せっかく会社を辞められたのですから、おカネがないなりに楽しく過ごしたいものです。
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19年続けたWOWOWを解約    習慣を見直す    組織に属するリスク
現役時代で思い出したくもないこと    「ひとりでは何もできない」は上前をはねる常套句
優先順位をつける    平和な日々    非常事態と核シェルター
もう一度就職先を選べるとしたら    会社でうまくいかなかった理由
世の中すべてカネではないと私は思う


19年続けたWOWOWを解約

しばらく前から、WOWOWの契約についてしっくりこないものを感じていた。

そもそも契約したのはボクシング番組Excite Matchを見るためで、週1回2時間の番組に月額2,300円+消費税が惜しいとは思わないで長らく過ごしてきた。現在も、ボクシング以外の番組を見ることはほとんどない。

ところが2年くらい前から、一部試合の画質を目で見て分かるくらい落としているのに気づいていた。さすがにたいした試合ではないけれど、もし見たい試合でこれをやられたら頭にくるだろう。中継する試合も、米国の一部に集中している。それほど予算が削られているのかと思った。

毎月送られてくる番組情報誌をみると、ボクシングの占める割合はおそらく2%にも満たない。放送時間からして、3チャンネルで1週間504時間中再放送入れてせいぜい6時間だから、そんなものである。

とはいえ、ボクシングを見るためだけにWOWOWと契約している人は私だけではないはずである。大坂なおみにも東方神起にもWOWOW制作のドラマにも興味はないのに、おそらく視聴料の大部分はそういう番組に使われている。

ライブで流すような大試合で画質を落とすようなことはないけれども、パッキャオとか帝拳絡みばかりで、いま現在旬の選手(エロール・スベンスとか)の試合は録画でしか流さない。そして、解説陣もいつのまにか帝拳ばかりになってしまった。

とくに、ジョー小泉が出なくなってしまったのはなぜだろう。ジョーさんの主張に100%同意することはないけれども、金儲けよりボクシングそのものが好きなことは見ていれば分かる。引退した訳ではなく、いまも国際マッチメーカーとして世界を飛び回っているのだ。デラホーヤvsホプキンスのチケットを買った縁もある。

飯田覚士が諸般の事情で出られないのは、仕方がない。でも、代わりが西岡では心許ない。それでも海外実績のある西岡とか亀海だったらまだ分かるが、海外で1度も試合をしていない山中がなぜ大きな顔をして出て来るのだろう。ドーピングクロの選手と分かって試合をした時点で、世界水準ではドーピング選手と同じである。

HBOがボクシング中継を終了し、これから先、組まれるビッグマッチは間違いなく減る。やはりドーピング選手であるカネロの試合は見たくないし、いまさらパッキャオ、メイウェザーでもあるまい。

この1月、WOWOWを見たのがパッキャオvsブロナーのライブと、チャーロ兄弟の録画だけという時点で、これに2,300円は掛け過ぎだと痛感した(試合もつまらなかったし、解説もひどかった)。WOWOWに電話して、1月末で解約した。

自宅を建てて以来19年間続けてきたけれど、長く契約したからといって割引してくれる訳でもなく、特別なプレゼントがある訳でもない。ボクシング番組の予算を削っているところからみて、私のようなユーザーを想定してはいないのだろう。こちらからも、あえてお付き合いする理由はない。

今を去ること30年ほど前、WOWOWは深刻な経営危機にあり契約者を増やすことが至上命題だった。その頃まだ1チャンネルしかないにもかかわらず、ボクシングの放送時間はいまと変わらなかった。マイク・タイソンやデラホーヤの独占中継が契約者増に果たした役割は、小さくなかったはずである。

年月は過ぎ、いまWOWOWを動かしている連中はかつての経営危機の時代を知らない。知識として知ってはいても、いま現在の経営判断とは別物と考えているだろう。それはそれで仕方がないことだ。

しかし、私自身のコスト計算の観点からは、NHKを上回る視聴料をWOWOWに払い続けるのはどう考えても間尺に合わないのである。どうしても見たい試合のライブ中継は2,300円+消費税のPPVを見るつもりでスポット契約して、あとはYou tubeのダイジェスト映像を見てがまんしようと思っている。

[Feb 7, 2019]


習慣を見直す

新聞をとるのをやめて、つい最近はWOWOWを解約した。年金生活に入り、こうして長く続けた習慣を見直すことが多くなっている。

年金生活に限らず、収入の範囲内で暮らさなければ生活が破綻する。リタイアして収入が激減し、支出を切り詰める必要が出てきたのは気が重いけれども、不老不死ではないのだからいずれはリタイアしなければならない。心身がまずまず健康で頭が働くうちにそうできるのは、考えようによっては幸いなことである。

最近どこかで読んだことだが、長く続けたことをやめるのに抵抗感が強いのは、脳の働きだそうである。脳が単に費用対効果をシミュレーションするだけであれば、長く続けたかどうかはそれほど優先順位の高いことではなさそうだ。にもかかわらず抵抗感があるのは、そう考えることが脳にとって有利だからである。

「脳」にとって有利という意味は二つある。ひとつは「体」にとって有利なので「脳」にとっても同様に有利ということで、例えば寒ければ暖房をつけるとか厚着をして暖かくするという反応である。これは、人類の(あるいは生物の)進化の中で培われてきたもので、そういうシミュレーションができなければ、生き残ることが難しかっただろう。

こういう種類の脳の抵抗にしたがわないことは、好ましいこととはいえない。例えば、「早寝早起き」とか「なるべく人混みに行かない」とか「定期的に体を動かす」とかいう習慣は、その方が心身のコンディションを保つのに有効だから、「脳」も求めるし「体」にとっても快適である。

「脳にとって有利」のもう一つの意味は、「体」にとっての得失は不明ながら「脳」にとって有利だということである。これは、進化の中で培われてきたシミュレーションとは違う。そうした事柄は、脳が抵抗したとしても本当に必要かどうかよく考えることが必要である。

例えば、新聞宅配の制度などは百年経つか経たないかであり、新聞をとるかとらないかは人類の進化とはかかわりがない。なのに脳がなぜ抵抗するかというと、その方が「脳」にとって有利だからである。

おそらく、文字情報を入力することを「脳」が好むのだろう。だから、新聞をやめる前にはかなり抵抗があった。しかし実際やめてみても特に困ることはないし、いまでは図書館に行って新聞が置いてあっても、用事がない限り読むことはない。実は必要なかったのである。

WOWOWについても同様で、20年近く契約してきたものを解約すると、考え付かないだけで実はよくないのではないかと思ったりしていた。でもよく考えてみれば、WOWOWにしたところで大切なのは既存顧客よりも新規顧客である。

想像するに、人類がこれまで生き延びるに際して、「よく理由は分からないけれども長く続いていることは、続けた方がいい」と考える方が有利だったということがあったように思える。

例えば、「できるだけ手足・身体を清潔に保ち、定期的に洗浄する」という習慣を持った集団は、そうでない集団より伝染病や食中毒に強く、生き延びるのに有利だっただろう。しかし、細菌やウィルスを知らなければその理由を正しく説明することはできない。そうした場合に、「よく分からないけれども長く続けてきたことだから」が有効に働くことになる。

いまの時代、多くの習慣・性向を科学的に吟味することができる。限られた資源をより心身に好ましい方向に使うためには、長く続けてきたことでも要不要を見極めることが大切だし、そこで「脳」が求めるのか「体」が求めるのかをよく考える必要がある。

「体」が求めていないのに「脳」が求めるものは、やめても実害がないことが多い(すべてではないにしても)。「体」が求めていないということは人類(生物)が生き延びることに直接関係ないということに、ニアリーイコールなのである。

[Feb 20, 2019]

組織に属するリスク

先週、年金生活を送るにあたって長く続けてきた習慣を見直すということを書いている時に、思い出したことがあったので忘れないうちに書いておこうと思う。

それは、リタイアするにあたってどこにも所属しなくなることを心配する向きがあるが(名刺がなくなる、といった類)、これまで特に負担になったことはないし、おそらく今後もないだろうということである。

もっとも私の場合、会社を3回替わっているのでもともと帰属意識が希薄であり、就職以来ずっと同じ組織で働き続けてきた人とは違う。とはいえ、自らのアイデンティティが組織にしかないというのは、寂しいだろうと思っている。

確かに、組織に属していた方が何かと安心なように思える。生活の保障はもちろん、何か突発的なトラブルが発生した際、後ろ盾があるとないとでは深刻さが違う。それによって余裕ができるという側面はあるだろう。

とはいえ、「何か突発的なトラブル」が、自分発であるのか、組織発であるのかは大きな問題ではないだろうか。誰しも無意識に「自分発のトラブルが生じて、組織が後ろ盾になる」ことを想定しているけれども、「組織発のトラブルが生じて、自分に悪影響が出る」ことは想定していない。

でも実際には、そうしたケースが生じる可能性は無視できない、というよりもその方が大きいような気がする。私がこれまで身近に見てきた中でも、長期信用銀行や山一証券は組織発の大きなトラブルで組織自体がなくなってしまったし、私の属した3つの組織のうち2つは、いまでは組織として残っていない。

自分発のトラブルは起こさないように自ら注意することは可能だが、組織発のトラブルをすべてウォッチすることは不可能である。であれば、軸足は自分の方に置く方が結果的には安心だし、ストレスも少ないはずである。

そして、いま現在、組織の多くがやっていることはせんじ詰めれば「カネ儲け」であって、自分や社会を幸福にすることではない。「カネ儲け」はある時点を超えると自己目的化し、もともと「自分や社会を幸福にする」ことが目的だったはずなのに、「カネ儲けのためのカネ儲け」になってしまうのである。

おそらくほとんどの人は、就職する時に「仕事を通じて自分や社会を幸福にする」ことを目的としていたはずだが(官僚なんて本来そういうものだ)、上の言うことを素直に聞いているとそうはならない。まず「他人(他社)のことなんてどうでもいい」と思うようになるし、次に「自分のことすらどうでもいい」と思うようになる。公共の福祉なんて眼中になくなるのである。

そんな組織ばかりじゃないと綺麗事を言ってはみても、現実はほとんどすべての組織がそうやって動いている。理想とか公共の福祉とかは、広告を打つ時くらいしか顧みられることはない。それに適応した人だけが生き残っていくのである。

確かに理想と現実との格差に打ちのめされるのは誰にもあることだが、誰だって「他人のカネ儲け」を手伝うために社会に出るつもりはない。もちろん「自分が儲けたい」と思うのは自由だが、それにしたってほとんどのマンパワーは他人のカネ儲けに使われるのである。

そんなことに時間と労力を費やすくらいであれば、早々にそんな組織から抜け出して、自分の望む方向に時間と労力を使った方がよさそうである。成果としてはゼロかもしれないが、少なくともマイナスにはならない。

長い目でみるとそうした組織が長く生き残る訳はなく、いずれは長期信用銀行や山一証券のようになることは避けられない。ただし、「いずれは」が私の生きている間である可能性もまた少ないので、私のような考えに賛同が得られそうにないのはつらいところである。

[Feb 27, 2019]

現役時代で思い出したくもないこと

この前は、組織に属することで後ろ盾を得たように思うけれども、起こるトラブルは「自分発」よりも「組織発」の方がずっと多いということを書いた。その時思い出したことがあるので、忘れないうちに。

リタイアしてからそろそろ丸3年たつけれども、いまだに現役だった頃の事を思い出して、嫌な気分になることがある。

もちろん、社会人生活をしていれば失敗がいくつもあって当り前だし、失敗してもカバーできるように先輩やら上司がいるはずだからいつまでも気に病む必要はないのだが、私の場合は若干違う要素がある。

というのは、仕事のやり方が分からなくて失敗したことよりも、組織の中でうまくやろうとして失敗したことの方がはるかに多いからである。いま思うと失敗したこと自体よりも、なぜああいう思考経路になってしまったんだろうとつくづく思う。

リタイアして改めて感じることだが、組織の中にいる時間などどう考えても有限であり、誰にどう思われようとたいした問題ではない。にもかかわらず、毎日会社に出て同じメンバーと顔を合わせていると、その世界がすべてで永遠に続くように錯覚してしまうのである。

私の思い出したくもない失敗の多くは、そうした組織内環境に過剰に反応して、いまであれば絶対にしないようなことをして、身動き取れない立場に追い込まれたのがほとんどである。

そして、私のいた組織は、いま考えると普通の人が一生送るうちでほとんど出会わなくてもいいような連中がたくさんいた。いい意味ではなく悪い意味である。

その分、40代以降、いい意味でユニークな人達と多く出会えたので帳尻は合っている。とはいえ、多少ましな組織であったとしても、私がその中でうまくやっていくことは不可能だっただろう。

なぜかというとまず第一に、組織においては上席者に対する絶対服従が求められる。軍隊じゃないんだしビジネスでそんなことは必要ないはずなのに、少なくとも日本の企業はすべてそうである。いま現在ビッグビジネスとされている会社にしたところで、トップの顔をみれば疑いなくそうである。

第二に、組織の価値観と自分の価値観を合わせることを要求される。どちらが正しいとか長期的に有利とかではなく、上に言われたように他人と同じようにしていればいいのだということである。

第三に、その結果として世間一般で要求されるルールと組織内のルールに齟齬をきたした場合、組織内のローカルルールが優先するのが鉄則で、それを強制される。昨今の企業不祥事のほとんどすべて、これが原因である。

この3つは、実は一つのことを言っている。つまり、「自分の頭で考えるな。周りの人間と同じように、上に言われたことに従え」ということだ。私には、どうやってもできないことである。

40年間会社に勤めてきて、「タスク」に対してはそれなりに答えを出してきたけれども、組織に自らを同一化させることはできなかった。それでも何とか暮らしていけるだけの蓄えをもってリタイアできたのは上出来であり、これ以上組織に属して後悔する思いはしたくない。

社会で生きていく以上、法律・規則・ルールを守り、できるだけ他人に迷惑をかけないことは当然であるが、カネ儲けのために、誰かが決めた理由もよく分からないローカルルールに従う必要はない。

「ひとりでは何もできない」は上前をはねる常套句

「組織」なんてものは、社会一般に要請される規範よりも、組織内のローカルルールを優先させる圧力が働くもので、結局のところ自分の頭で考えないことを要求するということを前回書いた。ここでまた思い出したことがある。

もう30年以上前のことになる。当時勤めていた会社に、直属の上司ではないものの何年か先輩にあたる人がいて、その人が電通「鬼十則」のコピーを後輩達に配り、これこそ社会人としてあるべき姿だと説教したことがある。

まさか30年後に電通が大問題を起こし、「鬼十則」を自ら否定しなければならなくなるとは夢にも思わなかっただろう。平成20年代まで待つこともなく、あんなものはアナクロで体育会的で、頭の中味を疑われるなんてことは、瞬間的に分かる代物である。

(軍隊からの系譜を持つ組織の多くは、ああいう体質を持っている。村上春樹の「羊」で、羊の入った右翼青年が隠匿した資産で保守党の派閥と広告業界を買い取ったというストーリーは、そのあたりの比喩と思われる。)

それにしても、自分の会社が電通でないにもかかわらず、そんなことを正気で考えていたとしたら、先見性とか規範精神とか以前に頭が悪いとしか言いようがないのであるが、当時はさすがにそんなことは言えなかった。

「人間は一人では何もできない」というのは、そうした人達が好んで口にする言葉である。言われた当座はなるほどそうだと思わせる言葉だが、よく考えるとこれは呪いの言葉である。組織に属さない人間は生き延びられないと言っているのと同じだからである。

よく考えてみれば分かることだが、「一人でできることには限りがある」のは確かだけれど、「何もできない」ことにはならない(よく考えなくてもそうだが)。

何人かで分業すれば1人でするよりも多くの成果が得られることは、何百年も前にアダム・スミスはじめ古典経済学が明らかにしている。でもそれは、協力した方が経済的にみて有利というだけのことだ。

当然、経済的側面だけでなく他の得失を勘案した上で判断しなければならない。貿易をした方が経済的にみて有利だとしても、鎖国で自給自足するのが絶対に悪いと主張することは誰にもできない。

比較優位理論の示すところ、例えば120のアウトプットが可能な人(仕事ができる人)と60の人(半人前の人)がいた場合、分業することによって2人で200のアウトプットが可能となるケースは珍しくない。

例えば、仕事ができる人が工程Aに60%、工程Bに40%の時間をかけていて、半人前の人が工程Aに70%、工程Bに30%だった場合、仕事ができる人が工程A、半人前が工程Bに特化して分業すれば、アウトプットは200になり一人ずつで作業した場合よりも生産力が増える。

(実は、どちらの工程も「仕事ができる人」の方が効率はいいのだが、「半人前」がどちらかというと工程Bを得意としているため、そちらに特化させることが有効なのである。これを比較優位という。

ここは読み飛ばしていただいていいのだが、分かりやすく1日の労働時間を10時間とする。仕事ができる人は工程Aを6時間だから1時間当たり20、工程Bを4時間だから1時間当たり30のアウトプットである。一方で半人前の人は、行程Aを7時間だから1時間当たり8.6、工程Bを3時間だから1時間当たり20となる。

どちらの工程をみても仕事ができる人の方が能率はいいのだが、分業するとあら不思議。仕事ができる人は工程Aに特化して10時間で200のアウトプット、工程Bは半人前が担当して200のアウトプットを処理できる。)

この二人が分業=協力することによって増えたアウトプット20は、おそらくその大部分を「仕事ができる人」が独り占めすることになる。何と言うかも見当がつく。「代わりはいくらでもいるよ」「一人じゃ何もできないよ」である。

半人前であっても「一人で何もできない」訳ではない。少ないとはいえ60のアウトプットはあるし、その範囲内で生きていけるように工夫すればいいだけだ。にもかかわらずどうしてそんなことを言われるのか。はっきり言えば、体裁よく上前をはねるためである。

みんなで協力することは悪いことではないし、一人でできることに限りがあるのも確かである。とはいえ、ここでその言葉は、分業することによって得られたアウトプットの増加分を、「半人前」に渡さずに独り占めするために使われる。言葉の魔術というよりも「呪い」に近い。

何十年もサラリーマン生活を送ってきて、結局のところ上前をはねる立場にはなれなかったけれど、考えようによってはこれは幸いなことであった。「鬼十則」やら「一人じゃ何もできない」などと説教しなくて済んだのは、それだけ後悔を少なくできたと思っている。

[Mar 22, 2019]


優先順位をつける

早いものでリタイアしてからそろそろ3年である。この前、クレジットカードの整理について書いていて、ちょっと思い出したことがあったので忘れないうちに。

現役時代には500円1000円の支出でいちいち考えることはなかった。ところが、年金生活に入ると500円1000円が積み重なって収支が合わなくなる。なにしろ、月に入ってくるおカネは約20万円。その範囲でやっていかなければならないのだ。

月500円でも毎月払っていれば年間6,000円、月1,000円なら年12,000円になる。年間1万円以上となれば大口支出だ。だから、現役時代なら大して気にならなかった貸金庫代も、カードの年会費も負担になって解約することとなった。

気になるといえば交通費もそうで、千葉ニュータウンから東京都心に行けば片道1,000円かかる。往復だと2,000円。これが積み重なるとかなりの負担になるので、そうそう遠出もできないのである。

やりたいことをすべてやるだけの資金的余裕がないので、必然的にほしいもの、やりたいことに優先順位をつけなくてはならない。いままで特に気にすることなく続けてきたことでも、本当に必要なのか、他のことと比べて優先順位はどうなのか考えざるを得なくなった。

こういうことを真剣に考えるようになったのは、学生のとき以来である。社会人になってからは、ローンとかクレジットというものがあったので、必要だと思えば先におカネを使って後から払うということができた。

昔のことを思えば、グローバルクラブの年会費だのワインのレンタルセラーなんてものは不要不急のものだし、衣食住が足りてたまに遠出ができればそれ以上贅沢は言えないだろうと思う。

しばらく前まで続けていた新聞宅配をはじめ、CSもWOWOWもなければないで大丈夫だし、通信環境を2重にしなくても、いざとなれば図書館でネットにつながる。スマホなんて初めから持ってない。

必要なものは必要なのでおカネを使わなければならないし、どれをあきらめるかというストレスがあるとはいっても、サラリーマン時代のストレスとは比べ物にならない。

いま現在のストレスは、結局のところ関係するのが自分と家族だけである。サラリーマンのストレスは、上司・部下・同僚、取引先、監督官庁などなど他人が関係するものがほとんどで、自分で差配できることに限りがあった。おそらくそれは、もし仮に偉くなっていたとしても同じことだろう。

この間も、年金支給日を前に1週間ほどお小遣いがなくなってしまったが、食費も他の生活費も他にちゃんととってあるので困ることはなかった。図書館で本を借りてスポーツジムで体を動かしていれば、余計なおカネは使わなくても済む。

おカネに余裕はないものの、いま現在十分健康で文化的な生活ができていると思うし、これから先もほしいもの、やりたいことに優先順位をつけて、経済的な困難を乗り越えていければと思う。



この前、「年金生活では、ほしいもの・やりたいことの優先順位付けが大切」と書いていて、また思い出したことがあった。 どこかで読んだのだが、バカの壁・養老先生が言うことには「脳は自らを不死だと考えている」そうである。確かに、脳が機能している間は生きているということだし、脳が機能しなくなれば死んだということなのでもう考えることはできない。

だから、脳としては自分が機能しなくなった後のことを想定しないということである。なんだか、ネコには過去も未来もなく現在しかないというのとよく似ている。動物すべて本来そういうことなのかもしれない。

そう言われてみると、巷で言われている年金生活におけるおカネの心配というものは、書いている人も読者も、永遠に生きていることを前提として書かれているように思えてくる。その方が脳には心地よく響くだろうけれど、最近、ちょっと違うのではないかと思えてきた。

すでに還暦はとうに過ぎ、最近体のあちこちが老化してきたことを身にしみて感じる。前々から「100本中2本の当り籤」と書いているけれど、当り籤には当たらないで済んだとしても、体調を保つことがどんどん難しくなっている。

この変化は不可逆的であり、これから先ますます体は動かなくなり、遠からず「当り籤」ということになるのだろう。だとすれば、世間で言われている損得とかおカネの心配より、他にもっと差し迫ったことがあるのではないだろうか。

例えば、「あと1年でやりたいことができなくなるかもしれない」とすれば、ほしいもの、やりたいことの優先順位は「未来がずっと先まで続く」という場合とは違ってくるはずである。

「できなくなるかもしれない」要因は、社会的なものかもしれないし、家庭的なものかしれないし、自分の健康かもしれない。いくらおカネがあっても避けることができないことがほとんどであり、もしかしたら1年も猶予がないかもしれない。

最近、そんなことをつくづく感じるのである。最初の養老先生に戻ると、「脳」はできるだけそういうことを考えないようにする傾向があるので、意識してそう考えないといざそうなった場合に困ったことになる。

いきなり時間が進まないよう、スポーツジムに行ったりサプリメントを使ったりして体調維持には努めているものの、これから先は現状維持がせいぜいだと思う。未来がずっと先まで続くなどということは、どう考えてもありえない。

地位とか名誉とかおカネなんてものは、ほとんど「脳」が求めているものである。「体」は、毎日ぐっすり眠れておいしいご飯を食べて、ストレスなく毎日を過ごせればそれでいい。

リタイア以来、暑すぎず寒すぎない季節に、天気のいい日を選んで山を歩いて、いい景色を楽しむことができるようになった。現役でいれば、毎日4時間近くを通勤に費やし、ストレスに身を削っているであろう時間を、そうやって使えるのはたいへん贅沢なことである。

この歳になって大切なのは、「脳」が求めることではなく「体」が求めることであり、それを一日一日積み重ねていくことではないかと思っている。

[Jul 5, 2019]


平和な日々

毎日5時と6時の間には目が覚めて、朝食をはさんで午前中はパソコンに向かう。通勤がなくなったしおカネにならないだけで、やっていることはサラリーマン時代とそれほど変わらない。

体重や血圧を計ってエクセルに入力し、気象庁のHPで天気予報をみる。自分のサイトをみて、きちんと表示されているかどうか確認し、前日のアクセス状況を調べる。何に使う訳ではないが、ブログ開設以来続けているルーティンである。

メールチェックをして、よくみるサイトを巡回してから、自分のサイトの更新作業である。誰が見ているからという訳ではないが、逆に言えば誰に見られているか分からないので、念入りに原稿を書いたり推敲したりしている。

子供の頃から、一人でいろいろ作業するのが苦にならなかった。暇さえあれば参考書や問題集を解いたり、本を読んでいた。読む本がなければ百科事典を読んで、日記や小説を書いたりしていた。やっていることは何十年経ってもたいして変わらない。

家の奥さんに言わせると、そうやって一人で机に向かっているのが苦にならない亭主は珍しいそうである。私に言わせれば、集団に入ってずっと他人と一緒にいられる人の気持ちが分からないのだが、その方が多数派のようである。

他人と共同作業をするのが向かない(嫌いな)人間が四十年近くサラリーマンをしてきたのだから、大したものである。

社会人になって以来、上司や先輩にかわいがられたことはほとんどなく、嫌われたことは数限りなく多い。よく六十近くまでがんばってきたものである。こうして平和にリタイア生活を送れるのは、考えてみれば奇跡的なことである。

今の生活は他人との関わり合いが最小限であり、ストレスはたいへん少ない。血圧が高くなるのも寒い時くらいで、胃腸の調子がよくないのも飲み過ぎた時くらいである。おカネがないことぐらい、たいしたことではない。

四六時中顔を合わせていると奥さんのストレスになるので、普段はパソコンのある八畳洋間にいる。2階にあるので窓から外の景色が見え、気候がよければベランダに出て星を見ることもできる。ローンの終わった自分の持家で、このくらいの居住スペースがあるのはありがたいことである。

結果的にみると、四十年のサラリーマン生活は不本意だったものの、こうして住む場所ができたし、質素だけれど年金で暮らせるし、若干の余裕資金でたまに遠出もすることができる。

出世もしないしお金持ちにもなれなかったけれど、誰にも顔を知られずオレオレ詐欺の標的にもならないのは、かえって安心でもある。質素だけれど平和な毎日は、望んでもそう簡単に手に入るものではないかもしれない。



[Aug 8, 2019]


非常事態と核シェルター

リタイアエイジの後も働き続ける人達が多い。その最も大きい理由は、老後何かあった場合の備えということだろうと思う。

もちろん人によっては、家のローンが終わっていないとか子供にカネがかかるという理由もあるだろうが、それらは負担にならないようリタイア前に準備することが可能だ。しかし「老後何かあった場合」というのはいくら準備してもしきれるものではない。

そして、「おカネを貯めておけば何かあった時の備えになる」かどうか、私にはよく分からない。おカネが備えになるのは商品に換えられるからであるから、本当のカタストロフになったら、役に立つのかと思うのである。

第二次オイルショック時のトイレットペーパー騒ぎは、私が高校生の時だからずいぶん古い話になった。もう45年も前のことだから、70年前の第二次大戦中と大して変わらないと思う人もいるかもしれない。

コメ不足でタイ米しか手に入らなかったのは、子供が生まれた頃だから30年ほど前である。これだって生まれてないから知らないという人が社会人でも多くなっただろう。

灯油やガソリンが足りなくなる騒ぎも、それ以上にあった。地震が起こるとたいていガソリンスタンドに多くの車が並ぶことになる。震災といえば、3.11の翌朝、コンビニから品物がなくなった光景も忘れられない。

私にとって「いざという場合」とは、電気やガス、水道、石油供給といったインフラが止まることである。体調の問題であればいまさら高額医療に頼るつもりはないし、少なからぬ保険料を払っているのだから健康保険を当てにしてもバチは当たるまい。

一方で、何か突発的な理由でインフラが止まった場合とか、お腹がすいて何も食べるものがなかったらどうしようと思うと、そうした備えこそ普段から考えておくべきだと思う。

実際に先月の台風15号では、冬になるとたびたび訪れる房総山間部で、停電がいつまでも復旧せず地元の方々はたいへんなご苦労を余儀なくされた。私の住むすぐ近くでも家屋に被害があったのだが、漏れ聞くところによると見積りは2ヶ月先、工事は来年という。

現状、わが家では数日間なら家の中だけで過ごすことができるだけの備蓄食糧(と酒)はあるし、歩いて行ける場所に水道局があるので水の心配はそれほどしなくてすむ。煮炊きくらいの燃料は、登山用でも石油ストーブでも使えばいい。

しばらく前は、家の中に数ヵ月分の燃料食糧を備蓄している人はいまより多かったし、TVや雑誌でもときたま取り上げられていた。自給自足も、もともと補給が途絶えた場合という発想だったはずだ。

当時は、核戦争とか放射能といったリスクがいまよりずっと切実に意識されていて、核シェルターにするため地下室を造りましょうなんてことも大真面目に議論されていた。

ところがいつのまにか、核シェルターなんて誰も真面目に考えなくなり、自給自足は自然食という観点からに変わってしまった。ではそうしたリスクがなくなったのかというと、状況は全く変わらない。狼少年や非常ベルのように、誰だってずっと騒がれたら注意力が散漫になるのである。

そんなことを考えるので、個人的にはリタイア後はなるべく家にいるようにしているし、おカネを貯め込むより何かあった場合の備えについて自分なりに考えることの方を選びたい。

まず気をつけなければならないことは、飲まなければならない薬とか受けなければならない治療をなるべく少なくすることである。幸い持病(糖尿病)の薬は少なくなってきて、おそらく緊急時に1週間くらい飲まなくても死ぬことはなさそうだ。

そして、少々の場所(例えば、市役所までの徒歩1時間とか)なら荷物を持って往復できる体力を維持しておくことである。これも、いまのところ大丈夫そうだ。

後は、何が起こっても頭をクリアにしてパニックに陥らないこと。外せない約束とか遠出の予定などはなるべく少なくした方がいいだろう。TVや新聞、インターネットが途絶え情報が入手できなくなることも想定しなければならないが、これはリタイア生活で慣れている。

これらのことは、おカネの有無以上に重要なことだと思うけれど、あまり重要視されていないようである。しかし私は、1週間以上もインフラが途絶えるような非常事態に、おカネだけがいつもどおり通用すると考えるほど楽観的にはなれないのである。



先週、非常食のことを書いたときにちょっと触れたけれど、しばらく前に核シェルターが大真面目に議論された時期があった。

その頃、ゴルゴ13に、霞ヶ関や永田町の地下鉄空間がやけに広いのは核シェルターだと書いてあったのを覚えている。言われてみれば、高級官僚や国会議員は自分達の安全のためならそのくらいやりそうだ。(ゴルゴ13はモンタナ州の山中に山小屋に偽装した核シェルターを持っていた)

民間でも地下室だの防護壁だのを作るべきだという、今にして思えば荒唐無稽な話もあった。非常物資や自給自足の話も、もともとそういう目的からの発想である。

荒唐無稽とは言い過ぎと思われるかもしれないが、本当に核攻撃があったら1週間や2週間でインフラが復旧するとは思えないし、待ったからといって補給されるかどうかも疑問だ。穴倉にこもって助けが来るかどうか分からない状態で、外部と連絡がつかないのは一撃で死ぬよりつらいかもしれない。

かつて恐竜を滅ぼすこととなった巨大隕石の衝突も可能性としては否定できない。その場合は、一撃で地球全体の何分の1かはアウトだし、大気中に巻き上がった粉塵の影響で作物も全滅するから昆虫でもなければ数ヵ月ともたない。

そうしたことを考えると、核シェルターがないとダメなようなケースでは潔くあきらめて、おいしいワインでもいただきながら観念するというのがベターな選択かもしれない。となると、ワインセラーと必要最低限な水と食糧あたりの備蓄で十分ということになる。

可能性としてより大きいのは地震とか気象災害で、つい先日の台風でも大きな被害を受けた地域があった。ただ、そういう場合は核シェルターというよりも、非常電源や非常物資、通信手段といったあたりが重要になりそうだ。

そうしたケースでは、日本全体が機能不全に陥るケースは考えにくいので、道路さえ使えれば被害の少ない地域に避難するという手がある。移動が困難なケースであっても、市役所や交通機関まで歩いて1時間かからない都市部においては、孤立する危険性を小さくできるだろう。

あれこれ考えると、核シェルターが必要になるようなケースでは、おカネを持っていても通貨に価値がなくなったり、日本全国どこへ行っても食糧が調達できなかったりするおそれが大きく、そもそも核シェルターだけあってもどうにもならない。

仮に核シェルターで最初の一撃を回避できたところで、お店に行っても食べるものもなく、病院もないので病気やケガは自然治癒を待つしかなく、電気もガスも水道もないような状況で、生き延びるのは非常に難しい。

だとすれば、核シェルターなどは誰かが自分のカネ儲けのために針小棒大に大騒ぎしてみせただけのようである。あれも、もしかするとバブルの一環であり、超のつくリッチな人だけが心配することであって、そういう人にしたところで穴倉にこもる以上のことはできないのである。

心配しても仕方ないことは心配するだけ時間の無駄だし、きちんと考えなければならないことは別にあるのではないかと思っている。

[Oct 10, 2019]


もう一度就職先を選べるとしたら

ちょうど40年前、1979年10月1日は私の時代の就職活動解禁日だった。その頃のことを思い出して、現代の若い人達の参考になるかと思って書いてみたい。

いまのようにパソコンやスマホでエントリーシートを作成してなんて時代ではなく、朝一番で面接会場に行って訪問表に必要事項を書き込むと、ひたすら面接の順番を待つという毎日だった。

当時は世間を知らなかったので就職面接はそういうものだと思っていたけれども、よく考えると、面接希望者が多いのが半分と、残りの半分は他社に訪問できないようにしたのではないかと思う。そうでなくても面接会場はばらばらなので、移動するだけで時間がかかる。1日に3、4社回るのがせいぜいであった。

その3、4社も、総合病院並みに、2時間待ちの5分面接で、脈があれば「明日また来てください」というだけである。結局のところ、10月前半で訪問できた会社は10に届かなかった。当時の大企業のうち、ごくごく一部しか訪問できなかったということである。

当たり前のことだけれど、その会社の雰囲気や職場環境をみるためには、就職情報誌などの書き物を読んだだけではだめで、実際に訪問して採用担当者に話を聞くことが必要である。だから就職先選びというのは、実際には「運・不運」と言わざるを得ない。たまたま訪問したごく一部の会社しか比較対象にならなければ、ベストの選択などできる訳がない。

私の場合どうだったかと思うのは、その訪問先の何社かを、たまたま紹介されたとか、知り合いが勤めているという理由で選んでしまったことである。そんな関係では、何かあったときに何の助けにもならない。それは就職後に思い知った。

「ああすればよかった」というように過去を振り返ることは、若い頃からしないようにしている。すでに結果が出ていることをくよくよしても気が滅入るだけだし、時間の無駄である。そんなことをしている暇があったら、これから先どうするか考えた方がいい。

常々そう心掛けているのだが、就職に関してだけは、こうすればよかったということを時々考える。40年前のことなので今更どうしようもないのだが、もう少しやり方があったように思うのである。1年でも2年でも大学に残って勉強するなり、いろいろ考えればよかったと思う。

ただ、リタイアして3年経ち実際に時間ができてみると、それほど単純なものではなかったように思えてきた。私の世間知らずは筋金入りで、3年経とうが5年経とうが、おそらく結果はたいして変わらなかっただろう。

何しろ、会社は日本中に何万とある。大企業に限っても千以下ということはない。そのうち、当時の就職活動解禁日である10月1日以降数日の間に訪問して話を聞ける会社は多く見積もっても10か20だろう。

ということは、最大限訪問できたとしても、話を聞けるのは候補先の1%程度であり、選択肢に入る時点で、偶然が左右する要素が大きすぎる。別の言葉で言えば「運・不運」である。

サラリーマンを終えて若い人にアドバイスするとすれば、その「運・不運」の中で、誰か紹介してくれる人がいるとか、知り合いが一緒だとかいうことで決めるのはやめた方がいいということである。そういうコネにもならない人間関係は、いざ困ったことが起こった時に何の助けにもならない。

そして、きちんとした試験に受かったとか、簡単でない資格を取ったということがあれば、そういう実績は大切にした方がいいかもしれない。ただ、そういうことを含めても、「運・不運」の要素はそれ以上に大きいことはおそらく間違いない。



前回、最初に就活した頃のことを書いていて、思い出したことがあったので忘れないうちに。 結局、私が就職することにしたのは、ゼミの先輩がいわゆるリクルーターをやっていた会社だった。その後、その会社は合併を繰り返し、困った時にそんなヤワな関係など何の役にも立たなかった。みんな自分の身を守ることだけで精一杯だったのである。

もっとも、その最初の就職先で社内結婚したのがいまの奥さんだから、それも含めて、やっぱり運・不運だったんだろう。いいこともあれば、よくないこともある。あれこれ迷っていたら、あっという間に時間は過ぎてしまう。

思い出したことは、はっとするような美少女(だと思った)何人かに、この就職先で出会ったことである。それほどの美少女には人生でほとんど会ったことがなくて、就職先で何人かとあとは学生の頃、両手の指で数えられるくらいである。

転職して二番目、三番目の会社では、取引先を含めてそのレベルの美少女には会ったことがない。自分ではさして不思議に思わず、一流企業にはそういう人がいて、そうでない企業には少ないんだろうと思っていた。

最初に就職した頃は、どこの銀行も事務職として高卒女子を毎年何百人と採用していた。彼女たちの多くは数年で結婚し寿退社して(だから大卒女子はコネ以外ほとんどいなかった)、常に新陳代謝が図られていた。

そして、まだ雇用均等法などないから、当時の採用基準の上位は容姿であった。採用の時点で水準が高く、しかも若くて、その中でのよりすぐりとなれば絶世の美少女となる訳である。

でも、時間が経つと、会社がどうこうではなくて、女の子がきらきらしているのはごく限られた時間だということに気がついた。美少女だって時が経てばおばさんになり、人間的魅力はともかくいつまでも輝いているわけではない。

わかりやすく芸能人の例をあげれば仲間由紀恵である。輝いているというのは、例えば彼女がTRICKで売れない手品師をやっている時で、TRICK2以降はきれいだし女優として落ち着いてきたのだけれど、きらきら感はない。そういうことである。

そして、さらに気づいたのは最近のことである。はっとすることのできる感受性は、若い時しか持っていないのではないだろうか。

だから、十代後半から二十代、学生時代か最初に就職した頃だけ美少女がいたように思うのだけれど、実際にはその年齢以降、私の側に、それを感じるだけの感受性がなくなってしまったのである。

時として、そうした方面の感受性を老人になっても失わない人たちがいる。そうした中には、芸術家と呼ばれる人たちが少なくないようである。いつまでもみずみずしい感受性を失わないことは、そうした人たちには大切なことなのだろう。

でも、お前にもそれをやろうと言われても、ちょっと考えてしまうかもしれない。

[Nov 7, 2019]


私が会社でうまくいかなかった理由

この間就活について書いていて、あまり核心に触れていないような気がしたもので、しつこいようだけどもう少し。

ついこの間学校を出たように思うのだが、すでにサラリーマン生活から足を洗って今度で4回目の正月になる。前にも書いたけれど、働かなくても何とか食べていけることについてはありがたいと思うものの、私のサラリーマン生活は決して心安らかなものではなかった。

常に仕事量に対してマンパワーが少ない状況を強いられ、いくら改善を要請してもなしのつぶてだった。かといって、私自身の成果が評価されたり感謝されたこともない。退職にあたり、数ヶ月分にあたる未消化有給休暇すら、何の配慮もしてもらえなかった。

会社にいる間は、私がいなくなってから思い知ればいいと思っていたが、いなくなった今ではそれぞれの分担を減らし、やらないことは見なかったことにして、後任者や取引先に迷惑をかけているんだろう。

そういうことをしていたら会社の活力はどんどんなくなるし、働いている自分達の健康状態にも影響を及ぼさない訳はないと思うのだが、まあ今となっては他人事である。

私がなぜ会社でうまく行かなかったのか、今ならなんとなく分かる。私は、会社の中で地位が上だったりおカネがあるからといって、頭がよくなかったり人間的に劣っている人間にへりくだるということをしなかった。おそらくそれは、会社人間たちにとって、自分達の秩序に逆らう、挑戦する態度に見えたに違いない。

会社の中では、大勢に従い長いものに巻かれるのが正義なのである。私にとって、きたないものを生理的に受け入れられなかったり、ルールを守らないことに嫌悪感を覚えるのと同じことで、私に耐えられないことが彼らには当り前のことだったということである。

大勢に従い長いものに巻かれることは、カネを評価軸としてすべての価値観に優先させることにニアリーイコールである。直近の自分の評価を上げ給料やボーナスを上げるためには、仕事をきちんとするより影響力のある上司にゴマをすった方が効果がある。そんなことをしても、長期的にはおカネには結びつかないのだが。

私が長年いた会社では、上司への付け届けの噂がちらほら聞こえてきたけれども、私はしたことがない。虚礼廃止で、そういうことはしないようにと通達があったからである。

実際には、そんなことに血道をあげる人ばかりだったのだろう。書庫は未整理の書類が十何年分も積み重なり、会議室には未決済の書類が何ヶ月分もたまっていた。すでに他部署に異動した上司の決裁を経ない書類が放置されていた。

さまざまの規則で、そうした事務処理はきちんとしなければならないと定められていたので、私はそういうことをきちんとすべきだと思い、結局ほとんど一人で、派遣社員さんの助けを借りながら黙々と整理した。でも、そんなことで未取得の有給休暇がたまったところで、それは自業自得だと多くの連中は考えていたのである。

会社でうまくやっていくためには、私の逆をすればいい。自分の仕事は何かを自分で考えず、指示されたこと、他の人達がやっていることだけをする。就業規則やルール、それらの根拠となっている法律・規則を熟知することよりも、暗黙のルールや人の顔色をうかがうことに注力する。影響力のある上司のご機嫌を取り結ぶ。

そんなことをしている組織に将来があるかどうかなんてことを考える必要はない。たいていの場合、問題が顕在化する時には自分はいないし、後から責任を追及されたところで取締役にでもなっていない限り何の問題もないからである。

そうして、多くの組織が腐敗していくけれども、そういう組織を選んだのは自分である。そうでない組織があるのかどうか、私にはよく分からない。

[Nov 28, 2019]


「世の中すべてカネ」ではないと私は思う

先週まで日本史の記事を書いていて、日本史とは離れるけれど気になったことがあったので忘れないうちに。

日本古代史に限らず、経済とか経営とは別の観点で判断すべき人達が、いまやカネだけを評価軸にして動いているような気がする。何が真相であり何を教訓とするかではなく、どういう理屈が自分を偉く見せて、多くのおカネを得られるかで動いているように思えてならない。

「世の中すべてカネだよ」というのは、半世紀前には「そういうシニカルな見方もある」という意味だったはずなのに、いまや本音であり真実であると思われている。少なくとも、多くの人はそうみているらしいが、私は違うと思う。

その理由の第一は、ほとんどの人がいわゆるキャッシュだけをおカネだと思っていることである。おカネという言葉で表されるのが交換価値という意味、昔でいうところの「信用」であれば、それほど違和感はない。「世の中すべて信用第一」というのは、古くからの人生訓である。

しかし、紙幣や通帳残高、有価証券、せいぜい金やプラチナだけがいまの人の「おカネ」である。それらの多くは500年前に持っていっても通用しないし、第一食べたり着たり、生活の助けにはならない。

村上春樹の「1Q84」に、「金はいらん。この世界は金よりも貸し借りで動いている」というようなセリフがあったけれど、1984年には普通であったそうした価値観が、現代では忘れられてしまった。

理由の第二は、生きていくのに必要なものは限られているし、そんなにおカネを集めたところで使い道があるんですかということである。

学生の頃勉強した経済学で、最も重要な法則の一つが「限界効用逓減の法則」であった。空腹の時食べる1枚目のパンと2枚目のパンでは、切実さが違う。3枚目ともなればお腹いっぱいになる。

同様に、世の中のほとんどのものに対して、欲求と効用のバランスがあって、たくさんあればあるほどいいというものではない。使わない部屋がいっぱいある家はムダだし、1日に5食も6食も食べられない。

ところが、おカネはいくら集めてもこれで十分ということにはならない。脱税する人は、たいていカネ持ちである。自分が生きていくのに必要なものは何なのかリストアップして、それにかかるだけのおカネがあればいいとは誰も考えないのである。

第三の理由は、おカネよりも大切なものは時間であると、私は考えているからである。

キャッシュがあろうとなかろうと、1日24時間という時間は誰にも公平である。その24時間をどうやって楽しく充実して過ごせるかが大切であり、おカネを集めるだけ集めて使う時間がないというのは本末転倒である。

「おカネはないけれども1日楽しく過ごせる」のと、「楽しくないけれどもおカネはある」のと、どちらを選ぶのだろうか。後者を選ぶ人は「おカネがあることが楽しい」という頭の構造になっているのだろうが、理解できないことである。

上に書いたようにおカネは交換価値であり、おカネ自体を食べることも着ることもできない。交換価値として機能するのは今日の世界が明日も続くと思っているからであるが、だとすれば500年前もいまのおカネが通用するはずだ。

例えば投資について、アービトラージという手法を使えば、手数料以外のリスクがほとんどなくカネ儲けができる。しかし、そのために必要な多くの時間のことを考えると、とてもそんなことに大切な時間を使ってはいられないと思う。

これらの理由は、大元では一つのことを言っているように思えてならない。世間の多くの人がおカネだけが重要だと思っているから、おカネだけが評価軸になる。卵が先か鶏が先かの議論である。でも、世間の多くの人が信じていることが真実とは限らない。

恰好をつける訳ではないけれども、私はどれだけおカネを手に入れるかよりも、どれだけ「徳」を積めるかが重要だと思っている。「徳」は個人間の貸し借りだけではなく、もっと大きなものに対する貸し借りが含まれている。「徳」を積むことが本当の「得」になると、こじつけではなく本当にそう思うのである。

[Dec 26, 2020]


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