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鶏頂山 [Oct 24, 2022]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

今年の夏から秋は気候がおかしくて、なかなか山に行くことができなかった。そうこうしている間に10月下旬になった。昨年鬼怒沼に登ったらアイスバーンになっていて困った時期である。

ついこの間まで夏日と言っていたのでまだ大丈夫だろうと10月最終週に宿を予約した。場所は日光周辺である。ところが、予約した後になって寒気が下りて大気の状態が不安定という予報である。

せっかく行くのだから、2日間別の山に登ろうと計画していたのだが、様子をみて登れるなら登ることに計画変更。10月24日月曜日の5時半に出発、一般道で栃木に向かう。茨城県に入ると、さっそく雨が降ってきた。

にわか雨はあるかもしれない予報だったけれど、本降りの雨である。その上、国道4号に入ると大渋滞。カーナビが古いからか、余計な渋滞情報は頻繁に入るが、肝心かなめの情報は入らないのだ。

遅くなったので日光宇都宮道路を使って今市へ。おみやげを最初に買ってからもみじラインに向かう。もみじラインはかなり前から無料だったが、鬼怒川有料道路も無料になっていた。ありがたいことである。

もみじラインに入る頃には雨も止んできたので、予定通り鶏頂山を目指すことにし、鳥居前の駐車場に車を駐める。鳥居から道路を挟んで反対側で結構広い。この日は私だけしかいなかった。

鳥居前に電子レンジが置いてあったので何だろうと思ったら、中に登山届を入れるようになっていた。ノートとボールペンが用意されていたので、コースと下山予定を書いておく。前日にも誰か登っていた。

鳥居に両手を合わせて登山道に入る。なだらかな歩きやすい道だ。高原山の向こう側はそれほど歩きやすくないので、かなり違うなと思いながら歩く。そして気がついた。ここはかつてのスキー場ゲレンデなのだ。

登って行く途中に、何ヶ所か案内板が残されている。いま登って行くのが鶏頂山スキー場、ゲレンデの頂点で、メイプルヒルスキーリゾート・鶏頂高原見晴スキー場と合流している。

だが、鶏頂山スキー場とメイプルヒルはすでに廃業して、リフトも取り外されてしまった。鶏頂高原見晴スキー場だけが、エーデルワイススキーリゾートと名前を変えて残っている。

ずっと昔、もみじラインがまだ有料の頃、スキー場の看板がやたら多かった記憶があるが、いまはエーデルワイスとその奥のハンターマウンテンだけである。高原野菜の売店もあった記憶があるが、登山口までの間では見かけなかった。

それはそれとして、歩きやすい道である。今年歩いた山道の中では、いちばん心地よい道かもしれない。ときどき、木の幹にウレタンが巻きつけられたまま残されている。廃業した20年前からこのままなのだろうか。

鶏頂山の登山口は、もみじラインの中ほど、エーデルワイススキー場の前にある。駐車場は鳥居からもみじラインを挟んで逆側に、二十台ほど止まれる場所がある。


登山道の途中まではかつてのスキー場ゲレンデを進む。ところどころに、昔のコース案内図が残されている。


高原山の向こう側より、かなり歩きやすい道だ。スキー場だっただけに、起伏はゆるやかで見通しも開けている。


登山口の電子レンジのところに案内が書いてあって、距離的にはゲレンデ最上部が中間点のようだ。ただし、起伏はずいぶんゆるやかなので、標高としてはそれほど稼いでいない。

最上部にはリフト機の残骸のような小屋が残されている。どうやら、ここから南西にかつてのメイプルヒルスキー場のコースがあったらしい。「このリフトの最終時間は△△時です」と書いてあるけれども、リフトもスキー場もいまはない。

ここから林の中に入るが、引き続きなだらかな道である。少し下って、また登る。鞍部のあたりに、大沼への分岐点がある。踏み跡も赤テープもある。

5分も歩かないうちに、大沼に着いた。ずいぶん水が少なくて、水際近くまで岩が出ている。向こう岸の林の上にこんもりした山が見える。方角から見て鶏頂山である。頂上あたりが、ぼんやり白くなっている。もしかすると、今朝の雨がここでは雪だったのだろうか。

登山道に戻ってしばらく進むと、弁天池である。ここまでなだらかな道だが、ずいぶんぬかるんで歩きにくい。弁天池は大沼より小さくて、確かに沼ではなく池である。

この池には祠があるとガイドブックに書いてあったが、目立つのは宗教関係の石碑群である。ずいぶんたくさんある。宗教法人木曽御嶽本教が、栃木県から借りたみたいなことも書いてある。

石碑によると、鶏頂山は天孫降臨の際に日本統一を助けた猿田彦大神ゆかりの山ということである。登山口の鳥居も、山頂の神社も、木曽御嶽本教の作ったものである。いまでも参拝登山が行われているようで、要所にプラスチック椅子が置かれている。

ここまではハイキングコースだったが、弁天池からはいよいよ登山道となる。他の山と違うのは、あまり行先案内がないことである。代わりにあるのは、「→鶏頂山山頂」の金属製の案内板で、設置しているのは下野巴教会。木曽御嶽本教の支部である。

高原山とひとまとめにして呼ばれるけれども、八海山神社や釈迦ヶ岳と鶏頂山ではだいぶ雰囲気が違う。鶏頂山というとスキー場のイメージが強いが、山はどちらかというと修験の山である。

釈迦ヶ岳はお釈迦様こそいらっしゃるものの普通の山で、行先案内板も頻繁にある。それに対して、鶏頂山にあるのは、おそらく参拝登山のためのプラ椅子だけで、信者以外の登山をあまり想定していないような雰囲気である。 ガイドブックに「弁天池から右回りのコースをとる」と書いてあったが、空から見て右回りだから向かって左のルートである。赤テープはあるけれども案内表示はない。谷沿いに進むルートで徐々に険しくなる。

倒木を越えて稜線に出ると、その向こう側は崖である。稜線を左に進むと釈迦ヶ岳、右に進むと鶏頂山である。踏み跡はそこしかないし、目の前に山が見えているので迷うことはない。

スキー場だった最上部には、かつてのリフト機の残骸らしきものが残されていた。2000年頃に閉鎖されたという。


ゲレンデ跡を過ぎてしばらくは、なだらかな道が続く。コースから少し外れた場所にある大沼。鶏頂山が白くなっているのが気になる。


このあたりから、「→鶏頂山山頂」の案内板が出てくる。設置しているのは「御嶽山下野巴教会」、木曽御嶽本教の分教会らしい。


稜線に出たあたりの標高は1700mくらいだろうか。大沼から白く見えていたあたりと思われる。

周囲の木々は白くなっているが、道には雪は積もっていない。ただ、薄い氷の破片が落ちているのが目立つ。これは何だろうか。木々に張り付いた氷が風で剥がれてきたのだろうか。

これだけ寒いと足が攣るおそれがありそうだと思う間もなく、左のヒザがいきなり痛んだ。段差のある場所で左足に体重をかけるとたいへん痛い。だから、体重をかける時は右足にするようにした。

稜線に沿って右左と山頂の方に進むが、やがてロープ場が登場する。結構険しいロープ場だ。足下が岩とか粘土質で滑りやすいので、登りはともかく下りで苦労しそうだ。

段差だけならロープがなくても大丈夫だが、滑って転ぶと危ない。しかも、ロープの手がかりとなる結び目が握りやすくできていないので、ロープだけに頼るのは大層危ない。

ただ、このところのランニングで効果があったのか、それほどバテることもなく山頂に到着した。登山口から2時間25分。コースタイムより少しかかったくらいである。

山頂には、社殿が建っている。「鶏頂山」の扁額があるので、鶏頂山神社なのだろう。周囲にはいくつか石碑や説明板がある。弁天池のあたりもそうだったが、ここは木曽御嶽本教の聖地であるようだ。

木曽御嶽本教は第二次大戦後に御嶽教から分かれた神道系の宗教で、江戸時代の修験道、山岳信仰から発展した。神社神道(いわゆる国家神道)とは別で、教派神道とも呼ばれる。

江戸時代に各地にあった木曽御嶽山の先導役(先達と呼ばれた)から宗教となったもので、教義とか教団というより個々独立した組織であった。神道系なので教典はない(あえていえば古事記)。

鶏頂山は木曽御嶽本教下野巴教会が信仰している山のようだが、ネットで調べても詳しいことは分からない。そもそも、木曽御嶽本教すらホームページを持っていないのだ。

ただ、参拝登山は定期的に行われているようで、プラスチックの椅子が登山道の要所に2つずつ置かれていた。山頂の神社前にもあったが、何年か前の写真には写っていないので、ここ数年で置かれたもののようだ。

鶏頂山というと、スキー場の山というイメージがあったのだが、天孫降臨の際に日本統一を助けた猿田彦大神を祀った山であると記念碑に書いてある。釈迦ヶ岳にもお釈迦様はいらっしゃるが、こちらは仏様ではなく神様なのであった。

弁天池を過ぎると、難易度が増していよいよ登山道となる。


釈迦ヶ岳からの稜線に合流。鶏頂山までまだ登りが残っている。。


山頂への最後の登りはロープ場が続いて結構ハード。ここをまた下ってこなければ戻れない。


だから、鶏頂山の山頂も普通の山頂というよりも山岳信仰の聖地という雰囲気である。山の頂上には神社や祠があるところが少なくないが、この山はそれだけではなく過去の信仰の積み重ねがあるように思えた。

唯一、普通の山らしいのは神社の横の木に掲げられている山名標で、「鶏頂山1765」と鶏の絵が描いてある。山名標の周囲は広くなっていて、目の前に釈迦ヶ岳、中岳、西平岳が並んで見える。その眺めはすばらしい。 これで、八海山神社から釈迦ヶ岳、ミツモチ、大入道、鶏頂山と、高原山の主だったピークを踏破することができた。実際に登ってみると、大間々駐車場からにせよもみじラインからにせよ、私では一日で歩くのは無理ということが分かった。

鶏頂山の奥にも、いくつか踏み跡が続いていた。信仰登山の山だから、この奥に何かあるのかもしれないし、もしかすると尾根沿いに下りることができるのかもしれない。1/25000図を見ると、この下に独標点が2つある。

とはいえ、ここから下りたのでは駐車場とはまったく方向違いである。ガイドブックのとおり、登ってきたロープ場を後ろ向きになって下りる。

右回りのコースの分岐にも、プラ椅子が置かれていた。こちらの道はスイッチバックの急傾斜で、八海山神社から森を下る道によく似ている。こちらの道に「→鶏頂山山頂」の看板が多かったから、参拝登山はこちらのルートをとるのかもしれない。

登りでは左ひざが痛くなって心配だったが、その後気をつけて歩いたので痛みがひどくなることはなかった。とはいえ、この日の最高標高は1765m。翌日予定している赤薙山は2000mを超える。

2日続けての山でもあり、前途は決して楽ではないと思ったのでした。

下山は少し暗くなったが、ゲレンデ跡まで下るとあとは快適だった。鳥居横の電子レンジのノートに「15:50下山、ありがとうございました」と書き足して車に戻り、この日は終了。

鶏頂山から下りて泊ったのは、ロマン新館つつじ店という素泊まりの宿で、Booking.comというサイトで予約した。税込み5,400円とたいへんお安く、温泉こそないけれど普通のビジネスホテルの部屋である。2㍑のミネラルウォーターがサービスで付いた。

この日の経過
もみじライン登山口(1235) 11:10
12:20 大沼(1475) 12:30
13:35 鶏頂山(1765) 13:50
14:50 弁天池(1511) 14:55
15:50 もみじライン登山口(1235) [GPS測定距離 8.2km]

[Dec 1, 2022]

山頂に建つ鶏頂山神社。ここも木曽御嶽本教の施設のようだ。


山頂は広くなっていて、釈迦ヶ岳、中岳、西平岳の眺めがすばらしい。


神社の横、少し離れた場所に手作りの山名標。普通の山らしいのはこれだけで、どちらかというと宗教施設のようだった。


赤薙奥社(撤退) [Oct 25, 2022]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

ロマン新館つつじ店の夜が明けた。前日雨が降ったし、大気の状態が不安定という予報なので、目覚ましを遅らせて4時半に起きる。窓を開けると、雨は降っていない。

当初の計画では4時に起きて5時には出発することにしていたが、雨だったら早起きしても仕方ないので遅らせたのだった。用意しておいたグラノーラで朝食、少し遅れて5時半に出発した。

警察署の先を右に折れて、大谷川の北を霧降方面に向かう。初めて通るが、快適な道だ。霧降大橋を右に折れて高原道路に入る。ヘアピンカーブを登り、6時前にビジターセンター前に着いた。

曇っているが、いまにも降り出しそうな気配ではない。それより安心したのは、すでに何組か先客がいたことである。みんな女峰山方面に向かうとすれば心強い。

当初の計画は、女峰山は無理でも一里ヶ曽根まで進出しようというものであった。それで、早朝の出発としたのである。一里ヶ曽根は赤薙山からさらに2時間、私の足だと麓から5時間みなければならない。

ところが、途中で見えた男体山も女峰山も、頂上には白く雪が積もっている。前日の鶏頂山のように登山道に積もっていなければ大丈夫だが、前日は標高1700m、この日は2000mを超える。登ってみなければ分からない。

まずは天空回廊である。ビジターセンター前は標高およそ1200m、終点の小丸山は1600mである。これで3度目の階段を登って行く。前日の疲れは残っていない。足取りは快調だ。

途中の避難小屋で腰を下ろすこともなく、階段でへたりこむこともなく、ゆっくりではあるが休まずに千四百段を登る。後半では板の上に霜が下りている状態で、慎重に足を置く。休憩なしで登れたのは初めてである。

小丸山では土が霜で盛り上がっている状態だった。朝のうちは歩きやすいが、融けてきたらドロドロになる上、粘土質で滑りそうだ(実際滑って転んだ)。ここから焼石金剛まで、いくつかに分かれている踏み跡のどこを通っても最後は同じ場所に出る。

焼石金剛に近づくと、登山道に雪が積もっている状態になった。ここまで休んでいなかったので、広場でリュックを下ろして水分補給。この先休める場所があるかどうか分からないので、お昼に用意したミルクフランスで栄養補給した。

このところのトレーニングが効を奏して、息が上がることはない。尾根を抜けて赤薙山に向かう林の中に入るのも、考えていたより早かった。ところが、このあたりからすごい北風が吹いてきた。

突風といってもいい勢いで、身を隠す場所もないのでまともに体に受ける。そして、前日痛んだ左ヒザがきしみ出した。そろそろ標高1800mを超えて、前日歩いていない高さである。

翌10月25日は心配された雨も降らず、午前6時過ぎに霧降高原に着くと人も車も見えたので少し安心したくらいであった。ところが、世の中そんなに甘くはなかった。


天空回廊1445段を一気に登ったのは今回が初めて。小丸山展望台から前日登った鶏頂山が見えた。


1601mの小丸山では霜が下りていたくらいだったが、焼石金剛のあたりでは雪が積もっていた。


前日傷めた左ヒザがまた痛んでしまった。なるべく体重をかけないようにしているものの、雪が貼りついている路面ではなかなかうまくいかない。

これまでの経験では、痛むのは気温と関係するようである。かつて、三条の湯に登った時も冬至の日ですごく寒かった。塔ノ岳でも房総でも、冷えた時にふくらはぎが攣ってひどい目に遭った。今回も、強風で体感温度は0℃近いと思われた。

なるべく左足に体重をかけず、しかも滑らないように安定した足場を探すのは難儀である。そして、登山道にも岩の上にも雪が積もって、どこが夏道なのかよく分からない。

だから、時々確認できる赤テープとロープ、木の幹に打ち付けられている黄色と赤の看板が頼りである。ただ、この看板が登山道を示しているかどうかは不明である。昔オリエンテーリングの目印がこれだったし、林業で使うものかもしれない(日光標識というらしい)。

何ヶ所か岩につかまらないと登れない場所があり、あるいは登山道から外れてしまったかと心配したのだけれど、赤黄看板を頼りに登って行く。赤薙山へは岩を回り込む道があったと記憶していたが、そこを通らないまま行先看板のある場所に着いた。

どうやら、赤薙山への分岐を見逃してしまったようで、ここは山頂を巻いて奥社に向かう道の合流点だった。結果的に、ここから赤薙山まではほとんど起伏なく歩いて2、3分なので、かえって楽だった。

9時15分山頂着。霧降高原から2時間50分。前回は3時間10分かかったから、足元が悪いのにかなり速く登ってきたことになる。

「赤薙山」の山名標にも神社の鳥居にも、強風で雪が吹きつけられて固まっている。この日は男体山の初冠雪だったと夕方の天気予報で言っていたが、標高2000m以上では雪だったようである。

岩の上にも雪が積もっているので、座ることも難しい。焼石金剛で休んでおいて正解である。雨は降っておらず雲も下りてきていないので、女峰山方面の眺めは開けている。

けれども、上はあきらかに白い。前日の鶏頂山はぼんやりしていたが、この日ははっきり白い。焼石金剛より上では登山道にも雪が積もっていたから、この先ずっとこうだろうと思われた。

赤薙山への登りにかかると夏道がどこだかほとんど分からない。黄色と赤の目印と赤テープだけが頼り。


赤薙山への直登ルートを見逃し、巻き道を進んでしまう。でも、赤薙山頂上まで平らで距離もほとんどなくてよかった。


赤薙山神社もすっかり雪景色。案内板に凍り付いている雪が何ともいえない。


赤薙山神社の先、奥社への道は初見である。1/25000図によると、いったん下ってまた登るが、何度もアップダウンがあるようには見えない。 分岐点の先はすぐ下りになる。結構な傾斜である。なにしろ風が強いので、飛ばされないように慎重に進む。そして、その先を見るとヤセ尾根である。もちろん、足元は雪で白くなっている。

両手を使って鞍部まで下りる。振り返ると、地図では標高差20mほどしかないはずの斜面が、もっとずっと長いように見えた。だが、ここから奥社まで基本的にずっと登りのはずだ。こういう足元では、下りより登りの方が歩きやすい。

前年の鬼怒沼での経験があるので、この日はチェーンアイゼンを用意していた。しかし、雪も氷もそこまで厚くないので、チェーンアイゼンに向いた路面ではないような気がした。岩の上で滑ったら、かえって危険である。

そして、岩と交代で木の根がやたらと出てくるので、なんだかかわいそうな気がしてチェーンアイゼンは付けなかった。その分、滑りやすさはひとしおである。

そして、赤薙山から奥社まで、いったん下った後は登るだけと思っていたら、結構アップダウンがあるのだった。しかも、足元が悪いので通過に時間がかかる。歩きやすい尾根道では決してない。

岩の間の切り通しのような場所を抜け、ピークを巻くような場所を抜ける。進行方向に小高いピークらしきものが見え、その後は下っているようだ。40分ほど歩いたので、もう奥社かと思うけれども何も案内表示がない。

広くなっている場所で、スマホを使って現在位置を確認する。ところが、なんとその場所は奥社まで半分も来ていない2080mの小ピークだったのである。

少し進んで前方を窺う。ここから奥社へは再びいったん下ってまた登る。標高差は100mほどの計算だが、もっとずっと高いように見えた。そして、麓から見ると赤薙山と奥社はほとんど区別つかないピークなのだが、実際はずいぶん遠いのであった。

ここまででも相当難儀したのに、さらに標高の高い場所を登らなければならない。まだ時間もあるし、息も上がっていない。体力的にはまだ余裕があったけれど、転倒・滑落の危険があるのに進むのは無謀である。

一里ヶ曽根どころか奥社ピークにも着けずに撤退するのは残念だが、仕方がない。ここまでで引き返すことにした。

赤薙山から女峰山方面の展望は開けているが、どう見ても上は雪が積もっている。


鞍部へ下りて赤薙山を振り返る。地図では標高差20mなのだが、それ以上あるように見えた。


そして進路方向。尾根が細い上に岩に雪が積もって滑りそうだ。


まだ時間はあるし、体力的にも余裕がある。しかし路面の難しさはどうしようもない。いろいろ考えて、安全第一。今回はここで撤退することにした。

撤退すると決めた以上、雪が積もっている場所に長居は無用。ともかく安全地帯まで一刻も早く避難しなければならない。最終進出地点の小ピーク付近で何枚か写真を撮った後、そそくさと帰路につく。

帰りは、赤薙山には寄らず、分岐から巻き道を通って下ることにした。それでも、分岐まで50分、往きよりも時間がかかった。こういう路面状況で、登りよりも下りに時間がかかるのは仕方がない。休まずに歩いているのだが。

何とか焼石金剛まで下ると、暖かい訳ではないのに霜は融けてしまっていて、粘土質の湿った滑りやすい地面になっていた。慎重に下りたにもかかわらず、滑って尻餅をついて泥だらけになってしまった。

唯一の収穫は、ガイドブックに載っている焼石金剛の祠を見つけることができたことである。丸山寄りのルートの、案内表示の足元近くにあった。それほど分かりにくい場所でもないのに、どうしてこれまで見つけられなかったのだろう。

小丸山展望台まで戻って、ようやく一息つく。テルモスに用意したお湯はここまで使わなかったが、ここでインスタントコーヒーを淹れて飲む。お湯はぬるくなってしまっていた。外気温が低いからだろう。

前々回は天空回廊だけ歩いて引き返し、前回は奥社を目指して赤薙山までしか歩けず、今回は一里ヶ曽根を目指して奥社手前の小ピークまで。どうやら、ここの尾根とは相性が悪いようだ。

階段を通らず遊歩道を使って遠回りしたにもかかわらず、午後2時前には下山してしまった。事故なく下りれたのは何よりだったが、これだったら日帰り温泉に寄っても家まで戻れる時間であった。

ビジターセンター前に戻り、泥だらけの靴を洗っていると、ビジターセンターの方に「女峰山まで行けましたか」と訊かれた。「とんでもない。奥社の前までです」と答えたのだけれど、奥社の前ともいえないような場所なのだ。

車に戻ると、車外温度は6℃と表示されていた。この日は鬼怒川でもう一泊。セブンのマーボ豆腐と鶏肉でビール。夕方からまったり過ごした。

この日の経過
霧降高原ビジターセンター(1329) 6:25
6:55 小丸山展望台(1583) 7:05
8:05 焼石金剛(1876) 8:15
9:15 赤薙山(2010) 9:20
10:05 小ピーク(2070) 10:20
11:10 赤薙山分岐(2010) 11:10
12:05 焼石金剛(1876) 12:05
13:05 小丸山展望台(1583) 13:20
13:55 霧降高原ビジターセンター(1329) [GPS測定距離 6.4km]

[Dec 30, 2022]

赤薙山から1時間近く進んでも、奥社までの半分も進んでいない。ここから先さらに路面状況が悪くなるはずなので、撤退することにした。


帰りの稜線からの景色。この日は風が強く眺めはよかったのだが、下界と山では条件が違うことを思い知らされた。


これまで見つけられなかった焼石金剛の祠をようやく見つけたのが、数少ない収穫だった。


日光鳴虫山 [May 22, 2023]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2023年5月は急に暑くなった。

20日にもならないのに、もう真夏日である。このまま涼しくならなければ、とてもじゃないが山歩きという気候ではない。日中の散歩はすでに難しく、早朝に歩いているのは私だけではない。

このまま真夏になったら嫌だから、その前に山に行くことにした。そそくさと宿を予約して、2泊3日で日光を企画した。22日から数日は、前の週には晴れ予想であった。

ところが出発3日前になって予報が急変した。日本海に低気圧ができて、雨になるという。そう言われても、宿はもうキャンセルできない(しても全額キャンセル料である)。仕方がない。大雨にならないことを祈るしかない。

奥さんに「大雨だったらもう1日泊まるかもしれない」と言ったところ、「どうぞどうぞ。2泊でも3泊でも泊まってきてちょうだい」と返されてしまった。とはいえ、おカネの余裕はない。日光近辺で1泊5千円の宿をようやく見つけたくらいなのだ。

5月22日、午後から降るかもしれないという予報なので早出する。4時半に家を出て、国道297号線に入り茨城県を北上。鹿沼で東北道に乗って日光まで高速に乗る。これだと高速料金が千円以下で済むのだ。

8時前には神橋に着いて、24時間営業の西参道市営駐車場に止める。まあ、次の日も使う予定だから予行演習を兼ねていいだろう。入口で700円入れると、カードも何も出てこない。出る時に何も出さないのだ。何日も続けて止める奴はいないのだろうか。

この日は市内のハイキングコースを鳴虫山に登る。駐車場から駅前の方に戻って、御幸町のあたりに登山口がある。ぐるっと回って5時間ほどで戻って来るコースである。

市内だし、それほど標高が高い訳でもないので、この日は軽く準備運動のつもりだった。ところがこれが、とんでもないことになるのであった。

日光街道をゆるく下って行く。旧日光市役所の重厚な建物を右手に見て、閑静な住宅街に入る。少し入っただけで、観光地の喧騒とはまったく別の静かな地方都市の住宅街となる。違うのは、有料駐車場の案内が多いことぐらいだ。

スマホの地図を見ながら、川を渡って登山口に向かう。生活道路から左に登山道が分かれる。いきなり、うっそうとして暗い。そして急登である。まあ、最初のピークである神ノ主山まで標高差300mくらいあるので、多少の急坂はあるだろう。

ひと登りすると、T字路に突き当たる。どちらにも道案内はない。右には崩れかけた鳥居と小さなお社がある。天王山神社である。まず、こちらにお参りする。

大きな石碑があって、ここには皇室との由緒について書かれているらしいが、彫りが浅く消えかけているので読めない。小さな石像もいくつかあるから、かつては信仰を集めたのだろう。二礼二拍手一礼でご挨拶する。

T字路に戻って、左に進む。やがて、日光市の設置した案内板がある。まるでワープロの縦拡大のような字体が妙だが、鳴虫山はこちらでいいようだ。そして、二色の日光標識もみつかる。これを見ると、日光に来た気がする。

この時点での心配は、天気の崩れが早く、登っている最中に雨に降られることだった。

空もどんよりしていて、森の中なのでいっそう暗い。それほど時間がかかるコースではないから、ちゃちゃっと歩いてしまおうと思っていた。もちろん、そんな訳には行かなかった。

これは2日後に撮影した写真。日光市街から立ち上がっている高い峰が鳴虫山である。


登山口からひと登りで、天王山神社に着く。鳥居も崩れかけており、石碑の文字も読むことができない。


神ノ主(こうのす)山に向かう稜線には、赤テープとともに日光標識と呼ばれる二色の目印が木に打ち付けられている。


神ノ主山(こうのすやま)への登りは、傾斜はそれほどでもないが木の根が張り出しており、ところどころ岩もあってたいへん歩きにくい。

木の根を踏むと滑るし、足元が定まらない。だから木の根を避けて土の上に踏み跡ができているのだが、そういう踏み跡もずっと続く訳ではなく、進んだ先が斜面に至って岩を登らなければならない羽目になる。

何度か足をぶつけて痛い思いをしたが、まあこれくらいたいしたことはない(と思っていた)。最近のトレーニングの甲斐あって、ほぼコースタイムの1時間で山頂に着いた。

ここからは霧降・赤薙山方面の展望がいいとガイドブックに載っているけれど、そもそも木々が繁って展望が開けていないし、樹間からは市街と向こう側の山の中腹が見えるばかりである。天気がよかったとしても、素晴らしい展望とはいかないだろう。

まだそれほど疲れていないし、雨が心配なので先に進む。鳴虫山へはまだ標高差260mほどある。

ところが、1/25000図で見るとほぼ登る一方のように読めるのだけれど、実際は結構なアップダウンがある。そのうえ、木の根と岩が登山道を覆っているのもこれまでと同様である。ハイキングコースにしては厳しい道だ。

顕著なピークを一つ越えて、次のピークが鳴虫山と思っていたら、着いても何の標識もない。案内標識には「←日光市街 憾満ヶ淵→」とあるのでここが鳴虫山でもおかしくないがとスマホで確認すると、まだその前の1058mピークだった。

気を取り直して先に進む。アカヤシオはすでに散って登山道は花びらで一杯である。山頂近くなってようやく、まだ花が残っている木を1本2本と見ることができた。

コースタイムを20分ほどオーバーし、神ノ主山から1時間20分ほどかかって鳴虫山到着。さすがに山名標がある。だったら1058mピークの案内標識は、「憾満ヶ淵→」ではなく「鳴虫山→」と書くべきだろう。

かつて展望台があったらしいが、それほど広くない頂上である。しかも、ベンチやテーブルもない。横倒しになった木材が3つほど並んでいて、仕方がないのでそこに座る。地面も木材も湿っていた。

あまりゆっくりできる場所ではなかったが、朝食も早かったのでここでお昼にする。菓子パンとミネラルウォーターだけである。それでも、雨に降られないうちにここまで来れてよかった。

逆方向からシニア夫婦が登ってきたので、荷物を片付けて出発の支度をする。そこで気づいたのが、登山ズボンの裾が赤く染まっていることであった。

何だろう、ブドウの汁なんて付いた覚えはないけどなあと思いながら裾をめくって驚いた。ソックスが血みどろである。

ソックスをめくって見てみると、CW-Xと登山靴の間、足首のスネ側から出血している。まさに大出血であるが、傷口そのものはたいへん小さい。とりあえずバンドエイドを貼ってソックスを戻した。

木の枝や岩に何度もぶつけたのは覚えているが、出血するほどの傷とは思えなかった。見た目より深いのか、あるいは動脈でも傷つけてしまったか。いずれにしてもそれほど痛みがないのが不幸中の幸い、ともかく下山しなければどうしようもない。

鳴虫山までの登りは、木の根が張り出した歩きにくい道で、何度も木や岩に足をぶつけた。それほど痛まないので気にならなかった。


登山口から1時間ほどで神ノ主(こうのす)山に到着。木々が繁ってほとんど展望はない。


さらに1時間20分ほどかかって鳴虫山に到着。かつては展望台があったという。ここで足首から出血していることに気づき、バンドエイドで応急処置したのだが。


鳴虫山頂を後にすると、いきなりの急階段である。こう配もきつく、しかも足板が湿っているので滑らないよう用心しながら下りなければならない。傷口が心配だったが、とりあえず痛みはない。

階段が終わると、次はロープである。地面は滑りやすく、ロープは湿ってコケが生えている。ロープをつかみたくないので、頼らず下るようにしなければならない。

鳴虫山からほどなく、合峰というピークに着く。「がっぽう」と読み、ガイドブックには「合方」と書いてある。ここはもともと修験道の拝所で、おそらく「合方」が古来の呼び名だろう。

石の祠があり、ここから北方向に沢筋を下るのが修業道である。現在は、そちらに入らないようトラロープが引かれている。見た感じでは、踏み跡はそれほど濃くない。

尾根筋でも急傾斜なのに、沢に下るとすればさらに急こう配である。合峰(合方)から先も引き続きロープ場が連続して全く気が抜けない。後ろ向きに下ったり、いったん腰かけて下りる連続である。

三点確保ができなければ危ないハイキングコースというのも、妙なものである。普通、市で整備しているハイキングコースは小学生でも歩いて大丈夫というイメージだが、ここはロープこそ張ってあるが江戸時代の山伏が修行したそのままの道だ。

標高差50mくらいの急こう配を何度か下った記憶があるのだが、登り返して独標ピークに着くと、山名標に標高925mと書いてある。まだ、鳴虫山から200mしか下っていないのだ。

山名標の後方に「この先登山道はありません」と立札があり、トラロープが張ってある。この先は昔の登山道があったところで、現在は廃道となっている。ハイキング客や昔の道を覚えている人が入らないようにしているのだ。

ただ、すでに1時間下ったから、コースタイムどおりならあと1時間で麓に着くはずだ。天気は何とか持っている。山頂近くで水滴が落ちてきた気がするが、林の中の道なので体に当たることはない。

独標ピークを過ぎると、ようやく下る一方となり安心する。依然として急傾斜で気を抜けない道が続くけれども、後ろ向きになったり腰を下ろすほどの難所は出てこなかった。そして、15分か20分下った頃、眼下に人工物らしきものが見えてきた。

道幅も広がって、このまま進むと発電所があるらしい。だが、案内標識は太い林道から再び狭い登山道を示している。上から見えた人工物は発電所の施設だったようだ。

案内された細い道は発電所のフェンスに沿って下って行く。見るからに寂しげな道で、大きなヘビと気味悪いカエルがいてびっくりした。発電所を過ぎても、しばらく憾満ヶ淵には着かない。

鳴虫山からの下りは、ずっと急傾斜でロープ場が続く。ハイキングコースだというから甘く見ていたら、とんでもない話だった。


日光修験の拝所だった合方(合峰)を経て独標点。ここまで急傾斜の登り下りが続いて結構バテた。


スイッチバックが延々と続くが、ようやく人工物が見えて下山口となる。太い道から右に入るよう指示されるが、大きなカエルやら蛇がいてびっくりした。


独標から憾満ヶ淵までコースタイムで50分の下りだが、私は1時間10分かかった。急こう配が続くので、あまり急いだら転倒のおそれがあり危険である。少なくとも、小学生がるんるんで歩けるコースではない。

憾満ヶ淵は明治時代には絵葉書でもよく紹介された名所だそうで、百体に及ぶ並び地蔵がある。開国直後にはいろは坂もないし、名所は馬返しより下に限られただろうから、この場所も広く紹介されたのだろう。今日では、おそらく地元の人以外あまり知らない。

もう一つ大きいのは、明治時代に大きな洪水が起きて、並び地蔵の多くが流されてしまったことがある。お地蔵様とともに寺(慈雲寺)もあったのだが、それも流されてしまった。復原されたのは近年である。

一番大きなお地蔵様は今市まで流されたというし、いまも頭がなかったり、台座しか残っていないお地蔵様がある。これは廃仏棄釈の影響ではなく、洪水による被害だそうである。

ちょうど並び地蔵の前が下山路である。見に来ている人は何組かいたけれど、半分以上が外人客である。あるいは、いまでも外国のガイドブックには日光の外せない名所として紹介されているのだろうか。

ここから含満大谷橋を渡って住宅地に入るとすぐに日光街道である。「含満」と地名で使うのだからもともとこちらの書き方で、「憾満」は後から作られたものであろう。15分ほどで西参道市営駐車場に戻ったら、ちょうど本格的に雨が降り出した。

さて、この日の宿は鬼怒川のホテルロマンだったのだが、着替えようとソックスを脱ぐとまだ血が噴き出している。鳴虫山から6時間経つというのに、これはおかしい。応急措置で付けておいたバンドエイドは血みどろで剥がれている。

とりあえず傷口を洗い、マキロンで消毒して5分くらい押さえる。しかし、指を離すとすぐまた血が出る。とりあえず、大判のバンドエイドで傷口を押さえ、さっきマキロンを買いに行ったばかりのドラックストアまで再度車を走らせる。

薬剤師さんに状況を説明すると「それはヒルじゃないですかね」と言われた。でも、ヒルが吸い付くのは素肌のはずで、ソックスを突き破って吸血されるというのは想定外である。

とりあえず、キズ用の軟膏と大判のバンドエイド、救急ガーゼ、ビニール袋とバンテリン足首サポーターを購入。結構な追加費用になってしまった。

ホテルに帰って本格的に手当てする。1時間前に貼ったばかりの大判バンドエイドはすでに血まみれで、傷口をよく消毒して軟膏を念入りに擦り込む。新しいバンドエイドを付け、ソックスを履き、上からビニール袋で包んでサポーターを付ける。

これだけ保護すれば、宿の畳や布団を汚さずに済むだろう。そして、軟膏が効いたのかサポーターがよかったのか、翌朝見ると出血は止まっていた。

そして、サポーターのあざが取れてみると、傷口は本当に小さく、しかも打ち身の跡もないし腫れてもいない。何より、ネットに載っているヒルの傷口とまったく同じ形である。岩や木ではなく、ヒルにやられたのだ。

まさか、厚手のソックスの上から血を吸われるとは思ってもみなかった。洗濯したけれども、穴も開いていない。粗い網目をかいくぐって皮膚に達したのである。

そして、CW-Xと登山靴の間、ソックスだけになっている場所は幅2cmもないくらいである。よくピンポイントで探り当てたものである。帰ってから奥さんに「吸ってる間に見つけなくてよかったじゃない」と言われた。

確かに、血を吸って膨れ上がったヒルを見たら、肝をつぶして登山口に引き返したかもしれない。

この日の行程
西参道市営駐車場(607) 8:05
8:30 登山口(559) 8:30
9:30 神ノ主山(842) 9:40
11:10 鳴虫山(1104) 11:25
12:40 独標(925) 12:40
13:50 憾満ヶ淵(660) 13:50
14:10 市営駐車場
[GPS測定距離 9.5km]

[Jun 22, 2023]

鳴虫山から約2時間で憾満ヶ淵に下りる。いい景色の川だが、かつて洪水で並び地蔵を流したことがある。


憾満ヶ淵の並び地蔵。いくつか首がなかったり台座しか残っていないものもあるが、これは明治時代の洪水で被害を受けたもの。


鳴虫山頂で気づいた出血は、岩や木ではなく、ヒルによるものだったようです。このソックスの上から吸血されていた。当日は血まみれでしたが洗濯したら穴もあいてなかった。

黒岩尾根五禅頂修業道 [May 24, 2023]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

鳴虫山の翌日は一日中雨で、1日順延せざるを得なかった。前の週には晴れ予報だったのに一転して雨で、しかも栃木全域に雷注意報が出ている。さすがに停滞することにした。

そうなると五禅頂修業道は翌24日となり、24日に予定していた図書館調べを23日に早めることになる。24日は下山日なので、家まで車で帰るのは難しい。仕方がないので追加で東横インを予約した。

前日の鳴虫山でヒルに吸血され血が止まらなくなったが、翌朝には止まった。サポーターを付けて寝たので朝は足首から先が黒ずんでいたが、それが取れると小さくかさぶたになっているだけである。後遺症の心配はなさそうだ。

さて、図書館で何を調べるのかというと、昔修験道で修行に使ったという道についてである。池田正男著「日光修験・三峯五禅頂の道」という本がいちばん詳しそうだ。

ところがこの本、国会図書館の他には栃木県内の図書館にしか置いていない。日光市内の図書館は、3ヶ所ともこの本が置いてあるので、もし誰か貸りていても1冊はあるだろう。せっかくだから、行く予定にしていたのだ。

しかし、天候上やむなく1日ずらすことになり、登る前日に調べることができたのはかえっていいことであった。というのは、江戸時代の山伏(修験者)が実際に歩いた日程等も載っていたからである。

それによると、登りでも下りでも、唐沢宿(現在の唐沢避難小屋)から一之宿(行者堂付近)までは丸一日の行程で、途中の八風でお昼をとったらしい。

もちろん、修行だから拝所ごとにお勤めがあり、お経を唱えたり九字を切ったり法螺貝を吹いたので時間がかかるのだが(四国お遍路と同じである)、山伏以上に速く歩くのは無理だろうから、一日で女峰山往復などとんでもないことなのであった。

ガイドブックには夏なら日帰り可能みたいに書いてあるし、WEBではそういう記録もあるのだが、山伏でもできないことが私にできるとは思えない。それ以上に心配なのは、暗くなった時に歩ける道なのか、休んだり雨宿りする場所があるかどうかである。

あれこれ考えて、黒岩の先、遥拝石を目的地とすることにした。ここは、雲竜渓谷を挟んで赤薙山を拝む場所で、女峰山への稜線を望む絶好のロケーションという。ここで引き返せば、無理のない時刻に下山できるだろう。

だとすればそれほど早起きしなくてもよさそうだったが、前日を休養日にしたので午前3時に目が覚めてしまい、4時過ぎにはホテルを出発できた。西参道市営駐車場に着いたのは5時前である。

前々日に1度止めているので、カードが出ないことも分かっているしトイレの場所も確認してある。準備をして5時過ぎに出発。まずは二荒山神社へと石畳の道を登って行く。

鳥居のところにお賽銭箱があったので、お賽銭を納めて二礼二拍手一礼で登山の安全をお願いする。神社の左に石畳の道が登っていて、この道は行者堂へと続いている。

女峰山五禅頂登山道は二荒山神社から始まる。まず石畳を左に進んで行者堂を目指す。


石段を20分ほど進むと役行者を祀る行者堂に着く。お堂のレベルまで上がると、左に「女峰山→」の案内と登山ポストがある。


登山道はいきなり急登である。林道と合流するがすぐに分離し、急登を登りつめると目の前に巨大な殺生禁断境石が現れる。


行者堂石段下の心細い道が進路かと思ったら、お堂レベルまで登ると左手に案内標識と登山ポストがあった。けれども登山ポストに用紙は備え付けていなかった。ポストの横からいきなり登りが始まる。

結構きつい登りがしばらく続く。標高差30mほど登っていったん緩やかになり、やがて林道と合流するあたりで平地になる。林道にはいったん出るものの、50mほどで再び登山道に入る。

江戸時代以前には、壱之宿という根拠地があって、修行者たちはここに寝泊まりして修業に出たという。女峰山に登るだけではなく、ここから二荒山神社や輪王寺、東照宮にもお参りしたというので、唐沢避難小屋より規模は大きくなければならなかっただろう。

だとすると、それくらい広さのある場所は林道合流のあたりだろうか。ちょうど滝尾神社の西にあたるので言い伝えとも合致する。問題は水場の確保だが、林道を下りるとあるのかもしれない。

再び登山道に戻ると、分かりにくい登りである。一面木が倒れてどこを歩いても登れそうだが、ところどころ岩があるので注意しなければならない。赤テープと日光標識で正しい道であることを確認しつつ進む。

ひと登りすると、目の前に巨大な「殺生禁断境石」が現れる。たいへん巨大な一枚岩で、どうやってここまで上げたのだろうと思う。近くにもう一基あるということだが、笹原の中なのか見つけることができなかった。

殺生禁断というと、ここより上では殺生してはいけないという意味だが、ここより下は二社一寺、上は女峰山である。さすがにここより上が大丈夫という意味ではないと思うが、ここより下で狩りをしてもよかったのだろうかと疑問に思った。

殺生禁断境石を越えてしばらくは、そこそこの斜度の登りが続く。何しろ、ここは「日光のバカ尾根」という異名があり、女峰山までずっと登りが続く。急登かなだらかに登るかの差があるだけである。

前日の休養がよかったのか、このあたりペースはそこそこである。もう1基の境石を探しながら登って、結局見逃したようなので次の拝所である稚児ヶ墓まで休まないで行ってしまおうと思ったくらいである。

稚児ヶ墓に近づくと、笹原の中にアカヤシオが咲いている。前々日の鳴虫山ではほとんど散ってしまっていたが、ここはまだ残っている。ということは、鳴虫山の標高である1100mくらいまで登ってきたということだ。

少し困ったのは、道を半ば以上笹がふさいでいて、それが前日の大雨で濡れているものだから、登山靴もスラックスもびしょびしょになってしまったことだった。スパッツは持ってきていない。しかも左足の靴紐がほどけてしまっている。

しかし、腰を下ろして結び直すスペースは全然ない。道間違いをするおそれはないものの、止まることもままならないのであった。殺生禁断境石から30分で稚児ヶ墓到着。少し広くなっていて、ようやく靴紐を結び直すことができた。

稚児ヶ墓はこの先の難所で転落死したお稚児さんの墓で、お地蔵さんの台座に「児墓」と彫られている。

お稚児さんというと、時節柄ジャニーズ事務所を思い出してしまうが、お慕いする修行者を追いかけて登ったという。その墓の横に石の祠があり、何枚かのお札が納められている。江戸時代以前からの修験道の拝所である。

ただ、ベンチがある訳ではなく、腰かけられるのも湿った木だけである。そもそもこのルート、ベンチは出てこない。これから上でも、平らな岩か傾斜のない笹原に座るしかないのだ。

稚児ヶ墓はこの上の修行道で転落したお稚児さんの墓という。お地蔵さんの台座に「児墓」と刻まれており、その横に五禅頂の拝所がある。このあたりアカヤシオが満開。


これまでずっと林の中だったが、寂光石と呼ばれるあたりで景色が開け、左に男体山が顔をみせる。この少し先に水場の案内標識がある。


笹原の中に「水呑」の石碑が立つ。江戸時代の日付で、当時は拝所のひとつだったらしい。


稚児ヶ墓を過ぎてもしばらく張り出した笹原の道が続く。少しずつ標高を上げていくと、やがて林の中から出ていきなり景色が広がる。これまで麓からずっと見通しがきかなかっただけに、2時間ぶりに胸がすく思いである。

左手に男体山が顔を見せた。山裾に見える駐車場は明智平だろうか。中禅寺湖は見えないが、街並みが見えるのは中宮祠に違いない。

水場の案内標識のあたりが、修験道の拝所であった寂光石という場所である。笹原の中に巨岩があるということだが、残念ながらどれがその岩なのかよく分からなかった。水は十分あるので水場には寄らず先を急ぐ。

再び林の中に入る。引き続き周囲は笹原である。ササの中に石碑が現れた。水呑碑である。「安永九」年と江戸時代の日付が彫ってある(1780年、240年前だ)。水場から結構距離があるのに「水呑」とは妙だが、近くに水が出るような場所はない。

水呑碑から少し登ると、林の中から白いものが見えてくる。稚児ヶ墓の下からしばらくアカヤシオが続いたが、ここからはシロヤシオである。少しだけアカヤシオが混ざっているけれども、ほとんどシロヤシオでこちらも満開である。

そのシロヤシオの咲いている下に、白樺金剛の真新しい案内標識と石の祠がある。「白樺金剛」とは、このあたりに白樺があったことから名付けられたもので、もともとの拝所の名前は「若多」という。

白樺金剛からは比較的木々がまばらになる。進行方向左側は景色が開け、沢に下る広大な斜面が望める。モッコ平というらしい。

右側は樹間から赤薙山から丸山にかけての稜線がのぞいている。左右の林の一番前には、シロヤシオが植わっている。きちんと並んでいるので、植樹されたものだろうか。

シロヤシオを見ながら、ゆるやかな傾斜が少しずつ急になる。林を抜けると、いきなり岩場である。路面状況がまったく変わるから戸惑う。ひと登りすると、頭上に十字架の形をした標識が見えてきた。八風である。

標識の字が見える側に立つと、目の前が180度開けている絶景である。はるかに見えるのは日光市街。今朝あそこから出発したのかと思うと感慨無量である。右手には中宮祠から男体山。やはり中禅寺湖は見えない。

現在の八風は黒岩の麓付近にあるが、かつての拝所である八風はもっと下だったらしい。だから、修験者達が昼食をとった場所も岩の上ではなく、シロヤシオあたりの傾斜が緩くなった場所のようだ。

ではなぜ「八風」の標識が現在の場所に立っているかというと、お墓のあったお稚児さん伝説によるのである。お稚児さんが転落したのは八風という言い伝えだが、転落するような場所はここまで登らないとない。

シロヤシオのあたりも、登山道をずっと離れると分からないが、基本的に歩けるところは足場もしっかりしているし切り立った場所もない。ところが八風標識からは一転して岩場となり、滑ったら数百m転がってもおかしくないような斜面である。

八風の下まではいかにも日光らしい登山道なのだが、八風を越えるとまるで尾瀬の燧ヶ岳である。ここまで赤テープだったのが、岩に黄色いペンキの丸とか矢印に変わる。

そしてその先は、まるで男体山の薙のトラバースのようなガレ場・ザレ場の連続である。しかも、いま通過している黒岩は一部だけが薙ではなく、山体ほとんどが薙なのだ。

ここまではアカヤシオだったが、白樺金剛あたりからはシロヤシオが現れる。


八風の標識が立つのは黒岩の岩場に入るあたり。遠く日光市街、右に中宮祠を望む絶景である。


ここからはガレ場とザレ場が続く。男体山でいうところの薙のトラバースがしばらく続く難所だ。


黒岩下のガレ場・ザレ場を通過するのに20分ほどかかった。ところどころ矢印が見えなくなるのと、いったん抜けたかと思ったら再び薙になってしまうのである。

行く手に急斜面の林が現われる。その斜面の前が広くなっていて、赤薙山からの稜線とその間に落ち込んでいる雲竜渓谷がさえぎるものなく見える。左手に一番高いのが女峰山のはずだ。

古びた木の標識が立っているが、書いてある字が読みにくい。近づくと「遥拝石|黒岩」とある。右のピークが黒岩であるのは確かだが、遥拝石はどれだろう。広場の先端にある岩だろうか。

9時45分に着いたので、駐車場からは4時間半かかったことになる。ほぼコースタイムで登ることができたのは、われながら上出来である。

案内表示の先にあるのが遥拝石だとすると、黒岩寄りの渓谷に向けた先端にある平らな場所は何だろう。岩が護摩焚きでもするように整えられている。ただ、その先にあるのは女峰山ではなく、赤薙山である。赤薙山神社を拝んだものだろうか。

五禅頂の五とは、男体山、女峰山、太郎山、大真名子山、小真名子山である。もともとこの五山に登ることから五禅頂と名付けられた。ただ、このあたりには他にも顕著なピークがあり、それぞれを拝むこともあったに違いない。

眺めのすばらしい場所まで出られたので、ここを最終目的地として引き返すことにした。唐沢小屋まで行く時間はありそうだが、女峰山まで登って下りるのは難しい。だったら無理することはない。まず、薙のトラバースっぽい黒岩下の通過である。

このあたりであれば、お稚児さんが足を踏み外して転落ということも十分ありうる場所である。いまであれば目印もあれば踏み跡もあるけれども、昔はそんなものはない。黒岩まで登るのがかつての修行道だったので、もっと厳しかったかもしれない。

八風標識まで下ったあたりで、この日初めて自分以外の人とすれ違った。シニアの単独行で、私が遥拝石まで行ってきたというと、私もそこまで行くと言っていた。

「ここまで2時間半」と言っていたので、私よりかなり速い。そのペースであれば女峰山まで行って帰って来ることができるだろう。実際、下りの稚児ノ墓で再び抜かれてしまった。

本来の八風とみられるあたりで、斜面に腰をおろしてお昼にした。男体山を目の前にした、すばらしいロケーションである。テルモスに入れてきたお湯でココアにして、アンパンを食べる。計画通り登れたご褒美に、マンゴージュースを飲んだ。

11時ちょうどまで休んで、腰を上げる。登りと同じくらい時間がかかったとしても、日の高いうちに戻れるはずである。

ガレ場を抜けると遥拝石の拝所。ここからは雲竜渓谷をはさんで女峰山から赤薙山の稜線がさえぎるものなく目の前に現れる。


小広くなった平地の先端には、かつて護摩でも焚いたのではないかと思われる場所がある。この先は断崖絶壁。


右手にはいま回り込んできた黒岩。この頂上にも拝所があるらしいが、ペンキの示す登山道は八風標識から遥拝石に続いている。


下りでは、笹原の水滴に悩まされることもなく、シロヤシオやアカヤシオを楽しみながらのんびり下ることができた。

昼食をとったシロヤシオ上の斜面から水場のあたりまでは、休みを入れないで歩いた。水場の標識で、せっかくだから行ってみようと足を止めた。

標識の方向に進むと、下り坂を少し下るだけで小さな流れにぶつかる。アカヤシオの落ちた花びらでいっぱいの沢である。沢の水自体それほど多くないことし、どこが水場なのかよく分からない。

加えて、前日の雨のせいか地面が水たまりだらけで、ぬかるんでたいへん歩きにくい。小川沿いまで出たあたりで、上から声がしたので戻ることにした。

今度は2人連れで、シニアというほどの年齢ではない。リュックは小さかったので、私と同様黒岩・遥拝石あたりまでと思われた。この日すれ違ったのはこのあとの単独行1人を合わせて4人。その単独行の人は大きなリュックだったから、唐沢小屋泊まりと思われた。

注意して殺生禁断境石のもう一基を探したのだけれど、見つからずに巨大な境石まで下りてしまった。ここからは足元の暗い林間の急坂である。

もし女峰山まで進出できたとして、うまく行って5時間、普通に考えて6時間近くは余計に時間がかかったはずである。境石を下って林道まで出たのが午後1時過ぎ。6時を過ぎたらあたりは真っ暗になるはずである。

そして、行者堂のすぐ近くまで、足を踏み外したら危ない場所があったから、早めに見切りをつけて戻ってきたのは正解だった。仮に下りることができたとしても、さらに時間がかかったのは間違いない。

ということは、男体山と同様、このコースを進んだのでは女峰山まで登ってその日のうちに下りてくることは難しいという結論に達した。そのことが分かっただけでも、この日この道を歩いた意味は大きかったといえる。

この日の行程
西参道市営駐車場(607) 5:15
5:45 行者堂(740) 5:45
6:25 殺生禁断境石(923) 6:25
6:55 稚児ヶ墓(1120) 7:05
8:05 水呑標石(1405) 8:05
8:25 白樺金剛(1500) 8:30
9:15 八風標識(1805) 9:20
9:45 遥拝石(1870) 10:00
10:35 シロヤシオ上緩斜面(1740) 11:00
11:50 寂光石水場(1300) 12:10
13:20 林道出合(870) 13:25
14:20 市営駐車場
[GPS測定距離 14.9km]

岩場を下りて、シロヤシオ上の緩斜面でお昼にする。修験者達がお昼を食べた八風は、標識の場所ではなくこのあたりらしい。


下山途中では、まずシロヤシオ、続いてアカヤシオが目を楽しませてくれる。


水場の標識があるあたりは寂光石という拝所があったという。水場はアカヤシオのすぐ下あたりだが、この日はあまり水は出ていなかったようだ。


女峰山 [Jul 5, 2023]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

何年も前から、女峰山を目指して歩いた。

最初は霧降高原から赤薙山。この時は女峰山まで行けるとは思わなかったけれど、その後何回も挑戦して、女峰山どころか一里ヶ曽根も無理ということがよく分かった。

この夏は二荒山神社から黒岩尾根の修行道を登ってみたけれど、やはり遥拝石までが日帰りの限界だった。

必ずしもピークに立たなければならないものでもないが、こう何度も途中でくじけるのは面白くない。可能性があるとすれば、男体山と同様に梵字飯場跡から林道を登るコースだが、このコースは距離が長いので日の長い時期しか挑戦できない。

いろいろ検討して、夏至近くに日光市内で前泊、朝早く男体山林道へ走ることにした。男体山のときは「おおるり」に泊まったのだけれどいまはない。安く素泊まりできるホテルは、湯元にも中宮祠にもないのだ。

もうひとつの心配は天気である。梅雨時なので不安定なのは仕方ないが、6月中はとうとうチャンスがなかった。ぐずぐすしていると夏休みに入って道路も山も混むし、夜明けもどんどん遅くなる。

7月最初の週末は雨だったが、週明けの火曜日が大丈夫のようだ。前回もこうやって予報を信用したら、急変して大雨で1日停滞せざるを得なくなったけれど、迷っていても仕方がない。3日月曜日からの2泊3日で宿を予約した。

前泊は「トレイルイン日光今市」。最近増えているコンテナで作られたホテルで、オープン記念でお安くなっている。セルフチェックインで誰もいないのが不安だが、鬼怒川に泊まるよりかなり時間が節約できる。

トレーラーハウスのひとつがフロント棟で、本当に誰もいなくてタブレットでチェックインする。手続きに時間がかかる上、冷房が付いていないのでサウナのようである。何とか手続きでき、示された暗証番号で客室に入る。

部屋そのものはビジネスホテルと大差ない。ただ、この夜はすごい雷雨で、打ち付ける雨の音がうるさかった。隣の客室音は聞こえないが、雷や雨の音は響く。翌日の山道が心配になりつつ眠った。

翌7月4日。アラームで3時に起きる。朝早いけれど、物音を立てても気を使わないのはいい。4時に出発すると、西の空にだいだい色の満月が見えた。夜中の雨雲は遠ざかったようである。

日光道からいろは坂を登り、梵字飯場跡まで約1時間。湯元にあったホテルおおるりは10分ほどで、たいへん便利だった。おおるりとともに、湯元にはコンビニもなくなり(おおるり内に1軒だけあった)、安い素泊まり宿もなくなってしまった。

梵字飯場跡に到着すると、プレハブの事務所が建って駐車スペースが幾分か狭くなっていた。さすがに梵字、私の前におひとりすでに車を止めて仕度していた。この方が、この日出会った唯一の登山者であった(他に工事関係者が3名)。

前泊したトレイル・イン日光今市。夜中に雷雨で、翌日の山道がどうなるか不安になった。


梵字飯場跡駐車場。2年前にはなかった建設会社のプレハブがある。


1時間半歩いて志津峠。ここまで舗装道路の裏男体林道、ここから先砂利道の志津林道となる。


林道の先の方が工事中で、飯場跡には「現場まであと10km」と表示されている。距離的にみて、この日歩く馬立分岐よりさらに先に現場があるらしい。この距離表示は1kmごとにあり、目安になってたいへん便利だった。

5時25分に歩き始める。この日は眠くて仕方なかった。3時起きとはいえ、アラームが鳴るまで寝ていたのも珍しいことである。重い足でがんばって1時間半、志津峠に着く。

前回はここから志津小屋経由男体山だったが、今回はさらに先に進む。平らな石に座って、カロリーメイトと水で栄養と水分を補給したら、だんだん調子が戻ってきた。とはいえ、先は長い。

志津峠から先は、名前が変わって志津林道となるが、規格も少し下がって砂利道となり道幅も狭くなる。それでも特に歩きにくく感じなかったのは、緩やかな下り坂だったからに違いない。帰り道ではずっと登りとなり、疲れた体にかなり響いた。

30分ほど歩くと通行止の真新しいゲートが現われる。歩行者は横の隙間を通って先に進む。ここまでゲートがなかったのは、駐車禁止なだけで通行禁止ではなかったかららしい。そういえば、昔の記録をみると志津峠に駐車してある写真をみかけることがある。

ゲートを通過するとかえって道幅が広がり、路面も平らになった。これは今回の工事で大型ダンプが通るための改修のようで、この日の午後も工事中の業者さんを見かけた。

「現場まで10km」のキロポストも、志津峠で5kmとなり半分を過ぎた。残り4kmを過ぎたあたりで、道が左に大きくカーブして、正面から林道が合流する。これは日光市内から登ってくる野州原林道である。

志津峠では右手に男体山の頂上が見えていたが、進むにつれて西側の斜面となり、このあたりではずいぶん低くなる。野州原林道はこの山腹を市内から登ってくる。市内は標高600mほど、このあたりは1700mだから、標高差1000mほど登ることになる。

さて、「現場まで3km」「現場まで2km」を過ぎてもまだ馬立分岐には着かない。工事に使用するためか砂利が敷かれて広くなった場所があるが、分岐かと思って近づくとただの広いスペースだった。

進む方角が90度ずれて北になったため、正面にひときわ高い山並みが見えるようになった。大きなピークが3つ。左から、小真名子山、帝釈山、女峰山である。女峰山までまだ遠いし、標高差も相当ある。でも、梵字飯場跡から2時間以上歩いて、ようやく目標が見えてきた。

馬立分岐はまだかなあと思っていたが、実は野州原林道合流からは一転して登り坂で、それで余計きつかったのである。往路ではまったく気づかないのだからお気楽である。8時近くなって工事のトラックに抜かれた後で、やっと馬立分岐に着いた。

道の左側にも右側にも行先表示があって、見逃さないように注意喚起している。ここから先は本当の山道、3時間近く歩いてこの日はじめての山道となる。歩き始めは足元が定まらず、道も狭く滑って心細い。

馬立分岐が近づくと、ようやく景色が開けて小真名子山、帝釈山、女峰山が見えてくる。


馬立分岐。表示がたくさんあった工事現場はまだ1kmちょっと先のようだ。


3時間近く歩いて、ようやくこの日初めての山道。とりあえず岩が並ぶ馬立の河原まで下りる。


まず、沢まで標高差100mほど下る。最初は急斜面、次いでスイッチバック、沢が見えてくると上流側に少し歩く。道は終始斜めっていて滑るし、えぐれて歩きにくい。沢まで下りると、水は見えず、巨岩の間を目印に沿って進む。

この日、女峰山頂まで岩に「〇」「←」「→」のペンキ印のある場所は3つあって、この馬立の岩場が一番短い。沢を渡ると「馬立」の標識がある。「馬返し」はずいぶん下のはずだが、ここまで馬が来たものだろうか。

馬立で道が2つに分かれ、右に下りると「裏見の滝から日光」とある。とはいえ、裏見の滝まで標高差1000m近くあり、2時間や3時間では着かない。途中にモッコ平という果てしなく続く笹原があるらしい。女峰山へは左の登り坂を進む。

急斜面を想像していたが、最初は比較的緩やかな坂道である。沢沿いの道ではありがちなパターンで、進めば進むほど急になるのだ。「建設省貸与」と書いた石柱に沿って進む。下りで見たら、逆側には「栃木県」と書いてあった。

進行方向右手は少し先で地面がなくなっており、かなり先に向こう側の斜面が見える。開けた所で見ると、ここは崩れかけの沢で、下に大きな砂防ダムの堰堤があった。斜面は鉄の網で補強されている。

「建設省貸与」の石柱が見えなくなると斜度が増す。ここで一度、道間違いをした。上流から水を引いているようなビニール管が見えたのでガレ場をそのまま進んだら、薮になり進めなくなったのである。

引き返すと間もなく、日光標識があり正規の道を確認できた。その後は、日光標識やテープを見失わないようにした。幸い短時間でリカバーできたが、房総のときのように15度違った方向に延々と進めば遭難である。

間違えかけた道のような、枝をかき分けなければ進めない場所はなく、基本的に一本道である。私の道間違いは、このようなガレ場と沢の見間違いが多い。筑波山でもあったし、秩父でもそうだった。

1時間ほど登ると、大きな木がちょうど座れるように横倒しになっていたので、ここでひと休みする。GPSで確認すると標高1980mほどで、馬立から唐沢小屋までの半分、前回到達した修行道の黒岩遥拝石と同じくらいの高さであった。

ここから先いよいよ急斜面で、スイッチバックを息を切らせながら登る。とはいえ、ロープ場や手を使わなければ登れない段差はなく、きついだけである。30分ほど登ると、遠くから水の音が聞こえてきた。

ここが馬立に続く2番目の岩場「〇」「→」マークで、ここだけは水が流れている。馬立はここよりずいぶん低いのに水が見えないのは、岩の下にもぐってしまうのだろうか。流れがあるので渡渉しなくてはならないが、靴の高さには全然届かない。

大きな沢と続いて小ぶりの沢があって、2回渡渉する。見上げるとかなり上までガレ場が続いている。唐沢小屋はあの上だろうか。いずれにしてもここが唐沢小屋の水場で、江戸時代もここに水を汲みに下りてきたのだろう。

馬立の巨石群。これからの登りで、岩に「〇」「→」の印のある場所は頂上まで3ヶ所出てくる。


馬立分岐から2時間歩いてようやく唐沢小屋に到着。もうすぐだと思ったら、まだまだ先は長かった。


五禅頂時代からの歴史ある不動明王石像。唐沢小屋の左隣に建つ。


水場からさらに30分近く登る。ガレ場に沿った斜面で、危険防止のロープが引いてある。そろそろかと思って左を見ると、いきなり小屋が見えた。2階建ての白い大きな建物、かつての唐沢宿である。

午前10時半、梵字飯場跡から5時間、馬立分岐から2時間以上かかった。しかし、ここまで着いたからには、何としても女峰山頂上をきわめなければならない。

登る途中、沢の下流から早くも霧が登ってくるのが見えた。女峰山周辺には何度も来ているが、午後になると不思議と霧が登ってくるのだ。小屋と並んで立つ不動明王石像に手を合わせ、休みもそこそこに頂上に向かう。

唐沢小屋から頂上まではガレ場の連続かと思っていたら、まず林間の急傾斜をずいぶん登らなくてはならない。かなり上まで林は続いていて、「唐沢」と立札のあるガレ場まで20分以上かかった(おまけに、下りではここで道を間違えた)。

そして、女峰山のメインイベントともいうべきガレ場である。この日3つめの「〇」「→」ペンキ印だが、前回の黒岩ガレ場に比べるとずいぶん短い。しかし、ザレになっている箇所は足を置くとずるずる滑ってたいへん歩きにくい。

浮石だらけで、歩くたびに小さな石が斜面を転がっていく。近くに誰もいないのが救いである。薙をトラバースして、脇の斜面を登る。ここもまた長い。コースタイムは登り45分下り30分とあるが、登りも下りも1時間かかった。

息を切らせて登ると上の方にプレートのようなものが見える。近づいてみると、明治大学ワンダーフォーゲル部の慰霊碑だった。「この地に倒れ唐沢小屋にて永遠に眠る」とある。驚いたのはその日付で、昭和51年6月、亡くなった方の年齢は十九歳と書いてある。

昭和51年は、私が大学に入った年である。その年に19歳ということは、学年も同じか一つ上である。もしかすると、新人歓迎登山で事故に遭ったものだろうか。思わず手を合わせた。

(検索したがこの事故のことは分からなかった。関係ない記事ばかり出てくる。Googleは昔はこんなじゃなかったのだが)

慰霊碑から5分ほどで女峰山神社、一段上が頂上である。神社には、例によって五禅頂のお札がお供えされていた。頂上には誰もいなかった。この日の登山者は私だけだったようである。

人間はひとりだったが、トンボが無数に飛んでいるのと、アブだかハチの羽音が騒がしくて寄ってくるのが煩わしかった。日光はどこに行っても虫に悩まされる。山頂に立ち、四方向を見渡す。

いよいよメインイベント、女峰山直下のガレ場。足場が定まらず、半端なく滑りやすい。


女峰山頂上。この日はトンボと虫の天下で、他に誰もいないのに長居できませんでした。


頂上のすぐ下に女峰山神社があるが、それほど広い場所ではない。


登る途中に霧が上がってきたので覚悟していたものの、日光方面は白く曇って男体山も白根山も見えない。見通しが利いたのは北方向で、栗山村の山々と、その向こうに燧ヶ岳の頂上が顔をのぞかせている。

東側は、何とか見えているのは三角点峰とその1つ向こうのピークだけで、赤薙山も霧降高原も見えない。きっと向こうからはこちらが雲の中だろう。三角点峰も行ければよかったが、時間的に厳しかったので断念した。

頂上まで6時間少々かかった。12時少し前に下り始める。計画していたうちでも遅い時間になったが、暗くなる前に下山することができそうだ。心配されるのは、急に雷雨になることである。すでに霧降方面はそうなっているかもしれない。

唐沢小屋への下りで、左方向、小屋の上あたりにピークが見えた。2359ピークと思われる。ここはかつての五禅頂で錫杖嶽と呼ばれた拝所で、独標点にもなっている。独標なので道はあるだろうが、どうやって行くのだろうか。

ここで、この日2度目の道間違いをした。林間のガレ場を下りていて、登山道から外れてしまったのである。GPSを見ると数十m右にずれているので、登り返して正規の登山道に復帰した。それほど時間ロスはなかったと思う。

唐沢小屋まで下りると、すでに霧であたりは白くなっていた。頂上から下りるのに1時間かかってしまったので(コースタイム30分ではちょっと無理である)、少し休んで出発する。

さて、小屋には「水場まで10分」と書いてあるのだが、とてもそんな時間では着かない。無人小屋だから山慣れた人を想定しているし、水場往復は空身だろうけれど、そんなに急いだら滑ってケガをする。私は水場まで20分かかった。

「水場」と書いてある太いパイプから出る水と、流れの中に引かれた黒いホースから出る水があるが、私は黒いホースから水を汲んだ。一口飲んでびっくりした。

ずいぶん前になるが、甲武信ヶ岳直下の信濃川源流の清水を思い出した。どのような水か心配で予備の水を用意していたが、そんな心配などまったく無用であった。

前日に市内では雷雨だったが、この水は間違いなく地中深くで濾過され冷やされた水である。空のペットボトルに500ml詰めて、飲みながら下った。志津峠まで約3時間、その間ずっと冷え冷えの水で回復を図ることができた。

帰り道では志津峠までの登り坂に体力を殺がれたが、心配していた雨に降られることもなく、まだ太陽が高い午後5時半に梵字飯場跡に戻ることができた。登り下りで約12時間、久々に体力をフルに使った1日でした。

この日は後泊で東横インをとってあったので、着替えて汗を拭いてから中禅寺湖畔を走り、いろは坂を下って、日光道経由鹿沼まで高速を使った。翌日は太もも、ふくらはぎ、ハムストリングが痛んだが、2日したら回復した。

これで念願だった女峰山も制覇し(残念ながら三角点峰はのがしたが)、日光方面の懸案がひとつ片付いた。とりあえず思うのは、この次は12時間も歩かなくてすむよう、ほどほどの山にしたいということである。

この日の経過
梵字飯場跡(1500) 5:25
6:40 志津峠(1785) 6:50
7:55 馬立分岐(1800) 8:00
9:10 標高1980付近(1980) 9:15
10:25 唐沢小屋(2240) 10:35
11:40 女峰山(2483) 11:55
12:55 唐沢小屋(2240) 13:05
15:10 馬立分岐(1800) 15:15
16:15 志津峠(1785) 16:25
17:30 梵字飯場跡(1500)
[GPS測定距離 22.5km]

[Aug 31, 2023]

赤薙山方向はほとんど霧の中。近いのは三角点ピークと思うが、思ったより遠くにあるので断念した。


日光方面はすべて霧の中で、かろうじて見えていたのは栗山村から尾瀬方面だけだった。


「10分」と書いてあるが、実際は唐沢小屋から20分かかる水場。でも、すごくよく冷えた清水で、この日の苦労が報われた。


朝日岳遭難事故、高齢者4名凍死

朝日岳で遭難、死者4名と聞いたときは、滑落事故だと思った。続報で低体温症だというからちょっと驚いた。滑落して動けなくなったなら分かるが、普通に歩いて低体温症だとしたらそんな日に登る方が間違いである。

私が朝日岳に登ったのは2年前。つい最近なので、よく覚えている。景色はよかったが、シニア登山者のマナーが悪く、大勢で行儀悪いのが印象的だった。

当時の記録にも残してあるが、朝日岳の肩にある数少ないベンチに、リュックを置きっぱなしで占領したまま山頂に向かっていた。山の上で平気でタバコを吸っているじいさんもいた。

ニュースでは「ちゃんと登山用の服装をしていた」と言っていたけれど、服装はともかく登山のルールやマナー、スキルが伴っていたかどうか、正直言って分かったものではない。

「天気がよければ小学生でも登れる初心者コース」と繰り返していたけれども、それも誤解を招く表現である。天気が悪いと状況が激変するなら初心者コースではないし、そもそもあの岩場急登は危ない。滑落の危険は相当にある。

那須連峰に何度も登っているというベテランがインタビューに「こんな風はいままで経験したことはない。危ないから引き返してきた」と答えていたように、自分のスキルで登れるか登れないか分からずに引き返せなかったということである。

山は怖い、天候急変に用心せよというけれど、槍や白馬ではなく那須である。駐車場から朝日岳まで直行すれば3時間程度、峰の茶屋休憩小屋から1時間少々なのだから、滑落はともかく低体温症は避けられただろうと思う。

少なくとも1組は滑落した結果、低体温症になったらしい。滑落については、私が登った時登山道の補修をしていた人が、「こんな場所に小学生が登ってほしくないんですがね」と言っていたのを思い出す。

その時も、毎年の恒例登山だという小学生の団体が登っていた。恵比寿大黒岩から朝日岳の肩まで岩場で、滑りやすい上に道幅も狭く鎖場もある。担任が見ている程度でガイドのようにはいかない。滑落したら自分では登ってこれない。

この日は、東北地方を低気圧が通過中で、雷雨、竜巻、突風に注意とちゃんと天気予報で言っていた。おそらく、3連休の行楽気分で、駐車場から2~3時間なら大丈夫と思ったのだろう。

そして、NHKの説明フリップによると、遭難したのは朝日岳の肩よりも下で、峰の茶屋に比較的近い場所のように見える。峰の茶屋まで下りだから20~30分で、いくら強風だといっても風が止むのを見計らって動けば、1本道だし凍死することはなさそうだ。

だが実際には、通報があった6日には救助隊が入山できず(ロープウェーは強風で運休)、翌7日に4人が遺体で発見された。

遭難した一人と同行していた登山者は自力で下山し、途中で動けなくなっている人を見たというから、それほど頂上に近い場所ではなかったのだろう。(と同時に、普通のスキルがあれば下りられたということでもある)

天候急変は予報で言っていたことだし、避難小屋から1時間以内の場所で低体温症になるようなら初めから登ってはいけない。強風なのだから滑落の危険も増すし、救助隊が来ても来なくても自力で下山するのが登山の鉄則である。

登山道の状況もよく調べず、天気予報も見ていないとしたら、酷な言い方だが中高年の不用意な登山ということになるだろう。服装云々ではなく、登山に対する姿勢が問題である。私自身も気をつけなくてはならない。

[Oct 19, 2023]

少し前に登ったばかりの朝日岳で遭難があったと聞いて驚いた。あの場所なら滑落事故かと思ったら低体温症(疲労凍死)。亡くなったのはすべて高齢者で、防げる事故だったように思う。


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この図表はカシミール3Dにより作成しています。

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この図表はカシミール3Dにより作成しています。

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