せいうち・・・セイウチ科セイウチ属の肉食獣で、北極圏に生息する。体重は成獣で500kgから1200kgに達する。最初は減量日記で始まりましたが、日々は移ろい、リタイア生活の徒然日記になりました。
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181 山歩き後のお風呂はたまらない   182 結婚40周年   183 今年の冬は結露が少なかった
184 67歳になった   185 丸坊主一年   186 山は雨、急きょマラソンの下見
187 67歳まで生き残れた2つの幸運   

山歩き後のお風呂はたまらない ~せいうち日記181

秋から筑波山ばかり行っている。奥多摩も丹沢も秩父も熊が出るというし、房総は車が混む。県境を過ぎるとほとんど渋滞がない筑波山方面にどうしても足が向く。

奥多摩だと家を5時に出ても登山口には8時半だが、筑波山だと7時には登り始めることができる。この差は大きい。50代なら往復7時間の移動でも大丈夫だが、60代後半では無理。行くなら泊りがけになってしまう。

さらにうれしいのは、昼過ぎに下山できるから、日帰り温泉に寄って来る時間的余裕があることである。奥多摩・丹沢でもお風呂に入らないと汚れたままで嫌だが、電車時間の制約があるので、いつも温泉に寄れるとは限らない。

筑波山周辺にはいくつか日帰り入浴施設があって、下山口によって選ぶことができる。筑波山神社近くならつくば湯、つつじヶ丘からは八郷温泉ゆりの郷、加波山まで進めばあけの健康館、そして帰りがけに寄るならつくばウェルネスが便利である。

他にも、宝篋山の近くにつくば市民研修センターなどいろいろあるが、最近ごひいきなのは上にあげた4つである。いずれも浴槽や洗い場が広いし、湯上りに休憩場所もある。値段もそんなに高くない。

正確にはつくばウェルネスは清掃工場の余熱再利用施設だけれど、温泉とはいっても単純泉だからたいして変わらない。山歩きした後に体を流して湯舟に浸かると、まさに極楽である。

若い頃ゴルフをした後もクラブハウスのお風呂に入ったけれど、このようにリラックスすることはできなかった。入浴後に打ち上げがあるし、帰りも遠い。スポーツジムの後もお風呂に入るけれど、家に近すぎるので他の用事が気になる。

筑波山くらいの距離だと、近すぎず遠すぎず、また渋滞も心配しなくて済むので、ほどよくリラックスできる。その日の山歩きを反省したり、次どこに行こうか考えたりするのは楽しい。もっとも、考えようとしても気持ちよすぎてできないのだが。

ホームページにも全国各地の温泉記事を載せているように昔から温泉は好きだが、どちらかというと硫黄泉とか鉄泉とか変わったお風呂に興味があった。お湯に浸かること自体を楽しく思うようになったのは、最近である。

あとどのくらい足腰が動くのか分からないけれど、できればもうしばらくの間は山歩きしたり温泉に入ったりしたいものである。

[Jan 17, 2024]

山歩き後のお風呂はたまらない。夏に汗を流してさっぱりするのもいいし、冬に冷えた体を温めるのもまたたまらない。若い頃はあまり感じなかったが、歳をとるごとに体が求めるのが分かるようになった。


結婚40周年 ~せいうち日記182

建国記念日は私の子供の頃にはなかった。だから学校も休みでなかった。

復活したのは1966年、東京オリンピックの後である。言うまでもなく、敗戦により廃止された紀元節を復活させたものであり、当時は天皇制打倒の立場から反対する人達が結構いた。

天皇制打倒などというスローガンを目にしなくなって久しいが、学生運動華やかなりし頃は、そういうビラが大学構内や街頭に数多く貼られていた。同じような人達が、中国・北朝鮮は労働者の楽園だと言っていた。今や昔である。

私が結婚したのは1984年なので、もう祝日に反対する人は多くなかった。しかし、当時の職場はまだ週休1日であったため、土曜日が祝日の11日を移動日にし、12日に式を挙げたのであった。職場が大阪で、式は東京だったのである。

それから40年経ち、今年は結婚40周年である。25周年の銀婚式と50周年の金婚式はみんな知っているが、40周年はほとんど知られていない。ルビー婚式だそうである。ルビコン河を渡るみたいだ。

就職については後からいろいろ考えるし、もっと他にやり様があったのではないかと思えるが、奥さんと知り合ったのは最初の職場である。同じ職場でなければ出会うこともなかっただろうから、これも縁なのだろう。

その後2度職場を替わり、住む場所も2度変わった。40年は長いけれども、過ぎてしまえばあっという間である。ともかくも、家族そろって健康で、さしあたり困ることもなく暮らしているのはありがたいことである。

昔、中国の誰かが言っていたことには、住む場所があって、今日明日食べるものがあって、家族そろって健康であれば、それ以上を求めるのは贅沢である。最初に読んだときは、それだけじゃないだろうと思ったが、さすが中国四千年の歴史で、そのとおりである。

若い頃は、未来はもっとすばらしくなると思っていたけれど、少なくとも株価は変わらない。誰もがうらやむ境遇なんてものはなくて、ストレスをできるだけ少なくするのが手に届く幸せである。差し迫って困ることがなければ、それ以上求めることはない。

結婚記念日にはここ数年、ワインを開ける習慣である。記念日にはプレゼント交換とかは商売をしたい人達がいうことで、お祝いするのは「モノ」よりも「経験」であり「イベント」が適している。

ボルドーは7~8年熟成させた方がおいしいので(たまに酸化させてしまうが)、新酒の時に買ってエノテカに保管してある。あと10年分くらい在庫があるので、金婚式まで大丈夫そうだ。

[Feb 12, 2024]

今年で結婚四十年になりました。結婚式の翌日も、三十周年も大雪でしたが、今年はそんなに降らなくてよかったです。


今年の冬は結露が少なかった ~せいうち日記183

冬になると気づまりなのは家じゅうが結露することである。わが家はセントラルヒーティングでないので、暖房がない夜中は冷える。特に雨戸(シャッター)のない2階は、朝になるとどの窓も結露がびっしりである。

ペアガラスになっているのだが、経年劣化のため結露はほとんど防止できない。古くなったタオルで窓枠、窓ガラスをひととおり拭くのが冬の日課であった。

3年前には最低気温が-7℃という尋常でない寒さになったが、今年は直近の観測点である我孫子の最低気温が-3.5℃、-3℃を下回った日も4日しかない。

おかげさまで、結露も少なかった。年によっては結露を通り越して凍ってしまい、サッシが開かなくなることがあるのだが、そんな日もなかった。山のように用意した古タオルも、それほど出番がなかったのはかえってうれしいことである。

先週は放射冷却で朝は冷え込む予報だったが、曇ったくらいで結露というほどではなかった。週末には初夏みたいな陽気になり、3日後には春分の日だから、そろそろ結露のシーズンも終了である。

こうして家のこまごまとした用事をするのは、リタイアしてからである。現役時には会社に行って帰ってくるだけで精一杯で、家のことまで気が回らなかった。築後二十年以上になるが、遅ればせながら手入れしてそれほど古びた家にはなっていないと思う。

外壁や内装で傷んでいるのは、新築から半年で襲ってきた雹(ひょう)による被害と、3.11大震災の影響である。雹では屋根がやられサッシも粉々に割れて保険のお世話になり、いまでもところどころへこんでいる。何しろ野球ボールくらいの巨大な雹で、その時の車は行平鍋のようになって廃車せざるを得なかったくらいである。

震災ではいろんなものが倒れて、石膏ボードがへこんだりクロスが破れたりした。しばらくして保険屋さんが来たけれども、10年経っているし少々の傷はいいですと特に請求しなかった。雹の時のように、そのままで住めない傷ではないからである。

毎朝の最低気温が比較的高かったため、電気・ガス代も安くすんだ。燃料価格が落ち着いてきたことで単価が低くなり、使用量が減ることで請求額が抑えられたのである。ウクライナ以前に比べると高いものの、地球温暖化は悪いことばかりではないと思ってしまう。

[Mar 18, 2024]

今シーズンは結露が少なく、毎朝の結露拭きが比較的楽だった。


67歳になった ~せいうち日記184

早いもので、誕生日が来て67歳になった。60代になったからなのかリタイアしたからなのか、最近時間が経つのがますます速くなった。

この冬も、マラソン大会に備えてトレーニングし、本番のレースを走っていたら半年が過ぎた。ランニングを再開して3年目、糖質制限はもうすぐ5年になる。

ジムでトレーニングして、お風呂で体や筋肉の具合をみる限り、若い頃とそれほど変わらないし、4、5年前より見栄えがよくなった。糖質制限で体重を絞ったおかげである。年齢を考えれば、がんばっていると言えそうである。

65歳を超えると死亡率は1%を超えて、統計的に言えば100人に1人以上お亡くなりになる。65歳から67歳までに当たり籤を引く確率は50分の1、トランプ1枚と同じである。ポーカーをやっていた当時、出てはいけない1枚は実にしばしば出た。

そう考えると、大きな病気もせず(糖尿病はさておき)、体を動かしていろいろ楽しめるのは、幸いなことである。日々の努力だけでなく、幸運に恵まれていることも確かである。感謝しなくてはならない。

さて、67歳ということは、70になるまであと3年ということである。引いてはいけないカードは100枚中3枚。2デッキで3枚だから、結構高い確率である。

70になってもいまの体調と運動能力、頭の働きを維持できているならば、高齢化に向けて最初のハードルはクリアしたといえるだろう。このあたりに住んでいる人はたいていその年代だが、かつての職場は十指に余る先輩方が70以前にお亡くなりになっていた。

高齢化といえば判で押したように老後の生活費という話になるが、おカネより間違いなく大切なのは心身の健康である。最小限の収入が前提だと言われるかもしれないが、最小限は人それぞれだし工夫することができる。

少なくとも、老後資金2千万円とか3千万円という話はわが家には無縁だし、無理だ。現役の頃のようにいろいろ旅行したりいいワインを買ったりすることは難しくなったが、他に楽しむ手段はいろいろある。

という訳で67歳になったが、やりたいことは年齢とは関係ない。暖かくなったら山にも出かけたいし、秋になったらまたマラソンである。年甲斐もなくというわからず屋がいたら「お前だってその歳になるんだ。馬鹿野郎」と言い返すだけである。

85歳でこういう人もいるんだから、67くらいで遠慮してはいられない。


4月8日は67歳の誕生日である。この歳になって誕生日がめでたい訳ではないが、今年は諸物価高騰と資金繰り難のため誕生日間際までいろいろ工面しなければならず、めでたいどころではなかった。

やむなく電気・ガス代を未払いのままにしていて、15日の年金支給日まで安心できない日が続く。なかなか誕生日気分になれないのも無理はない。

小さい頃はお釈迦様と同じ日と言われたものだが、中学・高校と進むにつれてそれほど珍しくもないことが分かり、大人になるとそんなに偉くなれないことも分かった。

ただ、お釈迦様は出家して悟りを開いた方なので、アーリーリタイアしてストレスの少ない生活を送っている点では共通点があるかもしれない。おそれ多いことだが。

日本にはお寺は多いけれど、ご本尊として釈迦如来や釈迦三尊を祀っている寺は少ない。というのは、いま仏教といわれているのはもともとお釈迦様の教えである原始仏教ではなく、大乗仏教でもなく、日本の風土に合わせたローカルな仏教になっているからである。

ローカルな中でも、聖徳太子とか鑑真の頃はまだお釈迦様の教えに近いものの、鎌倉仏教になるとまったく違うものになる。いま日本のお寺の大半で阿弥陀如来や薬師如来、大日如来、観音菩薩がご本尊なのは、鎌倉仏教だからである。釈迦如来本尊は古いお寺だけである。

さらに明治以降となると、仏教系と名乗っているだけでもはや宗教とはいえない。病気を治す、災厄を払うというのは昔からなのでまだ分かるが、信者同士で商売したり、上納金を納めさせるなどマルチ商法というと怒られるが。

半世紀前にはまだ農村社会の名残りが残っていて、ほとんどの家はどこかの寺の檀家だったから日本人の多くは仏教徒といえたかもしれないが、現代はそういうこともない。仏壇を置くのも先祖崇拝であって、仏教ではない。

いま、こうしてアーリーリタイアして入ってくるおカネで生活しているのは、仏教系新宗教よりお釈迦様に近い生活かもしれない。少なくとも、現世利益だけに執着してはいない。

お釈迦様の修行と共通点があるとすれば、何年か続けている糖質制限とランニングである。糖質制限ではお米やラーメンだけでも控えるようにしていて、それが健康維持にかなり役立っている。

ランニングも一昨年、三十年ぶりくらいに復活したのだけれど、この歳で気づくことも多い。先だってハーフマラソンに初挑戦して、予想以上にバテてしまった。遅ればせながら走る距離を伸ばしている。

先月は、はじめて月間200kmを超えた。ハーフマラソンを走るには1ヶ月でその6倍、126kmを走ればいいというのがセオリーで、月に150km走っているので大丈夫と思っていたら、私の場合それでは無理だったようだ。

だから月に200kmに増やしたのだが、すると10kmを超えて15~16kmくらいまでそのままのペースで走れるようになったのである。もちろん練習と本番は違うけれど、この歳でも練習を増やすと効果が感じられるというのは少し驚いた。

お釈迦様も晩年になって法華経(妙法蓮華経)に到達し、これが究極の教えとされるから、人間死ぬまで修行なのかもしれない。

[Apr 9, 2024]

4月8日はお釈迦様と同じと小さい頃言われたものだが、お釈迦様は出家して修行し悟りを開いた方なので、生き方としては共通点があるかもしれない。(写真:法隆寺HPより釈迦三尊像)

丸坊主1年 ~せいうち日記185

頭を丸坊主にしたのは去年のゴールデンウィークだったから、ちょうど1年経った。

ローテーションは2日置きに髭剃り、6日置きに頭剃りである。髭剃りは貝印カミソリ、頭剃りはジレットを使う。WEBで永平寺のお坊さんがジレットを使うと書いてあったからである。

替刃を替えるタイミングは、髭剃りが1ヶ月、頭剃りが2ヶ月である。切れ味が鈍くなってくるので、続けて使うとどうしても剃り心地がよくないし、ケガもしやすい。幸い、頭剃りで出血したことはない(見えないだけかもしれない)。

このローテーションだと、1ヶ月にかかる費用はシェービングフォームを入れても500円未満。1000円カットの半分以下である。1000円カットは昨今のインフレで1200~1300円になっているし、丸坊主でなくても髭剃りは要るから、さらに差が開く。

奥さんの言うことには、最近じいさま連中が1000円カットに押し寄せるようになって、いつも満員盛況だそうである。物価の値上がりほどには年金は上がらないから、どこかにしわ寄せが来る。理髪なんてどこでやってもそんなに変わらない。

そして、理髪店自体も経営が苦しくなって、昔のように個人営業の床屋さんをほとんど見ない。わが千葉ニューではすぐ横が農地で農家もかなり残っているのだが、パーマ屋さんはあっても床屋はない。

おそらく店主の高齢化で、跡を継ぐ人もおらず、次々と閉店していると想像される。まして、車で10分もかからない場所に、1000円カットが5~6店舗ある。昔は普通の床屋さんに行っていたであろう年金生活者も、なじみの店が閉店すれば慣れなくても新規を開拓しなければならない。

そして、頭を刈ること自体はほとんど同じである。髭は剃ってもらえないが、そもそも2、3日置きに自分で剃らなければならない。自動機に現金を入れて利用券を買わなければならないが、電車と同じですぐ慣れる。

そうして年寄りがどんどん1000円カットに来ることになるのだが、価格競争の行き着くところ、自分で刈った方がもっと安いということになる。スポーツジムでも丸坊主の人を何人か見るが、自分で剃っているのだろうか。どっちも同じという話ではあるが。

ブラウンの電動髭剃りも昔は使っていたけれど、剃り心地がどうしてもカミソリに劣るのと、肌荒れが気になってジレットにした。最近は毎回消毒してくれる機械も出ているようだが、費用対効果の点でどうなのだろうか。

剃り心地で劣る上に、購入価格もランニングコストも高いとなると、手軽で便利とはいえ使う側としては二の足を踏む。とはいえいまは刑務所でも、電動髭剃りにする人が多いとYouTubeでやっていた。

頭を丸坊主に刈るようになって1年経った。1年床屋に行かないようになるとは不思議である。最近は1000円カットに年金生活者が増えているらしいが、自分で剃ればもっと安く済む。


家のすぐ裏に水田が広がっていて、ゴールデンウィークには田植えが行われる。この時期マラソン練習は午前8時頃走ることになるが、田植え機や軽トラが道いっぱいである。

日本の人口はどんどん減っていてコメの需要も当然頭打ちであるが、わが家近くの水田は休耕田がほとんどない。谷間の奥まったところまで水が引かれている。印旛沼周辺は、江戸時代からのコメどころである。

いまの主力品種は日本中どこでもコシヒカリで、南魚沼産ほどではないが印旛のお米もおいしい。味に差がつかなければ、消費地に近い方が輸送コストの分有利である。房総では宮内庁ご用達の多古米が有名だが、印旛沼の方が水はおいしいはずである。

作業を指揮しているのは私より十は上であろうお年寄りで、やせて色黒なのが特徴である。若夫婦と孫が手伝っていて(孫は遊んでいるだけだが)、若夫婦はそろって色白でやせ型である。昔、農家のおばさんはたいてい太っていたが、いまやそういうことはない。

先だって、有識者による人口戦略会議とかの組織から発表があって、今後30年で全国自治体の半数近い747が消滅する可能性があるらしい。今後30年で私自身が消滅するのは9割方(99%か?)確実だからどうということはないが、報道のされ方が妙に意図的な印象がある。

というのは、自治体が成り立つかどうか税収と公共支出の観点からだけしか検討していないからである。再生産可能な女性人口だけに注目するのはその表れで、それを言い出したら日本そのものが消滅危険国家であろう。

いまのライフスタイルを続けるならば、日本全国平均して危険水域で、それをランキングして消滅危険とか維持可能とかいっても、椅子取りゲームの実況中継をしているだけである。

少子化をどうしても回避したいならイランのように男女差別するか、少なくとも男女平等に制限を加えるしかないが、先進国スタンダードのポリティカルコレクトネスからそれが許されない。ならば、移民自由化とか若い世代を増やす抜本的な対策を構想するしかない。

話は戻ってわが印西市、千葉県に2つしかない持続可能自治体の1つである(もう1つは流山市)。政令指定の千葉市、東京ベッドタウンの市川市、船橋市、浦安市をさし置いてのトップ2入りである。

確かに印西市近郊では企業の進出が相次いでいるし、それに伴って住宅建設も急ピッチで進んでいるが、一方で市街化調整区域においては小学校の廃校がまんべんなく進んでいる。持続可能の雰囲気があるのは、ニュータウン区域だけである。

そして、いまになってニュータウンに企業・住民が集まり出しているのは、計画が半世紀遅れたがゆえに、いまだ開発されていない空き地、しかも旧住宅公団が大規模に持っていた土地が大量にあったからである。

つまり構造的には千葉県内の他の市と同様で、むしろ消滅自治体に近い要素を多分に含んでいるといえるくらいである。税収が安定していれば住民税や介護保険料の急騰は避けられるが、それこそ椅子取りゲームで、どこかで税収が増えればどこかで減るのは間違いない。

もうすぐ消滅する高齢者がどうこう言っても始まらないとは思うが、いずれ死ぬことを心配するよりいま現在をどうやって暮らしやすくするか考えた方がいいのは、個人でも社会でも同じような気がする。

[May 7, 2024]

全国自治体の半分近くが、今後30年で消滅する可能性があるらしい。日本の人口そのものが減っているのだから当り前で、椅子取りゲームの途中経過を発表しても仕方がないと思う。


山は雨、急きょマラソンの下見 ~せいうち日記186

日光に泊りがけで行ってきた。前の週の予報では天気がもちそうだったので、日・月で別の山に行く予定を立てた。ところが日曜日の昼過ぎから雨。

月曜の朝早くから登山口の近く三本松園地で待機したものの、雨は止まないし霧で山は見えないしあきらめざるを得なかった。1日の予定が空いてしまった。

せっかく日光まで来ているのだから、9時オープンの道の駅に行って、金谷ベーカリーのパンとマーガリンを買おう。まだ7時前だから、移動時間を考慮しても1時間つぶさなくてはならない。道の駅日光よりも三本松園地の方が景色がいいので、ここで待機する。

道の駅より不便なのはトイレで水が使えないことだが、とりあえずそれは何とかなる。目の前にある男体山すら見えない霧の中を登山者らしき何組かが来たが、トイレ休憩して去っていった。雨の中だが、歩くのだろうか。

金谷ベーカリーと楡木のゆば・たまのやに寄って午前10時。次は守谷の藤井肉店に行く予定だったが、せっかくの機会だから坂東市に行ってみようと思った。

坂東市で開催される「将門ハーフマラソン」は、この秋の出場予定レースのひとつである。大会開催は11月10日、八街落花生マラソンと八千代ロードレースのちょうど中間で、ローテーション的にぴったりである。ただ、家からちょっと距離があるのがネックである。

カーナビに指示をあおぐと、国道新4号線から境町経由のルートを指示された。通ったことのない道である。まあ、土地勘を養うためには道を見ておくのが重要であろう。指示された道を進む。

新4号から坂東方面の案内にしたがい左折する。ほどなく、右手に堤防を見る道となる。ここは鬼怒川だろうか荒川だろうか、それとも利根川か。70近くなって初めて見る景色である。そのくらい土地勘がないのであった(茨城・千葉の県境だから利根川である)。

坂東市に入り、中心部近くの公園に駐車場があるので入ったら、偶然にもゴールとなる陸上競技場のある公園であった。おそらく当日は人でごった返すであろう競技場に、走っている人は一人だけだった。佐倉とも白井とも違って、こじんまりした競技場である。

低い金属柵があったので中に入るのは遠慮したが、タータントラックでなくアンツーカーのように見えた。スタンドも小さい。隣の大きな建物は公民館のようだ。当日は開放してもらえるのだろうか。

ティラノサウルスやプテラノドン、プラシオサウルスの巨像を見てひと周りした後、コースを車で走ってみる。公園からスタートして商店街を通り、大利根カントリーの塀に沿って走る。ここは往復とも使うようだ。一部を除いて歩道がない道なので、試走は難しいかもしれない。下総利根大橋が見えてくると右折して市街に戻る。

もともと河川敷なので基本は平坦だが、わずかにアップダウンがあるのはわが家近くと同じである。あと確認すべきは駐車場の位置と当日の待機場所だが、要項に載っていないのでプログラム待ちとなるようである。

こうしてコースを下見してしまうと、まだ5ヶ月先ではあるが気合が入る。この日は通算8時間のドライブで、前日は4万4千歩の登山だったのに、翌朝は4時起きして5km走ってしまった。

マラソン村のみなさんのブログを読んだりコースを下見したりすると、年甲斐もなく張り切ってしまう。もう67歳なのだから、無理は禁物である。

月曜日の朝は、ホテルのロビーから目の前の中禅寺湖が見えないほどの濃霧で雨降り。予定変更してマラソン大会の下見に向かうことにした。


今週の日・月は山歩きする予定で日光に宿をとったにもかかわらず、初日昼過ぎから雨になり翌日午前中も降り続いた。予定変更せざるを得ずその日はマラソン大会の下見に行くことにしたのだが、天気予報に裏切られるのは2年連続である。

当日朝の予報でも「夜になると雨のところがあるでしょう」だったのだが、登っている途中で早くも女峰山が見えなくなったので、これは昼過ぎには雨だと思っていた。丹勢山の頂上まではなんとか大丈夫だったが、下山途中に降り出した。

木立の中で身支度できたものの、林道には遮るものもなく、まして土砂降りである。当日の日光市の降水量は15時台で8mm程度だけれど、13時台から降っていたし少なくとも20~30mmのように思われた。

リタイアしてからは天気を選んで山に行っているのに、この始末である。そういえば、防寒以外の目的でレインウェアを着たのは2019年の四国お遍路以来。四国お遍路は毎年のように雨だったが、2019年は五色台の白峯寺・根香寺で土砂降りに遭った。

そもそもこの時期を選ぶのがよくないし、日光はただでさえ天気が読めない。とはいえ、夏になると虫が多くて悩まされるし、秋は早いうちから雪である。アプローチが長いのでどうしても日が長い時期を選びたくなるし、そうなるとこの時期になるのである。

降り出したのがキノミ平分岐の前あたりで、ほどなく路面がよくなったのは幸いだったが、傘の中に羽虫やらアブやら入ってくるのが鬱陶しかった。往路では山道を通って笹薮だったので復路では林道を歩いたが、これがまたえらい遠回りで苦労した。まあ、同じ高さを下りるのだから、どちらも大変だったという話ではある。

四国遍路は区切り打ちでも10日とか2週間という長期日程だから、途中で降られるのはある程度仕方がない。とはいえ「遍路転がし」と呼ばれる焼山寺や大宝寺、岩屋寺、横峯寺あたりはすべて雨。それも豪雨で、だいぶ苦労して厄払いすることになった。

それに比べると山歩きは1泊とか2泊で、予定のとりにくい現役時代はともかく、リタイアしてからは天気を選んで行くようにしている。それでも、2018年の上高地のように、3泊目の夜から大雨になることもある。

雨具とか非常食、ツェルトなどの緊急用品は使わないのが一番である。使う羽目に陥ったのは幸い雨具ぐらいのものだが、いざ使う段になっても持ってきてよかったとは思わない。なぜこんな日を選んでしまったんだと自らの不覚を恨むだけである。

そして、あればよかったと思うものは必要なときには絶対にない。エネルギーゼリーを持つようにしたのはカロリーメイトが食べられないくらいバテてしまったからだし、予備の水は必要な時に限ってないときている。

そういうことが一度でもあると、次から荷物の中に予備の水とかエネルギーゼリーを持つようになる。そうやって荷物が増えて、毎回の山歩きで結局使わなかった荷物は3~4kgあるような気がする。

つまり、背負ってきた荷物の半分近くは使わない荷物ということになるが、それをムダだとみるか必要な装備とみるかである。昔の山岳部員は必要な装備とみるから、下級生は30kgとか背負わされて登山が嫌いになったんだろうと思う。

いまは用具全般軽量化して、地図やコンパスはスマホで代用できるようになった。10kg程度背負って歩けなければ山に行くなという話だろうし、こうして時々必要になるのも仕方のないことなのかもしれない。

[Jun 15, 2024]

気象庁は関東南部の梅雨入りを発表した。例年より2週間遅いそうだが、それより梅雨入り前すでに夏だった方がインパクトが強い。


6月21日金曜日、気象庁は関東地方の梅雨入りを発表した。2、3日前から今週末に梅雨入りと天気予報で予想してたので心の準備はしていたが、発表したとたんいかにも梅雨と言う雨降りになった。

例年より2週間遅いということだが、2週前には日光で土砂降りに遭ってしまったので、体感的にはその時から梅雨である。以降、連日のように夏日で、梅雨の前に夏だと奥さんと話していたくらいである。

今朝はいつものように4時起きして、ランニングに行った。もう夏至なので4時だと明るいのだが、雲が厚いためか薄暗い。準備体操して、往復4kmのコースに出る。

普段のウィークデイは公園に行って400m周回遊歩道のローテーションなのだが、築山に蜂注意のトラロープが張ってある。わざわざ危ないところに行く必要はないし、築山と遊歩道は自分的にセットなので、片道2kmの往復コースにしたのである。

走り出しは涼しいと思ったけれど気のせいで、すぐに胸が押さえつけられるような気温と湿度であることが分かった。ランニングしている時の気温はすでに20℃を超えていたので、すがすがしい空気ではない。

このコースは途中で右折するが、信号横断がないので歩道を止まらずに走ることができる。難があるのはすぐ水たまりができてしまうことで、雨が降り出してからだったら厳しかったけれど、5時前にはまだ降っていなかった。

1往復して戻る頃にはすでに大汗。冬なら6往復24kmまで走るコースだが、この時期だと3往復が限界。朝ご飯に戻るためには2往復でやめておこう。

ガーミンを買う経済力がないのでカシオのスポーツウォッチで計測。距離はいちおうスマホで測っているのでそんなに違わないだろう。2kmで15分切るくらいだから、1km7分半かそのくらい。67のじいさまだから、このくらいで勘弁してもらおう。

朝早くにも走る人は結構いて、散歩する人はもっとたくさんいるが、今朝も若い女の子に抜かれた。抜かれた後もそんなに差は開かなかったから、うすのんびりした爺様の後ろを走りたくなかったんだろう。

家の前の小さな公園に戻って、クーリングダウン代わりの反復横跳び。走る時は股関節を前後にしか動かさないから、横に動かしてバランスをとるつもりである。併せて、高齢者向け体力テストをやられた時の準備にもなる。

家に帰ってシャワーを浴びて着替えると、ちょうどテレビ体操の時間。奥さんと二人で体操して、終わったら朝ご飯である。朝ご飯といいつつ、わが家はずっとパン食である。サラダとコーヒー、ヨーグルトも付く。

天気予報の時間になると、わが家で「雪女」と呼んでいる予報士の近藤さん(初登場の時、雪女みたいだったのである)がすでに傘を差していた。千葉ニューでも、9時前には雨が降り出した。早朝でなければ走るのは難しかっただろう。

この朝走った8kmで、6月に走った距離は100kmを超えた。

[Jun 22, 2024]

67歳まで生き残れた2つの幸運 ~せいうち日記187

「せいうち日記」をはてなの記事に上げるのは初めてである。まず、この連載について説明したい。

「せいうち日記」は2005年6月、当時のNIFTYココログで連載を始めた。以来約20年、ほぼ月一ペースで記事を載せて今日に至っている。せいうちというのは当時の体形から名付けたもので、名前のとおり減量日記が初期の主なトピックであった。

今回で187回目になる。100回前後がリタイアの時期で、以降年金生活に入り今月末で8年経つ。バックナンバーを見ると、たびたびカシノに行っていた時代、それどころでなく仕事が忙しくなった時代、リタイアが現実味を帯びてきた時代、リタイア後の平穏な時代など、それぞれ振り返ることができる。

2020年秋から糖質制限を始めて(139回)、劇的に減量することができた。ようやく走れるような体になって、2022年からランニングを再開した。いまではピーク時より30kg近く減量して、ユニクロのLサイズでも着られるくらいである。かつては入るサイズがなかったのに。

今月は健康診断について書く予定だったので、前置きついでに自分自身の健康について少し。

 

リタイアしてもうすぐ満8年。サラリーマン現役時は苦労ばかりで報われることの少ない職場だったが、幸運に恵まれてどうにか今日まで生きてこられた。その幸運の中でも2つ、サイコロの転がり具合でかなりの確率生きていられなかったかもしれないと思うことがある。

一つは1985年のJAL123便事故である。当時は銀行に勤めていて、大阪勤務だった。JAL123は夕方に羽田から伊丹に飛ぶ便で、東京に家があって大阪で働いていたり、逆に大阪に家があって東京勤務の人達がよく使う飛行機であった。実際、この事故で第一勧銀勤務の何人かが亡くなっている。

私もよくJAL123は使っていて、便名が分かりやすいのでよく覚えている。別に打ち合わせた訳でもないのに、同じ支店の何人かと乗り合わせたこともある。そして、この事故の日、たまたま私は大阪から戻ってきていた。ということは、数日違いで、帰りの便がJAL123であったかもしれないのである。

ちなみに、当時まだ関空はなく、LCCもないので成田発近畿圏行の便もなく、大阪に帰るには羽田・伊丹便のJALかANAかで選ぶしかなかった(東亜国内航空は基本的に地方路線だけ)。

つまり、確率的には何分の1まで行かないにしても、十数分の1くらいの確率ではあった。お盆の時期で満席に近かったし、取ろうとして取れたとは限らないけれど、いずれにしても無視できない確率で事故に遭ったかもしれない。

もちろん、車を運転していてもホテルに泊まっていても事故に遭う可能性がないとはいえないが、それほど高い確率ではない。宝くじとか交通事故は何千何万分の1だから運不運で片づけられるけれど、十数分の1ではなぜそんな危ないことをするという世界であろう。

当時は忙しく東京と大阪を行ったり来たりしていて、新幹線ではまどろっこしいので飛行機とみんなが思っていた。東京に家のある奴を大阪に配置したり、金曜夜まで仕事があって月曜朝には働かせるような職場が問題だといまなら思うのだが、当時はそれが当り前だと思っていた。

 

もう一つは、糖尿病が悪化したりアルコール依存症にならなかったことである。

就職した頃からやたらと酒を呑んだ。当時の職場は非常にストレスが大きく、午後9時10時までサービス残業してそれから呑みに行き、真夜中過ぎてタクシーで帰るなんていう生活をしていた。

幸か不幸か酒に強かったので、二日酔いでも翌日会社に行くことはできた。そんな人は結構たくさんいて、仕事中に酒を覚まして夜になったらまた呑みに行くのが当り前と思われていた。よくアルコール依存症にならなかったものである。

そんな生活を続けてきたので、40代で糖尿病になった。痛風、高血圧、高脂血症など生活習慣病もセットでやってきて、体重も110kgを超えるまでに増加した。当時はスーツがきつくなって大変だとしか思っていなかったが、いま思うと地獄との境い目のヤセ尾根を歩いていたようなものであった。

あのままの生活を続けていたら、糖尿病が悪化して眼底出血とか人工透析に進んでいた可能性は高い。それ以前に、アルコール依存症で震えが止まらなかったり幻視・幻聴が出ていたかもしれない。そうならなかったのは幸運に恵まれたからだし、おそらくJAL123に近い確率の危機にあっただろう。

事故に遭っていればその後の人生はなかったし、糖尿病が悪化したりアル中になったとしてもいまのように平穏な日々を送ることはできなかった。

そうならなかったのは、努力したとか意志が強かったからではなく、運がよかったからというのが最も大きいように思う。それもあって、幸運を期待するよりうまくいかなかったケースを想定するし、手持ちの運があるとすれば無駄遣いすべきでないと考える。

 

若い頃から酒浸りの生活で、40代で糖尿病になった。合併症になったりアルコール依存症にならなかったのは、ひとえに幸運だったからである。

 


もうすぐリタイアして満8年になる。現役時は強制的に人間ドックを受けさせられてきたが、リタイアしたらそんなものはない。健康管理は自分で考えなくてはならない。

とはいえ、現役時の人間ドックも、胃X線検査は自主的に未実施にしてきたし、肛門触診とかそういうものも遠慮した。基本的に血液検査と、超音波、心電図、胸部X線くらいであった。

だから、糖尿病で内科のお医者さんに定期的に通っていて、何ヶ月置きにやってくれる検査と変わらない。健康保険も利くから、健保対象外の人間ドックのように割高になることもない。

リタイアした直後は、市で行われる自己負担1000円の特定検診を受けていた。ところがこの検診たるや腕の悪い看護婦を選んで寄越しているらしく、2年前、両腕に計3ヶ所の針跡が腫れあがってひどい目に遭った。以来、特定検診は受けていない。

特定検診は税金で行われていて、どこの自治体も検査水準にほとんど関心がない。県の出先である健康づくりセンターに一括外注して、そこがまた親方日の丸の低レベルだから、他では使えない連中を特定検診に出すのである。

検査項目も十年一日で、採血する手間は一緒なのだから詳しくやればいいのに、血糖値やコレステロールくらいしか調べない。眼底検査や胸部X線も、問診でお医者さんが必要と認めた場合だけで、そんなの誰も受けさせてくれない。

まあ、X線は胸部であれ胃であれ被曝していいことはなく、それで詳しく検査できるかというと、たいしたことはできない。「百害あって一利」の「一利」がないのである。問診の医師もモチベーションが低く、質問したところで「調べてみたらどうですか」くらいで済まされる。

よく言われるように、先進国には検診という制度はない。病院の待ち時間が2~3時間、診察2~3分とよく言われるが、検診の問診は数秒である。血液検査で異常値があればすぐ分かるというけれど、異常値の基準そのものがおかしいから、結局のところ再検査を先送りしているだけである。

だから長年診てくれている内科のお医者さんがいるなら、その方がずっと有意義である。カルテがあるから過去の数値も残っているし、異常値なのか体質なのかも判断できる。一見の検診医にそこまで期待するのは酷である。

しばらく前は、数年に一度は人間ドックを受けるべきかと思うこともあったけれど、結局のところ調べることは変わらないから、検査着を着てやった気になるだけである。自由になるおカネは少ないのだから、そんなことに使っても仕方ないと思うようになった。

それよりも普段の健康管理。糖質制限とランニングで規則正しい生活を送り、体重、体温、血圧を計って異常なければ、わざわざ人間ドックを受けることもない。何しろ、60歳を過ぎると生命保険に入れないくらい余命わずかなのに、もうすぐ70なのである。

[Jul 23, 2024]

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