なんとなく思うこと・・・ニュースや世間のいろいろなこと、私が思うことと世間が感じることは違うみたいです。

食材表示が違うのはそんなに悪いことか    障害者支援を商売にする人たち
JR東日本の車内アナウンス    都議会を職場と考えてしまう古さ
源氏物語&エヴァンゲリオンもどき    アイヌ民族はいないと彼が言っていいか


食材表示が違うのはそんなに悪いことか

この間、奥さんと回転寿司に行った。回ってくる「えんがわ」とか見ながら、「これ全部本物じゃないよね。」って話していた。別にニセモノだって構わないと思っている。本当の本物が1皿2カンで100円の訳はないからである。

昨年、バナメイエビを車エビと言って騒ぎになった事件以来、そういうことにうるさい風潮である。消費者庁によれば、マスで作ったら「シャケ弁当」と表示してはいけないらしい。そうなると、「牛鮭定食」もだめである。はっきり言って、どっちでもいいことである。というよりも、こういうことばかり目くじらを立てていると本質を見失うことになると思っている。

食品衛生や生産地に関することは、きちんとしなければならない(賞味期限は実はいいかげんだが、それは置くとして)。それ以外のことは、本来、消費者が値段と品物を見比べて判断すべきことである。カラフトシシャモをシシャモと思って食べていても実害はない。食べて分からなければ、ずっと生だろうが冷凍して解凍したものだろうが同じである。

世の中は嘘とはったりで満ち満ちている。もしかすると嘘やはったりではないかと疑うのは、人間の基本的なディフェンスである。そもそも自分の判断力のなさを棚に上げて、情報が正確でないことを声高に主張するのは、行儀のいいものではない。値段のわりにものが良ければ十分だし、そうでなければだまってその店に行かなければいいことだ。

それに、正しく表示すべきだという建前論を徹底すれば、タラバガニはカニでないとか、シラスは100%いわしだけでないとダメとか、どうでもいいことが本質にされてしまう。日ソさけます漁業交渉の昔から、さけとますは同類である。これを機に、長年親しんできた「塩じゃけ」という言葉がなくなる方が文化的に問題である。

「表示は正しく」というのは正論には違いないが、その内容としては法的に規制されるべきものと、商売人の仁義・マナーに任せるものとがある。今回問題になっているものの多くは後者である。鮭弁当にマスを使う店を敬遠するのは自由だし、一方でマスだと分かって鮭弁当を買うのも個人の自由である。そんなことを他人や行政に口出ししてほしくない。

本来であれば、「マスを使っているのに鮭弁当と名乗るな」などと主張する人には、「じゃああんた、他の店使ってくれよ」と答えるのが正しい。バブル以降の不景気の中で、客は店より偉いということになっているが、取引というものは売手も買手も立場的にはイーブンなのである。店を選ぶ権利の反対側には、客を選ぶ権利もある。

もう一つ嫌なのは、情報をヒステリックに求めるばかりで、一歩進んで本質を考える習慣があまりにも欠けているように思うからである。

原発事故以来、放射能の測定値はどの新聞にもインターネットにも出ている。そこから一歩進んで、じゃあその数値で安全なのかどうかという議論は誰もしなくなってしまった。しかし現実には、北関東・東北の山菜のほとんどが出荷停止のままである。出荷停止の基準が厳しすぎるのか、実は環境そのものが危ないのか、誰もが無関心である。

大事なのは情報そのものではなくて、それをどう判断するかということである。他人の言うことは全部本当でなければけしからんと言っているような人は、振り込め詐欺にひっかかったり高利の投資話に騙されることになるし、もしかするとそういう人が詐欺を働いている張本人なのかもしれないと思っている。

[Feb 3, 2014]

障害者支援を商売にする人たち

なんたら河内守という人のゴーストライター騒ぎが、話題になっている。NHKが朝7時のニュースでトップにするほどの事件かと言われると首をひねるところだが、この件について私に近い感想を書いている人がいないようなので。

この話を聞いて最初に思い出したのは、もう7、8年前のことになるが、珠海(マカオから中国本土に入ったところである)でオフ会をやった時、会場から出てきたわれわれのところに物乞いの人達の集団が現れた時のことである。

すかさず、参加者の一人で中国事情に詳しい人が、「おカネあげちゃだめですよ!」と強い調子でみんなに言ったのである。「そんなのみんなヤクザに渡っちゃうんだから。そうやっておカネが取れると分かれば、奴らはわざと障害者にしたりするんだから。絶対だめですよ。」

恵まれない人を見てかわいそうだと思い、ハンディキャップのある人を見て何とか助けてあげたいと思うのは、人間の自然な感情である。そういう甘さを利用して、障害のあることすら商売にしてしまう、儲けになるならばわざと障害者にしてしまうというのが彼らの手口なのだ(中国の古代史を勉強すると、そんな話は結構出てきたりする)。

結局、日本のマスコミも、いかがわしさ加減では彼らと変わらないということである。視聴率が取れると思えば、昔からそうしていますという顔をして障害者を持ち上げるし、障害者が優遇されるのは当たり前のようなことを言う。ありもしない障害をでっちあげるなんて朝飯前。何せ、障害者を疑うことは許されないからだ。

障害があろうがなかろうが、才能の有無とは関係がない。障害があるから視聴率が取れて、視聴率が取れるから音楽がすばらしいなどということはありえない。あるとすれば「障害があるにしてはすごいね。」ということであり、これは逆の意味で障害者を差別している。そのくらいのチェックができずに、垂れ流しを続けたのが今回の事件の本質である。

これとよく似たことで私が大嫌いなのはパラリンピックである。障害のある人がスポーツを楽しむことは非常にいいことで、そのための環境を整えることは当然である。しかし、そこでなぜ「人と競う」ことが必要なのか、全然分からない。

障害の程度は人によって全然違う。だから、条件が違う他人と競うことに全くといっていいほど意味はない。百歩譲ってモチベーションを高める効果は認めるとしても、日本で何番目だの、世界で何番目だの、そのための選手強化だの、何を言っているんだかという感じである。

そんなことで人目を引く、注目を集める、視聴率を上げてカネにしようとするのは、そういう奴らなんだからあきらめる他はない。問題は、いいことをしたような気分になって実は全くその人達のためになっていない、われわれ自身のあり方である。

いつの間にかこの世界は、カネになれば何でもいいという価値観、いわゆるグローバルスタンダードがメジャーになってしまったのだろう。その意味では小泉父とかホリエモンの罪は非常に重いように思うが、あるいはこの風潮は、織田信長の楽市楽座から始まっているのかもしれないとちょっと考えたりする。

ちなみに、障害のある人達に少しでもサポートしたいと思ったら、信用できる社会福祉施設を自分で選んで支援したり、公的機関である共同募金会や社会福祉協議会に寄付したり、自分でできる範囲のことを黙ってやるのがあるべき姿である。大声で福祉福祉と大騒ぎする人達は、河内守とおんなじで、障害を商売にしようとしているとみて間違いない。

[Feb 14 ,2014]

マニュアルとサービス、どちらが目的?~JR東日本の車内アナウンス

最近通勤していて思うことは、JRの車内放送が煩わしいくらいにしつこいことである。

ほとんど毎駅ごとに、「本日は具合の悪いお客様の救護を行ったため、ただいま5分ほど遅れて運転しております」「前の電車でドアに荷物がはさまったため、現在△△駅に停車中です。この電車はホームが空き次第、運転を再開いたします」そして最後は、「お急ぎのところご迷惑をおかけいたしまして、大変申し訳ございません」としめくくる。

毎駅こんな放送をするものだから、長く乗っている人は乗っている間ずっと同じことを聞かされる。朝の通勤電車で10分未満の遅れなど、いちいち説明されるほどのことではない。救護活動だのドア挟まりだの、ときどき非常停止装置を押す奴もいるのだが、理由が分かったからといってどうすればいいのか。まして途中から乗った人は、遅れていることなど説明されなければ分からないのである。

いつも同じ口調なのにアナウンスしている車掌は別人だから、おそらくそうするようにマニュアルに載っているのだろう。1時間近く乗っている北総線、京成線、都営浅草線ではそんなことをいちいち放送していないから、これはJR東日本だけのマニュアルだと思われる。しゃべっている本人はマニュアルに決められていることなのでしない訳にはいかない。乗客がいらつくだけである。

マニュアルというものはもともとサービスの質を均一化させるために作られたもので、高度成長期以降アメリカの経営学がもてはやされる中で一般的になった。それ以前にはどこの企業も組合の力が強くて、労働強化だの何だのでマニュアルはそんなに細かくなかったし、あったとしても執務上の参考という位置づけであった。それが今日では、理屈はどうあれ、マニュアルを守らない奴はけしからんという風潮になってしまった。

だから、日本の企業は上から下まで、みんなマニュアル漬けである。最初はサービス向上が目的でマニュアルは手段だったのに、いつの間にかマニュアルを守ることが目的でサービスはどうでもいいことになってしまった。おそらく自分の頭で考える人は、マニュアルを守れない不良社員とスポイルされてしまったのだろう。

小田嶋隆氏言うところの、「無能であることをシステム化」しているということである。こういう組織、社会がこのまま持つのかどうか、数年後に定年を迎える私が口出しすべきではないのかもしれない。あるいは、車内放送がしつこいことを怒っても仕方ないのかもしれない。ただ現実に、同じJR東日本がこんなことをしている。いずれも、おそらくマニュアルには載っていない。

先日、平日の昼間に浅草橋駅で電車を待っていると、5分待ち10分待っても、来るはずの電車が来ない。ホームは乗客でいっぱいなのに、何の構内放送もない。ようやく電車が来て昼間なのに満員のぎゅうぎゅう詰めである。何とか乗ることができて車内放送の言うことには、「ただいま東京駅で人身事故があり、各駅に電車が止まっているため遅れております」なのだそうだ。

東京駅で事故があって山手線・京浜東北線が止まるのはともかく、東京を通らない総武線が止まるのもよく分からないが、それはまあ仕方ないとして、なぜ、事故が起こった第一報を浅草橋駅の構内放送で流さないのかと思う。総武線が動かなければ、すぐ地下を通っている都営浅草線を通ってほとんどどこへでも行けるのである。

それを言うと、振替乗車票を出さなければならないからだろうか。あるいは、いま乗った客がすぐに出ようとすると降車処理があって(いまはほとんどsuicaだから)手間がかかるからだろうか。だとすれば、交通機関が目先の少々のカネとか手間のために、乗客へのサービスの質を落として平気だということである。

その前にもこんなことがあった。休日の奥多摩からの帰りホリデー快速奥多摩号に乗っていた時のことである。この電車は東京方面まで直通なのが便利なのでよく使うが、拝島駅を出発して次の瞬間、「中央線で人身事故のため、この電車は立川止まりとなります。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません」という車内放送である。

タイミングからみて、この放送は発車する前に入ってきた情報を、発車してから放送したことは間違いない。まして、拝島駅では武蔵五日市からのホリデー快速と連結するため、5分以上の停車時間があるのである。そして、都心方向に向かう乗客にとって、拝島ならば同じ駅から出ている西武線で都心に向かえるが、立川まで運ばれても中央線が止まっていてはその先に進めないのである。

おそらくマニュアルでは、停車中のアナウンスは駅員の仕事で、車掌のアナウンスは発車してからと決まっているのであろう。あるいは、西武線に乗せずにJRに運賃を落としてもらえば売上が上がるということかもしれない。いずれにしても、乗客が不便だろうとか、約束の時間に遅れてしまうだろうとか、そういう観点が抜け落ちていることは確かである。

大事なのはサービスの質を保つないし上げることであって、マニュアルを守ることではない。自分の頭でそう考える人が、いよいよ少なくなっていると思う。それはJRだけの話ではなく、ほとんどすべての組織に言えることではないだろうか。かといって、マニュアルを守らないと組織からスポイルされる。難しい世の中である。

[May 16 ,2014]

都議会を単に「職場」と考えてしまう古さ

先立って騒ぎになった東京都議会での野次問題については、自民党議員の品性問題や根底に流れるレイシスト的男尊女卑感情、一方女性議員だって熱湯コマーシャルじゃないかという反論もあって百家争鳴状態からやや落ち着いてきたところであるが(政治向きの話題は集団自衛権に移っている)、個人的には、新聞等で言われていることとは別の感想を持っているものだから、忘れないうちに書いておこうと思う。

東京都の少子化問題への取り組みについて行政側に質問した女性議員に対し、「お前が結婚しろ」「お前が産めよ」と言ったとされる自民党議員は、私より少々若いけれどほぼ同年配といっていいおっさんである。この年代に共通するのは、「公」と「私」の区別がきわめてあいまいであるということである。

何しろ、われわれが社会人となった頃はセクハラ、パワハラなど影も形もなく、男女雇用均等法もなく、組織内で偉い人のかなりの部分は公私の区別がきわめてあいまいであった。今回の野次など、35年前のオフィスでは平気で発言されていた部類である。特に、見た目麗しい女性に対しては、わざわざそういう露悪的発言をするのがマッチョな男性とみられていたのであった。

そして、都議会議員という偉そうな肩書きはあるものの、いったん選挙に受かってしまえば、都議会の議場は彼らにとって職場である。外から見ているわれわれにとっては公的な場所であるが、彼らにとっては単に職場であり半分私的な場所なのである。彼らにとっての野次は、われわれが職場で冗談や陰口をきくのと同じことで、おそらく何の違和感もないのである。

彼らも新人議員の時は、先輩議員や対抗する政党から野次を飛ばされ個人的な事柄を指摘され、悔し涙を流しつつ当選回数を重ねて今日まできたのだろう。35年前の新人サラリーマンがセクハラ、パワハラに耐え、個人的な時間をさんざん組織に奪われつつ今日に至ったのと同様である。ところが、いまの時代に昔と同じことを若い連中にすると、大問題になってしまう。

だからおっさん議員は、どこかで時代の節目を敏感に感じ、ここは公的な場所であり昔だったら「やらなくてはならなかったこと」がいまでは「許されないこと」なのだということを知るべきであった。そもそも人の発言中に大声で妨害することは、今も昔も決して上品な振る舞いではない。そうすることで、「俺はお前より偉いんだぞ」と主張(マウンティング?)しているだけのことである。

それともう一つ。国・地方公共団体を問わず、議員というのは会議に出る時点ですでに自然人ではない。選挙民から委託を受けて政治的活動を行う一種の組織であり、議員は個人であって個人でない。だからこそ秘書が、議員の名前でいろいろな政治活動ができるのである。分かりやすく言えば、「塩村文夏」という自然人ではなく、「塩村事務所」という法人として活動しているのである。

年齢も性別もない法人に対し、結婚しろ子供を産めというのはナンセンスである。その意味で自民党議員は、昔の職場に例えれば女性職員にセクハラをしたことによって責められるだけでなく、議員というのは自然人というより法人であることを認識していないという知的レベルの低さによって、責められるべきであると思っている。

[Jul 4 ,2014]

源氏物語&エヴァンゲリオンもどき

「源氏物語&エヴァンゲリオン」だけで、何を書くか見当が付けられてしまうのが辛いところですが。 この夏はいろいろな事件が起こって、事件の影響や深層を考える前に次の事件で大騒ぎになるような状況だった。佐世保の第二NEVADA事件や理研副センター長自殺事件、集中豪雨による山岳遭難・土石流災害等も影響は大きいのだけれど、今回はその中から、夏休み初めの倉敷少女誘拐事件と終わり頃に発覚した光通信御曹司のタイ代理母事件を取り上げてみたい。

ともに、未成年者ないし個人情報の壁にはばまれて、入手できる情報が限られることと、週刊誌等で後追い記事が出る間もなく次の事件が起こってしまったことで、もしかするとこのまま真相はうやむやのまま終わってしまうのかもしれない。ただ、かつて話題となった「監禁王子」や「一夫多妻」の時のように、思うことがあるので記録しておく。

倉敷少女誘拐事件が、チープな源氏物語であることは、気付かれた方も多いのではないかと思う。源氏物語では、主人公である光源氏が家庭に問題があり後見人不在であった若紫(当時10歳)を引き取って、自分の好みに育て上げ、のちに正室・紫上とした。WEB情報なので全幅の信頼は置けないが、今回の事件にも同様の要素はあったかのように言われている。

ただ、光源氏が若紫を引き取ったのは豪邸・二条院であり、家庭教師をきちんとつけ教養を身に付けさせていたのに対し、誘拐犯は6畳間だかの部屋に監禁してTVを見せていたというから、「チープ」という言葉では追いつかないほどの違いである。この事件の速報を聞いて初めに思ったのは、「TV見て寝っ転がっているだけじゃ、理想の妻なんかにならないぞ」ということであった。

本当に理想の美少女を妻にしたくて自由に使える遺産が何千万円かあったら、防音部屋を作って監禁しなくても他にもいろいろ方法があったような気がした。何年か前に、カンボジアで一夫多妻生活を実現した日本人がいたように記憶していて、この人の場合、家の前にわざと少女が捨てられていたなんて話もあったくらいだから。

なんて思っていたら、8月終わりにはタイの代理妻騒ぎである。この人の場合、オーストラリア人夫婦代理妻事件のあおりを食って騒ぎが大きくなったところはやや気の毒かもしれないが、理想の妻を通り越して、クローンもどきというか、エヴァンゲリオンもどきというか、そういう世界である。実際、この御曹司はエヴァの大ファンということである。

最初は、代理母とだけ報道されていたので、同一母との子供が20人じゃおそまつくんの拡大版だと思っていたら、外国の卵子バンクから高額で購入して自分のと掛け合わせたらしい。体力ではなくカネにモノを言わす分、オットセイ将軍家斉より数はこなせるのかも知れないが、おぞましさは数十倍である。

思うに、ハレムに美女を集めたくて、結果として子孫が増えるという空想は理解できるが、機械的に子孫だけ多く残すということが全く理解できないせいだろう。おそらくこの人物にあるのは、自分の家系、子孫を繁栄させたいということではなくて、それを破滅させたいということなのだろう。わからなくもないが。そういえば、斎藤美奈子が「エヴァンゲリオンは家族崩壊の物語だ」と書いていた。

考えてみれば、精子バンク、卵子バンク、人工受精、代理母(人工子宮の代わり?)とくれば、次はビッグマザーというところだろう。家族もいらなきゃ社会もいらない。自分の遺伝子を増やせばいいだけなら鮭と大差ない。光通信がマネーゲームで増やした資産は、擬似エヴァンゲリオン鮭社会を作るために使われるのであった。人のカネだからどうでもいいのだが。

[Aug 31 ,2014]

アイヌ民族はいない?と彼が言っていいかどうか

「アイヌ民族はいない」とネット上で発言して騒ぎになっている札幌市議会議員がいる。前にも書いたように北海道には格別の思い入れがあるものだから気になって調べてみたら、件の議員は私の高校の後輩だった(12年ほど下だが)。野田佳彦が泣くぞ!

ホームページでご本人の主張を読むと、民族という言葉の定義にかみつき、アイヌを先住民族と認めた国会決議にかみつき、アイヌ系の人々に道・市が行っている貸付のほとんどが焦げ付いていることにかみついている。 気持ちは分からないでもないが、この議員に欠けているのはおそらく「自分が正しいと思うことはすべて主張していい」と思っているところで、本来、社会人の最初の段階で身に付かなければならないことなのである。 ご本人の議論の流れをかいつまんで述べると、以下のようになる。(本人HPから転載)

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① 私がいないといったのは、アイヌ「民族」です。
② 「民族」とは言葉や宗教、文化、生活習慣などを共有し独自の権利を求める集団を指す言葉です。
③ 「民族」には「紛争」「対立」ということばがつきもの。
④ おとなりの中国ではチベット族やウイグル族への弾圧が問題となっていますが、
⑤ 日本でアイヌ族への弾圧などあるでしょうか?
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ということになるが、①は本人のステートメント、②は彼がそう思っているだけで客観的に認められた事実ではないし、③は彼独自の思い込み。④だって中国政府はそう思っていないだろうし、⑤は当のアイヌの人達がそう思っているから問題になっているのだ。いずれも、政治家のはしくれとしては慎重に使うべき言葉であった(今更遅いが)。

本人としては客観的な事実を積み上げて主張しているつもりなのだろうけれど、実際は「私はアイヌ人だけを優遇する制度は認めない」「彼らだけ税金を使ってけしからんじゃないですか!」と言っているだけなのである。昔なら「薄っぺらな正義感」と言われてしまうだろうし、おそらく地元では「よそ者が事情も知らずに余計なことを言うんじゃない」と思われているだろう。

また、国会決議では「日本の先住民族」とは言っていないと得意気に主張しているのだが(確かに「日本列島北部、とりわけ北海道」と書いてある)、だったら「すべて国民の税金が使われています」ではなく、道民・市民の税金と言わないと主張が一貫しない。

まあ、枝葉末節について言っても仕方ないのだけれど、要は、「その土地土地でデリケートな案件というものがあり、自分だけの浅い了見で声高に主張すべきではない」ということである。この人は、大学卒業後北海道に渡り、AIR DO(先代)の破たんで失業、地元マスコミで働いた後、みんなの党ブームで市議会議員となったがそこをやめて、現在は自民党会派に所属している。

この発言を受けて、所属会派からは脱退勧告を、市議会からは辞職勧告を受けている。当たり前である。本人は、「正しいことを述べると抹殺される札幌市議会。『差別』とレッテルを貼られて言論の自由さえ奪われる状況は、まさに民主主義の危機ではないでしょうか。」と言っているが、問題の本質が分かっていない。公職にある人間、税金でごはんを食べている人間には、言っていいことと悪いことがあるのだ。

プロフィールをみると生まれは兵庫県ということだが、兵庫県にだって言ってはいけないことがあり、そのことに使われている税金も札幌市とは桁が違う。京都や大阪もしかり。私自身がそうだったから分かるが、船橋を含む東京近辺は例外的にそういうタブーが少ないところなのだ。

あまり批判すると、かつてブログで叩いた永田議員のようになっても気の毒なので、最後に一つだけ。日本政府が北方領土を自国領と主張する根拠は1855年の日露通好条約であるが、それ以降も、アイヌの人達が狩りや漁をして暮らしていた北海道の山野を切り開き、生活の手段を奪ってきたのは明治政府である。北方領土とアイヌ民族問題は、いまだに北海道の現実の問題なのだ。

追記.この議員、翌年の札幌市議会議員選挙で落選。四年後の2019年にれいわ新選組から渋谷区議会議員に当選を果たしました。場所も所属会派もどこでもいいのかと思うのは私だけ?

[Oct 16 ,2014]

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