保手見峠から嵯峨山 [Dec 19, 2018]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
檜洞丸に登った次の週くらいにいっぺんに10℃ほど気温が下がった。こうなると、暖かい房総の季節になる。2018年12月19日、年末であわただしくなる前にと、今シーズン初めて房総の山に向かった。
今回は、鋸南保田ICを下りてすぐの「道の駅保田小学校」に車を止めて歩く計画である。このあたりは昨年も来たが、長狭街道沿いに駐車できる場所はなく、奥に入る道は細い。道の駅に止めるのが安心である。
ただ、ここで計算違いが二つあった。一つ目は、車を駐めて早々、どこに引っかけたものか爪を割ってしまったのである。それなのに、いつも持っているはずの爪切りもバンドエイドも見当たらない。近場ということで油断していたようである。
割れたのが左手の人差し指という頻繁に使う指だったので、この日は一日中不便な思いをすることになった。何かのはずみですぐ血が出てくるし、痛くて使えない。リュックの紐を結ぶにも何をするにも、人差し指というのは大切なのである。
もう一つは、7時59分発のコミュニティバスに素通りされてしまったことである。通りの片方にしかバス停がないのでその前で待っていると、バスが通っているのは反対車線である。手を上げたのだがそのまま素通りされてしまった。
反対車線の時刻表も載っていたので、バス停の前で待っていれば大丈夫だろうと思ったのだが、ローカルルールというやつである。コミュニティバスなので勝手の分からない余所者は使わなくて結構ということなのかもしれないが、近距離以外は300円という料金設定からして、町外利用者を想定しているはずである。
せめて、「青バスは反対側でお待ちください」くらい書いてあってもよさそうなものだが、行ってしまったものは仕方がない。歩くのはお遍路で慣れている。バスで10分の道のりがどのくらいかかるか不明だが、あと2時間待つよりは早く着くだろう。
バスが走るのは長狭街道、鋸南と鴨川を横断する房総の幹線道路である。トラックが多く通るのは、砂利の運搬が多いためだろう。道はほとんど平坦なので右足と左足を交互に出していれば前に進む。時刻は9時前なので、まだ山の陰で日が差さない場所も多い。
意外と早く、見覚えのある小保田バス停を過ぎたが、そこから先が結構長くて、市井原のバス停まで着いたのは9時5分過ぎ、バスで来るより50分近く多くかかってしまった。バス停の前に、北へ向かう舗装道路が分岐している。ここを進めば第一目的地の保手見峠である。
車とも人ともすれ違うことなく、道は舗装道路から簡易舗装となって登って行く。しばらく民家はとだえていたのに、上水道の加圧ポンプ場の先にいきなり民家が集中している。瀬高という集落のようだ。
道なりに登って行くと、最上部の民家の前で行き止まりになってしまった。リュックを下して「房総のやまあるき」のコピーを確認すると、途中で分岐を見逃したらしい。そういえば、民家の入口だと思って入らなかった分岐があった。
道の駅保田小学校は、朝早くても駐車場に入れる。ただ、コミュニティバスに素通りされてしまった。
バスで10分の道のりを1時間かけて市井原バス停へ。長狭街道から分かれて北に向かう。
民家も田畑もない道をずいぶん登ってきて、山の上に水道施設がある。さらに上に集落があった。
さきほど通った時には、分岐の奥に、民家とたき火をしている人が見えたので遠慮したのである。戻ってそちらに登って行くと、目印となる石仏があった。「おはようございます」と挨拶する。意外にも、若い人であった。
「保手見峠は、この道でいいんですか?」
「ああ、この道から向こう側に出られますよ」
御礼を言って先に進む。「房総のやまあるき」には、昔の鎌倉街道でいまは廃道寸前と書いてあったが、まさにそういう状態であった。山の中腹をスイッチバックしながら登る道で、かなり古い石垣で補強してあったけれど、いまはハイキング客も含めて誰も入っていないように見えた。
日がほとんど差さない暗い道を登って行く。ところどころ赤テープが見えるのは、「房総のやまあるき」の内田栄一氏が付けたものだろう。ピークまで登らず、道なりにトラバース道に進む。右手から稜線が下がってきて、ぶつかったところで保手見林道に出た。
林道とはいってもダート道である。ここまでの登山道とは全然違うものの、舗装はされていない。車も通れる幅があり轍の跡もあるが、もちろん車の姿は見えない。ずいぶん山奥に来たという感じである。
今回のネタ本は例によって「房総のやまあるき」の「保手見峠から嵯峨山へ」である。昨年も嵯峨山には登ったけれどもその時は小保田回りで、今回は逆回りということになる。行程3時間のショートコースだが、バスに素通りされて1時間余計に歩いた上、保手見峠までコースタイム40分のところ、すでに1時間かかっている。
保手見峠からは「富山が雄大な山容を見せ。太平洋の彼方には大島が」見えるとネタ本にあるのだが、残念ながら枯れ枝に遮られて向こうに海がありそうだというくらいの視界しかない。
ただし、少し進んだところからは東側の眺望が開けていて、北からいくつかのピークをつなぐ稜線を見ることができる。方向的に、これは房州アルプスと思われたが、逆方向から見たせいか見覚えのある山には見えないのは残念であった。
さて、ネタ本の3時間を鵜呑みにしていたので、すぐ近くにあるはずの三浦三良山を探そうという計画であった。林道を進んでから、「鎌倉街道」というカードの下がっている道に進む。
さきほど瀬高から登ってきた道と同様、あまり人の入っていない道である。おまけに、「猪・鹿用の罠が設置してあります。ご注意ください」などと書いてあるので、藪の中に入りづらい。しばらく進んだ後ピークらしきものはあるのだが藪ばかりで、道はそこから下って行くようであった。
メインルートの段階ですでに荒れていて、脇道に入ると罠の危険がある。これではちょっと無理なので引き返すことにした。帰ってからGPSを調べたところ、もう少し奥まで進まなければならなかったようだ。
道なりに進むと瀬高集落の最上部の民家で行き止まりになる。引き返して、石仏左の山道に入る。
ここはかつての鎌倉街道だという。確かにところどころ古い石垣で補強されてはいるが、登山道というより廃道に近い。
三浦三良山を探すけれども見つからない。害獣除けの罠があるそうなので、藪の中には入りたくない。
5分ほどかけて戻って、嵯峨山への尾根道に進む。林道からの入り口に赤テープがあったので場所は間違いないが、道とおぼしきところには笹薮が伸びていて、たいへん歩きづらい。そして、結構アップダウンがある。やせ尾根を急降下して、再び登るのを繰り返すような道である。
房総なのでこうした尾根道はよくあるのだが、今回の場合登り下り以上に不安だったのは道が斜めっていることで、滑ると十数m止まらないだろうという急斜面であった。保手見峠から間もなくあるはずの鋸南町三角点峰も、どこだったのかよく分からなかった。
赤テープを頼みにさらに進むが、藪がどんどん濃くなる上に踏み跡が見当たらない。半年や一年、誰も入っていないような状態である。藪だけならまだしも、斜めった斜面は滑ったら登って来れる保証はないような状態であった。
少し先の藪の斜面に赤テープは見えたものの、そこまで踏み跡の見つからない状況で先に進むのは危険である。三浦三良山に続き、嵯峨山への尾根道も撤退せざるを得なかった。やむなく、安全確実な林道経由で嵯峨山に向かうことにした。
時刻はすでに11時近く。保手見峠付近でうろうろして出発から3時間近く経過している。予定どおりバスに乗っていれば、そろそろネタ本のコースを完走していておかしくない時間である。なのに、まだ予定の半分も来ていない。再び保手見林道を先に進む。この道を進めば、昨年嵯峨山から下りてきた場所に合流するはずである。
この林道は尾根の北側を歩くので日当たりが悪く、水たまりが大々的に残っていた。ちょっと驚いたのは、昨年嵯峨山から下った時ほとんど廃屋だったと思ったのだが、それより奥にあるあたりで、人の住んでいる農家があったことである。
規模は小さいものの畑に野菜が植えられており、庭先には軽トラが止められていて犬が吠えていた。ずいぶん人里離れたところに住んでいるものだと思っだ、よく考えると軽トラを使えば10分かそこらで長狭街道に出られる。びっくりするほどの山奥ではないのであった。
嵯峨山の裏登山口まで、結構長かった。途中でさきほど断念した尾根道と合流するが、やはり人の入った気配はなく、見る限り荒れてしまっている。山慣れた人は房総に来ないし、ハイキング客ではとても歩けないコースなのである。
さて、前回下ってきた民家脇の登山口まで30分ちょっと歩いた。「嵯峨山→」の小さなカードがあり、民家横にU字溝で作ってある階段を登る。ここの民家はしばらく前まで老夫婦が住んでいたらしいが、現在は無人のようである。
踏み跡伝いに登ってゆくと古いお墓に行き当たるのだが、その前に平らになって日当たりのいい場所がある。ここまで3時間以上、全く腰を下ろしていなかったので、ここで休憩をとらせていただいた。
テルモスに入れてきたお湯でインスタントコーヒーを淹れ、ジャムとチーズのパン、レモン味のチキン、いつものフルーツパックでお昼にする。この日は快晴の予報だったが、曇って風も出てきた。とはいえ、寒くないので歩くには申し分ない。
保手見峠から北方向。見えているピークが三浦三良山のはずだが、たどり着けなかった。
保手見峠からは東側の眺望が開けている。並んでいるのは、方角的に房州アルプスのはず。
「房総のやまあるき」の道は、しばらく誰も入っていないらしく藪。赤テープはあるのだが、道が完全に斜めっていて滑ったら大ケガ必至である。途中で断念。
休憩したし栄養補給もできたので、体力回復して嵯峨山の登りにかかる。見た感じ標高差50mくらいしかなかったのでそれほど時間はかからないと思ったが、実際10分ほどで金平様の祠を過ぎ、ひと登りで嵯峨山頂上に着くことができた。
嵯峨山頂上はあまり日が当たらず、展望もないので休憩するのにあまりいい場所ではない。標高は315mあって房総では高い部類に属するのだが、伊予ヶ岳や富山のように整備されていないし、ベンチもない。房州アルプスもそうなのだが、房総でも人のあまり登らない山なのである。
そして、保手見から回ってくる今回のルートは、嵯峨山まではそれほどハードではないのだが、ここから先の道が結構きつい。傾斜がきついし、道は荒れている。逆に下貫沢回りだと、嵯峨山まできついが下りはそれほどでもない。
特に今回は、バスに素通りされて1時間多く歩いた上に、三浦三良山・鋸南町三角点尾根といずれも途中で引き返してHPに余裕がない。嵯峨山から水仙ピークまでの登り下りは、こんなにきつかったかと思うほどだった。
やっとのことで水仙ピークまで来たけれども、残念ながら水仙はほとんど見ることができなかった。道端には結構咲いていたので時期でないということはないだろうけれど、かなりの急斜面なのでもう栽培するのをやめたのかもしれない。「栽培しているので勝手に抜かないでください」と書いた看板が寂しそうだった。
水仙ピークの先でちょっと迷う。ヤセ尾根に向かう道と、左に急降下する道があり、どちらもそれらしいしどちらも違うようにも見えるのである。1/25000図と電子国土を確認すると、前回通った道は尾根伝いに西に伸びているのでヤセ尾根の方向である。
ところが急降下する道も破線で載っていて、これも下貫沢の集落まで通じているようなのだ。とはいえ、ロープも張ってない道を急降下するのは危険である。ということで、ヤセ尾根を進む。
前回は登り方向だったので気にならなかったヤセ尾根だが、下り方向だとかなりこわい。何とかクリアすると、今度は林道に向けての急傾斜である。ロープはあるものの、足下が堅い地盤で滑りやすく、後ろ向きになって下って行く。富津市の注意看板のある林道まで下りた時にはほっとした。
さて、ここから先の林道も、朝方歩いた旧・鎌倉街道と甲乙つけがたい状態である。倒木が道をふさぎ、雨水でえぐられた道に落ち葉が積み重なって、足を平らに置くことができない。昨年来てから、いったい何人の人が通っただろう。遠からず、廃道に近い状態になってしまうだろうと思われた。
結局、嵯峨山から1時間かかって下貫沢駐車場まで下りてきて、さらに1時間かかって道の駅保田小学校まで歩いた。房総の山はあまり人が入っていないのがいいとも言われるのだが、あまりにも人が入らないと、それはそれで危ないし歩くのもきつい。よしあしだなあと思ってしまったのであった。
この日の経過
道の駅保田小学校 8:05
9:05 市井原バス停 9:10
9:35 瀬高集落最上部 9:40
10:10 保手見峠付近 10:40
11:20 嵯峨山登山口 11:40
11:55 嵯峨山 12:00
12:40 旧林道分岐 12:40
13:10 下貫沢駐車場 13:10
13:30 小保田バス停 13:30
14:10 道の駅
[GPS測定距離 16.2km]
[Mar 4, 2019]
嵯峨山に登るのは、廃民家横の登山口から15分ほどで、こちらの方がずいぶん楽。
逆回りだと、こんなにアップダウンがあったかと思うほどで、水仙ピーク先のやせ尾根もこわかった。
倒木や雑草で去年よりさらに荒れてしまった登山道を下りて、ようやく水仙畑へ。この後、1時間かけて道の駅に戻った。
御殿山・大日山 [Jan 8, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
前回は嵯峨山を歩いたのだけれど、道なき道にちょっとめげてしまった。房総の山らしいといえばらしいのだが、平らに足を置けない道はあまり楽しくない。どこかいい山はないかと思って探していたところ、御殿山がちゃんと整備されているようだった。
御殿山は伊予ヶ岳のさらに南にある。高さは363mでさほどでもないが、房総としては高い部類に入る。南房総市のホームページにハイキングコースとして掲載されているし、ネタ本である「房総のやまあるき」にも掲載されている。
予定より30分遅れて、高照禅寺駐車場に着いた。なぜか駐車場がほぼ一杯で、大型ダンプから重機を下ろしている最中だった。作業半径に近づかないように遠くに車を止める。駐車場は広くトイレもあるのだが、隣の敷地との区別がよく分からない。幼稚園バスも止まっていたので、大丈夫な場所ではあるのだろう。
支度をして出発したのは8時20分。県道を横切って登山道に向かうと、まさにそこまでの橋の工事が始まるところだった。「いいですか?」とお伺いすると、「車じゃなければいいですよ。帰りも声かけてもらえれば」ということだった。
初めは舗装道路、やがて簡易舗装、遂には登山道という順序は、房総ではよくあるパターンである。ずいぶん傾斜がきつく、みるみる高度を上げる。写真を撮りながら歩いていると、後ろから来た人(私と同様のシニア)に抜かれた。
登山道に入っても、道はしっかりしているし、ところどころ擬木とチェーンで路肩を区切ってある。遊歩道の案内看板もあったので、きちんと予算をつけて整備しているものと思われた。ありがたいことである。とはいえ、傾斜はたいへん急だ。何ヵ月か前に登った四国の捨身ヶ嶽の急坂を思い出した。
30分ほど登ると、「大黒様」と書かれた高台に到着する。麓の方を見つめて微笑む石造りの大黒様は、まさに打ち出の小槌を振り下ろさんという雰囲気である。足下からは麓の村々の景色が広がり、なんとも雄大である。
横に立てられた看板にこの大黒様の由来が書かれている。もともと麓の集落にあったものだそうだが、「縁起をかつぐというくらいだから、大黒様もかついで山の上にいた方が気持ちがよかろう」という訳で、集落を望むこの高台に移されたそうである。この高台の標高は240mくらいで、麓との標高差は150mほどになる。ちょうど新宿新都心のビルくらいであろうか。
ここで、先ほど抜かれた人と「いい景色ですね」と話をした。「千葉の山はあまり来なかったけれど、高さはないけれどたいへん景色がいい」と言っていたから、県外から来たのかもしれない。ずいぶん早起きしないとこの時間には登れないだろう。
大黒様を過ぎると、わずかの間なだらかな稜線となるが、房総だからそれも長くは続かない。まず御殿山への登りである。ただ、大黒様までかなり登ってきているので、それほど長くはない。15分ほどで御殿山頂上に到着した。
御殿山は、三角点のある山頂がまずあって、一段下が広くなってそこに東屋が建てられている。山頂には石の祠と三角点がある。三角点の近くに房総でよく見る「房州低名山」の立て札があるのだが、誰かが「低」の字を消して読めないようにしている。
なぜこういうことをするのだろう。「房州低名山」は安房地域の地方紙・房日新聞の企画で、「百名山」に掛けて「ひくめいざん」と読む。房日新聞は地元密着した記事が多く、山の記事も充実しておりWEB検索でよく見つかる。「低名山」とするところに面白さがあるし、だいいち人の作ったものを傷つけるというのはどういう神経だろう。
「低」は余計で「房州名山」でいいではないかというつもりなのだろうが、だったら気の済むように自分で作って立てて歩けばいい。その看板が汚されたり壊されたりすれば、作った人の気持ちが分かるだろう。
こういう人間はきっと、「低」と言われると自分のことを言われているようで腹立たしいのだと思う。嘆かわしいことだ。せっかくの看板を汚すことで、他の人が不愉快な気持ちになることは勘定に入らないらしい。考え足らずとしか言いようがない。
高照禅寺駐車場から30分ほど登ると、大黒様の高台に出る。昔、麓の住民達が地域の守り神としてここまで担ぎ上げたものという。
大黒様の前には、麓の集落の眺めが雄大に広がる。胸のすくような風景である。
さらに15分ほどで御殿山頂上に着く。房総の山々にある「房州低名山」の看板の「低」の字を消している考えの足りない者がいる。
御殿山頂上の三角点のすぐ下に東屋があり、ちょうど景色を望める方向に向けて作り付けのベンチが置かれている。前の人は先に行ったようで私ひとりである。腰を下ろすと、目の前に絶景が広がっていた。
低い稜線をひとつ挟んで、向こうに見えるのは伊予ヶ岳である。伊予ヶ岳の標高が336m、御殿山が363mだから、こちらの方が30mほど高い。左に津辺野山、さらに富山と続き、その向こうには東京湾が広かっている。雲の上から、富士山も見えた。
わずかに雲はあるが申し分ない天気で、風も全くなく日差しがぽかぽかと暖かい。こんな景色のいいところで、こんないい天気に恵まれることなどめったにない。リュックからテルモスを出し、カロリーメイトと白湯でティータイム。何とも言えないいい気持ちだ。
(ちなみに、登った次の日から寒気が下りてきて、気温も下がり北風が吹く寒い日が続いた。こういうグッドタイミングで山に行けるのも、リタイアしたおかげである。)
しばらくのんびりした後、稜線を先に進む。御殿山への登山道はいま登ってきた高照禅寺ルートの他、東から登るルートがいくつかあるが、そのうちの一つがトラロープで通せんぼされて「この先、土砂崩れにより通れません」と書いてあった。
さて、御殿山から大日山に至る稜線には国土電子データでみると3、4ヵ所の小さなピークがあり、房総ならではのアップダウンのある尾根歩きになりそうだ。それは予想していたのだが、予想に違わない急傾斜であった。
まず御殿山からの下りが逆落としのような急坂で、やっと平坦になったかと思うと、今度は急坂の登りとなる。20分ほどで着いたピークには、古いベンチと行き先標示だけで、山名を示すものがない。周囲を見回すと、右少し先に自然石の石碑があり、そこに例の「房州低名山」の小さな立て札があった。ここが鷹取山である。
この鷹取山、標高は364mで御殿山より高いのだが、周囲を木々に覆われていて暗く、見通しもほとんどきかない。いつからあるのか、錆びて朽ち果てたミルク缶がある。来る途中にあった「酪農発祥の地」と何か関係あるのだろうか。ここは休まず先に進む。
再び急傾斜の坂道になるが、幸いにハイキングコースとしての整備は行われていて擬木で階段状になっており、嵯峨山のようではない。「房総のやまあるき」の内田栄一氏の別の本「房総山岳志」には、「鷹取山から大日山まではヤブがひどい」と書かれているのだが、2019年冬現在そういうことはない。
二つ目の急坂を登って行くと西側で崩落防止工事をしてあり、山中には不似合いなカラーフェンスが登場する。フェンスの間から覗くと、向こう側には民家も田畑もないのに斜面をモルタルで土留めしてあって、よくこんな山奥を工事したものだと思った。伊予ヶ岳山頂近くもそうだったが、われわれには山奥でも地元にとっては崩落したら影響が大きい土地なのだろう。
この土留め工事のあたりが2つ目のピークで、ここから先それほどの急傾斜はない。淡々と続く山道を進むと途中で分岐があり、「大日山→」のカードにしたがって右に進む。その先のピークが宝篋印塔山であった。
宝篋印塔山は本によって「宝篋山」「法経山」「宝篋塔山」などとも書かれているが、もともと1/25000図にも記載されていないピークであり、山頂に置かれた宝篋印塔にちなんでそう呼ばれていたようだ。地元の看板にも「宝篋印塔」とのみ書かれている。
思うに、そもそも場所を示す言葉として「宝篋印塔」と呼ばれていて、後にピークを表わす言葉として使われる際に、山なのだから「宝篋印塔山」と呼ぶようになったものと思われる。ただし、南房総市のHPに書いてある宝篋印塔山の位置は全くずれていて、実際は大日山のすぐ近くにある。
山頂には、手書きの山名標「宝篋山」と、山名のもととなった石造りの宝篋印塔が置かれている。宝篋印塔には宝篋印陀羅尼経の梵字が刻まれていたということだが、長い年月で摩耗してしまい読むことはできない。
その宝篋印塔のすぐ後ろに、この山の謂れについて書かれた古い看板がある。近くで見てみたのだけれど、字そのものが薄くなっていることに加えて、看板が汚れてしまい読むのが困難である。「昭和三十何年に県の教育委員会が調査した際、顧問である誰某がどうこうした」というようなことが書かれていた。
看板を立てても半世紀すればほとんど読むことはできないし、石に刻んだとしても長い年月の間には摩耗する。私がこうして書いた文章はデジタルデータとして残るかもしれないが、電気がなければ復元して読むことはできない。後の世に何かを残そうとするのは、なかなか難しいことのようである。
御殿山頂上からの眺めもまた雄大だ。富山、津辺野山、伊予ヶ岳と並んだその向こうに東京湾、さらには富士山も望むことができる。
房総の尾根歩きは、なだらかな稜線は決して長く続かない。強烈なアップダウンが2度3度と続いて足腰に響く。
宝篋印塔山は呼び名が統一されておらず「宝篋山」「宝篋塔山」などとも書かれている。おそらく地元看板にあった「宝篋印塔」がもともとの呼び名だろう。
宝篋印塔山からは10分ほどで大日山となる。ほとんど登り下りすることなく擬木の囲いが見え、その向こうから石を積んだ祠が現われる。宝篋印塔山と大日山の間の鞍部に、第二次大戦中にこの山に墜落した館山航空隊兵士の慰霊碑があるということだが、残念ながら通り過ぎてしまった。
擬木の囲いは比較的新しいので、この山頂もハイキングコースとして整備したのだろうが、残念ながらベンチは朽ち果てており、腰を下ろす場所はない。けれども景色はすばらしく、西側に東京湾と、南側に館山の先、洲崎あたりの海岸線を望むことができる。ここにもパノラマ図があって、条件がよければ大島はもちろん、三宅島まで見えるということである。
大日山という名前から想像つくように、古くから大日如来が祀られてきた山である。登山道を少し下ったところに増間寺とも閻魔寺とも呼ばれる廃寺があるので、あるいはその関連かもしれない。
その廃寺があったのは奈良・平安時代で、もう千年昔のことである。森の中に瓦などが遺されており、古くから言い伝えられてきた。近年調査も行われたものの、確かなことは分からない。すぐ近くの館山には安房国分寺があったから、この大日山付近も奥ノ院として修行の場であった可能性がある。
登り始めてすぐシニア単独行に抜かれたが、鷹取山あたりでもう一人シニアの人とすれ違い、大日山の頂上直下ではおかあさん二人子供二人とすれ違った。平日の昼間にこれだけの人とすれ違ったり抜かれたりするとは予想外で、よく歩かれているコースのようだ。
さて、実はこの日、8時には出発して12時に下山、バスで駐車場近くまで移動するという計画を立てていた。ところが、駐車場に着くのが予定より30分ほど遅れてしまい、歩き始めたのが8時20分になってしまった。
なぜ遅れたかというと、高速料金節約のため、鋸南富山ICが最寄りであるところ、姉崎袖ヶ浦ICで下りて一般道を南下したからである。ロマンの森から君鴨トンネルを抜ける道は何度も通ったおなじみの道なのに、久留里街道を行き過ぎて1車線国道に入ってしまった。さらに、長狭街道を過ぎると410号線は曲がりくねって早く走れず、結局30分ほど余計にかかったのである。
大日山を下り始めたのは午前11時、もうこの時点ではあきらめていたのでゆっくり歩いた。幸い、下山口までは整備されたハイキングコースで、個人的に呼ぶところの高速登山道・東海自然歩道と変わらなかった。何度も言うけれども、嵯峨山とはかなり違う。
下山口の県道分岐まで30分ほど、そこから舗装された県道をのんびり歩く。バス停のある滝田郵便局に着いたのは12時20分、まさに出遅れた20分だけバスの時間に間に合わなかった。
県道を伊予ヶ岳に向かって北上し、30分ほど歩くとお堂のある犬掛というところに着く。このあたりは、八犬伝の里見氏ゆかりの土地らしい。ここまで来ればもうすぐ駐車場だろうと思ってGPSを見ると、どう控えめに見てもあと5kmはある。
5kmだと、少なくとも1時間かかる。もう午後1時だから、車に戻れるのは2時である。途端に、登山靴の重さが気になりだした。お遍路で5kmなら気にするほどでもないが、ウォーキングシューズと登山靴では重さが違うし疲れも違う。
そこから先、国保病院前を通り、伊予ヶ岳駐車場前を通り、バスで来れるはずだった平群車庫バス停を過ぎてもまだ高照禅寺には着かない。結局戻れたのは、2時10分過ぎ。大日山から約3時間ノンストップで歩いたのだった。
帰ってからGPSを確認したところ、出発してから大日山下山口まで歩いた距離は5.5kmなのに、そこから駐車場に戻るまで12km歩いていた。12kmだったら3時間かかっても無理はない。
大日山から御殿山経由で来た道を戻っても同じくらい時間がかかっただろうし、コースの大部分が展望のない道だったので下を歩いた方が景色はよかったけれども、それにしても疲れた。
予定では日帰り温泉に寄るつもりだったが、車の中で着替えてそのまま家路を急いだ。帰りもまた細い道に入ってしまい、3時間かかって家に着いた。夕飯を食べてお風呂に入って、午後7時半にはもう布団に入ってしまった。景色はよかったけれども、たいへん疲れた1日だった。
この日の経過
高照禅寺駐車場(90) 8:20
9:00 大黒様(250) 9:05
9:20 御殿山(363) 9:40
10:05 鷹取山(364) 10:05
10:40 宝篋印塔山(337) 10:40
10:50 大日山(333) 11:00
11:30 登山道・県道分岐(100) 11:30
12:20 滝田郵便局(33) 12:20
14:10 高照禅寺駐車場
[GPS測定距離 17.5km]
[Mar 25, 2019]
大日山は麓の人々が大日如来をお祀りしてきた山という。現在は「大日如来」と記された石碑が残る。
大日山から下ってきたところ。コースは整備されているが、落ち葉や枯草が積み重なってしまっている。
下山口からは延々と舗装道路を歩く。バスの時間に間に合わず、3時間近く歩いて膝ががくがくした。
大台山・御殿山 [Jan 30, 2019]
この図表はカシミール3Dにより作成しています。
1月のはじめに御殿山を歩いた時、もう少しあたりを歩いてみたいと思った。第一の理由は、ずっと木々に囲まれて歩いたのでどんな場所だったのかよく分からなかったということであり、もう一つは御殿山・大日山間で、すぐ下の斜面をモルタルで土砂崩れ防止工事をしていたのが気になったからである。
ネタ本の「房総のやまあるき」の中に、「大台山から御殿山」というコースがあり、ちょうどあのモルタルピークのあたりに出るらしい。1月終わりに1日だけ春めく天気予報の日があったので、行ってみることにした。
ところが、高速に乗ると間もなく、まったく動かなくなってしまった。車載TVをつけると、個人的に「かしゆか」と呼んでいる道路交通情報センターの早乙女さんが、「京葉道路は貝塚で事故のため、下りが7km渋滞しています」と言っている。高速に乗る前に聞きたかった。
おまけに道を間違えて、天神郷の駐車場に着いたのは予定より1時間遅れた。予定では、8時前に着いて館山行のバスに乗るつもりだったのだけれど、もう9時では仕方がない。ネタ本の出発点である寝不見川(ねずみがわ)バス停まで30分の歩きである。
県道の両側には、飼料を入れるタンクがいくつか見える。たくさんの牛を飼っているところがある一方で、壊れて使っていない牛小屋の跡も見られる。このあたりは日本酪農発祥の地ということだが、時代の流れは如何ともしがたい。
来る途中で聞いたラジオのニュースで、「農水省は、酪農家の廃業が相次いでいることから、来年度のバター輸入を50%以上増やすことになりました」と言っていた。これからますます子供が少なくなる中で、あえて子供に跡を継がせる酪農家が多いはずもなく、仕方のないことなのかもしれない。
県道から東にはいくつかの峰々が見えるが、山頂近くの木が刈り取られているのが大台山である。以前はKDDの電波塔が建てられ、1/25000図にもアンテナマークが書いてあるのだが、10年ほど前に撤去されたようだ。この間登った御殿山は、そこから稜線3つくらい向こうになるはずだが、上まで行けばもう少しよく見えるだろう。
寝不見川バス停から山の方向に入る。このあたりの集落を大塚といい、ここにある神社の鳥居が房総特有と言われる笠木一本鳥居である。地面と水平なのが笠木1本だけで、その下にあるはずの「貫(ぬき)」がない。一本ないだけで鳥居のように見えないのだから面白い。
鳥居のある豊受神社の先を左折、すぐに右折して平久里川を渡る。ネタ本には、「すぐ左の旧道に入る」とあるが、残念ながらイノシシ除けの柵が張られていて入れない。やむなく、もう一つのルートである林道を進む。(ただ、この先の状況をみる限り、たとえ柵を越えて進んだとしても、旧道はほぼヤブのようである)
林道に入ると、急に傾斜がきつくなる。この日は全く車とすれ違うことはなかったが、車も通れる幅だし比較的新しい轍の跡もある。ネタ本によると、「電波塔跡は伐採木の搬出基地に使用されている」とあるので、トラックが入ることがあるのかもしれない。
県道から見た大台山。かつては山頂にKDDの電波塔が設置されていて、電子国土にもアンテナの表示がある。
麓の集落にある豊受神社。笠木一本鳥居と呼ばれる独特の様式である。
「房総のやまあるき」に掲載のルートは、イノシシ除けのため通れなくなっていました。
左手に稜線を見ながら1時間近く進むが、なかなか分岐が現われない。それどころか道は下りになってしまった。どこかで見逃したかと思ったが、車が上がれる道のはずだからさすがに見逃さないだろう。と思ったら、下り坂の先に鋭角に戻る道があった。
ここから先、路面は簡易舗装で石垣で土止めをしているけれども、両側から草が伸びて道幅の半分近くをふさいでいる。さらに、道はどんどん狭くなる。それでも、この道に間違いはないので進むと15分ほどでコンクリの広場に出た。結構広い。
1/25000図では残っているはずの電波塔はあとかたもなく、柵もゲートも撤去されて、見えるのはコンクリの地盤と石垣だけであった。小さめのスケートリンクほどの広さがある。
さすがに周囲は藪となっているが、コンクリの部分はそれほど傷みもなく、いまでも何かの施設を置くことは可能であろうと思われた。あるいは、定期的に人手が入っているのかもしれない。
いま入ってきた進入経路以外、麓に下りる道は見当たらない。そして、周囲を覆っている雑草の丈が高くなっているので、眼下を見下ろすような雄大な景色という訳にはいかなかった。
それでも、茶色に枯れた草越しに麓の景色を見ることができる。そして、東側を振り返るといくつかの稜線が見え、一番奥に高く続くのが御殿山、鷹取山、大日山だろうと思われた。ただ、その前方にも山があるので、伊豆ヶ岳や富山のように山容がはっきりしている訳ではない。
そして、広場の入口にあたる部分の右手、石垣で少しだけ高くなっているあたりに三角点があった。三角点の傍らに、例の房州低(ひく)名山の立札が立てられている。その山名は、大台山ではなく余蔵山である。
「房総山岳志」「房総のやまあるき」では大台山だが、千葉日報から出ている「房総丘陵ハイキング・ウォーキング・ガイド」には余蔵山となっている。山の持ち主の屋号が「余蔵」というところから付いた山名らしい。
確かに、KDDの施設があったということは、入会山ではなく誰かの持ち物であった可能性が大きい。持ち主以外の住民には「大台山」と呼ばれていたらしいので、こちらの名前がよさそうではあるが、いずれにせよ1/25000図には名前が載っていないピークであり、結論は出ない。ここではネタ本に基づき、大台山としておく。
ここでしばらく休憩するが、まだ先は長いので11時に出発する。ここから鷹取山まで1時間、御殿山を経て麓まで1時間半、さらに駐車場まで30分のコースタイムなので、休みなしで歩いても駐車場に戻るのは午後2時を回る。事故渋滞と道間違いで遅れたのは影響が大きかった。
大台山頂上に至る道。かなりさびれてきているが、これから通る平群林道支線と比べるとまともだし、人の手が入っている。
KDD電波塔跡の空き地。石垣の上、高くなっているところが大台山(余蔵山)頂上。
山名は確定しないが、ここは三角点である。そして「房総低(ひく)名山」の立札がある。
登ってきた分岐まで10分ほどで戻り、先に進む。ネタ本に「林道に戻り北に少し行くと林道平群支線が右に分岐する」とあるので、GPSで場所を確認してから、右に伸びている道に入る。
ところが、これが平群支線ではなかったのである。結果的にはこの先に平群支線の分岐があったのだが、100mほどの違いなので緯度経度を読み切れなかった。
そこそこ道幅があり砂利が敷かれていて人も車も入っているのだけれど、300~400m先で林の中に入り、その先で唐突に道がなくなっていた。途中で枝分かれした道はそれ以上に細かったが、やはりすぐに行き止まりであった。
いったん戻って先に進むと下り坂になり、新しいベンチが置かれているところに「林道平群支線」の標識があった。あと100m進めば、迷うこともなかったのである。この日は朝方の事故渋滞もあり道間違いもあり、こういうめぐり合わせだったようである。
平群支線の分岐を過ぎて5分ほどで、慰霊碑の立つ花火工場跡になる。この事故が起こったのは、平成6年というからそんなに昔ではない。爆発事故により4名が命を失った大きな事故だった。
八犬伝の里見家で連絡用に使った浪煙(のろし)を起源とする花火は、この地の郷土文化として長く受け継がれてきた。ところが、この事故以降は全く行われなくなった。慰霊碑の先にある古い小屋が、おそらく作業小屋であり倉庫だったものと思われる。
花火工場の事故は昔からかなり多くあって、WEBを探すといろいろ出て来る。この間「もういちど日本」を見ていたら、秩父の伝統的な仕掛け花火の製造過程を映していて、何人かが木槌で火薬を固めていた。引火すれば間違いなく爆発する危険な作業である。
慰霊碑に手を合わせて先に進む。そして、花火工場跡より先には、納屋も倉庫もない。舗装道路の地盤はだんだん落ち葉に覆われて見えなくなり、やがて厚く土砂が積み重なって見た目では山道と区別はつかない。踏みしめる足の感触で、土の下は舗装されているらしいと分かるくらいである。
はじめは道の傍らに木が倒れかかっているくらいだったが、15分も進むと道路の中央を倒木がふさいでいる。歩く分にはよけて進めばいいけれども、車で通ることはできそうにない。さらに進むと、こぶし大よりやや大きい落石が道路に散乱し、倒木で道をふさがれる間隔も短くなってきた。倒木の間に野いばらが絡みついて抜けるのも一苦労である。
車は長いこと通っていないし、登山客だってここしばらく来ていないようである。GPSで現在地を調べると、まだ鷹取山までの半分くらいしか来ていない。前半戦でここまで荒れているということは、後半はいったいどうなっているんだろう。
少なくとも7~8年前に、「房総のやまあるき」改訂のために内田氏が歩いているはずなのだが、本にはこんな道だとは書いていない。とはいえガードレールが残っているので、かつて車が通った道であることは間違いない。
ところどころ両側から雑草が茂って、先に道があるかどうかすら定かでない。この林道平群支線は、大台山の取り付け道路よりも、道間違いした伐採用の一時的通路よりも、はるかに自然に還っている道路なのであった。
「房総のやまあるき」によると、このあたりに「増田ダム」「鷹取山入口」の道標があると書いてあるが、そうしたものは見つからなかった。あるいは、藪に埋もれて見えなくなっているのかもしれない。やがて、崩壊途上にある斜面に突き当たり、右方向に進路を替える。道幅はいよいよ狭く、藪はいよいよ濃い。
林道平群支線と間違えて、伐採中の山道に入ってしまう。この先は行き止まり。平群支線の分岐点には標識とプラスチックのベンチがある。
平成6年に爆発事故があり、4人が亡くなった元花火工場慰霊碑。戦国時代からの伝統であったが、事故以降は作られていない。
花火工場跡を過ぎると、林道とはいえ自然に還りつつある道である。倒木や落石もそのまま、少なくともここ数年、車は入ってきていない。
最後のガードレールがある少し先で、林道は唐突に終わっていた。
左手山側の斜面を見ると、稜線から見た崩落防止工事の形跡は見当たらない。そして、行き止まりになった先をよく見ると、斜面を上がる踏み跡らしきものが見えた。急斜面だし木の枝が伸びているけれども、登れないこともなさそうだ。
枝をかき分けて登って行くと、なんと、急傾斜の一番きついところに、上からロープが下がっている。残念なことに倒木の下敷きになっているので、安定した手掛りとはならないがないよりましだし、なにより登山道であることは間違いないのである。
ロープや太い幹や枝を手掛かりにして稜線まで出ると、錆びて穴が開いたミルク缶と森林標識標が見えた。確か、鷹取山の隣のピークである。ピークまで登って鷹取山側を見ると、例のフェンスとモルタルで補強された斜面を見ることができた。
ということは、ここを工事するために林道を通って人や荷物が来たことは、間違いない。フェンスはそれほど年数が経っていないようだし、モルタル面を見てもそれほど古い工事とも思えなかったが、林道があの状況ということは15年20年経っているのだろう。
それにしても、なぜこんな場所で土砂崩れ防止工事をしたのだろう。付近は数kmにわたり民家がないし、川も流れていないので氾濫の危険もない。植林されている訳でもない。水源でもない。ここが崩れて困るのは登山客だけであるが、房総のこんな場所はハイカーだってめったに来ない。
規模こそ違うものの、伊予ヶ岳の山頂直下でもこのような工事をしてあったことを思い出す。あちらの場合は、麓まで土砂が流れて民家に被害を及ぼすおそれがないとはいえないが、ここは本当の山の中なのである。
土砂崩れ防止工事の謎を解くべくはるばる林道を歩いてきたけれども、結局その謎は未解決のままであった。釈然としないものの、ここから先は御殿山を経由して、前回通ったコースを逆にたどるだけである。
ここの尾根歩きはアップダウンがきつく、なかなか消耗する。それも荒廃した林道歩きの後だったので、余計に響いた。息を切らせ、重い足を何とか上げながらようやく御殿山に着いた。午後1時を過ぎていた。
御殿山頂上の東屋でお昼にする。相変わらず、眼下の眺めは雄大だ。テルモスのお湯でコーヒーを淹れ、持ってきた菓子パンでお昼にする。デザートのミックスフルーツを食べていると、大黒様の方向から老夫婦が登ってきた。
「どこから登って来たんですか?」と聞かれたので、「大台山からです」と答えた。伊予ヶ岳とか大日山という答えを予想していたようで、よく分からなかったようである。ご夫婦は、前回私も停めた高照禅寺の駐車場から歩いてきたそうだ。
前日は突風が吹き翌日は雨から雪になったが、この日は風もなく暖かな1日であった。こういう日に出かけて歩くことができるのは、リタイアしたおかげである。駐車場まで戻ると3時前で、今回も日帰り入浴に寄ることができなかった。それでも、無事に行って帰ってこられたのは、何よりのことである。
この日の経過
天神郷駐車場(70) 8:55
9:30 寝不見川バス(47) 9:30
10:40 大台山(252) 11:00
12:35 モルタル法面ピーク(328) 12:40
13:00 御殿山(362) 13:30
13:45 大黒様(273) 13:50
14:40 天神郷駐車場(70)
[GPS測定距離 15.6km]
[Apr 22, 2019]
にもかかわらず、奥にもガードレールは残っていて、かつてはトラックや重機もここまで来ていたはずである。路面には落ち葉が腐葉土となり厚く積み重なっているが、その下は舗装されている。
林道末端まで進み、踏み跡と急傾斜を稜線に上がると、鷹取山の次のピークに出た。
フェンスやモルタルを見るとそれほど前の工事とも思えないのだが、あの林道を使って資材を運んだのだろうか。
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