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筑波山(御幸ヶ原コース) [Mar 19, 2019]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

わが家から奥多摩よりも丹沢よりも、さらには房総より家に近いところに山がある。それも深田百名山である。その名は筑波山、晴れた日には平野部から立ち上がった双耳峰が家からでもよく見える。

でも中学の遠足以来約半世紀、ドライブに行ったことはあるが登ったことはない。高尾山や鋸山と同様、頂上までロープウェーやケーブルカーが通じていて売店がにぎやかなところに、あえて登りたいと思わなかったからである。

ただ、よく調べてみると結構おもしろそうだ。遠くからは2つの峰だけが独立して立ち上がっているように見えるが、山塊が南北に連なっていてとても1日ですべて歩ける広さではない。

朝ゆっくり出発して、歩けるのもいい。という訳で、まずは主峰の筑波山を目指すことにした。珍しく奥さんも来るというので、天気の良さそうな日を選んで行ってみることにした。

2019年3月19日、やや曇りがちながら風はなく、穏やかな山日和であった。7時前に家を出て、神崎ICから圏央道でつくば中央まで。学園都市は通勤時間帯なのか少し混んでいて、筑波山神社の門前町に着いたのは9時前だった。つくば市営の大きな駐車場に停める。1日500円の前払いである。

「神社近道」の道案内に従ってまずは筑波山神社へ進み、安全祈願のお参りをする。筑波山神社のご神体は筑波山そのもので、祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊、イザナギ・イザナミ両神である。男体山・女体山と一体の神とされ、それぞれ頂上にお祀りされている。

最初にお参りしたのは山麓にある拝殿で、ここから上はすべて神領となる。したがって、登山道はすべて筑波山神社の境内ということである。ただし月山のように撮影禁止ということはない。登山道に沿った説明板も数多く掲げられている。

頂上に至るルートには御幸(みゆき)ヶ原ルートと白雲橋ルートがあり、前者が男体山に、後者が女体山に通じている。WEBによると御幸ヶ原ルートの方が傾斜が急だということなので、あえてそちらから登ることにする(やっぱり、簡単だと思っていたのだ)。

御幸ヶ原ルートはケーブルカーに沿って、筑波山頂駅のある御幸ヶ原まで登る。ケーブル駅のある宮脇まで道案内のとおり進むと、途中から登山道が分かれている。登山道入口には、大きな石造りの鳥居があるので迷うことはない。

登山道に入ると、いきなりの急登である。途端に息が上がる。身軽な奥さんは元気に先に進むが、体の重い当方はそう簡単に持ち上がらないのである。最初のベンチまで20分かその位なのに、すでに汗びっしょりになった。

今回は短時間で往復できると思っていたし、頂上近くにも売店があるから水もペットボトル1本しか持っておらず身軽である。にもかかわらず、やっぱり登りは簡単ではない。空身で歩いたとしてもスピードは出ないだろう。

登山道はケーブルカーに沿って進む。おそらく工事の際に資材置場に使われたのだろう、ところどころ広くなってベンチが置かれている。そして、20分置きにケーブルカーが動くので、ケーブルのかたかた動く音が走っている間響いている。歩いている間にも行ったり来たりしていた。

約1時間で、ケーブルカーのすれ違い地点まで登る。すれ違うということは中間地点である。あと半分。ここから先、ケーブルカーはトンネルにもぐるので、その上を登って行く。いったん下りまた登ると、男女川(みなのがわ)源流に出た。

男女川は百人一首の陽成院「つくばねのみねよりおつるみなのがわ」の歌で知られる歌枕である。水神様の祠のところに塩ビパイプが2本出ていて、そこから1滴2滴としずくが落ちており、すぐ下にも水の湧いている窪みがあった。

奥さんがHP切れだというので玄米ブランで栄養補給して先に進む。男女川源流まで進めば残りは約4分の1だが、ここからは丸太の階段が頂上まで続く。登っても登ってもまだ階段が続く難所であった。

ようやくケーブルカーの頂上駅が見えたのは、午前11時になる頃だった。90分のコースタイムを2時間弱、決して楽なコースではない。お参りや休憩時間を勘案すればほぼコースタイムで歩けていると思うけれども、考えていたのと違って本格的な登山コースであった。

登山道は筑波山神社から始まる。安全を祈願してお参りする。筑波山そのものがご神体であり、男体山・女体山頂上にイザナギ・イザナミ両神をお祀りしている。


御幸ヶ原コースは、ケーブルカーの線路脇を通って登山道が通じている。ケーブルカー工事の際に資材置場に使ったのか、休憩ベンチが頻繁にある。


2kmほどの間に標高差600mほど登るので、傾斜はかなり急である。ただ、岩場・ガレ場は少ないので、どちらかというと下りに使った方が楽かもしれない。


ケーブルカー山頂駅のある御幸ヶ原は平日なのに結構な人がいて、空いているベンチは1つだけだった。望遠鏡脇のベンチに腰掛け、テルモスのお湯でインスタントコーヒーを淹れ、ファミマで買ってきた菓子パンでお昼にする。

ぽかぽかと日差しは暖かく、風もなくていい天気なのだが、ベンチに座っていると汗が引いてくる。登ってきた当座は「ビール」とか「ソフトクリーム」の幟が魅力的だったが、落ち着くと温かいコーヒーがうれしい。

さすがに百名山で、登ってくる途中も抜かれたりすれ違ったりする人が多かったが、御幸ヶ原でもケーブルカーが着くたびに十数人下りて来た。登山道の脇を通っている時は誰も乗っていないように見えたが、徐々に人出が増えてきたようである。

御幸ヶ原から女体山方面はなだらかに開けていて、土産物店と数台のアンテナが見える。昔と同じ筑波山頂の風景である。振り返るとすぐ後ろから男体山が立ち上がっていて、こちらの頂上にもアンテナと、何やら鉄筋コンクリートの建物が見える。

一休みした後、男体山を目指す。見た目では標高差50mほどなのだが、結構ハードな登り坂である。筑波山神社からの登りでも感じたけれど、ケーブルカーが通っているから軽い山だと思いがちであるが、そんなことはない。

駐車場から御幸ヶ原まで570m、男体山まで650mの標高差に対して、距離は2kmほどである。つまり、傾斜が相当きついということである。秋に登った檜洞丸が4.8kmで標高差1050mだから、平均斜度は檜洞丸よりきついということである。誰もそんなことは思わないだろうが。

がんばって男体山頂上へ。こちらはイザナギノミコトをお祀りしてある。お宮脇にある小さな建物は、正月に開けてお守りとかおみくじを売るらしく、多くのおみくじが結わえつけられている。

お宮の前からは、西に向けての景色が広がっている。筑波山の西だから筑西。下妻、結城、下館といった地域が足下に、そしてはるか彼方に雪をかぶった日光連山が見える。

「まだ雪降ってるんだ」と奥さんが意外そうに言うので、「だってまだ尾瀬の山小屋やってないじゃん」と答える。尾瀬の山小屋が開くのはGW過ぎ。春が来るのはしばらく先である。

そして、頂上に建っていた建物は、戦前に建てられたという気象観測所であった。50年前に来た時見た記憶がないから、もしかするとその時は男体山には登らなかったのかもしれない。

この気象観測所は山階宮が私費で建設して国に寄贈したもので、建物自体はケーブルカー建設後に建て替えられたものという。それでも昭和はじめだから、すでに80年以上が経過している。

門はロープでぐるぐる巻きにして閉じられており、外壁やコンクリートはところどころ剥がれ落ちている。にもかかわらず内部にはいまでも気象観測機器が置かれていて、筑波大学が管理しているということだ。

気象衛星がなかった頃、天気予報の精度を上げるためにはこうして標高の高い地点で観測することが重要だった。山階宮といえば山階鳥類研究所が有名であるが、自然科学に造詣の深い宮家だったようだ。

さて、男体山頂はそれほど広くないし、腰を下ろすところもない。次々と後続組が登ってきてゆっくりしていられないので、早々に下る。登るのは一苦労だが、下るのはあっという間である。

御幸ヶ原は素通りして、女体山に向かう。こちらは見た目どおりなだらかな坂道である。アンテナや管理用建物と、カタクリ保護育成中の一帯があって柵に囲われている。いくつかあるベンチでは、団体がコンロに鍋を乗せて何か作っている最中であった。(「火気厳禁」と掲示はあるのだが)

御幸ヶ原はケーブルカーの終点。登ってきた人達で、平日なのにかなり賑わっていた。


御幸ヶ原のすぐ横から、男体山に登る。頂上近くの建物は、山階宮が私財で建設したという気象観測所が建つ。現在は筑波大学の施設として、観測機器等が置かれている。


男体山頂上からの眺め。この日は少しもやがかかっていたが、それでも日光連山あたりまでは見ることができた。


ゆるやかな坂を登ったり下ったりして十数分、女体山に到着する。「日本百名山」の石碑があり、眺望の開けた岩の上は先着組で一杯。イザナミノミコトをお祀りする女体山御本殿にお参りして、すぐに下りに移る。

さて、女体山到着の時点で、すでに予定より30分遅れていた。登りの御幸ヶ原ルートが予想外にハードだったため、休憩時間はそれほどとっていないにもかかわらず押していたのである。

そして、女体山からの下りは御幸ヶ原ルート以上にきつかった。頂上直下では岩場の鎖場で、登ってくる人も多いので通り過ぎるのを待つ時間もある。このルートは下りる方が登る以上にきついのではないか。

とはいえ、帰りのバス時間がある訳ではないので、奇岩巨石の写真を撮りながらのんびり進む。巨岩のいくつかには神社の末社がお祀りされていて、山全体がご神体というのもなるほどと感じる。

それでも、平らに道が続くのはわずかの間で、すぐに岩の段差がある山道となる。こうしたハードなルートを、小さな子供を連れた家族とか、中高年女性ばかり30人ほどの団体が登ってきていた。やはり、茨城県唯一の百名山である。

こちらのルートは白雲橋コースといって、WEBでは初心者向けと説明されているのだが、少なくとも下りで使うには、結構気を使うコースであった。下りのコースタイムは95分なのだが、ほとんど休みなしで2時間以上かかった。

登りでは軽快に飛ばす家の奥さんも、下りはヒザが痛いといって私より遅れるのはいつものことである。弁慶七戻りという、巨岩が下の岩に微妙に支えられてトンネルになっている箇所を過ぎると、つつじヶ丘との分岐、弁慶茶屋跡である。

ここはかつて、弁慶茶屋というお店があった跡ということだが、ずいぶん昔のことのようだ。すでに建物があった名残りもなくなっている。広くなっているもののベンチは少なく、座れないのでそのまま下る。

分岐の後は木立の中を淡々と下る。傾斜は山頂直下に比べると緩やかになったものの、展望が開けないまま道だけがずっと続く。ようやく下山口の鳥居が見えてきた時には、もう午後3時近かった。

土産物店の店先を抜けて、朝通ったはずの近道を見過ごしてしまい、最後に駐車場への登りを余計に歩いてしまった。車に着いた時には夫婦ともかなりバテてしまって、奥さんは「もう歩くのやだ」と言っていた。

結局予定していたよりも1時間多くかかってしまい、1/25000図で10cm四方の場所を1日かかって歩いたということになる。どんな山でも、甘く見てはいけないということであった。

この日の経過
つくば市営駐車場 9:05
10:00 ケーブルカー中間地点 10:05
10:30 男女川源流 10:40
11:10 御幸ヶ原 11:30
11:45 男体山 11:50
12:25 女体山 12:35
13:25 弁慶茶屋跡 13:25
14:55 駐車場 [GPS測定距離 7.3km]

[Jun 10, 2019]

女体山頂上には日本百名山の石碑が立つ。


下山路は白雲橋コース。奇岩巨石が次々と現れ、それぞれに筑波山神社の末社が祀られている。


登山道も岩だらけで、下るには時間がかかる。1/25000図で10cm四方もないくらいの広さを歩くのに、1日かかるとは思わなかった。


宝篋山(常願寺・小田城コース) [Apr 16, 2019]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

筑波山の近くに気になっている場所があった。宝篋山である。この山の麓には、箕作り集落があったという。伝説ではなく昭和30年代まで実際にあり、平成に入っても最後の箕作りと呼ばれる人物が暮らしていたという。

家から圏央道・常磐道経由で宝篋山小田休憩所に着いたのは午前9時、驚いたことに100台くらいは停まれる駐車場がほとんど空いていなかった。いい天気で風もなく絶好の行楽日和とはいえ、平日の朝である。

空いている隙間に何とか停め、身支度する。すぐ横の休憩所にはすでにスタッフが詰めていた。トイレをお借りして出発。登山道は駐車場の奥へと続いている。

「箕」とは大きなちりとり型をした農具で、藤や桜、竹などを材料とした。米粒ともみ殻を分けるのに使われ、農業機械が普及するまで米作農家に必須の農具であった。製作・修理には技術が必要で、農家の副業ではなく専業で行う人達がいた。「箕作り」「箕直し」と呼ばれる。

箕作りは決まった土地を持たず、季節ごとに仕事に適した場所に小屋掛けして移動生活を送った。柳田国男は論文「イタカおよびサンカについて」で、箕直しはサンカの一形態であると指摘した。彼らに注目したのが戦前の人気作家・三角寛で、三角の「サンカ小説」は一世を風靡したのである。

宝篋山麓の常願寺に箕作り集落があったことは、筒井功氏の著作や雑誌「マージナル」の特集記事で触れられている。

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筑波山に連なる山系の南端に近い山中に、常願寺という通称の土地がある。
どんな地図にも常願寺の地名は載っていないようだ。国土地理院の地形図にはもちろん、手元の住宅地図のコピーにも家は書き込んであるものの、地名は記していない。
(筒井功「漂泊の民サンカを追って」)
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この常願寺が、宝篋山の登山ルートなのである。つくば市制作のガイドマップにも「常願寺ルート」と載っているくらいなので、地元だけの通称という訳ではなさそうだ。一説には、南北朝時代までその名を持つ寺院があった土地だという。峰続きの尖浅間山(とがりせんげんやま)から流れる沢も常願寺沢という。

明治時代から昭和三十年代まで多い時には七軒の家があり、年間三千枚を超す箕が作られていたという。箕一枚米一俵というから、現代の価値にして年商五千万円近いことになる。かなりの規模である。

しかし、現代では機械にとって代わられたため、筒井氏の言によれば「再び無人の地に戻りつつある」。その痕跡が遺されていないものだろうか。

いまの1/25000図には載っていないが、古い地図には登山ルートに沿って人家のマークがいくつかみられる。2019年現在、1軒だけ残っているのが、「最後の箕作り」が住んでいたという家かと思われる。

「最後の箕作り」については、30年前に作られていた雑誌「マージナル」8号から10号に取材記事が載っている。大正生まれで当時すでに68歳、いまご存命であれば90歳をとうに超えている。

当時からこの地は集落から離れた山林で、電気は通じていたが水道はなかったという。建物にはそう傷みはないが、チェーンが引かれ入れないようになっている。小田休憩所から30分足らずで歩いて来ることは可能だが、食糧や燃料を上げるのに何らかの輸送手段は必須だろう。でも、車もオートバイもないようだった。

そして、昭和半ばまでこのあたりに六、七軒の小集落があったのだという。登山道の両脇は藪で埋まっていてその名残りは見られないが、よく見ると地盤が平らに整った場所があり、奥に進む踏み跡もある。

何よりも、横を流れる常願寺沢からとだえることなく水音が聞こえて来るので、水の心配はなさそうである。筒井氏の本に載っていた蟹沢とか仏沢といった箕作りが住んだという小集落と雰囲気がとてもよく似ている。こんな場所で住めるのかといまなら思うけれども、私の子供の頃までこういう場所は珍しくもなかった。

アンテナ塔が見えるのが宝篋山頂上。平日朝9時にもかかわらず、駐車場は一杯でした。


のどかな田園地帯を尖浅間山(とがりせんげんやま、中央左)を目指す。その前に見える谷が常願寺沢で、このコースを常願寺コースと呼ぶ。


常願寺コースを少し登ったあたり、100年近く前に箕作りの小集落があったという。現在では藪になってしまい、比較的最近まで暮らしていた一軒しか残っていない。


そんなことを思いながら沢沿いに登って行くと、30分ちょっとでベンチのある場所に出た。「くずしろの滝」と立て札がある。滝というよりも岩の上に流れがあるといった小さなものであるが、そんなに高い山でもないのに、結構な水量がある。

くずしろの滝から宝篋山まで1時間とガイドマップにある。とりあえず目指すのは尖浅間山である。滑りやすい急坂をスイッチバックしていくと、そんなに苦労せずに「尖浅間山まで50m」の地点に着いた。標高320mだから房総と同じくらい。筑波山の800mと比べるとかなり楽である。

尖浅間山(とがりせんげんやま)には石積みの上に山名標があり、平らに広がった頂上にはテーブルとベンチがある。まだ休んでいる人はいないが、登ってきた人達と挨拶した。みなさん私同様シニアの単独行である。

さて、宝篋山といい尖浅間といい、登山道のコース名になっている極楽寺、常願寺といい、いずれも神仏にちなんだ命名である。これは、麓の小田城近くに真言律宗の拠点があったことによるものである。

真言律宗はその名の示す通り、真言宗と律宗の性格を併せ持つもので、教義としては真言宗に近い一方、戒律を重んじる律宗の再興という側面をもっていた。西大寺の叡尊を宗祖とし、叡尊の弟子である忍性が鎌倉幕府の後援を得てこの地を拠点とした。

鎌倉時代には大きな勢力を有し、例の日蓮四箇格言のうち「律国賊」というのは、真言律宗を指したものといわれる。そして、日蓮と確執があったとされる忍性の銅像が、宝篋山頂に建立されている。布教と併せて社会福祉・弱者救済に力を注いだ僧である。

忍性はここを拠点として布教したが、後に執権北条氏の援護のもと鎌倉に拠点・極楽寺を移した。極楽寺の周囲には、病人・老人・困窮者などを保護する施設として、施薬院・療病院・悲田院などが置かれたという。

鎌倉時代はすでに遠く、小田城も遺構を残すのみであり、真言律宗の大拠点がどこにあったか定かでない。とはいえ、寺の名前はいまだに山や谷の地名として残っているのだ。

尖浅間山から宝篋山までの稜線には、電子国土では1ヵ所小ピークが見えるだけだが、実際にはもっと小ピークがあり、登り下りが続く。とはいえ、房総の尾根道のようなきついアップダウンはなく、ゆるやかな遊歩道である。

標高にすると300~400mでも、こうしたおだやかな尾根道を歩けるとは、茨城県の山もなかなか奥が深い。時折、樹間から麓の景色が望める。足下には、いくつかの池が見える。灌漑用のものという。利根川・小貝川も近く、つくばねの峰より落つる男女の川(桜川)もあるのに、やっぱり広く田を開くには水の手はあるに越したことはないのである。

快適なアップダウンを歩いていくと、やがて峠地形が見えてくる。まだアンテナは見えないが、すでに宝篋山頂直下のようだ。木々の中には山桜も含まれていて、散った花びらが登山道にかぶさっていた。ところどころにベンチとテーブルが置かれ、ここで休んでいるグループもあった。なるほど、駐車場が満杯になる訳である。

ベンチのある広場を過ぎると城の中心部に至る道を分け、左手にバイオトイレが見えてくる。大きなアンテナ塔があってここまで車道が通じているのだから水道があってもいいような気がするが、ないようである。

バイオトイレから先は最後の急坂だが、ここから登山道と並行して車道も通っている。カーブを曲がるとアンテナ塔が正面に建ち、その左手に山名の由来となった宝篋印塔が見えてきた。

宝篋印塔の前には、手水場の代わりに手洗い車が置いてある。石を回して手を清めるということだろう。現在のものはそれほど古いものではないが、すぐ横に年季の入った石造りの残骸がある。おそらく江戸時代よりもっと古いものだろう。

1時間ほどで尖浅間山に到着。木のテーブルとベンチが置かれている。


尖浅間山から宝篋山まで、茨城県にもこういう尾根道があるのだと思わせる遊歩道である。


宝篋山頂にはアンテナ塔の建物の横に、山名の由来となった大きな宝篋印塔が置かれている。鎌倉時代のものという。


宝篋山頂には宝篋印塔と忍性和上の銅像が置かれており、その向こう側に十ほどのテーブルとベンチがあって、すでに一杯であった。というのは、そのテーブルの正面に筑波山の絶景が広がっていて、間違いなくここが宝篋山のベストポジションだからである。

左に男体山、右に女体山の頂きを望み、頂上を結ぶ稜線に点在するアンテナ群もはっきり見える。男体山側のルートの方が急傾斜で、女体山側の傾斜がゆるやかなのもよく分かる。女体山からつつじヶ丘への稜線はぐるっと右手を回って、いまいる宝篋山へと続いている。

宝篋山のベストポジションというだけでなく、もしかすると筑波山系のベストポジションではないかと思うくらい素晴らしい展望であった。

さて、標高400m余りの低山にもかかわらず、宝篋山にはいくつかの登山ルートがある。つくば市のトレッキングマップには東寄りの3コースと北寄りの3コースが描かれているが、この他に筑波山に向かうルートもある。

今回は東寄りの常願寺ルートを登ってきたので、下りるのは同じ東寄りでも別の小田城コースをとることにした。いったんバイオトイレの高さまで下りて、トイレの横からやや北向きに山の中へ入る。

この道がまた、延々と林の中を下って行くコースで、ちょっとヒザに響いた。標高差400mとはいえ、麓までずっと下り傾斜が続くのと、なかなか展望が開けない。

歩いていて、奥多摩や丹沢で標高差700~800m下っている時のことを思い出した。登りはそれほど長く感じなかったが、下りは長くてきびしい。きつい道は標高差にかかわらずきついのであった。

展望が開けないと書いたけれども、途中2ヶ所ほど麓に向けて開けている場所がある。一つ目は下浅間神社で、登山道から分かれて小さな祠に出るが、後でまた合流する。祠の前が広場になっていて、ベンチが置かれている。まだ標高が高いので、景色は雄大だ。

もう一つは麓近くまで下ったところにある要害展望所で、城の要害を模した展望台が建てられている。下浅間神社より200mほど低いと思うが、ちょうど国道の真上にあたる場所で眺めが開けており、とても景色がいい。

そして、地面に近い分、はるか彼方に地平線が見えるのがまたすばらしい。千葉ニュータウンの高層ビル群らしきものも見えた。よく考えれば千葉ニューから筑波山が見えるのだから、逆側から見えても不思議はないのである。

車を停めた小田休憩所に戻ったのは午後1時半、ちょうど4時間の山歩きだった。休憩所に「つくば市民研修センター」で日帰り入浴できると書いてあったので、トレッキングマップで場所を探して行ってみた。

市民研修センターはつくば市体育館の隣にあり、ここでも登山姿のグループを見かけた。北寄りのコースを選ぶとここに下りてくるようである。料金は440円と格安、だがボディソープだけでシャンプーの備え付けはない。

社会福祉協議会も兼ねた建物なので、わが印西市でもやっている地元高齢者のためのサービスであろう。私が入っている間にも2人、地元のおじいさんが入ってきた。カランは3つ、浴槽は4、5人は入れるくらい。「汗を流すには十分です」と案内に書いてあった。

お風呂に入った後休憩したり飲食したりすることはできないけれど、汗を流す分にはまさに十分である。この日は一日いい天気で汗もかなりかいたので、ちょうどいいリフレッシュになった。

帰りは下を通って2時間、筑波山系は何より近いのがいい。来年の冬も、また来ることになりそうだ。

この日の経過
小田休憩所(30) 9:30
10:10 くずしろの滝(140) 10:15
10:35 尖浅間山(320) 10:50
11:25 宝篋山(461) 11:45
13:00 要害休憩所(106) 13:05
13:30 小田休憩所 [GPS測定距離 7.3km]

[Jul 1, 2019]

宝篋山からは、筑波山を間近に望むことができる。ベンチはすでに一杯で、さらに登ってくる人が続いた。


下りる途中には何ヵ所か展望台がある。これは下山口に近い要害展望所からの景色。


帰りにつくば市民研修センターのお風呂で汗を流した。440円とお手軽。


宝篋山(極楽寺・山口コース) [Dec 6, 2019]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2019年は春の終わりに北岳に登って以来、しばらく山歩きをすることができなかった。 9月になっても暑い日が続き、台風も来た。9月終わりからお遍路歩きで、その最中に体調を崩してしまった。追い打ちをかけるように台風が続けざまに来て、全国各地で大きな被害を受けた。

ビジターセンターなどのHPを見ると、まだ奥多摩も丹沢も秩父も歩ける状態ではない。そもそも、登山道がどうなっているか確認すら終わっていないのである。そんな時期に、遊びに行くのも不謹慎である。そうこうしている間に冬になってしまい、気温をみると氷点下というところも少なくない。

ただ、あまり間を開けると足腰が弱ってしまう。房総は9月10月の暴風雨で被害が大きかったけれど、筑波山塊はそろそろ大丈夫だろう。あまり寒くならないうちに、宝篋山を歩くことにした。

12月6日の金曜日、この日は奥さんがパートなので、車が使えない。倍近く時間がかかるが公共交通機関を使う。電車・バスでこの山域に行くのは初めてである。成田線と常磐線で土浦まで1時間、7時20分の筑波山口行バスに乗る。

早い時間のバス停には長い行列ができていて驚いたが、ほとんどが土浦一高の生徒さんだった。ここを過ぎると、車内には空席の方が多くなる。30分ちょっと乗って、宝篋山入口バス停で下りる。

横断歩道を渡り、山沿いの道を少し入ると宝篋山小田休憩所である。50円のチップを入れて、トイレをお借りする。このチップは、ボランティア活動や山頂の忍性上人像の建設資金に使われるということである。

身支度を整えて、8時20分出発。風もなく穏やかな日和だが、翌日には冷たい雨になる予報で雲が多い。小さな流れの沢に沿ってゆるやかな坂を登っていくと、極楽寺コースと常願寺コースの分岐となる。前回、常願寺コースを登ったので、今回は極楽寺コースである。

極楽寺は現在鎌倉にあるが、その前身となったのがここにあった極楽寺である。両方とも忍性の開基による真言律宗の寺院で、鎌倉幕府のバックアップを受けて栄えた。小田は常陸守護である八田氏が小田城を築いたので、まずここに関東布教の拠点を置き、さらに幕府のある鎌倉へ移った。真言律宗の本拠は奈良・西大寺である。

かつての極楽寺は小田休憩所から宝篋山にかけての山麓にあり、五輪塔や地蔵菩薩石像、鎌倉墓と呼ばれる多くの石碑や祠が遺されている。それらの遺構を左右に見ながら、谷に沿って徐々に標高を上げていく。

初めは大きく聞こえていた沢の水音が小さくなると源流で、ここからは尾根に上がる急登である。急登とはいっても、ロープが下がっているような急斜面はほとんどない。つくば市のトレッキングマップに書いてある時間どおり、小田休憩所から純平歩道合流点まで50分で着いた。

前回は常願寺コースだったので、今回は極楽寺コースを登る。宝篋山に直接登るルートだ。


鎌倉時代に極楽寺のあった跡には、五輪塔、地蔵菩薩石像などが遺されている。


谷沿いの沢筋を詰め、そこから尾根までは急登になる。


なだらかに登る純平歩道をしばらく南下した後、再び急登を宝篋山頂上に向かう。丹沢や奥多摩に比べて標高が低いので、200m登ったくらいではまだ林の中である。展望など全く開けない。

それでも、20分ほど登っているうちに上方に空間が見えてきて、尾根が近づいた。人気の山だけあって、多くはないが登る人、下りる人とすれ違ったり追い越されたりする。いくつかあるベンチで休憩している人もいる。気がつくと、常願寺コースとの合流点になった。ここまで来れば、頂上はもうすぐである。

宝篋山は鎌倉時代に極楽寺が栄えた頃、頂上に宝篋印塔が置かれたことでその名があるが、戦国時代には山城となり、ここに曲輪や空堀が築かれた。なるほど平坦になって平らになっているので、ここに城塞や倉庫があったのだろう。坂が緩やかになるので、歩いていても助かる。

トイレの前の広場では"Tsukuba Fire Department"のユニフォームを着ている十人ほどが訓練をしていた。車が何台か止まっていたから、アンテナ塔まで車道で、その後は林道を来たのであろう。

トイレ横からアンテナ塔の横を通ると、宝篋印塔と忍性上人像が見えてきた。宝篋山頂上である。小田休憩所から約1時間半、ベンチで腰を下ろしたけれど休憩なしで461mの頂上まで登ることができた。

前回登った時には休憩ベンチが満席であったが、この日はほとんど誰もいなかった。筑波山を見通す特等席は私だけで、リュックを置き、テルモスでコーヒーを淹れて買ってきたパンでお昼にする。

とちおとめホイップクリームのクロワッサンと、レモンのデニッシュ。今回は果実味で攻めてみた。ベンチに座って左右を見渡す。曇りがちの天気だったが地平線近くはそれほど雲がなく、富士山も見えた。

筑波山のすぐ左に見えるのは日光白根山である。そこから途切れ途切れに続くのが上信越の山々、秩父、奥多摩と続いて富士山の近くが丹沢と箱根だろう。富士山のすぐ右に見覚えのある頂上は八ヶ岳である。

筑波山塊は関東平野の真ん中にぽつんとある独立峰なので、広大な関東平野とその背後にある著名な山々が一望のもとにある。平将門もここに来て。我こそは関東の盟主と思ったのだろうか、とふと思う。

15分ほどそうやって景色を楽しんでいると、突然あたりが騒がしくなった。十数人の老人クラブらしき連中が登って来て、大声で騒いでいるのである。

なぜにこんないい景色のところで、大騒ぎしなければならないのだろうと思う。こういう連中は、きっと子供の頃から群れをなして騒いできて、そのまま70、80になったのだろう。死なないと治らない。

とはいえ、騒ぐのは気に入らないが景色は私だけのものではない。荷物を片付けて、筑波山の逆側のベンチに移動する。こちらも霞ヶ浦や北浦が見えてたいへんいい景色なのだが、悲しいかなちょっと寒い。そろそろ、出発することにしよう。

下りは山口コースという北側の麓に下りるコースをとることにした。どこから下りるのか分からずうろうろしたが、先ほど移動した霞ヶ浦側のベンチから少し下りると「山口コース1→」の案内があった。

このコースを少し下りると、変なモニュメントがある広場に出た。「万博記念の森」と書いてあり、多くの人名が彫られている。読んでみると、筑波科学博を記念して、朝日新聞が全国に呼び掛け苗木を植える活動をしたということである。その活動に寄付をした約2万人の名前が一人一人彫られているのであった。

寄付をしたうち何人かはこのモニュメントを見に来たかもしれないが、大多数は見たこともないだろう。科学博からすでに30年以上が経ち、せっかくの刻まれたお名前も錆びたり薄くなってしまっている。

石碑も100年経つ頃には風雨にさらされて読めない字が多くなる。名前を残そうとしたところで、なかなかうまくはいかないものだと妙な感想を持ったのでありました。

宝篋山は山城だっただけあって、山頂部は平坦地で広くなっている。


最後にアンテナ塔の建物左を登って宝篋印塔と忍性像のある山頂に達する。


この日は曇りがちながら絶景で、晩秋の筑波山が見事。左に目を移すと、日光連山、上越の山々と続き、ずっと西には富士山や八ヶ岳も望むことができた。


万博記念モニュメントを過ぎて、なだらかな坂を下って行く。1ヶ所ロープが張ってあったけれど、急傾斜というより地盤が滑りやすいのが気になったくらいで、他に歩きにくい場所はなかった。

案内表示によると、登りの極楽寺コースは400mの標高差に対して距離は約2km、下りの山口コースは約4kmだから、歩く距離は長いけれども傾斜はずいぶんなだらかだ。道も枯葉の積み重なったクッションの効いた地盤で、ごつごつした岩は多くはない。

40分ほど下ると、宝篋水という場所に出た。大きな岩の周りから、水が落ちている。ただ、かなり標高が下がったところだし、上にはアンテナ塔の道路もあるから、いまでも水場として利用できるかどうかは分からない。昔の人は利用したのだろう。

こちら山口コースは人通りが少なく、宝篋水のあたりで初めて人とすれ違った。シニアの夫婦連れだった。ゆるやかなので登るのは楽だが、景色が開けたところはなく、ベンチもない。スペクタクルな風景を楽しむなら西側の3コースで、このコースは下山用に使う方がいいかもしれない。ヒザへの負担は確実に少なくて済む。

さらに下ると、今度は作業服姿のおじさんとすれ違った。手ぶらなので登山客ではない。そのすぐ下に軽トラが止まっていて、そこから先は簡易舗装だった。簡易舗装道路を100mほど下ると、景色が開けて下山口に着いた。山頂から1時間20分、下りも休憩なしで下れた(休むところもなかったが)。

下山口からは集落の中のちゃんとした舗装道路を歩く。立ち寄り入浴のできるつくば市民研修センターまで20分ほど歩くと、入浴は午後1時からでまだ50分ほど先である。せっかくなので、バスの時間を確認してから近くにある平沢官衙遺跡に行ってみた。

バス停から5分ほど歩くと、小高くなった斜面に大きな高床式倉庫のような建物が見える。道路沿いに建っている案内所に入ると、案内員のおじいさんがパンフレットをくれて説明してくれた。

「ここは平沢官衙遺跡といって、平安時代の役所跡です。官衙というのは役所のことですが、ここに建っていたのは役所の倉庫で、役所本体は住宅地の下にあって掘ることはできません。
  平沢というのはこのあたりの集落の名前です。常陸国筑波郡の役所と考えられるので、筑波官衙遺跡と名乗りたいところなのですが、いろいろ難しい問題があってこの近くの集落の名前をとっています。
  平安時代の役所跡が大規模に発掘されたのは全国でもほとんど例がなく、再現建物があるのもここだけです。国の史跡に指定されています。
  高床式倉庫が十数棟並んだ大規模な倉庫群で、当時の税である米や布などが納められていたと考えられます。そのうち3棟を再現しましたが、数億円かかりました。」

説明を聞いた後、再現建物のすぐ近くまで行ってみる。平成になってから建てたものなので、まだ新しい。真ん中の1棟は土壁に漆喰が塗られていて、左右の2棟は木の外壁、校倉である。床は3mほどの高さがあり、私の背よりかなり高い。

これだけの倉庫が数十もあったということは、保存されていた米や布も大量にあったということで、治安もよかったのだろうし盗賊から守る武力もあったのだろう。

平安時代というと荘園がすぐ念頭に浮かんできて、収穫物の多くは藤原氏に横流しされていたような印象があるが、よく考えれば道長の時代まで受領(現地赴任する国司)はたいへん実入りのいい役職であった。

「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」と今昔物語に載っているくらいだし、ピンハネしただけでひと財産築けたのだから、本体はもっと膨大だったのだろう。これだけの大規模な建物や収蔵物があるのだから管理する武力も必要で、平将門のような武士がいないと盗賊を防ぐのも大変だったに違いない。

この遺跡を見学していたら、ちょうどお風呂に入れる時間になった。あまり標高が高くなかったので、久々の山だったが足腰が痛むこともなかった。

この日の経過
宝篋山入口バス停(26) 8:00
8:05 宝篋山小田休憩所(26) 8:20
8:30 極楽寺跡(41) 8:35
9:10 純平歩道合流(234) 9:10
9:55 宝篋山(461) 10:30
11:50 下山口(39) 11:50
12:15 平沢官衙バス停(28) [GPS測定距離 8.0km]

[Jan 27, 2020]

山口コースは、西側の登山路よりも距離が長い分傾斜は緩やかである。


頂上から1時間半ほど歩いて、北側の下山口にあたる山口集落まで下りてきた。


下山口の近くにある平沢官衙遺跡。平安時代の役所で、再建建物は倉庫だったと考えられている。

燕山・加波山 [Jan 3, 2020]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

前回、宝篋山に登ったが、標高400mほどなのでそれほどきつくはなかった。もう少し高い山に登ろうと思ったのだけれど、丹沢・奥多摩は依然として厳しく、房総も今年は遠慮すべきだろう。となると再び茨城である。

ただ、茨城県の山を歩く際に困るのは、参考書がほとんどないことである。WEB情報がない訳ではないけれども、全体像をつかむにはガイドブックが便利である。

いろいろ調べてみると、「高速登山道」こと、関東ふれあいの道のパンフレットを茨城県庁で配っている。メールで依頼すると、送料着払いで送ってくれる。さっそくお願いしてみると、全18コースの立派なパンフレットで、分かりやすい地図も載っている。

今回はそれらのコースの中で、コース7「御嶽山から坂東24番札所へのみち」とコース8「筑波連山縦走のみち」を合体して、御嶽山(おんたけさん)から加波山(かばさん)まで歩いてみることにした。宝篋山からは、筑波山を真ん中にして反対側にある山である。

2020年1月3日、今年の登り初めである。車が混むと嫌なので、電車を利用することにした。成田線・常磐線を乗り継いで、友部から水戸線に乗る。常磐道・北関東道はよく通るが、水戸線に乗るのは初めてである。

水戸線には登山客の姿が見えたのだが、岩瀬駅で下りたのは私だけだった。線路沿いにハイキングコース入口の案内看板があり、10分ほど歩くと登山道入口である。すでに車が2台止まっていた。

入口すぐに登山道が分岐している。青テープのある左側を進んだのだが、WEBで評判の不動の滝を経由せずに登ってしまった。滝とはいっても樋で流れてくる水で、御嶽神社の滝行に使ったものという。

さほどの急こう配もなく20分ほど登ると、石碑の多く立てられた御嶽(おんたけ)神社前に着く。まずは、登山の安全を祈願して二礼二柏手一礼。聞いたこともない神様の名前が彫ってある石碑がいくつか立てられている。

すぐ後に登ってきたおじいさんに、「石碑の多い神社ですね」と聞くと、「ああ、ここは御嶽神社の講をやっとるから。いまでも年に一度、木曽の御嶽山まで行っているよ」とのことである。

「雨引山に行くの?じゃあ途中まで一緒に行こう」と前に立ってすたすた歩きだした。足元は真新しいスポーツシューズ、腰には水筒を装着している。足取りは軽快である。

「私も登山をやっとったが、80過ぎて他の山はしんどくなった。でも、ここは雨でない限り毎日登るよ。おかげさまで医者知らずだ。」と、ちょっと奥まった場所にある三角点や、ビューポイントを道すがら教えてくださる。

「ここは、赤城山が見えるポイント。男体山もよく見える。眺めがいいように、下草を切ってあるんだ。今日は雲が多いが、晴れていれば那須や谷川岳も見える。富士山はもう少し先だ。」と地元ならではの解説付きである。

驚いたのは、「関東ふれあいの道」の指示する登山道ではなく、何も行先の書いてない道に入ったことである。

「いずれまたぶつかるんだけど、あの道を行くといったん谷まで下りて、また階段を登らなきゃいけない。慣れた人はみんなこっちを使うよ」とおっしゃる。そして、実際にこの道で何人もとすれ違い、おじいさんは挨拶している。よく会う地元の人のようだ。

「この先は石切り場になっておって、東京駅や迎賓館にはここで採った御影石が使われているんだ」とのこと。この道の左右にも石を切ったり運ぶ機械が置かれている。おそらくここはもともと石切り場で、それで県や環境庁は自然歩道に指定しなかったんだろう。

おじいさんは、再び関東ふれあいの道と合流する場所まで案内してくれた。雨でなければ毎日、ここまで歩いて来るのだという。たいしたものである。すれ違った知り合いの人達も、みなさん私より10以上歳上に見えた。

「あそこに見えるアンテナのところまで行って、尾根沿いに登ると雨引山。気を付けて行きなさい」と、おじいさんは引き返して行った。御嶽山は230m、おそらくこのあたりで標高300mは超えているはずだ。そこを、おじいさんはほぼ毎日登っているのである。

水戸線の岩瀬に近づくと、これから登る燕山への稜線が見えてくる。もう周囲は山が多い。


御嶽山登山口には、すでに2台の車が駐車されていた。地元のお年寄りの散歩コースになっているらしい。


御嶽神社。御嶽山三角点の近くにある。ここで、雨が降らない限り毎日登るというおじいさんに話しかけられ、一緒に雨引山の途中まで歩いた。


おじいさんと別れて、雨引山(あまびきさん)に向かう。いつも登山道を整備している人がいるということで、よく手入れされている。それほど急こう配もなく、たいへん歩きやすい道である。

岩瀬駅を出てから1時間40分、10時10分に雨引山到着。標高は403mである。東屋にはすでに先客の老夫婦がいて、筑波山と富士山を望む特等席で早いお昼をとっていた。筑波山の左に見える大きな山が燕山・加波山と思われるが、逆光でまともに見ることができない。

先は長いので、5分ほど休んで出発。さて、ここからが問題である。雨引山から燕山まで茨城県のくれたパンフレットには休憩場所もトイレもなく、所要時間も不明である。登山口の看板には所要120分と説明があった。行先看板によると、距離は5.1kmある。

まあ、ちゃんと整備されているハイキングコースなら、それほど心配しなくてもよさそうだと思っていたのだが、雨引観音への道を分けたあたりからこれまでとは違った道となった。

まず下りがハードだった。足場を作ったのがかなり昔だったらしく、木が削られて上から土が乗っている。だから、階段ではなくただの斜面に近く、加えて滑りやすい。慎重に足場を選んでペースダウンする。

登山道の刈払いも雨引山までのように頻繁には行われていないようで、左右から笹がかぶさっている。これまでは千葉の山とは違うなあと思っていたが、たいへんよく似た雰囲気になってきた(それでも、嵯峨山ほどではないが)。

加えて、東屋どころかベンチもない。さすがに公称2時間をノンストップでは難しいので、雨引山から2.7km、燕山(つばくろやま)との中間点で案内標識にリュックをひっかけて、立ったままで小休止する。

燕を「つばくろ」と読むのは、北アルプスの燕岳と同じである。いつか行ってみたい山だが、このくらいのアップダウンでひいこら言っていてはいつになるか分からない。5分ほど休んで出発する。

しばらくはおだやかなアップダウンだったが、燕山頂上の直前は等高線が混みあっている。1/25000図では、標高差200mほどの急傾斜のように見える。最初は、ところどころ岩が飛び出たロープのある急坂である。傾斜自体はロープなしでも大丈夫だが、足場が滑るので危ない。

このロープ場をクリアすると、今度は延々と続く階段である。はるか上まで続いていて、それで終わるかと思ったら下からは見えないだけで右に折れて階段は続いている。だんだん息が苦しくなる。でも、頂上はもうすぐのはずだ。

そして、すぐそこが頂上というところで、とうとう太ももが悲鳴を上げた。CW-Xの中で太ももが膨張して、破裂するのではないかと思うような痛みである。思わず、階段の足場になっている木の上に腰掛ける。

標高700mくらいでこの状態とは情けないが、こういう痛みはこれまでなかった。息が切れて階段に座り込むことは房総でも丹沢でも何回かあったけれど、こういう風に太ももが悲鳴を上げたのは初めてである。

10分くらいで何とか落ち着き、太ももの痛みも引いてきた。やはり、しばらく山歩きをしていなかったことが原因だろう。休んだ場所のすぐ上が燕山頂上で、山名標があるだけでベンチはなかった。

頂上にはベンチはないが、すぐ先にアンテナ塔が立っていて、そこに東屋がある。先客のシニア夫婦がいたので隅の方に座ってコーヒーを淹れ、ランチパックでお昼にした。

もう、時刻は午後1時半である。当初の予定では、3時20分頃に出るコミュニティバス・やまざくらGO(号)を目標に下山するつもりだったが、いまからでは間に合わない可能性が大きい。急いで下って転倒でもしたら大変だ。この時点で当初予定のバスはあきらめた。

足の調子を確かめながら、ゆっくりとアンテナ塔から下る林道を進む。ありがたいことに、車も通れる林道で太ももへの負担が小さく、登っている時の耐え難い痛みはなくなってきた。

雨引山までの道は、いつも手入れしている人がいるということで、たいへん歩きやすい。


ところが、雨引山を過ぎて燕山までの道はアップダウンがきつく道も心細くなり、房総の山に似たような感じとなる。


燕山の最後の登りは標高差200mを一気に登る。ロープ場から始まって、階段が延々と続き、太ももが悲鳴をあげた。


燕(つばくろ)山からアンテナ塔の横を通り、いったん林道を下って行く。しばらく進むと大きな拝殿が見えてくる。加波山神社山頂拝殿である。今日加波山神社を名乗っているのはかつての中宮で、麓にある里宮(通常、加波山神社といえばここを指す)もこの系列である。

加波山神社は本宮・親宮・中宮の3社からなり、加波山頂上付近にはそれらのお宮がそれぞれ建てられていてよく分からない。加えて、たばこ神社という摂社や拝殿、石碑が林立しているので、どこがどういう系列なのか部外者には謎である。

いずれの系列も、明治以前は神仏習合の修験道系霊場で一体であった。わざわざ3つに分けたのも、熊野三山に対抗するためだったという説がある。ただ、明治の神仏分離で神社となり、別法人となったことからお互いに対抗する存在となってしまった。

頂上付近で目立つのは「大先達△△記念碑」の大きな石碑で、四国遍路の先達を想像するとたいへん妙なのだが、加波山系の「大先達」というのは千日回峰行の「大阿闍梨」と似た称号で、多くの修行を成し遂げた行者のことらしい。

加波山神社の拝殿を過ぎると、その大先達石碑が並ぶ中、岩場の急坂を登って行く。場所によってはロープを張ってある。拝殿で神社の人がひとり、急坂でシニアの夫婦連れとすれ違った他には誰とも会わない。

再び太ももが悲鳴を上げそうになったが、その前に何とか頂上近くに達した。だが、普通の山のように山名標や三角点がある訳ではなく、お社と石碑が続いているだけである。ひとつひとつのお社に二礼二拍手一礼で拝礼する。

くじけそうになったが、何とかここまで来ることができた。燕山ではこのまま林道を下ってしまおうかと思ったほどだったが、ゆっくり歩いたのがよかったのか回復してくれた。いずれにしても、バスは予定より1本後、5時頃なので日が暮れるまでに下山できればいい。

一番高い場所と思われたお社の写真を撮り、後方を振り返ると先ほど通ってきた燕山のアンテナ塔がきれいに見えた。ただ、帰って調べるとここは加波山神社(中宮)山頂本殿というお宮だったようだ。

加波山の最高標高点としての山頂は、いちばん奥の加波山本宮という場所らしい。そのお宮の周囲にはいままでにも増して多くの石碑が二列三列に並んでいて、どこへ参道がつながっているのかよく分からない。

1/25000図では山頂の東から麓へ続く道があるはずなので右方向を探すと、下に続いている階段を見つけた。しばらく下っていくと、WEBで見たことのある会所のような建物があった。ここを下れば、麓に下れるはずである。

さて、加波山というともう一つ有名なのは自由民権運動の加波山事件である。ただ、加波山に立てこもったというけれどもそれほど大きな施設は頂上付近にはなく、どこがその舞台であったのかよく分からない。

現在の建物である程度の人数が入れるのは加波山神社拝殿と本宮の会所であるが、いずれも十数人といったところで、それほど多くの人数が集結できる場所ではない。

大きさからいえば、過激派学生が武闘訓練をした福ちゃん荘の方がよっぽど大きい。おそらく、加波山に集結したのは人里離れた攻撃されにくい場所だからというよりも、古くから山岳霊場として信仰を集めた神様の加護を頼む意味が強かったのではないかと思う。

燕山の頂上には何もない。すぐ先にアンテナ塔が3つあり、そのそばに東屋がある。


加波山まで行かないことにしようと思って歩いたが、足も復活してきたので最後のひとがんばり。


加波山の頂上付近から振り返ると、燕山のアンテナ塔がよく見えた。


次のバスは午後5時前なので時間は大丈夫だが、かと言って日が暮れる前に麓に着かないと心細い。かつて奥多摩で、やはり冬場に、下山途中で日が暮れてヘッデンで歩いたことがあった。あの時も午後5時前に真っ暗になった。山の日の入りは早いのである。

会所らしき建物の下には立派な鳥居があったが、そこまでの石段は足を置く場所が足の大きさの半分くらいしかなく、転がり落ちそうだった。昔の人はそんなに足が小さかったのだろうか。

会所の建物は古く見積もっても昭和後半頃のもので、それほど古くはない。ここまで車も重機も入れないはずなのに、どうやって建てたのだろう。奥多摩の天祖山にも同じような会所があったが、あれはもっと古い建物でまさに人力で作った雰囲気だ。

鳥居から下は、幅の狭いスイッチバックの急坂が続く。かつては多くの信者が通った参道なのだろう。道端には石碑や丁石を見ることができる。ただ、丁石は連続していないし、石碑は文字が薄くなってしまっている。

20分ほど下りたところで、車の通れる林道に出た。一安心してどちらに進もうかと1/25000図を見ると、左に行くと山の中腹で切れてしまっているし、右に進むとかなり前に通った燕山の下あたりまで続く。どちらも不正解で、正解は林道を突っ切った先であった。「真壁方面」と、壊れかけた案内看板があった。

再び、細く急傾斜の道であった。「本宮参道八合目」という石碑があるので参道であることは間違いないし、ここが1/25000図の破線なのだが、落ち葉が深く積み重なって、しばらく人が歩いた形跡がない。この日は1月3日だというのに。

加えて、落ち葉の下が深く掘れて段差になっていたり、滑りやすくなっていたりするので慎重に歩かなくてはならない。だから、なかなかペースが上がらない。

それでも何とか、山頂から1時間半、まだ日が高いうちに登山道から林道に出ることができた。下山口は使われなくなった採石場で、かつて石を切り出して運んだ跡が残っている。その脇から、いま下りてきた加波山本宮への登山道が始まっていた。

林道を5分ほど進むと、大きな鳥居と加波山本宮参道の石碑のある分岐点に達し、山から下りてきたコンクリ道と合流した。おそらく、加波山神社山頂拝殿から下りてくる道なのだろう。

ここから先は舗装道路を下って行くだけなのだが、意外と距離があってバス通りまで出るのに時間がかかった。加波山神社の里宮に着いて登山の無事をお礼したのが午後4時、そこから住宅街の曲がりくねった道を進み、4時半頃バス通りに出た。

コンビニを探してバス停一つ歩き、午後5時前のコミュニティバスで筑波山口へ。バスを待っている間に、目の前の西の空に太陽が沈んで行った。結構危ないタイミングであった。

つくバスに乗り換えてつくばセンターへ。初めて乗るつくばエクスプレスで流山おおたかの森まで行き、東武線・北総線で家に帰った。標高700mで情けないことだが、3~4日は太ももがひどく痛んだ。

この日の経過
JR岩瀬駅(14) 8:30
9:10 御嶽神社(180) 9:20
10:10 雨引山(409) 10:15
11:25 燕山2.4k道標(399) 11:30
12:55 燕山(701) 13:25
14:00 加波山(708) 14:10
15:35 下山口(249) 15:40
16:40 白井バス停(50) [GPS測定距離 14.4km]

[Mar 2, 2020]

加波山の頂上付近にはお社が4つ5つある。ここが一番高いと思ったのだが、この後にある本宮の方が少し高いようだ。


標高700mから下るので楽ではないとは思ったが、この下りは長かった。落ち葉が積み重なって、下の地面が滑りやすかったりする。


麓まで下りて加波山方向を振り返る。なんとか明るいうちに下りてくることがではたが、バスを待っている間に日が暮れた。


吾国山・難台山 [Jan 30, 2020]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

前回登った加波山では、予想外の苦戦をしてしまった。確かに、房総の300m400mと違い、茨城の山は低いといっても加波山・燕山は700mある。そんなに簡単に登れるものではなかったのだ。

次回は、あんなバテ方はしないようにしようと機会を探っていた。2020年1月はまるで秋雨前線のような前線が南海上に停滞して、ぐずついた天気が続いたが、月末になって2つ玉低気圧が通り過ぎると一転して春の陽気となった。

これを見逃す手はない。なんといっても、こういう場合に気楽に動けるのがリタイアしたメリットである。1日で準備して、1月30日の木曜日、再び常磐線から水戸線を目指す。

今回の目的地は前回登った加波山の東側、ちょうど雨引山・燕山・加波山と向かい合って並んでいる吾国山(わがくにさん)・難台山(なんたいさん/なんだいさん)である。2座とも、ちょっと変わった名前である。

スタートは水戸線の福原駅。福原の前は稲田駅だ。稲田って聞いたことがあるな、とつらつら考えて、親鸞が流罪の後で関東に移って布教した場所であることを思い出した。

調べると、福原と稲田の間あたりに稲田御坊西念寺というお寺が残っている。不公平がないように大谷派(東本願寺)・本願寺派(西本願寺)いずれにも属していないそうだ。

8時15分に福原着。跨線橋を昇り降りして駅舎へ。下りたのは私ひとりだった。駅前の通りは一車線。車のすれ違う幅はあるけれども、ちょっと心細い。そういえば、茨城ってこういう道が多かったと思い出す。

ハイキングコースには、案内看板がこまめに立てられている。㉓、㉒と番号が振ってあるのは案内看板の番号で、住宅地では曲がり角ごとにあって分かりやすい。

それにしても、いい天気だ。風もなく暖かい。冬とは思えない陽気である。北関東道の高架下から折れて山に向かう。右手には、前回登った燕山・加波山が見える。ヒヨドリが大声で鳴いている。家にもよく来るのだが、同じように聞こえるのは親戚なのだろうか。

しばらく歩くと、案内看板と丁石がダブルで置いてあった。「従是我国山二丁目」と書いてある。昔は我国山と書いたようだ。この丁石は三丁目・四丁目と続いて案内看板と同じ役割を果たす。何丁目まで続くのか分からないのが難点だ(山頂直下で三十五丁目だった)。

JR福原駅前通り。茨城県には、駅前でも一車線というところが結構多い。


北関東道の高架下から、吾国山への登山道に向かう。丁石が三十五くらいまで続いている。


この前登った燕山・加波山が間近に見えた。


丁石の道はいったん未舗装の細い道になり、再び舗装道路に出て、十二丁目あたりで森の中に入る。傾斜がいっぺんにきつくなるが、急傾斜というほどではない。あまり日が差さず、普通の冬の日だったら寒いかもしれないが、寒さはまったく感じない。

再び舗装された林道に出て、そこを横切って登山道が続く。さらに登ると、防護柵で植生保護している斜面に出た。カタクリ群生地と書いてある。途中で道が分かれるが案内標識がない。

人工物の見える方が頂上だろうと思って登って行くと、宗教の教祖らしきお墓であった(後から調べたら、我国神徳社という宗教法人で、下妻に神社がある)。昭和三十年代の石碑がある。今でもきちんと手入れされているようで、周囲は整然としている。

しかし、ここは頂上ではない。向こうにベンチが見えるのでそちらだろう。植生保護柵に沿って歩いていくと、もう一登りで頂上だった。福原駅から2時間弱で吾国山頂上に着いた。

頂上には比較的新しいお宮があり(田上神社という)、一枚岩を削った大きな手水鉢が置かれている。どうやって運んできたものだろう。ここまで歩いてきて、会ったのはカタクリ群生地の手入れをしていた人だけで、山頂も一人占めである。

お宮の前にはベンチが2脚並んで、そこから北側の展望が開けている。すばらしい景色だ。「吾国山」とは変わった名前だと思っていたが、これはまさしく「国見山」だと思った。国見山なら、全国各地にある。おそらく、同じ意味である。

笠間市街からゴルフ場の後方は、仏頂山から高峯、茨城・栃木県境の峰々である。その端に日光の山々がちらっと見えて、さらに左、北西方向に広がっているのは上信越の山。今年は雪が少ないといわれるが、山頂は白くなっている。

この頂上から東と南の展望は開けないので、「吾国山」と名付けたのは、おそらく笠間あたりに勢力を持っていた豪族であろう。笠間には日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷があり、古くから開けた土地であった。

しばらく展望を楽しんで、山頂から下りる。ここからの下り坂は結構な急傾斜で、しかも滑りやすい地盤である。急坂を下って行くと、登山道のゲートがあり、その下に林道が通じていた。

林道を下って行くと、正体不明の建物に出た。門構えも車寄せも立派なのだが、何の建物なのか名前が書いてない。車が見えないのだが、中から犬の鳴き声が聞こえるので誰か住んでいるらしい。

帰ってから調べてみると、ここは洗心館という茨城県の施設跡で、かつては林間学校などに利用されていたが不採算のため閉鎖され個人に売却されたという。福祉施設などに使うならともかく、個人では使いきれないし管理もできないように思うのだが。

そしてハイキングコースの矢印は、この建物にそって続いている。かなり心細いが道はちゃんとしているので進む。やがて森の中に入り、坂を下りきったあたりで再び林道と合流した。

そこが道祖神峠で、石岡市と笠間市の境界のようだ。林道は東西に下って行くけれども、ハイキングコースは南北に続いている。ここからは、難台山に向けての登りである。

吾国山頂上からは、北西方向の眺めが広がる。いわゆる国見山であったのだろう。


吾国山からいったん下って林道に出る。下に見えるゲートの先が林道で、前日の大雨による水がまだ流れていた。


正体不明の施設横(洗心館跡)を通り、心細い道を下る。この先で再び林道と合流すると道祖神峠。笠間市と石岡市の境界である。


道祖神峠からしばらくは砂利道の緩やかな登り坂だったが、やがて傾斜のきつい坂道となる。斜めに丸太が埋めてあって、その上をスイッチバックしていくような道である。かなりきつい。吾国山も難台山も同じような高さのはずなのだが、下った以上に登らされているように感じる。

そして、急に風が強くなったのが気になった。正午が近づいて強くなったのか、山の上だからなのかよく分からないが、左右の林がびゅうびゅう鳴っている。その割に体には感じないから、おそらく南風なのだろう。

この風で頂上では休めそうになかったので、ちょうど現れた平らな岩に腰掛けてお昼休みにする。正午過ぎだった。粉末のレモンジュースを溶かして、ランチパックと菓子パン。菓子パンはルックチョコレート味という妙なものにした。

山の陰になるためかほとんど風は当たらない。木々の向こうから、燕山・加波山が間近に見える。平らな岩も座り心地がよく、意外とゆっくりできた。

体力をチャージして、再び山頂を目指す。休んだ場所からは10分ほどで着いたのだが、頂上は広いもののベンチがなかったので、かえっていい所で休めたのかもしれない。犬を連れたおじいさんが休んでいた。強風がおさまってきたのは、何よりのことであった。(後日、山頂にある祠の後ろ側に腰掛けられる岩と展望地があったことに気づいた)

頂上直下でゆっくりしてしまったので、難台山通過は予定より30分ほど遅れてしまっていた。写真を撮って、すぐ出発。南側の登山道はごつごつした岩場で、筑波山と似たような感じだった。

さて、「難台山(なんたいさん)」とは変わった名前である。はじめは、よくある「男体山」に難しい漢字を当てたのだろうと思ったのだが、双耳峰ではないし近くに相対する山もない。なぜこういう名前になったのだろう。

考えられるのは、この山の南側に難台山城という山城があったので、城の名前が山の名前になったのではないかということである。南北朝時代にここで籠城戦があったという史実があり、攻めるのに難しい城という意味で名付けたのかもしれない。

岩場の急斜面を下って行くと、この「難台山城」に至る分岐となり、その先に屏風岩だの、天狗の庭だの、なんとか鼻だの、奇岩が並ぶ台地となる。あるいは、ごつごつした岩の台地ということで「難台山」となったのだろうか。

難台山から先は、それほどきつくなさそうだと思っていたのに、予想に反してこの先もアップダウンが続く。大福山の山名標のあるピークまで登り、いったん下ってさらに432ピークの三角点まで登ると、さすがに息が切れた。

三角点のピークには短く切った木がベンチのように組まれていたので、その上に腰掛けさせてもらう。吾国山・難台山とはまた違う景色で、ここからは南東に向けての景色を楽しむことができる。

木々が目隠ししてはいるものの、筑波山が顔を見せた。筑波山から続く峰々とこちらの山並みの間の平地は、八郷盆地と呼ばれる。南側は霞ヶ浦になるので正確には盆地とはいえないだろうが、山々に挟まれて開けた土地である。

かつて、ここには八郷町という町があった。いまでは、石岡市と合併している。筑波山麓ではユースホステルが閉鎖となって久しいし、この日の午前通った洗心館も県の施設が閉鎖されている。その中で、国民宿舎つくばねはいまも営業している。場所的に、かつての八郷町営だったはずである。がんばってほしいものである。

道祖神峠からはきつい登りが続く。ようやく、難台山の姿が見えてきた。


難台山頂上は広くなっているが、ベンチはない。手頃な場所で昼休みにしておいてよかった。


難台山直下は筑波山とよく似た岩場。


この日いくつめの峠になるだろう、432三角点からの急坂を下りると団子石峠だった。峠の少し前に、団子石という巨石があるが、あまり団子のようには見えない。時刻はもう2時10分前である。

この先、ハイキングコースは愛宕山へと続いているが、これ以上アップダウンを歩くのは嫌だし、うっかりすると日が暮れる。ここから林道を下るエスケープルートがあるが、所要時間は不明である。

それでも、麓まで1時間、麓から岩間駅まで1時間の合計2時間みれば大丈夫だろう。午後4時には駅に着くことができる。前回、加波山でバス停まで着く頃には日が暮れてしまったので、ああならないようにしなければならない。

ということで、林道を下って行く。車も人も、まったく通らない。そして、舗装道路なので右足と左足を交互に出していれば着実に高度を下げることができる。1時間とみていたが、30分経つ頃には山の中から太陽発電基地のある麓に着くことができた。

ここまで来ればひと安心である。しばらくは、1月とは思えないくらい暖かい日差しの下、北に笠間の山並み、南に登るはずだった愛宕山を見ながら、あとは駅まで歩くだけとのんびりと歩を進めていたのである。

しかし、好事魔多しとはよく言ったもので、ここから岩間駅までたいへんなことになったのである。

後から考えると、山の中の地図はちゃんと用意していたのに市街地の地図は持っていなかったこと、エスケープルートを下りてからの下調べもしていなかったこと、GPSを持っているのにきちんと方角を確認しなかったことなど、あまりに油断していた。これが山の中なら、遭難である。

とにかく、東に進めばいずれ常磐線に当たるだろうと軽く考えていた。後からGPSを調べると、岩間駅まであと500mくらいまで進んでいながら、いつのまにか北に進路を変え、およそ5kmほど遠回りしたのである。

駅へ行く道だから太い道に違いないと思って、大型車通行止の道に入らなかったのがいま思うと大間違いで、そのまま進めば駅まですぐだった。そこから片側一車線の道に出たのだが、東に向かうつもりで駅とは反対側に向かってしまったのである。

ずいぶん歩いて常磐線をまたぐ陸橋に達した頃には、もう午後4時だった。どちらを見ても駅などない。仕方がないからそのまま進んでミニストップに入り、ソフトクリームを頼みながら駅への道を聞くことになってしまった。

店の人に聞くと、目の前の道を南に進んで役場の先を右折すれば駅らしいが、歩くと遠いですよというような反応である。とはいえ、歩くしかないのである。

その通り歩いて行くと、なんと進行方向に愛宕山が見えて、完全に行き過ぎたことを思い知らされた。そして、日没間近の強烈な西日を真正面から浴びながら、前を向いて歩くのもまぶしくてつらいくらいであった。

岩間駅に着いたのは午後4時40分、電車を待つ間に日が暮れた。ちゃんと歩いていれば見込んだとおり午後4時には駅に着けたはずであるが、再び加波山と同じようなことになってしまった。山の中でこうならなかっただけ、ラッキーと思うしかない。

(後日、岩間駅までもう一度歩いた。太陽光発電装置のあたりから岩間駅までちょうど1時間だったので、間違えなければ午後3時半には駅に着けたはずである。)

ただ、合計20km以上歩いて、結構アップダウンもあったのに、太ももはあまり痛くならなかった。冬になって定期的に山を歩くようになったので、効果が出てきたようでそれはそれでうれしい。

この日の経過
JR福原駅(59) 8:20
8:50 鳥居下(103) 8:55
10:15 吾国山(518) 10:30
11:05 道祖神峠(310) 11:05
12:05 頂上直下(483) 12:25
12:35 難台山(553) 12:40
13:25 432三角点(432) 13:30
13:50 団子石峠(298) 13:55
16:40 JR岩間駅(42) [GPS測定距離 22.0km]

[Apr 2, 2020]

難台山から先もアップダウンが続く。午後2時になったので団子石峠からエスケープルートを下ることにした。


麓まで1時間かかるかと思ったが、30分ほどで下りてきた。後方は登るはずだった愛宕山。


笠間の山々を見ながら暖かい冬の道を歩く。この後、岩間駅の近くまで行ったのに5kmほど遠回りしてまたもや日が暮れた。

加波山・足尾山 [Feb 10, 2020]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

このところ、茨城の山歩きが続いている。前回は吾国山・難台山を歩いたのだが、今年初めに登った加波山にも心残りがあった。自由民権運動ゆかりの旗立石も見なかったし、別のお宮を勘違いして加波山頂だと思っていたからである。

ただ、ここに行くとすれば公共交通機関では時間をロスするので、自動車を使える日にする必要があった。ちょうど、風もおさまりそうな日に自動車が空くので、再度加波山を目指すことにした。

2020年2月10日、建国記念日の前日である。まだ暗い午前6時前に出発する。車で山に行くのは久しぶりで、2019年1月に房総の大台山に行って以来である。館山の近くまで行くと2時間以上かかるので、時間的にはむしろ筑波山系の方が近い。往路は高速を使わず、研究学園都市から筑波山麓に向かう。家からほぼ2時間、午前8時前に真壁休憩所に着いた。

真壁休憩所は、昭和終わりまで運行していた関東鉄道筑波線の旧・真壁駅である。筑波線の廃線跡はりんりんロードという自転車・歩行者専用道路となっていて、その休憩所として使われている。駐車場とトイレ(この日は工事中で、仮設トイレも鍵がかかっていた)がある。

前回、加波山から下山した時バスに乗った白井バス停までバス停2つ分、りんりんロードを歩いて行く。犬の散歩をする人や自転車で通学する生徒さん達とすれ違いながら、ゆっくり歩く。こういう廃線跡は、高知の遍路道にもあったことを思い出す。

風景が開けると、グランドレベルからでも日光連山を望むことができる。ぼんやりと霞んではいるものの、上の方は雪をかぶって光っている。あれが男体山、こちらが日光白根山だろうか。家からだと筑波山がちょうどこんな風に見える。筑波山まで来ると、今度は日光の山々が見えるのだ。

見覚えのある郵便局で県道に復帰し、小学校で方向を山の向きに変える。これから歩く加波山から足尾山への稜線が、屏風のように眼前に広がる。結構、高く感じる。

先日下った時はそれほどの坂だとは思わなかったのだが、登るとなると結構な登り坂である。農家や石材店を通って、加波山神社まで来た。まだ1時間経っていない。Google mapで調べたよりも早い。

登山の無事をお願いに本殿前に進むと、こちらの拝礼は二礼四拍手一礼と書いてある。出雲大社や宇佐八幡宮と同じである。どういう謂れがあるのだろうか。

加波山神社から30分で登山口着。身支度を整えて登山道を登り始める。住宅地を歩いている時は急坂だと思ったのだけれど、ここからの登山道は下りの時に感じたほど急傾斜には思えなかった。それほどペースダウンせずにスイッチバックの坂をこなしていく。

さすがに林道分岐まで休みなしという訳にはいかず、五合目と八合目の真ん中くらいで水分補給の小休止。林道分岐のベンチでもう一度休んで、加波山本宮のある山頂まで登山口から90分、真壁休憩所から3時間で着くことができた。

下りと登りとで、それほど時間が変わらない。最近こういう傾向が顕著である。本宮の拝礼方法は書いてなかったので、通常通り二礼二拍手一礼で登頂の無事を感謝する。本宮の足元に三角点もあり、ここが加波山の頂上である。前回も通ったけれど、頂上だと認識していなかった。

と、拝礼が終わるか終わらないうちに、「あら、先に登った人がいた」という声。加波山神社の方から登ってきたシニア夫婦であった。祠の前は何人も一緒にはいられないので、リュックを持って場所を空ける。

「本宮の参道を来られたんですか?」
「ええ、そうです」
「そちらも舗装道路ですか?」
「いえ、ほとんど登山道ですよ」

と話をする。どうやら加波山神社経由の道は舗装道路で、足腰には厳しかったらしい。帰りは本宮参道で帰ろうかと二人で話していた。

さて、私の方は次なる宿題、旗立石の所在を確かめなければならない。

真壁休憩所からリンリンロードを歩く。かつての関東鉄道筑波線の廃線跡である。


加波山に向けて、前回下山した道を登って行く。この日歩く、加波山から足尾山にかけての稜線が屏風のように広がる。


コースタイムどおり、登山口から90分で加波山頂上到着。すぐ後にシニアご夫婦が登ってきたので、場所を空けるためすぐ出発。


いったん社務所に戻り、一本杉峠の案内に従って林の中の道を下って行く。5分ほど進むと、筑波山の反対側、八郷盆地に向けて景色が開けてくる。そこに自由民権運動ゆかりの旗立石がある。

加波山事件で自由民権運動の活動家達が立てこもったのは、加波山本宮の社務所だったらしい。もちろん、いまのサイディング張り現代建築とは違い、掘立小屋に近かっただろうけれど、ともかく「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、政府の横暴を世に訴えたのである。

歩きながら、加波山事件と浅間山荘の違いについて考えた。自由民権運動と連合赤軍を一緒にはできないが、1960年代には世界同時革命はいまよりずっと現実味があったのだ。

自由民権運動の結果、議会ができて憲法ができたけれども、それでも日本は第二次大戦に突進し惨敗した。現在まかりなりにも選挙で選ばれた政府ができているのは、自由民権運動の成果というよりもアメリカのおかげである。

遠く望むことができる上信越の山々は、連合赤軍リンチ事件の現場であった。自由民権運動にあって連合赤軍になかったものは、山を畏れ敬う気持ちだったと思う。あのような血なまぐさい事件を起こして、山の神が怒らない訳がないのだ。

旗立石を少し下ったところが広く平らになっていて、ベンチが3つ置かれていた。すでに先客がいたし、東屋は風力発電所のあたりと思っていたので、先に進むことにする。進む先は、「駐車場→」ではないだろう。ところが、しばらく笹薮の坂を下った後、ロープが出てきた。

ロープはなくても大丈夫なくらいだったが、その先が斜めっているトラバース道で、霜が下りていて滑りやすい。そして、もし滑ると、その脇は手すりも何もない急斜面が、少なくとも十数m下まで続いている。

道自体はその先の岩場を越えて続いていたけれども、関東ふれあいの道がこういうグレードというのはおかしいし、仮に正規の道であったとしても危なくてとても進めない。それに、南を目指しているはずなのに、何だか西に向かっている。

狭い道を何とかUターンして、ロープ場を登り、先ほど通り過ぎたベンチに戻る。ちょうど先客が出発するところだったので、落ち着いて善後策を考えることにした。

この日は、時間に余裕があるはずだったので、EPIガスを持って来た。お湯を沸かしてインスタントカフェオレを淹れ、ランチパックでお昼にする。いまさっきの撤退は不本意だったが、時間にしたら15分か20分のロスであり、被害は最小限で済んだだろう。それより、どこに進むかである。

行先表示は「←加波山神社 駐車場→」である。こう書いてあれば、普通は加波山神社の駐車場と思うだろう。足尾山に進めず戻ることになる。まあ、さっきの道は進めないし仕方がないとあきらめた。方向からすると、加波山本宮社務所の下の車道が、ここにつながっているのだろうか。

ゆっくり休んで出発。駐車場に向かうという道は、手すりの付いた木段でかなりの高規格である。ひとしきり下って行くと、木立ちの間から風力発電所のプロペラが見えてきた。こちらの道が正規の高速登山道だったのだ。

先ほどの危ない道は、大きな石碑もあったので行道かもしれない。「10時14時に発破があります。石に近づかないでください」などと、登山客向けのようなことを書いてあるからまぎらわしい。滑落事故でもあったらどうするのだろう。

こういう場合は、「関東ふれあいの道→」か、せめて「一本杉峠→」と書いてもらえないと、この山が初めての人には分からない。そして、この後コースどおり歩いたのだけれど、駐車場は山を下りるまでなかった。かといって、加波山神社の駐車場に戻る道も見当たらなかった。「駐車場→」とは、いったいどこの駐車場なのだろうか。

ともあれ、高規格の下り坂を進むと風力発電所の足元に出て、そこから車道が続いていた。10mほど登った所に東屋らしき屋根が見えたが、行ってみると屋根は錆びて穴が開いており、ベンチやテーブルも、案内板もなかった。

自由民権運動の加波山事件ゆかりの旗立石は、社務所から下って八郷盆地を望む高台にある。すぐ下に休憩ベンチがある。


ところが、ベンチ前にある行先表示で進路を間違えてしまう。「駐車場」って、いったいどこの駐車場なのか、謎である。


駐車場と指示してある方向に下ると、丸山の風力発電所に出る。東屋のように見える屋根は、朽ち果ててベンチもない。


加波山から足尾山に向かう林道で、たいへん目立つのは「←石岡市 桜川市→」の案内看板である。少なくとも二十以上ある。関東ふれあいの道の行先案内かと思って近づくとこれなので、とてもがっかりする。

行政にとっては、市の境界を示す重要な看板ということになるのだろうし、境界が入り組んでいるのでこんなものを立てるのだろうが、登山客にとって何の情報にもならない。林界標のように目立たなくしてほしいものである。

一本杉峠まで下ると、交差している車道のいくつかに「通行止」のゲートが置かれている。そして、関東ふれあいの道の案内にしたがって進むと、林の中で道がV字型に戻ってきて、再び林道脇に出てくる。たいへん分かりにくい道である。

そして登山道は、始めはガレ谷をさかのぼるような道であったものが、次第に尾根に登る急登となり、かなり息が切れる。休みたいなと思ったところに東屋が出てくる。一息ついて再び急登で、そろそろ頂上だろうと思うとまた林道と交差する。

次に林道と分かれるのは「足尾山頂→」の案内板である。急登をひいこら言いながらクリアして、あそこが頂上だろうと思って近づくと、そこは肩である。さらに標高差30mほど登って、ようやく頂上に達する。

足尾山頂は苦労して登ってきただけのことはある絶景である。きれいに石組みが積まれて、その上に石造りの小さな祠が置かれており、「葦穂山」と彫られている。足尾神社奥宮である。祠の背後には通ってきた加波山や風力発電所のプロペラが見える。

そして、左手には、筑西から栃木県、上信越の山々に至る広大な風景が広がっている。ちょうどその景色が望める位置に、ベンチ代わりに平らな石が置かれている。

せっかくなので、腰を下ろして眼下の眺めを楽しむ。この絶景を独り占めできるのはうれしい。どこからか話し声が聞こえるのだが、ひとの来る気配はない。おやつに用意したミックスフルーツを食べる。

山頂は風があると長居できないのだが、幸いなことに風もない。2月半ばではあるが、風もなく日当たりがいいのでうれしくなるくらいの暖かさである。しばらく景色を楽しんでから、古びた石段を下ると足尾神社の拝殿がある。

WEBで探すと足尾神社のホームページがあり、そこに載っている山頂奥宮は崩れかけたこじんまりしたものだが、現在はもっときちんと整地されている。下った場所にある拝殿、社務所、草鞋奉納所もホームページより実際の方が新しいので、最近になって改築されたのだろう。

草鞋奉納所には多くの靴やスポーツシューズが納められている。このお宮は足の病に霊験あらたかで、古くは醍醐天皇が快癒を祈願して効能があったという。

醍醐天皇といえば、醍醐と呼ばれる牛乳の発酵食品(今日のチーズケーキか?)が大好物で、「醍醐」とおくり名された平安時代の天皇である。たいへんおいしいという意味で今日も使われる「醍醐味」は、ここから採られた言葉である。

発酵食品だけでなく、醍醐天皇は多くの妻妾を持ち皇子皇女もたくさんいた。当時、清和天皇-陽成天皇の皇統から、遠縁である醍醐天皇の系統に変わる時期であり、多くの子孫を持つ必要もあったのだろう。のちに後醍醐天皇が「後」醍醐とおくり名せよと遺言したのは、そういう意味合いもあったのかもしれない。

ともあれ、美食、多くの妻妾で足が痛いということになると、醍醐天皇の足の痛みは痛風だったのではないかという疑いがかなり濃くなってくる。

そうすると足尾神社のご託宣は、「好きなものを絶ち、朝晩私を拝みなさい(運動しなさい)。さすれば、足の痛みは遠のくであろう」というものであったかもしれない。きっと効果があったはずだ。

拝殿からは簡易舗装の道が林道まで続く。落ち葉の積もり方からみて、それほど前に造られた道ではなさそうだ。おそらく、拝殿・社務所の改築時に簡易舗装されて、重機やトラックがここまで登ってきたのだろう。

一本杉峠までは舗装された林道、そこから足尾山までは舗装道路と登山道を交互に歩く。足尾山の肩までは急坂。


足尾山頂には足尾神社の奥宮が祀られている。背後には、加波山と丸山のプロペラ発電がよく見える。


ベンチ代わりの石に腰掛けると、目の前に筑西から栃木県にかけての景色が広がる。この日一番の絶景である。


足尾神社の簡易舗装から先は、きのこ山までちゃんと舗装された林道である。距離は3km弱あるが、さほどの傾斜もなく平地と変わりなく歩くことができる。

ここからきのこ山の間にはパラグライダーのゲレンデがある。足尾山の頂上で、私の他に誰もいないのに話し声が聞こえたのは、上昇気流に乗って声が聞こえていたようである。何人か筑波山側・八郷盆地側両方に待機して、風待ちしていた。

足尾山頂から見ると、筑波山までいくつものピークが連なっている。1/25000図ではきのこ山の他は無名のピークで、歩いている林道の左手にもピークがある。林道はそこまで登らずにトラバースしてくれるので、疲れてくる午後にはかなり助かる。

きのこ山ピークに三角点があるはずだが見つからず、東屋の掲示板に「きのこ山」と書いてあるので、関東ふれあいの道としてはここがきのこ山ということだろう。すぐ下が林道と登山道の三叉路で、登山道が真壁休憩所への帰り道である。

きのこ山から真壁休憩所までこの登山道で下山すると、WEBで探してきた桜川市ハイキングマップには65分で着くと書いてある。でも、そんな時間では着かないだろうとは歩く前から見当がついていた。

そもそも距離が3kmほどあって、標高差が500mある。いかに高速登山道とはいえ、平地と同じように歩けないのは道理である。少なくとも、標高差で45分、距離で45分の合計1時間半かかるはずと考えていた。

パラグライダーゲレンデ横から、行先案内のとおり高速登山道・関東ふれあいの道に入る。高速登山道と私が勝手に呼んでいるだけあって、歩きやすい道である。傾斜の急な場所には手すりがあり、加波山直下で迷い込んだような危険個所はない。

ただ、道案内はやや不親切である。途中の「伝生寺・真壁駅→」の看板では、矢印方向に進むと「この先通れません」と注意書きがあって、進める道には「みかげ→」と書いてあるだけである。土地の人でなければ、みかげと言われてもどこなのか分からない。

さらに、憩いの森という公園に入ったところで、関東ふれあいの道がどこに続くのか行先表示をみても案内がない。安全策をとって「車道(市街方面)→」に進むが、どうやら正規の道は公園内を進むものであったようだ。

それでも、舗装道路になってからも急傾斜の下りが続いたので、距離はロスしたかもしれないが時間のロスはあまりなかったと思う。住宅地に入った時はほっとした。市街の中心は、コメリの看板が見える方向だろう。

公園のあたりで遠回りしたと思っていたので、真壁休憩所はどのあたりだろうと思って歩いていた道の右左を確認すると、真壁城跡だった。なんと、最後はコースどおりに歩いていたのだ。

ところで、加波山中の謎の案内表示「駐車場 →」の示す駐車場は、いったいどこのことだったのだろう。パンフレットによると憩いの森の中に駐車場はあるものの、いずれにしろ麓で、案内看板からは3時間歩くだろう。まだ加波山神社に戻る方が早いが、そんな道はなかった。

真壁休憩所に着いたのは午後4時過ぎ。きのこ山からは、見込みどおり1時間半かかった。この日の計画ではもう少し早く着くはずだったが、加波山で道間違いした分だけ遅れたことになる。とはいうものの、風もなくおだやかな1日だった。この回の山歩きも、翌日以降に足が痛むことはなかった。

この日の経過
真壁休憩所(49) 8:00
8:50 加波山神社(88) 8:55
9:15 登山口(253) 9:25
10:30 林道交差点(618) 10:40
10:55 加波山山頂(706) 11:00
11:20 休憩ベンチ(644) 12:00[道間違い15分を含む]
12:35 一本杉峠(492) 12:35
13:25 足尾山(627) 13:40
14:25 きのこ山(527) 14:35
16:05 真壁休憩所(49) [GPS測定距離 17.2km]

[Apr 27, 2020]

足尾山からきのこ山の林道は、パラグライダーのゲレンデがある。


きのこ山から真壁までは、高速登山道の面目躍如。ただし、憩いの森から先は案内標識が怪しくなる。


真壁休憩所に戻ったのは夕方になった。下りてきたきのこ山方面を振り返る。


難台山・愛宕山 [Mar 17, 2020]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2020年2月にコロナウィルス騒ぎが勃発、全国の学校が臨時休校となり、公共スポーツ施設も休館となった。現役の方々はやむを得ないが、リタイアした老人が公共交通機関に乗ることは差し控えるべきであろう。

例年であればヒルが出る前に丹沢に行く時期だが、昨年秋の台風の影響が残っていて丹沢だけでなく奥多摩、秩父も難しい。房総は昨秋の台風被害が甚大だしすでにヒルがいるはずだ。となると、車で行ける茨城ということになる。

家に車は1台しかないので、奥さんと調整しなければ山行には使えない。天気の兼ね合いもあるので、候補日はさらに限られる。結局、前回から1ヵ月以上空いて3月17日にタイミングが合った。

茨城で、しかも車ということになると、早めに行っておきたいところがあった。1月に団子石峠からエスケープした難台山ハイキングコースである。前回未達であった団子石峠から愛宕山までと、大きく道間違いした岩間駅までのルートを歩いておきたい。

駐車場は、愛宕山頂近くに大きなものがあるらしい。そこから出発するとなると団子石峠まで前回と逆回りになる。せっかくなので難台山から難台山城を経由して下山、岩間駅まで歩いて愛宕山までまた登るという計画を立てた。

午前5時に出発、もう春分なのですぐに明るくなった。すいている一般道を通ったが、すいすい進んで7時前には愛宕山直下の駐車場に到着した。

ここの駐車場は広いしトイレもあり、東側はすぐに愛宕神社の鳥居なので帰りも愛宕山からすぐのようだ。西側にあるロッジの専用駐車場ではないかと少し心配したが、ロッジの駐車場は少し先に別にある。

ロッジ入口にハイキングコースの案内があり、ロッジが並ぶ丘に沿ってしばらく進む。突き当たった先で道がいくつかに分かれていて、そこが唯一分かりにくいところだった。掲示してある案内地図がたいへん分かりにくいのである(東屋と現在地の位置関係が違う)。

結局、そのまま道なりに進めばよく、吾国山から続く番号付き案内板が復活したので安心する。とはいえ、WEBではここからとんでもない場所に迷い込んだ例があるようだから、里山とはいえ油断できないのである。

駐車場から団子石峠まで顕著なコブが6つあり、その数だけアップダウンがあるのだが、道はきちんと整備されている。吾国山・難台山ハイキングコースの中でも、最もハイキングコースらしい道ではなかろうか。

ただし、この朝は霜が下りていて、時刻とともにそれがぬかるんでたいへん滑りやすい登り坂となってしまった。3つ目のコブが南山展望台で、2階建ての木で組まれた展望台が建っている。

ここまで所要時間は45分、ロッジ出口で迷わなければもう少し早く歩けたかもしれない。展望台からは右下に出発した愛宕山の駐車場が見え、その背後に岩間から石岡・千代田の街並みを望むことができた。10分ほど景色を楽しんで出発。

天狗の森駐車場は広くてトイレ・休憩所もある。愛宕山側には愛宕神社の鳥居が建つ(逆光だったので帰りの撮影)。


駐車場から案内表示に従いハイキングコースに進み、公営の宿泊施設スカイロッジに沿って歩く。


3つ目くらいのコブが南山で、大きな展望台がある。出発した愛宕山を眼下に望む。


団子石峠から難台山までは、前回と逆コースである。何回もアップダウンのある急傾斜で登るのはきつそうだと思っていたけれども、案の定きつかった。

最近、下りがつらくてすいすい下れなくなってきていて、登りの方が楽に感じることが少なくない。とはいえ、急登が続くのはさすがに応える。432の三角点ピークまでまず一苦労である。

ここのピークにある木を組んだだけのベンチで小休止の後、いったん下ってまた登る。団子石峠は標高298m、難台山は553m、432だから、まだ半分しか登っていない。

次のピークの手前に下草を刈り取った場所があるのでせっかくだから寄ってみたところ、ここから筑波山・足尾山・加波山の稜線がさえぎるものなく一望できるビューポイントだった。前回は下りだったので、こういう場所があることに気づかなかった。

丸山の風力発電プロペラが間近に見えるし、奥には燕山のアンテナ群も見える。加波山の山腹が茶色く削られているのは、採石場の跡であろう。歩くと結構アップダウンがあるのだが、遠くから見ると本当にゆるやかな稜線である。

展望地のすぐ先に2つ目のピークがあって、そこを下りてからはそれほどの傾斜はない。難台山を下から見ると頂上付近が台地のように見えるのだが、平らではないにせよ団子石峠からのような急傾斜はない。

頂上付近に露出した岩が多くみられるのは、下りの際に気づいたとおりである。獅子の鼻、屏風岩、天狗の庭などと名前が付けられている。筑波山や加波山とよく似た地盤である。別の山になってしまったが、もともとこのあたりは同じような場所だったのだろう。

ほどなく難台山頂に到着、時刻は9時45分。休憩を入れて団子石峠から75分だから、ほぼコースタイムどおりである。前回下りで70分かかっているから、登りでも下りでもたいして時間は変わらないということである。

山頂の祠にご挨拶した後、改めてあたりをよく見回してみると、祠の背後にあたる部分にちょうど腰をかけられる岩があって、そこから加波山方向に眺めが開けていることに気づいた。そういえば、前回このあたりから先客が出発したことを思い出した。

今回は誰もおらず、私ひとりの山頂である。朝方は霜が下りるくらいだったが、日が高くなって暖かく、風もない穏やかな日和である。青い空のところどころに雲が見えるけれども、雨を降らす雲ではない。

岩に腰掛けて、テルモスに入れてきたお湯でインスタントコーヒーを淹れる。このところ、バテたり風が吹いたりしてゆっくりできなかったので、こういうすばらしい景色をゆっくり見るのは久しぶりである。

20分ほどそうしていたら、下からラジオの声が聞こえてきた。後続組が登ってきたようである。この頂上で座れる場所はここしかない。荷物をまとめてそろそろ出発する頃合いである。

団子石峠からは前回通った逆コース。分かってはいたけれどもかなりの急登だ。


432三角点ピークの次のピーク手前に、筑波山から加波山にかけての展望が開けたすごい場所がありました。


前回は気づかなかっただけで、難台山頂上からは展望もあって、ちょうどよく座れる石もあった。


難台山頂から下りてすぐ、100mほどのところに難台山城址への下り口がある。登ってきた道からそれて、そちらに向かってみた。

いきなりの急傾斜である。難台山の頂上部は台地になっていると書いたが、そこから先はこれまでの尾根道より急だ。登山道は狭く、これまでのように整備されたハイキングコースではない。地盤も滑りやすく、一度派手に尻もちをついたほどである。

12~13分、おそらく標高差で100mほど下りてきたあたりだろう。「城址内通路→」の立て札が立っている。案内に従って進んでみたけれど城があったような平地は見当たらず、頂上台地と同様の奇岩が斜面に並ぶだけである。

すぐに崖になって進めなくなり、登山道に合流する。難台山城の由来を書いた手書きの看板が地面に置かれていたので、ここが難台山城に違いない。かなり、イメージと違った。(同じ文面が書かれたちゃんとした案内板が、もう少し下にあった。)

南北朝期の山城としては、すぐ近くに宝篋山城がある。こちらは、山頂部分に城郭や空堀の跡があり、スペース的にも建物がいくつか建てられるスペースのある場所であった(現在も、アンテナ塔やトイレ、ベンチのある広場がある)。しかし、難台山城にはそういうスペースすらないのである。

歩きながら、これでは城ではなく隠れ家だなあと思った。隠れ家にしたところで、加波山事件の舞台である加波山本宮社務所よりもさらに狭く、とても百人単位が立てこもれる場所ではない。

難台山城址からさらに10分ほど下り、林道が始まるあたりに「小田五郎碑」があった。笹藪の中、最近誰も手入れしていなさそうな場所に、高さ3mほどの大きな石碑がある。建てられたのは昭和九年、上の看板にも、県の史跡指定が昭和九年と書いてあった。

昭和九年といえば、第二次大戦に向かって日本国中が軍国化しつつあった時期である。当時、南朝正統論が声高に叫ばれており、難台山城もその一環としてクローズアップされたのではないだろうか。

後から調べてみると果たしてそのとおりであった。昭和九年は西暦1934年で、「一部の軍人・神職・歴史家などにより、後醍醐天皇と南朝の忠臣の功績を顕彰する建武中興六百年記念事業が全国各地において挙行され」たということである。

小田五郎が難台山城に立てこもったのは1387年というから、南北朝合一の5年前である。後醍醐天皇や足利尊氏はとっくに世を去り、楠木正成も北畠親房ももちろんいない。小田五郎には幕府や関東公方に反逆する意思はあっただろうが、南朝と連携するつもりまであったとは考えにくいところである。

何よりも、難台山城にそれほどの人数が立てこもれるはずがなく、「南朝最後の激戦」とは言いにくい。関東公方vs豪族の構図では当地を舞台とした50年後の結城合戦が知られるが、こちらの城攻めは結城合戦絵巻が残されていて、かなりのスケール差がある。

おそらく、軍国化の中で何が何でも南朝、何が何でも反室町幕府ということで、昔の人達が無理して探してきた城跡であり事件であったのではないか。当時、岩間町長はじめ千人が参列して小田五郎追弔祭が挙行されたという。

小田五郎碑から少し戻り、集落への近道を下って行く。道はずいぶんきちんとしてきたが、それでも結構な急傾斜である。もう一度林道と合流すると道幅が広くなるが、人里へはまだ遠い。

人家が見えてきたのはこの間通った太陽光発電施設の近く、団子石峠から下る林道と合流するあたりだった。ここまで難台山頂から1時間10分かかった。

参考資料:「小田五郎挙兵難台城址追弔碑について」 笠間市史研究員 萩野谷洋子(広報かさま令和2年2月号)

難台山城址を歩くけれども、奇岩が並ぶだけで平らな場所がほとんどない。城跡というより隠れ家だったのではと思った。


城址から相当下り、小田五郎顕彰碑からもかなり歩いてようやく案内看板に到達。


麓から見た難台山(右の峰)。難台山城は山頂からかなり下った場所にあり、下からは見えなかっただろう。


前回は岩間駅への道を間違えてひどい目に遭ったが、間違えた場所は「大型通行止」で曲がったからだと分かっていた。ここを直進するとすぐに交差点に出て、近くにヤオコーが見えた。ヤオコーの先が駅前通りである。

そうやって間違えずに歩くと、林道合流点から岩間駅までちょうど1時間だった。団子石峠からだと1時間半ということであり、前回かかった3時間弱はいったい何なんだということである。

駅前のベンチで一休みして、愛宕山に戻る最後の登りである。駅前通りを引き返し、住宅地を抜ける。現在は営業していない結婚式場や、よく分からない宗教施設の少し先で登山道に入る。さんざん下ってきた後の登りは、さすがに厳しい。

林の中をひと登りすると、朝方車で通ったスピンカーブの道に出る。車道の脇に鳥居が立っていて、河津桜が植わっている公園の急傾斜を登る。ここもさすがにきつい。

再び車道と合流してしばらくは楽になったが、3たび道が分かれて愛宕神社の参道になる。石段がどこまで続くのか分からないくらい上まで続いている。1日歩いた後のこの最後の登りは、さすがにつらかった。

標高300mくらい大したことはないと思っていたが、とんでもない思い違いであった。愛宕神社着は13時30分、岩間駅からちょうど1時間のコースタイムどおりである。ずいぶんきついと思ったのだが、その割には善戦している。

石段は、参道の「日本火防三山の一」石碑から300段くらいあった。手水鉢があり、さらに十数段登ってようやく本殿である。本殿正面には天狗のお面が飾られている。いろいろなところに描かれている神社の紋も、天狗の使う羽団扇である。

愛宕信仰と天狗は結び付きが強い。伝説では、役行者が京都愛宕山で八大天狗の太郎坊に遭遇したのが愛宕信仰の始まりといわれる。さらに飯縄信仰とも結びついて、室町から戦国時代には多くの信者を集めた。

上杉謙信は兜に飯縄権現像を飾ったし、上杉景勝の家臣直江兼続の兜の「愛」は、愛宕権現である。上杉家だけでなく、室町幕府管領で「半将軍」と呼ばれた細川政元も愛宕・飯縄信者として有名である。

しかし、愛宕山周辺で「天狗の森」「天狗通り」があるのは愛宕神社があるからだけではない。ここは、江戸時代の国学者・平田篤胤が天狗少年から話を聞いた「仙境異聞」の舞台なのである。

平田篤胤は国学者・神道家として多くの弟子を持ち多くの著作を残したが、ある時期から超能力とか死後の世界に深い興味を持った。

天狗少年は子供の頃行方不明になって何年か後に帰ってきたが、その間天狗に連れられて外国や異世界を訪れたという。篤胤は天狗少年から聞いた話を文章や絵に残し、神仙の住む世界があることを確信したのである。

天狗少年の述べたことが本当なのかどうかよく分からないが、愛宕・飯縄信仰では修行によって天狗のように空を飛んだり、戦をすれば負けることがないと信じられたという。天狗少年のイメージの背後に、そうした信仰の影響は間違いなくあるだろう。

愛宕山の頂上を探して本殿の背後の一段高くなっている奥宮のあたりを歩いたのだが、よく分からなかった。もともと、愛宕山頂上には三角点はないので(標高差で30mほど下にある)、山名標もないのかもしれない。

登ってきた石段から右45度の方向にきちんと組まれた参道があり、そこを下って行くと駐車場の大鳥居に出る。休憩所が開いていて、アイスクリームと三ツ矢サイダーを買った。日帰り入浴は自粛中でどこもやっていないので、車の中で着替えて家に向かった。幸いなことに、この回も足腰が痛むことはなかった。

この日の経過
天狗の森駐車場(260) 7:05
7:50 南山展望台(382) 8:00
8:25 団子石峠(298) 8:30
8:50 432三角点(432) 9:00
9:45 難台山(553) 10:05
11:15 林道合流点(103) 11:15
12:15 JR岩間駅(32) 12:30
13:30 愛宕神社(293) 13:45
13:55 天狗の森駐車場(260) [GPS測定距離 14.8km]

[May 25, 2020]

いったん岩間駅に戻り、引き返して愛宕山に向かう。


登って下った後、麓から登りはさすがにしんどい。そして、最後の石段は三百段くらいあり、とても一気には登れない。


愛宕山にある愛宕神社本殿。愛宕権現の使いは天狗だが、加えて平田篤胤の天狗少年の舞台でもあることから、天狗がフィーチュアされている。


雪入山 [Mar 25, 2020]

   
この図表はカシミール3Dにより作成しています。

2020年3月は非常事態宣言は出ていないもののコロナウィルスの影響は大きくなり、公共スポーツジムの臨時休館が続いていた。歩いて運動不足を解消するしかないが、近所ばかりではちょっと飽きる。1週間前に行ったばかりだが、再び茨城の山に登ることにした。

もう二十年以上前のこと、まだ筑波山に有料道路があった頃、表筑波スカイラインでつつじヶ丘を目指したことがあった。その時車で走っていて、筑波山もすそ野がかなり広いと思ったものだった。すでに、有料道路沿いに営業していない施設がかなりあった。にもかかわらず風返峠から先は数珠繋ぎの大渋滞で、結局あきらめて引き返したのだった。

調べてみると、あのあたりに小町山・雪入山という筑波山の前衛峰があるらしい。らしいというのは、1/25000図に山名も載っていなければ三角点もないからである。WEBを探すと、麓の公園から登れるようだ。

さっそくプリントアウトしたのは、雪入ふれあいの里公園の出しているハイキングマップである。ただ、ネット上の情報では、この公園の駐車場は時間外はきっちり閉まっていて使い勝手がよくないという。その場合は近くに森林公園があるが、駐車場情報は不明である。

家を午前6時に出発して8時前に雪入周辺に着く。途中の道路にふれあいの里公園の道案内があるのだが、かなり狭い上に左右から枯草が侵食してきている道である。なんとか登り切ったけれど、入口ゲートにはロープが張られていた。

ゲート近くのスペースに止めている車もあったけれど、そこはただの草むらであり、そもそも2台くらいしか止められない。切り返すのも困難なくらいである。これでは無理と引き返す。来る途中に、「三ツ石森林公園」への分岐があったのを確認していた。

ここもまた狭く一車線しかないが、すれ違い可能なくらいの道幅はある。5分くらい進むと、道路沿いに6~7台止められる駐車場があり、さらに上に「もりの家駐車場」というものもあるらしい。すでに止まっていた車の隣に駐車した。

身支度を整え、8時ちょうどにスタート。来た道を雪入集落まで下って行く。森林公園までの道は林道で、雪入山の中腹を通っている。時折現われる桜の巨木に、「眺望大桜」とか「白妙桜」とか名札が付いている。すでに花びらが一杯あるものもあり、山桜のせいか花芽の見えないものもある。

ふれあいの里との分岐に戻ると、そこからは下りである。せっかく山の上まで来ているのに、下ってからまた登るというのはつらいところであるが、この日登るのは標高300m台、まあよしとしよう。麓まで下りて、集落の方に右折する。

前の週もそうだったが、この日も風もなくいい天気だった。のどかな春の日差しを受けて、集落の中を歩く。昔からの道を、家々をぬうように曲がりながら進む。右手奥には、これから登る雪入山の稜線が見える。登ってしまえば、それほどのアップダウンはなさそうだ。

さて、道の要所にはハイキングコースの案内図があるのだけれど、道は曲がっているのに案内図は直角に描かれているので、実際にどの道が正しいのか分かりにくいのが難点である。いちばん太い舗装道路をひたすら進むと、交差点に出た。

そこには立て札があって、「この道はウォークラリーコースではありません。引き返してください。中央青年の家」と書いてある。中央青年の家とは、ハイキングコースのとりあえずの目標点で、案内表示にもずっと書いてあった。

ウォークラリーは関係ないけれど念のため方向を確認すると、なんと正反対の東方向に向かっている。これは道間違いだ。どこで間違ったんだろうと思いながら戻る。間違えたとすると、心当たりはあそこしかない。

15分ほど前に通った場所に「ハイキングコース」の手製の看板があったが、その奥は舗装してなくて私有地のように見えた。仮設トイレに、ペンキで「キジ射ち場」と書いているのも不気味だった。気になったものの通り過ぎたが、まさかあそこを入るのだろうか。

そこまで戻ってみると、来た方向からV字型に戻って登る道があるのに気が付いた。アスファルトのちゃんとした舗装から簡易舗装になって、見えにくい道である。中央青年の家は開けた平地にあると思っていたから、なおさら盲点であった。ハイキングコースはここから登って行くのであった。

三ツ石森林公園の駐車場に車を止める。園内の坂道を上がった所にも駐車場がある。


来た道を戻って雪入集落へ。背後の稜線が雪入山。


ここで道を間違えて30分ほどロスした。そのまま舗装道路を進んでしまったが、正解はV字型に戻ってこの道を山の方に登る。


簡易舗装の道に入ると、「中央青年の家→」の道案内が復活して安心したが、坂をどんどん登るばかりである。中央青年の家は平地にあるものだとばかり思っていたから、これを下って登り返すのはたまらないなと思っていた。

登り坂の途中で何回か右に登山道が分岐していて、「剣ヶ峰近道」とか「パラボラ山近道」と書いてある。ハイキングマップには、その道は書いてない。登り返すくらいならこのまま登山道を直行しようかと誘惑にかられるが、我慢して正規のコースを進む。

さらにスイッチバックの道を登って行くと、上の林の向こうに大きな建物が見えた。その時、ようやく納得がいった。ハイキングマップだけ見ているから分からなかったので、中央青年の家は山の上にあったのだ。

正確にいうと、雪入山から分かれた稜線の高台の上にあって、朝方、道間違いして進んだ道はこの丘の麓を歩いていたのである。つまり、最初は方角が正しかったのに、登るべきところで下りたということだったのである。

中央青年の家は、想像していたよりずっと立派な建物だった。体育館があるので最初は廃校になった小学校かと思ったのだが、近くに住宅もないし、駐車場も広い。茨城県が研修施設として整備したもののようだ。

グラウンド横に植えられている桜が満開で、後ろの稜線はすぐ近くまで迫り、頂上のパラボラアンテナがすぐ近くに見える。工事の人が何人か入って工事をしていた。

すでに時刻は10時前、予定していたより30分余計にかかっている。道間違いの影響である。計画では、小町山まで往復して雪入山に向かうことにしていたが、小町山はまたの機会にすることにした。

中央青年の家からすぐ上が稜線のように見えたが、さすがにそんなことはなかった。まず、青年の家から峠にあたる県道合流まで、砂利道の長い登り坂である。峠の頂上にホテルがあり、舗装道路がそこから下っている。下ってもまた登ることは明らかなので、右に分かれている「直登コース」を選ぶ。

これがまた、残り標高差100mとは思えないくらい長くてきつい坂だった。何しろ、傾斜が半端でない。この急傾斜の登山道に、電柱と三相三線の電線が走っているのだから、工事した人達はたいへんだっただろう。

それでも、15分ほど登ると稜線に出た。稜線には3基のアンテナ塔があって、最も高いのが一番奥のバラボラアンテナである。地元ではパラボラ山と呼んでいるようで、道案内にはそう書いてある。

急坂を稜線まで登ると、そこから先は舗装こそされていないものの車も通れる幅の平らな道である。10分ほどで一番奥の一番大きなパラボラに突き当たり、そこから先は本当の登山道になった。

緩やかなアップダウンを登り下りすると、最後のパラボラから5分もしないうちに、景色の開けた場所に出た。「剣ヶ峰広場」と立て札があり、ベンチとテーブルが何脚かある。そして目の前に、霞ヶ浦を屏風のようにして、土浦と千代田の風景が広がっている。

すぐ下に見えるのは、間違えた道である。ここに来たくてあそこを進んだのでは、とても着かないだろうと思った。テルモスのお湯でコーヒーを淹れ、桃デニッシュとランチパックつぶあんマーガリンでお昼にする。

時刻は11時前である。中央青年の家まで苦戦した割には、その後が早くてまだ時間は十分ある。もう少しゆっくりしてもよかったのだが、11時を過ぎると後続のシニア夫婦が2組登ってきたので、11時10分過ぎに席を空ける。

茨城県立中央青年の家は山の中腹にある。平地にあるとばかり思っていたので道間違いをしてしまった。


青年の家の桜は満開。すぐ後ろにアンテナが見える。地元では、パラボラ山と呼んでいるようで、道案内にそう書かれている。


剣ヶ峰広場からの眺めはすばらしい。雪入山のピークはここより低い344mの独標点で、登山道の脇まで採石場の土地のようだ。


剣ヶ峰の標高が360m。1/25000図によるとパラボラ山の標高は390mくらいあるから、パラボラ山の方がやや高い。そして、剣ヶ峰から5分ほど歩いた先にある雪入山の山名標には、346mとある。さらに低い。

この346mという数字は、1/25000図の独立標高点の高さである。確かにピークではあるが顕著なピークではなく、山と呼ぶには物足りないような気もする。

想像するに、古くはこの稜線全体を雪入山と呼んでいたのではなかろうか。そう呼んだのは雪入集落の人達だったか、あるいは周辺の村の人達だったか、いずれにせよ雪入の背後の山をそう呼ぶのは自然である。

ところが、高度成長期のいつ頃にか採石場ができた。山のかなりの部分は採石場の持ち物になり、山自体も切り崩された。稜線もアンテナを立てるには好立地なので、次々と建てられそのために道路も作られた。

もともと三角点もなく、麓からみて明らかなピークもない。はっきりしたピークであれば隣の浅間山(344m)のように頂上に神社や祠も置かれるだろうが、それもない。もっとも、神社があったとしても天祖山のように崩されてしまう山もあるが。

この雪入山独標点から少し行くとパラグライダーの飛行場跡で、いまも助走に使ったマットが残っている。その先で、林道と交差する。地元ではあきば峠と呼んでいるようだ。峠を登ってすぐのところに青木葉山の小さな山名標がある。これも、はっきりしたピークではない。

むしろ景色がよかったのは、青木葉山の少し先にある見晴台で、黒文字平の立て札がある。北側に筑波山から続く稜線を見渡すことができる。「雪入探検隊」と名前の入ったベンチが置いてある。

この雪入探検隊は、ボランティアで雪入地域の自然を保護している団体のようで、この日たびたび見た青く塗った道案内も、この方々の整備されたもののようだ。ありがたいことである。登山道は、整備しないとすぐに廃道になってしまう。日々の管理が欠かせない。

この黒文字平から5分ほどで、浅間山の急登になる。いままで下り基調の稜線を歩いてきただけに、かなりきつく感じる。ただ、標高差はおそらく50mほどであり、パラボラ山までの急登ほど長くはない。

浅間山の頂上には一ヶ所に集められた祠と、小ぶりのアンテナ塔がある。祠の集まり方が不自然なので、おそらくアンテナ工事の際に周辺に祀られていたものをまとめたのではなかろうか。道路工事の際に、よく見るやり方である。

ここからの眺望は木々に阻まれてほとんど望めないが、剣ヶ峰展望台よりも多くの人が休んでいた。ベンチが埋まっていたので、アンテナ塔のコンクリに腰掛けて少し休み、登ってきたのと別方向の細い道を下る。裏参道というようだ。

まだ時間が早かったので、稜線に合流してもう少し進んでみる。20分ほど進むと広場になっていて、道案内に「閑居山」と書いてある。麓に閑居山大師というお寺があるので、古くからこの名前で呼ばれてきた山のようだ。

この日は閑居山まで引き返し、さきほど浅間山から下りてきた地点に戻る。ここから三ツ石森林公園まで標高差100mくらいあるので、どんな道なのかちょっと心配したが、すぐに森林公園の遊歩道が始まっており、安心して下りることができた。

後から思うと、雪入山を歩くのであれば三ツ石森林公園の駐車場に止めるのがベストで、結果的にはいい選択だった。ふれあいの里公園はむしろ便が悪いようである。駐車場に下りてきたのは午後1時半。茨城の山歩きでは珍しく、早い時間の下山となったのでした。

この日の経過
三ツ石森林公園(137) 8:00
9:45 中央青年の家(180) 10:00
10:45 剣ヶ峰(360) 11:10
11:20 雪入山(344) 11:20
11:45 青木葉山(274)・黒文字平 11:55
12:20 浅間山(344) 12:25
12:45 閑居山(225) 12:50
13:30 三ツ石森林公園(137) [GPS測定距離 13.4km]

[Jun 15, 2020]

パラボラ山から先の稜線はゆるやかで歩きやすい。稜線から分かれて浅間山に登る時だけが急登となる。写真は雪入山山名標のあるあたり。


黒文字平と書かれた見晴台から、筑波山への眺めが開ける。ここからケーブルカー乗り場まで、稜線が続いている。


この日の稜線歩きは閑居山まで。227mの独標点で、下りの稜線を歩いていたのでピークには感じられなかった。


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