せっかく会社を辞められたのですから、おカネがないなりに楽しく過ごしたいものです。
アイキャッチ画像:写真ACフリー素材集

新聞をとるのをやめた
お掃除はレジャー
ノー・シャンプー
ノー・クリーニング
ノー・ケーキ

新聞をとるのをやめた

先月一杯で契約が切れるのを機に、新聞をとるのをやめた。

社会人になってからずっと続けて来た新聞の宅配だけれども、このところ紙面の半分以上が広告だし、記事もほとんど読まなくなっていた。奥さんからも、「○○さんも△△さんも新聞やめたよ。その分食費に回してくれたらうれしいな」ということだったので、半年前から解約は既定方針だった。もちろん、やめたからといってすぐに困ることはない。

最近までとっていたのは読売新聞だが、例の事務次官歌舞伎町通いの記事にみられるように官邸発表の垂れ流しなのでたいへん不愉快だし、巨人の記事にもフィギュアスケートの記事にも興味はない。アメフトとボクシング、朝のテレビ体操と天気予報くらいしか見ないからテレビ欄もいらない。もともと朝刊だけとっていたのだけれど、それすら苦痛になるくらいの体たらくだった。

最近では、人生相談とスーパーの折込チラシしか見ていなかった。その人生相談もマンネリだし、久田恵を除いて読む前からどう回答したのか分かるくらい底が浅い。昔、朝日に載せていた車谷長吉とまでは言わないが、少しは刺激がないと読む価値がない。安売りチラシだってネットで入手できるし、そもそもチラシを見ないことでスーパーに行かなければ最大の節約効果がある。 

振り返ってみると、サラリーマン生活の初期には一般紙と日本経済新聞、日経金融新聞の3紙をとっていたから、新聞代だけで月に1万円を超えていた。当時はネットなどないから、株価を知るには証券会社の店頭に行くか1日に2、3回しかないテレビ・ラジオの株価情報、あとは短波放送しか手段がなかった。1日遅れの情報だってそれなりに価値はあったのである。

ところがいまや、昔であれば証券会社の店頭で得られた以上の情報がネットから入ってくるし、個別銘柄の動きはもちろん、オプションや先物といったデリバティブの情報だってリアルタイムに入手できる。わざわざ1日遅れの情報を新聞で見る必要はない(それ以前に、その業界からリタイアして久しい)。

一時期、競馬や公営競技に関心があった頃はスポーツ新聞もとっていた。その当時は、わずかな間でも情報から離れると挽回不能になってしまうという恐怖感があったが、いまとなってはどうということはない。ジャパンカップだって日本馬がなかなか勝てない頃が一番面白かった。いつも日本馬が勝つのでは天皇賞や有馬記念と同じである。

そんなこんなで、長らく見続けてきた新聞だが、もう宅配でとることはないだろう。家は老夫婦だけだが、奥さんいうところの新聞をやめた家の中にはまだ子供が同居している家もある。それでも、いまの若い人達はネットとスマホで用は足りるようで、新聞をやめることにそれほどの抵抗はないようだ。

おそらく、こうした動きは加速することはあっても、とどまることはない。そもそもネットと新聞では情報の早い遅いに決定的な差があり、しかも古新聞が残るので環境にも優しくない。昔は新聞配達というとおカネが必要な若い人の最後の手段だったが(山口百恵だったか、子供の頃に新聞配達をしていたはずである)、そういう時代でもなくなった。

ここ数年ということはないだろうが、いずれ新聞宅配というマーケットは消滅してしまうだろう。現在、多くの雑誌が廃刊あるいはネット化されているが、新聞もいずれ同じことになる。新聞社の多くは民放テレビ局と系列化されているが、テレビ局だっていつまで続くか分からない。そもそも人口がどんどん減るのに、売上増などと言っている方がどうかしているのだ。

[Nov 13, 2017]


以下の記事は、せいうち日記番外編として2010年春に書いたものです。読み直してみると、年金生活の前段となる保険の見直しとか諸々のことが書いてあるので、まとめてみることにしました。そのまま掲載していますので、内容が古いのとノー・クリーニング以外は長続きしなかった点はご勘弁。

お掃除はレジャー

不景気である。しかも、出口が全く見えない。

わが勤め先でも、とうとう退職金・退職年金の削減が秒読みとなった。ボーナスは年々下がり、ベアどころか基本給引下げになりそうである。就職の時の約束では「昇給年1回」のはずだったのに、と言ってみても始まらない。日本中そんな状況なのである。

先のある若い人であれば将来回復することを期待できるかもしれないが、こちらはもう先がない。あと数年経てば、給料をいただける会社からも卒業である。頼みは国民年金と厚生年金ということになるけれど、「ねんきん特別便」に書いてある金額ではとてもやって行けそうにない。

こうなると、何度も転職してしまった見通しの甘さが切実に響いてくる。退職金は勤続年数に比例して増えるのではなく、ある年数を超えると加速度的に増える制度だからである。つまり、会社を代わるたびにもらった退職金とこれからいただける見込額を全部合計しても、同じ会社でずっと働いていた場合の何分の一にしかならないのである。

これは厳しい。目前に迫った老後に向けて、解決しなければならない経済的な諸問題が急速に浮上してきた。しかし少なくとも会社勤めをしている間くらいは、いろいろ旅行してみたいし海外カシノにも行きたい。というわけで、いまや日常的な関心は健康面の課題から経済的な課題へと、急速にシフトしているのであった。

とはいえ、困った困ったというだけでは能がないし、趣味に合わない。収入がシュリンクしているからといって、精神までシュリンクさせる訳にはいかない。それに、もともと「月収30万円なければ安心して老後を過ごせない」などという保険・証券業界の流す風評には、「そんなことはないだろう」と思っていた。

という訳で、巨漢せいうちこと私は、節約生活に挑戦することとなった。節約生活ということになると、まず毎週遊びに行くことはあきらめなくてはならない。その代わりにがんばっているのが、家の掃除なのである。これはやり始めると結構奥が深い。その中でたまたま知って、とたんにはまってしまったのが、「激落ちくん」である。

「激落ちくん」とはウレタンスポンジの商標名で、これを適当な大きさに切って水を含み、例えばクロス(壁紙)のちょっとした汚れをふくと、あら不思議、きれいに取れてしまう。冷蔵庫や電子レンジにこびりついた油汚れも一発、浴室の石鹸あかや黒カビも一発、車についた塗料っぽい汚れも一発で落ちた。

おそらくこういうことは、お掃除好きの主婦の間では有名だったに違いないけれど、今まで気づかなかったとは何ともうかつであった。ともあれ、節約生活で身近なところに目を向けたのが、新たな発見に結びついたようでうれしい。「激落ちくん」でいろんなものをぴかぴかにしていると、すごくストレス解消になる。まさに、お掃除はレジャーなのである。

これが「激落ちくん」(ホームセンターのジェネリック商品ですが・・・)。


ノー・シャンプー

2年前の春、トレーニングジムでダンベルをやっていた時のことである。きっかけは何だったのか、とにかく頭の中で詳細なエクセルシートが展開された。将来の収入と支出がずっと先までイメージできて、何か手を打たないと借金まみれの悲惨な老後を迎えることになりかねないと気づいてしまったのである。

その時すでに50を過ぎていたから、気づくのが早かったということはない。むしろ遅かったくらいであろう。ともかく、この先入ってくるおカネの上限は決まっていて、むしろ下がる可能性がかなり大きいのは、落ち着いて考えればすぐ分かることであった。若い時には一発逆転、一攫千金のチャンスは期待できるが、この年になるとそれは難しい。

それなら、カシノや海外旅行をやめればいいと言われてしまいそうだが、事はそう簡単ではない。カシノ以前には競馬やオートレースの旅打ちだったし、その前はゴルフだった。車や酒に使ったこともある。カシノをやめても私のような性格は何か他の事をみつけてしまうだろうから(骨董とか政治とか?)、少なくともサラリーマンをしている間はおとなしくしているのは無理と思われた。

こういう場合にまず第一にやることは、多くの家計本に書かれているように、保険内容の見直しである。この年だから生命保険は掛け捨てで十分だし、控除がなくなるので長期損害保険もいらない。車両保険をなくすのはちょっと怖いが、とりあえず2台あるからもし大破したら1台はあきらめることにする。こうして保険料を1年がかりで大幅に少なくした。

次はクレジットである。分割払いやらリボ払いやらいろいろあったのをすべて1回払いにする。ところがこの手の支払いは、新しく買うのをやめても昔の支払いが延々と続く。こちらも、思い立ってから整理するまで1年かかった。ついでに、公共料金の支払いもクレジットをやめて、普通の自動振替(銀行)にした。

こうした節約はいわばやって当然のことなので、もう少し早く気付けばよかったのだが、まあ後悔先に立たずということである。しかしこれでも足らない。こうなると、発想の転換を図らなければならない。これまで当り前と思っていたことを疑ってみる必要がある。

そんな訳で、この間からシャンプーを使うのをやめた。頭も石鹸で洗っている。ことの発端は、環境保護について書いてある本の中に、合成洗剤は環境にやさしくない。頭は石鹸で洗っても、何の不具合もないと書いてあったのを見つけてしまったのである。

考えてみれば、もう頭頂部は「すだれ化」しているので、気取ってシャンプーなど使う必要はないし、万一具合が悪くてハゲたところでどうということはない。それに環境にやさしいとなればいうことはないし、だいいちシャンプーを買わないですむ。

問題は、シャンプーを石鹸に代えたところで、毎日風呂にバブ(入浴剤)を入れているのだから、経済的にも環境的にも大した違いはないのではないかということだが、これはとりあえず考えないことにしている。


ノー・クリーニング

時々テレビ東京で自給自足番組を流すけれど、あれを見ると首をひねってしまうのである。なぜかというと、いまの日本で食料を完全自給できたとしても、それだけで生活できることはありえないからである。

例えば、仮に食費がゼロですむとする。ついでに住むところはタダで住めて、着るものも十分にあるとしよう。つまり衣食住の不安はないということである。それなら他におカネはいらないかというと、全然そんなことはない。公共料金というものがあって、電気やガス、水道、通信などを使えば食費に匹敵する、あるいはそれ以上の支出が必要になってくるのである。

それでは、水はわき水を引き、燃料は自分で焼いた炭、日が暮れたらランプで過ごし、テレビもDVDも見ないので電気はいらない。車も持たないのでガソリン代や車検費用はなし、加えて携帯もインターネットもしないので通信費用もないというなら現金支出はないのかというと、じゃあ医者にかかるときは何で支払うかということになる。

巨人の星で、宮崎キャンプ近くの山の中の医者は米や酒を診察料の代わりにもらっていたが、あれはあの時代だって梶原一騎の想像上の世界であろう。

さらに、医者にはかからない。自分で薬草を取ってきて直すという人であったとしても、健康保険料は必要である。税金、社会保険、年金についても同様で、いまの日本では、私には必要ないので払いませんとは主張できないことになっている。

つまり、自分で使うだけの分量以上のものを作って、それを現金に換えなければ、いまの日本では生活できないということである。これは厳密に言うと「自給自足」ではない。アイヌの人々は、自分と家族の食べる以上の収穫があれば「山の取り分」として、山の動物達のために残しておいた。これが自給自足ということだと思う。

長々と何を言っているのかというと、自給自足とか、環境負荷(この言葉はあまり好きではないけど)の軽減とかいう場合、どうしても作る方に考えが行ってしまうが、そうではなくて使うのを減らす方向で考えるのが正しいのではないか、という気がするのである。

最近、必要最小限の支出で暮らせるだけの生活水準にすれば、老後のことをくよくよ悩む必要がなくなるのかもしれない、と思うのである。この考えを突き詰めると、いっそみんな生活保護で暮らせばいいということになってしまうのだが、そうなると日本経済だけでなく日本の社会が崩壊してしまう。

そこまで行かなくても、少なくともいただける権利のある年金の範囲内で暮らすことにすれば、最低限の義務(勤労義務)は果たせるし、ムダもなくなるので環境負荷が少ないのではないか、と思ったりする。だから、最近の関心は夫婦2人で月20万円、年間200万円以内の支出で成り立つ暮らしにできないかということである。

もちろん、現役時代には収入もストレスもこれ以上にあるからプラスアルファの海外遠征もしていいかもしれないが、来るべき年金生活時代にはそうした余分の生活はすっぱりと思い切り、清貧の生活に入るつもりである。とはいっても、その支出の範囲内でも、結構楽しめるような気がするのだが。

そんなわけで、最近改めたのは、クリーニングに出していたワイシャツを自宅で洗濯機で洗うことである(実際に洗うのは奥さんだけれど)。

若い頃、既製品のワイシャツでは合うサイズがなくて、仕方がないからオーダーしていた。せっかくのオーダーなので、洗うのもクリーニング屋さんに出していた。1回100円位でも、1年通すと結構な金額になる。そこで自宅洗いにしたのだが、そうなるとオーダーの綿100%よりも既製品の化繊の方が仕上がりがよろしいのだそうである。

近頃はデフレでメーカーも大変らしく、50-90などという、昔では考えられなかったような既製品のワイシャツが見つかる。そんなわけで、手持ちのワイシャツの中で既製品のシェアが徐々に上向いているのでありました。


ノー・ケーキ

さて、節約中とはいえ、たまには甘いものも食べたい。以前はよくケーキ屋さんに行ったものだが、1個400円から500円するケーキを買うとすぐに2000円3000円と飛んで行く。夕飯のおかず代より高いというのはちょっと考えものである。

そこで、お菓子を手作りすることにした。何を隠そう若い頃から料理は得意で、結婚した頃は奥さんに料理を教えていたくらいである。いまも家にある料理やお菓子の本は、私が独身時代に買ったものだ。クッキーやパウンドケーキくらいなら、別に本を見なくても作れる。

と思って、ちょうど豚の角煮でバラ肉を煮たとき出てきた豚の脂があったので、ちんすこうに挑戦したのが今年の正月である。クックパッドによると、ラードと同量の砂糖を練って、両方合わせた量の小麦粉を混ぜて焼けばできるらしい。スタンダードな塩味と、そのころ大量にあったみかんの皮を刻んで混ぜたのと2色作ってみた。

そして、オーブンから出てきたのは、まさしくちんすこうの味と香りがする物体だったのだが、何としても豚くさい。豚の脂から作っているのだから当り前といえば当り前だが、よく調べると昔はともかく現在では、ラードの代わりにショートニングとか、あまり匂わない油脂を使うらしいのだ。

仕方なく、冷蔵庫に保管して毎日少しずつ食べた(とてもいっぺんには食べられない)。そして、みかん味の方はそれなりにおいしく食べられたのだけれど、純粋ちんすこう味というべきプレーン塩味の方は、どうにも食べきれなくなってしまった。

仕方なく、細かく砕いて容器に入れ、すずめに食べてもらおうと庭に置いておいたのだが、鳥さえも全く寄り付かない。どうやら、豚脂の匂いは鳥も嫌がるようである。その後、庭に鳥が戻ってくるまで優にひと月はかかってしまったのだった。

これに懲りて、オーソドックスなお菓子作りを志すことにした。さすがに、クッキーやパウンドケーキは「昔取った杵柄」でちゃんとおいしくできた。ちょっと自信を取り戻して、先日はレアチーズケーキに挑戦した。

フィラデルフィア・クリームチーズを室温に戻して十分に練り、砂糖を加えてさらに練り、さらにプレーンヨーグルト、レモンの皮、レモン汁を加えて泡だて器で十分に混ぜる。そこにゼラチンパウダーをお湯で溶いてさらに混ぜる。クッキーを砕いてバターを加えた底地の上に伸ばし、冷蔵庫で2時間ほど冷やすとでき上がりである。

1回目はゼラチンの温度で失敗してしまったが、2回目は買ってきたよりもおいしいくらい会心の作品となった。よく考えると、チーズはそれほど安くないので食べないのが一番の節約ではあるが、お店で買えば1つか2つ分の値段で、たくさん作れることは間違いない。フィラデルフィア・クリームチーズを安売りしないかなあと新聞折込のスーパーの宣伝を見てしまう、今日この頃である。

暖かくなった日曜日、桂の木が一気にハート型の葉を繁らせました。


[Apr 23, 2010]

LINK

ページ先頭に戻る    → 年金生活雑感2019    年金生活雑感目次