老後準備編 後期高齢者まであと10年を切り、いまから準備しておこうと思っています。


巨大なミミズ   自分で生活にリズムをつける   もの忘れは気にしない
無為をなし無事を事とし   ストレスこそ心身の健康を蝕む   認知症予防の目的と手段

人間は(あるいは生物は)巨大なミミズにすぎない

この連載の最初に、老後に最も重要なのは「頭」「足腰」「胃腸」の健康ではないかと書いた。

「頭」と「足腰」については多くの方にご賛同いただけるのではないかと思うが、「胃腸」が優先順位の上というのは見慣れないかもしれない。むしろ、目や耳などの感覚器官を重視される方の方が多いような気がする。

にもかかわらず胃腸を上にもってきたのは、ある本に、人間は脳よりも先に腸ができたのだから、大切なのは脳よりも腸と書いてあったからである。

人間だけでなくほとんどの生物がそうであり、その意味では人間は(生物は)巨大なミミズにすぎないのかもしれない。

最新の知見によると、セロトニンやアドレナリンなど、脳を刺激して行動を起こさせる物質の多くを発生させているのは腸であるらしい。だから、胃腸の健康が保たれないと気分が沈み、活力が失われていくという。

そして、脳や足腰は基本的に神経と骨格、筋肉の働きであるが、胃腸はそうではない。臓器としての胃や腸、肝臓などの消化器官を動かすのは脳や筋肉の働きであるが、それ以外の働きもなければ消化は行われない。腸内細菌である。

腸内細菌は人間の体の中にいるものであるが、人間自体に属さない。細菌にとっては、人間の体内であっても大自然の森林の中にいるのであっても大きな違いはない。住みやすい場所に住み、自分達のなすべきことをしているだけである。

だから、脳や足腰が使わなければ衰えるのと若干意味が違って、居づらくなった腸内細菌が少なくなっていくことにより、消化能力が落ちていくのである。

脳や足腰はつきつめると自分自身であるが、腸内細菌はそうではない。自分自身でないものの立場になって考えるのは簡単ではないし、そもそも人間と同じように感じたり動いたりするとは限らない。

だから、どうやっても試行錯誤以上にはならないが、それでも数十年体内にいたことは確かなので、ある程度の見当はつけられる。

なぜか分からないが気が進まない、理屈では分かるが体が動かないといった経験は、もしかすると腸内細菌など自分自身ではないもの達が考えているのかもしれない。

[Feb 27, 2023]

人間はそもそも腸だと書いてある本がある。人間に限らず、生物は巨大なミミズに過ぎないのかもしれない。
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自分で生活にリズムをつける

年末からレンタルサーバの移行作業を1日数時間やって、そろそろ3ヶ月になる。作業がなければ読みたい本はあるのだが、借りっぱなしになっている。

ずっとパソコン前や家の中にいるのは健康的でないと思うので、週に何度かはランニングやトレーニングのため外に出る。昨年来ジムワークを復活して、水曜日はジムの日と決めている。

こうやって、毎日スケジュールに組み込んでいくと、現役でもリタイア後でもたいして生活リズムは変わらない。そして、精神的にはストレスがほとんどない。やりたくないことをしなくていいのはこんなに楽なのかと思う。

しばらく前に、男のやすらぎは何かという記事を書いた。現時点の暫定的な回答は「規則正しい生活と祈り」としたのだけれど、いまのところその考えは変わらない。

仕事をしていれば、誰かに指示されて解決すべき課題が示され、それに対応することで給料をもらえる。対応するには時間もかかるし他人との折衝が不可欠である。リタイア後にすべきことは自分で考えるので、やりたくないことは最初から避けて通る。

最大の違いは給料に結びつかないということだが、「余計なカネを使わなくて済む」という消極的な意味で財政的にはプラスである。余計なストレスをかかえるから、それを解決するためにカネが必要になるのだ。

おそらく、脳とか体というものは、カネ勘定とはかかわりなく気分よく動かすことで安らぐのである。一銭にもならないサーバ移転作業だって、能率的なやり方をみつければうれしいし、予定した作業が片付けば達成感がある。

ランニングにしろジムワークにしろ、若い頃のようにタイムをもっとよくとか重いウェイトを挙げられるようにというのは難しいけれど、息が切れずに走れるようになるとか、体のどの部分が楽になったとか、気づくことはたくさんある。

毎日のスケジュールにしても、何曜日にはどこの掃除をしてとか予定を立ててやっているので、あっという間に週末になる。週末になればグリーンチャンネルの競馬中継である。そしていつしか日曜日のメインレースが終わってしまうのだ。

リタイア前はやることがなくなるという心配があったし、実際そう書いてある本も多いのだけれど、自分の生活に自分でリズムをつけるようにすればそうした心配はない。昼間から酒を飲むほどの暇もない。(カネもないが)

自分で自分をスケジューリングする生き方はサラリーマン時代には不向きだったかもしれないが、リタイアすれば心のやすらぎにつながるように思う。

[Mar 14, 2023]

以前、禅寺の生活がやすらぎに近いと書いた。「葷酒山門に入らず」ほど品行方正ではないが、いまもその考えは変わらないしそういう生活を心がけている。
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もの忘れは気にしない

リタイアしてもうすぐ7年、すでに年金受給者でとっくにアーリーリタイアではなくなっているけれど、このところ気になっているのがもの忘れが多くなっていることである。

普段いる自分の部屋が2階、リビングダイニングが1階である。ふと気づいて2階から1階に何かを取りに行くのだけれど、階段を下りている間に何を取りに来ていたのか忘れてしまう。

買い物に行く時も、行く前には何を買うのかちゃんと確認しているのだけれど、スーパーの売り場を回っている間に何か1つ忘れている。ついでに出すはずだった郵便物をそのまま持って帰るなどしょっちゅうである。

何しろ66歳だから、だんだんボケが入ってきたのかもしれない。二度手間だしやるべきことをやらないで放っておくのはストレスなので、ちゃんとメモを取るようにしたこともある。

ただ、そんなことをいちいちするのは面倒だし、それ自体ストレスになる。だから最近は、忘れても気にしないように努めることにした。

階段を下りる間に忘れるといっても、お風呂の予約を忘れるとか綿棒を取りに行ったのを忘れる程度のことで、たいしたことはない。もう一度下りれば済むことである。買い物を忘れたところで、次に行った時に買えばいい。くよくよ気にして、血圧を上げる方がよっぽどよくない。

サラリーマンをしていれば、同じ間違いを何度もしていると周りに迷惑がかかるし、自分でも気が滅入る。けれどもリタイアしてしまえば、自分が気にしなければ問題がなかったのと同じことである。

この年齢になると、生きていく上で大切なのは地位でも名誉でもおカネでもない。頭と体の健康である。多少のもの忘れはなかったことにしてしまう方が、健康にはいい。少なくとも、日常生活ができる程度にとどまれば誰にも迷惑はかけない。

なぜそう考えるようになったのかというと、ちょっとしたきっかけがあったのだけれど、長くなったので続きは明日。

歳のせいか、物忘れが多くなってきた。ボケの前兆かと心配になるが、気にしないのが一番いいらしい。


もの忘れは気にしないようにしようと思ったきっかけは、YouTubeにたくさん載っている高齢者認知機能試験である。

幸い、YouTubeの問題はヒントなしで満点取れたのだけれど、やってみて思ったのは、この程度の問題で運転に支障がないかどうかのスクリーニングができるのだろうかということである。

もちろん、警察庁だっていわゆる「学識経験者」のご意見をうかがった上で作っている問題なんだろうけれど、これは見当識と短期記憶の機能を調べるだけで、一般生活上の支障について調べるものである。運転に特化した内容ではない。

だから、いま走っているのが高速か一般道だか分からないとか、少し前に見た交通標識を次の瞬間忘れているとか、そういうことをスクリーニングできるとしても、高齢者特有の事故を想定しているものではない。

ライオンだのベッドだの耳だのを覚えられれば、ブレーキとアクセルを間違えないのか、歩行者と障害物の区別がちゃんとつくのかというと、首をひねらざるを得ない。

そして、この試験で「認知症のおそれがない」とされる基準は、現行では36点である。検査日時が正しく答えられれば、短期記憶は16問の4分の1でクリアである。そして、検査日時が分からなければ、そもそも検査を受けに来られない。

この試験で36点取れないとすれば、日常生活でかなり困ったことになっているだろう。確かに、朝ご飯を食べたかどうか覚えていない高齢者に運転させない方がいいのだろうが、長期記憶と短期記憶はメカニズムが違うので、短期記憶ができないと必ず運転に支障があるとは限らない。

もちろん、この試験で、交通標識の意味がどうしても思い出せないとか(そういう人はいそうだ)、目的地に向かうのに直進か右折か左折か分からない(もっとたくさんいそうだ)という人をスクリーニングできるとしても、そういう人は高齢者に限らない。

だから、個人的に思うのは、この試験は高齢者に高いハードルを示すことによって運転免許返納を促すために作られたもので、高齢者自身が運転ができないほどボケていないことを確認するものではないということである。

そして、この試験で36点取れれば運転免許の更新が可能であると警察(すなわち国)が認めているということは、少々のもの忘れは全く気にすることはないという結論に達する。

買い物の話に戻ると、4つ買い物があって1つ忘れるくらいは問題にならず、4つのうち1つしか思い出せなくても免許の更新ができる。だったら、そんなことを気にするだけストレスになる。気にしないに越したことはない。

[Apr 25, 2023]

きっかけとなったのはYouTubeの認知機能検査問題。このテストで認知症のおそれがあるかどうか判断するというのも恐れ入るが、36点は短期記憶16問の4分の1でクリアできる。

無為をなし無事を事とし

「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう」老子の言葉である。諸事全般、すべてに通じる大原則として述べられたことなのだが、特に老後を過ごす心得として重要だと思っている。

ちなみに、これに続く一節「怨みに報いるに徳を以てす」「天下の大事は必ず細より作(おこ)る」は有名で、いろいろな場面でよく使われる(老子第六十三章)。とはいえ、大事なことは最初に述べるのが原則で、この一節が最も重要だと老子は考えたのだろう。

「無事を事とす」、トラブルやアクシデントを起こさないことが最も重要な仕事だというのは分かるが、まだまだ修行が足りないので、「無為をなす」「無味を味わう」境地は難しい。

世の中の人達の動き方をみていると、時間があれば何かをしなければならないと思っているようである。だから、暇ができると旅行だ観光だ外食だと、全くじっとしていない。

多分こういうのがいけないと老子は言っていると思うが、かといって何もしないことに耐えられるとは思えない。どういうことなのだろうといろいろ考えて、ふと思いついた。何もするなというのではなく、いつもと同じことをせよということではないだろうか。

ルーティーンで決まったことをしていると、血圧も上がらないし気分も落ち着く。そして、「決まったこと」の多くは必要なことで、決まっていてもいなくてもしなければならない。だとしたら、進んでやった方がストレスが少ない。

個人的なことだけれど、現役時代は1日1月1年が長くて気が滅入ったが、リタイアしてからは毎日が速く過ぎる。もうすぐ丸7年になるが、そんなに仕事をしていなかったっけと思う。この間正月だったのに、もうすぐ6月である。

かといって、海外に出かけたり国内旅行にいろいろ出かけたりしている訳でもない。時節柄もあるけれど、今年は泊りがけで出かけていない。毎日同じようなことをして、同じように過ぎて行く。

「無為をなし」がそういう意味でいいとすると、「無味を味わう」も別の解釈が成り立つかもしれない。別に味付けをするなということではなく、いつもと同じ味でいいじゃないかということである。

この歳になると、慣れない味・経験したことのない味を経験したところで、感激するより前に違和感が来る。だから、酒にしても料理にしても、結局同じ味・同じ銘柄を繰り返すことになる。

同様に、いまから新しい世界を開拓しようとしても、ストレスばかり多くてゆったり楽しむことができないかもしれない。だから、新しい土地・新しい経験よりも、これまでの延長線上とか周辺で、新境地を開く方がいいのかもしれない。

もっと歳を取れば、いよいよ老子のいうように「何もしない・味つけしない」境地に至るのかもしれないが、66歳のいまのところはそんな風に考えている。

[May 22, 2023]

「無為をなす」にもっとも近そうなのが禅である。仏教に禅が取り入れられたのは中国なので、おそらく老子の影響を受けているだろう。
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ストレスこそ心身の健康を蝕む

最近改めて感じているのは、ストレスこそ心身の健康を蝕む最大の要因で、ストレスを少なくする以上に健康にいいことはないということである。

そんなこと当り前だと思われるだろうが、現役でサラリーマンをしている頃には、おカネとか組織内での地位なんてことにとらわれていた。だから、人生の少なからぬ時間を費やしてきた組織に後ろ髪を引かれるのである。

ところがアーリーリタイアしてみると、努力してきたことがムダになるとか、休暇もろくろく取らせてもらえなかったなどと思い出すのは最初の頃だけで、5年も過ぎてしまえばどうでもいいことである。

それよりも、毎朝起きて気づまりなことがない。心配なこともあまりないし、ストレスが最小限で済むことがこれほど晴れ晴れするのは、予想はしていたけれどそれ以上に爽快にである。

もうすぐリタイアして丸7年になるけれど、そんなに長く時間が経ったとは思えない。心身の状態は7年前よりずっとよく、糖尿病の薬もほとんどなくなった(糖質制限で体重も落としたが)。

平均寿命(余命)からすると、あと20年するとお迎えが来ることになっているけれど、それくらいで健康状態が急に悪化することはないだろうと思えるくらいである。もちろん、山登りと同じでそううまくいかないだろうが。

もし、いま感じているように心身の状態が改善しているとすれば、その要因はストレスがほとんどなくなったことである。組織の中で働いていると、ストレスだらけでストレスが「だま」になってやってくる。リタイアしておカネがない苦労なんて、苦労のうちに入らない。

世の中の本を読むと、ストレスとうまく付き合っていくとか、ある程度のストレスが生きる力を向上させるなんてことが書いてあるが、あれはそう書くと喜ぶ人がいるから書いているだけと思う(それで何か商売したい人達)。

基本的に、自分でどうにもできないことをストレスに感じたところで、解決のしようがない。組織で働いていると自分以外は思うように動いてくれないし、常識も通用しない。その結果が自分に降りかかってきても、それも給料のうちと言われるだけである。

そういうストレスはじわじわと、場合によっては猛烈に心身の健康を蝕む。加えて、世の中には他人を陥れても自分の分け前を増やしたい人がいる。そういう人にとって、他人のストレスとなるのは望むところである。

そういう組織やそういう社会が長続きするかどうか分からないが、少なくとも自分にとって、そういう人達から遠ざかることは必須であった。ストレスが心身に悪影響を与えるのは医学的にも証明されつつあるが、考えなくても分かることである。

ともあれ、これから老化がますます進む時期に、ストレスから遠ざかることができたのはありがたいことである。リタイア後の平均寿命(余命)からすると約4分の1を平和に送ることができたのは、すばらしく幸運なことであったと思う。

では、そもそもストレスとは何なのか。

ストレスとうまく付き合っていくとか、ある程度のストレスが生きる力を向上させるなんてことが書いてある本があるが、ストレスこそ心身の健康を損なう、蝕むものだと改めて感じる。


そもそもストレスとは一体何なのか。つきつめると、生体(脳や神経、身体)が送ってくる危険信号である。

ストレスとは実際のところ、体のどこかで発生しているさまざまの物質、アドレナリンとか、ドーパミンとか、もしかしたら未知のホルモンもあるかもしれないが、そうした物質が出ていることを感じる脳や体の働きである。

だから、多くの場合は言語化されないし、自分以外が同じように感じることも稀である。考えてみれば当り前で、言語ができる前から、「自分」なんてものが認識できる前からストレスはあったのだ。

ストレスはもともと、捕食者から逃れるための働きとして発生した。自分を食べるかもしれないものが見えたら、一目散に逃げる。そういう働きがある生物は生き残り、そうでないものは生き残れなかった。

次に生じたであろうストレスは、腹が減ったというストレスである。空腹が高じれば生物は餓死してしまう。だからすみやかに栄養を補給しなければならない。

しかし、これは捕食者と比べると切実さが違う。栄養を補給するまでは時間の余裕があるけれども、捕食者につかまればそれで終わりである。食べ物の心当たりは何ヶ所か探せるが、自分が食べられれば後のことは心配しようと思ってもできない。

いまの時代に生きていれば、捕食者に食べられる場面に相当するのは、戦争に巻き込まれたり危ない奴に危害を加えられることだが、そういうケースはあまりない。

空腹が耐えられないという場面に相当することも少ない。おカネがないことがそれにあたると思うかもしれないが、今日食べるものがないほどのストレスにさらされている人は、先進国にはほとんどいない。

だから脳や体がそうした危険信号を出すことはないのだが、進化の過程で発達した仕組みは変えられない。だから閾値を下げて、機能そのものは存続している。以前なら問題にならないリスクに過剰反応しているのだ。

捕食者でもなく、目の前にも現れていないネット上の存在に強く反応したり、いま現在困っていないのに将来の不安だけで気分が落ち込んだりする。かつては生存のため不可欠だったストレスが、いまやストレスのためのストレスになっている。

そんなこと気にしなければいいじゃないかと思っても、ホルモンの出方だから意識だけで改めるのは難しい。だから、そうしたストレスから遠ざかることが何としても必要なのである。

前にも書いたけれど、現代のひきこもりとかニートを問題視する風潮もおかしいと思っていて、ファミリーの稼ぎで食べている人間など世界中にいくらでもいるし、歴史上でも当り前である。

本当にストレスを感じなければならない捕食者や飢餓の状況にはないのだから、ストレスを感じなくても生存に影響しない。そんなものは、ないにこしたことはない。

[Jul 4, 2023]

認知症予防の目的と手段

もう66歳なので、図書館に行くと医療関係の書棚に目が行く。どこの図書館でも認知症に関する本はかなり置いてあって、いくつか借りて読んだけれど、納得できるものもあるし首をひねるものもある。

以前、「老後に社会参加?」という記事を書いたけれど、なぜそうした意見に違和感を持つのか整理できたような気がするので、今日はそのことについて書いてみる。

認知症予防といっても、長生きすればほぼ確実に認知症になるので、心配しても仕方がないという意見もある。とはいえ、自分のことはなるべく自分でできた方がQOLが高まることは間違いないから、進行を遅らせることには意味がある。

その際、こういう食物をとればいい、こういう生活をすれば認知症になりにくい、進行を遅らせるという手段がいくつかある。医学的にある程度証明されていることも少なくない。

例えば、太陽が出ている時間は外に出て、日が沈んだら体を休めるという生活パターンは認知症予防に有効とされる。そうすることで体内時計がリセットされ、ホルモンバランスや脳の活性化に役立つ。常識的にこれは正しいだろう。

そして、真夜中をはさんだ時間帯で十分な睡眠時間をとること。脳のリカバリーは睡眠中に行われ、例えばアルツハイマーの原因とされるβアミロイドを掃除してくれる。これも、医学的に裏付けられている。

脳のリカバリーに使われる物質(ある種のタンパク質)は肉や大豆・卵に多く含まれるので、そういう食事をとることも有効である。そして、コレステロールを気にしすぎない。これも、昨今の医学的知見から納得できることである。

これらに対して、コミュニケーションをとること、社会参加を心がけることは、それ自体が脳の健康に役立つ訳ではない。できるだけ手を使って字を書けとか、スマホやパソコンに頼るなというのも、医学的に裏付けられてはいない。

字を書くことはここ100年か200年で必要になったことで、有史以前の数万年、数十万年は無文字文化である。言葉を使ったコミュニケーションだって、人類の歴史の中で10分の1程度だろう。

大切なのは脳のいろいろな部分を使うことであって、字を書くことやコミュニケーションはそのための手段である。他の方法で脳のいろいろな場所を使うことができれば、それで代替することが可能である。目的と手段をごっちゃにしてはいけない。

字を書くことは絵を描いたり土いじりをすることで代替できるだろうし、コミュニケーションは必ずしも対面でなければならないものではない。非対面による対話の弊害は指摘されているが、脳のどの部分を使っているかという議論ではない。

世の中の認知症予防本、老化防止本のほとんどは、目的と手段をごっちゃにした悪い例のように感じている。自分の頭と体のことは自分で考えて、自分でリスクをとるしかない。

[Jul 10, 2023]

何が老化を防ぎ、認知症を予防するのか。世の中のたいていの本は目的と手段をごっちゃにしている。自分の頭で考えて、自分でリスクをとるしかない。


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