老後準備編 後期高齢者まであと10年を切り、いまから準備しておこうと思っています。

おカネでは解決できないことがしたいのは   他人の評価を気にして生きるのは
スケジュールが埋まらなくたって   カード不正利用の自衛策
リタイアしたら欲を少なく   歳を取ったら深追いしない   「思い出の品」はもういい

おカネでは解決できないことがしたいのは、いいことだ

年が改まると今年の抱負をいろいろ考える。しばらく前は、今年こそラスベガスに行きたい、せめてマカオに行きたいというのが年頭の抱負だったが、今年は全然違うことを目標にしている。

それは、ハーフマラソンで楽に完走したい、山野を思う存分歩きたいということである。いずれも、おカネでは解決できない問題である。

山を思う存分歩くには、登りたい山に登って日が沈まないうちに下山する必要がある。もちろん、登山口の近くに前泊するとか、一般道でなく高速道を使うといった、体力をおカネで代替する方法はあるが、基本的に歩く速さと体力の問題である。

マラソンはそれ以上で、いくらおカネを使っても体力に替えることはできない。トレーニングで体力をつけるしか方法はない。私の場合、目標は制限時間内に完走することだからハードルは低いが、年齢を考えれば無理はできない。

そんなことを考えていて、おカネで解決できないことがしたいのは、大変いいことだと気づいた。おカネで解決できる悩みや目標は、おカネを稼ぐことが解決方法になる。でも、おカネなんてなくたって、人生は楽しめるのである。

2月のハーフマラソン大会に備えて、少しずつ走る距離を伸ばす練習をしている。昨シーズンは16kmまでしか走れなかったが、今年は20kmまで伸ばした。何回か練習して、それほどバテずに走れるようになった。

大バテせずに走り続けるにはどういうペースで走るか、水分補給は何をどのタイミングで給水するか、練習はどういったコースで、どういったタイミングで行うか、体と相談しながら自分の頭で考える。いい練習ができるとうれしい。

若い頃はいろいろな意味で「見聞を広める」ことが大切だと思ったし、そういう経験を積んできた。しかし、残り時間がわずかになると、外に対して開くことも大切ながら、自分自身を深く掘り下げることも重要だと思うようになった。

[Jan 16, 2024]

残り時間がわずかになると、外に対して開くことも大切ながら、内に向けて深く掘り下げることも重要だと思うようになった。

他人の評価を気にして生きるのはつまらない

新年度になった。TVはあまりみないけれども、NHKの番組編成が変わったり、新メンバーが加わったりするのを見ると、そういう時期だったと思い出す。新年度は人事異動の季節である。

最初に勤めた銀行では、大きな人事異動は役員の新任と同じく株主総会の時期に行われていたが、小さな異動はのべつまくなしにあった(不正防止の観点である)。最後の会社では、基本的に4月と10月だった。いずれにしても、人事異動の時期にはぴりぴりしたものである。

いま考えると、他人の評価をどうこうできるものではないし、それ以上に業績とか努力が評価に結びつくことはほとんどない。評価なんて、はるか以前にどこかで決められている。そんなことで気持ちが乱されるのも腹立たしい。

だから、他人の評価を気にしてもムダというか意味のないことなのだが、残念ながらそんなことは知らなかったし、教えてくれる親切な人もいなかった。だから、こうして誰かのために書いておくのだ。

他人と合わせるために努力したり、人並みの成果をあげようと時間を割いたところで、希望する仕事ができることはないし、花形部署に行けることもない。給料だってたいして変わらない。

だとしたらサービス残業なんてしなくてよかったし、休日を他人のために潰す必要もなかった。それで左遷されたり昇進が遅れたところで、給料がもらえなくなる訳ではない。言うことを聞いても聞かなくても、たいして違いはないのである。

それが分かっていたら、時間とおカネをより有意義に使えたのにと思う。しかし、いまから昔に戻ることはできない。遅くなりすぎる前に気がついて、アーリーリタイアできたことに感謝すべきであろう。

社員を競争にかりたてて、時間も労力もムダ遣いさせる日本の組織は、長続きすることはないだろう。ムダ遣いだけならまだしも、組織のルールが社会のルール、法律・規則・規範に反するから、ダイハツやトヨタ関連企業、自民党のようになる。(小林製薬もきっとそうだ)

そういう人達の本音は、他人よりいい目をみたいということである。まともに競って勝てなければ、何とか裏道をみつけて出し抜こうとする。そんなことより、自分の欲を小さくすることの方が、ストレスは小さくて済む。この歳になると、つくづくそう思う。

このところランニングをしているので、トレーニングを重ねることで体力がついてくるのが分かる。この歳でもそうである。他人の評価を気にするより、自分の体と会話する方がよっぽどためになる。

[Apr 5, 2024]

新年度は人事異動の季節である。リタイアしてよかったことのひとつが他人の思惑で気持ちを乱されることがなくなったことだ。

スケジュールが埋まらなくたって構わない

サラリーマン生活を長くやっていたからか、手が空くのは嫌である。空いている時間でひとつでも仕事を片付け、できるだけフリーハンドを残しておかないと不安になった。リタイアしてもその傾向は残っている。

みんなそんなものかと思っていたら、同じ組織で働いている7割方はそんなことひとつも考えてなかった。やらなければならない仕事という概念すらあったかどうか疑わしい。そういう人間に限って昇進や配属に恵まれている。

後から考えると、自分なりに規律をもって仕事をするのは自分自身のストレスを軽くするためであって、いい加減な仕事がストレスにならない人間に規律なんて必要ない。仲良くみんなで怠けるのが楽しい組織に未来があるかどうか分からないが。

さて、リタイアすると悠々自適で毎日暇かというとそんなことはなくて、何やかや毎日やることがある。ただし、それらは自分で決めてルーティーンにしていることだから、忙しいからストレスになることはない。

リタイア前は、前もってやることを決めておいたり時間表を作っておかないと、やることがなくて暇で仕方がなくなるという記事がWEBに載っていた。それが昼間から酒を飲んだりボケる原因になるんだそうだ。

もうリタイアして8年目になるけれど、正直そんなことは感じない。もしリタイアしてやることがなくて困る人がいるとすれば、そういう人間は職場でも指示されなければ何もしなかったに違いない。

リタイア後を振り返っても、次から次にやりたいこと、関心あるできごとが現われる。糖質制限やランニングで体調管理に時間を使うとは、リタイア前には思わなかった。

将棋を見るのも羽生の出始め以来だから三十年ぶりだし、競馬も二十年ぶりである(馬券はほとんど買わないが)。かつて走っていた馬は、現役の四代前や五代前になっているし、海外レースで勝負になるとは思わなかった。

たまにやることがなくてぼーっとすることはあるけれど、きっとたまには休みなさいと体が言っているのだ。そういう時は早く寝る。10時間くらい眠れるから不思議である。

8年大丈夫だから、あと10年や20年困ることになるとは思えない。きっと、いま思いつかないようなことをして過ごしているだろう。やることがなくなる時は、そろそろお迎えの来る時なのだ。

結論:やることがなくなると心配することはない。職場で普通に仕事していたならば、同じようにやることは出てくる。困る人がいるとすれば、指示待ちで自分で考えてこなかった人である。

[Apr 6, 2024]

リタイアすると毎日のスケジュールを埋めるのに苦労するという噂があったけれど、まったくそんなことはなかった。

カード不正利用の自衛策

ひとのサイトをみていると、クレジットカードの不正利用が多くみなさん困っているようだ。

私の場合、不正利用されたことは幸いにしてないけれど、一方で二段階認証だのカード使用お知らせなどが多くてたいへんうっとうしい。まして、カード利用お知らせはスパムメールが大半で、送付元は中国である。

中国では高学歴のインテリ層が働き口もなく、貸し部屋に引きこもって詐欺メールに知恵を絞っている(蟻族)。人口も多いしノウハウも十分だから、通信文から個人情報を抽出するくらい朝飯前である。

だから、いくら認証をきつくしても情報漏洩は難しいと思う。ほとんど効果がないのに(そしてスパムに誘導されるリスクが大きいのに)お知らせメールなど逆効果だと思っている。

先だってもカード会社からやたらと使用お知らせが届くので、よく調べたら少額取引は通知しないようにできることが分かった。これをやると1000円百口とかの不正を見抜けないかもしれないが、やたらとメールが来てわずらわしいのとどっちを選ぶかである。

こうした不正から自分を守るには、ネットで通販をしないのが一番いい。しかしながら現在の情勢では、実店舗はどんどん少なくなり在庫も置いていない。通販に頼らざるを得ないし、カードを使わない訳にはいかない。

自衛策として、通販で使うカードは1種類にして、万一何かあった場合に止めても大丈夫なようにしているが、それだって消極的な自衛である。もっといい方法はないのか。

つらつら考えるに、通販サイトでいちいちカード番号や有効期限、セキュリティコードを入れる仕様は、どう考えてもリスクが大きい。そうした項目を入力しなければ、漏れるリスクも少なくなるものと思われる。

もちろん、カード番号を知っている会社から情報漏洩すればどうしようもないが(この間もソースネクストがそれをやったが、ごめんなさいで終わりである)、考えられるリスクは避けた方がいい。

ということで、カード番号などを直接入力する通販サイトは、できるだけ使わないことにしている(アマゾン払いとかそういうことですね)。実店舗であっても、むやみにカードを使わないことも重要である。かなり不便ではあるが、実害を避けるためには仕方がない。

だからYahooが個人情報の他社提供に同意しなければ使うなというのはとんでもない話で、お前ら不正利用の片棒を担ぐのかということである。

[May 8, 2024]

クレジットカードは便利だし、いまの世の中ネット通販なしですますのは難しいけれど、カード不正利用を防ぐためには自衛策が必要である。カード会社のお知らせも、スパムメールがこれだけ多いと逆効果に思える。

少欲知足 リタイアしたら欲を少なくする

最近の趣味は山登りとランニングで、カシノや旅行でおカネを使っていた昔と様変わりしてしまった。先日も、来シーズンの出場予定大会を探していたら、これは遠いこれは参加費が高いと次々あきらめざるを得なかった。

現役時代は、年に何回か海外にも出かけたし、出張のついでに足を伸ばすこともできた。だから、国内なのに費用の兼ね合いで厳しいというのは、悲しいとか切ないとまでは言わないもののちょっとだけ物足りない。

しかし、やりたいことができるのは、やりたくないことをしなければならないのとセットである。付き合いたくもない連中とつきあい、やりたくない仕事をするからやりたいことができる。ストレスをため込んで、その代償にやりたいことができたのである。

リタイアしてそろそろ8年になる。この8年で最大の収穫は、健康を取り戻したことである。体重を20kg近く減らし、検査の数値も段違いによくなって、糖尿病の薬も激減した。おそらく、寿命にして10年以上は違うはずである。

奥さんにそういうことを愚痴ると(おカネがないから1万円以上の参加費なんか出せないよ、とか)、「だったら働けばいいじゃない」と言い返されるのだが、あれこれ考えると二の足を踏む。ストレスを増やすより、やりたいことをあきらめる方がいい。

世の中、人手不足とか言っているけれど、例えば農作業とか、力仕事がすぐにできるかというとできない。ハローワークで失業保険をもらう際に必要とされる就職相談にしたところで、実際には個人情報を売り渡すだけである。結局のところ、他人のカネ儲けの手伝いをするだけなら、そんな仕事はしなくていい。

幸い、2ヶ月に1度いただける年金で、何とか生活していくことができる。おカネがかかるので二の足を踏む遠出だって、1年間近場の外出を控えれば何とかならないことはない。

こんな生活を7、8年しているので、おカネのかかることをできる身分じゃないだろうと自己規制するようになった。少欲知足、やりたいことを少なくする方が、限られた時間とおカネを有意義に使うことができる。

そんなことを言うと奥さんに、「もう一生分遊んだからいいでしょう」と言われてしまうのだが。

[May 10, 2024]

旅ランしたいとは思うが、参加費や交通費・宿泊費を考えると、年金生活者には難しい。とはいえ、現役時代に戻りたいかと言うと、それよりやりたいことをあきらめる方が賢いだろうと思う。

歳を取ったら深追いしない

「深追いは禁物」というのが、若い頃からの奥さんの口癖である。歳をとるにつれて、なるほどそのとおりと思うことが多くなった。

掃除でも何でも、気になることをとことん追いかけても、ろくなことにならない。いまでもよく思い出すミスが、天窓の窓枠がぼろぼろになっていたので、ニスを塗ってドライヤーで乾かしたら二重サッシが割れてしまったことである。天窓だけに放っておくこともできず、後から天窓ごと取り替える羽目になった。

年金生活になってからのルールが、「気になる場所は気になる方が片づける」ことである。そうすると家の外のことは奥さんが、中のことは私がすることが多い。普段の掃除はルンバを導入したし、クイックルワイパーやトイレ掃除は私の役目である。

築後二十数年の家だから、気になるところはいろいろある。だからといってそれを深追いすると、壊したり傷をつけたり、かえってダメージを大きくすることになりかねない。だから、「深追いしない。ほどほどが大事」と自分に言い聞かせている。

いくらきれいにしたところで、近い将来誰も住まなくなって、取り壊して更地になる可能性が大である。買った時は将来値上がりするという期待があったけれど、人口が減っているのに地価だけ上がる訳がない。

家の掃除もそうだけれど、健康管理も同じである。スポーツジムに行くと100kg近い荷重をかけて、声を張り上げながらトレーニングするシニアを見かけるが、筋肉がつくより先に血管が飛ぶのではないかと心配である。

私はというと、少し前から荷重を減らしている。マシンの25kgは20kgに、ダンベル6kgは5kgにした。気合を入れなくても上げられる重さで、回数こなした方が筋肉にはいいという話もある。

ランニングも、ハーフマラソン走ってバテバテだったのに奮起して月200kmにトレーニングを増やしたけれど、朝でも20℃近くなってきたし日差しもきつい。健康維持が目的なのに、かえって体の負担になっても意味がないので意識して減らしている。

なにごとも、ほどほどが大切であると思う。腹は八分目だし、酒はもうちょっとというところで飲み終える。多く飲んだり食べたりすれば偉い訳ではないし、後からつらくなるのは分かっているのだ。

普段の生活もトレーニングも同じこと。権現様のおっしゃることには「及ばざるは過ぎたるに勝れり」である。やり過ぎるよりも不十分な方がいい。人間にはちょうどよくというのは難しい。もう少しというところでやめておくのが賢い選択であろう。

[May 24, 2024]

トレーニングにおいては、特に歳を取ったらほどほどが大切である。日常生活についても同じことが言えそうだ。

「思い出の品」はもういい

先週は、パソコン周りからいろいろ部屋を片づけた。

発端は、画面でたびたび注意喚起されるWindows 10のサポート終了である。この間Windows 7のサポートが終わったばかりだというのに、忙しいことである。Microsoftも商売したくて大変である。

まだ1年半あるし、いまのところ新しいパソコンに買い替えるつもりはない。急に使えなくなることもないだろうと思っているけれども、万一に備えてパソコンが突然死した場合の対応をいろいろ考えている。

その中で、昔のパソコンとか、いま使えない周辺機器をどうすると考え出したら、結構奥深いところで気づくことがあった。そのことをちょっと書いてみたい。

十五年前に買ったネットブックというパソコンがある。メーカーはエイサー(台湾?)で、当時結構話題になったが、すでに国内では売っていない。おそらくサポートもしていないだろう。

この商品の特色はCD-ROMもFDDも付いておらず、ソフトの更新やアプリケーションの追加はネット経由になるというところにある。その分軽量化が図られていて、持ち運びには便利であった。

このネットブックを持って、ラスベガスにもマカオにも行った。出張や国内旅行でも使った。当時はたいへん重宝させてもらった思い出のマシンである。

ところが、Windows 10パソコンが使えなくなった場合に代替機として使えるかどうか試してところ、なぜかネットにつながらない。無線どころかLANケーブルにつないでもダメ。USB経由でデータのやり取りはできるが、Officeが入っていないしデータだけやり取りできてもあまり使い道がない。

なにしろOSがXPなので、とっくにサポート終了している。前に使ったのは四国お遍路の時、もう4、5年前である。その時は、どこでLANケーブルにつないでもさくさく動いた。しかしいまは、設定画面に戻って先に進まない。

ネットブックに限らず、普段使わないものを残しておく理由はいくつかある。何かの時に使うかもしれないこと、廃棄したら2度と手に入らないこと、もう一つは過去のできごととつながるところの記念とか思い出である。

機械ものについては、何かの時に使えるかどうかはたいへん重要であり、「2度と手に入らない」のは使えるという前提付きである。使えないものは、再び入手できないとしても実害はない。

そして、機械ものに限らず、記念とか思い出になるからという理由でとっておいたとしても、この歳になるとあまり意味がないような気がする。残しておいたらいずれ誰かが処分しなければならない。

もう67歳だから、これから先何十年も時間がある訳ではない。残しておいても残したことさえ覚えていないことだってありうる。そもそも、この歳になっても大事なのは今とりかかっていることであって、過去を振り返っている時間はない。

残すものが多ければ多いほど、自分以外に迷惑がかかることになる。これを世の人々は「終活」というのであろうか。


思い出の機械だからといって、もう使えないものを取っておいても仕方ないというところまで書いた。

そこで思ったのは、これは機械だけにとどまるものではなく、諸事全般、いろんなことに通じるのではなかろうかということである。

記念品とか、いつか読むかもしれない本、見たくなるかもしれないビデオなど残しておいたとしても、見る可能性は低い。読むんだったらいまでも読んでいるはずだし(村上春樹とか梨木果歩などいまでも時々読み返している)、読まないのなら置いておくだけスペースのムダである。

スペースのムダだけで済むならいいけれども、遠からずこの世からいなくなったり、いたとしても認知機能に支障が発生する可能性は少なくない。残すものが多ければ多いほど、自分以外に迷惑がかかる。

それまでの期間はどのくらいだろうか。平均余命=健康寿命と仮定しても、それまであと20年しかない。これまで10年以上使わなかったものを、あと20年で使うことがあるだろうか。

にもかかわらずこうした品物を処分するのに躊躇する理由は、かつて引っ越しとか大がかりな身辺整理をした際に整理したいくつかのものを、後になってたいへん後悔したからである。

ただその内容はというと、若い頃の経験をそれらがないことによって思い出すことが難しいからである。思い出せないからと言って実害がある訳ではなく、思い出せなかったで済む。深刻でないといえば深刻ではない。そして、そのうちそんなものがあることすら思い出せなくなれば意味がないし、あってもなくても同じである。

そう思うと、残すものがあったとしてもUSBとかクラウドとかに保存できるくらいで十分なような気がする。それなら、もしもの時は瞬時に消去できるし、そもそもスペースをとらない。クラウドなら利用料を滞納していればいつかは消える。

だから、ものとして残しておくのはいままさに使う必要があるものだけでよく、思い出はデータに残せば十分ということになる。そして、そのこと自体技術的には何の問題もない。かつてのネガフィルムとかアナログなものも、おカネさえ払えばデータ化できる。そこまでするかどうかの判断だけである。

これを世の人々は「終活」というのであろうか。

[Jun 11, 2024]

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