この図表はカシミール3Dにより作成しています。

印西大師4日目←  八十六番岩不動  七十二番萬福寺  七十九番丸山観音堂
五十番多聞院  番外頼政塚  四十六番結縁寺  二十五番東光院  → 印西大師6日目


雨で2日休んで火曜日に再開 [Apr 5, 2022]

4日目を土曜日に歩いた後、日曜日・月曜日は雨だった。昔の人はこういう時どうしたんだろうと奥さんと話す。「きっともう一晩泊まって、一日お茶飲んでたんだよ。」と奥さん。「全然大丈夫だよ。しゃべってりゃいいんだから。」

おそらく、そうなんだろう。役目のある人達は雨でも歩くだろうけれど、みんながそうするとは思えない。多くの人達は、天気が良ければ巡行に付き合うけれども、早めに打ち止めにして旧知の人達と食べたり飲んだりしたのだろう。

桜のきれいな場所とか、お接待が豪勢な集落にみんなが集まって、そのままお籠り堂で雑魚寝したのかもしれない。半世紀前には、多くの家が専業農家だった。1年のうちで数少ない、のんびりできる時期だったはずである。

そのお籠り堂が、高度成長期以降に地域の集会所や青年館として整備されたが、何かあった場合の避難所として自治体の予算が下りたのかもしれない。私が越してきた当時(20年前)でも、自治会の行事は炊き出しの練習だと市役所の人が言っていた。

2022年4月5日、3日ぶりに晴れた。前回の打ち止め地点である宗像(むなかた)郵便局まで、奥さんに送ってもらう。平賀支所よりかなり近いのですぐに着き、8時少し過ぎから歩くことができた。

岩戸集落はすでに半分くらいお参りしたので、この日は宗像神社から。もともとこの地域は宗像村。現在も郵便局だけでなく小学校名にも使われているだけあって、旧印旛村にたくさんある宗像神社の中でも境内は最も広い。

近年奉納されたと思われる狛犬の奥に灯篭、その奥に鳥居があり、本堂までの参道も長い。県道のすぐ脇にあるが、鎮守の森はきちんと残されている。

番外札所西福寺は、宗像神社から県道を渡ったところにある。やはり境内は広く本堂も立派である。共同墓地や庚申塔もこちらに多かったので、地域の菩提寺はここだったかもしれない。宗旨は臨済宗で、当地では珍しい。

再び県道を渡り、集落の外周をぐるっと回る。大きなグラウンドのある印旛西部公園の上あたりに、八十六番岩不動がある。

名前のとおり、地域で信仰を集めていたご不動様を祀ったお堂で、老朽化が進んだため平成になってから改修されたと説明板がある。白木造りで真新しいお堂である。

不動堂のはす向かいに、八十六番札所がある。こちらは不動堂より古いものである。一段下がったところに「西方公民館」の表札がかかった集会所がある。

そのまま坂を下って西部公園へ。ここは、たまにお散歩で来るところである。前日までの雨でグラウンドには大きな水たまりができていた。この日は晴れ予報だが朝方のためかまだ雲が厚い。



5日目は曇りで午後から晴れの予報。この日は岩戸集落からのスタート。大きな宗像神社があり、小学校・郵便局も宗像小学校、宗像郵便局である。




宗像神社から道路の反対側に、臨済宗西福寺がある。明治ルートにも載っている番外札所で、雰囲気がいい。



岩不動は名前のとおり不動明王をお祀りしている。平成になってから、地元有志のご尽力で改築されて新しい。右が札所の大師堂。

吉田集落の札所

さて、初日に天王堂を回った時に、明治ルートでは逆側からとんでもなく遠回りしてここにお参りしたと書いたが、実はそれは、岩不動から丸山観音堂(大師堂)、天王堂という経路なのである。

明治ルートの距離表示は、岩不動から丸山観音堂が二十二丁、丸山観音堂から天王堂まで同じく二十二丁とあるけれども、これはどう考えてもおかしい。

というのは、丸山観音堂(旧草深小近く)・天王堂間はGoogleで調べても2.1kmで二十二丁なのだが、岩不動(印旛西部公園)から丸山観音堂までは5.2km、直線距離でも4km近くあり、二十二丁の倍はあるのである。

明治時代には泉カントリーも総武カントリーもないので直線に近い距離がとれたのだとしても、2kmと4kmでは違いすぎる。どこかの段階で、二十(廿)と四十(縦棒4本)を写し間違えたのかもしれない。それに、岩戸から草深をお参りして吉田という順路は、逆戻りもいいところである。

巡行は近道をとればいいものでもないが、それにしても非効率だし、今日の巡行でも明治ルートは採っていない。歩き遍路であった平成はじめの経路も、造谷から丸山観音堂を経て吉田集落で、天王堂は結縁寺の後である。

それも勘案して、今回のコースは岩戸、吉田、草深の順路とし、天王堂は初日にお参りすることにした。岩不動まで岩戸集落のお参りを終え、吉田集落まで歩く。西部公園から水田のある低地まで坂を下り、次の坂を登ると吉田集落である。

県道沿いを歩いただけだと分からないが、ずいぶん奥深くまで開けた集落である。印西市の次期清掃工場はこの地区にできる予定である。泉カントリーの近く、いまは畑とか林、雑種地になっているあたりである。

七十二番萬福寺は、その奥まった場所に突如として登場する鉄筋コンクリートの立派な建物である。本堂の他に従来様式の古いお堂や、石造りの灯篭や十三重塔がある。札所である大師堂は、小堂ではあるが立派な造りである。宗旨は真言宗。

ご住職のお住まいも棟続きのようで、何台かの車が駐まっていた。植栽も手が込んでいて鮮やかである。門のところには庚申塔が整然と並べられ、いろいろなところに気を使っていることが分かる。

門の横にも、庭の奥にもしだれ桜が満開で、一番いい季節に来たのかもしれない。数珠と経本を手に光明真言を唱える。「南無大師遍照金剛」も、真言宗なので遠慮なく口にすることができる。

一方、集落でもう一つのナンバー札所である慈眼寺は、かつては寺があったのだろうが、今は三十四番札所と墓地、いくつかの古い石碑を残すのみである。

伝えられる宗旨は曹洞宗。札所の前に何十人か収容できる集会所風の建物があり、かつての本堂という。明治ルートに載った時点では三十四番の他に番外のお堂もあったようだ。

吉田集落には、この他に2つの番外札所がある。萬福寺の近くにある共同墓地に一つ、集落入口にある宗像神社に一つお堂があるので、それぞれかしの台、東堂の番外札所かと思われる。

宗像神社はこの地域の鎮守だけあって境内は広い。そして、客神らしいお堂がいくつもある。その中の一つが、おそらく番外札所と思われる。



七十二番萬福寺は、吉田集落の奥まった場所にあるにもかかわらず、鉄筋コンクリートの立派な本堂でびっくりする。門前には江戸時代からの庚申塔が並ぶ。



萬福寺の大師堂(札所)。こちらのお寺は、庭の植栽がたいへんよく手入れされている。



三十四番慈眼寺は萬福寺のすぐ近くだが、すでに寺の施設はなく札所だけが寂しく建つ。古いお籠り堂も、電気が通じていないようだった。

総武カントリー外周を回って草深(そうふけ)へ

吉田集落から草深(そうふけ)まで、普通に歩くと1時間以上かかる。もっとも短縮できるのは総武カントリーのコース内を通っている公道を横切る経路だが、最近通っていない。通行禁止になっているかもしれない。

水田沿いの低地を黙々と歩く。土地の人以外が通ることはほとんどない道である。ここは、江戸時代に吉田集落・草深集落の領地争いがあり、総武カントリーの高台は草深が築いた土塁の跡らしい。

聞いた話では、総武カントリーは開設当初それほど資金に余裕があった訳ではなく、かなりの土地を借地で手当てした。昭和20~30年代なので、それこそ二束三文の値段だったという。借地料は相場で値上がりしたから、売るよりも貸した方がよかったという話になっているらしい。

30分ほど歩いて総武カントリーのコースに出る。トーナメントの時にしか使わないバックティーとフェアウェイの間だったように覚えているのだが、ティーグラウンドにはパーティーが待機していた。人が通るとブザーが鳴って通り抜けるのを待つことになっているのだ。お待たせしても申し訳ないので、小走りにコースを横切る。

さて、次の札所である丸山観音堂まで、吉田集落から直線距離で4km、実際に歩くのは6~7kmになる。現在の大師巡行では、明治ルートには載っていない専徳寺と生大師にお参りしているので、さらに遠回りになる。

専徳寺は総武カントリーを抜けサバゲーと障害者福祉施設いんば学舎の先にある。Googleには載っているのだが、電子国土に「卍」マークは付いていない。

共同墓地と古い石碑、灯篭や十三重塔が並ぶ中に番外札所の小堂があり、結構新しい平屋建ての建物がある。この建物がおそらく専徳寺なのだろう。案内板がなければ入口にあるお宅の墓地と思うくらいである。由緒はよく分からない。

もう一つの生大師は、専徳寺から水田に下ってまた登って、千葉ニュータウン霊園のある大生寺の施設である。宗派は真言宗。大きな大師堂があり、「南無大師遍照金剛」の幟が林立している。

「なまだいし」って何だろう。曰くありげだなあと思っていたのだけれど、WEB「かまがや散歩」によると、明治時代に近在で知られた生大師弘海という行者さんが開いた寺らしい。だから、古い地図には載っていない。

専徳寺・生大師をお参りして、いよいよ七十九番丸山観音堂である。吉田集落を出てから、結局2時間かかった。札所の横にある大師堂には、地元有志が奉納した八十八体の大師像が並ぶ。

この草深という地域は、江戸時代に開かれた新田で、その前は幕府の牧場・印西牧であった。それで、ニュータウンに「印西牧の原」という駅がある。観音堂は札所・大師堂と背中合わせの位置にあり、境内には墓地や記念碑が並ぶ。

ここでお参りしていて、おもしろいものを見つけた。大師堂の格子のところにプリントのようなものが置いてあり、石が乗っている。何だろうと思って読んでみると、令和4年の巡礼についてのお知らせであった。

「令和4年の結願寺は広福寺です。」と書いてある。予定通り開催に至ったのかどうか確認する方法はないけれど、いかにもひと気のなかった広福寺の様子を思い出すと、巡礼に付き添ってお参りして回っているのかもしれないと思った。



吉田集落を抜けて草深までは、泉カントリー、総武カントリーの外周を回る昔ながらの水田風景。



番外生大師は、千葉ニュータウン霊園にある。明治ルートにはないが、現在の巡行ではお参りしている。大師堂は近年建てられた立派なものだ。真言宗大生寺の施設。



七十九番丸山観音堂は、明治以降に天王堂から札所が遷った。右のお堂の中に、江戸時代末に地元有志が寄贈した大師像八十八体が鎮座する。

松崎工業団地から松崎集落を歩く

草深(そうふけ)から結縁寺・船尾までは結構近く、お散歩コースでもある。明治コースでは松崎を経由してからお参りすることになっているので、いったん南に水田地帯に下りて回り込むことになる。

このあたりは松崎工業団地という工場・倉庫地帯である。千葉ニュータウン計画とは別で、ニュータウンの流通団地や倉庫と比べると小規模なものが多い。ちばコープの冷蔵倉庫の他、運送会社の車庫とか創価会館がある。amazon関係の倉庫もあるらしい。

草深を回ってちょうどお昼になった。松崎工業団地と水田地域の境い目に、松崎台公園がある。トイレもベンチもあるし、自販機も近くにある。ここでお昼にした。

ベンチに座って少しゆっくりする。この日は、腰を下ろすことなくここまで来た。カロリーメイトとホットレモン。カロリーメイトは初日からずっと持って歩いていたので、そろそろ食べようと思ったのだ、

四国を歩いていると休憩所は多くあるが、歩き遍路を想定していない印西大師はお寺にさえベンチはない。そして、住宅地にはいたるところにある公園が、市街化調整区域に入るとほとんどないのだ。

松崎台公園から次の札所である多聞院までの間に、コミュニティセンター前戸の里という集会所がある。その建物の前に小堂があって、ご詠歌の額も掲げられている。「西方の…」とあるのだが、墨が消えて読めない。

あるいは、ここが番外札所の迎堂だったかもしれない。多聞院と500~600m離れているので、明治ルートの六丁という数字とも合う。

コミュニティセンターや多聞院のある一画は昔ながらの農村地帯で、すぐ横に工業団地があるとは思えない。道路も工業地帯の出入りだけが二車線で、それ以外は車がすれ違えないくらいの細い道である。真昼間にイノシシが走っていることもある。

多聞院はその松崎集落の奥まった場所にある。境内はかなり広い。五十番・六十七番を兼ねており、小堂にも右の柱に五十番、左の柱に六十七番のプレートが貼ってあるが、もともとは五十番が毘沙門堂、六十七番が本堂であったろう。本堂はいま集会所になっている。

祀られている毘沙門天立像は千葉県指定の文化財で、鎌倉時代の作。作者は賢光仏師で、千葉県下に多くの作品を残している。多聞天と毘沙門天は同じ仏様だから、毘沙門天のお堂が先にあって後から寺としての多聞院ができたのかもしれない。

毘沙門堂の左手に札所がある。2体のお大師様がおられるであろう横長の小堂だが、幕が下りていて中は見えない。ご詠歌の額は一枚の板に五十番・六十七番両方が書かれている。珍しく、墨は濃く残っている。



工業団地の中にある松崎台公園でお昼にする。印西大師は歩き遍路を想定していないので、休む場所が限られるのが難点である。



松崎集落の中にあるコミュニティセンター前戸の里。由緒ありそうな小堂が置かれており、番外札所の迎堂だったかもしれない。



五十番・六十七番を兼ねる多聞院毘沙門堂。左手に札所がある。四天王のお一方としては多聞天、単体で祀られる時は毘沙門天とお呼びするようだ。

番外札所・明源寺と頼政塚

さて、今回の巡行では草深から松崎に向かったが、明治ルートでは草深からいったん吉田に戻り、それから松崎というたいへん遠回りの経路をとっている。

明治ルートでは、松崎集落にはナンバー札所として多聞院・毘沙門堂、番外札所として明源寺、迎堂の2ヶ所があげられている。

結縁寺に近いのが迎堂なので、前回紹介した前戸の里コミュニティセンターの小堂がおそらくそれだろう。明源寺は反対の吉田集落寄りだが、古い地図にはそのあたりに「卍」マークのある場所がある。

印旛沼湖畔から高台に登って行く途中にあり、いまは「むらぐるみ農業指定」の大きな石碑と、むらぐるみ集会所という建物が建っている。庚申塔やさまざまの石碑、石像が数多く残っており、昔は寺であったに違いない。

大師堂も他の札所の小堂よりワンサイズ大きく、いまでもきちんと手入れされている。松崎にはいまや工業団地があり、トラックが行き交う騒々しい場所になっているが、5分ほど入るだけでこうして昔ながらの農村になるのである。

松崎集落から水田地帯に下り、また坂を登る。すぐ近くまで千葉ニュータウンの開発が進んでいるとは思えないのどかな風景である。

結縁寺というのは印西大師四十六番の札所だが、寺の草創は奈良時代の行基ともいわれ、源平争乱よりずっと古い。集落名も結縁寺であり、付近にも結縁寺の施設の名前が小字名として残っている。

結縁寺集落に入ってすぐ、番外札所頼政塚がある。名前のとおり、源三位頼政を祀った塚である。大木の生えた塚の横にお堂があり、その前に番外札所が置かれている。

源頼政は以仁王の令旨に応え反平家に立ち上がったが、すぐに鎮圧されて宇治で戦死した。ところが、首を持って東国に落ちのびた家来がいたという伝説があり、その馬を埋めた名馬塚も近くにある。

源頼政を祀った塚や社はここだけでなく、茨城県南部から千葉県、旧下総国にいくつかあるという。頼政自身は鵺(ぬえ)退治で有名だが基本的に京周辺から出たことはなく、なぜここに頼政に関する伝承が多く残されているのか不思議である。

その後調べたところによると、これは、室町中期から戦国時代にかけて布佐・布川あたりに拠点を有した豊嶋氏の影響によるもののようだ。豊嶋氏は「豊島区」の語源となった桓武平氏の一族が有名だが、この豊嶋氏は別系統で、源頼政の子孫を名乗っていた。

千葉氏の配下ともいわれるが、後北条氏に味方して秀吉の小田原攻め後は大名として生き残ることはできなかった。まさに旧下総国、茨城県南部から北総地域が地盤で、子孫は多々羅田に土着したと伝えられる。

結縁寺とは目と鼻の距離で、多々羅田太子堂の聖徳太子像も、豊嶋氏が旧本拠地から遷したものという。(2023.6.21補記)

清和という地名が房総半島にあるがちょっと遠いし、このあたりはどちらかというと桓武平氏の地盤である。平将門の拠点も近いし、頼朝挙兵に参加した上総介平広常もいた。千葉氏も桓武平氏である。

2日目にお参りした馬場の堂近くに巴塚があるので、この地域に平家物語の熱烈なファンである有力者がいたのかもしれない。



松崎集落には明源寺という番外札所があった。大正時代の地図に「卍」マークのある場所がいま集会所になっていて、そこには古い石碑がたくさん残っている。



頼政塚・結縁寺に向かう道。ニュータウン区域から数百mしか離れていないとは思えないのどかな風景。



番外札所頼政塚。札所の小堂は参道入口にある。源平戦乱の際に京で戦死した源頼政の首がここまで運ばれたという。印西には巴塚もあるので、平家物語の熱烈なファンがいたのかもしれない。

結縁寺と多々羅田太子堂

四十六番結縁寺は大きなお寺である。奈良時代行基の開創と伝えられる。行基は鯖大師の伝説で大師信仰とは縁が深い。宗旨は開設時は法相宗であったが、平安時代以降真言宗となった。

結縁(けちえん)の寺号は、真言僧が地域住民と、春秋の年二回大規模な結縁灌頂を行ったことによる。かつては6つの僧坊を有する大寺院であったが、戦国時代に焼失し、現在は本堂と付属建物の他に頼政塚が残るくらいであるが、仏像や美術品などが多く遺されている。

閑静な雰囲気のお寺で、山門の正面奥に本堂、右手に四十六番札所の大師堂がある。真言宗のお寺なので立派な大師堂だが、それでも中に入ってお勤めできるほど大きくはない。

山門の前に大きな池がある。かつてはここに大量の亀がいたのだが、いまはいなくなっている。この池の中の島に小さなお堂が置かれている。

これはあるいは、結縁寺から半丁(50m)の距離にあるという番外札所辺田の堂かもしれない。近くで見ることができないので、残念ながら詳しいことは分からない。

結縁寺から次の多々羅田太子堂まで、坂を登ってバス通りを渡る。交通量の多い道路を横断すると、一転して静かな農村風景となる。ニュータウンの太い道路に囲まれた一画に、これほど広い農地と多くの農家があるのに驚く。

その多々羅田集落の青年館が、かつての太子堂である。明治ルートには「たこ堂」と書いてあるが、凧とも蛸とも関係はない。こちらに、結縁寺の僧坊の一つがあり、聖徳太子像をご本尊としていたことからその名前となった。

聖徳太子を「タコ」とお呼びするのはどうかという気もするが、「タコ」にはいまのように悪い意味はなかったのかもしれないし、明治初めの神仏分離の影響かもしれない。太子像は厨子に納められ、三十三年に一度ご開帳される。

六十番札所は、太子像ご開帳記念の大きな石碑と並んで建つ。ご詠歌は横峯寺。「たてよこに…」の歌が半紙に書かれて額に納められている。達筆ではないので、かえって味がある。



四十六番結縁寺は、寺の名前であり集落名(小字名)にもなっている。山門前に池があり、その小島にも小堂がある。番外札所かもしれない。



結縁寺の境内は広々としている。大師堂も大きい。右の墓石には「南無大師遍照金剛」と刻まれているが、新しいので小廻り大師ではないようだ。



六十番太子堂、通称たこ堂。隣に建つ多々羅田青年館にある厨子に納められている聖徳太子像による。三十三年に一度開扉され、その記念碑が札所の横にある。

私が永遠の眠りにつく予定の二十五番東光院

多々羅田集落からバス通りに戻り、船尾に向かって南下する。交差点の前に、五十八番船尾観音堂がある。道路の横に白山神社のお神輿のような祠が目印で、その隣の共同墓地の中にある。

すぐ横に平屋建ての船尾公民館がある。表札は古いが、建物のサッシや雨戸はそれほど古くない。近年改修されたのかもしれない。船尾集落内には鉄筋の大きなコミュニティセンターがあるのだが、ニュータウン政策なのかなかなか手厚い。

明治ルートには観音堂と書かれているのだが、観音様を祀っていたお堂は見当たらない。公民館の中にあるのか、あるいはもともと東光院の施設だったようだから、東光院に遷されたのかもしれない。

東光院まで歩いて5分ほど。交差点を右に折れて、少し先の細い道を入るのだが、境内は意外と広く、いくつかのお堂がある。境内の奥に3つの小堂があり、その真ん中が二十五番札所である。

札所の小堂の前に回向柱が立てられているのは、白井小廻り大師講のものと思われる。というのは、ここから白井にかけての札所には、同様の回向柱がいくつもあるからである。

この日はここまでにして、奥さんに車で迎えに来てもらう。実はこちらにはよく来ていて、道に不案内な奥さんでも迷わなくて済む場所なのである。

というのは、私事になるがこちら東光院の隣にある霊園に墓地を購入していて、遠くない将来こちらに永住することになるからである。ご住職にも何度か法要をお願いしていて、行事のお便りもいただいている。

印西大師の札所があることは知らなかったが、偶然とはいえありがたいことである。私よりお若いご住職なので、きっと私の面倒も見ていただけるだろう。宗旨は天台宗だが、こうしてお参りしていればお大師様の助けもあるかもしれない。

この日の移動距離は18.8kmと前半戦の3分の2くらいなので、スケジュールが比較的楽だった。歩数は32,687歩だった。

この日の経過
岩戸バス停 8:05 → (1.5km) 8:30 八十六番岩不動 8:40 → (2.2km) 9:20 七十二番万福寺・三十四番慈眼寺 9:35 → (3.4km) 10:30 番外専徳寺 10:35 → (1.6km) 11:00 番外生大師 11:05 → (1.5km) 11:30 七十九番丸山観音堂 11:35 → (1.9km) 12:10 松崎台公園(昼食休憩) 12:25 → (1.4km) 12:50 多聞院 13:05 → (1.6km) 13:35 四十六番結縁寺 13:45 →(1.6km) 14:05 六十番太子堂 14:15 → (1.2km) 14:30 三十六番観音堂 14:35 → (0.8km) 14:50 二十五東光院   [GPS測定距離 18.8km]

参考資料
印西歴史愛好会編「印西大師八十八か所 札所めぐりで郷土の歴史を楽しむ」
北総ふるさと文庫「印西大師八十八か所(印西・白井編)」「同(印旛・本埜編)」
ままちゃり倶楽部印西支部「印西大師」(WEB)
五十嵐行男「印西風土記」
五十嵐行男「印西地方史よもやま話」
草深小学校広報委員会「草深三百年史」

[Dec 12, 2022]



五十八番船尾観音堂。白山神社隣の共同墓地の中にある。明治ルートでは、東光院と同じ場所にあったようだ。



二十五番東光院。3つある小堂の中央が札所。札所の前には、書いてある字は読めないが回向柱が立つ。



東光院は入口からは手狭なように見えるが、境内に大きなお堂が2つある。私事だが、遠くない将来この近くに永住する予定。



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