せっかく会社を辞められたのですから、おカネがないなりに楽しく過ごしたいものです。
アイキャッチ画像:写真ACフリー素材集

組織は所詮ゼロサムゲーム    リタイアは早い方がいいと改めて思う
年金はこれからどうなるか    借りを作らない生き方    スマホ2ヶ月
男のやすらぎとは何か 現時点の回答    ストレスを避けるかカネを払うか
東京ガスの水回り対応サービスを利用してみた    節約は目的じゃなくて手段
人生の盛りについて    年金満額まであと半年

組織は所詮ゼロサムゲーム

この間、里山を散歩しながら考えていて、何年か前リタイアの時期に悩んでいた自分がこれを言ってもらえたら助かったなと思うことがあったので、忘れないうちに書いておく。

このまま残っていたら大海で沈没する船と同じことになると理屈で分かっていても、リタイアに踏み切るのは容易でない。それは、自分がこれまで費やしてきた時間や労力が、まったく無駄になってしまうという未練である。

具体的には、たまった休暇であり、保証された給料や待遇であり、おおげさに言えば社会的地位である。しかし、間違いなく言えるのは自分の精神的肉体的健康がもっとも大切だということであり、それ以外は優先順位が落ちる。

改めて考えると、世の中のほとんどの組織は新たな価値を創造しているのではなく、自分の資産や体力、時間を賭け金にゼロサムゲームを戦っているようなものである。(「組織」というのは株式会社だけでなく、公的セクターもそうだと思うからである)

ゼロサムゲームなのだから、自分が取るか他の誰かが取るかのトレードオフで、分け前の総量は各自が賭けている資産、体力、時間の総合計を上回ることはない。自分の取り分を増やすためには、誰かを陥れる必要があると考える人がいても仕方がない。

振り返ると、社会人になってからリタイアするまで、数限りなく他人の悪意に直面してきた。自分に敵意を向ける人は、こちらからもそういう電波を送っているという説があるが(@内田樹先生)、おそらくそうではない。組織というのは、そういう場所なのだ。

若い頃から、会社の仕組みを農業や狩猟のアナロジーで考えていたので、より多くの収穫、より多くの獲物を獲得するためにみんなで協力するものだと思っていた。数十年経ってみると、その考えはナイーブに過ぎたのである。

社会人になって、数多くの人達に敵意を向けられ、意地の悪いことをされ、窮地に追い込まれてきた。なぜそういうことをするんだろう、収穫が減るのにと思っていた。しかし、ゼロサムゲームであれば、そういう人がいて不思議でない。というより、それがデフォルトなのかもしれない。

所詮ゼロサムゲームであれば、長く勤めていたところでいつかは負ける。そうであるならば、ある程度のチップを手にしたところで引き上げるのが賢い身の処し方であり、残れば残るだけ身ぐるみはがされるリスクが高まる。

他人の足を引っ張ることばかりしている連中もそれなりの末路が待っているだろうし、そういう連中がほとんどである組織だって、長く生き残れるはずがない。驕れる者は久しからずである。

今の世の中、公共の福祉のために存在しているはずの組織でさえ、誰か特定個人の利益のため、カネのために動いているように思えてならない。そういう組織で社会全体のためと思って働いても、おそらく浮いてしまって私と同じ目に遭うだけであろう。

だから、そういう連中と関わり合いにならないことが、残された数十年を健康で過ごすために最も大切である。もっといい待遇、もっといい収入、自他ともに認める成果なんてものは、リタイアしてしまえばほとんど何の意味もない。というより、リタイアする前から意味がなかったのである。

いま、リタイアしてできなくなったことといえば、海外旅行と外に飲みにいくことくらいだけれど、両方ともコロナでやりたくてもできない状況になってしまった。たいして不便を感じないことからすると、本当はなくてもよかったのである。

ほとんどすべての組織はゼロサムゲームで、新たな価値を創造している訳ではない。他人を陥れて分け前を増やすのはデフォルトである。気づくのが遅かった。


[Jan 27, 2021]


リタイアは早い方がいいと改めて思う

FIRE(ファイアー)はFinancial Independence and Retire Early(経済的独立を達成し、アーリーリタイアする)の略で、もともとアメリカで広まった考え方である。私の若い頃からすでに言われてきたし、いまでも、My Self Relianceなど、まさにそうである。

アーリーリタイアした人の何割かは再び現役生活に戻るというが、人生そう思い通りに進む訳ではないし、私だってこれから再就職せずにいられない境遇にならないとは限らない。とにかく、いったんリセットすることが大切なのだと思う。

この間、いまのほとんどの会社はゼロサムゲームを戦っているだけということを書いた。自分の時間や体力、資産を賭け金に戦っているゼロサムゲームなのだから、続けていれば身ぐるみ剥がされるリスクは当然ある。

「生涯現役」などと言っている人の多くは、組織に属することはノーリスクで収入だけ安定して入ってくると思っているようだが、それは甘いというものである。春の夜の夢、風の前の塵と同じである。

若い頃は自分の可能性を信じているから、挑戦することにも意義があったかもしれない。少なくとも、歳とってから後悔しないという意味はあったのだろう。しかし、この歳になって無理して重いものを持つ必要はなさそうだ。

どんなに偉くなったりカネ持ちになったとしても、200年も経てば誰も何も覚えていない。里山を歩いていると200~300年前の庚申塔や二十三夜塔、馬頭観音をよく見るけれども、誰がどういう思いで建てたものなのか、誰も個人名の記憶まで持たない。

平安の昔から、ある程度の年齢になったらあとは後世のために祈る生活を送ることが望ましいとされてきた。幸いに、これまで働いてきたおかげで何とか暮らしていける収入があり、住む家があるのだからそれ以上求めるのは贅沢である。

リタイアは早い方がいいというのは、そういうことを考える時間が長ければ長いほどいいからである。現役時代は考えることが多すぎて、立ち止まって考えることができなかった。カネ儲けのゼロサムゲームのことを考えるだけ無駄なのに。

いまこうして自らを振り返ると、会社で送った日々は必要だったけれど無駄だったと理解するまで何年もかかっている。たまたま身ぐるみ剥がされなかっただけで、もしかすると破滅はすぐ隣まで来ていたかもしれない。

わずかでも蓄えがなければ仕方がないし、私だってローンがなくなって子供が独立しているからリタイアできた。それまでの間やむを得ず現役でというのは分かるが、地位や名誉やよりよい収入を求めるなら、それははっきり言って無駄である。

ゼロサムゲームだから、運のいい奴は大層偉くなるかもしれない。それだって、200年も経たないうちに誰も覚えちゃいない。そして、大多数の運の悪い奴は、張ってきた賭け金をすべて失って終わるのである。

いまの時代、後世を祈るといっても南無阿弥陀仏だけ唱えていればいいというものでもない。これから先の世界について考えたり、ひるがえって自分のこれまでの歩みについて考えたり、すべきことはたくさんある。

そして、生きている間はできるだけ苦しまずにいたい。そのためには、カネよりも心身の健康である。心身の健康を保つためには、無用のストレスから遠ざかるのが一番有効である。

リタイアは早い方がいい。60歳を過ぎると2%以上の確率で1年以内に当り籤を引く。ゆっくり考える時間がないうちに当り籤を引くのは、悲しいことである。


[Apr 6, 2021]

年金はこれからどうなるか

年金財政がたいへんな状況にあることはかねてから諸方面で取り沙汰されている。通勤電車がないので頻繁に見ることはなくなったが、週刊誌の広告にも年金が将来どうなるかセンセーショナルに取り上げられているのを見ることがある。

そもそも、年金制度を作ったのは厚生省が自前の財源がほしかったからである。企業の売上も労働人口も右肩上がりに増え続ける時代に、ネズミ講もびっくりの試算で給付水準を決めた丼勘定である。同様に作られた退職年金や三階建て三階部分がほとんど破綻しているのだから、国民年金・厚生年金だけが無傷で済む訳がないのである。

そう思っていたところ、先日読んだ橘玲の「上級国民/下級国民」に面白いことが書いてあった。本の内容自体はそれほど目新しくも面白くもないのだけれど、年金制度の将来について巷間言われることとは違うことが書いてある。

平成時代に何が起こったか。労働市場についていえば、正社員が圧迫されて非正規労働者が増えているとか、ニートやフリーターなど正社員経験のないまま中年に至った層が増えていると言われるが、これは事実の半面しか見ていないという。

年齢別にデータを分析すると、ある程度以上の年齢層の男性正社員にはほとんど影響は出ておらず、大卒の男に限れば、仕事がなくなった人間は横浜国際競技場の収容人員より少ないというのである。

なのにそうした事実をなぜマスコミが取り上げないかと言うと(橘氏はもともと雑誌編集者。つまりマスコミ関係者である)、新聞・雑誌の主たる顧客層である中高年齢層に不利になる記事は載せられないからというのである。

そして、安倍政権末期から急速に働き方改革だの同一労働同一賃金だの労働分野の構造改革が進められたが、これは団塊の世代が定年になって会社からいなくなったのと軌を一にしているそうだ。

つまり、利害の共通する多くの人間(イコール票数)を有する層には、政治家もマスコミも逆らうことができない。団塊の世代が現役でいる間は労働分野の構造改革ができなかったのだから、彼らが年金受給者でいる間は年金制度改革はできないということである。

これを裏付ける証拠として、氏が若手経済官僚から聞いたという話を紹介している。年金の担当は厚生労働省だから、経済官僚(経済産業省だろう)とは部署が違うけれど、たぶんそうだろうなという話である。

年金財政が悪化するといっても、2040年頃がボトムで(団塊の世代が年金を受け取らなくなる=多くが死ぬ)、それ以降は改善することが見込まれる。それまで対症療法でやりくりしていけば、制度改革などという危ない橋を渡る必要はない。

その対症療法とは、給付水準の見直しであったり、消費税の引き上げだったりするのだそうだが、そうやって後ろ倒しにしている間に、国債残高は積み上がり、財政再建の目途は立たなくなるけれども、制度自体は破綻しないのだという。

それはそうかもしれないが、それでは行きつく先が国債の暴落であり、IMFによる通貨管理だということである。現に、そういうことになった国はいくつかあるので、絵空事ではない。

まして、年金財政が改善するというのは計算上のことで、そうやって丼勘定したから現在の状況を招いているのだろう。確かに、巨大な塊が年金受給層からいなくなるのは大きいだろうが。

話は変わるけれどコロナワクチンを国内生産できないというのはかなりショックで、北里柴三郎や野口英世以来の伝統はどうしたと感じている。その伝からすると、国家財政が行き詰って韓国やアルゼンチン並みになったとしても仕方がないかなとは思う。

年金の将来はどうなるか。週刊誌等では悲惨なことが書かれていますが、橘玲氏は団塊の世代が生きている間、抜本的な改革はできないと予想している。


[Apr 28, 2021]

借りを作らない生き方

会社勤めをしている時に、「ずいぶんと会社に貸しがあるなあ」と思っていた。結局、リタイア時に50日以上に及ぶ休暇を捨てて来てしまったので、単純計算でも給料の方が少ない。

誰かが言っていたのだが、「人生、貸方に回らないといけない」ということである。この場合の貸方とは、借りがあるよりも貸しがあるような状態で過ごす方が精神衛生上望ましいということであろう。

複式簿記であるから借方と同じ金額の貸方がなければならず、だとすると貸方だけ多くするとはどういうことかと思ってしまうが、おそらく借りる側よりも貸す側に回れという意味にだろう。「貸方」は複式簿記の右側という意味で、貸し借りとは直接関係ない。

わたしなりに翻訳すると、手元の現金を減らしてでも、売掛金や貸付金を増やすということだろうか。売掛も貸付も貸し倒れになると回収できないが(私のいた会社のように)、それでもその方がいいということである。

愛読する内田樹先生がよく言うのだが、高速道路で路肩を走ったりして他人を出し抜くような生き方は、無意識のうちに自分と同じことをする人が多いと困る、つまり「自分のような人間はこの世にいない方がいい」という呪いを自分にかけていることになるそうだ。

同様に、方々で貸し倒れを起こして世渡りをするよりも、回収しそこねる人生を送っている方が、無意識のうちに自分を勇気づける、生命力を高めていく生き方のように思う。

その意味で、借りがあるのにそれを放っておく組織自体も、無意識のうちに「こんな会社はなくなった方がいい」と思っていたことになる。将来ろくなことにならないだろうと思っていたら、実際に3年ほどでコロナ騒ぎになった。

勤めていた会社がどうなっているのか、連絡をとる人もいないので実のところよく分からない。あえて連絡をとるつもりもない。声をかければ教えてくれる人はいるだろうが、安全圏から野次馬根性で聞くのも品がよくない。

売上が下がったことは間違いないし、経費節減がこれまで以上に徹底されているだろう。あのローテク職員でどうやって在宅勤務をしているのか見当もつかないが、もしかすると実質的な給与削減が起こっているかもしれない。

それこれ考え合わせると、ちょうどいい辞め時だったのかもしれないと思う。会社にしたら、協調性もなく言う事を聞かない奴を厄介払いしたつもりなのだろうが、こちらにしたら、若干の貸し倒れを起こしただけで心身の健康を保つことができた。

会社には貸しは作った方がいいし、できれば借りは作らない方がいい。高速の路肩走行と同じでたいていはうまく逃げ切れるが、覆面パトが待ち構えていれば時間も費用もかかる。精神的負担だって渋滞の比ではない。

もっとも、そのくらいのことは屁とも思わない連中が路肩を走るのだろうが、そんなことをするよりもそもそも交通ルールを守る方が賢いことは確かである。

会計用語のDebit,Creditを借方・貸方と訳したのは福沢諭吉と言われています。


[May 25, 2021]


スマホ2ヶ月

誕生日前にそそくさとスマホに切り替えてから、2ヶ月が経過した。とりあえず通信料が通常ベースに乗ったので、これまでの携帯料金と比べてみた。

切り替え1ヶ月目は日割りで計算される上に割引対象外なので、いきなり高くなる。3月の通信料が2,098円に対し、4月は4,020円、この他に地図アプリ購入費用750円がかかっているが、そもそもスマホでナビするのが目的だからこれは仕方がない。

差し引き2ヶ月分余計にかかっている計算になるが、5月から1年間の通信料は割引で1,000円ちょっとになる。つまり、2ヶ月で元がとれる計算になる。1年経過後も2,000円だから、ガラケーの携帯料金とほとんど変わらない。

これでスマホを無料支給してくれるのだから気前のいい話である。逆に言うと、10年でサービス終了するのだからそのくらいしてもらわなければ困るし、それでも携帯会社は儲かっているということである。

通信料1ギガの見当があまりつかなくて不安だったが、4月の実績は0.2ギガほど。日割りだったにせよ半分も使っていない。SNSもしないし動画も見ないし、家の中にいるときはWifiで通信しているからこの程度で済むのだろう。

前に書いたようにキャリアメールを設定しなかったので、auからのセールスも来ない。自動的にGMailを受信してしまうのがちょっとうるさいが、ほとんどのメールはGMailでないアドレスを使っているのでさほど多くはない。

5月の通信料は1,081円。Cメールの料金が別にかかるので見積りどおりにはいかないが、ガラケーからほぼ半減となった。解約してしまえばもっと節約できるが、利便性とのトレードオフなので仕方がない。未来社会で暮らすための必要経費と思っている。

旧携帯は、アンテナこそ立っているけれども通話・通信に使えない。スマホに切り替えたとたん、差込口とかいろいろなところが壊れてきた。きっとケータイとして使っている時は、機械も無理していたんだろう。時計・万歩計・カメラとして引き続き携帯している。

スマホは携帯に比べるとかさばるし重いので、ずっとポケットに入れておくのは大儀である。外出するときはともかく、家にいるときに常時携帯するには難しいものがある。いまのところは旧ガラケーを身に着けている。

下表は、一昨年・昨年の通信費(電話・インターネット)と、うち携帯費用の推移。今年の見込みとしては、昨年比-1,140円の月平均2,300円、来年はさらに-500円で月平均1,800円となりそうである。

スマホをタダでいただいた上に毎月の負担が減るのだから、かなりのお得感がある。そんなにうまい話があるのだろうかと思うくらいである。これも、ギリギリまで使い続けたご褒美かもしれない。

[Jun 8, 2021]


一昨年からの通信費支出と、スマホ切り替え後の見込み。スマホをタダでいただいた上に負担が減ったのだから、かなりのお得感がある。


男のやすらぎとは何か 現時点の回答

柳沢きみおの「俺はオレの唄がある」のテーマは、男のやすらぎとは何かということである。最近、時々そんなことを考える。

酒や女、家庭はやすらぎにならない、それでは何が男のやすらぎなのか。教えてくれるはずだった二人の登場人物は相次いで死んでしまう。主人公はそれは「友」ではないだろうかと思い当たる(それが正解かどうかは最後まで分からない)。

自分自身の六十余年のことをつらつら思うに、友といえる付き合いをした人は数えるほどしかいない。ごく最近で10年以上前、一緒にカシノやポーカーで付き合った人達である。いまではみんな疎遠になってしまった。

リタイアしてからは、普段、奥さん以外と話すことはほとんどない。子供とだって年に数回である。必要があって店の人と話したり、山の途中で道を聞いたりすることはあるけれども、ごくまれである。

「やすらぎ」という言葉本来の意味は平穏とか平安ということであり、柳沢きみおのいう「やすらぎ」とはちょっと違うような気がしている。彼が使っている「やすらぎ」のニュアンスは、私の使う言葉では「慰め」のニュアンスに近い。

世の中思うに任せないことが多く(というかほとんどであり)、それが頭の中を占めると気持ちが沈んでどうしようもない。だから、気持ちを軽くする、高めるものが何か必要になる。彼のいうところの「やすらぎ」とは、そういう意味だと思っている。

「女」と同様に男のやすらぎの候補となるのは「家庭」ということになるのだろうが、彼はこれにも否定的である。家庭は仕事よりつまらない、と登場人物に言わせているくらいである。

最近「やすらぎ」は、霊園とか高齢者施設のネーミングにたいへんよく使われるから、心電図が平らなまま動かなくなったようなイメージである。あえて個人的に超訳すると、「心をおだやかにさせるもの・こと」「ストレスがない状態」ということになりそうだ。

柳沢きみおのいう「友達」も「女」も、もっと言えば仕事や家庭や酒まで含めて、心をおだやかにさせるよりは波立たせるものであり、ストレスを増やすものである。だからダメだというのではなく、そうしたものが慰めなり生きがいになるにしても「やすらぎ」にはならないだろう。

そもそも、友達も女性も家族も自分以外の他者ということに違いはなく、性別が違うだけで「やすらぎ」になる・ならないというのは首をひねるところである。

(書いていて思ったのだが、最近「首をひねる」は、文字通り首をねん挫するという意味で使われるらしい。「首をひねって痛くて仕方ない」みたいな。

まだしも家族の方が利害関係が共通する部分が多いけれども、それでも利害が相反する部分も少なくない。まして家族以外では共通する部分の方が少ない。いずれにしても、他者に依存するというのはリスクが大きいように思われる。

だとすると、「男のやすらぎ」とは何なのだろう。話が長くなったのでこれについてはまた。

柳沢きみお「俺にはオレの唄がある」、男のやすらぎとは何かがテーマになっている。


男のやすらぎについて、六十数年生きてきて私なりの回答がある。今日はそのことについて書いてみたい。 自分がどういう場合にやすらかな心持ちになって、ストレスが少ない状態になるか考えてみたところ、これはと思い当たることがあった。「家庭」とか「仕事」とか「女性」とかすべて他者にかかわってくるが、そうではなく基本的に自分自身で完結することである。

一言で表すのは難しいが、あえていえば「規則正しい生活」ということになる。

毎日決まった時間に起きて、決まった時間に眠る。決まった時間にごはんを食べ、1日のスケジュールも決まったことを繰り返す。これが最もストレスが少ない。

そして、できればそこに宗教的な要素が入った方がいいように思う。宗教的とは、キリスト教とか仏教とかそういうことではなく、祈ること、何かに手を合わせるということだけで構わない。わが国古来の神道とは、本来そういうものだったのではないだろうか。

私自身の宗旨としては、八十八ヶ所回った真言宗ということになるが、いつも般若心経や光明真言を唱えてはいないし、あまりそれにとらわれる必要はない。神様に柏手を打つ、仏様に手を合わせるだけで、「やすらぎ」にかなり近づくように思う。

おそらく、禅寺の生活もこれにかなり近いのではないだろうか(怒られるかもしれない)。祈りとか、掃除とか料理、後片づけが規則正しく時間ごとに定められ、それを繰り返す。それは実は、心の平安、やすらぎへの最短ルートのような気がしている。

ユダヤ教・キリスト教系の宗教では「最後の審判」に向けて懺悔すること、祈ることが求められるが、仏教では「悟り」を開くことが最終目的である。そして、禅宗の巨人・道元は、毎日の生活そのものが修行であり、悟りへの道であると考えた。

だから禅宗寺院では、食事をはじめ身の回りのことすべてを自らで完結する(役割を回り持ちする)ことが当然であり、それ以外の時間はすべて修行(座禅)に費やされる。座禅する時は悟りに至る道のことしか考えないし、それ以外はすべてルーティンが定められている。余計なことを考える時間はない。

献立はほとんど決まっていて、月ごと季節ごとに決まった行事があり、1日、1週間、ひと月そして1年が無事終わったことを感謝する。そうやって繰り返す毎日が、道元禅師にとって悟りへの道だったのではないかと思っている。

もちろん、心の持ち方は人それぞれ。ストレスを少なく毎日を過ごせることでやすらぐ人もいれば、血沸き肉躍るエキサイティングな暮らしこそ生きがいである人もいるだろう。むしろ、何かに向かって自らを駆り立てたいと思う人が多数派かもしれない。

柳沢きみおはやすらぎは「友」だと考えた。そういう人もいるだろう。しかし私は、自分以外の他者のあり方で自分自身の心の平安が左右されるところに、「やすらぎ」とは遠いものを感じるのである。

道元だって、只管打坐で座禅以外すべて余計なことという立場だけれど、師僧は必要だと書いている。けれども、菩提達磨が面壁九年している間に、師匠だの弟子がいたとは考えにくいのである。

当り前のことだが他者は自分ではなく、他者が思うこと感じることは自分とは違う。利害関係もあり価値観も違う。「やすらぎ」があるとすれば、おそらく自分の中で完結しなければならないもののように思う。

男のやすらぎとは、規則正しい生活、そこに祈りの要素が加わるものではないかというのが現時点の私の回答。禅寺の生活が近いように思う。


[Jun 24, 2021]


ストレスを避けるかカネを払うか

先月、CSグリーンチャンネルを契約した。 フジにせよテレ東にせよ民放の競馬中継を見ているとストレスがたまる。U局の方がまだましだ。なぜ、バラエティ番組のように大騒ぎしなければならないのだろう。

昨年、コロナで無観客開催をしている時に無料放送のグリーンチャンネルを見て以来、民放を見るのはたいへん勘にさわる。月々スカパーの基本料金429円とグリーンチャンネル代1,320円が必要だけれど、精神の健康には代えられない。

競馬中継を見るようになって、かれこれ半世紀経つ。若い頃は馬券を買わないで見ているのは面白さが半減するような気がしたが、最近はほとんど馬券は買わない。だから、月々2千円足らずの出費は昔に比べれば全然問題ない。

競馬という趣味がそれほど高尚なものだとは思わないけれど、お笑いや正体不明のタレントを出して大騒ぎするのがなぜデフォルトになるのかよく分からない。クイズ番組のようにして視聴率を稼ぐつもりなのだろうか。

かつての競馬中継は、もっと格調高かった。大橋巨泉がラジオの解説をしていた頃は、たいへん参考になった。血統とか、展開とか、コース特性・馬場状態といった競馬の知識がないと、見当違いの馬券を買ってしまうということがよく分かった。

とはいえ、民放でやっているものをわざわざおカネを出して有料放送で見るということには抵抗があった。現役時ならともかく、いまや年金生活でムダな出費はできる限り抑える必要がある。

だから、レース時間までTVはつけないでおいて、レース中継だけ見るという工夫をしていたのだけれど、そうやっているとしばしば発走時間を忘れて見過ごしてしまうのである。それはそれでいらいらする。

どうやってもストレスの原因となるのなら、いくらまでなら払えるかという費用対効果の問題となる。熟考(というほどではないが)の結果、月1,320円でストレスが避けられるならそうすべきだという結論に達した。

グリーンチャンネルでは民放やU局のやらない時間帯も見ることができるので、午前中の障害レースやこれからデビューの2歳馬の競走も見ることができるし、最近は地方競馬の大レースも放送してくれるのでレース観戦の時間が増えた。

今回のことで、改めて感じたことが2つある。1つは、節約が大事とはいっても心身の健康には代えられないし、それほど長く生きることのないわれわれの年代にとって、無駄な時間を過ごせる余裕はないということである。

もうひとつは、無料で情報を提供してくれるかに見える民放TV局も、こんなことをしているとますます見なくなる人が増えるだろうということである。実際に、U局やBSは通販ばかりになっているし、私自身、TVよりYouTubeを見る時間の方が多い。

私が小さい頃にはTVのない家もあったくらいだが、いまやTVはあってもTV放送を見ない家が多いだろう。私の生きている間にTVが栄えて、衰えるところまで目にすることができるというのは驚きである。

年金生活の厳しい懐事情ですが、グリーンチャンネルを契約しました。フジやテレ東の競馬中継は騒がしくて見ていられません。


[Jul 13, 2021]


東京ガスの水回り対応サービスを利用してみた

週に1度のトイレ掃除は私の担当である。先々週、1階のトイレを掃除して最後に流した後、床が濡れているのに気がついた。見た感じでは、便器と床の間から水が漏れているようだ。

1階のトイレをリフォームしたのは4年前。保証期間は過ぎているがまだ壊れるには早い。新築当時のトイレもウォシュレットも、リフォームするまで15年以上使っていたのだ。しかも、当時より家族は少ない。

工事をしたホームセンターに問い合わせるのが筋だろうが、そもそも見積りに来るまで時間がかかる。クラシアンはボルので信用できない(奥さんが点検だけで5万請求されたことがある)。何か方法はないかと考えたところ、東京ガスのサービスにそういう内容があったことを思い出した。

わが家では東京ガスで電気・ガスを一本化しているが、その時の保障内容に、水道・トイレなど水回りの点検も行います。電気を東ガスにしていれば、出張費はタダというサービスがあった。

最初は自分でトイレを分解して調べようと思ったのだが、奥さんがそれはやめてくれ使えなくなるというし、せっかく電気と一本化しているのだから東京ガスを利用するのも悪くはないだろう。という訳で、さっそくホームページで申し込んだのであった。

木曜日に申し込んだのに、第一希望の土曜日午前中に来てくれるという。時間どおりに現れたのは、奥さん曰く「小泉進次郎そっくりのイケメン」。時節柄当然ながらマスク着用、使い捨てスリッパも持参である。

きちんとブルーシートで防水して、てきぱきと作業を進める。30分弱で点検は終わり、何十枚か撮影したデジタル写真を使って説明してくれた。

「取付ボルトのところから漏れているようです。施工した業者かメーカーにみてもらう方がいいと思います。よろしければ、TOTOにはこちらから依頼できますが、どうしますか?」

私がTOTOや施工したホームセンターに連絡したとしても、どこがどう悪いのか説明することさえできないと思うので、お願いした。点検だけなので、費用は無料。たいへんありがたいサービスである。

その日のうちにTOTOから連絡があり、月曜の午前中には来てくれた。少し調べると、「密結パッキンのようです。交換すると8,800円かかりますが、よろしいでしょうか。」

密結パッキンとはタンクと便器の間のパッキンで、なるほどそこが問題なら取付ボルトから漏ってもおかしくない。そのパッキンは持ってきてあるという。手回しのいいことである。こちらにも異存はなく、すぐに作業していただく。

20分もかからずに工事終了。WEBで調べると、自分で工事しようと思えばできるようだが、そもそもそこが不具合かどうか分からないし、もし別の場所だったときのアフターサービス込みと考えれば、この値段は高くない(全とっかえだと12万円)。

工事が終わってから、「新築時に取り付けたトイレは15年以上問題なかったのに、4年でパッキンの交換が必要になるんですか」と尋ねたところ、気の毒そうに「ちょっと早いかもしれません」ということだった。まあ、保証期間過ぎているのでこれ以上は言えない。

結果、木曜日に東京ガスのホームページに申し込んで、月曜午前中には決着がついた。ホームセンターに依頼したらまだ見積りにも来ていないだろうし、クラシアンならこの値段で済む訳がない。

せっかく電気を東京ガスに一体化したなら、いざという時頼りになるサービスである。覚えておいて損はないと思う。

[Jul 15, 2021]


追記.どうやら有料になったようです。世知辛い世の中ですね。 トイレの水漏れが気になったので、東京ガスの水回りトラブル対応サービスを利用してみた。予想を上回る素早い対応だった。


節約は目的じゃなくて手段

限られた年金収入で暮らしていくためには、節約を心がけなくてはならない。しかし、節約は生活水準を維持する・確保するための手段であって、節約すること自体が目的ではない。そこを間違えると、生活水準どころか生活そのものがままならないことになる。

しばらく前に、ホームセンター併設のガソリンスタンドが直営から石油元売の系列に代わった。看板のデザインが変わったのと、若干高くなったのは仕方がないとあきらめるとして、頭にきたのはすぐにセールスしてくることである。

先日は、車と車の間をちょこまかと行ったり来たりして、「カードお持ちですか」とやっている。向こうはぶつからない自信があるのだろうが、こっちは飛び出されたらとっさにブレーキをかけざるを得ない。瞬間的に血圧が上がる。

そもそもセルフというのは、機械を操作するのもガソリンを入れるのも自分でやってください、窓も拭きませんしお手伝いもしません。人件費をかけない分ガソリンの値段は安くしますというシステムのはずである。

手間を客に負担させておいて、自分達は空いている時間にセールスだけしますというのは、自分勝手な話である。そんなことをやっている暇があるのなら、窓のひとつも拭けと言いたい。それ以前に、車のそばでちょこちょこ動くな。

家の近くにもう一つ新しくできたスタンドがある。ここもセルフなのだが、整備押し売りのけしからん店である。

ウォッシャー液を足しますというのでボンネットを開けたら、「かなり少なくなってますね。ついでにエンジン見ときます」。「ウォッシャー液はこの間足したばっかりだよ(薄めたけど)」と言っても馬耳東風、「エンジンオイル汚れてますね。取り替えますか?」、「3か月前に車検通したときに替えた」

千葉ニュータウンはガソリンの値段が比較的安くて、スタンドによって違うといっても5円も違わない。月30リッターほど使うから、150円くらい違うことになる。150円あれば糖質0麺の安売りが一つ買えるから、節約できればした方がいい。

とはいえ、不心得なセールス要員に接触して嫌な思いをしたり、面倒なタッチパネル操作をしている時にセールスに気を取られて血圧を上げることに比べれば、数百円の差など微々たるものだ。

同じようなことはレジャーにもいえて、高速料金を節約するのは当然だが、一般道を長い時間走ると疲れがたまる。知らない道を走るから神経も使うし、ネズミ捕りの巣であるリスクもある。節約するつもりが高くつくことになりかねない。

普段から節約節約と思っていると、どうしてもそれが目的であると勘違いしてしまうが、節約は目的ではなく手段である。かえって高くついたり、最悪頭の血管が切れてしまったら、何のために節約しているのか分からない。

年金生活には節約が欠かせないといっても、頭の血管が飛んでは元も子もない。手段と目的をとり違えてはならない。(写真は記事と関係ありません。一応w)


一昨日、「節約は手段であって目的ではない」と書いたのだが、まさにこのタイミングで、YouTubeで気になる動画を見た。

奥さんが見ていた番組なので、誰の何という動画なのかは分からないけれど、その中で、「僕は節約が好きでしようがない」というセリフが聞こえてきたのである。瞬間的に、違和感でぞわぞわした。

人それぞれ、法に触れたり他人に迷惑をかけない限り、何をどう思おうと構わないとは思う。けれども、一昔前に「もったいない」で包装紙やら紐やら袋を貯め込んだ人達が、いま「ゴミ屋敷」「汚部屋」を作っている訳だから、言うべきことは言っておくべきだろう。

最近つくづく思うのは、「体の欲望には限りがあるけれど、脳の欲望には限りがない」ということである。1日に4度も5度もご飯は食べられないし、寝続けるのは12時間が限度である。「立って半畳寝て一畳」、眠ってしまえば大豪邸でも四畳半でも同じである。

ところが、脳の欲望には限りがない。1万円あれば5万円欲しくなるし、5万あれば10万、10万あれば50万。何千万円あったところで何億円欲しくなる。それよりも、いまある1万円を有意義に使うことを考えた方がいい。

節約だって同じである。ムダ使いはやめた方がいいけれども、電気代を極限まで減らすことに意味があるとは思えない。それよりも、どう使えば快適な生活を送れるかが大切ではないのだろうか。

節約命で家族に我慢を強いるくらいで済めばまだいいけれども、こういう人達はそれでは足らず、他人にも我慢を強いる方に進みがちである(だから、YouTubeでそう言っているのだろう)。そこから自粛警察、第二次世界大戦の隣組までの距離はたいへん短かい。

私は他人が嫌いだし、そういう相互監視社会は大嫌いである。そして、憲法で保障するところの「健康で文化的な最低限の生活」とは、演劇とか音楽に親しむということではなく、いま現在普通に提供されている快適さを利用できることだと思っている。

脳には欲望のリミッターが利かないということの他に、考えることを省略したがるという癖がある。だから、節約というのは手段でその上にある目的は何かと考えるのが面倒なので、そこをショートカットして、「節約が目的」と思うのである。

そうやって空いたメモリをもっと有意義なことに使えればいいのだけれど、そういう人に限って「もっと節約できる方法はないか」と考える。それだったら、ショートカットしてメモリを空けても意味がない。

別に自分の頭は好きに使ってもらっていいし、違和感のあるYouTubeは見なければいいだけの話だけれど、行き着く先が自粛警察ではちょっと待てといいたくなる。どんなことでも、目的と手段をまぜこぜにすると、自分だけでなく他人の人生を楽しくなくしてしまう。

[Aug 27, 2021]


人生の盛りについて

先日、青天の霹靂というくらい急に帯状疱疹になった。ちょうどその頃、WordPressの不具合でホームページにある千数百の過去記事のデザインを微修正していたこともあって、「人生の盛りは過ぎたんだなあ」と今更ながら気づかされた。

帯状疱疹の時は、ほぼ1週間にわたり体が使い物にならなかった。本を読むこともパソコン画面を見ることもできず、ひたすら痛みに耐えながら、こういう状態は何の前触れもなく急に来るのだと思い知らされた。

きっと、致命的なケガや病気に見舞われる時も、こんな具合なんだろうと思った。いろいろ備えて準備しているつもりであっても、そんなものはあまり役にたたないかもしれない。

その1週間か10日前、ホームページの修正でテニアンやラスベガスでポーカーをしている記事を読み返した。自分の書いた文章を読みながら、ロサンゼルス国際空港の乗り継ぎ待ち合わせフロアとか、サイパン国際空港に着いた時の独特の匂いとか、そういう風景が思い浮かぶ。もう、ああいう機会はないかもしれない。

毎年、エアとホテルで二十万も三十万もかけ、それと同じかそれ以上の額をカシノに注ぎ込んだ。その時はそんなことを思うことはなかったが、後になって思うとあの頃が人生の盛りだったのだろう。

もちろんおカネがそれだけ自由になったということであるが、それだけではないように思う。おそらく、人生の残り時間との兼ね合いなのである。

自覚しているかどうかはともかく、残り時間が長いうちは、おカネにあまりこだわらない。仮にカシノで大負けしたとしても、借金して返せる時間があるし、それよりも若い時にしかできない経験をする方が大事と思うからである。

現在は年金生活でつつましく暮らしているし、コロナ騒ぎであと何年かは自由に海外と行き来できないだろう。けれども、もし何かのはずみでおカネができたとしても、あの頃のようにカシノで楽しむことは難しいと思う。

チップを張りながら、これで1ヶ月の食費が飛ぶかもしれないなどと考えていたら楽しい訳がないし、借金をしてもこれから先返せる時間があるかどうか分からない。

リタイアして経済的にシュリンクしてしまうのは、もちろん入ってくるおカネが少なくなるということが大きいのだけれど、残り時間が少なくなるということも大きい。残りわずかな時間とおカネをどう使うかと考えるから、余計にしみったれてしまうのである。

いずれにしても、あとになって自分のことを思い出すのは自分だけ。当り籤を引いてしまえば、いつがその人の盛りだったかなんて考える人は死んだ本人以外誰もいない。その時点でできることをできる範囲でやる以外に、方法はないのである。

ときどき、ロサンゼルスやサイパンの空港を脈絡なく思い出す。奥さんには、「もう一生分遊んだでしょう」と言われるのだが、あの頃は人生の盛りだったと感慨深い半面、いまだっていましかできないことをしなくてはと思う。


[Nov 18, 2021]


年金満額まであと半年

2021年も無事に年末を迎えることができた。加算年金の支給が始まる(はずの)来年誕生日過ぎまであと半年、いちばん資金繰りの厳しい時期を乗り切るまでもう少しである。

5年前にアーリーリタイアした時には、銀行の年金相談にも行ったし住宅ローンも完済してそれなりに準備は整えたのだけれど、5年間に何があるか分からないという不安な気持ちもあった。あと半年、これから先何か起これば不可抗力で仕方がない。

思いがけないことはいつの時代でも起こるので、「予測できることに対して準備が足りなかった」のと、「不可抗力で仕方がなかった」の境界線はたいへん微妙なものである。ほとんど区別がつかないと言っていいかもしれない。

しかし、自分自身にそれが起こった時、予測しなければならなかったのかどうかは直感的に分かる。その時になって後悔しないために、念には念を入れ、熟考してあらゆるケースを想定するのである。

例えば、今年もいろいろな想定外の支出があったけれど、その中で、糖質制限で痩せたので服が合わなくなって新調したというのは予測しなければならなかったことで、交通違反の罰金を取られて自賠責の保険料が上がるのは不可抗力である。

もちろん、すべて予測できるに越したことはないが、人間だから限界がある。考え方によっては、不可抗力があるからこそ未来で、そのために「のりしろ」「バッファー」が必要なのであろう。

話は戻って年末年始の資金繰りだが、15日に年金が入って地震保険の保険料約4万円を払い、年越しの酒類や肉類を確保し、来年のカレンダーも用意して年賀状も出した。図書館が閉まる前に本も借りてきて、あとはおとなしく年末を待つばかりである。

年が明けるとさっそく確定申告で、また今年と同じことをしなくてはならないが、会社でないから自分の心配だけ。他人の心配をしなくて済むのは何よりのことである。こうして心静かに過ごせるのは、多少のカネには代えられない。

さて、年末年始は何とか乗り越えたけれど、実はこれからもっと厳しい時期がやってくる。ただでさえ、冬は電気代やガス代、灯油の使用量が増えて支払いが多いのに、国保保険料、固定資産税、住民税の請求が次々とやってくるのだ。

もちろん、それらのことはあらかじめ分かっていることで、請求の少ない時期に貯めておかなければいけないものだが、そう理屈どおりにうまく運ぶものではない。

ちなみに、11月~12月の電気代・ガス代は、使用量がほとんど変わらないのに請求額は2割増しくらいに増えている。昨年の倍近くなっているフランスほどではないが、少しでも支払いが増えるのは一大事なのである。

12月のガス料金は、使用量が昨年12月とまったく変わらないのに、請求額は約2割増加。フランスと比べるとおだやかではあるが、原油・LNG価格の上昇がかなり響いてきた。


[Dec 28, 2021]


LINK