なんとなく思うこと・・・ニュースや世間のいろいろなこと、私が思うことと世間が感じることは違うみたいです。

人手不足時代がやってきた?    身の程を知ることについて    大阪都構想はなぜ敗れたか
追悼 片平巧    総理大臣さえ自分の頭で考えない    原発を運営できる新たな主体?
ドラクエ30年    英国のEU離脱    パラリンピックとpolitical correctness
トランプ氏逆転勝利の考察    IR法案の技術的なこと


人手不足時代がやってきた?

暮れに行われた総選挙で安倍内閣が勝ったので、引続きアベノミクスによる経済運営が行われるようだ。一昨年アベノミクスが始まった頃、ブログで書いた「経済暴論」は、自分で言うのも何だがいま読んでもよく書けている経済分析である。ところで、最近身近でちょっと気になることがあったので以下のとおり付け加えてみることとした。

家の近所に印西総合病院という病院がある。内科以外にも眼科・耳鼻科・整形外科さらにはメンタルヘルス科とかいろいろやっている(いた)し、ここの薬局がいつもすいているので利用させてもらっていた。ところが、昨年の秋に民事再生法を申請したのである。現在も細々と診療を続けているようだが、売却先も決まったようなので今後どうなるのか予断を許さない。

この病院の設立に関しては、他に土地はいくらもあるのに高いUR(旧・住宅公団)の土地を買ってみたり、もともと我孫子の産婦人科医院なのに分不相応に大規模な施設を作ったりして、経営者の判断が大甘だったことは否定できない。だが、それはそれとして、病院いうところの経営破たんの言い訳がなんと、「医師が集まらず収入が確保できなかった」というのである。

つまり、多くの診療科を作ると宣伝していたのは、医師を確保するルートが初めから確立していたからではなく、カネさえ出せばいくらでも出張してくれるだろうと思っていたらしいのである。もともとが産婦人科だから、内科とか婦人科にはツテはあったはずなのだが、大学病院でもない限り安定的に、比較的安価で、多くの診療科で質の良い医師が確保できるはずがないのである。

駅ひとつ先の日本医大北総病院はドクターヘリがあり、「救命救急」などのロケでも使用されている有名病院である。この病院が多くの診療科を開くことができるのは、母体として日本医科大学があり、キャリアの浅い医師をローコストかつ安定的に確保できるからである。景気が悪いとはいえ医師がじゃぶじゃぶ余っているなどということはないし、そもそも社会的階層が高い人達の子弟だから条件が悪ければ働かないとみる方が真実に近い。

医師だけではない。最近は老人福祉施設でヘルパーの数が集まらずに、せっかくの施設がフル稼働できない事例が増えているという。こうした施設では空きベッドの待機者が列をなしているにもかかわらず、サービスができないのでこれを断っているらしい。

もちろん、多くの福祉施設はイジキタだから、最初は人員が確保できなくてもベッドを埋めていたようだ。ところが、労働条件の悪さ(夜勤、長時間労働、休みが取れない等)から職員が次々と辞めてしまい、補充人員を募集しても誰も応募して来ず、さらに労働条件が悪化して退職者が続くという悪循環となり、やむなく新規の利用者受け入れを中止しているというのが実情のようだ。

病院にせよ福祉施設にせよ、サービスを提供する人はフルタイムの正職員とするのが原則である。労働市場において買い手有利が20年以上続いていることからみんな忘れているけれど、正職員でフルタイム、副業禁止というのは別に雇われる側に恩恵を授けようというものではなく、そうすることで労働力を安定的に確保するという雇用者側の事情がもともとの趣旨である。

「人手不足倒産」という言葉も昔あったように(最近また使われている)、設備投資を行うためには資本だけでなく、設備を動かしていく熟練労働者が必要なのである。そのことを忘れて、労働者はカネを払えばいくらでも手に入ると思うこと自体、大いなる勘違いである。これからますます新規大卒者が減るので、こうした傾向はさらに目立つことになるだろう。

生身の人間を「人材」などといって代替可能・金額換算可能とみなしてカネ儲けしてきた人達にはお気の毒な話だが、自業自得で全く同情の余地がない。唯一心配があるとすれば、これから先私自身が福祉サービスを受ける立場となった場合、その費用が急騰するおそれがあるというだけである。その意味では、どうなっても自力で生きていく覚悟だけは必要になりそうだ。

[Jan 21,2015]

身の程を知ることについて

若い頃からついこの間まで、「身の程を知る」とか「分をわきまえる」という言葉はあまり好きではなかった。言葉の感触として「貧乏人は麦を食え」にとても近いニュアンスを感じたからである。ところがもうすぐ還暦というこの歳になって、「身の程」という言葉に別のニュアンスが加わってきたのは妙なものである。

人生の残り時間が多い頃には、自分の可能性は無限大であるような気がしていた。育ちが貧乏でも先祖がお百姓でも、努力して結果を出せば道はどんどん広がっていくと思っていた。実はそんなことがなかったのは、あるいは高度成長時代の幻想だったからかもしれないし、単に自分の努力が足りなかったのかもしれない(同級生から総理大臣が出ているくらいだ)。

実はついこの間まで、「北条早雲は50歳過ぎてから戦国に名乗りを上げた」とか「伊能忠敬は50歳過ぎて隠居してから測量の勉強をして全国を測量した」、だから自分もまだまだと思っていたのだけれど、50どころか60が目の前になり、自分は北条早雲でもなければ伊能忠敬でもないことが分かってきた。「あきらめ」というより「悟り」に近い。

たしか中国の古典に書いてあったけれど、今夜眠るところと今日食べるものがあり、家族そろって健康であればそれ以上を望むべきではないというし、まあ自分はこれ位のものだという実感と、努力してここまではという将来像との差が小さくなりつつあることからみると、これが「分」とか「身の程」というものかと思ったりする。

分かりやすくワインの例を出すと、ペトリュスだろうが何だろうが、おカネに余裕があれば飲んで何が悪いというのが若い頃の発想であった。ところがこの頃は自然と、1本で1万円前後というのがワインに出せる値段の最上限となっている。これ以上の値段にはどうしても抵抗があって買うことができない。

20年ほど前はシャトー・ラトゥールがこの値段で買えた。ところが2000年以降はレ・フォール・ド・ラトゥール(ラトゥールのセカンド)の値段となり、今日ではそれも3万円近くに値上がりしてラトゥール・ポイヤック(同じくサードワインである)が1万円前後で買えるベストのワインとなってしまった。

なぜそういうところに線を引いているか、自分でもよく分からなかった。だから貧乏な育ちのせいなのだろうとずっと思っていたのだが、おそらくそれはちょっと違っていて、一時の楽しみのために支払うことのできるレートは、1日働いて得ることのできる金額くらいが上限という身体的実感からではなかったかと思うのである。

口幅ったい言い方になるが、モノの値段の高い安いを判断し評価しているのではなくて、自分の値段を判断し評価しているのではないかと思うのである。高すぎると思うのはみんなが欲しがるからなので、じぶんの働き(稼ぎ)が追いつかなければ一歩引いて遠慮するという感覚が自然に生まれてきた。

そもそもは、内田樹先生が言っていたか、あるいは対談の相手方が言っていたのかだと思うけれど(脳の話だから養老先生かもしれない)、「脳の欲望には際限がない。身体の欲望が、リアルな人間に必要なものである」という話がこういうことを考える出発点であった。

確かに、脳の欲望には限りがない。私にはほとんど縁がないおカネの話をすると、100万円あれば500万円、500万円あれば1000万円欲しくなるようである。なるほどその通りのような気がする。一方で、1日に3度食事をすれば次は6度ということにはならない(4度くらい何とかなるが)。身体の欲望には際限があるというのはその意味である。

長いこと「身の程」という言葉が嫌いだったのは「身分」という意味でとらえてきたからで、まあそれはもともとそういう意味だったのは間違いないから無理もない。ところが、「頭でなく身体の声に耳をすませましょう」という意味でとらえるとすれば、それは全くそのとおりなのである。

[Feb 9,2015]

大阪都構想はなぜ敗れたか

(この原稿は投票前にすでに準備していたもので、結果が確定した場合すみやかにupするよう努力します。予想が外れた場合は、どうしようかなあ。外れないとは思うけれど。)

数年前から橋下大阪市長・前大阪府知事・維新の会代表が強く主張してきた大阪都構想。5月17日に行われた住民投票の結果「反対」票が上回り、一応の決着をみた。選挙のたびに橋下市長に票を入れてきた大阪市民だが、最後のところで歯止めがかかったというところだろうか。もしかすると、「賛成」ではなく「橋下」と書かせれば通ったかもしれないが。

この結果については、例の本を読んで以来うすうす見当はついていた。わが国において、米軍の虎の尾を踏んだ政治家は、けっして長続きしないのである。田中角栄しかり、細川護熙しかり、最近では鳩山「宇宙人」由紀夫しかり。米軍の機嫌を損ねると、いかに集票能力があろうと、大衆に人気があろうと、血筋や係累、後援者に恵まれようと、ダメなのである。

ただ、今回の橋下氏については、日米間のサンクチュアリに踏み込んだというよりは、米国の実力を侮って無礼な発言をしたということにとどまるので、米国(ないしその意図を忖度する人達)がそこまでやるかという疑問符は残っていた。ただ、住民投票が近づくにつれて、首都圏=東京ではほとんどこの話題はスルーされていたので、ああ、これはメディアに何か暗黙の指示があったのだろうなと推測された。

(全然違う話だが、米軍内にはその手の施設は必ず内製化されているはずである。生活関連施設のすべてが基地内にあるのに、それだけないはずがない。それに、飛田だの松島だの、合法か非合法かグレイな施設を持つ大阪の首長に、そんなことを言われる筋合いはないと思うだろう。)

案の定、この結果である。考えてみれば、橋下氏は大阪府知事になる前から終始一貫、「大阪都構想」を公約に掲げていた訳だから、これまで橋下氏を受からせておいて(あえていえば議会でも維新の会に多数の議席を与えておいて)、今回に限り一転して「反対」に回るというのはおかしい。さすがに選挙で不正は行われていないだろうから、そこには何かこれまでとは違う要因があったはずである。

その第一は、やはりメディアだろう。大阪でどの程度盛り上がったのかはよく分からないが、東京では完全スルーだったのは上に書いた通り。少なくとも、全国版では大きな記事にならなかった(前日土曜日の読売一面は「上場企業の利益、過去最高」)。もともと浮動層が支持基盤という橋下・維新にとって、盛り上がらず投票率が上がらないということは致命的である。

第二に、公明党・共産党が相当な引き締めを行っただろうと思われることである。橋下維新の主張する二重行政とは、住民にとっては府と市からそれぞれ行政サービスが受けられるということである。この両党が庶民に強固なネットワークを有するのは、そうした行政サービスへの「口利き」が主たる源泉であり、これらを見直されることは望ましいことではない。

当然このことは自民党についても同様であり、二重行政によりハコモノの建設が見直されることは、支持基盤であるゼネコンとその下請け業者を直撃する。本気で抵抗しなければならないことなのである。

第三に、橋下氏に限らず、体勢を批判しているうちは恰好がいいけれども、実際にやらせてみたら大したことはできないということをみんな分かってきたということである。これはつい数年前まで村山とか菅直人が身をもって示してきたことなのだが、若くてスマートで威勢がいい分長持ちしてきたものの、そろそろ賞味期限切れということであろう。

今回の「大阪都構想」についても、職員の賃下げや既得権益を取り上げている間は喝采を浴びたが、それによって大阪府・大阪市の財政が劇的に改善したという話は聞かない。「大阪都構想」による経費節減効果とされるものが、実際には交通局の民営化とか、職員の削減によるものであり、それならいまの制度の枠内だってできるじゃないかということなのである。

まあ、小難しい理屈はともかく、これまで「おもろいやないか」で橋下に投票してきた人達が、実際に自分達の懐に響いてくる話だとようやく分かって、今回の結果となったという構造がみえてくる。そして本来であれば、そもそも彼が出始めた頃からそう指摘して熱を冷ますべきメディアが、誰かに指示されたのか今回一斉に無視するまで、よいしょして視聴率を稼いできたのだから、穏便におさまってよかったと喜んでばかりもいられないだろう。

[May 18,2015]

追悼 片平巧

平成初めのオートレースを席巻した「セアの申し子」片平巧(たくみ)が急死というニュースが入ってきた。享年49。死因は明らかにされていない。

私がオートレース場に初めて足を運んだのは、忘れもしない1990年夏、最初の勤務先である銀行を飛び出して浪人中のことであった。それまで、中央競馬(JRA)以外のギャンブル場に行くのはまともな勤め人のすることではないと思っていたのだが、まともな勤め人からドロップアウトしてしまったので、行かない理由もなくなったのであった。

当時住んでいたのが船橋なので、行ったのは船橋オートレース場である。そしてまさにその頃、船橋オートは最高のレース場だった。島田信廣・片平巧という当時のツートップがいて、一般開催に行ってもたいてい走っていたのである。

(ちなみに、一部報道で島田・片平・高橋3強時代と書かれていたが、私の記憶では高橋貢全盛期は少し後で、島田・片平2強時代が長かった)。

何年か経つ頃には、オートレースの500人以上の選手を覚え、全6場を制覇するほどオートレースにのめり込むことになるのだが、その発端は、間違いなく船橋の一般開催で見た島田・片平の強さであった。

もちろん船橋には他にも強い選手がいて、岩田・阿久津という当時の最重ハン(最もハンデが重くなる選手)を船橋4強と呼んでいたし、その前のチャンピオン「ミスターオート」飯塚将光もいた。その後いくつもSGを勝つ池田政和はまだ新人のあんちゃんだった。

昭和から平成になる頃、オートレースは大きな変革期にあった。それまで使われていたエンジン(フジ、メグロ、キョクトー、トライアンフ等)には、振動が大きく選手の健康上問題があること等の問題があったため、オートレース専用エンジンの開発が求められたのである。スズキが中心となって開発された新エンジンがセア(Super Engine for Auto Race)であった。

すべての選手のエンジンがセアに統一された時期に、台頭してきたのが片平であった。セアでなくても同じように片平が強かったのかどうかは今となっては分からないが、セアへの乗り替わりを契機に、それまでの川口四天王や飯塚の時代から、一気に、当時20代半ばの片平へと時代は移って行った。だからオートファンは片平のことを「セアの申し子」と呼んだのである。

片平の走りの特徴は徹底したイン戦で、とても入れそうにない前走者のインコースに入って抜いてしまうのである。これが「人間魚雷」広木だと、鋭角的に突っ込んで前走者に激突し落車失格となるのだが、片平だと鋭角的に突っ込んでもコーナーの円周に沿ってタイヤが滑って行くのでぶつからないのである。

まさか本当に滑っていた訳ではないだろうが、まるで滑っているように見えた。この神業の前には、「内線のガードマン」穴見であろうが、インコースの堅いベテラン勢であろうが、一発で切り返されて終わりになるくらいの鮮やかさであった。片平の全盛期、スピードの出る良走路という条件では、片平に対抗できる選手は一人もいなかったといっていい。まさに「セアの申し子」であった。

もう少し書きたいので、続きは明日。



いまでも覚えている強烈なレースは、浜松まで見に行ったオールスター、たしか初日ドリーム戦である。残り7車が0ハンで片平が単独10、初日だから6周戦である。

オートレースには距離のハンデがあるが、ハンデが大きいほど厳しいとは必ずしも言えない。ハンデに開きがあるということは実績・実力に開きがあるということだから、40とか50のハンデだと何人かそれほど強くない相手が含まれるのである。私見だが、最も厳しいハンデが単独10である。ハンデ10しか差のない強い相手が7人いるということだからである。

片平は大レースの準決勝・決勝で何度か単独10で走っているが、準決勝は8周戦、決勝は10周戦なので、1周に一人抜いていけば勝てる。ところが6周戦だと、1周に一人では間に合わないのである。まして、この日の相手は各地区ファン投票1位という強い選手。究極に厳しいレースといえた。

こういうレースであっても、それほど苦労しないケースはない訳ではない。スタートの上手な選手、あるいは1周目の速攻が持ち味の選手である。オートレースは1周目が最もスピードが出ない。ここで他の選手を抜けるならば、残りの周回が非常に楽になる。みんながスピードに乗ってしまう2周目以降では、よほど技に差がないとスピードだけではなかなか抜けないのである。

スタート巧者の中にはハンデ10くらいだと最初の1コーナーまでに交わしてしまう選手は珍しくないし(当時の阿久津)、スタート全速で外を回り、バックストレッチでインにコースをとってまとめて抜くという選手(ボートでいうところのまくり差し。岩田が代表)もいる。そういうレースができれば、単独10ハンであっても厳しさはやや軽減されるだろう。

ところが、当時の片平はスタートは並というより遅く、速攻もできない訳ではないが得意とは言えなかった。とにかく、周回中にインに潜り込んで捌いていくレースなのである。だから、強敵相手の単独10ハン・6周戦というのは紛れのありうるレースである。それでも、片平の断然人気であった。(当時は3連単はおろか車番連勝もなく、6枠の枠番連勝の時代である)

断然人気の要因は、唯一の強敵とみられた島田が同じ船橋所属のため別のレースに出ており、島田以外の相手には負けないだろうと思われたことであった。それでも、飯塚の中村政信(のちにレース中に事故死)、地元浜松の鈴木辰巳、川口・福田茂、山陽・小林啓二といった強力メンバーだったと記憶している(伊勢崎が高橋貢だったらもっとすごいが、田代だったかもしれない)。

そしてレースが始まった。片平は例によってスタートは並、しかし0ハンのスタート争いで後手を引いた選手を次々と抜いて行く。そして最終6周目の3コーナーで最後の一人を交わすと、場内からは何とも言えないどよめき、「やっぱ強ええ」と歓声が沸く。終わってみれば一番人気で、車券は当たったけれども収支はマイナス(トリガミという)という結果に終わった。

この開催、5日間のトーナメントで優勝したのはもちろん片平。そして、翌年1月に開催されたオートレースの最高賞金レース・スーパースター王座決定戦も制したのである。

ところがこの頃をピークに、片平は急に勝てなくなってしまう。その大きな要因は、片平が雨走路を大の苦手としていたことである。5日も連続で走れば1日くらい空模様の怪しい日がある。ところが雨が一滴でも降ってしまうと、片平は全く「いらない」選手になってしまうのだ。それも、7着とか8着とか、翌日のレースに勝ち上がれないような着を取るのである。

(そういえば、伊勢崎のナイターで前日雨で負けて、まだ日の高い4時頃のレースに、ハンデ70だか80で出ていた片平を見たことがある。もっとも、ここ数年はハンデが軽くなったこともあり雨でもそこそこ走れるようにはなっていた。)

他にも、スタートがそれほど速くなかったこと、独特なインのコース取りが年齢とともに難しくなってきたこと、無理なコース取りがひとつの原因だったのか慢性的な腰痛に悩まされていたことなどが不振の原因とされる。そして、生きのいい若手にやられてしまうレースも増えた。もちろん、それはベテラン選手の多くがたどってきた道でもある。

2001年にスーパースターと全日本選抜を取って以降、片平はSGはおろかGIでも優勝がない。かつて敵なしと言われ、第一人者のプライドを持っていた片平が、それから15年をどのように過ごしてきただろう。

船橋には、飯塚将光というロールモデルがいた。チャンピオンクラスから脱落して普通の選手になってからも二十年近くオートレーサーを続けた。人工衛星とからかわれながらも(彼はアウトコース専門)、ファンの声援を受け、楽しそうに走っているように見えた。他にも、片平の師匠である板橋忍は川口のテレビ局で解説者をしているし、船橋同期の梅内幹夫は今回の統一地方選で船橋市議会議員になった。

飯塚、板橋、梅内に共通しているのは、温厚な人柄という定評があることである(個人的に知り合いではないので本当のところは分からないが、専門誌や予想屋さんはそう言っている)。一方で片平には、天才肌で孤高の存在というイメージが強い。並みのレーサーとして、若い選手に抜かれていくのを「俺も歳だからなぁ」と穏便にとらえられたかどうか。

彼の最後のレースは、今月初めの船橋・黒潮杯。昔から船橋の看板とされてきた記念レースであった。初日4着、2日目6着の後、途中欠場。どういう思いで最後のロッカールームから引きあげて行ったのかと思うと、胸がつまる。 今週末は山に行くつもりだったけれど、彼に献杯しようと思っている。オートレースに出会ったことは、私の人生を間違いなく豊かなものにしてくれた。合掌。

[May 18,2015]

この国では総理大臣さえ自分の頭で考えない

ブログの書き込み「保育園落ちた日本死ね」をめぐる話題が広がっている。

書き込みの内容に対してはWEB上でもいろいろな意見が出ている。個人的には「不倫しても賄賂受け取ってもいいから保育園作れよ」のあたりにぐっと来るのだが、それはさておき、安倍総理の答弁が迷走しているのは非常に印象が悪い。やはりこの人は頭が悪いのだろう。

最初に国会で質問が出た時の答弁が、なんと「これ、実際にどうなのかということは、匿名である以上ですね、実際にそれは本当であるかどうかを、私は確かめようがないのでございます」だそうだ。実はそのコメントに続いて、待機児童の問題についてちゃんと答弁しているのだけれど(おそらくそちらが官僚が用意した答弁)、そういうことを言えば記事になるに決まっている。

国会の質疑において、全くだしぬけに質問が飛んでくることはほとんどない。大抵の場合は、少なくとも前日に質問趣旨が伝えられて、その質問が官僚に回されて答弁原稿が作られる(だから官僚や官僚の下請けには国会待機があり、会期中はしばしば徹夜がある)。そうしないと一般論で片付けられてしまうので、質問する側も内容のある答えを得るためにそうする必要があるのである。

だから、こういうことを言うということは、いきなり質問されて混乱したということではなく、十分に考える時間があってそう言ったということである。

一般人としての知性と判断力があって、世間で起こっていることについてひととおり理解していれば、普通に考えてこれが実際に起きているかどうか分からないという結論にはならない。仮に、このブログの内容がフィクションだったとしても、似たような事例は日本中で起こっているとみなければならないし、それを解決しなければ「一億総活躍」なんてできる訳がないということも明らかである。

総理大臣という立場は国家公務員のトップであり、国民から徴税した公金、国家の名において調達した資金を差配する最高権力者である。最高権力者だからといって、国民受けすることを言う必要はない。ないけれども、少なくとも国民の平均的知的水準よりも落ちるのではないかという懸念を抱かせてはならない(そういう人が公金を差配していいのかという話になる)。

彼の頭の中では、「匿名のブログの内容に何で俺様がコメントしなければならないんだ」という抵抗感がまずあって、加えて、官僚が作ってくれた模範解答の前に一言付け加えるのがスマートと思っていたのだろう。でも、「余計なことを言えば思いもよらない方向からバッシングを受ける」というのは小学生にだって分かることだし、この場合は模範解答と逆方向なことを答弁しているので、余計なこと以上である。

「こういうことを言えば聞いた人がどう思うか」と考えることはコミュニケーションの基本だし、長く記録に残る国会答弁に、自分のバカさ加減を示してしまうのは恥ずかしいと思うのが普通の判断である。でもこの人は、どうやら株価とか為替相場、支持率といったデジタル指標には非常に敏感だが、そういった他人の視線、歴史の上での評価といったことには関心があまりないようだ。

そういうことを昔から、「自分の頭で考えない」と言ってあまりよくないこととされてきた。ところが最近は、「考えるより体を動かせ」というのがサラリーマンの処世術になったかのようである。もちろん「バカの考え休むに似たり」という諺は古くからある。けれども、ずっと自分の頭で考える習慣がなかった人が、いざという場合にちゃんと考えて判断できるのかということである。

(もしかして彼は、自分の頭でしっかり考えてそう言ったのかもしれない。その可能性は小さくはない。けれどもその場合、考えなかった場合よりもさらに始末におえない。それこそ、「バカの考え休むに似たり」である。)

サラリーマンを長いことしていて思うのは、今日の組織においては、自分の頭で考えるとろくなことがないということである。たとえ自分の考えが正しくても、トップの考えと合わなければ決して評価されない。間違っていれば、トップの考えと同じだったとしても責任をとらされるのは下の人間である。そうして長年にわたり組織が運営されてきた結果、わが国は上から下までバカばっかしということになってしまった。

生物学者リチャード・ドーキンスはそれを「ミーム」(遺伝子的文化情報)という言葉で表している。組織において、ある行動様式を取ることで組織内における生き残り確率が高くなる場合、あたかも生物進化における遺伝子と同じように、その行動様式が支配的になっていくということである。

残念ながらわが国においては、自分の頭で考えないことが支配的なミームとなってしまったようだ。とはいえ、一つだけ確かなのは、トップになるまではそれが有利な生き残り戦略であったとしても、トップが自分の頭で考えなければそれは悲惨だということである。

[Mar 16, 2016]

原発を運営できる新たな主体?

いま単身で暮らしている社宅は国道沿いにあるので、一日中車の音がやかましい。だから二重ガラスを締め切りにしている。それでも音が漏れてくるので、iPODで昔の曲を聴いている(TVはほとんど見ないのだ)。Breadの"Make it with you"とかCarpentersの"Close to you"が流れると、1970年のビルボードNo.1だなあと思う。もう46年も前のことだ。

他にも1970年のビルボードNo.1には、Jackson 5の"ABC"、"I'll be there"、Simon &Gerfunkelの"Bridge over troubled water"、Beatlesの"Let it be"、"Long and winding road"、B.J.Thomas"Rain drops keep holding' on my head"、Shocking Blueの"Venus"などなど、いまでもスタンダードナンバーとしてよく流れる曲が多く含まれている。

この年のビルボードチャートには長く聴き継がれる曲が多かったということだが、それに加えてよく覚えているのは、当時暇さえあればFENを聞いていたからである。あの頃は、いずれは外国で仕事をするという野心があったのだが、結局のところ、仕事ではなくて遊び(カシノやボクシング)で行くだけであった。

これから46年経つと105歳になるから、まず九分九厘生きていないだろう。逆に46年前は、それほど昔ではないように感じるのは不思議なものである。

さて、新聞をとっていないしネット環境もないものだから、朝起きて1時間くらいはニュースをつけて見ている(BSジャパンかNHKだ)。画面が14インチしかないので遠くからだとよく見えないので、ほとんど音だけである。それでも、自宅のある千葉県北部で震度4の地震があったり、毎日いろいろなことが起きているようだ。

そんなときに、福島以来ずっと懸案になっている原発問題について、こんなニュースを耳にした。

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安全管理上の問題が相次ぎ、原子力規制委員会から新たな運営主体を示すよう勧告されている福井県にある高速増殖炉「もんじゅ」について、文部科学省の検討会は、報告書の案に具体的な運営主体は示さず、外部の専門家が経営に入ることなどを盛り込む方針です。(NHKオンライン)
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ちょっと聞いただけで、うさんくささがにじみ出てくるようなニュースである。

高速増殖炉もんじゅは、基本的に試験研究用施設として位置づけられており、設立当時は動燃、現在は原子力研究開発機構が運営している。その原子力研究開発機構の運営のもと、あまりに多くの不手際が出て来たものだから、新たな運営主体を検討するよう勧告された文部科学省が、検討結果を公表する前に内容をリークし、世間の対応をさぐっているというステータスである。

たとえは悪いかもしれないが、泥棒除けの猛犬「もんじゅ」は、相手が泥棒であろうとなかろうと誰彼かまわず噛みつく上に、体内から放射能を発散するため飼い主の健康に悪い影響を及ぼすことが明らかとなった。だから、「具体的に誰とはいえないが」飼育係を交代させましょうということである。

問題が噛みつくという問題だけならば飼育係で解決できるかもしれない。しかし今回の猛犬「もんじゅ」は放射能を発散させるのである。飼育係を代えれば解決できるのだろうか。それに、新しい飼育係が「もんじゅ」を飼い馴らすノウハウがあるのだろうか。原発の運営経験がある組織が日本全国にそんなにたくさんあるのだろうか。

そもそもの問題として、どこが元請けとなろうが結局のところ業務の大部分は下請けに出すのだから、実態は変わらないのである。想像するに、原発運営の中枢業務は関西電力とか三菱電機、日立、東芝から出向した技術者が行っており、末端の仕事を地元の中小企業が請け負っている。そうやって地元企業におカネを落としていることにより原発が存続できるのだ。

飼育係の例を再び引けば、派遣元がリクルートからテンプスタッフに代わるだけで、実際に派遣される人は同じという構造である。表面的には見直したことになるのかもしれないが、実態は何も変わらない。

そして、組織を運営する人は、良心的であればあるほど、そこで現実に働いている従業員やその家族、仕入れ先や販売先など関係者とその家族のことを考えている。だから、いまある組織を安定的に継続させるということに注力しがちであり、もしかしたらその仕事がいらないのではないかという方向に頭を働かすことができない。

一方で、実際に動いている仕事を回すことにおいて、いま現在実際に働いている人よりもスムーズに運営できる人は存在しない。「新たな運営主体」が安全管理上格段にすぐれているとなどということは、ありえないのである。せいぜい経費節減するのが精いっぱいであって、それをすると現場のモラールは確実に下がるので、安全管理上よくなることはない。

本来であれば、「いま自分がしている仕事は本当に必要なのか、他の手段で代替できないのか」を考えなければならないと思うのだが、文部科学省の役人にはそういう発想はないようだ。とにかく目先の批判に応えるふりだけして、現状維持ということだけしか考えていないようにみえる。これで仕事が務まるのだから、うさんくさいとしか言いようがないのである。

[May 30, 2016]

ドラクエ30年

先月、家に帰ってきたときに新聞を眺めていたら、「ドラクエ30年」という記事が載っていた。30年といえば私の年齢の半分である。もうそんなに経っているのかと感慨深かった。

いうまでもなくドラクエとは、エニックス(現在はスクウェア・エニックス)が開発したロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズのことである。初代ファミコンは最初からゲーム機市場を独占していたわけではなく、セガのメガドライブとかMSXとか競合機があった。それがファミコン独走となった一つの契機が、ドラクエの登場だったのである。

それまでのゲームは、スーパーマリオに代表されるシューティングゲームがほとんどであって、ひたすらコントローラーのボタンを連打して画面上の的を落としていくというものであった。そうなると、解像度とか鮮やかさとか、画面遷移の速さとかが重視されることになる。セガが注力したのがまさにその点で、メガドライブのハード性能はファミコンをはるかに上回っていた。

そうしたゲームばかりであれば、ゲーム愛好者が年代を越えて広がるということはなかったであろう。連打の速さとか反射神経、裏ワザを駆使する指の動きなどは年寄りには無理だからである。ところが、ロールプレイングゲームの登場により、地図や地下迷路の構造を記憶すること、次の展開を推理すること、適確な戦略をとることなど高い年齢層にとって魅力的なゲームとなったのである。

私がドラクエの存在を初めて知ったのは、銀行の調査部で業界調査をやっていた時のことである。銀行では、取引先審査の一環として、どの業界が成長していて、どういう新たな市場が出てくるのかといったことを調査していた。当然、いまでも誰かがやっているだろう。

(少し自慢話になるが、当時私が注目業界として調査月報に書いたのがコンピュータマッピング。GPSとともにカーナビのもとになった技術である。隣の人が書いたのが温水洗浄便座、すなわちウォシュレット。ともに現在では大きなマーケットを形成しているが、当時はまだ海の物とも山の物ともという感じだった。)

その頃、朝一番の仕事は、それぞれの業界紙を隅から隅まで読むことだった。そして、電気機器の業界紙(確か電波新聞だったと思う)で、ドラクエ2の記事が載ったのである。一読して、これはすごいと思った。その頃子供が小さかったのでファミコンは家にあったものの、スーパーマリオだけでは大人は飽きる。子供がやるばかりで自分がやることはほとんどなかった。

すぐに秋葉原に行ってソフトを買ってきた(ちなみに、入手困難になったのはドラクエ3からである)。そして、みごとにはまってしまった。夜帰ってから2時間、朝早起きして1時間、休みは朝から晩までドラクエである。その頃は「ふっかつのじゅもん」でセーブする方式で、ひらがな40文字くらいの呪文をちゃんとメモしないと、次回そこから始められなかった。家の長男はあれでひらがなを覚えたようなものである。

以来、ハードはファミコンから替わったものの、現在もシリーズは続いているようである。ただ自分としては、ゲームはあくまで一人で楽しむものと考えているので、パーティーでとかネットでというのはしっくりこない。それでドラクエ8を最後にシリーズを追いかけるのはやめてしまったが、時間ができたら2くらいからまたやってみたいといまも思っている。

考えてみると、ほぼ60年生きてきて絶妙の出会いというのがいくつかあって、1970年にビルボードのヒットチャートをリアルタイムで聴けたのもその一つだし、ドラクエと出会ったのも間違いなくその一つである。奥さんと出会ったのもカシノを楽しむことができたのも絶妙のタイミングであった。

そうした出会いを生かすのに大切だと思うのは、ひとつは感度、感性のアンテナを鋭敏にしておくことが一つ。もう一つはその時に自由になる時間なり余裕なりを持っていなくてはならないということではないかと思う。多少はおカネもなくてはならないけれど、それ以上に感性と時間的余裕が必要だと思うのである。

[Jun 12, 2016]

カネがすべての世の中ではない 英国のEU離脱多数

EU離脱の是非を問う英国の国民投票は、事前のブックメーカーの予想ではUnderdogだった離脱派が約52%の票を獲得し、英国は今後EU離脱に向けて動き出すこととなった。この件について、新聞・TV等の解説がどうにも画一的かつ一面的なように思えて仕方がない。

彼らの論調は、英国がEUにとどまりつづけることが世界経済にとって好ましいことであり、離脱するというのは、移民の増加により英国内の雇用が確保されないことや風紀や治安が保たれないことに対する英国民の不安をかりたてたポピュリズムなのだそうだ。そして、離脱により世界経済が低迷し、為替や株価が低迷するのは大きな損失なのだそうだ。それは違うだろうと思う。以下、思うところを書いてみる。

そもそも「ポピュリズム」つまり大衆迎合的というのは、政策論争における悪口のようなものであり、厳密にとらえる必要はないのかもしれない。しかし、歴史的にいうと共和制ローマにおけるような、財政的な裏付けなく大衆の喜びそうな政策を掲げることがポピュリズムの語源なのであって、その意味ではどこかの国の増税先送りの方がよっぽど大衆迎合的である。

今回の英国民の選択は、「経済成長よりも、政策選択の幅が広がることの方が大切」「人間や資本がボーダーレスに動くというのは、やりすぎだ」ということであって、何も大衆に迎合した主張という訳ではない。しごくまっとうな、一理ある主張なのである。何が何でも経済成長、カネがすべてであるという主張よりも、私には人間らしい選択のように思える。

それとは対照的だったのが、選挙前にTVのインタビューでほとんどすべての日本人経営者の回答で、「世界経済に悪影響がある」「これまでの流れに逆行する」「こうした不安があるだけで英国、EUへの投資が冷え込む」といった具合。これらはありていに言ってしまえば、「離脱されたらわれわれのカネ儲けに差し支えるからやめてくれ」という、ただそれだけのことであった。

いまだに発展途上国のほとんどすべてがそうであるように、世界人口の半分以上はその日食べるものも十分にないというのが実情である。英国は少なくともそういう国ではない。だから、カネは十分ではないがほどほどにあれば足りるので、それよりも生活環境を大事にしたり、自分達のことは自分達で決められるようにしたい、と考えておかしくない。というよりはそう考える方がずいぶんとまともだろう。

もちろん、「その日食べるものも十分にない」「安全に日々を暮らすことができない」人々が、国境を越えて安全に暮らせて食べることができるのならば、それはすばらしいことである。しかし、その人達が暮らすのが自分の家の庭だったらどうなのか。理想論、建前論だけではすまない問題があるはずである。

今回、離脱反対派の、特に英国外から非難している人達のうさんくさいのは、世界経済だの移動の自由だのとお題目はたいへんご立派だが、その主張の奥底には、労働力を安く調達できてマーケットが広がれば、それだけ儲け話も多くなるという、きわめて利己的かつ際限のない欲望が透けて見えることである。

自分自身を振り返ってみても、十万円あれば五十万円、五十万円あれば百万円、百万円あれば五百万円欲しくなる。それだけカネの欲望というのは際限がない。そこにいかにしてタガをはめ、カネはこれだけあればそれ以上は求めないと言えるか。そういう問題意識がもっとあっていいと思う。

「カネがすべてではない」という選択を英国民の半分以上がしたということは、グローバルスタンダードとか、ボーダーレスとか、待ったなしとか言っている連中の目指すような方向にみんなが向いている訳ではないということであり、ちょっと心強く思ったりする。

[Jun 26, 2016]

パラリンピックとpolitical correctness

ようやくオリンピック・パラリンピックが終わって、午前6時台のNHKが通常放送になった。私はオリンピックもパラリンピックも見たくないので、通常放送に戻ってくれてうれしい。日本中に私のような人間はたくさんいると思うのだが、気のせいだろうか。デジタル放送で多チャンネルにできるのだから、NHKもいろいろやり方はあるはずなのだが。

オリンピックについても言いたいことはたくさんある(なぜ日本選手が活躍する競技ばかり放送するのか、とか)が、今回はパラリンピックについて一言。パラリンピックをオリンピックと同様の扱いで放送することについては、たいへんうさんくさいと感じている。ひとつはPolitical Correctnessに対するものであり、もうひとつは障害者を商売のタネにすることについてである。

Political Correctnessを直訳すると政治的正当性ということになるのだろうが、実際にはほぼイコールで差別の撤廃という意味に使われている。人種、国籍、性別、障害の有無、性的少数者などで人を差別すべきではないというのは当り前のことで、そのことにもちろん異議はない。だからといって看護婦を看護師と言い換えたり、パラリンピックをオリンピックと並列で扱うことに意味があるのかという話である。

Political Correctnessに表だって反対するのには勇気がいる。ヘイトスピーチをする人と同列に思われてしまうからである。しかし、昔だって差別をするのはおかしいと思う人はたくさんいたけれども差別はあからさまにあった。いまは世間はPolitical Correctnessを重視すると言っているけれども、かえって差別は奥に潜んだ陰湿なものとなっているように感じるし、それを濫用して自分だけに有利な取扱いを要求する人が増えた。

たとえば、女性専用車両はここ数年で定着した。首都圏では女性専用はラッシュ時間帯の上り電車だけで、これは当初の意図に沿ったものなのだが、関西圏では真昼間がらがらの時間帯に専用車両がある。それも、階段に近い乗りやすい場所にあるので、先だってあわてて乗り込んだところ、「ここは女性専用ですよ」と白い目で見られた。

もともと女性が不愉快な思いをしないように専用車両を作ったのであって、がらがらの時間帯に専用車両を設ける意味はない。本来、サービスに差をつけるのは公共交通機関の姿勢として望ましくないのに、実際には女性のみに有利なサービスを提供させている。大阪のおばさんにとっては既得権なのだろう。そんなものを作るくらいなら、シルバーシート専用車両を作るべきであろう。

Political Correctnessとは、端的に言って真昼間の女性専用車両のようなものである。そういう言い訳を使うことによって、自分だけに有利な取扱いを求める人がいて、建前上それに反対することができなくなっている。かつてはそうしたこともやむを得ない状況があったが、いまではずうずうしい人が自分の属性に関係なくそれを主張している。

看護婦を看護師と言い換えるよりも、世の中にあふれているナースのコスプレを禁止した方が、看護職の女性に対する差別をなくすのに有益なような気がする。でもそうすると、性的少数者の差別につながるといって、これもまたPolitical Correctnessに引っかかるのだろうか。

私はサラリーマン時代に障害者福祉に関する仕事もしていたけれども、この世界はきれいごとではすまされない。例の神奈川県立施設の事件報道がほとんどされなくなったことに如実に現れているように、建前と本音がかけ離れている。一口に障害といっても身体障害、知的障害に近年では精神障害も加わり、障害の程度だってもちろん一様ではない。

パラリンピックの報道を大きくすることにより、障害者への理解が進めばそれはそれで意味があるけれども、実際にはそんなことにはならない。パラリンピックに出ている人のほとんどは身体だけの障害であり、だから飛行機に乗ってリオにも行けるし競技にも出られる訳だけれども、身体だけの障害ではない人もたくさんいるのである。

そして、障害の程度だって一様ではないから、どの競技だって同じ条件でやっている訳ではない。だから、金メダル銀メダルなどと成績に一喜一憂することにほとんど意味がない。そしてオリンピックと同様にドーピングが禁止されているから、人によっては治療すべき病気を治療しないで競技をすることになる。東京パラリンピックに向けて強化などと言っているけれど、オリンピックとは違うのである。

おそらく、商売重視のIOCがパラリンピックにも同様の扱いを求めている裏には、障害者スポーツに対する設備投資(バリアフリーのみならず障害者専用施設まで含めて)や機器の普及(競技用車椅子はかなり高価である)があるのだろう。確かに、それはそれでいいことである。公共施設が障害者の利便性を考えたものとなるのはたいへん結構なことである。

しかし、逆に考えれば、障害者スポーツを見世物にして、関連する建設業界、健康機器業界等々の商売のタネを作っているということにもなる。悲しいことだが、「社会福祉」と口では言いつつ実際には自分の懐を肥やすことだけを考えている人間は少なくない。それが人間であるといえなくもない。だからといって、そういう人達の商売をさらにやりやすくすることはない。

私は年末には社会福祉のための募金にできる範囲で協力することにしているが、周りをみているとそういう人はあまり多くない。そして、そういう些細な募金が集まってできる金額も、それほど多くはないだろう。だから、税金を使って大きくやるのだという考え方はあるのだろうけれども、私はその考え方が好きにはなれない。カネの多寡よりも善意が大切だと、きれいごとかもしれないが信じているのである。

[Sep 22 , 2016]

Underdogのトランプ氏、逆転勝利の考察

昨日11月8日(日本時間9日)は、アメリカ大統領選挙の開票速報TVを午前中から見ていた。仕事があればそんなことをしていられないが、リタイアしたので思う存分見ることができる。開票速報が出るたびに、トランプ善戦からトランプ優勢に変わり、株式市場は大暴落、アメリカABCの選挙速報でも、誰も予想してなかったじゃないかと責任のなすりつけ合いをしているのが面白かった。

中継を見ながら、2つのことを考えていた。大統領選挙の総括についてこれからいろいろな人が言ったり書いたりするだろうけれど、それを読まないうちに、また忘れないうちに私の感想を書いておきたい。

ひとつは技術的なことで、なぜ事前の世論調査では2ポイントから5ポイント、クリントンリードだったのに、こういう結果となったかということである。

まず疑わなければならないのはそもそも世論調査の結果そのものが操作されていたということだが、ブックメーカーのオッズが1対5でクリントン有利であったので、それはありえない。ブックメーカーがオッズを出すということは、賭けが正当であったこととニアリーイコールである。

だとすれば、可能性は大きく2つ考えられる。ひとつは、世論調査の結果をみて、有権者の投票行動が変わったということである。日本ではそういう考え方をする人が多くて、おそらく今日(11/10)の新聞でもそういう主張をする記事があるだろうと思う。例えば、クリントン有利と思った人は油断して投票に行かず、現状に不満を持つ層がトランプに投票したというような考え方である。

しかし、世論調査を見て投票行動を変える人が最大5ポイントをひっくり返すことができたかというと、それはどうかと思う。日本でもそうだが、死票を投じることを嫌がる人というのは必ずいて、油断して行かなかったクリントン票がある一方で有利な方に入れるというクリントン票もあり、結果としてオフセットされてしまうからである。

だから私が考えたのは、ランダムサンプリングの方法に問題があったのではないかということである。日本でも世論調査や選挙の出口調査はランダムサンプリングにより行っているが、私はいまだかつて調査を受けたことがない。サンプリングの数というのは統計的に証明されていて、1%も調べれば、全体とそう変わることはない(理論的にはもっとずっと少ない)。

だから視聴率の数字も、数千、せいぜい2、3万のサンプルで数百万世帯の傾向を推定している訳であるが、それが正しいといえるのはあくまでランダム(無作為)にサンプリングが行われている場合だけである。

つまり、アンケートをしづらい人の集団がいるとして、それらをサンプルに含めていなければ、結果は当然違ってくる。今回もABCの出口調査で、大卒でない白人男性(よくそこまで聞けたものだが)の60%以上がトランプ氏に投票していた。これだけ偏るということは、そもそもそういう人達は世論調査の対象となっていなかったのではないかということである。

選挙速報を見ながら考えたもう一つのことは、Political Correctにはみんなうんざりしているんだなということである。

高学歴で若い時から専門職に就き、政府の公職を歴任してディベートも巧み、差別に敏感で民族・宗教間の融和を主張する候補者を選ばずに、女性や移民の人達への差別意識を隠さず、過去にいろいろな問題を起こした候補者を選ぶということは、有権者がそんなことを基準に投票しなかったということである。

つまり自分達を代表する指導者としては、金持ちで、恰幅が良く、女房が美人で、どでかいビルを持っている男が望ましいということである。あるいは、Political Correctなオバマ大統領の理想論は耳に快かったが、われわれの生活はちっとも楽にならないじゃないかということかもしれない。いずれにせよ、これからのアメリカが国内重視な内向きの方向性を持つことは間違いなさそうだ。

[Nov 10, 2016]

IR法案(カジノ法案)成立について技術的なこと

会期末ぎりぎりの段階で、どさくさにまぎれてIR法案が成立した。まあ、与党も野党も身内に反対意見もあれば賛成意見もあり、正面切って議論もしたくなかっただろうから、こういう結末は仕方なかったのかもしれない。

ただ、今回の議論をみているとTVではブラックジャックやルーレットの画面ばかり映すし(なぜバカラ卓を映さない?)、依存症や治安の悪化ばかり問題にしているのだけれど、もっと技術的なことを議論してほしいと思うのは私だけではあるまいと思う。そこで、私が言ったところでどうなるものでもないが、いくつか問題点を指摘しておきたい。

本当をいうと、第一に議論すべきは賭博を認めていいのかどうかということなのだろうが、これについては深く立ち入らない。諸外国で認めている以上「絶対に認めてはならないもの」でないことは確かではあるが、かといって刑法で定めているから犯罪になるだけという見方もうなずけない。すべて自己責任でいいのなら、薬物だって禁止しなくてもいいことになる。

私が気になる技術的なこととは、カジノで何をすることができて、どこまで裁量(営業努力)が認められるかということである。もちろん、バカラは絞れるのかとかコンプはあるのか、VIPフロアはあるのか、カードはBeeなのかNintendoが復活するのかとかも気になるのだが、こういうことを言うとふざけていると思われるので、あえて言わないのである。

法案を読む限り(反対意見の人も含めて、みんな法案は読んでいるのだろうか?)、ゲーム賭博とスロットマシンは想定されているようなのだが、その範囲はあやふやだし、内容によってはかなり刺激的なものとなるかもしれない(話は変わるが、「カジノ」なんて日本でしか通用しないカタカナ言葉を法案に使うセンスはいかがなものであろうか)。

まず、ゲームができないカジノはないだろうから、ルーレットやBJ、バカラなど「客対カジノ」のゲームは認められるとして、同様に「客対客」のゲームを認めるかどうかである。というのは、例えば富貴三公や牌九、トーナメントポーカーを認めるとすると、それらと手本引き、賭け麻雀の違いはどこにあるんですかということである。

「客対客」が認められれば、ゲームの種目は国ごとに違うから、私が「カシノ・オーストリア」のマーケティング担当なら、日本人になじみの深い「麻雀」の導入を考えるだろう。同じ賭け麻雀も、カジノに行けば合法で街の雀荘ならお縄になる。結構難しい問題である。でも、「客対客」が認められないと、カジノの魅力は半減する。

カジノでおおっぴらに賭け麻雀ができるようになると、全国の雀荘が壊滅するかもしれない(麻雀人口の激減により、もうすでに壊滅しているかもしれないが)。同様に、スロットマシンが合法化されると全国のパチンコ店はかなりの打撃を受ける。警察は黙っているのだろうか。もちろんカジノができればOBの天下り先になるが、IRは全国各地にはできないだろう。

個人的にたいへん興味があるのは、スポーツブックとキノが認められるかということである。スポーツブックが認められると、これまで非合法賭博の代名詞だった相撲とプロ野球(甲子園も!)に賭けることができるようになるかもしれない。個人的には大相撲のハンデが出たら面白いと思うが、きっと無理なんだろうなあ。せいぜい競馬や競輪、ボートの場外売場が併設されるくらいだろう。

宝くじの売場は当然できるとして、抽選が週に2回位しかないとなるとカジノには向かない(それまでに外国人観光客は帰ってしまう)。2時間に1回くらい抽選のあるキノを導入すればライトファンは食いつくだろう。しかし、商品内容が宝くじと同じだし、totoやBIGとも競合するから、総務省や文科省から文句が出ることは避けられない。

そういった懸念材料を除いていくと、初期のテニアンのように、スロットマシンとルーレット、ブラックジャック、バカラ、カリビアンスタッド(テニアンではパシフィックポーカーと呼んだ)だけということになるのかもしれない。それでも多くの日本人には目新しいだろうし大陸客は来るだろうけれど、長い目でみれば飽きられるだろう。

もし数年後に売上が伸び悩んだとして、私が「カシノ・オーストリア」のマーケティング担当なら(しつこいw)、何を売るかに制限をつけるな、対面だけでなくネットで売らせろと言うだろう。そして、ついに日本のカシノで手本引きが導入され、ネットでスポーツブックが買える時代が来るのである。

IR法案では、こういった点をすべて「別に法律で定める」としているのであるが、どうせ別に定める法律だって「別に政令で定める」だろうし、結局は省令になり担当課を通り越して担当者がオールマイティになるのだろう。個人的にはそういった点がたいへん気になるのだけれど、多くの人達は決まってしまえば後は御上がよきに計らうと考えているのだから、仕方がないことなのである。

[Dec 15, 2016]

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