なんとなく思うこと・・・ニュースや世間のいろいろなこと、私が思うことと世間が感じることは違うみたいです。

NHKオウム特番の感想    デフレ脱却はそんなにいいことですか?
アルジェリア人質事件について    オリンピック・パワハラ事件    気になるCM
まだ経済成長するんですか?    異次元金融緩和と住宅ローン金利    暑い夏の思い出    経済暴論


NHKオウム特番の感想

先週の土・日にNHKのオウム特別番組が放送された。「700本の秘蔵テープ!」「元信者50人以上にインタビュー」「水面下で繰り広げられた警察vsオウムの攻防!」などなど番宣はものものしかったが、実際の放送は期待外れであった。まあ、NHKに期待したのが間違いだったのかもしれない。

私より5年上の全共闘世代にとって、エポックメーキングな犯罪は連合赤軍・あさま山荘事件である。そしてわれわれ世代のエポックは、オウム事件ということになるだろう。その意味で、せめてこのくらいは深く考えてほしかったということを述べてみたい。まず前半、一連のオウム犯罪の原点についてである。

番組を素直に見ると、制作側が言いたかったのは、「一連のオウム犯罪の原点は、事故死した信者の死体を不法に処理したことで、それを隠蔽したことが次の違法行為につながった。その意味では企業の不正行為と同一の構造である」ということのようなのだが、果たしてそうなのか。私はそうではないと思う。

というのは、「世界は俺の足元にひざまずくべきだ」と考えるのと、それを具体的に計画して実行に移すことの間には、きわめて大きな距離があるはずなのである。死体隠しがうまくいってまた同じことをくり返すだけなら「企業不正」と同じスキームで論じることが可能だとしても、そこからハルマゲドンへ一足飛びには進まない。

そこには、具体的な計画を進めることが可能な「組織」と「資金」が間違いなくあったはずである。いかれた教祖が世界を征服したいと考えた時に、少なくとも武装集団を構成するだけの組織と、化学兵器やプラントを自ら製作しうる資金が、オウムにはあった。船橋市のはずれで鍼灸院を開いていた程度の教祖・教団が、なぜ短期間にそこまでの組織と資金を確保することができたのか。NHKの試験秀才には、そうした疑問は浮かばなかったのだろうか。

新興宗教だからカネが集まるのは当り前、と思い込んでしまう傾向がわれわれにはあるが、それほど簡単なことではない。村上春樹の「1Q84」に、そうしたノウハウは他の新興宗教から学んだというヒントがあったが、おそらくそれもあるのだろう。個人的な推測をいうと、おそらくそこにはネズミ講的な要素があって、オウムの組織と資金を大きくした人は、ネズミ講をやっても成功(というのかどうか)したと思われる。

もう一つは非合法な製品販売による収益があったはずなのだが、そこにはマスコミは触れないということにしたようなので、NHKが避けて通るのも仕方がない。いずれにしても、そうしたダークサイドを避けて通って「17年目の真実」などと言われても、片腹痛いのであった。

組織についてもう一つ思うのは、究極のトップダウン方式だけに、才能のある人間にとって非常にやりやすい、風通しのいい組織だったのだろうということである。サリンや特殊部隊など反社会的なものはともかく、広報宣伝や技術開発、原料調達、輸送や物流など、才能のある人間が大きな仕事を任せられる余地が大きかったのではないか。惜しむらくは、それが信者全体の生活水準の向上には向かわなかったのである。

才能のある人間が、思う存分能力を発揮できたからこそ、オウムは警察や行政、マスコミを出し抜くことができたのではないか。



後半はなぜ警察がオウムを止められなかったのかという点である。番組を見た方はおそらく同様の感想を持ったと思うが、現場第一線だった刑事さん達は引退後も眼光鋭く、当時のことを昨日のことのように語ったのに対し、最高責任者である警察庁刑事局長はまるでひと事のように問題意識が感じられず、これではオウムに敵わなかっただろうとある意味納得がいった。

最もあきれたのは、「宗教団体があのようなことをするとは想像すらしなかった」と平気で答えていたことで、あれは「私はバカです」というのと同じ意味である。少しでも日本史をやっていれば4、500年前に浄土真宗が武力闘争を行ったのを知らないはずがないし、世界をみればそういうことのある方が当り前なのは大常識である。

そもそも普段から報告をちゃんと読んでいれば、教団がうさんくさいことをしているのは分かるはずである。テレビや週刊誌を見た一般人がおかしいと気付くものを、都道府県の警察組織を統括する立場の人が知らないと公言することを恥ずかしいと思わないとしたら、日本のエスタブリッシュメントの質の低下はもはや救いようがない。

(「私たちも気付かなかったが、世間の人達も同じだったでしょう」という意味ならまだ分かるが、当時から教団がうさんくさいということは周知の事実だった。証拠がないとか信教の自由とか言って、警察が何もしなかっただけである。)

その意味では、「オウムのトップvs警察のトップ」の勝負は、明らかに警察の負けであった。もし私があの立場でインタビューに答えるとすれば、まず事件を未然に防げなかったことを陳謝するとともに、「そもそも警察組織は、犯罪の防止と犯人の検挙を行うものである。オウム事件のように内乱罪にあたるような大規模組織事案に対しては、警察で対処することに限界がある」と問題提起しただろう。

(ちなみに内乱罪は、成功すれば犯罪として処罰できない。織田信長も坂本龍馬も、当時もいまも内乱罪で、体制を転覆させたから犯罪でなくなっただけである。)

オウム事件に先立つ連合赤軍をはじめとする過激派対応に際し、これは警察ではなく軍隊(自衛隊)の所管ではないかという議論は当時からあった。佐々淳行氏の著作を読むと、当時の官僚トップであった後藤田官房長官がそうした意見を一蹴した経緯が述べられている。オウム事件でも、上九一色強制捜査の際の資材提供や、サリン散布後の地下鉄除染は自衛隊の協力で進められた。

そうした経緯も全く素通りして、「あと一歩のところまで追い詰めて防げなかったのは、まさか宗教団体がそこまでするとは思わなかったから」というのが制作者の意図だとすれば、これも寂しい話である(制作者の知性が)。

オウム事件を風化させないというのは、センセーショナルな謳い文句で視聴率を上げることではなく、その時点その時点で新たな視点から事件の本質を考えるということのはずである。その意味で、当時の警察やマスコミと同様、2012年のNHKもオウムには敵わなかったということになるだろう。

[Jun 2 ,2012]

デフレ脱却はそんなにいいことですか?

昨年末の総選挙の結果、自民・公明の新連立与党が衆議院の多数を占めることとなった。これだけ勝ってもなぜ自民単独政権ができないのかという疑問はさておき、安倍新政権はデフレ脱却を最重要課題と考えているようである。円安と株高が急激に進んでいるところをみると、マーケットもこれを歓迎しているようである。

ところで、デフレ脱却がそんなにいいことなのかどうか、個人的には首をかしげるところがあるので、今回はその話。

家の奥さんをみていると、世の中の多くの人は、新聞とかTVで言っていることはそんなに間違っていないだろうと思うらしいのだが、彼らは初めから何を言うかが決まっており、その結論は自分の頭で考えている訳ではない。新聞もTVも、広告主の意向で意見が決まる。ちなみに、NHKの広告主は受信料を払っている人ではなく、総務省と国会議員である。

世間の論調の多くは「デフレは悪い」ということだが、そもそもインフレとかデフレは経済学的には「貨幣vs財の交換比率」の問題だから、そのこと自体がいい悪いという訳ではない。それぞれ有利なセクターと不利なセクターがいるだけである。まして、操作できるのは日本国内の金融指標(金利とか通貨量)なので、世界経済の大きな動きには対応しようがない。

今は景気が悪いというのが一般的な認識で、確かにバブルの時代と比べるとおカネの流れやモノの流れが滞っているように感じられる。しかし、その原因がデフレにあって、インフレになれば景気が良くなるという見方はかなり甘い。それに、インフレ歓迎論が盛んであるが、本当のことを言うと、経済的に弱者とされるセクターはインフレになれば不利になるのである。

考えてみれば当たり前のことで、同じ収入で年々より多くのモノが買えるのがデフレである。インフレになれば、収入が変わらないのにモノの値段が上がる。従ってより少ないモノしか手に入らない。過去の内外における歴史を振り返っても、生活不安、世情不安が大きくなるのはインフレの場合が多いのである。

もしかしたら、インフレになるとスライドして時給が上がると思っているのかもしれないが、それはちょっと(というか、かなり)甘くはないか。確かに物価スライドで年金額等は調整されるが、物価が先で調整が後である。ましてや、労働組合が強かった昔と違い、サラリーマンの固定給に反映されるとは限らない。雇用形態も多様化しているし。

景気がよくないのはデフレのせいとされるのだが、インフレになったところで、おそらく時給も上がらないし中小企業の仕事も増えない。気分を変えようというレベルでインフレを歓迎する論調が強いのだが、おそらくそれは悪いチョイスとなるだろう。総量規制でバブルをハードランディングさせ、今日の不況を招いた財務省がまたまた影響を読み誤る可能性は大である。

私にとってバブルの時期は、やたらとタクシーがつかまらなかったのと毎年電車賃が上がった記憶が鮮明だけれど、あの時代をなつかしがる人がいることは理解できないではないし、ましてバブルの頃はまだ生まれてないという人も少なくないのである。インフレ誘導は、きっと行き過ぎてしまうだろうと思う。

われわれにできることは、そうした将来のリスクを勘定に入れて、それでも破たんしないように生活していくだけである。

[Jan 8,2013]

アルジェリア人質事件についての感想

アルジェリア東部イナメナスの天然ガスプラントで起こった人質事件は、最初に逃げることができた人以外は絶望的という痛ましい結果となった。こうした事件で思い出すのは、はるか昔私が就職した当時のことである。

1970年代の第一次・第二次オイルショックを契機に、政情が安定しているとみられていたイランに、三井物産を中心とした日本の企業グループが数千億円に及ぶ大規模な資本投下を行った。石油の安定確保が喫緊の課題であったことと、当時産油国の中では欧米寡占資本(石油メジャー)がイランにはあまり進出していなかったことが要因であった。

当時のゴルゴ13にも登場するパーレビ国王が第二次世界大戦前から治めていた国で、石油価格高騰を背景に近代化政策を進めていたのだが、それに反発するイスラム主義勢力が蜂起して1979年にイラン革命が勃発。パーレビ国王は亡命、国外追放されていたシーア派の指導者ホメイニ師が帰国してイラン・イスラム共和国が成立した。

以降、アメリカ大使館人質事件、イラン・イラク戦争と続き、イランの政情はきわめて不安定となった結果、日本の企業グループが投下した資本はすべて回収不能となった。建設途上のプラントは産業廃棄物となり、砂漠に敷かれたパイプラインもメンテナンスできないまま使えないものとなってしまった。

ちょうどこの頃が私の就職時期である。数千億円を砂漠に捨ててしまった企業グループへの就職を考えていて、やはり海外は危ないと危機感を持ったものであった。結局就職したのは、そうした最前線とはやや距離があると思われたそのグループの銀行である。

さて、その銀行には、私の小学校からの親友の叔父さんが勤務していた。当時は海外支店の支店長をされていたから、幹部職員である。ところがその支店長が現地で交通事故に遭い(現地の運転手が運転していたという)、亡くなられてしまったのである。交通事故は万国共通かもしれないが、当時の感想として、やっぱり外国はこわいと思ったのであった。

以来、新婚旅行で西海岸に1週間行った他は、40歳過ぎて海外カシノに目覚めるまで、パスポートを使ったことはなかったのである。その後は数十回という単位で外遊しているが、SAASが流行れば行かないし、中韓関係が厳しくなれば控えることになる。そうこうしているうちに、仕事が大変になって行きたくても行けなくなってしまった。

話を戻すと、日本国の主権が及ばない場所に行くということは、程度の差はあるとしても必ずリスクは伴うのである。無抵抗の民間人を巻き込んで銃撃戦というのは現代の日本ではありえないが、先方にとっては他人の国で商売している異教徒にすぎない。150年ほど前には、日本だって大名行列を横切ったイギリスの民間人を切り捨て御免にしているのだから、あまりえらそうなことは言えない。

日本語も使えないから、例え自分がカムイで手のひらに「夙」と書いて見せたとしても武装勢力がひるむとは思えない。海外で丸腰の場合、身を守る手段も限られる訳である。だとすれば、「武士は用事のない外出はしない」というのも、一つの生き残り策なのかもしれない。

[Jan 24 ,2013]

オリンピック・パワハラ事件の感想

オリンピック女子柔道日本代表のパワハラ事件が、かなり大きな騒ぎになっている。この話、そもそもの始まりからどちらにも味方できないと思っていたが、現在までの展開をみたところ全くその見解は変わらない。

そもそも、大阪の高校のような学校の部活の話と全く違うのは、オリンピック代表選手というのは大のおとなで自分で考えて行動しなければならないのに対し、子供(高校生だって子供だろう)には逃げ場がないということである。だから、部活での体罰(暴力)は厳しくとがめられなければならない。

一方でオリンピック代表は、嫌だったら辞退すればいいだけの話である。もしかすると、オリンピック代表であることで大学や会社にいられるというメリットがあるのかもしれないが、それはどうにでもなることである。小突き回されてプライドを捨てるのか、カネや名誉はなくなってもプライドを持って生きていくか、それはそれぞれの人が選ぶ人生である。

こういうことを言うと、「オリンピックはみんなの夢だ」などと叫ぶ人がいるかもしれないが、別に私にとっては夢でも何でもない。はっきり言って、その選手が世界の舞台で活躍したいという夢を持っているというだけのことで、仮に代表がA選手からB選手になったところで、他人には痛くも痒くもない。代わりはいくらでもいる。

強化委員長から監督からわからんちんばかりだったら、にっこり笑って「私には代表は無理です」と辞退すればいい。そうやって日本代表のレベルがどんどん落ちるのを外から楽しみに見ていればいい。そういうわからんちんの組織は、4人や5人代わったところでやっぱり同じである。そういう人達と付き合わないというのが最善策である。

どうせ告発するんだったら、匿名というのもどうかと思う。これでは、企業によくある怪文書騒ぎと同じで、安全圏から他人を貶めるというのはあまり好きではない。結局のところ、「代表には残っていい目は見させてもらうが、監督や役員は気に入らないからやめてちょうだい」という意図なのだろうか。

いま江戸時代の歴史についていろいろ調べているのだが、藩の中で不満分子とされる派閥が、敵対派閥や藩主の不正を幕府に届け出るということが結構あったらしい。そうした場合、両成敗で藩の取り潰しとなる例もあるが、上士を訴えるとは何事ということで、下の者だけが罰せられたことも少なくない。今回の女子選手グループには、せめてそれ位の覚悟を持って世に訴えてほしかったものである。

もちろん、監督や強化委員長、全柔連の幹部がどうしようもないことはいうまでもない。これ以上やったらまずいかもしれないという分水嶺を見極めることのできない者が、武道を教えていていいのだろうか。武道の本質の一つは自分の身を守ることであり、彼らは自分の身を守ることができない、武道の指導者として失格ということを満天下に示してしまった。

武道の達人のほとんどすべてが、武道はテクニックではないと言っている。突き詰めると、孫子いうところの「戦わないのが最上」ということになるのかもしれない。指導とはテクニックを教えることでメダルを取る者は誰より偉いなどという教育をしているから、内柴某のような輩も出てくる。

そういう意味では、武道のスポーツ化はすべきではなかったし、学校教育に武道を必修化などすべきではなかったのだろう。武道は本来、自分との戦いでありテクニックではないのである。

[Feb 7 ,2013]

気になるCM

アメフトやボクシングを除いては、あまりTVを見ない。WOWOWは基本的に番宣以外のCMは入らないが、G+やGAORAは有料放送なので一般的なCMはそれほど入らないものの全くない訳ではない。G+などは現地映像のCMはこまめに消す割に、自分のところの番宣はうるさいくらいに入れる。読売グループの体質的なものだろうか。

さて、今回の本題はそういうことではなく、ごくたまにTVを見ているときに出てくる気になるCMについてである。

かつてバブル末期に、「武富士ダンサーズ」というCMがあった。サラ金業者の最大手である武富士が、業務内容の説明もセールスも全くせずに、ただひたすらレオタード姿のダンサー20名ほどがダンスエクササイズをしているのを流すというものである。これが、まさに四六時中といっていいほどTVに流れたのであるが、非常にうさんくさかった。

企業イメージ向上のためのCM製作というのはあっていいと思うし、視聴者の興味を引くアイテムを提供して企業名を浸透させるというのもありうる作戦である。しかし、その当時、全国的に駅前や大通りにサラ金ビルが進出し、サラ金、特に武富士の名前を知らない者はいなかったのである。

おそらくこのCMは、ワンマンオーナーとして有名な同社の社長が主導して作ったものと思われた。受け手不在の、オーナーの趣味である。その後どうなったかはご存じのとおり。一つ補足しておくと、利息制限法と出資法の最高利息に差があり、その間の利息を取っていいかどうかはグレーゾーンであるというのは、当時すでに知られていた。青天の霹靂で利息返還訴訟が出てきた訳ではない。

その後かなり時間が経過して、私のセンサーに響いてきたのは「安愚楽牧場」である。最初は、牧場で牛が放牧されている映像や、結果としてステーキになった(涙)映像など、ごくありふれたものだったが、徐々に変質して、最後は着ぐるみの牛が温泉に入ったりゴルフをしたりするイメージCMとなった。これも、非常にうさんくさかった。

なぜうさんくささを感じたのかというと、牧場の製品を利用してほしい、おいしいのでぜひお買い上げ下さいというのであれば前段のありふれたCMで十分だし、そもそもおいしくて安全なお肉を、できるだけ安価かつコンスタントに提供することが最大の宣伝のはずである。それなのに、なぜわざわざ多額の宣伝費用をかける必要があるのか。

それは、この宣伝の目的が、牧場のおいしい肉をより多くの人に知ってもらいたいという意図から発したものではなく、預託金制度といって、牧場におカネを投資してもらいそれに利息を付けますという、いってみれば投資の勧誘、おカネ集めの宣伝だったからなのである。

安愚楽牧場の直接の破たん理由は大震災によるものだが、牛をかくれみのにした投資勧誘が事業の実態だったことからして、遅かれ早かれ問題となったことは間違いない。ちなみに、このCMを見るたびに、「またインチキ牧場のCMだ」と奥さんに言っていた。

それではごく最近にセンサーに引っかかってきたのはどのCMかというと、長くなったので続きは次回に。



そのCMとは、「家庭教師のトライ」である。 このCMはしばらく前から古い映画やアニメのアテレコで宣伝していたのだが、このところ「アルプスの少女ハイジ」に特化している。アニメの中にセールスマンのような人物を登場させたり、おじいさんに変なセリフを言わせたり、やりたい放題である。著作権者はおカネをもらえば作品に何をされてもいいのだろうかと思うが、なにしろ品がなさすぎるのである。

同じアテレコでも、auの「巨人の星」はそれほど下品だとは思わない。その違いがどこから出てくるのか考えると、やはりトライには武富士や安愚楽牧場とも共通するうさんくささがあるからだと気がついた。その共通さは言ってみれば、「商品の優れたところを宣伝するのではなく、それ以外に何か目論見がある」という点に集約される。

教育産業、受験産業が産業として成り立つのか、まっとうなのかという議論はここでは置く。相対的に上位のポジションをおカネを出してでも得たいというニーズがあり、それに応えるだけのノウハウが提供されるのであれば、市場経済としてそれ以上どうこうは言えない。あとは個人個人の思想信条の世界である。

ここで、教育産業、受験産業に求められるニーズ、つまり、「他の受験生よりも相対的に優位でありたい」という要請に応えるサービスについて考えると、例えばそれは、「画期的な教育プログラム」なり、「優れたノウハウを持つ教師」といったものであろう。そしてそれは、安価で多くの人に提供されるものであってはならない。なぜかというと、ニーズそのものが「相対的な優位」にあるからである。

例えばその会社が画期的な教育プログラムを持っていて、そのプログラムによりテストの得点が10点上がるとする。ところがこの教育プログラムをすべての受験生が習得したとすれば、平均点が10点上がるだけのことであって、受験生がその教育プログラムを習得するメリットはあまりない。習得しないことによるデメリットはあるかもしれないが。

その受験生にとっては、そうした優れた教育プログラムがあるならば、できるだけ少ない人数、可能ならば自分だけが習得することで最大のメリットが得られる。したがって、教育産業、受験産業の仁義としては、「単価を高くとってできるだけ少ない人数を対象とする」のがまっとうなやり方である。(これが産業のあり方としてまっとうかどうかの議論とは別である。さきに前提を置いたとおり)

それならば、「格安で優れた教育プログラムを提供します」と宣伝しているこの会社の目的は何なのか。少なくとも、自分たちが教えた生徒たちが優れたパフォーマンスを残すことではないのは確かである。察するところ、分母(生徒)の数を増やして、有名私立や有名大学の合格者数を多く見せよう(割合は減るが絶対数は増える)ということなのは見当がつく。

最近の少子化傾向と軌を一にして、かつては集合学習(塾)が中心であった受験産業は、個別学習(家庭教師ないし個人指導)に中心が移りつつある。一方で、塾の教師や家庭教師の時給は、外食産業の時給と大差なくなっている。時給に差がないということは、「優れたノウハウを持つ教師」に当たる確率も低いということである。

言葉で述べようとするとなかなかしっくりこないのだが、私が「トライ」に感じるうさんくささの源はそういうところにある。他にも、「あなたも1億円貯められる。○○投資銀行」みたいなCMも見かけるが、ああいうのは騙される方も騙される方なのでどうぞご自由にという感じ。ちなみに、100円ずつ積み立てたとしてもいつかは1億円になる。

[Mar 6 ,2013]

まだ経済成長するんですか?

久しぶりの「骨太の方針」が徐々に明らかになってきて、安倍自民党政権は引続き経済成長を目標に掲げる気配である。こうしたことに関しては、私自身いくつか思い出がある。今から30年近く前、まだ銀行員をやっていた時代のことである。

当時は支店で貸付の仕事をしていて、担当する取引先の業績見通しや、担保の状況を精査して、どのくらいの融資ならば貸し倒れリスクを最小限にとどめられるかというような書類を作っていた。その場合、リスク・ミニマムが原則だから、取引先の売上・利益の伸びはあまり大きくは見込まない(GDPや消費者物価の伸び程度)というのが、保守的な考え方であった。

ところが、当時支店の偉い方のいわく、「○○君、売上の伸びがこれだけってことはないだろう。取引先は販促努力もしてシェアをどんどん上げていくんだから、もっと伸びるという積りで考えてもらわなければ困る。」書類を作り替えさせられて、その取引先の融資枠は大きく増やされることになった。

売上を伸ばすということは、多くの場合販売経費をかけたり他社より安く売るということだから、売上高利益率は下がることになる。ところが書類上は同じ利益率で計算するから、20%の売上増だと利益も20%増、あっという間に融資可能額は倍になってしまう。そうやってどんどん貸し込むことにより、成績を上げるというのが偉い人の考え方であった。

その方はいい大学・いい学部のご出身の方で、そうやって成績を上げることにも熱心だったけれど、その後役員になったという話も聞かないので(もっとも私がその銀行をやめてしまったが)、それほどご出世された訳ではないようだ。もちろん会社で偉くなったから幸せということではないのだが、「この人はいい大学を出たのに頭は悪いんだ」と思われただけの見返りは得られなかったということである。

何をいいたいのかというと、経済を成長させる(狭義では会社の売上高を伸ばす)という計画は結果としてそうなればいいということであって、最初からそれを見込むというのは何か他に意図があると疑った方がいいということである。

昔の偉い人は、取引先の売上を多く見込むことによってたくさん貸付ができるようにした。いまの偉い人は高い経済成長を見込むことによって何をしようとしているかというと、少なくとも予算上は、税金がたくさん入ってくるので国家財政は健全ですよという形を見せたいのだろうと思う。

現在、国債の発行残高は約700兆円である。一方で、税収は約42兆円である。世帯収入420万円の家庭が7000万円の借金があるということで、そういう家もまれにはあるだろうけれど、全世帯すべからくその状態というのはありえない。ところが日本国はそういう状態で、国債の利払や償還(期限がきたら返さなくてはならない)のために、約44兆円、税収以上の新規国債を発行して何とかやりくりしている。

ここで経済成長が止まると、税収が伸びないからますます借金を増やさなければならない。以前は国債の主要受入先は銀行や生保、郵貯であった。つまり、おじいさんおばあさんの世代が使わずに貯めたおカネが国債を買い支えていたということである。7000万円の借金があってもその大部分が親からだったら、破たんしない。だからこの家計で持ったのである。

ところが、さすがのおじいさんおばあさんもそれほどの余力はなくなってきた。だから、それ以外のところ(市場)に国債を買ってもらう必要がある。ところが、市場ではなるべく安く買うというのが鉄則だから、結果的に国債価格は下がって金利が上がる。金利が上がって利払いを増やせば支出(国債費)が増えるから、最初に戻って借金を増やさなければならない。

ある意味、以前に民主党政権の言っていたことの方が本質的に問題解決に向かっていて、支出を削減し税率を上げるのがまっとうなやり方なのである。ところがそれを言うと選挙に負けるから、自民党政権は死んでもそれは言えない。だから経済成長というフィクションを前面に掲げて、自分でも分かっているウソで乗り切るしかないのである。

そもそも、日本の人口は減っていて、若い世代の可処分所得も昔より減っていることは明らかだから、いまから経済成長するとしたら海外市場を開拓する以外に方法がない。400年ほど前に、戦国時代が終わって日本国内の市場がなくなり、海外派兵をしたときの状況とよく似ている。海外市場を開拓するということは、その分海外の人が割を食うということである。

経済成長のフィクションは読み物として読ませてもらい、われわれはもっと地道に自分の足下を見ないと厳しいと思う。

[Jun 10, 2013]

異次元金融緩和と住宅ローン金利

7月6日、関東地方でも梅雨明けが発表された。一昨年の大震災から、天が電力事情を慮ってくれたのかそんなには猛暑となっていないが、2013年はどうだろうか。とりあえず土・日はエアコンなしでは頭がくらくらするほど暑い。

実は土曜日は、山に行く予定で荷物から飲み物から準備して早起きしたのだった。けれども、外は家の中から聞こえるくらいすごい突風である。風の強い日に出かけて電車が止まりひどく難儀したことがあったし、日本海側に低気圧があって南風が強い日は必ず暑くなる。無理は禁物と思って再びお布団に入ったのであった。

予定が空いたので、ホームページの整理をしたりいろいろ私用の雑用をこなす。もうすぐNFLも開幕するので事前リサーチも欠かせない。ホームセンターでシャンプーとデンタルフロスを買い、図書館で来週読む本をみつくろって帰ったら、銀行がこれから行ってもいいですかと言ってくる。しばらく前から借り換えの相談をしていたのである。

それにしても、休日も出てくるとはいまの銀行は大変である。われわれの時代は土曜日に営業していたし(交代で休みをとることにはなっていたが、そんなにうまくはいかなかった)、日曜日も行事とかで集められることが多かったので似たようなものだが、いまやローンの獲得競争で土・日は実質的に営業体制なのだそうである。

皆様ご存じのとおり、いま日銀の資金供給は異次元の金融緩和状態にあり、金利は非常に低くなっている。10年固定の住宅ローン金利でも、各銀行1%台をオファーしてくる。これで採算がとれるのだろうかと思うが、それは銀行側が考えることである。そして、かつては50代にローンを新規で貸してくれるところはなかったが、いまの時代はなぜか大丈夫である。

問題は借換えに伴う保証料や抵当権設定費用であるが、それを勘定に入れても1年か2年で元が取れる。ご近所の様子をそれとなくうかがってみても、借り換えをしているところは少なくないようだ。というわけで、借換え手続きが進行中という訳である。

年齢からして、新規でローンを組むことになればおそらく人生最後のローンということになる(年金担保で借りなくてすめばの話だけれど)。就職した頃にクレジットカードのキャッシングや銀行のカードローンを借りて以来の借金生活が、いよいよ大詰めに近づいたということである。

思えば、その頃のカードローン金利は14%、住宅ローンでも8.4%だった。定期預金金利が8%の時代だから、そのくらい金利をとらなければ銀行もやっていけなかったのだが、住専とかサラ金だともっと高かった。もっとも、グレーゾーン金利の返還請求で、サラ金は大変なことになってしまったけれど。

高い金利の時は貸す立場で、低い金利の時は借りる立場というのは、考えてみるとうまくやっているようにも思えるが、その分給料も下がっているので、いいことばかりではないのでありました。

[Jul 8, 2013]

暑い夏の思い出

先週は毎日、何もする気がおきないほど暑かった。何しろ、連日35℃以上である。ここまで暑くなると、健康(と節約)のため冷房はなるべくかけないようにとか、せっかくの連休だからどこかに行こうとか、全くどうでもよくなってしまう。嵐の過ぎるのをただ待っているような心境であった。

せっかくなので、これまで半世紀の中で個人的に印象深い暑い夏について書いてみる。

最初に思い浮かぶのは、1984年。結婚して最初の夏である。この年は統計的にみると大した猛暑ではなかったのだが、とにかく暑いという印象が強かった。おそらく、大阪府枚方市の樟葉(くずは。住所は当用漢字を使って楠葉と書いた。)で過ごしたからに違いない。いまだに、関西というと夏暑くて大変だと思ってしまうくらいである。

淀川沿いのこの土地、冬は寒く夏は暑かった。特にこの夏は、全く外に出る気にさえならないほどであった。15階建てマンションの8階に住んでいたのだけれど、朝起きた時にはもう暑かった。この夏の夏休みは結局、1週間ロサンゼルス・オリンピックの中継を見て過ごした。昼は中華料理屋から出前を取った。中華丼と五目そばが同じ味だった。

結婚した当時、せっかく関西に住んでいたにもかかわらず、奥さんを連れて京都奈良の神社仏閣を見て回ったことなどほとんどなかった。その原因の一つが、夏が非常に暑く冬が非常に寒く、気候のいい時にはゴルフにばかり行っていたためである。むしろ千葉に戻ってからの方が、よく行っている。不経済なことである。

ちなみに、84年8月のわが家の電気代は12,658円である。なんと、去年の8月(12,262円)よりも高い。当時、エアコンがあったのは6畳の寝室だけ。いまと違って古いタイプのエアコンなので省エネタイプではないこともあるのだけれど、エアコン台数5対1で電気代がやや高かったというのはすごい。

次に思い浮かぶのは1994年。この年は当時、「観測史上最も暑い夏」と呼ばれた異常気象の年であった。この頃は子供が小さかったので、毎年夏休みに北海道まで車で行っていたのだけれど、行けども行けども涼しくならない。津軽海峡を越えて北海道に入っても30℃以上の日が続いたのだから大変だった。

というのは、その当時の北海道は、旅館やホテルでも冷房が付いているところはそれほど多くはなかったのである。普段であればせいぜい25℃程度、夜には10℃を下回ることも珍しくなかったから、冷房の心配などあまりしなくてよかったのである。ところが、この年はどこまで行っても30℃。冷房なしではかなり厳しいのである(この夏以来、北海道のエアコン普及率が上がったといわれた)。

この夏、北海道で6泊くらいしたのだけれど、冷房がちゃんと付いていたのは最後の2泊だけ。この時は親子ともども大層バテてしまい、観光もせずに冷房の効いたホテルの部屋でまったりしたのでありました。ちなみに、94年8月の電気代は9,999円。1週間北海道に行ったことを勘定に入れるとかなりハイレベルである。

この後16年、2010年に再び猛暑が来て、「観測史上最も暑い夏」は現在のところ2010年となっている。コンピュータの仕事をしていた時期なので、マシン室の室温が上がり過ぎてまずいということが印象に残っている。ちなみに、2010年8月のわが家の電気代は13,078円。昔と違いエアコンの台数が多いので、増えているのは仕方がない。

2010年の夏については残念ながら仕事以外であまり強い印象は残っていない。忙しすぎてほとんど休んでいないから、そのせいもあるのかもしれない。考えてみれば過去に印象深かった暑い夏は、休暇の時にやたら暑かったということで印象に残っているのでありました。

[Jul 15, 2013]

経済暴論

先日来、経済に関していろいろな考えが浮かんでいる。この間、山形浩生からクルーグマン(2008年ノーベル経済学賞)を読んで刺激されたのがはじまりなのだけれども、考えているだけだと忘れてしまうので、せっかくだから記事に残しておくことにした。

まず最初に結論だけ述べておくと、以下のとおりである。

1.アベノミクスとして展開されているインフレ・ターゲット(いまはリフレ政策とか言うようですが)はいいことだと思う。でもそれは、世間で言われているように景気を良くするからではなくて、現代版の徳政令としての効果が期待できるからである。

2.「三本の矢」として成長戦略が重視されているようだが、わが国においてこれ以上の経済成長は望み薄である。国内マーケットは人口減により先細りが避けられないため、必然的に国外のマーケットでシェアを伸ばさなくてはならないからである。資源がなく人件費が高いわが国にあって、TPPにより貿易が自由化に向かえばシェアを確保するだけで手一杯である。

3.過去において、好景気が実感される時代には労働市場が「売り手市場」となっている。仮に現在のスキームで数字だけ成長したとしても、「売り手市場」が実現しない限り、いわゆるセレブ(上位1%未満の所得層)の所得は伸ばすかもしれないが、国民の多くが景気回復を実感することはないであろう。

以下、それぞれの論旨について詳しく書いてみる。

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まず第一の論点であるリフレ政策について。いまわが国ではアベノミクスということでインフレ・ターゲットを目指した財政金融政策がとられているが、クルーグマン先生いわく、これは日本が流動性のわなの状態に陥っていて、金融政策が効かない状況にあることから、ここから脱する手段として有効だという考え方である。

確かに、金利は現在限りなくゼロに近いから、これ以上金利を引き下げることは困難である。しかし、インフレというからには金利も上がらなければならないのだが、もしかすると金利を上げることは政治的に難しいのではないか。そうなるとわが国の現状は、金利が上方にも下方にも硬直してしまって動かすことが難しくなっていることになる。

昨年来の景気上向き効果(のように見えるもの)は、政府・日銀のアナウンスにより為替が円安に動き、それに伴って輸出企業の収益増期待から株価が上昇し、資産効果により消費が伸びているというのが実情である。

しかし、アナウンスどおりにインフレに向かうのであれば、中長期的に金利は上昇しなければならない。実質金利(最低が0)プラスインフレ率が名目金利だからである。ところが、金利が上昇すると銀行・保険会社の持っている国債価格が下がるので、それらの企業の収益悪化予測から、株価は下げに転じる(実際に金利が0.9%に上がっただけで株価に影響した)。

つまり、いまアベノミクスがやろうとしていることは、インフレを起こすと消費者には思わせつつ、実際にはインフレは起こさないというアクロバティックな政策運営なのである。デフレ克服といいつつ、本当に逃れたら別の問題が出てくるというのがいまの状況なのである。



さて、マネーサプライを増やすと言うのは簡単だが、実際にどうするかは簡単ではない。それができるのは中央銀行(日銀)だけだが、日銀がおカネを増やそうと思ったからといって、諭吉をたくさん刷ってスカイツリーの上からばら撒けばいいというものではないのである(そうしてくれたらうれしいが)。

会計処理上、日銀がマネーサプライ(=流通する日銀券)を増やそうと思ったら、基本的に手段は二つしかない。マーケットに流通している債券(おもに国債)を買ってその代金を日銀券で支払うのが一つ。もう一つは市中銀行に貸出しを増やすことである。いずれの場合も、日銀は日銀券を増やす代わりに、債券または市中銀行への債権を増やして帳簿を合わせるのである。

(厳密に言うと、他にもドルやユーロを買うとかの手段もあるが、量的にはこの2つの手段が圧倒的といっていい)

まず債券を買う場合(いわゆる買いオペである)、仮に供給が同じで需要が増えることになれば、売る人より買う人の方が多いことになるから、債券価格は上がる。債券価格が上がるイコール金利が下がるということだから、低くなった金利でおカネを借りてでも設備投資しようという人が増えて、景気はよくなるというのが金融政策の目論見である。

ところが、金利はゼロ以下には下げられない。現在のように限りなくゼロ金利に近づいている場合は、「流動性のわな」といって、それ以上マネーサプライを増やしたからといって景気を刺激することはできない。8%と7%の金利差は大きいが、0.8%と0.7%では大して変わらないのである。

そして、ここで仮に売りの方が多くなって債券価格が下がり、金利が上がってしまうとどうなるかというと、日銀は資産として抱え込んでいる債券価格に含み損が発生してしまう。売りの方が多くなる事態というのは、例えば日本国債の信用度が急に下がってしまうような場合がありうる。

日銀にとって最も重要なのは目先の景気対策よりも、国の信用、円の信用を守ることである。韓国、アルゼンチン、ギリシャのように絶対ならないことが重要なのである。したがって、そういったリスクを度外視して無制限に買いオペを続けることは考えられない。

(と下書きしていたら、水曜日くらいの読売新聞で同じようなことを書いてあった。)

市中銀行にしても同様で、大事なのは何より自分の銀行が存続することである。景気回復のために貸し倒れの危険性の高い融資をして貸出しを増やし、その資金を日銀から借り入れるなどというリスキーなことをそうそうするとは思えない。せいぜい、住宅ローンを増やすくらいだろう。

繰り返すけれど、マネーサプライを増やすことは、口で言うほど簡単ではないのである。

次に指摘されることは、いま世界は資本・労働・財・サービスの移動が国境を越えて流動化していることである。いい悪いは別として、またある程度の制限こそ残るとしても、世界が一つのマーケットとなりつつあるということである。

世界が一つというと耳ざわりはいいのだけれど、実際に起こることは、労働力はいちばん労働単価が安いところで調達され、製品はいちばん製造価格が低いところで生産されるということである。労働単価が低いのは開発途上国ないし通貨が弱いところであり、製造価格が低いのは、原材料がより安く調達できるところ、製造コストが少なくてすむところ、排気、排水などの規制が少ないところである。

いろいろなものが安く手に入るようになったと喜んでいたら、農業生産も工業生産も国内では行われないようになって、ますます国内の労働需要が少なくなる(働くところがなくなる)。次に円安が来れば、輸入物価が上がってこれまでの値下がり分がいっぺんに飛んで行ってしまうこともありうるのである。



自由化やグローバリゼーションがいいことだと、マスコミでは無条件に前提されているようだ。反対する人達の意見(日本だったら農家の人とか)も公平に取り上げているようであるが、よくみていると既得権益を守ろうとしているようなニュアンスで伝えられる。それではグローバリゼーションが進むと本当に暮らしやすい世界になるのだろうか。

リフレ政策を推進しているクルーグマン教授(2008年ノーベル経済学賞)の本に、実は、こんなことが書いてある。1980年代以降の米国の階層別の実質所得(収入)がどうなっているのかをみると、平均的な階層(上からも下からも半分くらい)では実質所得は減っているのである。上位20%の階層でも、平均すると大した伸びではない。

それではどこが伸びているのかというと、上位1%とか0.1%とかきわめて狭い階層で、実質所得が数倍にも伸びているのだそうだ。(「さっさと不況を終わらせろ/End This Depression Now !」 Paul Krugman 2012 第5章)

つまり、グローバリゼーションというのは、おカネ儲けの非常にうまい人達の中でさらに勝ち残ったわずかな人達がすべての分け前を持って行ってしまい、平均的な階層は所得水準(≒生活水準)が下がっていく世界なのである。

それでも、世界全体の1%なら日本国内でも1%というのならまだいい。実際には資本や財・サービスの流れには国境はないというのがグローバリゼーションだから、資源がなく労働単価が高く、言語などの非関税障壁がある日本は不利な立場であることは間違いない。おそらく世界全体の1%のほとんどは米国or多国籍企業の経営者ということになるだろう。

TPPなどといって自由化を推進しても、いいことはあまりない。自由化最先端の米国では、個人経営の農家は続々と企業経営に飲み込まれていて、いいところはほとんど大資本が持って行ってしまうそうである。フライドチキンがいくら売れても儲けはすべてケンタッキー本社で、生産農家には1羽数十セントしか入らないというからすさまじい話である。

さらに、日本の総人口は4年前から減少に転じている。出生数も回復の目途が立たない。国内マーケットがしりすぼみである以上輸出に頼らざるを得ないが、生産も海外、消費も海外であるものがどうやって国内景気を下支えするのだろうか。

このように、いま進められているリフレ政策、自由化促進には首をひねる点が多々あるのだけれど、それでもこの政策が悪いことではないと思うのは、インフレには債権者に不利/債務者に有利という徳政令の性格があるからである。

わが国には経済の行き詰まり期には徳政令を行い、債務者の負担を軽減し消費を刺激してきた伝統がある。インフレターゲットで景気を回復することは難しいかもしれないが、借金を実質的に目減りさせるのは悪くない選択である。

例えば国が国債金利を払えなくなってデフォルト(債務不履行)ということになれば、円・株・債券はトリプル安となり、輸入もできなくなって食糧や燃料が不足し大変なことになるが、インフレにより穏やかな形で債務を実質的に軽くしていけば、デフォルトのような悪影響が避けられるかもしれない。



これまで述べてきたように、リフレ政策は口で言うほど簡単にできることではないし、できたとしても国内景気を伸ばすことは難しい。さらに、仮にGDPを増やすことができたとしても、そのうまみはごく一部の高所得者のみが味わうことになる可能性が大きい。それでは、どうすれば本当の意味で、景気が良くなったと多くの人が実感できるのだろうか。

それに関しては一つの経験則がある。これまで数十年の景気の上げ下げをみていると、多くの人が景気がいいと思える時期というのは、労働市場において売り手市場であること、つまり、働き手の方が少なくて働き口の方が多いという状況なのである。

1960年代の高度成長期においては、集団就職の中学高校卒業生は金の卵といわれた。まだ日本全体が貧しく労働条件は厳しいものであったが、労働の流動性も高く、勤め先を辞めたからといって、転職に差し支えることはなかった。この時代の就職市場については実際に経験した訳ではないが、新旧の映画やドラマでそういう場面が出てくる(古くは天地真理や浅田美代子、最近では堀北真希とか)。

1980年代のバブル期には、会社訪問解禁となった大学生を、多くの会社が拘束して他社を訪問させないという時期があった。ある会社などはバスで田舎にある会社の保養所に連行したり、OBがマンツーマンで付き添い昼間からご接待したという。私の就職はそのわずか2、3年前の第二次オイルショック時だったので、そういういい目はみられなかった。

それでは、いまの時代にそういう状況が考えられるかというと、すぐには難しいというのが正直なところかもしれない。バブル時代末期に、男女雇用均等法と労働者派遣法により、労働力の供給過多と労働単価の切り下げが構造的に行われたからである。この二つの法律をなくさない限り、そう簡単には売り手市場とはならない。

長期的にみると、今後も出生数は減少し続ける上、わが国が移民を認めるとも思えないので、いつかは労働供給の方が少なくなり売り手市場となるはずである。しかしそれは、少なくとも私が現役世代(労働力人口)でいるここ数年の間ではない。当分の間、国民の多くが景気回復を実感できることはなさそうである。

オリンピックに期待する向きが多いけれど、前にも書いたように1964年とは時代が違う。結果的には一部の業界(広告代理店や建設業)が一時的に潤うだけだろう。一方で消費増税はじわじわと生活を圧迫する。増税前に駆け込み消費があるだろうが、その分増税後に「倍返し」されることになる。

ただ、目先を変えるという意味で検討してもいいと思えるのは、デノミである。いまの状況でデノミを行う口実はほとんどないが、少しでもインフレの気配がみえてきたら、デノミをしてみたらいいと思う。デノミによって貨幣価値が変われば、いままでの政策の延長では難しかった消費刺激もうまくいくかもしれない。

とはいえ、個人的には現在の状況は、世界のいくつかの国が陥っているような破滅的なものではないと考えている。食糧や燃料が安定的に確保でき、選り好みさえしなければ仕事がない訳ではないというのは、けっしてわが国の経済財政政策が失敗した結果ではなく、むしろ成功している結果なのではないかと思う。

その意味では、無理に景気を良くしようと試みて円・株・債券トリプル安というのが、最悪のパターンになるのかもしれない。

[Sep 16 ,2013]

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