老後準備編 後期高齢者まであと10年を切り、いまから準備しておこうと思っています。
必要不可欠でないものは買わない
さて、今日は年金生活のおカネについて。この間禅宗の坊さんの本を読んでいたら、おカネの使い方について書いてあった。欲しいものを「必要不可欠なもの」「あったらいいもの」「あると世界が変わるもの」の3種類に分け、必要不可欠なもの以外はよくよく考えろという趣旨であった。
私より年齢が少し上の人で、なんだか浮世離れしていて同意できないところもあるが(まあ、坊さんだから)、若干インスパイアされたところもあった。読んだだけの甲斐はあったというべきかもしれない。
例えばこの本では、夏場のエアコンは「必要不可欠」に分類されるのだが、「あったらいい」ではないかと思う人は少なくないと思う。20年前には、全室エアコンのある家などそれほど多くなかったのだ。(マンションでも)
「あると世界が変わるもの」は買わなくていいらしいが、「ある」と変わるなら「ない」場合も変わる。パソコンがあるとないとで世界は間違いなく変わるが、必要不可欠でないと断定するのは難しいだろう。
年金生活者の多くは、「必要不可欠なもの」の中で優先順位をつけなければならない。添加物を含まない食品だって、地球環境に優しい製品だって、みんな必要不可欠である。でも、みんな買っていたら破産である。
だから、欲しいものを必要不可欠と不要不急に分けて考えるとしても、必要不可欠の中でさらに区分しなければならない。もし、あえて区分するなら、「今現在、ないと困るもの」「ないと近々困ることが予想されるもの」「準備しておかないとストレスになるもの」になるのではないか。坊さんの3区分より、かなり切実である。
限られた収入の中で、「今現在、ないと困るもの」が最優先となる。トイレットペーパーがないからウォシュレットだけですませるのは難しいし(乾燥機能はいまや少数派だ)、なかったら買いに行くしかない。
とはいえ、残り1ロールならどうするか。今度は「ないと近々困ることが予想されるもの」に分類される。年金支給日が期近ならば節約して使うという選択肢が出てくる。
実際多くの場合は、予備の12ロールを開けてしまったので、ストックしておきたいという「準備しておかないとストレスになるもの」である。災害が来たら必要とかTV・マスコミが煽るからストレスになるので、よく考えれば1ヶ月以上のストックはある。
ここ数十年で、少なくとも2度、トイレットペーパーの入手が難しい時代があった。それ以上頻繁にあったのは、品薄で価格が急上昇してこの値段では買えないとなったことである。これは「今現在、それがないと困る」とは別の問題である。
その意味でTV・マスコミも罪深い。最初はもしもの時に備えないと大変なことになりますという親切心だったのだろうが、結果的に必要以上のストックを買わせて消費者を苦しめ、企業の利益を増やしている。彼らも広告収入で食べているから仕方ないが。
収入が限られる年金生活者は、必要不可欠と思われるものの中で優先順位付けしなければならない。災害に備えたストックも、懐との兼ね合いでできることできないことがある。
昨日の続きでおカネの使い方の話。禅宗の坊さんが言うことには、不要不急でない支出はよくよく考えるべきであるというが、収入の限られた年金生活者は、必要不可欠な支出の中でも優先順位をつけなければならない。不要不急の中にも「今現在モノがない」から「ないとストレスになる」まで程度の差があるところまで書いた。
食品についても同様で、原材料とか添加物とかそういったことがストレスになっているだけで、安全性そのものが問題となる食品は比較的少ない。TVやマスコミが余計なことを言わなければ、安い肉、安い牛乳、安いパンでも生命維持には問題ない。
けれど実際には、パスコのパンは気持ち悪くて食べられないし、安い牛乳はおいしくない。大量生産の卵は平飼いとは味が違うし、冷蔵庫で保存するからといって保存料が山ほど入った発酵食品は食べたくない。食べても害がないのと、あえて食べるかどうかはまた別の問題なのである。
本当におカネがなければ贅沢は言えないのに、なぜそんなことを気にするのか。思うに、おカネの使い方には経済的な意味だけでなく社会的な意味があって、経済的な意味、つまり損得だけで判断するのではないからではないだろうか。
おカネ・貨幣というのはあくまで交換を便利にするための手段であり、突き詰めると自分の持っている時間と労力、資源を何に使うかということである。何を優先するかは生き方の問題であり、自分が何に価値を認めるかである。大げさな言い方をすれば、損得より社会正義ということである。
社会正義の実現というとちょっと引く表現だが、自分が退場した後の世界はその前よりも住みよい社会であってほしい。少なくとも、自分が生きたことで住みづらくなっては申し訳ないという心がけである。ある意味、選挙権の行使と似た要素があるかもしれない。
原子力とか環境保護、少子化、過密・過疎などなど社会のあるべき姿・進むべき方向を自分はどう考えるか。そのために自分の時間と資源をどう使うのか。おカネの使い方は、実はそことつながっているように思う。
だから、売ってはいけないものを売る会社の商品は買わない、環境保護が大事だと思えば環境に配慮した商品を選ぶのは、損得勘定とは次元の違うような気がする。必要不可欠とは、単に空腹を満たすとか、生活に必要かどうかだけで判断できるものではない。
もちろん、「自分の時間・資源」は人それぞれのものだから、いろんな考え方があるだろうし、経済的観点、損得勘定が最優先の人がいるのも当然である。誰と比べることもできないし、平均して二千万円とかそういう話でもない。とはいえ、全員そうやって生きることはない。
少なくとも私は、経済的視点だけが重要とも大切とも思わない。健康でいられることの優先順位は損得勘定とは別次元だと思っているし、おカネはよりよい社会とするような方向で使いたいと思っている。
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