まで歩くことになっているが、これが四国一周を完結するためなのか、一番霊山寺までお礼参りをするという意図なのか、大坂に帰る者の多くが使う経路であったのか、原文を読むだけではよく分からない。
道指南冒頭の四国入りの船便には、大坂から阿波・徳島と、大坂から讃岐・丸亀、高松の経路が例示されている。「客が一人ないし男女一人ずつでは船は出ません」と書いてあるから、そこまで混雑する航路ではなかったようである。
三本松への船便は「道指南」には載っていないが、江戸後期には発達したようだ。淡路島西岸を通るならば、大阪から徳島や丸亀・高松に行くよりもずっと近い。そして、実際に多くの人が三本松から四国遍路に入ったようで、與田寺は四国総奥ノ院と呼ばれている。
ということで、往時はお遍路の多くが訪れた與田寺であるが、今日八十八ヶ所をお参りした後にここまで来る人は少ない。現在では、「厄除けの寺」が與田寺の代名詞のようで、仁王門の表札にもそう書いてある。駐車場はかなり広かったが、初詣に来る人が多いのだろうか。
仁王門の先に山門があって、参道は石畳が整然と並べられている。両脇に並んでいるベンチは、札所でよく見るローソク屋さんの名前入りだ。山門からまっすぐ進むと本堂である。一斗樽が積まれているところは初詣ご用達の寺っぽいが、お遍路用の納札箱も置かれている。
大師堂は、山門の方に戻って塀の奥にある。こちらでも読経して、参道脇、大師堂向かいの位置にある納経所へ。広い境内でお参りしているのは私だけなのに、納経所にはちゃんとお坊さんがいてご朱印をいただいた。
さて、先ほどから気になっているのは本堂の右手に見える鳥居と、そこから続いている石の階段である。普通は、高い場所にあるのは格の高いお堂で、札所であれば本堂か大師堂であることが多い。
だが、本堂も大師堂もグランドレベルにある。しかも、鳥居付きである。この位置関係で思い出すのは龍光寺だが、あそこの場合はもともとの札所が稲荷神社なので本堂に準じると考えていい。しかし、ここの場合はどうなのだろう。ともかく登ってみる。
石段の数は「男女六十一」と書いてある。厄年の数である。踊り場があって、さらに登ると平らな場所に出る。建っているのはお堂というよりも、昭和三十年代の住宅のようだ。
矢印に沿って家の側面に回ってみると、「お大師様はこちらを向いていらっしゃいます」と書いてある。家の板壁が見えるだけで、中にいらっしゃるお大師様を見ることはできない。
そういえば、出雲大社にこうした拝所があった。出雲大社では、オオクニヌシノミコトは正面からみると横を向いていらっしゃるので、ミコトに正対する方向から拝む場所がある。似ているといえば似ているけれど、出雲大社本殿ではなくて普通のしもた屋なのである。
でも、せっかくなので手を合わせて「南無大師遍照金剛」と唱える。納札箱は置いていないので、お遍路がお参りすることは想定していないようだ。ここが、厄除大師の奥ノ院ということになるのだろうか。
お参りを終えて、與田寺を出る。ここから先は、三本松市街に続く住宅地である。国道11号バイパスを抜けて、国道11号で右折する。この日初めて、交通量の多いにぎやかな通りをホテルAZに向かう。
與田寺境内。右手に小さく写っている鳥居の先に石段があり、山の上に厄除け大師がいらっしゃる。大師堂は左手の壁から入る。
與田寺本堂。一斗樽が初詣っぽい。
こちらが厄除け大師。大師堂は別にある。
與田寺からホテルまでの間に、もう一つ行きたい所があった。向良神社(こうらじんじゃ)である。
向良神社は、薩摩から来たお遍路がこの地で倒れ、助けてもらったお礼にサトウキビを伝え、それが今日の和三盆になったという故事に基づく。和三盆といえば、和菓子に使われる最も高級な白糖として有名であり、お遍路が伝えたというのである。
真念「道指南」にも経路として掲載されておらず、今日また訪れる人の少ない道ではあるが、この故事は江戸時代に盛んに歩かれたことを示している。ということで、一番霊山寺に戻る途中、向良神社にお参りすることにした。
あらかじめGoogle Mapで調べたところ、向良神社は国道11号から焼肉店の角を右に入るらしい。ホテルに向かうまで探したのだが、それらしき店は見当たらない。とうとうホテルAZに着いてしまった。
すでにチェックインのできる時間だったので部屋に入り、iPadで調べてもう一度行ってみる。確かに焼肉店の角だったが、大きなチェーン店ではなく普通の家だったので見逃したようだ。
そこから田圃のあぜ道のような細い道を進むと、それらしき建物が見えてきた。予想していたよりも新しく、まるで集会所のようだ。国道からは逆側が正面になり、建物に向かって右に、大きな「向山周慶翁顕彰の碑」がある。
たいへん細かい字で細かく経緯が書かれているが、向山翁はこの地でも砂糖を生産したいと思いいろいろ努力してきたが、どうしてもうまく育たない。ある日、湊川(與田寺から来ると渡る川で、神社のすぐ近くである)の河原で、病で苦しんでいるお遍路を見つけ、親身に介抱したところなんとか回復した。
このお遍路が奄美大島から来た当盛喜という者で、盛喜は助けてもらったことに感謝し、再びお遍路に来た時、領外持ち出し禁止であったサトウキビの種を弁当箱に隠して当地へ持ち込み、これによって讃岐にも製糖事業が根付いたという。
こうしてできた砂糖が大坂に出荷されたのが寛永年間というから、江戸時代も後半に入ってからである。薩摩良助というのはこの盛喜が高松藩主からいただいた名であり、向山周慶と薩摩良助の功績により当地の和三盆糖ができたことから、二人の名をとって向良神社ができたのである。
歴史が新しいとはいえ当地の神様であり、二礼二拍手一礼でご挨拶する。よく考えると産業スパイだが、薩摩藩も密輸で富を蓄え倒幕したのだから、どっちもどっちと言えなくもない。ホテルから往復で1時間ほど、帰ってコインランドリーで洗濯している間に午後6時、夕飯の時間になった。
ホテルAZは、以前内子で泊まったことがある。設備が新しいのに値段は安く、しかも食事が付いているという大変ありがたい宿である。この日も1泊2食税込みで6,240円という格安のお値段で、部屋は新品同様でWifiも完備していると言うことなしであった。
バイキングは品数こそ多くはないがボリューム満点であり、ビールと焼酎だけにせよ900円で飲み放題である。もちろん飲み放題にして、今回遠征で不足していた肉を中心に食べる。
肉といってもこの値段だから鶏肉とひき肉で、鶏からあげの上にマーボー豆腐を乗せて、肉団子も何個かとってたんぱく質を補給し、野菜の煮物、グリーンサラダといったビタミン類でバランスをとった。
この日は比較的早めに宿に着いたこともあり、1日2日前よりずいぶん体調がよくなったような気がする。顔は腫れていて見た目ひどいことになっているが、歩くのはあと1日の辛抱である。
ビジネスホテルにしては広いユニットバスにゆっくり入って、翌日の作戦を練る。実はこの段階でもどのコースを歩くか決めていなかったので、WEBでいろいろ調べた。とはいっても連日の疲れが残って遅くまで起きていることはできず、午後9時にはベッドに入った。
この日の歩数は53,087歩、GPS測定による移動距離は28.9kmでした。
[行 程]八十窪 7:40 →(6.6km)9:35 中尾峠前休憩所 9:45 →(3.5km)10:45 白鳥温泉(昼食) 11:05 →(10.3km)14:00 與田寺 14:35 →(5.5km)15:50 ホテルAZかがわ 16:15 →(1.5km)16:35 向良神社 16:45 →(1.5km)17:10 ホテルAZかがわ(泊)
[Jan 30, 2021]
ホテルAZ東かがわ。内子の印象がたいへんよかったので選んだ。日の高いうちに着いたのは今回の区切り打ちでは珍しい。
いったんチェックインした後、WEBで地図を確認して向良神社を探す。
向良神社は地元の集会所のような外観。「向」は当地の医師・向山氏、「良」はお遍路の良助からとっていて、彼らは当地に製糖技術を普及させた。現在の和三盆である。
卯辰越 [Oct 7, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
2019年10月7日の朝になった。この日も晴れ予報で、雨の心配はない。朝5時に起きて支度を始めた。朝食は6時から食べることができる。
さて、この日どういうコースで歩くか直前まで悩んでいた。なにしろ、八十八番から一番というのはどの案内にもあまり詳しく載っておらず、行ってみなければ分からないというのが実情である。
最もオーソドックスとされるのは真念「道指南」に載っている十番切幡寺に抜けるコースだが、これは昨日通り過ぎてしまった。三本松からということになると、古来多く歩かれたのは大坂峠を越えて三番金泉寺に出るコースである。
昔の讃岐街道であるが、車道を通るとえらくワインディングして距離が長く、一方で登山道の状況がよく分からない。蛇が出るとか蜂がいるという情報もあり、できれば避けたいルートであった。
もう一つは、国道11号を進んで、卯辰越という峠を越えて一番霊山寺に至るルートである。すべて車道を通るので歩きやすそうではあるが、距離が長くなるのと、遍路地図に何も書いていない経路なので案内標識があるかどうか分からない。
最後まで迷ったのは大坂峠に向かうかどうかということだった。天気が悪ければ当然安全策だが、天気は上々である。しかし、良すぎてこれだけ暑くなると、虫とか蛇とかがかえって出やすいような気がした。ということで、目が覚めて改めて、距離は長いけれど卯辰越で車道を行くことにしようと決めた。
朝食もバイキング。ロールパンにグリーンサラダ、ハム、ウィンナソーセージ、卵焼き、ヨーグルトにフルーツを乗せて、後はジュースとコーヒー。家にいる時とよく似た朝食となった。ボリュームは前日の夕食で補充したので、あとはバランスである。
前日のうちに買って冷蔵庫で冷やしてあった1㍑のミネラルウォーターからテルモスに冷たい水を入れる。空の500mlペットボトル2本に入れると、ちょうど1㍑なくなった。この日も暑くなりそうだが、車道歩きなら自販機はあるだろうと思った(甘かった)。
午前7時20分にホテルを出発、国道11号を先に進む。ここは現在東かがわ市になっているが、以前は白鳥(しろとり)町、峠を越えて引田(ひけた)町になる。峠にあたる付近に高速のICがあり、高速引田というのは高松から大阪方面へのバスが止まる停留所である。
国道なので、㌔ポストがある。14分・14分・14分・14分・15分と5km余り歩いて、9時前に引田駅前でようやく海沿いに出た。遍路地図ではそんなにあるとは思わなかったが、よく見るとこのあたりは縮尺40,000分の1である。遍路地図はページによって縮尺がまちまちで戸惑うが、ここでもそうであった。
ペースも落ちたことだし一息いれることにして、セブンイレブンに入る。例によってクーリッシュを買って、歩きながら食べる。ここで助かったのは、実はこの先にコンビニがなかったのである。
遍路地図には、大坂峠と分かれるあたりにローソンがあると書いてあるのだが、閉店してしまったのか見当たらなかった。この先でも自販機はあったのだがコンビニは霊山寺までひとつもなく、ここを逃したら自販機以外補充できなかった。
海沿いの道を20分ほど歩くと、三谷製糖の工場前を通る。大きな看板に、江戸時代の製糖作業の絵が描かれている。和三盆糖は、サトウキビを絞って煮詰めた粗糖を何度も濾して不純物を取り除いて作る。絵はその精製過程と思われるもので、多くの職人が作業しており、牛もいる。
三谷製糖の少し先が、大坂峠との分岐だった。右手の山はかなり高くて、峠までかなりの傾斜があるように見えた。森も深く、山道も油断ならないように感じられたので、車道経由は正解だったかな、とその時思った。
分岐を過ぎ、海沿いのすばらしい景色を眺めながらゆるやかな坂を登って行くと、下り口に「徳島県」の看板があった。午前9時55分、出発から2時間半で県境に到着した。
引田駅前を過ぎて海沿いに出た。大窪寺まで登って下りて、海は3日振りである。この近くのセブンイレブンが、このルート最後のコンビニであった。
三谷製糖。江戸時代以来の製法により、和三盆を作り続けている。
午前9時55分、ホテルから2時間半で県境に到着した。
県境から15分ほどで三津トンネルである。トンネルの前に整備された公園があった。東屋とベンチがお休み下さいというかのように用意されている。ホテルから2時間半歩いて、そろそろ休みたい頃合いである。
リュックを下ろして、海に向かって座る。天気はよく、風もなく、海は静かだ。鳴門海峡はうず潮があるし、淡路島の東は紀伊水道で太平洋とつながっている。明石から三本松という航路は、動力船のない江戸時代には重宝されただろう。徳島航路や丸亀航路より、欠航する日数は少なかったはずである。
10分ほど休んで出発。三津トンネルの横には海岸線に沿って、「うずしおロマンティック海道」というアート作品の路上展示がある。この道はトンネル開通前は国道で、いまでも国道表示の古い標識が残っている。
アート作品とはいっても、車の残骸や小石を使ったもので、それほど大掛かりなものではない。屋根もなく野ざらしなので、最初はもっときらびやかだったのかもしれない。ときどき、製作者なのか違法駐車か分からない車が止まっていた。
海岸線を一回りすると三津トンネルの出口で、再び国道11号と合流する。このあたりからは県境付近よりかなり開けていて、国道沿いには真新しい建物が見られるようになる。ゴルフ場のようなリゾートマンションのような豪勢な建物の前を通る。
もう20年以上前になるが、屋島から鳴門大橋まで車で走ったことがあった。当時この区間に高速道は走っていなかったので、国道11号を使ったはずである。だとすれば、このあたりを通っていることになるが、残念ながら記憶がない。
さらに進むと、県道との分岐を示す案内標識が現われた。行先は「大麻」、霊山寺や大麻比古神社のある町の名前である。三津トンネル前の休憩所から40分ほどで着いた。問題はここからである。
分岐を右に折れると、いきなり登り坂となる。片側一車線の舗装道路であるが、国道でないので傾斜は急である。ひとしきり登って、国道沿いの住宅の屋根よりずっと上になると、ようやく地盤は平らになった。
県道の左手には川があって、何度か橋を渡った。右手は平らで畑と林が混在しており、その真ん中を県道が伸びている。民家はぽつぽつと見えるが、集落をなしているほどではない。
そして、覚悟していたこととはいえ、案内標識が全くない。国道であれば㌔ポストがあるし、一定間隔で案内標識もあるのだが、この県道にはない。時折、手作りの標識に集落名と思しき地名が書かれた分岐はあるけれども、地名が分からないので目安にならない。
もちろん、休憩所やベンチもない。お遍路が歩くことを想定していない道なのである。救いは道路が歩きやすいということで、右足と左足を交互に出していれば先に進むことができる。
そういう道を1時間ほど登っていくと、びっくりしたのはそこに集落があり十軒以上の家があったことである。よく考えると国道から4~5kmしか離れておらず、車であればあっという間だし、私の小さい頃でも学校まで1時間歩いて通う子供はいたから、びっくりすることではない。
びっくりすることではないのだが、それより驚いたのはストックを持つ手がひどくむくんでいて、普段なら見えるはずの皺がなくなっているくらい膨らんでいたことである。数日前から体調が悪く、発疹ができて顔も腫れていたのだが、加えて手もこういう状態になってしまった。ずっと手を下にして歩いていたせいだろうか。
大坂峠には向かわず、国道11号を直進。三津トンネルの前にきれいな休憩所があった。
三津トンネルが通る前は、国道は海沿いを通っていた。現在は「うずしおロマンティック海道」として、アート作品が展示されている。
最も距離のある卯辰越というコースをとる。危険個所のない安全な道だが、遍路道の表示や休憩所が全くない。
国道から1時間歩いたので、集落のはずれでリュックを下ろしてひと息つく。ここから先は峠越えで、ばんえい競馬ではないが休んでからでないと登りはしんどいのである。
集落以上にびっくりしたのは、ここに自販機があったことである。国道分岐から5km近く奥であり、近くの集落にも置いてなかった。三津トンネルを出てすぐのゴルフ場らしき建物以来だから、およそ2時間ぶりである。
遍路地図だとあるはずのコンビニがなくなっていて、自販機もしばらくなかったから、少々飲み物が心細くなっていたところだった。いろはす500mlを補充し、ついでにコーラの350ml缶をその場で飲んだ。
自販機のすぐ先から峠道は始まっていた。はじめはただの山道だったが、次第に右側をコンクリ壁と落石防止の網で補強された、本式の峠道になった。傾斜も、もちろん急である。標高差200mほどだが、結構しんどい坂であった。
とはいっても、基本はしっかりした舗装道路で、よくある林道のように両側から雑草が進出して道幅が狭くなっているということはない。右足と左足を交互に出していれば目的地に着く道で、㌔16分程度で歩けていたのではないかと思う。
さきほど通った集落を最後に民家はなくなって道路だけ続いていたが、峠付近になって、大掛かりな建物が見えるようになった。平らな台地が整備されて、森林でなく雑草が生えている。このあたりは、工業団地というと大げさだが、四国でよく見る街はずれの土木作業基地のようなものらしい。
12時55分、卯辰越に到着。峠にはベンチはないものの、小さなお堂と看板が立っている。ここから先が四国のみちになっているようで、行先を示す案内看板がいきなり出てきた。
コンクリの隔壁がちょうどベンチのように座れるので腰を下ろす。リュックを下ろし、テルモスに残っていた冷たい水でレモンジュースを作り、買ってあったランチパックでお昼にする。
不思議なもので、大窪寺でも與田寺でも感じなかったのに、いよいよお遍路も終わるんだなあと感慨深かった。途中では時間に追われることが多かったし、最後は体調を崩したけれど、あと4時間あればどうやっても霊山寺まで下りて納経できる。
レモンジュースを飲みながらあたりを見回すと、ここはもともと廃棄物処理場として許可が出ている場所で、はるか遠くに機械の残骸らしきものが見える。許可の日付は20年以上前で、許可以来全く稼働しなかったもののようである。
現在では、大麻町の肉店が所有者で、「四国のみち探索、お不動様参拝の方、ご利用ください」と無料駐車場になっている。とはいえ、自動車は一台も止まっていない。その代わりに、大麻方面から登ってきたサイクリストが、そのまま引き返したり自転車に乗ったまま一休みしたりしていた。
さて、いよいよラストスパートである。大麻比古神社まで、1時間ほどで下りられるはずである。
[行 程]ホテルAZかがわ 7:20 →(10.4km)10:05 三津トンネル前休憩所 10:15 →(6.3km) 12:00 林道分岐 12:10 →(2.5km)12:55 卯辰越 13:15 →
[Feb 20, 2021]
いよいよ最後の峠、卯辰越に向かう。2時間ぶりくらいに自販機を見てびっくりした。
卯辰越。コンクリの側壁に腰掛け、最後の休憩をとる。
卯辰越の周辺は、開発が放棄されたリサイクル施設の跡である。遠くに機械の残骸らしき物も見えた。
番外霊場大麻比古神社 [Oct 7, 2019]
卯辰越の下りは意外と長く、大麻比古神社まで1時間近くかかった。曲がりくねった下り坂が延々と続くのと、麓に着いても神社への入口がよく分からなかったためである。
登りでは、自販機のあった集落から40分ほどで峠であったが、下りでは神社のすぐ近くまで来ても民家はみられない。左に入る分岐がいくつかあるのだが、轍の跡は見えるものの行先表示がない。工事用の作業道路のようであった。
分岐のたびに少し進んで戻ってをくり返し、橋をいくつか渡って、とうとう駐車場まで来てしまった。歩いている時は遠回りしてしまったと思ったが、結局のところ、最短経路だったのだろう。
大麻比古神社は、古くは阿波一宮とされた大きな神社である。「霊場記」にも、大麻比古神社が一ノ宮で霊山寺の奥ノ院と書いてある。にもかかわらず、なぜ十三番大日寺の隣にあるのが八十八ヶ所の一ノ宮なのだろうか。
四国に4ヶ所ある一ノ宮のうち、土佐神社と讃岐・田村神社が一ノ宮であることは議論の余地がなさそうである。ともに国府のすぐ近くに位置し、古くから今日まで崇敬を集めている。
首をひねるのが伊予と阿波である。伊予は大三嶋神社が一ノ宮であるから、本来は大三島か別宮・南光坊が一宮として札所に数えられるべきところ、国府でも大都市でもない小松の三島神社が札所としての一ノ宮となっている。
阿波の場合は、大日寺隣の一宮神社の方が国府に近く、律令時代に遡ればこちらが阿波一ノ宮だったのではないかと個人的には思う、しかし、室町時代に管領・細川氏の保護を受けて拡大した大麻比古神社が江戸時代に一ノ宮とされたので、両者が一ノ宮を名乗ることになったのではないだろうか。
本殿前に進み、二礼二拍手一礼でお参りする。神社には何人かの参拝客がいる。婚礼の下見に来たらしいカップルや、小さい子供連れは七五三だろうか。お参りの後、ご朱印をいただいた。
大麻比古神社から霊山寺まではまっすぐ南に進むだけだが、この参道がかなり長い。道の両脇には石灯籠が続き、林の向こうには大きな旅館の建物も見える。大日寺隣の一宮神社よりも、規模としては大麻比古神社の方がかなり大きい。
そして、ついに霊山寺に到着。時刻は午後3時だった。さすがに他の札所とは違って多くの参拝客でにぎわっている。初めてここにお参りしてから、足掛け5年で四国を一周したことになる。本堂・大師堂で読経して納経所へ。5年の間に納経所の場所が変わったようだ。
「日付印を押しますか?」と聞かれたのだが、「いえ、普通に」と答える。2回目は、すでに書いた墨書の上から、再度ご朱印をいただくだけである。
門前の「かどや椿荘」まで行くと、チェックインは4時からだったので、それまで近くを見て歩く。すぐ近くの民宿は看板こそそのままだが廃業したと聞くし、霊山寺のすぐ近くなのに人通りもない。5年前に遍路用品を揃えたお土産屋さんにも、お客さんはいなかった。ソフトクリームを買って、店先の縁台でゆっくりする。
かどや椿荘はHPを見ると一般社団法人で、経営者が制作した美術品などがあるというから堅苦しいところかと思っていたら、普通の民宿だった。そういう触れ込みだけあって、お料理とかお皿とかは凝っていたが、部屋は普通の和室で、1泊2食7,500円と値段もリーズナブルである。
この日の宿泊客は、私と、これからお遍路歩きを始めるというシニア女性と、外国人シニアご夫婦の4人であった。外国人のお客さんだと和室はきついように思えるが、ご本人達は異国情緒ということで結構平気なのかもしれない。
歩きはこの日までということで、お酒とビールをお願いして、他のお客さんや宿の人達(おかみさんと息子)と話をした。私にしては珍しくいろいろ話したのは、お遍路歩きが完結した安心感もあったのだろう。午後8時には布団に入った。
この日の歩数は43,419歩、GPSによる移動距離は24.0kmと、心配したほど長い距離ではなかった。歩き遍路の八十八番から一番までの経路として、卯辰越はかなり歩きやすい道だったのではないかと思う。
大麻比古神社。阿波一宮ともいわれる。
大麻比古神社から1kmほどある参道を進んで、一番霊山寺に達する。これで四国一周を果たした。
かどや椿荘の夕食。この日の泊まり客はお遍路2人と外人の夫婦。
2019年10月8日の朝になった。前日は8時に寝てしまったので、5時前に目が覚めてしまったのはやむを得ない。民宿なので、なるべく音を立てないように着替える。他のお客さんはまだ寝ているはずである。
外国人ご夫婦の予定は分からないが、シニア女性は今日から歩き始めるという。すでに亡くなったおばあさまの遺品から昭和初めの古い納経帳が出てきて、それを見て歩きたくなったと話していた。この日は別格霊場の大山寺までお参りするということだから三番か四番までだろうか。
私はというと、鳴門西パーキングからハイウェイバスで大阪に向かう予定である。この日のうちに奥ノ院にお参りするには午前中に南海難波に着けばいいから、ハイウェイバスには9時前に乗ればいいことになる。まあ、余裕だろう。
午前6時半に朝食。ご飯にお味噌汁、焼鮭、卵焼き、ウィンナ、サラダ、香の物がきれいに盛り付けられている。これから歩く人もいるから、パンよりご飯にしてあるのだろう。私の場合はバスと電車だから、カーボローディングしなくても大丈夫である。
部屋にいても仕方がないので、7時半過ぎに宿を出発して近くを散策する。このあたりに第一次大戦後のドイツ軍捕虜収容所があって、日本で初めて第9が公演された場所ということで、「第9の里」という道の駅があり、それにちなんだいくつかの場所がある。そのあたりを歩いていたら、携帯に電話がかかってきた。
何と、いま出たばかりの宿からで、「部屋の鍵をお持ちになっていないでしょうか」とのこと。探したら、ポケットの中にあった。部屋の鍵など使わなかったので、チェックインの時以来そのままだったのである。
取りに来てくださるというので、県道沿いに戻って受け渡し。それにしても、ハイウェイバスに乗ってからでなくてよかった。
受け渡しをして、高速の高架下からバスストップに向かう。あまり通る人がいないのか、荒れた道である。クモの巣がびっしりで、まるで遍路道のようであった。通る人はお遍路だろうということだろうか。まあ、地元の人であれば車で行く場所である。
10分ほど歩いてバスストップに着き、来たバスに乗る。「次回から、予約してください」と言われる。その割に、空席の方が多かった。こういうことを言われるのは、このバスは乗合ではなく貸切の扱いなのだろうか。それとも、高速なので定員以上乗せられないから念のためだろうか。こちらは、満員なら次のバスで構わないのだが。
隣の空席にリュックを置いて、目をつぶる。足を動かさなくても目的地に近づけるのは、何日ぶりのことだろう。ここ数日の疲れが残っていて、9時間寝たのにまだ眠い。そして、急に胃が痛くなった。太田漢方胃腸薬を飲んで目をつぶる。ここ2~3日、急にちゃんとした食事をとったせいだろうか。それとも、毎日水を飲みすぎたせいだろうか。
淡路島を過ぎる頃には、雨が降って来た。神戸に入り、いったん高速から出て、再び高速に入る。あまり見慣れない風景である。海沿いを通っているようだがどこだろうと考えて、私が関西にいたのはもう30年前だったことを思い出した。
バスの終点である南海難波まで乗っていたのは、私だけであった。ビルの中を南海難波駅まで下りる。時刻表を見ると、高野山直通の特急は2時間ほど先で、急行が先に着くが橋本で乗り換えとなる。難波でリュックを背負ってうろうろしても仕方がないし、胃が痛くてお昼はとらない方がよさそうだったので、橋本行に乗る。
[Mar 6, 2021]
かどや椿荘の朝食。和食なのですが、おかずは鮭とお新香と、洋食風ワンプレートでした。
高速鳴門西に向かう通路は、へんろ道もびっくりのハードさ。蜘蛛の巣もびっしり。
高野山奥ノ院 [Oct 8, 2019]
1時間と少し乗って橋本に着くと、私同様に高野山まで行く人達が乗り換えでホームに降りたのだが、驚くべきことにすべて外国人旅行客であった。まさかすべて仏教徒でもないだろうし、仏教の聖地はインドだろうからわざわざ高野山というのも首をひねるところである。
首をひねったところで、実際に結構な人数が高野山に向かっているのであった。高野山へは昔一度行ったことがあるが、その時はこんなに多くなかった。もっとも、その時は南海特急を使ったから、特急でなければこうだったのかもしれない。
その状態は、上り電車の待ち合わせで長時間止まった極楽橋までのいくつかの駅も、高野山に登るケーブルカーでも、高野山町内へ向かう乗合バスでも変わらなかった。
奥ノ院への参道で見る国内客はたいていバスの案内旗の後に続くツアー客だったので、国内客はツアー、外国人客は個人で電車・乗合バスという棲み分けになっているようであった。
高野山町内に向かうバスに乗ると、すでに雨は本降りであった。山の上なので、すでに雨雲の中だったのだろう。レインウェアを着て、リュックにはカバーをつける。
このバスは十数年ぶりだが、車窓からの景色はまだ覚えていた。南海電車の駅からしばらく森の中を走り、やがて街はずれのお堂が見えてくる。交差点を曲がると市街の中心部で、ここに金剛峯寺や多くの宿坊がある。ここで乗客の半分以上が下りたが、今回は終点の奥ノ院まで乗る。
終点でバスを降りると、すぐに参道が始まっていた。企業の集合墓と江戸時代の大名墓が混在する不思議な墓地で、「白アリの墓」という妙なものもある。立派な墓石や五輪塔は、御三家とか前田家のような大大名である。それほど大きな家でもないのに、浅野内匠頭の墓が目立つところにあるのは、やはり忠臣蔵の影響だろうか。
昔の記憶では奥ノ院はずっと石段を登ったように覚えているのだが、それほど上でもなかった。奥ノ院に近づくと「撮影禁止」の看板が目立つようになる。お大師様はそこまで堅苦しいことは言わないと思うが、管理する人が言うのだから仕方がない。
奥ノ院には少しだけ入ることができる。壁際には位牌が多く置かれているのと、奥の方に金剛界・胎蔵界の曼荼羅が掲げられ、お大師様の肖像画もある。奥ノ院のさらに奥にはお大師様がいらっしゃる部屋があり、いまでも朝晩のお食事を運んでいるということである。
こういう厳かな場所で、私ごときが読経させていただくのは畏れ多いことだが、八十八の締めくくりなので謹んでお参りさせていただく。納経印はここではなく、いったん外に出て別の建物になる。窓口がいくつかあるのは、さすがお大師様の本家本元である。
5年前に霊山寺前の売店で買った納経帳の最初のページには、奥ノ院のご朱印をいただくようになっている。そのせいか、結願の後は高野山にお参りするものだと思っていたら、これは近年のやり方らしい。もっとも、八十八番から一番に戻って四国一周を完結させるというのも、江戸時代はなかったという。
ともあれ、奥ノ院のページにご朱印をいただく。特に何も言わなかったが、日付も押していただいた。「令和元年拾月八日」、めでたく結願である。
「お姿はどうなさいますか?有料になりますが。」と尋ねられたが、せっかくなのでお願いする。札所でいただくよりもずいぶん大きなお姿である。絵柄は納経帳や納札に描かれているものと同じだが、「弘法大師御影 高野山奥ノ院」と書かれたた半紙で包んである。ありがたくいただいた。
納経帳をリュックにしまっていると、外国人シニアのご夫婦が私のかぶっていたモンベルの遍路笠風フィールド・アンブレロを見てえらく感心し、カメラに撮ったりした後で、「これはすばらしい。どこで売っているのか」と聞かれた。「これは四国遍路の店で買ったもので、ここでは売っていない」と返事したのだが、通じただろうか。
難波から南海線で高野山へ。極楽橋からのケーブルカーは、8割方が外国人旅行客。
奥ノ院前までバスに乗り、参道を歩く。雨だったけれど、ようやく秋らしく涼しい気候になった。
高野山奥ノ院。このあたりから撮影禁止の看板が出てきたので、写真はここまで。
帰りは奥ノ院からの参道と並行して通っている一の橋への道を下って行く。苔むした古い墓石が、本降りの雨にたいへんよく似合っている。その中をゆっくり歩いていく。興味深い墓石や五輪塔もあったのだが、さきほどの「撮影禁止」がどこまでか分からないので遠慮した。
ゆっくり歩いて、一の橋に出た。ここから市街が始まっている。すぐのところにお土産屋さんがあったので入り、奥さんに頼まれていたお線香を見る。さすがに高野山だけあってえらく高いものもあったが、千円前後のものを何箱か買う。それでも、ホームセンターの4~5倍はするだろう。
そうこうしているうちに4時近くなったので、宿に向かう。密厳院という宿坊で、地図で見ると一の橋から近いのだが、実際すぐ近くで、苅萱堂という旧跡のすぐ横であった。
受付で名前を言うと、「今日は離れをお使いいただきます」と案内された。予約の際に「できれば団体客のいない宿坊で」とリクエストしたので、気を使っていただいたようだ。他の客室とは離れていて、居間と寝室の2部屋あり、トイレと洗面も専用に付いている。1泊2食11,000円では申し訳ないくらいの部屋を一人占めである。
時間が早かったので、お風呂も一人占めだった。団体客も入れる大きなお風呂にゆっくり手足を伸ばす。この区切り打ちでは、最初と最後が大浴場だった。
お風呂の後は、精進料理の夕食である。ごま豆腐と、こんにゃくのお刺身、野菜の天ぷら、野菜の煮付けなどなど野菜三昧である。もちろん、麦般若もいただいた。遠征最後を締めくくる、豪勢な夕食であった。昼食を抜いて調整したので、胃腸の調子も悪くなかった。
夕飯が終わって、今回の区切り打ちについていろいろメモする。この日書いたメモに、「昨日までは夕飯を食べると何もする気が起きなかった。今日はこうして、これまであったことを振り返る余裕がある」と書いている。それだけ、前日までのお遍路歩きは体力を消耗したのであった。
翌朝のお勤めでは、夕方には顔を合わせることのなかった団体客のみなさんと一緒だった。シニア男女で三十人くらいいる。前回の善通寺を思い出した。そのグループと一緒に般若心経を唱える。四国お遍路締めのお勤めであった。
前日の雨はすっかり上がり、すがすがしい青空であった。金剛峯寺と壇上伽藍をゆっくり歩いてお参りする。
屋島寺で、「またお遍路に来たいですか」と尋ねられたことを思い出した。現時点では、何とも言えない。ともかく、今回の区切り打ちは天候も体調も厳しかった。今は、ゆっくり休みたい。後のことは、後から考えればいい。
「終わりよければすべてよし」という言葉を思い出した。こうしてのんびりお参りできるのも、足掛け5年間一生懸命歩いてきた賜物なのである。
[行 程]かどや椿荘 8:00 →(2.0km)8:40 高速鳴門西(→南海難波 → 高野山)→高野山奥ノ院
[Mar 20, 2021]
奥ノ院をお参りした後は宿坊で一泊。お世話になったのは、苅萱堂の本院である密厳院。
遠征最後の夜をしめくくる精進料理の夕食。翌朝は大勢の団体客とお勤めをご一緒した。
翌日はすっきりとさわやかな秋晴れ。壇上伽藍をお参りした後、帰途についた。