なんとなく思うこと・・・ニュースや世間のいろいろなこと、私が思うことと世間が感じることは違うみたいです。

景色のいい外国で家族の髪を切りたいって?    男子高校生のおばさん化?
そんなにめでたいか沖ノ島世界遺産    新聞もTVもニュースはストレスの元
ビットコインと仮想通貨の将来    改めてアメフトの日大騒動について
平成最大の水害    震災直後の北海道


景色のいい外国で家族の髪を切りたいって?

昨年4月以来電車に乗ることがほとんどなかったのに、この1月から職業訓練所に通い出して毎日電車に乗っている。座って本を読めるのはうれしいが、車内に掲示されている広告にはあいかわらず腹立たしいものが多い。毎日これらのジャンク情報が目に入ってくるのは、たいへん煩わしい。今日はその中のひとつについて。

「景色のいい外国で、家族の髪を切る」のが、二十何歳美容師男の夢なんだそうだ。おそらくモデルになった美容師男はそんなことを言ってなくて、コピーライターが恰好よさげな事を書いただけなんだろうと思う。そうだとしても、このCMを出している会社も、代理店も、このコピーを見る人も、このコピーに違和感を持たないとすればどこか頭の配線が逝っちゃっている。

このコピーを見て私が真っ先に思い浮かんだのは、何年か前に香港で大陸からの観光客が急増し、街中で子供にウンチをさせてそのまま放置していたという話である。そもそも、髪を切ってさっぱりする人は気持ちいいかもしれないが、切った髪は他人にとってただのゴミである。この会社は自分達の感性が大陸客並みということが分かっているのだろうか。

そして、美容師の職業倫理として、客からオーダーがあればどこであろうと仕事をするのがあるべき姿で、「自分も景色を楽しみたい」などと言うのはプロではない。まして、カットした髪の毛はきちんと片づけて終わりにするのが当たり前で、その場に放置していいはずがない。近所の誰かがそういうことをしていてわが家に髪の毛が飛んできたら、おそらく文句を言うだろう。

それをまた、自分の庭ではなく、日本でもなく、外国の景色のいいところでやろうというのである。箒や塵取りを持って行くはずもないし、だいいち地面に落ちた髪の毛を回収などできやしないから、きっと放置する前提なんだろう。よその国の人に対して、プロとして恥ずかしいとは思わないのだろうか。

もちろん私だって、外国の景色のいいところで立ちションを絶対しないのかと言われると、絶対とは言い切れない。それでも、少なくとも人目につかないところで見つからないように気を付けるはずである。景色がいいところですれば気持ちいいことはいいだろうけれど、そう思ったとしても人前であけっぴろげに言うべきことではない。

あえて決めつけてしまうと、美容師男(またはコピーライター)はろくに外国に行ったこともなければ、景色のいいところに行ったこともなく、どういうことをすればどうなるという想像力もなければ、プロとしての職業倫理もないということなのである。

実はこのCM、なんとかいう結婚相談所のCMである。こういう感性・品格の男性会員と、こういうコピーに惹かれる女性会員が大勢集まっているんだろう。そして、こういう大規模CMで数千万かけるということは、少なくとも十何万かの会費を取るのだろう。まともな情報提供ができるのか、大いに首をひねるところである。

こういう会社に十万以上も払うくらいなら、1人1万円×2くらいの夕食に女の子を5回誘った方がよっぽどいいと思う。結果はそれほど出ないかもしれないが、ともかくおいしいご飯は食べれる訳だし、こういうCMを作るろくでもない会社に、ろくでもないカネの使い方をされることに比べると、プラスマイナスで金額以上の差が出てくると思う。

[Mar 12, 2017]

男子高校生のおばさん化?

昨年の夏にリタイアして通勤通学の時間帯に電車に乗ることはないと思っていたら、正月から職業訓練所に通うことになって朝晩決まった時間に電車で行き帰りするようになった。都心に向かう電車ではないのでそれほど混雑してはいないものの、それでも人混みに入って行かなければならないのは気が重いものである。

成田近辺にはいくつか高校があり、4月になって新入生が入ってきたので駅や電車がにぎやかである。急に混み出したように感じるのは、入学した当初は時間通り通っている高校生が徐々に遅刻したり学校に来なくなったりするからだろうか。いずれにせよ子供の数は年々減っているのだから、去年より今年の高校生が多いなんてことはない。

さて、そんな高校生を見ていて最近感じるのは、男子高校生がおばさん化しているということである。集まってべらべらしゃべっているのも男子が多いし、聞くともなしに耳に入ってくるのは、それぞれが自分の話したいことを話していて他人との会話になっていないということである。そして、一人で本を読んだりスマホをしている男というのもあまり見ない。

もちろん女子高校生にもおばさんみたいなのはいるけれども(そのままおばさんになるのだろう)、多いのはひそひそ話をしている2人組だし、一人で本や参考書を読んでいるのも圧倒的に女子生徒である。スマホを手に大人数集まっている男はおそらくゲームをしているのだろうが、女子のスマホは一人静かに画面をスクロールしている。

自分が高校生だった頃を振り返ると、男子高校生の多くは突っ張っているか趣味に走っているかどちらかであって、電車の中で集まって身の回りの雑事をしゃべっているグループというのはあまり見なかった。そういえば、後者の趣味組はいまでもおタクとして存在しているが、前者のツッパリ組はとんと見かけなくなった。「ビーパップハイスクール」頃が最後だったのだろうか。

その時代、いまみたいに無防備にべらべらしゃべっていたりすると、ガラの悪い奴らに絡まれてカツアゲでもされるんじゃないかという雰囲気があった。そんなふうに、他人と物理的に近い距離にいなければならない時には、まず身を守るということを見につけなければならなかったのである。

家で奥さんとそんな話をしていたら、奥さんが「最近では、おかあさんと仲がいい男の子が増えているみたいよ」と言っていた。なんでも、昔は女の子だけだったのが、最近では高校生にもなった男が母親と腕を組んで歩いたり、一緒にデパートに行ったりするんだそうだ。

世の中が平和になって、男女も平等になってそれはそれでいいことなのだろうが、男子が女子化したのでは少子化するのも仕方がない。たいへん違和感を覚える一方で、物陰でガンを飛ばしている連中を見なくなって、それはそれで安心して歩けることも確かである。

[May 19,2017]

そんなにめでたいか沖ノ島世界遺産

沖ノ島がユネスコの世界遺産になって、読売新聞は大喜びである。まあ、どっかの事務次官が歌舞伎町でいかがわしい店の常連だったとかいう官邸リークを記事にしている志の低い新聞だから気にすることもないのだが、地元でも盛り上がっているなんて記事を読むと、なんだかおかしいなと思う。今日はそのことについて整理してみたい。

世界遺産なんて制度そのものがユネスコの資金稼ぎみたいなものであり、ある意味オリンピックや万博とよく似ている。世界遺産に登録しましょうなんて運動をすることで地方自治体からカネが出るが、そうやって公金が出ること自体、後々の観光収入やら映像権やらの見返りを期待しているのである。世界遺産になると、どこからかカネが沸いて出てくる訳ではない。

まず指摘しておかなければならないのは、沖ノ島は宗教施設(宗像大社の神領である)で、一般人の立ち入りが厳しく制限されているということである。昔と変わっていなければ女人禁制のはずだし、男でも原則として禊をしなければ上陸できない。オリンピックのゴルフ会場が女性会員禁止ではよろしくないと騒ぎになったが、そんな生易しいものではないのである。

だから、本来は宗像大社が自身の予算の中から維持管理をしていく筋合いのもので、国や地方公共団体に支援を期待すべきものではない。それが嫌だったら、せめて明治神宮並みにゆるい規制にすべきであるし、島に他人は入れないが補助金だけはほしいというのは欲張りの考え方である。

話は変わるけれども、私がいま取り組んでいる四国札所歩き遍路にも世界遺産の動きがある。確かに、この間訪れた真念庵は地元教育委員会の努力はあるものの寂しい状態だし、かつて訪れた焼山寺道の浄蓮庵も、もう少しなんとかならないかという感じだった。

だから、有志が現れて施設に手を入れることはありがたいことだと思っているが、それが世界遺産になって国・地方公共団体のカネでやるのだということになると、それは違うんじゃないかという気がしている。お遍路だけでなく宗教はあくまで個人の信心が基本になっているのであり、どこかがバックアップすることを求めているのではない。

本当のところ、そうした施設の維持管理に自分のカネを出そうというのが本来の意味での旦那(もともと、寺のパトロンという意味)であり、余裕あるカネを手にした者のノブレス・オブリージュだったはずである。(パトロンとノブレス・オブリージュは、実は語源が同じで、聖ペテロに由来する)

宗教施設ということにはもう一つ問題があって、ユネスコ(一応、国際機関である)の認める施設である以上、「異教徒にも」開かれたものでなくてはならない。バチカンのピエトロ大聖堂も世界遺産のはずだが、イエス・キリストを信じない者の立入りができないという話は聞いたことがない。沖ノ島は禊をしていない一般見学者の立入りを認めるつもりはあるのだろうか。

実はそうしたこと以上に私が気に入らないことがある。それは、おそらく国・地方公共団体はこの世界遺産指定を盾にとって、これまでにもまして島への立入りを厳しく制限するだろうということである。

この間読んだ本で、鳥島(島全体が天然記念物である)への上陸は東京都が厳しく制限していて、たとえ自分のカネで船をチャーターしても、許可がない限り上陸させないそうだ。それでも、その海域には近くで密漁している中国船がうようよしており、台風でも来て緊急避難を求められれば、断るすべはないらしい。全く、小役人根性というやつである。

おそらく、世界遺産の指定で、いままでにも増して沖ノ島への上陸は難しくなるだろう。これまでは宗像大社にツテがあれば工事に随行して上陸することはあるいは可能だったかもしれないが(鳥島にはそうやって上陸できた)、これからは「世界遺産ですから」といってそれも難しくなるだろう。それでも、政府関係者やユネスコ関係者はきっとフリーパスなのだ。

別に、国やユネスコが制度を使って好き勝手することを今更嘆いても仕方がない。でも、それをさも国民的祝賀行事のように騒ぐ人(新聞)の気がしれない。だからせめてもの自衛策としては、これをカネ儲けのタネにしようとする下心に何の関心も持たなければいいのである。

[Jul 17, 2017]

新聞もTVもニュースはストレスの元になるだけ

今月初旬のブログで新聞をとるのをやめたことを書いたのだけれど、これには予想しなかった意外な効果があった。余計なストレスが少なくなったことである。費用対効果とか節約志向が新聞をやめた主たる動機なのだけれど、実際やめてみると、新聞から入ってくる情報は99%雑音でありストレス源であったことがたいへんよく分かった。ありがたいことである。

もともとTVは見たい番組を除いてあまり見ないし、通勤がないのでつり革広告を見ることもない。新聞も来ないので外から情報はほとんど入って来ない。どうしても知りたい情報はネットで調べるけれど、社会とか芸能には興味がないし、私の知りたいスポーツ情報は日本のニュースではやらない。

結局、朝のテレビ体操をして天気予報を見た後は、BSにチャンネルを替えて「里山」と「もういちど日本」を見ている。それから奥さんが「花子とアン」を見ているが、私は自分の部屋でブログの記事を書いたり次の山歩きの計画を立てたりしているのである。他にはボクシングやNFLのVTRを見るくらいで、漫然とTVをつけていることはない。

チャンネルを替える時に目に入ってくる見出しによれば、大相撲の日馬富士騒動だのモリだかカケの土地取引だの、韓国のどこかでやるらしい冬のオリンピックが話題になっているらしいが、そんなものには全く興味がないし、聞きたくもない。そういう情報を遮断することがこんなにストレスを減らすことになるとは思わなかった。

実はそういうことは、今回のお遍路歩きで最後のお寺さんだった石手寺で感じていたことに近い。この石手寺、境内には文字情報満載の印刷物が至るところに貼り出されている。いわく、「仏陀」「悟り」「即身成仏」「平和祈願」「少数民族」・・・。頭がくらくらした。はるか昔、大学の構内に所狭しと並べられていた立看板を思い出した。

これまで歩いた他の札所はほとんどすべて、字が書いてあるのは由緒書きとか文化財の説明くらいで、ビラの類などは貼られていない。境内に出店があるだけで、相当の違和感があるくらいである。それはおそらく、仏像やそれを納める建築物、境内のたたずまいなどから発せられる微細な信号を、感覚を最大限に鋭敏にして捉えなければならないからだと思う。

もちろん、そうしたお寺さんにあふれている梵字も経文も文字情報なのだが、ビラのように直接的に脳に入ってくるものではない。梵字や経文はわれわれが解読するのを静かに待っているだけだが、ビラの類は読みたくなくても向こうから情報を押し売りしてくるのである。

例えてみれば、静かにして集中しなければ聞こえない虫の声を聞こうと耳をすましていたら、大音量のスピーカーで選挙演説をやられたようなものである。選挙に関心のある人はそれでいいかもしれないが、お寺さんというのは本来、目に見えないものを見たり、聞こえないものを聞いたりする場所のはずなのだ。

それと同じことが毎日の生活にもあるように思う。生きていれば、見たくないものが目に入り聞きたくないものが耳に入って来るのをすべて遮断することはできない。それはそうなのだが、あえてそういうものに近づかなくても、生きていくことはできるのではないだろうか。

新聞とかTVのニュースはもはやそうしたジャンクの域に達しているように思う。それは、電車のつり革広告やお店のPOPと同じで、誰かが見せたいと思っている情報であって私が得たい情報ではない。見なければ見ないだけストレスが減り精神の平衡が保たれるならば、そんなものは見ないに越したことはないのである。

[Nov 29, 2017]

ビットコインと仮想通貨の将来

新聞をやめてしまったし交通機関もほとんど使わないので、世間で何が話題になっているかよく分からないし知ろうとも思わない。ただ、ネットを見ているだけでも「ビットコイン」という単語を頻繁に目にするし、奥さんがTVをつけていると出川のCMが目に入る。何やら世の中ではビットコインという仮想通貨に注目が集まっているようである。

これについて私の意見はどうかというと、仮想通貨がいずれ世の中に出回ることは十分ありえることだが、それが「ビットコイン」であるかどうかは分からない。仮にビットコインに投資して身ぐるみはがれても再起可能な若い人はともかくとして、リスクミニマムを心がけるべき年金生活者が近づくものではないということである。以下、思うところを述べてみたい。

そもそも現在流通しているすべての「通貨」は、大なり小なり「仮想通貨」の性格を持つのは経済学の見地からみて明らかであることは間違いない。ドルでも円でも、それらに金(Gold)の裏付けがあったのははるか昔のことであり、現在はただの紙である。ただの紙に、米国政府なり日本政府なりが強制通用力を付与して、自国内の経済活動に便宜を図っているだけのことである。

だから、仮にタイムマシンがあったとしてドルなり円を500年前に持って行けたとしても、それを使って市場でモノを買うことはできない(500年前にアメリカはないし)。同様に500年後に持って行けるとしても、それらが古銭以上の価値を持つ保証はない。発行数が多すぎて、イミテーション金貨と同じようになるかもしれない。

つまり、通貨というものは、時と場所、使用する人が限定される範囲内で「仮想的に」「価値あるものとして」使用されるに過ぎないのである。だから、経済破綻した国でそれまで通用していた通貨が暴落し、文字通り「紙切れ同然に」なってしまうことが歴史上いろいろな場所で起こってきた。いまや当り前に投資されている人民元だって、しばらく前にはそういうリスクがきわめて大きいとされていたのである。

だから、インターネットにおける交換価値を重視していて、自分の国に信用がおけないと思っている人が、自国通貨でなくネット上の仮想通貨を使用する(例えばソフトウェア使用料を仮想通貨で受け取る)ことは経済合理性からみて当然のことだし、そうした仮想通貨が将来拡大することは十分考えられる。だから仮想通貨すべてが眉唾ものとは思わない。ただ、それが「ビットコイン」かどうか保証はないのである。

ずっと昔、スポーツドリンクという市場が確立していなかった頃、わが国にもスポーツドリンクなるものが導入される時期があった。今でも米国で主流である「ゲータレート」も輸入されたし、他にもいろいろなものがあった。しかし、結局いまでも生き残っているのは「ポカリスエット」と「アクエリアス」くらいで、他のドリンクは全国規模では販売されていない。

当時から、マラソン走者が競技中に水分を補給するのを多くの人が目にしていたから、スポーツドリンクなるものが世の中に存在し、いずれ多くのスポーツで利用されるだろうことは予想されていた。だから雨後の筍という状態でみんな参入したのである。つまり、仮想通貨はスポーツドリンクかもしれないが、ビットコインはポカリスエットなのかということである。

もう一つ指摘したいのは、いまビットコインのCMで異口同音に言われているのは、「ビットコインは値上がりしますよ。儲かりますよ」ということばかりなのである。通貨を所持するのはもっと保守的な目的によるもので、仮に目減りしたとしても確実に将来の食い扶持になるようにというのが本来あるべき姿なのである。

その起源は、その年の収穫物の一部を食糧庫に残しておいた縄文時代にさかのぼる。だから、古代において通貨として使用されたのは、米であり織物であり、そのまま残しておいても将来衣食住の何かに使えるものだったのである。牧畜が生産手段だった地域では、家畜が通貨として使われたのも同様の趣旨である。

その後、金(Gold)が通貨として使われる時代が長く続いた。金は装飾品や建材として使うことが可能ではあるが生活必需品とまではいえず、「現物通貨」と「仮想通貨」の中間的なものといえるが、その後政府の発行する紙幣となった時点で完全に仮想化した。日本でも、藩札とか軍票とか、時期と範囲が限定される通貨があった。ビットコインはそれらの現代版ともいえる。

  確かに、多くの現代人にとってインターネットは生活必需品であり、ネット上の交換価値が重要になるのかもしれないが、人間ネットがなくても生きていけるし、他の楽しみはいくらでも見つけることができる。国家なり領土といったものだって仮想的だけれど、ネット上のつながりはさらに仮想的である。

それらがどうやって裏付けを持ち使用範囲を拡大していけるかが重要なのであって、何ヵ月レベルで値上がりするのしないのといったレベルの話ではないと思うのである。出川が宣伝している時点で、デパートのお買物券に投資した方がまだましと思ってしまうのは、私の頭が古いせいばかりではないように思う。

[Jan 26, 2018]

改めてアメフトの日大騒動について

日本ではマイナースポーツもいいところのアメリカンフットボールが、連日ニュースで報道された。おそらく、国内においてアメフトがこれほど取り上げられたことは史上初めてで、日本人NFL選手が活躍しない限り今後もないだろう。

正直なところ、私としては国内の試合に全く興味がないのだが、有馬さんや生沢さんといったおなじみの面々が登場したこともあり、NFL情報を記事にしているサイトの端くれとして、遅まきながら感想を述べてみたい。

まず、日大という組織は、理事長(実質的なトップである)の顔を見て分かるとおり体育会系が牛耳っている。体育会系というよりも、むしろ相撲部屋といった方がいいかもしれない。相撲部屋といえば「無理へんに拳骨」と古くから言われるように、親方・先輩の指示が絶対であり、それに疑問を差し挟むことは許されない。それを試みる者には、鉄拳制裁が待っている。

そんな組織がなぜ生き残りここまで勢力を伸ばしてきたかと考えると、日本の社会そのものがそれを求めていたのだと言わざるを得ない。実力主義だの実績重視だのいくらきれい事を言ったところで、実際は「上の言うことに逆らわない」人間が出世するのが日本の組織であり、そうした組織で重視されるのは日大型人材なのである。

だから、小田嶋先生が常日頃主張するように、日本の組織は「下へ行くほどどんどんバカ」になる。上の指示に従うだけなら頭はいらない。むしろ思考停止して考えることは誰かに任せた方が楽である(特にそういう人間にとっては)。大事なのは組織を末永く存続させることではなく、自分達がより多くの分け前を取ることだからである。

そういう組織を私はつい先ごろまで身近に見てきた。「日大型人材」というよりほとんど日大なのだが、そういう人間が中核を占めている組織だった。彼らが中核だから彼らが考えているのではない。彼らはまた他の誰か(役所とかOBとか)の指示を忠実に守っているというだけのことで、自分の頭は使わない。自分の頭で考える人間はスポイルされる組織なのであった。

だから、今回の件に関しても、件の前監督だか常務理事人事部長をクビにしたところで、彼が外からコントロールできる人間が次に座るだけのことで、日大が生まれ変わることはない。仮に生まれ変わるチャンスがあるとすれば、今回の事件を契機に就職が厳しくなり学生が減り、系列の高校・中学の受験生が激減するケースだけである(長期的にはそうなる)。

むしろ今回のケースで私が思ったのは、そういう連中から身を守るために、関学はどうすべきだったのかということである。

何度も繰り返し放映していたVTRを見ても明らかなように、スローイング後のQBは明らかに周囲への警戒を怠っているし、プレイアクションであったとしてもオフェンスラインはどこで何をしていたのかということである。私に言わせれば、オフェンスラインの最大の仕事はQBを守ることであり、全員がボールの行方を最後まで見ている必要はない。

今回は幸いにひどいケガにはならなかったようだが、アメリカ並みに体格のあるディフェンスラインが、全速力で走ってきてヒザ下にハードヒットすれば、シーズンアウトになっておかしくない。そして、反則指示があってもなくても、ボールを見ずにQBに当たりに来るディフェンスがいることは、アメフトでは当り前である。

そうした点を考慮すれば、パスを投げる前投げた後に周囲を確認するのはQBにとって自分を守るために必要なことであるのに、その注意が欠けていたことを指摘する意見はゼロである。もちろん、日大を厳罰に処すためにTV的にそれを言ってはいけなかったのかもしれないが、本当のことを言えば、自分の身は自分で守るしかないのである。



そして、確かスタンフォードの河田さんが言っていたと思うが、アメリカであれば、あのケースは100%乱闘である。しかし、あのプレイを見て乱闘も小競り合いも起こさなかったチームのお行儀のよさを誉めるべきかどうかということである。

乱闘を勧める訳でも美化する訳でもないが、彼らはチームメイトがひどい反則を受けて(ケガの軽重はその場では分からない)、加害者を無傷で返していいと思ったのだろうか。仮に最悪のケースで両チーム1年間出場停止になったとしても、チームがたかだか日本国内で勝ったの負けたのというよりも、もっと大切なものがあるのではないだろうか。

よくラグビーで言われる”All for one.One for all."。日本ではえてして"One for all"という滅私奉公的側面だけが重視されるが、チームというのはいざと言う時個人を守ってくれるものなのである。悪質な反則を受けてすぐに動いてくれないチームに属する意味は、どこにあるのだろう。

今回の場合は、マスコミが動いてくれたこと、加害選手が非を認めて記者会見したことといった要因があり、事後的にかなり効果的な報復ができたけれど、日大の情報管理・選手管理が万全であれば、関学の泣き寝入りになっておかしくなかったケースである。

いくら画像があるといっても、あのプレイが悪質な反則だと一目で分かる人はそれほど多くはない。むしろ、説明されなければアメフトはああいうスポーツだと思うのではないか。ヒザ下へのタックルが厳しくとがめられるようになったのはNFLだって最近である。目つぶしや金的をやった訳ではない。その意味でも、関学にとって今回は理想的な成り行きであった(あるいは、日大ないし前監督に敵が多かったということだ)。

わが国の風土からして、日大のような組織が人生いろいろな機会をとらえて反則したり不正なそそのかしをしたり、危害を加えたりしてくる。その際重要なのは、自分の身は自分で守るということであり、協会だの警察だのマスコミだの、いざという時動いてくれるかどうか分からない他人よりも、チームメイトのために自分がまず動くことだと思っている。

たかだか日本のアメフトで、仮にプレイできなくなって数百億円のマイナスになるなんてことは、残念ながらありえない。相撲部屋に良識を期待するよりも、そういうことをしてくる奴らだと思ってそれなりに対応した方がいい。おそらく彼らは、中長期的にその報いを受けることになる。例えば、学生の半分が某国からの留学生になるみたいな。

[Jun 15, 2018]

平成最大の水害

このたびの水害では私が最近歩いた四国遍路道の市町村が大きな被害を受けた。宿毛市から大月町、愛南町、宇和島市、大洲市と、本当に歩いた順に被害が大きくなっていて、まさに他人事ではなく胸を痛める。被災された皆様には、心よりお見舞いを申し上げたい。

今回の水害、最初に特別警報が出た時には九州北部の被害が心配だという情報であった。ところが、時間を追うごとに四国だ、京都だという話になり、最後に広島・岡山で河川が氾濫して中国地方の被害が甚大になった。予報の難しさはあるとはいえ、もう少し何とかならなかったのかと思う。

ここ数十年、阪神淡路大震災があり、東日本大震災があったので感覚が少しマヒしているが、今回の水害は平成最大だそうである。死者・行方不明者数百人という人的被害もさることながら、土砂崩れや浸水による物的被害も大きい。古くからある家屋が被害にあったのならともかく、最近新築した家屋が泥まみれになったり濁流にのまれているのを見るのは、身につまされる。

これについて、思い出したことがあるので忘れないうちに書いておきたい。

二十年以上前、東北をドライブしていた時のことである。幹線道路の横の法面、道路から5mくらい上の所に線が引いてあって、「三陸沖地震の時、ここまで津波がきました」と書いてあった。それを見た時、あんな高さまで津波が来ることは何百年に一度くらいだろうし、堤防もちゃんと作られているからそこまで心配しなくていいだろうと思ったのである。

ところが、それから十数年で本当にその高さの津波が来たのである。自動車で通った時に大丈夫で、震災の時に津波が来たのはただの偶然であり、本当はもっと注意しなくてはならなかった。大丈夫なんていうのはまさに浅知恵であり、自然の脅威の前には何の役にも立たない。

現代の技術水準がどうこうなんてことは大して意味はない。堤防にせよ何にせよ構造上耐えられる範囲が想定されており、それを超える災害には対処できない。昔から気をつけろと言われていることは気を付けなければならないし、なまじの対策をとったところで間違いなく大丈夫なんてことはないのである。

ひるがえって、今回の水害では私の住む関東近辺はそれほど大きな被害はなかったが、これはただの偶然で、たまたま前線が近畿から九州にかかっていたからああなっただけであって、一歩間違えば関東だって同じことになることは忘れない方がいい。

私が最初に就職した頃だからもう四十年前のことになるが、利根川があふれてあのあたりの河川敷ゴルフ場すべてが水没したことがあった。同じ頃に多摩川もあふれて、読売ランドのあたりが被害にあった。立派な堤防があるからといって、オールマイティではない。

今回被害にあった四国地方だって、水害から1週間経っていないのに河川の水量はあっという間に減って、現在ではピーク時の100分の1以下になっている。そもそもあのあたりは渇水の方が差し迫った問題で、記録的な短時間降水に対応できるようにはなっていないのである。

同様に、首都圏の河川だって、堤防の高さは机上の計算から割り出されたもので、すべての災害に対応できる高さという訳ではない。富士山や浅間山が噴火して川をせき止める事態まで想定してはいないし、流域面積が広い分上流で大雨が降れば加速度的に下流に影響が出る。

私の住む千葉ニュータウンは北総台地という高台にあって、成田・三里塚と並んで空港の候補地になった土地である。風が強いのが難点だが、対水害という点では比較的危険度が小さい。ところが、国の事業としてのニュータウン事業が行き詰って民間に多くが任された結果、かつて浸水したあたりにも住宅地が開発されるようになってしまった。

確かに、足の便は大して変わらない上に、安く買収できた土地だから安く販売されている。四十数年前には生まれていなかったり、このあたりに住んでいなければ知らないのかもしれないが、現在でも市のハザードマップを見ればかなり危ないと知ることができる。でも、みんなそこを買うのである。

四十年前だけではない。江戸時代に浅間山が噴火した時にはこのあたりで川があふれて、すぐ近くの旧・本埜村では土蔵が浸水し、それ以降土蔵は2階建てで作ることになったくらいである。過去の経験や昔からの言い伝えを軽視すべきではない。

4年前に土石流に襲われ、今回また上流の土石流が砂防ダムを越えて住宅地に流れ込んだ広島でも、おそらくそういう言い伝えはあっただろうと思う。だから、つい最近まで宅地造成されなかったのだ。不動産業者は売ってしまえばあとは行政の不手際みたいな顔をしていられるが、買った人はそういう訳にはいかない。

どのようなことであっても、自分の頭で考え、他人のしていること言ったことに左右されずに判断しなければならない。他人と同じようにしたからといって、自分の身を守ることがいつもできるとは限らない。

[Jul 13, 2018]

震災直後の北海道

震災直後の北海道に行ってきた。もちろん、地震が起こったから行った訳ではなく、以前から計画していた旅行に予定通り行っただけなのだが、静かでたいへんよかったと思う反面、これでは地元はたいへんだなあと思わざるを得なかったのであった。

予定していた日程は、9月16日から3泊4日。エアは釧路発着なので地震による直接の被害はなかったものの、停電と節電の影響は北海道全域に及んだので1週間前だったら危ないところだった。往路も復路も飛行機には空席が目立ったが、がらがらという訳ではなく半分以上埋まっていたように見えた。

今回は釧路から屈斜路湖、知床、霧多布、根室を回って釧路に戻るという行程だったが、ここしばらく北海道に行くたびに目にしていた中国人観光客の大群と出会うことは全くなく、どこへ行っても静かだった。道中も釧路市街を除くとほとんど車通りがなく、道の両側にひたすら続く牧場を眺めながらドライブすることができた。

心配した地震の影響も、ちょうど行った日に節電20%が解除されたそうで、ホテルの照明も通常どおり。ガソリンスタンドも通常営業しており、ひと気がないことを除けばほとんど影響はみられなかった。

美幌峠や知床五湖では、これぞ北海道という雄大な眺めを堪能して、胸がすく思いがした。昔に比べると道路も施設もよくなって最果てという印象こそなくなったものの、地平線まで人工物が何も見当たらないという景色は北海道でなければ味わうことが難しい。

途中、知床半島でゲリラ豪雨に遭遇したものの、その1~2時間を除けば晴れて見晴しもよく、国後島・択捉島など北方領土も望むことができた。特に、羅臼の高台にある国後展望台はたいへん新しく眺めもよく、しかも無料というのがうれしい。

一方、かなりがっかりしたのは納沙布岬である。ここを訪れるのは3度目で、前回は20年ほど前のことであったが、岬に近づくとこれまでなかった巨大な構造物が建っていて、なんとかタワーと書いてある。しかも、灯台まで行こうとすると通行止め。立て看板には、「納沙布岬灯台には行けません」と書いてあった。

ここ納沙布岬は、南鳥島を除く日本の再東端である。昔はそう書いた看板が立っていたはずである。ところが、そこまで入れないという。最東端に来る以外の目的で、根室に、まして納沙布岬に足を運ぶ人がいるのだろうか。

通行止というだけあって灯台の周囲にはブルドーザーが見え、何か工事をしているようである。そして、駐車場の周辺には、北方領土館と土産物店しかない。北方領土館からは北方領土を望遠鏡で見ることができるが、子供の背丈で調整されており腰が痛くて長くは見ていられない。ホスピタリティのないことである。

そんな具合だから車はほとんど止まっていないし、土産物店にお客もいない。「かに直売」の幟を立てた店がいくつかあるが、茹でたての蟹があるようには見えず、品物自体いつ仕入れたのだろうと思うくらいである。食堂のメニューには「ライダー歓迎」「撮影禁止」と大書してあり、どうやら観光客は歓迎していないようである。

お客さんが一人入った店に続けて入りカニ丼を注文したのだが、海鮮ラーメンを頼んだ家の奥さんが、厨房から卵をかき混ぜる音がするのに気が付いた(私は気が付かなかった。たいしたものである)。

「すみません。カニ丼って卵が入るんですか」
「卵でとじてあるんですけど」
「うちの人は卵ダメなんで、卵なしで作ってもらえますか」

というやり取りがあって、出てきたのはタマネギ丼であった。醤油で炒めたタマネギに、申し訳程度にカニのかけらが入っている。これを卵でとじたら、卵丼になるだけである。そんなものを食べに、北海道の最東端まで来たのではない。

1300円という値段を見て気づくべきだったが、帰りに空港で買った1250円のカニ弁当は立派なカニ飯だったので、この値段だってちゃんと作れば作れないことはないはずである。こんな商売をしていたら、一見の中国人以外誰も来なくなってしまうだろう。

そんなこんなで、楽しいこともそうでないこともあった4日間であったが、主な費用は以下のとおりである。

エア(羽田・釧路往復2人分、おともでマイル利用) 26,580円
宿(3泊) 約70,000円
レンタカー&ガソリン代 約23,000円
雑費(自宅・羽田往復その他) 約20,000円 合計 140,000円

金額そのものをみると大きいが、釧路まで普通運賃だと飛行機代だけでこの金額になる。もっと節約しようと思えばできるだろうけれど、せっかく行くのだからこのくらいは地域に貢献したい。(と思っても納沙布岬のようになるのだが)

つましい年金暮らしとはいえ、ごくたまにこうして旅行できることはありがたいことである。

美幌峠から眺める北海道らしい広大な景色。


羅臼国後展望塔から見る羅臼市街。雲で霞んでいましたが、国後島も望むことができました。


[Sep 26, 2018]

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